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2007年07月 アーカイブ

2007年07月01日

年金滅亡

大半が信用していない。
年金である。

この国が、破産するとか、滅亡するとかは、考えられないのである。皆様は。
歴史をみれば、国や文明が滅びるのは、簡単である。

55年体制というものが、崩壊した時の、ある種の人々の興奮といったら、なかった。
しかし、今、その体制が、どうなったか。
たいして変わりはしない。

結果、皆々、馬脚を現しただけである。

さて、社保庁改革法案である。
今更、である。

その一つ、監督権者は、厚生労働相である。
その一つ、業務は可能なかぎり民間に委託する。
その一つ、職員は、全員解雇するが、再雇用するという。

民間に委託するとは、年金の集金である。最も大変な仕事を民間がする。と、共に、民間とは、国民であるから、国民に国民から集金させる。
あの、生命保険のおばさんを、思えばよい。親戚、友人、知人、そして、友人の友人、知人の知人と、縁を広げて、契約を取る。そして、取れなくなったら、首である。そうして、保険会社は、金を集めて、日本を滅茶苦茶にした。
最後の極めつけは、不払いであるから、救われない。
保険会社の幹部、社長から、会長と呼ばれた人々で、死んだ者は、今頃、地獄の責め苦に遭っていること、間違いなし。供養をしても、役立たずである。

職員の再雇用とは、驚く。公務員ではないが、職員にするという。
問題は、非常勤職員だという。それを、今、第三者機関が、検討しているという。

ここで、社会保険庁の、職員の大本が見えた。
組合である。
仕事を制限する覚書を書かせていたのである。

組合とは、労働組合である。
組合は、いつからか変質して、社会主義の変形したものになって、久しい。
共産、社会主義の国を見れば、歴然とする。
幹部主義である。兎に角、幹部になれば、好き放題。
敵のはずの、経営者より、組員から搾取して、はばからない。
最も、嫌いなはずの、組織を作り上げて、平然としているのである。

その組合が、職員の怠慢を招いたというから、驚く。呆れる。

すべての元凶は、組合にあり。

仕事を、出来るだけせずに、給与を得て、のうのうとしていることを、強制するのであるから、困ったものであり、救いがない。

それが、驚くことに、幹部たちと、手を結んでいたのだろうと、思われるから、また、驚くのである。
長官は、渡り鳥で、退職金詐欺であり、グリーンピアで、年金資金を食い物にしたのは、政治家と、官僚であるから、何から何まで、救いようが無い。

それを、国民は、見て見ない振りをしていたが、ここ、ここに至って、自分の財布が危ういとなると、ようやく声を上げた。

結局、すべての責任は、国民に帰す。
それで終わり。

腐っても鯛というが、腐ったものは、食べられない。ゆえに、捨てる。

国を捨てるしかない。

参院選が空しい。
自民が負けても、民主である。
ちなみに、民主の改革案は、国税庁と、社保庁の統合であり、職員は、そのまま公務員だというから、呆れる。
呆れて、口もきけない。
そして、参院選である。

こうなったら、もう、元ペルー大統領のフジモリに入れるしかない。
何の役立たずであるが、どうせ役立たずなら、その方が、気が易い。

民主が勝てば、国会は荒れる。先に進まない。停滞。
停滞しているうちに、北朝鮮が宣戦布告する。
国連は、日本を敵にした、同盟国クラブであるから、日本が滅びるに、何の方策も取らない。

小さな島国は、無かったことになるのである。
そうして地球は、結局、野蛮な人たちのものになる。

天地創造の、あの野蛮な神様を崇拝する、野蛮な人たちである。

天孫降臨の私たちは、天に帰る。
めでたし、めでたし。

私は、次に、どこの星に住もうかと、考えている。

これ位、狂わなければ、やってられない。

もののあわれについて64

人麿の反歌を含めた短歌を上げてみる

東の 野に炎の 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ
ひんがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

小竹の葉は み山もさやに 乱るとも われは妹思ふ 別れ来ぬれば 
ささのはは みやまもさやに みだるとも われはいもおもふ わかれきぬれば

去年見てし 秋の月夜は 渡れども 相見し妹は いや年さかる
こぞみてし あきのつきよは わたれども あいみしいもは いやとしさかる

鴨山の 岩根しまける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
かもやまの いわねしまける われをかも しらにといもが まちつつあらむ

天離る 夷の長道 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
あまざかる ひなのながみち こいくれば あかしのもんより やまとしまみゆ

物部の 八十氏川の 網代木に いさよふ波の 行方知らずも
もののふの やそうじがわの あじろぎに いさよふなみの ゆくへしらずも

淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ
あふみのうみ ゆうなみちどり ながなけば こころもしぬに いにしへおもほゆ

み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも
みくまのの うらのはまゆう ももえなす こころはおもへど ただにあはぬかも

あしひきの 山河の瀬の 響るなべに 弓月が岳に 雲立ち渡る
あしひきの やまかわのせの なるなべに ゆつきがたけに くもたちわたる

人麿は、宮廷歌人だと多く人は言う。
宮廷歌人と冠すると、天皇、皇族を持ち上げる歌を作ると、短絡的に考える人もいる。
宮廷歌人とは、後の世の人が言うこと。当時は、そんな意識は無い。

意識は無いと言えば、万葉の歌は、歌を作るという意識も無い。勿論、今言われる文学、ブンガクという意識も無い。
要するに、観念が無い。
ブンガクと言うと、漢語であり、ふみならう、というと、大和言葉になる。
万葉集を文学として、などの、勝手な観念解釈は、百害あって一里無し。
当時の歌は、口伝であり、伝承である。
耳からのもの。目からのものではない。

余計な観念を取り去って、虚心胆管にして、音で聴くことである。

自然に出来上がった、五と、七の音の音霊である。
今のように、短歌を作りましょうなどという、ハウツーものは無い。
自然に、湧き上がる言葉の、言霊のものだった。

死さえ、断絶ではなく、隠れると観た。
霧が立てば、愛する人のため息と観た。
雲が立てば、亡くなった人の心と観た。
花でさえ、一つ一つに名をつけることなく、花と、我と共にあった。共存していた。
学者は、原始なんとかかんとか感覚とか、何とか、色々と、定義を設けて解釈するが、素人の私には、どうでもいいことである。

人麿の歌は、意識の歌である。
初期万葉の歌は、技巧など、あるわけがない。しかし、人麿は、意識した。意識するということは、大変な能力である。
初期の歌からの変化がある。
歌を作るという意識である。
推敲する。
とんでもないことに、気づいたのである。

読み人知らずの歌は、多くの人に口伝され、伝承されて、人々によって、推敲された。無意識にである。しかし、人麿は、自意識により、推敲に気づいた。

推敲は、苦しみである。つまり、終わらない作業である。これでよしとすることがない。

感動を、心の動きを、そのままにしていた頃から、人麿は、一旦、心に留めて、それを租借し、改めて冷静な目で観る。そしてそれは、耳である。聴くという行為である。
考えるということは、聴くという行為だった。
意識的に沈黙を知ったのも、人麿であろう。
だから、歌の聖人と言われる由縁がある。
人麿は、壬申の乱を体験している。
歴史は、壬申の乱を境に、神と人との分離を教える。
古事記、日本書紀があり、漢語の文献も入っていた。それらに、目を通していた。
大君は神にし座せば、おおきみは、かみにしましませば、と歌う人麿は、大君も人間であると意識した。
それ以前は、大君は神であるから、意識することもない。しかし、人麿は、人間の時代が始まったことを知った、意識した。

人は、失ったものを意識して、言葉にする。
そして、それを反芻して、ようやく生き延びることが出来る。
意識するものは、もはや失われつつあるもの。万葉の中にも、時行く、影が宿る。

お解りであろうか。
観念を言葉にするという行為は、生きるために、かろうじて生きんがための行為である。
神も仏も、観念である。それを言葉にしなければ、生きられない程、人は弱い者である。

人麿は、それに気づいたのだ。
悲劇である。

インド哲学の、仏教哲学の、空観というものも、そうである。壮大な思想に見えるが、なんのことはない。その観念を持って、ようやく、ぜいぜいと生きることが出来る。それを、創作した、竜樹は、かろうじて、それで生きられたのである。

人間の前頭葉は、悲劇を生むのである。

知るという行為は、妄想である。
億万の書物を読んでも詮無いこと。
山川草木に、適う訳が無い。
一本の野花に、流れる雲に、立つ霧に、潮騒に、小川のせせらぎに、自然の在るものに、適う訳が無い。
そこに共感、共生した、先祖たちの思いを抱く、それが万葉の世界である。
それこそ、あるがまま。
何も、屁理屈の仏教思想など必要ない。

我、念仏するでは駄目だ。それでは、念仏の声のみして。いや、それも駄目だ。それでは、念仏か念仏する。ああ、悟ったという、そんな遊びを喜んでする程、大和言葉の世界は、アホではない。

