マルコ福音書第七章に、ファリサイ人と、律法学者が登場する。
それらが、イエスの弟子たちが、手を洗わずにパンを食べるのを見て言う。
ファリサイ人や、ユダヤ人は、古人の言い伝えを守り、腕をひじのところまで洗ってから食事をする。
「何故、あなたの弟子たちは、古人の言い伝えにしたがわず、汚れた手でパンを食べるのか」と問う。
イエスは言う。
「イザヤはあなたたち偽善者について、実によく預言した。かれはこう書いている。「この民は口先だけで私を敬うが、その心は私から遠くある。人の作ったいましめを教え、空しく私を礼拝している。」また、あななたちは、自分の伝えを守るために、よくも神のおきてをすてたものだ。モイゼは「父母をうやまえ、と教え、父や母を呪う人は死刑に定められる、といっている。それなのにあななたちは、ある人が父や母にむかって、「私があなたを助けるはずのものを、コルバン、すなわち供え物にします」といえば、もう父や母にその人がすることを、何一つゆるそうとしない。そういう風に、あななたちは、自分の伝える伝承によって、神の掟を空しくし、その他にも同様のことを数々おこなっている」とおおせられた。
当時は、人々に尊敬されていた律法学士たちに向かって、きっぱりと「あななたち偽善者」と言う。
それだけで、彼らは、イエスの言葉が耳に入らないだろう。
イエスは、彼らの形式主義を徹底して嫌う。
つまり、心の離れた信仰を成していると言うのである。
さて、簡単に言う。
仏教である。
寺に行って教えを聞く人は少ない。せいぜい、葬式の時や、法事の時に寺に行く。
そして、寺では、すべて形式にのっとり、儀式をする。それで終わりである。
説教をする僧がいても、寝ぼけた話をして終わりである。
茶道というものがある。
茶を立てるという手前に、延々と時間をかけて、形式に身を入れて、茶の湯云々と言う。
この形式が、曲者で、彼らには、彼らの理由がある。その形式の中に、悟りがあると言うのである。一理あるが、矢張り形式から、抜け切れない。それだけで、事が終わる。特に、
女に茶道をする者が増えてから、一気に堕落した。
茶の道を理解しないのである。
茶の湯が成立した時は、男にのみ許された。
イエスは、その形式主義に徹底して対決したのである。
当時、ユダヤ教は、完全とした体制を取っていた。
伝承とは、数々の掟であり、それは、皆、彼らの先祖が作ったものである。決まりごとて゛ある。
父母に、供物をしますと言えば、もうそれで、父や母を捨てるという。作法が一番である。
すべて、決まりごとを優先する。形式である。老いた父母の面倒をみない口実として、決まりを優先するということである。
式次第を作れば、楽である。それに則り、事を行えばよい。
道元なども、多くの作法を制定して、弟子たちを教育した。創始者が生きているうちは、まだよいが、死ぬと、それが単なる形式に陥り、その心が死ぬのである。
形式だけを伝承して、結局、肝心要を忘れる。
当時のユダヤ教徒も、それに陥って久しい。
イエスは、激怒するのである。
最も激怒することは、それを生活の糧にしていることである。
これ以上は省略する。
ただし、一つだけ、宗教の中で、形式のみに意味のある神道がある。
しかしそれを理解するには、多くの霊感が必要である。
二礼二拍または、四拍する。伊勢神宮は、二拍、出雲大社は、四拍である。
礼については、省略する。
拍は、縄文時代からの挨拶である。その名残である。
二と、四の違いは、神の居られる場所の違いである。
勿論、すべての宗教の作法には意味がある。茶道の作法にも意味がある。その意味づけを行う者がいる。そして、それがすべてになる。
利休は、茶の湯を、ただ湯を沸かし、茶を立てると言うのみ。
作法は、後でどんどんと付け加えられて、複雑怪奇になった。
目に見えない世界の主は、何を見るかとえば、人の心のみを見る。
作法や形式をしている様を見るのではない。
人の心を見抜くのである。
私は、読書を多くするので、部屋には、本が、どんどんと溜まる。さて、整理をするが、追いつかず、どんどんと、部屋を本が占領する。
部屋は、私の心であるから、整理整頓と思うが、追いつかない。
そこに人が入ると、その乱雑さに、目をそむける人もいるだろう。
しかし、私の部屋には、糞などは、落ちていない。
汚くないのである。
しかし、それを汚いと見る人もいる。
以下、省略。