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キリストの絶唱22

ファリサイ派の人々がやってきて、イエスに議論をしかけ、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。イエスは心から深く嘆息して仰せられた、「どうして今の時代はしるしを求めるのか。あなたがたによく言っておく、しるしは今の時代には決して与えられない」イエスはかれらから去り、再び舟に乗って向こう岸に行かれた。

ファリサイ派の人は、メシア的なしるしを見せよというのである。
要するに奇跡を見せよということである。それも、驚くような奇跡である。個人的病治しではない。
イエスの力を試すのである。
しかしイエスは、自分の栄光のための奇跡は、起こさないのである。
ただ、去るのである。

イエスに偽善者といわれる者どもである。
こういう輩は、いつの時代も、どこの場所にもいる。
自分たちは、知識と教養があり、善人だと信じている者である。

「しるしは、今の時代には決して与えられない」のではなく、お前たちには、与えられないということである。
自分たちが、滅びていることさえ、気づかない者である。

大学の名誉教授というものがいる。
社会的地位が高い。しかし、最低最悪の人間の場合、多々あり。しかし、それを彼らは知らない。要するに、社会的な目でしか、自分を見ることが出来ない。
自分を見る、自分の目を持つことが無い。
特に、社会的地位の高いと言われる人に多いから、驚く。
この、ファリサイ人というものも、そういう者たちである。

だから、イエスが言う。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種とにじゅうぶん気をつけよ」と。

パン種とは、彼らの認識するもの、そして、彼らの教えである。
しかし、その頃の弟子たちも、アホゆえに、イエスの言葉の意味を理解出来ない。それを、イエスは嘆くものである。

ちなにみ、アホは、死んでもアホである。馬鹿は、死んでも、馬鹿である。
死んでも治ることはない。
浮遊する幽霊を見れば、それは、解る。
生きていた時と、同じく、頑固な者は頑固であり、愚かな者は、愚かである。
悲劇は、自分が死んだことに気づかないという、アホもいる。

死んでいるのに、死んでいないと言い張る者もいる。

ファリサイ人は、今でも、霊界、幽界で、ファリサイ人としているのだろう。哀れである。

それにしても、聖書解釈というのは、事後予言のように、すべてを教会の教義にこじつけて、解釈する。
イエスの奇跡に関しても、教義に結びつけるのである。
それらを、一々書くのは、面倒であるから、省略する。

イエスの名言がある。
「わたしのあとに従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、命を失う者は、それを救う。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を
失ったならば、なんの益があろうか。また人は、自分の命を買い戻すために、何を与えることができようか。神を捨てた罪深いこの時代において、わたしとわたしのことばを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光に包まれて聖なる天使たちちちもに来るときに、その者を恥じるであろう」

ここでも、聖書解釈は、的外れである。何も解っていない。要するに、霊学を知らないからである。
この言葉の意味は、霊界を知らなければ理解出来ない。
何せ、全世界を得てもという譬えは、譬えにならない。誰も、全世界など、手に入れられないからである。

神を捨てた罪深いこの時代という。
当時が、そうである。
つまり、ユダヤ教の堕落と、惰性を言うのである。
今の日本の仏教の形式主義、形骸化した信仰に似る。
そして、今も、そうである。
それでは、イエスを主とする、キリスト教は、どうであろうか。同じであろう。
そして、その新興宗教である。同じであろう。
手前勝手な解釈で、我は、云々というから、救われない。
いや、救いなどない。
救いというのは、妄想である。

死ぬまでの暇つぶしの救いである。

それでは、イエスは、何を言いたかったのか。

私は言う。
生まれた時から、人は、十字架を背負っている。
カルマ、因縁である。
勿論、自分が撒いた種である。

おのれを捨て、自分の十字架をになって、私に従いなさいという言葉は、矛盾である。
おのれを捨てて、おのれの十字架である。そんなもの、ある訳が無い。

第一、おのれを捨てられるか。
そんなことが、ある訳が無い。
何を言うのか。

道元も、同じ事を言う。
仏の家に投げ入れてという。私を仏の家に投げ入れて、自我を捨てるのである。
自我を、捨てたら、精神疾患である。

そこで、編み出された理屈が、自我と、自己である。
自我を捨て、自己の十字架をになってということになるのであろうか。

言葉の遊びは、止めたい。

要するに、救いという言葉の観念が曖昧である。

救いとは何か。ということになる。

実は、救いは妄想である。救われる必要は無い。すでに救われている。この宇宙に在るということは、救われてあるということである。
宇宙以外に在る場所は無い。宇宙外は、無である。
霊界も宇宙に在る。
神というものも、サタンというものも、宇宙の内にある。神もサタンも救われている。在るからである。無いものは、無い。在るものは、在る。

存在は、救いである。

聖書解釈は、第一の死は、この世の死である。第二の死は、来世における死であるという。永遠の命を、失うとある。
嘘である。
人間の霊は、永遠のものである。
つまり、それは、救いではない。
永遠に存在することが救いであるというのだ。
違う。
本当に救いを求める人は、永遠など求めない。

消滅を求める。
次の宗教の問題は、消滅の教えである。
この宇宙から、消滅することである。

仏陀は、転生を超えて、この世に生まれないことを救いという。
私は言う。
救いとは、この世と、あの世からの消滅を言う。

悟って仏になる、永遠の命を得る等々、まだまだ、救いには、遠い。

多次元にも、宇宙にも、存在しない、消滅を願うことが、救いである。

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2007年07月15日 10:56に投稿されたエントリーのページです。

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