いわばしる たるみのうえの さわらびの もえいずるはるに なりにけるかも

はるすぎて なつきらるらし しろたえの ころもほしたり あまのかぐやま

これで、十分である。
以下、省略。

2007年07月02日

もののあわれについて65

こうして、万葉集を読み続けて、もののあわれというものに、近づこうとしている。

私は、北海道、日本海に面した町の生まれである。
祖父母の代に、青森から、その地に来た。
私で、三代目である。

木村という姓は、祖母の姓である。
祖父が婿養子に入った。

私が生まれた年から、鰊が捕れなくなった。
その辺りは、漁業で成っている土地である。漁師は、すぐに貧乏になった。
私の家もそうである。
私は、祖父母に育てられた。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 裏の苫屋の 秋の夕暮れ
藤原定家の歌に、利休は茶の湯の心を観た。

私は、北海道の秋の夕暮れが、原風景である。
北海道の秋も、花も紅葉もないが、秋の夕暮れは、死にたくなるほど、寂しい風景である。

定家が歌う風景よりも、更に寂しい。
家元茶道に所属して、茶道を習い、また、教えたが、今は、家元から離れている。
家元茶道には、そんな風情の余裕は無い。

秋、札幌からバスに乗り、実家に向かう時、風景が荒涼として見える。北に上がる程に、それは激しくなり、心細く、そして、ついには、悲しくもなる程の、風景である。
私の原風景である。

鎌倉移転して、秋の紅葉の様を見て、愕然とした。あまりに、曖昧な色合いである。
北海道の秋は、色鮮やかであり、冷えた日の、その風景は絶唱であった。自然が歌うのである。

故郷の町より、北へ向かうことは無い。
更に、寂しく、荒涼とした風景が広がるのである。

そして、冬は、すべてが白一色になる。
琵琶湖の雪を見て、私は故郷の雪とは、全く違う風情に驚いたことがある。
大きな水分を含んだ雪は、ゆっくりと、空から舞い落ちる。
故郷の雪は、峻厳として、サラリサラリと落ちる。
氷点下の冬の様は、風情というより、生きるか死ぬかを思わせた。

そこには、もののあわれを、考える余裕も無い程の、生活の厳しさがある。
漁師は、冬の凍てつく朝に、漁に出る。
命懸けである。
それを見て、私は、育った。

生きるということは、問答無用に、自然に従うことであると納得した。
大シケに見舞われて命を失った漁師たちも多かった。
幸いに、私の父は、生き延びている。
海で死ぬのが、当たり前だと言う。そしてそれを善しとする。

凍てつく海に出る漁師たちは、自然と闘うのではない。自然と共生するのである。そして、共感するのである。
そこに、命、いのち、がある。
この、いのち、を観る目が、もののあわれ、を観るのである。

海岸で、祖父や父の船が、港に入って来るのを見た時の、安心感安堵感といったら無い。
漁よりも、無事であったことを、喜ぶ。
これが、私の原風景である。

私は、万葉の歌を、この原風景から、読み込む。

ちなみに、私は貧しい生まれだが、魚料理は、絶品を食べていたゆえに、私の舌は、一流である。
この一流を知るゆえに、私は、一流というものを知る。
舌は、鼻である。鼻は、目にくる。そして、耳にくる。
耳は、喉にくる。
耳の一流の人は、歌も一流である。

宮廷の恋物語の源氏物語に、本居宣長は、もののあわれを観た。
私は、北国の生活の厳しさに、もののあわれを観た。

吹雪の日は、何としても、家に帰らなければ死ぬ。
ただ、ひたすらに前に進むしかない。
生きるということは、前に進むことであると、私の原風景にはある。

危ない

危ない。
非常に危ない。

外はアメリカを真似て、内は、中国、中国人を真似る。
政官民と、共に、公金横領をよしとし、甚だしくは、偽者である。
偽の肉を売って26年というから、呆れる。

中国の偽薬、食物等々、全くそれを追いかけている。
いつから、日本人は、中国人のようになったのか。

民は、不安と苛立ちである。
中国と同じである。
違うのは、あちらは、一人っ子政策で、こちらは、生め産めという。
子供など、生んで、どうする。
苦難、苦労が見える日本人を生んで、どうする。

これから、老人介護と、エイズ患者の世話で、日本は、おおわらわである。

子供から、老人まで、苛立ちで、人殺しをする。
親子が殺し合い、子供を虐待、殺す。
これでは、中国人と、変わらないではないか。

中国の血が入ってきたのは、推古天皇の以前であるから、歴史は古い。
途中、半島の血と交じり合い、それらも、大量に入ってきた。
当時は、ユダヤ人も、多く来た。
それらを採用したのは、聖徳太子と後に言われた、厩戸皇子である。

あの時代から、物騒になった。
蘇我馬子、蘇我一族は、大和に戦をもたらした。
大陸の血を持つものは、いつも、戦をもたらす。

古代の戦の元は、すべて、蘇我一族が、からんでいる。
蘇我入鹿が殺されてからも、残った一族は、こりずに戦の種を撒いた。

飼い犬に手を噛まれるどころか、聖徳太子の一族は、蘇我入鹿によって、皆殺しにされている。
日本は、実に危なくなった。

一発触発である。
人の心が、そうなったのである。

アジアの貧しい国を、更に貧しくして、日本は成り立っている。それも、アメリカの真似をしている。
アメリカのために、貧しいままでいる国。
元を辿れば、イギリスに行き着く。

大航海時代のスペインは、アメリカ大陸で、現地人を一億人殺した。それも、十字架を掲げてである。カトリックの教えをもっての、大量虐殺である。
そして、ポルトガル。
最低最悪の国は、イギリスである。
自分の手を汚さずに、どれ程の悪事を働いたか。それにより、利益を得ての、産業革命である。
皆々、イギリスを賞賛したが、歴史を知らないゆえである。
アフリカからの奴隷を売り捌いたのも、イギリスである。
その底には、白人のキリスト教主義がある。

ユダヤ教にせよ、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、皆々、手のつけられない悪事を成したのである。

歴史の時間には、そんなことを教えない。
ただただ、日本は、日本人は、悪い。他国を侵略したと、センセイは、教える。
それならば、欧米人のやったことは、どうなのか。
侵略どころではない。虐殺、さらに、虐殺である。

侵略し、植民地化して、平然としている。
唯一、日本だけが、ごめんなさいと、謝り続けて、マレーシアの首相に、あんたたち、もう、そんなことを言のは、やめないと言われた程である。
それを率先して行った、旧社会党の面々である。

ヨーロッパの経済を支えたのが、どこだったか、調べてみればよい。

インド独立のガンジーが、どんな思いで、行動したか・・・
イギリスなどは、紳士の国とか、王様のいる国とか言うが、紳士など、一人もいない。王室などは、元は、海賊である。
あれらの顔付きを見れば、解るものである。

日本人は、極悪非道の心を持ち合わせないのだが、それらの血が入り、今は、瀕死の状態である。
実に、危ない。

ただし、私は差別しない。
ただ、日本は、日本人は、お勉強不足なのである。

この危機を乗り越えるために、お勉強が必要である。
そして、外から入ってきた宗教には、関わらないことである。
勿論、仏教が最初に入ってきた。
中国思想をまとってである。

四方津国のものに、迷わないことである。
それらに、関わると人間が駄目になることは、仏教の僧を見れば、一目瞭然であろう。
観念だらけ、迷いの教えである。というより、職業としての僧、商売としての僧である。
管長だの、門主だの、何だの、かんだのの、役職に就く者を見よ、キンキンキラキラの僧衣をまとい、僧などとは、名ばかり。暴力団追放なら、精神的暴力団の宗教家を追放すべである。
政治は、宗教により、体制批判や、体制のストレス昇華、不安感を取り除く役割を期待するのであるが、もはや、宗教団体は、その役割を為さない。
宗教も体制化されて、段階を上がるシステムになり、偉くなりたいと思い、妄想の教学などを、真剣に学んでいる。
画一化された問題は、飼い殺しを目ざしている。
知恵を伝えるはずの宗教が、知識を最優先する。
実に恐ろしい。

危なくなったら、最初に戻る。初心に戻る。故郷に戻る。元に戻る。自分に戻る。我に返るのである。

今更何を言う

今更、何を言う。

久間防衛相の言葉を取り上げて言う、者どもである。

「日本が負けると解っているのに、あえて広島と長崎に原爆を落とした。長崎に落とすことで、日本が降参し、ソ連の参戦を止めることができると思ってやった」と指摘する。
「アメリカを恨むつもりはない」とも言う。

何が、問題なのか。

野党は、これをもって、云々いうが、それならば、何故、アメリカに謝罪させないのか。戦後60年を経ても、謝罪はするが、アメリカに謝罪させないのである。
「勝ち戦とわかっている時に、原爆まで使う必要があったかどうか」と言うのである。
そして「国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういう選択肢もあり得ることも頭に入れながら考える」
どこに問題があるのか。

