神の絶対的奴隷である、イスラムを唱えたムハンマドの、重大な問題がある。
それは、啓示である。神の啓示を受けたとある。
それが、私の問題である。
神道では、神懸かると、それを判定するサニワという役割がある。
神と名乗っても、その神なるものが、何者であるのかということだ。
神という言葉は、方便である。
例えば、人霊が神と名乗る場合は、よほどのメッセージがある場合である。
神が、我は神なりと現れるのは、旧約聖書の、神もどき、または、魔物である。悪霊といってもよい。魔神である。
神には、名が無いからである。
大和言葉の神という言霊は、音霊が、かアみイである。
母音、アとイである。
カミを上とも、守とも書く。
母音の意味は、開いて受け入れるという意味である。
アイである。漢字の愛の意味も、このように考えてよい。
つまり、大和言葉のカミは、尊称である。
それを私は、何度も書いている。
私が死ねば、木村天山命、きむらてんざんのみこと、と呼ばれる。この命も、尊称である。そして、神として、神道では、祀られる。
ムハンマドは、どのようにして、神懸かったのか。
イスラムの伝承を読む。
突然、鈴の音が耳の底に鳴り響き、顔は激痛に歪むという。
喉が締め付けられて、窒息しそうになる。
妻アーイシャが言う。「ある凍てつく寒い日のことだった。啓示がやってきた。預言者の額には、玉なす汗が流れていたのを、見た」
大本教の出口ナオも、天理教の中山みきも、同じように、神懸かった。
そして、お筆先というものを書いた。
霊媒体質である。
出口ナオは、丑寅の艮神が懸かった。中山みきは、天の将軍が懸かった。
それぞれ、国立尊と、天理王命となる。
実際、神が懸かるということはないから、人霊、または、霊が懸かるのである。
とんでもないのは、天照大神と名乗る霊もある。
人霊ならば、まだ良いが、魔物や、魔神だと、言葉も無い。
ムハンマドに懸かった霊は、何者か。
啓示に襲われると、ムハンマドの顔は、みるみる暗く翳り、酔いつぶれた人のようであったともある。また、失神する人のように、地面に、どっと倒れた。
子牛の鳴き声のような異様な呻き声をあげる。
我を失ったムハンマドの口から、不思議な言葉が、途切れ途切れに漏れたという。
それがイスラムの立場から言うと、アッラーの神の言葉となる。
ここで、この地方、アラブでは、このような霊懸かる人は多くいた。
特に詩人たちは、ジンという妖霊に懸かられると言われた。
これをアラビア語では、タンジュニーンという。ジンが憑くことを言う。つまり、憑き物である。
ムハンマドの啓示は、単にこの憑き物であると、ジャーヒリーヤの人々は考えた。
何処の国でも、最初は、シャーマニズムがある。
そのシャーマンが宣託して、集いを仕切っていた時期がある。
アラブも同じである。
しかし、その頃になると、もはや、それらのシャーマンは、無碍にされ始めていた。
ジンが憑くと言われた詩人たちも、最初は、最高位にあったが、次第に、その地位が低くなり、疎まれるようになる。
一人の人間に懸かった、あるモノによって、多くの人が迷わせられるという現象は、新興宗教に多い。
単なる、ヒステリーの場合もある。
また、分裂気質の人である。
幻聴、幻覚等々、もある。
コーランには、ジャーヒリーヤたちが「こいつは妖術師、さもなくばもの憑きにちがいない」と言ったとある。
アッラーの神は言う。
「人間どもやジンたちを、みんな一緒にこきまぜて、地獄を一杯にしてやろうぞ」
この言葉で、ムハンマドに憑いた神の正体が解る。
旧約聖書の神も、脅し、怒り、後悔し、試す行為をする。
それはそのまま、人間と同じである。
人格神と言うが、それは、人間もどきであり、また、神もどきであるといえる。
人間にも、神にも成れないモノとは、何者か。
三次元には、一次元、二次元が含まれてある。二次元から、三次元を理解することは出来ない。それは、三次元から、四次元を理解出来ないのと、同じである。
その上、五次元や、六次元を理解することなど出来ない。
目に見えない世界のモノが、人間に憑く。
それをそのまま、特別な存在であるとは、言えない。
神にも、様々なレベルの神がいるということである。
目に見えない世界のモノは、この次元の人間に、何とでも言うことが出来る。それをそのまま信じてしまうと、信仰になるが、その信仰は、一体、どのようなものになるのか。
実に、恐ろしいことである。
私は知らないことは、知らない。
故に、ムハンマドの神の正体は、言わない。
知らないからだ。
ただし、ムハンマドは、旧約聖書の神であると言う。
そして、最初の信仰家は、アブラハムであると言う。
それでは、少しアブラハムについてを、書くことにする。
コメント (1)
人間が神たることが可能かと言えば、不可能であるとも可能であるとも言えるでしょう。現在、地球上には約60億の人類がいますが、その全てがある人のことを神と信じたならば、その人は神ということになるのかも知れません。しかし、それは確率的にあまりにも難しいことなので、近代国家(どこからどこまでがが近代国家なのかという定義には微妙なものがあるが)の法規及び前提は人間が全能の神たることをあり得ないこととして退けている訳です。
因みに、私の実生活は近代国家たる日本の法規・前提に乗っ取っています。それが私の脳においてはベストだ、ということです。
投稿者: 佐橋功多 | 2007年07月05日 02:14
日時: 2007年07月05日 02:14