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キリストの絶唱21

「あなたがたはみな、わたしの言うのを聞いて悟りなさい。外から人の中に入ってきて人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てきくるものが人を汚すのである。」

「「人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである。」

我がうちから我を汚すものが出るという。
おもしろいことに、イエスの口から、罪という言葉で出るものは、そういうものであり、教会が教義とする、原罪という言葉は、出ないのである。

生まれ持った罪を原罪として、認識するという驚きである。
それが、カトリック、プロテスタント問わず、言う。
生まれながらの罪、原罪である。

その原罪をイエスの十字架が取り成して、無くするというのが、原罪の教義である。
人の作った、教えである。

生まれながらに罪人であるという意識は、親鸞にも、あった。
地獄が住処の自分が、救われるのは、ただ、弥陀の本願に、頼る、絶対的に頼るしかないというものである。
これは、一種の病である。

罪悪感。
太宰治の「生まれて済みません」ではないだろうが。

キェルケゴールの、死に至る病、それは、不安。
つきまとう不安感。それを、原罪とする。
確かに、生きるということは、毎日、断崖絶壁の前にいるようなものである。
それを意識すると、不安になる。意識しないと、散漫になる。

カトリックの洗礼を受けた高校生だった私は、多くの宗教の集いに参加した。
キリスト教関係の集いは、必ず、あなたは、罪人ですというものだった。
原罪のことを言うのであろうが、いきなり、あなたは、罪人ですという、その傲慢に辟易した。
洗礼を受けることによって、その原罪が消えるというものであるから、笑う。
入信すれば、許されるというものである。

上記、イエスの、邪念に、姦淫、姦通というものがある。要するに、セックスである。結婚していない男女のセックスは、すべて、これに当たる。
盗み、殺人、詐欺という、悪行は、行動である。
内面的な状態である、卑猥、ねたみ、そしり、高慢、愚かさ。
皆、人間の自然な感情である。
その自然な感情を邪念という。

近代法の出来る前は、宗教的、規範が法律の代わりとしてあった。
当時の大罪は、不敬罪である。神への冒涜である。
神の子イエスも、最後は、神への冒涜で、十字架にかけられた。

イエスの説教を、どの次元で聞くかということで、解釈が様々になる。

この説教によれば、生きるということは、邪念を生きるということである。誰も、上記の言うことから、逃れられないのである。
しかし、クリスチャンは、自分たちは、救われていると思い込むのである。洗礼を受けているから。
教会には、罪人のみ集うのである。

宗教的暴力である。
人を支配するためには、とっても良い説教である。
罪を犯さない人は、いない。

邪念を持つなということは、生きるな、ということである。

宗教の暴力は、人間の一番弱いところを、支配し、それによって、従わせるのである。

人間の基本的欲望を支配するという。
特に、性欲は、最も、支配しやすい。それの皆無の人はいない。

イエスは、後に、旧約のセックスのあり方を正す。一夫一婦制である。旧約は、一夫多妻である。日本流に言えば、側室を持ってもいいのだが、イエスは、それを禁止する。
それのみか、離婚を禁じるのである。
離婚した者と、セックスをするのは、姦通に当たるという。
仏陀も、セックスには、厳しく対処した。
修行僧には、絶対に、女の膣にペニスを入れるなと、厳命している。

人間の一番弱いところを、支配して、成り立つのが、宗教というものなのであろう。

ある新興宗教の教祖は、弟子たちに、セックス禁止、マスターベーションも禁止して、自分は、女弟子たちと、セックス三昧だったというから、笑う。

イエス当時のセックスは、姦淫、姦通の大盛りの時期である。勿論、今も、そうである。
それから逃れられないのか人間でもあると言う。
マスターベーションも罪とするのであるから、拷問である。
それを禁止して、真に受けた少年、青年が、多くノイローゼになったのを、私は、多くみた。真面目に掟を守り、性欲を我慢するのである。
性欲とは、自然である。
自然を自然に扱うべきである。
それさえも、罪にするという、宗教の掟の、暴力を私は、裁くものである。

独身であるカトリックの司祭が、女と交わることを、私は、知っている。勿論、内密である。すべての司祭ではない。また、特に、アメリカでは、司祭にゲイが多いのも、事実である。性的虐待を受けた少年たちに、訴えられている司祭もいる。
牧師も、売春婦を買う。

しかし、誰も彼らを裁くことは、できない。
皆々、そのレベルでは、同じである。

日本仏教の僧などは、終わっている。
一般の人より、激しい性欲であるから、笑う。

仏陀と、イエスの性欲に関するものを、徹底的に調べることも、彼らの思想を知る手立てになる。
イエスは、できれば、人は、一人で生きた方がよいという。独身である。何故か。
仏陀の最初のサンガには、女は入ることが出来なかった。
そして、矢張り、独身を生きる。

霊学として、考える。
女の膣は、子供が通る産道である。と、共に、霊界の入り口にもなる。
女が、霊に感応しやすい訳である。
体の中に、霊界の入り口を持つ女は、男と違う。体質が違う。

男が、仏陀やイエスの言葉を生きれば、人類は、消滅する。
しかし、決して、そんなことにはならない。そこまで意識の高い男の数は少ないからである。

セックスとは、何か。
実は、雄と雌という区分けが出来た歴史は、浅い。それ以前は、長い間、分裂によって、数を増やしていた。
雄、雌の区分けも、進化であろう。

同じもの、ホモによって、命は、つないできた。クローンというのは、それへの回帰であろう。

複雑になるということは、弱体化したといえる。

これから、セックスをせずとも、子供が作られる時代になる。
それでは、セックスとは、何か。進化の一つの過程である。
いずれ、進化により、人間の性欲が、基本的欲望ではなくなる。それに、鑑みて言えば、セックスは、ボディランゲージ、体の会話という役割になる。
それは、性差を超える。

仏陀もイエスの教えも、古い教えになる。
その頃になると、人類は、宇宙へ旅立つ。

勿論、神や仏という、妄想も無くなる。

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2007年07月07日 07:10に投稿されたエントリーのページです。

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