原爆を落とすことは、駄目。間違っていると言えば、原爆は引っ込むのか。
アホらし。
すでに、原爆を落とされているのである。
過去である。

戦争時に、何があってもおかしくない。それが戦争である。
普通の人も、普通でなくなる。
善人も鬼になる。
それが、戦争だろう。

見よ、至るところの紛争、戦争を。
通常ではない。

今回の国会を見ても、国民のためを考えての行動とは、思えないのが、野党である。
何なのか。
さもさもしく、内閣不信任案、閣僚の問責決議案などを出して、朝の三時までかかって、結局、与党の改革案に修了である。
国民の支持をそれで得られると、思っているならば、死んだほうが良い。
自害して果てるべし。
共産党の党首は、アホ馬鹿振りである。
選挙演説に、「年金問題の解決には、党利党略ではなく、与野党協力して知恵を出し合って国民の利益第一で」というが、お前が、そういう者だろう。自分のことを言うのである。
いつも、協力せず、反対だけを言うのが、お前だろう。

アメリカ人の先祖を知っているのか。
白人の野蛮な者どもである。
アメリカインディアン等、原住民を皆殺しにしたのである。
スペインだけでも、一億人を殺している。
色つき人間は、人間ではないのである。
原爆など、落とす必要などなかった。あれは、試しである。原爆の威力を試す絶好のチャンスだった。死ぬのは、日本人である。どうでもいい。

そういう者どもである。
以下省略。

鳩山さんも、耄碌したのか、「内閣支持率が下がったため、政府は焦りの中で解決策を示した」と言うが、民主党の改革案が、あれである。
マスコミが言うような分析をして、どうする。
危機意識皆無である。
自分は、年金などに頼らなくてもいいだけの財産がある。

自民が嫌でも、民主は、頼りない。他の野党は、存在そのものが、余計である。

事を新しくするには、信長を持って考えなければ、進まない。
人の恨み辛みを買っても、行動しなければ、新しくならない。
勿論、命懸けである。

皆々、自害して果てた方が、よさそうである。

日本には、政治家がいなくなったのか。それとも、安倍総理が、最後の政治家なのか。

信長ならば、社会保険庁を焼き尽くす。
再解雇など、無い。
歴代長官は、磔である。
小善を成して大善を成さざるは罪なりと、日蓮は言う。
公明党に期待するしかないのか。
ついに、日本も野蛮な外国と同じく、宗教による政治が始まるのか。
日本は日蓮仏法の国なりと。

一神教と妥協しない、日蓮宗との、壮絶な戦いが始まるのか。

世界には、政教分離の国など無い。
平和な日本だけである、政教分離と喚いているのは。

アホらし。
そろそろ、潮時であろう。
我は行く。

追伸

久間防衛相が、謝罪した。
誤解を与えたと。
誤解とは、原爆を容認するような発言ということであろう。
そんな、ことが、あるはずがない。原爆を容認しない、ということを前提の発言である。

彼は、アメリカを恨まないという。
これ、日本の伝統である。

済んでしまったことである。だから、恨まないのである。
すると、被爆団体が、絶対に許さないという。彼の発言を絶対に許さないとは、いつから、一神教の信者になったのか。そうか、長崎は、最低最悪のキリスト教徒が多いからか。
絶対に許さないとは、アメリカに向ける言葉であろう。
こうして、馬鹿な国民は、内輪の中で、気勢を上げる。

識者が言う。
政治家の言葉ではないと。それなら、政治家は、いつも心にも無いことを言い、嘘をついて、本音を出さず、建前だけで、言葉を言えと言うのか。それで、国民は、騙される。ということであろうか。アホ馬鹿と言うしかない。

長崎市長は、国会に明日にでも出掛けて、首相と、久間に、抗議するという。長崎の気持ちを伝えるために行くという。
久間は、長崎の人である。
被爆者の気持ちだって、十二分に知っている。原爆投下だって、絶対に反対である。それを前提にした発言である。

私は、久間を知る者ではない。
何の関係もない、赤の他人である。
しかし、彼の発言の真意が、解る。

いつまでも、子供で、どうする。
国内で、揉めている場合か。
絶対、許さないという根性だから、原爆が落とされる。

この世のこと、意味の無いことはない。
縁あっての、原爆であろう。
その原爆の落とされた意味と、被爆した人の意味を考えることで、未来が見える。
世界で、二度と、原爆を使用しないこと、それを、訴える。

内輪揉め、している暇無し。
目を覚ませ、アホども。

追伸の追伸

毎日新聞のコメントである。
「日本はミサイル発射、核保有問題で北朝鮮と厳しく対峙している。久間氏の発言で北朝鮮から「米国の核兵器使用はしょうがないのか」と切り返され、核保有の口実にされかねない。」
と、ある。

今更、何を言う。
北朝鮮は、核保有国として行動しているのである。
それを餌にして、石油や、支援物資を求めるのである。

今更、あのゴロツキの国を相手取って、何をか言う。
そんな言葉の生易しさで、あの国が云々するというのは、認識不足も甚だしい。

核保有の口実にされかねないとは、単なる言い掛り的、発言である。
そんなことを言わなくても、すでに核保有しているし、また、核兵器製造を行おうとしているのである。
査察を受け入れたというが、また、物が欲しくなれば、始めるだろう。
何を調べているのか。

対等な言葉で、北朝鮮と話し合いが出来ると、思っているならば、新聞社など必要ない。
批判はよくするが、自分たちの態度を、少しは、反省してみろ。

あることの前提に立って、物を言う場合がある。
その前提を、すっ飛ばしただけであろう。

言葉じりで、遊んでいる場合か。
つい先ごろも、北朝鮮は、日本海にミサイルを放ったではないか。
新聞社は、総力をあげて、北朝鮮を言論で攻撃すべきである。
それとも、北朝鮮を言論でも、攻撃出来ない訳でもあるのか。
潜在的日本壊滅願望のある新聞社もあるから、仰天するが。

2007年07月03日

イスラム9

そこで、もっと深く、アッラーの神とは、何かと問う。

万物を無から作り出した創造主。
一切を意のままにする絶対意志を持つもの。
あらゆるものが奴隷として仕え、主として崇められる超越的支配者。

コーランを読まずとも、旧約聖書に親しんだ私には、よく理解できる。
旧約の神、ヤウエの神である。セム的人格神である。

しかし、それだけではなかった。
アッラーには、アラビア地域に、また、別の一面を持つのである。
それは、イスラム以前のジャーヒリーヤ時代、無道時代と言われるアラブの宗教生活における神の特別の存在感があった。

このジャーヒリーヤ時代のアッラーの神を見なければ、イスラムのアッラーも、見えない。
それでは、その頃のアッラーの神とは、如何なる神だったのか。

ムハンマドは、新しい宗教を興したのではない。
イスラムの神、アッラーは、新しい神ではない。
誰もが知る、当たり前の神の名であった。
そして、ジャーヒリーヤ時代のアッラーの神は、旧約聖書のヤウエの神より、慈愛の神の意志も強いのである。
アラブのベトゥインといわれる彼らも、普段は、アッラーの神を意識しないが、何か事があると、その偉大な神、アッラーを思い出し。その名を呼んだ。
いよいよ切羽詰まったときに呼ぶ神の名が、アッラーであった。

コーランには、その彼らの様を描写する箇所が多くある。
「舟に乗っている間は、盛んにアッラーの神に祈り、信仰ただ一筋に誠を尽くすくせに、一旦岸まで無事に送り届けていただくと、とたんに変心して、ほかの神々を拝み出し、せっかくの我等の恩寵を感謝もせず、いい気になってうかれ廻る。いまに見よ。必ず思い知る時が来よう」
我等の恩寵とは、神の言葉である。神的一人称の複数と言われる。旧約の神も、我々という言葉を使う。

ジャーヒリーヤ時代は、諸部族、遊牧民、定住民であれ、それぞれの神を持ち、その神の祭祀を通して特定の地域の宗教に結びつけられていた。
しかし、その地域の神の上に、それらを統括する一大中心地として、メッカの神殿が君臨した。
「神聖月」が来ると、部族間の一切の戦闘行為が止み、人々は、メッカに参集して、盛大な宗教行事を、神殿で執り行うのである。
そして、神殿には、それぞれの部族の神々が、数百を超えて祀られていた。そして、それらの主神として、アッラーは君臨していたのである。

この点では、ジャーヒリーヤ時代も、イスラムも変わらないが、唯一の違いは、ジャーヒリーヤは、多神教である。アッラーは、主神といえど、神々の一人である。しかし、イスラムは、アッラーのみである。
同じく、主としても、両者の間には、全く違う感覚があった。
イスラム、ムハンマドから見れば、アッラーも、偶像の一つになる。これは、許せないことである。

いくらアッラーを最高としても、その下に神々がいるということは、アッラーの高さも相対的なものになる。それでは、意味が違う。
ムハンマドは、アッラーの絶対的な存在を言う。
他の神々の存在により、アッラーが相対としての存在にされることに徹底抗戦する。それが、イスラムである。
アッラーに対峙するものは無い。
アッラーに対峙するものがあることは、許せないのである。だから、イエスキリストの存在を許すことが出来ない。アッラーと対峙するとは、とんでもないことである。
神に、父も子も無い。
神の子とは、何事か。ムハンマドが怒る。
イスラムの大罪は、それである。
アッラーに対峙させるものがあることが、大罪であるから、キリスト教は、イスラムから見れば、大罪を犯しているのである。

「アッラーは他のいかなるものとでも一緒にならべられたら絶対にお赦しにならなぬ。そこまで行かない罪なら、気がお向きになれば、赦しても下さろう。だが、アッラーにならぶものを認めることだけは、赦すべからざる大罪である。」

イスラムの絶対的一神教は、多神教を大罪とする。

ある時、ムスリムの留学生と話をしていて、言われた。
「あなたは、クレージーです」と。そう、私の多神教の考え方である。
その時、私は、キリスト教で、仏教、ブディストで、古神道、日本の神道を信奉するのであると言ったのである。
彼には、それは、全く理解できないことだった。

アラビア語で、神を意味する言葉を、「イラーハ」と言う。
その複数形を「アーリハ」と言う。イスラムでは、それらを、単なる空虚な言葉だと断定する。
ジャーヒリーヤの信仰する神の名も、神の被造物でもなく、単なる空虚な名称だとするのである。

神々は、実体の無い、ただの言葉であり、単なる妄想である。神聖な空間には、唯一の実在として、アッラーのみが存在する。絶対一神教である。

どの宗教を信仰する人でも、それが一番正しいと、思い込む。当然である。
私の神、私の仏が、一番正しいと。
この信じる行為は、実は、単なる偏りであることを知らない。いや、偏れば偏る程、強い信仰であると言う。
日蓮は、迫害されれば、される程、正しい信仰であると信じきった。
拷問を受け、殉教することを善しとした、キリシタンもである。
実に、観念とは、恐ろしいものである。

しかし、霊学から言う。
神を創造するのは、自然である。
風吹けば風に、雨降れば雨に、日が照れば、日に、ただ、淡々として、自然は、それを写す。自らの存在を何一つ、変化させることなく、あるべきように在る。
あらゆるものは、自然の被造物である。
この人間もそうである。
そして、何も説くことがない。
ゆえに、私も説くことを、しない。
霊学といえども、説けば、嘘になる。

2007年07月04日

イスラム10

神々は、ことごとく実体の無いただの言葉のみである。
それらの妄想を取り去った時、神聖な実在の神、アッラーが在る。
これが、ムハンマドのイスラムの言う、絶対一神教である。

だが、この当時、アラビアには、ユダヤ教徒、そして、キリスト教徒も存在していた。
ムハンマドが、メディナの預言者となった時も、その町には、ユダヤ民族がいた。
ムハンマドは、彼らに最初、期待した。
自分に啓示を与える神は、彼らの神であるという思いである。しかし、それは、実に甘い考えであった。

ユダヤ人は、旧約聖書に精通している。
それは、父の、祖父の、そして、その前の先祖たちの長い長い信仰の歴史がある。
磐石な信仰である。
その神の名を借りて、啓示を説く、ムハンマドに、彼らは、俄然として攻撃してきた。
公衆の面前にて、ムハンマノドに、旧約聖書に関する質問を浴びせた。
それに答えられないムハンマドを、彼らは、嘲笑した。

ユダヤ人たちは、ムハンマドが、最初の妻を亡くしてから、次々と妻を抱えたことが、特に弱点になった。九人の妻の存在が、ユダヤ人たちの、嘲笑をかった。
「色好みが、神の使者とは、聞いて呆れる」という言葉である。

最初、ムハンマドは、ユダヤ教も、キリスト教も、自分たちも、同じ神を崇める者との意識があり、それらとの対立を考えてはいなかったのである。
しかし、ここにきて、完全に違うものであると悟る。

ムハンマドは、ユダヤ教に対して、徹底抗戦するのである。
要するに、唯一の神は、原理上のことであり、彼らは、律法、トーラというものを持って、聖書を歪曲すると。
原文を至る所、歪曲し、それでも足りずに偽造さえする。まして、歴史は、彼らの狡猾、醜悪を伝え、罪人である。折角の、神の啓示が、彼らによって汚されると。

ムハンマドは、ユダヤ人のために、礼拝する方角を決める、キブラといわれるものも、エルサレムに決めたが、それも逆効果であり、最終的に、メッカの神殿に決定した。

味方と信じたものが、敵に回る。
ムハンマドは、ユダヤ人の歴史的なあり方を、徹底的に攻撃することになる。
世界のどこへ行っても、住民の恨みをかうような行為行動を取る、現実生活での、あくどさをコーランの中に記すのである。

さて、次はキリスト教である。
ムハンマドは、彼らに対して、最初は、大変に友好的だった。
コーランの啓示でも、キリスト教との関係は、親縁関係のように書かれた。
ムハンマドは、自分の存在がイエスによって、予言されているとまで言ったのである。

ユダヤ人に絶望しても、キリスト教には期待した。
「人の種類は多けれども、信仰ある人々に対して最も敵意はげしきはユダヤ人、次に多神教徒にして、信仰ある人々に対して最も愛情こまやかなるは「ナザレ人なり」と称する人々なることを汝らは知るべし。そはナザレ人の間にはあまたの聖職者及び修道士ある故にして、また彼らの天性もはなはだ謙虚なる故なり」

しかし、である。
キリスト教も、また、期待を裏切った。
イエスを預言者というムハンマドと、イエスを神の子であるとする、キリスト教徒が、合うことはない。

「おお信仰ある人々よ、ユダヤ人もキリスト教徒をも友と思うなかれ。彼らは互いの友なるのみ。汝らのうちもし彼らを友とする者あらば、そは彼らの一味なり。げに神は邪悪を為す人々を導き給うことなし」

当時、異端論争で内輪もめしていた、ローマカトリック教会を、鋭く批判し、三位一体の教義を一神教の、腐敗堕落と罵倒した。
そして、尊敬していた修道士に対しても、攻撃を開始した。
「人民の財をもっぱらに食潰し、人々を神の道からおびき出して迷わせる」

ここにおいて、ムハンマドは、イスラムを新しい宗教と認識した。

イスラエルの宗教につながる人格神の正統を継ぐものであること。
しかも、ユダヤ教でも、キリスト教でもない。
それらの歴史的宗教より、最も本質的、最も、本源的な宗教であるとの意識である。
永遠の宗教である。

そこで、見出したのが、象徴として、旧約の人、アブラハムだった。
アブラハムの宗教の復活である。
ユダヤ教でも、キリスト教でもない、永遠の宗教、それは、アブラハムの宗教であるとの結論に達した。

「汝、ニハーフとなりて顔をあげ、この宗教に向かえ。これ人間を創造し給える時と同じ働きにて神の創造し給いしものなり。神の創造には時空転変あることなし。されば、これこそ永遠の宗教なるに、それを知る人は極めて稀なり」
ニハーフとは、本当の古い宗教の信徒を言う。

ムハンマドは、歴史によって、堕落し、原型を失った永遠の宗教を、アブラハムの昔に戻し、純粋無垢な本来の宗教として、取り戻そうとした。
イスラムは、それで決定的になった。

イスラム、それは、神の奴隷である。絶対服従する者、それをイスラムという。

ムハンマドは、一切の妥協を止めて、徹底的に、イスラムとして生きることを、そして、自分は、最後の預言者であることを、宣言する。
神の前には、皆、平等であり、自分についても、特別視することのないようにと、信徒に言う。

これで見るとおり、イスラムには、一切の妥協は無い。
宗教の多くは、排他的、非寛容であるが、イスラムは、特にそれが強いのである。
基本的に司祭や、指導者はいない。それぞれが、それぞれで皆、神に祈りを捧げる。一人一人が独立している。

欧米の、そして、アラブの宗教は、こうして、日本人には、理解出来ない程の、観念がある。
それらの、人格神である、一神教が、世界の大半を占めている。
つまり、戦いが絶えない訳である。
排他的で、非寛容で、妥協しないのである。

イスラム11

神の絶対的奴隷である、イスラムを唱えたムハンマドの、重大な問題がある。

それは、啓示である。神の啓示を受けたとある。
それが、私の問題である。

神道では、神懸かると、それを判定するサニワという役割がある。
神と名乗っても、その神なるものが、何者であるのかということだ。

神という言葉は、方便である。
例えば、人霊が神と名乗る場合は、よほどのメッセージがある場合である。
神が、我は神なりと現れるのは、旧約聖書の、神もどき、または、魔物である。悪霊といってもよい。魔神である。

神には、名が無いからである。
大和言葉の神という言霊は、音霊が、かアみイである。
母音、アとイである。
カミを上とも、守とも書く。
母音の意味は、開いて受け入れるという意味である。
アイである。漢字の愛の意味も、このように考えてよい。
つまり、大和言葉のカミは、尊称である。
それを私は、何度も書いている。
私が死ねば、木村天山命、きむらてんざんのみこと、と呼ばれる。この命も、尊称である。そして、神として、神道では、祀られる。

ムハンマドは、どのようにして、神懸かったのか。
イスラムの伝承を読む。
突然、鈴の音が耳の底に鳴り響き、顔は激痛に歪むという。
喉が締め付けられて、窒息しそうになる。
妻アーイシャが言う。「ある凍てつく寒い日のことだった。啓示がやってきた。預言者の額には、玉なす汗が流れていたのを、見た」

大本教の出口ナオも、天理教の中山みきも、同じように、神懸かった。
そして、お筆先というものを書いた。
霊媒体質である。
出口ナオは、丑寅の艮神が懸かった。中山みきは、天の将軍が懸かった。
それぞれ、国立尊と、天理王命となる。
実際、神が懸かるということはないから、人霊、または、霊が懸かるのである。
とんでもないのは、天照大神と名乗る霊もある。
人霊ならば、まだ良いが、魔物や、魔神だと、言葉も無い。

ムハンマドに懸かった霊は、何者か。

啓示に襲われると、ムハンマドの顔は、みるみる暗く翳り、酔いつぶれた人のようであったともある。また、失神する人のように、地面に、どっと倒れた。
子牛の鳴き声のような異様な呻き声をあげる。
我を失ったムハンマドの口から、不思議な言葉が、途切れ途切れに漏れたという。
それがイスラムの立場から言うと、アッラーの神の言葉となる。

ここで、この地方、アラブでは、このような霊懸かる人は多くいた。
特に詩人たちは、ジンという妖霊に懸かられると言われた。
これをアラビア語では、タンジュニーンという。ジンが憑くことを言う。つまり、憑き物である。
ムハンマドの啓示は、単にこの憑き物であると、ジャーヒリーヤの人々は考えた。

何処の国でも、最初は、シャーマニズムがある。
そのシャーマンが宣託して、集いを仕切っていた時期がある。
アラブも同じである。
しかし、その頃になると、もはや、それらのシャーマンは、無碍にされ始めていた。
ジンが憑くと言われた詩人たちも、最初は、最高位にあったが、次第に、その地位が低くなり、疎まれるようになる。

一人の人間に懸かった、あるモノによって、多くの人が迷わせられるという現象は、新興宗教に多い。
単なる、ヒステリーの場合もある。
また、分裂気質の人である。

幻聴、幻覚等々、もある。

コーランには、ジャーヒリーヤたちが「こいつは妖術師、さもなくばもの憑きにちがいない」と言ったとある。
アッラーの神は言う。
「人間どもやジンたちを、みんな一緒にこきまぜて、地獄を一杯にしてやろうぞ」
この言葉で、ムハンマドに憑いた神の正体が解る。

旧約聖書の神も、脅し、怒り、後悔し、試す行為をする。
それはそのまま、人間と同じである。
人格神と言うが、それは、人間もどきであり、また、神もどきであるといえる。

人間にも、神にも成れないモノとは、何者か。

三次元には、一次元、二次元が含まれてある。二次元から、三次元を理解することは出来ない。それは、三次元から、四次元を理解出来ないのと、同じである。
その上、五次元や、六次元を理解することなど出来ない。

目に見えない世界のモノが、人間に憑く。
それをそのまま、特別な存在であるとは、言えない。

神にも、様々なレベルの神がいるということである。
目に見えない世界のモノは、この次元の人間に、何とでも言うことが出来る。それをそのまま信じてしまうと、信仰になるが、その信仰は、一体、どのようなものになるのか。
実に、恐ろしいことである。

私は知らないことは、知らない。
故に、ムハンマドの神の正体は、言わない。
知らないからだ。

ただし、ムハンマドは、旧約聖書の神であると言う。
そして、最初の信仰家は、アブラハムであると言う。

それでは、少しアブラハムについてを、書くことにする。

2007年07月05日

自然葬

バリ島にて、自然葬を行うことにした。
ただ今、企画を立てている。

要するに、散骨である。
バリ島のバリヒンドゥーの形式で、僧侶にマントラを唱えていただき、そして、バリ島の風習にある、海に散骨するというものである。

実に、意義深い。

列島の民族は、先祖崇拝、先祖祀りを縄文期から、行ってきた。
何も、仏教によるものではない。
もとから、先祖崇拝は、あった。
ただし、死という観念が、今とは、全く違う。
もののあわれについてに書くので、参考に。

天皇家、豪族たちは、墓を作ったが、庶民は、ただ、死体を土に埋めた。
死体は、単なる抜け殻、物になった。
死者の霊は、山に帰ると信じられた。
そして、山から、子孫を見ていると。

年に一度は、山から下りて、子孫のところにやってくる。それが、仏教の、盂蘭盆会と重なった。
そのうちに、鎌倉時代を過ぎる辺りから、僧侶が葬式を始めるようになる。
実は、その前は、葬式という形式もなかった、庶民には。
村々が、野辺の送りをして、埋葬していた。

鎌倉時代の最後に、おびただしい死者が出た。
鎌倉に、その死者は、捨ておかれた。それを見かねた、一人の僧が、死体を集めて、読経を始めたのが、仏式の葬儀の始まりとなる。
死体処理のボランティアから、それは、始まった。

極端な話、鎌倉では、死体を道端に捨てる者が多く、幕府が、立て札を立てて、捨てるなと禁を発したほどである。
死体は、霊の抜けた、抜け殻という意識が強く、それでよかった。

さて、時代は、今日である。
この狭い日本の土地に、墓地開発である。
もうそろそろ、止めた方がよい。
そして、葬儀の様も、変わる。誰も信じていない仏教の、仏式で葬儀をする必要は無い。ただ、僧たちの、収入のために、行われる。
あの、何の意味もない、戒名料など、馬鹿馬鹿しいのである。

法号、院号などは、何の意味もない。
霊学からも、心霊の立場からも、霊界においても、何の意味がない。
いつまで、あんなものに惑わされているのかと、信じられない。

勿論、仏陀も、一言も、それを言わない。
後の仏教が、始めた形式である。

兎に角、日本仏教は、大嘘である。
全くの、出鱈目。
単なる、中国思想である。
鎌倉仏教の開祖を尊敬する者だが、彼らは、皆々、新興宗教である。
その元が、漢訳された仏典であるから、空いた口が塞がらない。

もっと、驚くのは、漢字の意味で、仏典を訳すことであるから、また呆れる。
彼らの言う、教学なるものは、すべて妄想である。
どう説明しようが、真言密教は、インドバラモンの呪術であり、天台は、中国の僧、天台チギの戯言である。浄土も、浄土真宗も、あの時代だけのもの。その他諸々。単なる思想である。
その前身の、大乗仏教の、竜樹の空観というものが、嘘であるから、どうしようもない。

ただし、皆々、文学としての価値は、相当なものである。

さて、バリ島での、自然葬である。
もうそろそろ、そういう葬儀、また、遺骨の扱いをしてもよい。
新しい時代である。

人が死ねば、肉体は、単なる物、抜け殻である。そして、遺骨は、同じく物である。自然に帰るものである。
海に流す。実にいい。
日本の伝統である、自然と共感、共生するという考え方の通りである。
自然に戻る。
真実であろう。

死んで墓に入るなどとは、戯言である。
また、本当に墓に入る霊は、次元移動せずに、墓に捕らわれ、そこに留まるのであり、とんでもない、誤りである。

進化という言葉は、霊体に言えるのである。
霊は、次元移動して、進化するのである。

バリヒンドゥーのマントラの音霊は、実によい。
ヒンドゥーというが、実は、あれは、バリ島の元からの信仰形態であり、インドヒンドゥーの神様の名前を仮に借用しているだけである。
元を辿れば、日本の神道と同じである。

倫理の無い国

高齢者を餌にした、詐欺、社会保険庁詐欺が、始まっている。

再度言う。
いつから、日本人は中国人のようになったのか。

逆説の日本史で知られる井沢元彦氏の文を紹介する。

「中国の資本主義にはまったく倫理というものが無いということだ。法律とかシステムの問題ではない。
中国人は「儒教」という言葉を嫌う。これは「儒学」だという。つまり宗教ではなく理性的な哲学であり政治学だと主張するわけだ。もちろん、そではない。「商業や金融に関する偏見」はまさに儒教という宗教の非理性的部分が生み出したものだ。しかし、「儒学」といいたがるということは、中国人はその偏見を偏見だと思っていないということなのである。
つまり、彼等にとっては今でも「商売は悪」であり、しかもそれを正しいと思い込んでいるということなのだ。これが「倫理なき資本主義」ということである。ついでに言えば「工」つまり「モノづくり」も「士」つまり官僚エリートから見れば「賎しい身分、賎しい職業」であり、「農」ですらそうなる。士農工商は今も生きている。」
「メディチ・マネー」も「プロテスタンティズム」も「日本資本主義の精神」も存在しなかったということなのだ。

その結果が、粗悪品を作り、農薬を大量に使う農作物を作り、平気で公害を撒き散らして、利益を得ようとする。倫理がないから、平気で嘘をつき、兎に角売れればいい。
そして、驚くべきは、共産党の幹部連中が息子や親族を使って、そういう「儲かる」企業を経営するという。

井沢氏は、「こうした恐るべき事態の根本原因にも実は宗教がある。それは当たり前の話で、人間の基本的行動を決めるのは宗教だからだ。」と言う。

それと共に、井沢氏は「宗教というものは本来理性的な人間の価値判断を、完全に狂わせる要素を持っている」と、非常にバランスの取れた考え方を持っている。

さて、日本人が中国人に似てきたというのは、この倫理の問題である。
伝統的、宗教教育を受けない、また、多くの宗教があっても、役立たずであり、死に体になっている。
人間の基本的行動を決める宗教を失って久しいのである。

オカルト系や、霊能的スピリチュアル系、そして、嘘八百の新興宗教などに、嵌り、本来の宗教、つまり、生活に根ざした宗教的行動や規範を失ったゆえである。

戦後60年を、それで突っ切ってきた。
ついに、倫理というもみのも、見失ったのである。
ドロボーも、自分の子供には、人の物を盗んだら、悪いことだと教える。それが、無くなったのであると思えばよい。
何せ、子供に盗みをさせる親がいるという状態である。

通常、高齢者を騙すというのは、仁義に反する。非常に弱い者だからだ。
共に、障害者である。
弱い者を騙すというのは、もう末期的状態である。

なけなしの老後の資金を得て、得をしたと思う根性が地獄である。
すでに、地獄の住人と化している。

これは、中国という国が、すでに地獄であるというのと、同じである。
士農工商を卑賤として共産党幹部が、それの上前をゆく。
自ら手を染めることなく、士農工商の中に入って、利益を貪るのである。
共産党、共産主義とは、名ばかりである。

いつから、日本は、中国のようになったのか。
それを、私は言う。

2007年07月06日

キリストの絶唱20

マルコ福音書第七章に、ファリサイ人と、律法学者が登場する。
それらが、イエスの弟子たちが、手を洗わずにパンを食べるのを見て言う。
ファリサイ人や、ユダヤ人は、古人の言い伝えを守り、腕をひじのところまで洗ってから食事をする。
「何故、あなたの弟子たちは、古人の言い伝えにしたがわず、汚れた手でパンを食べるのか」と問う。
イエスは言う。
「イザヤはあなたたち偽善者について、実によく預言した。かれはこう書いている。「この民は口先だけで私を敬うが、その心は私から遠くある。人の作ったいましめを教え、空しく私を礼拝している。」また、あななたちは、自分の伝えを守るために、よくも神のおきてをすてたものだ。モイゼは「父母をうやまえ、と教え、父や母を呪う人は死刑に定められる、といっている。それなのにあななたちは、ある人が父や母にむかって、「私があなたを助けるはずのものを、コルバン、すなわち供え物にします」といえば、もう父や母にその人がすることを、何一つゆるそうとしない。そういう風に、あななたちは、自分の伝える伝承によって、神の掟を空しくし、その他にも同様のことを数々おこなっている」とおおせられた。

当時は、人々に尊敬されていた律法学士たちに向かって、きっぱりと「あななたち偽善者」と言う。
それだけで、彼らは、イエスの言葉が耳に入らないだろう。

イエスは、彼らの形式主義を徹底して嫌う。
つまり、心の離れた信仰を成していると言うのである。

さて、簡単に言う。
仏教である。
寺に行って教えを聞く人は少ない。せいぜい、葬式の時や、法事の時に寺に行く。
そして、寺では、すべて形式にのっとり、儀式をする。それで終わりである。
説教をする僧がいても、寝ぼけた話をして終わりである。

茶道というものがある。
茶を立てるという手前に、延々と時間をかけて、形式に身を入れて、茶の湯云々と言う。
この形式が、曲者で、彼らには、彼らの理由がある。その形式の中に、悟りがあると言うのである。一理あるが、矢張り形式から、抜け切れない。それだけで、事が終わる。特に、
女に茶道をする者が増えてから、一気に堕落した。
茶の道を理解しないのである。
茶の湯が成立した時は、男にのみ許された。

イエスは、その形式主義に徹底して対決したのである。
当時、ユダヤ教は、完全とした体制を取っていた。
伝承とは、数々の掟であり、それは、皆、彼らの先祖が作ったものである。決まりごとて゛ある。

父母に、供物をしますと言えば、もうそれで、父や母を捨てるという。作法が一番である。
すべて、決まりごとを優先する。形式である。老いた父母の面倒をみない口実として、決まりを優先するということである。

式次第を作れば、楽である。それに則り、事を行えばよい。
道元なども、多くの作法を制定して、弟子たちを教育した。創始者が生きているうちは、まだよいが、死ぬと、それが単なる形式に陥り、その心が死ぬのである。

形式だけを伝承して、結局、肝心要を忘れる。

当時のユダヤ教徒も、それに陥って久しい。
イエスは、激怒するのである。

最も激怒することは、それを生活の糧にしていることである。
これ以上は省略する。

ただし、一つだけ、宗教の中で、形式のみに意味のある神道がある。
しかしそれを理解するには、多くの霊感が必要である。
二礼二拍または、四拍する。伊勢神宮は、二拍、出雲大社は、四拍である。
礼については、省略する。
拍は、縄文時代からの挨拶である。その名残である。
二と、四の違いは、神の居られる場所の違いである。

勿論、すべての宗教の作法には意味がある。茶道の作法にも意味がある。その意味づけを行う者がいる。そして、それがすべてになる。
利休は、茶の湯を、ただ湯を沸かし、茶を立てると言うのみ。
作法は、後でどんどんと付け加えられて、複雑怪奇になった。

目に見えない世界の主は、何を見るかとえば、人の心のみを見る。
作法や形式をしている様を見るのではない。
人の心を見抜くのである。

私は、読書を多くするので、部屋には、本が、どんどんと溜まる。さて、整理をするが、追いつかず、どんどんと、部屋を本が占領する。
部屋は、私の心であるから、整理整頓と思うが、追いつかない。
そこに人が入ると、その乱雑さに、目をそむける人もいるだろう。
しかし、私の部屋には、糞などは、落ちていない。
汚くないのである。
しかし、それを汚いと見る人もいる。

以下、省略。

2007年07月07日

キリストの絶唱21

「あなたがたはみな、わたしの言うのを聞いて悟りなさい。外から人の中に入ってきて人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てきくるものが人を汚すのである。」

「「人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである。」

我がうちから我を汚すものが出るという。
おもしろいことに、イエスの口から、罪という言葉で出るものは、そういうものであり、教会が教義とする、原罪という言葉は、出ないのである。

生まれ持った罪を原罪として、認識するという驚きである。
それが、カトリック、プロテスタント問わず、言う。
生まれながらの罪、原罪である。

その原罪をイエスの十字架が取り成して、無くするというのが、原罪の教義である。
人の作った、教えである。

生まれながらに罪人であるという意識は、親鸞にも、あった。
地獄が住処の自分が、救われるのは、ただ、弥陀の本願に、頼る、絶対的に頼るしかないというものである。
これは、一種の病である。

罪悪感。
太宰治の「生まれて済みません」ではないだろうが。

キェルケゴールの、死に至る病、それは、不安。
つきまとう不安感。それを、原罪とする。
確かに、生きるということは、毎日、断崖絶壁の前にいるようなものである。
それを意識すると、不安になる。意識しないと、散漫になる。

カトリックの洗礼を受けた高校生だった私は、多くの宗教の集いに参加した。
キリスト教関係の集いは、必ず、あなたは、罪人ですというものだった。
原罪のことを言うのであろうが、いきなり、あなたは、罪人ですという、その傲慢に辟易した。
洗礼を受けることによって、その原罪が消えるというものであるから、笑う。
入信すれば、許されるというものである。

上記、イエスの、邪念に、姦淫、姦通というものがある。要するに、セックスである。結婚していない男女のセックスは、すべて、これに当たる。
盗み、殺人、詐欺という、悪行は、行動である。
内面的な状態である、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさ。
皆、人間の自然な感情である。
その自然な感情を邪念という。

近代法の出来る前は、宗教的、規範が法律の代わりとしてあった。
当時の大罪は、不敬罪である。神への冒涜である。
神の子イエスも、最後は、神への冒涜で、十字架にかけられた。

イエスの説教を、どの次元で聞くかということで、解釈が様々になる。

この説教によれば、生きるということは、邪念を生きるということである。誰も、上記の言うことから、逃れられないのである。
しかし、クリスチャンは、自分たちは、救われていると思い込むのである。洗礼を受けているから。
教会には、罪人のみ集うのである。

宗教的暴力である。
人を支配するためには、とっても良い説教である。
罪を犯さない人は、いない。

邪念を持つなということは、生きるな、ということである。

宗教の暴力は、人間の一番弱いところを、支配し、それによって、従わせるのである。

人間の基本的欲望を支配するという。
特に、性欲は、最も、支配しやすい。それの皆無の人はいない。

イエスは、後に、旧約のセックスのあり方を正す。一夫一婦制である。旧約は、一夫多妻である。日本流に言えば、側室を持ってもいいのだが、イエスは、それを禁止する。
それのみか、離婚を禁じるのである。
離婚した者と、セックスをするのは、姦通に当たるという。
仏陀も、セックスには、厳しく対処した。
修行僧には、絶対に、女の膣にペニスを入れるなと、厳命している。

人間の一番弱いところを、支配して、成り立つのが、宗教というものなのであろう。

ある新興宗教の教祖は、弟子たちに、セックス禁止、マスターベーションも禁止して、自分は、女弟子たちと、セックス三昧だったというから、笑う。

イエス当時のセックスは、姦淫、姦通の大盛りの時期である。勿論、今も、そうである。
それから逃れられないのか人間でもあると言う。
マスターベーションも罪とするのであるから、拷問である。
それを禁止して、真に受けた少年、青年が、多くノイローゼになったのを、私は、多くみた。真面目に掟を守り、性欲を我慢するのである。
性欲とは、自然である。
自然を自然に扱うべきである。
それさえも、罪にするという、宗教の掟の、暴力を私は、裁くものである。

独身であるカトリックの司祭が、女と交わることを、私は、知っている。勿論、内密である。すべての司祭ではない。また、特に、アメリカでは、司祭にゲイが多いのも、事実である。性的虐待を受けた少年たちに、訴えられている司祭もいる。
牧師も、売春婦を買う。

しかし、誰も彼らを裁くことは、できない。
皆々、そのレベルでは、同じである。

日本仏教の僧などは、終わっている。
一般の人より、激しい性欲であるから、笑う。

仏陀と、イエスの性欲に関するものを、徹底的に調べることも、彼らの思想を知る手立てになる。
イエスは、できれば、人は、一人で生きた方がよいという。独身である。何故か。
仏陀の最初のサンガには、女は入ることが出来なかった。
そして、矢張り、独身を生きる。

霊学として、考える。
女の膣は、子供が通る産道である。と、共に、霊界の入り口にもなる。
女が、霊に感応しやすい訳である。
体の中に、霊界の入り口を持つ女は、男と違う。体質が違う。

男が、仏陀やイエスの言葉を生きれば、人類は、消滅する。
しかし、決して、そんなことにはならない。そこまで意識の高い男の数は少ないからである。

セックスとは、何か。
実は、雄と雌という区分けが出来た歴史は、浅い。それ以前は、長い間、分裂によって、数を増やしていた。
雄、雌の区分けも、進化であろう。

同じもの、ホモによって、命は、つないできた。クローンというのは、それへの回帰であろう。

複雑になるということは、弱体化したといえる。

これから、セックスをせずとも、子供が作られる時代になる。
それでは、セックスとは、何か。進化の一つの過程である。
いずれ、進化により、人間の性欲が、基本的欲望ではなくなる。それに、鑑みて言えば、セックスは、ボディランゲージ、体の会話という役割になる。
それは、性差を超える。

仏陀もイエスの教えも、古い教えになる。
その頃になると、人類は、宇宙へ旅立つ。

勿論、神や仏という、妄想も無くなる。

裏切り

地方議員が、全国で任期の前に辞職しているという。
その数、164名。

その訳は、何と、共済組合法改正にあるという。
つまり、年金が引き下げられるゆえに、引き下げられる前に、議員を辞職するというもので、有権者を裏切り、馬鹿にし、コケにする行為である。

皆さんのためにと、選挙運動で、喚いていた連中は、皆さんのためではなく、自分のために、議員になっていたということである。
呆れて、口も利けない。

3期12年以上になると、相模原の例をあげると、年間、200万8000円から、265万1000円であり、それが、22万3000円から、29万4000円に減額されるという。
その前に、議員辞職するということは、本性丸出しである。

要するに、今まで言ったことは、皆々、嘘であるということ。

親の顔がみたいものである。

兎に角、役立たずの人間が、議員になりたがるという、定説もある。
何の才能も無く、弁のみ立つ。嘘を言わせたら、天下一品である。
議員になるために、生まれたという人もいる。

ちなにみ、選挙で落ちると、ただの人。何のとりえも無い。

ただ今は、いつ命が取られるか知れないという時代ではないから、議員になりたくて、しょうがない人が多い。
黙っていれば、収入を得るのである。
こんな、良い商売も無い。

しかし、それを選んでいるのが、市民であるから、市民は、踏んだり蹴ったりである。
何のための、投票だったのか。
市政を任せての投票である。しかし、本人は、あっさりと、辞める。
その理由が、年金が引き下げせられるからという理由だとしたら、市民は、救われない。

大義も、へったくれも無い。
志の前に、20万から29万が減ろうが、どうでもいいだろう。
全額貰えないということではないのである。
その、みみちい根性には、男として、辟易する。

ホント、生きている甲斐が無い、死んだほうがよい。
そんなのが、生きていても、何の益もない。
世の中に、何の益の無い者は、死んだほうが増しである。

ちなみに、高齢者、障害者について言う。
その存在は、社会に必要である。
社会は、その人々によって、成長し、成熟する。
認知症の方によって、人生のあるべき姿が観える。
人は、彼らによって、真実の優しさを知るのである。
そして、生きるべき意義をも知る。

社会の真実は、社会的弱者によって、支えられるのである。
この意味が解る者は、まだ生きる価値がある。
解らない者は、死ね。

2007年07月08日

もののあわれについて66

讃岐の狭岑島に、石の中に死れる人をみて、柿本朝臣人麿の作れる歌一首に短歌

玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地
日月と共に 満りゆかむ 神の御面と 継ぎ来たる 中の水門ゆ 船浮けて
わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とひ浪立ち 辺見れば
白波さわく 鯨魚取り 海をかしこみ 行く船の 楫引きをりて をちこちの
島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に いほりて見れば 浪の音の
繁き浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に より臥す君が 家知らば
米も問はましを 玉鉾の 道だに知らず おぼほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは

たまもよし さぬきのくには くにんらか みれどもあかぬ かみからか ここだとうとき あめつち
ひつきとともに たりゆかむ かみのみおもと つぎきたる なかのみなとゆ ふねうけて
わがこぎおれば ときつかぜ くもいにふくに おきみれば とひなみたち そこみれば しらなみさわく いさなとり うみをかしこみ ゆくふねの かじひきおりて わちこちの
しまはおおけど なぐわし さなみねのしまの ありそもに いほりてみれば なみのねの
しげきはまべを しきたへの まくらになして あらことに よりふすきみが いえしらば
こめもとはましを たまほこの みちだにしらず おぼほしく まちかこふらむ いとしきつまらは

玉藻よし
讃岐にかかる枕詞。
海藻の美称。
よしは、詠嘆の言葉。これは、人麿の造語である。

人麿以前の万葉の歌は、自然に欲するままに、心の向くままに、発した歌である。
人麿から、歌を作るという意識が芽生える。これは、画期的なことである。
意識することから、人生のすべてが始まる。
子供であることを意識する。
男、女であることを意識する。
貧しさ、富を意識する。
足の長さ、短さを意識する。
はにかみを意識し、性を意識し、男、女に心が向くことを意識する。
結婚を意識し、家庭を意識し、老いを意識し、子の成長を意識する。そして、最後に死を意識する。
人生は、その連続である。

人麿は、歌を作るということを意識したのである。
故に、歌の神様とされた。
私も異存はない。

意識は、気づきである。人生は、気づきの連続である。
意識の無いものを、無いと断定する。その断定で、その人の器というものが解る。
大を小は、理解出来ないのは、そのゆえである。
自分より、大きなものを、受け入れることが出来ない。
故に、偏狭になる。そして、その偏狭さえも、解らないのである。
心に無いものが無い所以である。

讃岐の国とは、現在の香川県である。

国からか。
この「から」は、人柄、品柄と同じく、品格、性格を表す。つまり、そういう国柄であるという。讃岐の国は、玉藻と呼べる程、美しい。

見れども飽かぬ。
いくら見ても、飽きないのである。

神からか。
これも、国からと同じく、この国をしろしめす神の格式が高いという。

天地 日月と共に 満りゆかむ
天地、日月が永遠であるごとくに、永遠に満ち足りていく。

神の御面。
古事記の国生みの第二番目を言う。
次に伊予の二名嶋を生みたまいきと、ある。

ここだ貴き。
ここだは、ここだく、ここだきと同じく、大変に、非常にという意味。
また、沢山とか、数多くという意味。

継ぎ来たる。
昔から、言い伝えられてきた。

中の水門ゆ
中は、地名で、現在の丸亀市の西南。
水門は、港と同じく、船が出入りした、河口、入り江のこと。

時つ風。
潮の変わり目に吹く風。この風によって、潮の流れを知るのである。

雲居に吹くに。
大空いっぱいに吹くのである。

とひ浪立ち。
強風のために、浪が激しい様。

鯨魚取り。
生みにかかる枕詞。
当時は、鯨をイサナと呼んだ。

楫引き折りて。
方向を変えるために、かじを引きたはめての意味。

名ぐはし
「くはし」は、精妙なという形容詞であるが、ここでは、名の立派な、名高いという意味。

狭岑の島
現在の坂出市の西北にある島。

荒磯面に
岩や石の、ごろごろした磯辺のこと。

しきたえの
枕、床、衣、袖にかかる枕詞。

荒床
岩石の間に臥している。その磯を荒床と、呼んだ。

より臥す君。
死んで横たわっている様。より臥す。寝ている、君と呼びかける。

来も間はましも。
尋ねて来てくれるであろうものを。

玉矛の。
道にかかる枕詞。

おほほしく。
おぼつかない。心がかり。不安である。

愛しき妻らは。
愛すべき、妻らはとは、複数を言うのではなく、節尾語。

大意は、次に書く。

もののあわれについて67

美しい讃岐の国は、国柄がすぐれているからであろう、その風光は、素晴らしく、見飽きることがない。
この国を、しろしめす神様の格の高さもそうだろう.。
国土は、神々しいばかりである。
天地日月と共に、永遠に満ち足りてゆくことだろう。
神様が御生みになった国として、昔から語り継がれてきたこの国の、中の入り江から、船を漕ぎ出して来ると、時つ風が起こり、吹き荒れている。
沖には、とひ浪が立ち狂い、岸辺には、白波が立ち寄せる。
風波の海を、恐れかしこみ、楫を引きたはめて、あちこちの島を見て、名の美しい狭岑の島の荒磯に船を寄せて、仮の宿りとしてみると、絶え間なく浪の打ち寄せる浜辺を枕として、岩と石の荒磯を寝床として、臥せっているあなたを見た。
ああ、私が、あなたの家を知っているならば、あなたが、ここに寝ていると、知らせてあげましたのに・・・
奥様が、知れば、飛んで来たでしょう。
こんなことになっていることを、知らない奥様は、今頃、あなたが、どこにお過ごしかと、おぼつかなく思っていることでしょう。
不安のうちに、帰りを待ち焦がれているでしょう。
何も、知らない、愛しい奥様は・・・

たまたま発見した、水死体の人を、このように歌うという神経はと、考える。
格調高く歌い上げた人麿の、詩魂とは・・・
古今最大の歌人と呼ばれる人麿の歌を通して、大和魂と、もののあわれを、観ることにする。

たまたま目にした水死体を歌うのに、まず、讃岐の国の美しさから始まるという余裕である。挽歌といわれるイメージが、ここで考えていたものとは、別物であるという驚きがある。
国からか、神からか、とは、実に雄大である。
そして、仮の宿りをする様を言う。
ようやく、死体を発見する。
ここでまた、驚く。

より臥す君がと、死体に対して、生きる者に語りかけるように、敬語を使うのである。
そして、その死に対して、何の感情もない。
ここで、古代の人の、死に対する考え方が解る。
死は、一つの状態なのである。
つまり、魂の抜けたもの。
物になっている。
死が人間の消滅を言うものではないのだ。
これほど冷淡に死体を見るとは、死は、状態にしかならない。
つまり、人は、死ぬ者ではないということ。

ここに、無常観なるものは、一切無い。
勿論、人麿の心には、死の悲しみはあったが、それ以上に、人が、今言うような消滅するものではなかったのである。
つまり、人間は肉体のみではないということを、確実に知っていた。
何度も言うが、死は、隠れることなのである。
どこにか。
霊の世界にである。
魂の世界にである。

現世から身を隠し、次元を別にして、存在する。
それが、八百万の神の意識である。
人は、隠れて神に成る。

これが日本の伝統である。

命、みこと、の自覚である。

ここで、大和言葉をみる。
しイとは、死という外来語の意味ではなかった。
しイとは、行為もたらす言霊であり、音霊である。
言霊では、しにゆく、と今でも言う。それは、何かを行為することを言う。
死にゆくという意味ではない。
しイとは、大地との関わりの音霊である。

それでは、かみという言葉は、どうか。
神に関しては、多くの人の節があるが、大和言葉としての、かアみイとは、何か。
か行の、かきくけこ、をみると、けエなどは、食うこと、きイは、木の元での行為をいう。
かアとは、集団の立場に立つ時に使用される。
かアみイは、集団を人と人を結ぶものとして認識された。


欧米の、神との違いを、ここで明確にしたい。
唯一絶対の神という観念は、日本には、無い。
死も、神も外来語である。
また、その観念も、無い。

人は死ぬ者ではない。
肉体を失えば、肉体から抜け出た者は、集団を結ぶ、命、みこと、という存在になる。
それが、神という言葉で、表された。
だから、最も日本人の死に対する言葉で、理想なのは、隠れるという言葉になった。
死は、神上がり、つまり、崩なのである。

連綿としてつらなる祖先の霊と共に、別次元にて、存在するという意識が、最も正しく死という状態を把握するのである。

古代、太陽信仰の元では、死者の霊は、山に戻るとされた。
山から、自分たちを見守るのである。
仰ぎ見る太陽の元に行く日まで、霊は、山に留まり、我らと共にある。
思いに残る霊は、山に留まっているが、思いにない霊は、太陽の元に行くのである。
集団を結ぶものは、山の祖先であり、太陽であった。

ゆえに、日本人の神観念は、我らに続く者である。それを、御親、みおやと呼ぶ。
神という言葉は、総称になった。
そして、亡き人を神として、尊称していう。
これが、日本の神の姿である。

神話にある神も、我らと続くものである。
断絶して、超越した存在ではない。

御親の総称とし、実在した方を代表して、天照大神という、それを太陽に象徴した。実に、真っ当な、考え方である。

さて、もう一つの死の姿は、別れである。
わアかアれエ。
人生最大の別れが、死である。
ただし、死滅ではないから、陰惨な絶望感を伴うことがない。
人麿のこの歌は、死者より、その妻に多くを語る。
この別れに巡りあえない、その人の妻を思うのである。

この歌には、日本の伝統であるもの、神の観念、自然観、人生観が、すべて表現されている。そして、死生観である。

もう一つ言う。
歴史観である。
時代区分ではない、心的歴史観である。
それは、古代と呼ぶような感覚ではない。
私も言う。
今が、神代なのであると。
人麿も、そうである。
今が、神代なのであると。

昔昔の話ではない。
遠く過ぎ去った時代を神代というのではない。
今、現在が神代である。

今は、たまたま、二千年前、それ以前を神代と呼んでも、これから先の二千年後の人々が、今の時代を神代と呼ぶ。
何を言いたいのか。
私は、過去が歴史だというのではない。今、現在も歴史であり、歴史は、心の内にあるものだというのである。
日本の歴史は、そのまま、私の心である。
私の心は、歴史の過去と断絶しているのではないということである。

戦後、日本人は、自由を得たと思い込んだ。
しかし、それは自由ではなかった。ただ、忘れただけである。そして、自由と思っていたことが、真実の自由ではなかった。単なる、手前勝手な行為行動であった。
自由には、責任が伴う。それを、知らない自由は、自由とは、言わない。

そして、あろうことか、歴史と断絶すると思い込んだ。
天皇に、人間宣言をさせて、本日から、別な国が始まったと思い込んだ。
アホか。
連綿と続く御親の歴史を捨てるという、愚かさである。
たかが、10年たらずの戦争によって、出来た観念をもって、すべてだと思い込む辺りは、よほど、お目出度いのである。
そして、野蛮な欧米の思想等々をもって、よしとする。
しまいに、嘘八百のマルクス主義だの等々。

日本人としての、霊感を持てば、嘘は見破れる。
非人間の思想、共産、社会主義等々、それらは、日本のものではない。
進化の過程にある、民族のものである。

国民を、公宝、おうみたから、と呼ぶ天皇の有様を知らない。
大和言葉を知らない。
しまいに、君が代の、君を天皇と解釈するという、アホ振りである。
大和言葉を知っていれば、君は、天皇ではなこと、明々白日である。
天皇は、大君であり、君ではない。

君は、集団のリーダーを言う。そして、君を任命するのは、大君である。
大君は、無私の心を持って、政を為す。
政とは、政治のみを言うのではない。祀ること、奉る、祭るである。
何をか。
すべての御親である。
すべての部族の御親を祀るのである。
だから、大君なのである。

天皇制云々という前に、大和言葉を云々せよ。
公宝である、国民が、いらないと言えば、天皇は、去るのである。それが、大君の有様である。

大君は、日本のどこにでも、心を飛ばす。
どこに災害、災難があっても、心を痛め、皇祖皇宗に祈る。
世界に、そんな存在は、天皇のみである。
唯一、軍というものを持つことが無かった、エンペラーは、世界広しといえども、天皇家のみである。

あの戦国時代でさえ、皇居は、丸裸である。
いつでも、天皇家を滅ぼすことが出来た。
あの、あの、信長でさえ、天皇家を焼き滅ぼさなかった。
比叡山のみである。
もし、万が一、信長が、天皇家に火を放ったならば、すべての国民を敵に回すことになると知っていた。
しかし、信長は、真宗や、比叡山などは、壊滅しても良いと考えたのである。

天皇は、御親の総称なのである。
我らの君の盾が、大君なのである。
これが、日本の秩序と法則である。