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もののあわれについて64

人麿の反歌を含めた短歌を上げてみる

東の 野に炎の 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ
ひんがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

小竹の葉は み山もさやに 乱るとも われは妹思ふ 別れ来ぬれば 
ささのはは みやまもさやに みだるとも われはいもおもふ わかれきぬれば

去年見てし 秋の月夜は 渡れども 相見し妹は いや年さかる
こぞみてし あきのつきよは わたれども あいみしいもは いやとしさかる

鴨山の 岩根しまける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ
かもやまの いわねしまける われをかも しらにといもが まちつつあらむ

天離る 夷の長道 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ
あまざかる ひなのながみち こいくれば あかしのもんより やまとしまみゆ

物部の 八十氏川の 網代木に いさよふ波の 行方知らずも
もののふの やそうじがわの あじろぎに いさよふなみの ゆくへしらずも

淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ
あふみのうみ ゆうなみちどり ながなけば こころもしぬに いにしへおもほゆ

み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思へど 直に逢はぬかも
みくまのの うらのはまゆう ももえなす こころはおもへど ただにあはぬかも

あしひきの 山河の瀬の 響るなべに 弓月が岳に 雲立ち渡る
あしひきの やまかわのせの なるなべに ゆつきがたけに くもたちわたる

人麿は、宮廷歌人だと多く人は言う。
宮廷歌人と冠すると、天皇、皇族を持ち上げる歌を作ると、短絡的に考える人もいる。
宮廷歌人とは、後の世の人が言うこと。当時は、そんな意識は無い。

意識は無いと言えば、万葉の歌は、歌を作るという意識も無い。勿論、今言われる文学、ブンガクという意識も無い。
要するに、観念が無い。
ブンガクと言うと、漢語であり、ふみならう、というと、大和言葉になる。
万葉集を文学として、などの、勝手な観念解釈は、百害あって一里無し。
当時の歌は、口伝であり、伝承である。
耳からのもの。目からのものではない。

余計な観念を取り去って、虚心胆管にして、音で聴くことである。

自然に出来上がった、五と、七の音の音霊である。
今のように、短歌を作りましょうなどという、ハウツーものは無い。
自然に、湧き上がる言葉の、言霊のものだった。

死さえ、断絶ではなく、隠れると観た。
霧が立てば、愛する人のため息と観た。
雲が立てば、亡くなった人の心と観た。
花でさえ、一つ一つに名をつけることなく、花と、我と共にあった。共存していた。
学者は、原始なんとかかんとか感覚とか、何とか、色々と、定義を設けて解釈するが、素人の私には、どうでもいいことである。

人麿の歌は、意識の歌である。
初期万葉の歌は、技巧など、あるわけがない。しかし、人麿は、意識した。意識するということは、大変な能力である。
初期の歌からの変化がある。
歌を作るという意識である。
推敲する。
とんでもないことに、気づいたのである。

読み人知らずの歌は、多くの人に口伝され、伝承されて、人々によって、推敲された。無意識にである。しかし、人麿は、自意識により、推敲に気づいた。

推敲は、苦しみである。つまり、終わらない作業である。これでよしとすることがない。

感動を、心の動きを、そのままにしていた頃から、人麿は、一旦、心に留めて、それを租借し、改めて冷静な目で観る。そしてそれは、耳である。聴くという行為である。
考えるということは、聴くという行為だった。
意識的に沈黙を知ったのも、人麿であろう。
だから、歌の聖人と言われる由縁がある。
人麿は、壬申の乱を体験している。
歴史は、壬申の乱を境に、神と人との分離を教える。
古事記、日本書紀があり、漢語の文献も入っていた。それらに、目を通していた。
大君は神にし座せば、おおきみは、かみにしましませば、と歌う人麿は、大君も人間であると意識した。
それ以前は、大君は神であるから、意識することもない。しかし、人麿は、人間の時代が始まったことを知った、意識した。

人は、失ったものを意識して、言葉にする。
そして、それを反芻して、ようやく生き延びることが出来る。
意識するものは、もはや失われつつあるもの。万葉の中にも、時行く、影が宿る。

お解りであろうか。
観念を言葉にするという行為は、生きるために、かろうじて生きんがための行為である。
神も仏も、観念である。それを言葉にしなければ、生きられない程、人は弱い者である。

人麿は、それに気づいたのだ。
悲劇である。

インド哲学の、仏教哲学の、空観というものも、そうである。壮大な思想に見えるが、なんのことはない。その観念を持って、ようやく、ぜいぜいと生きることが出来る。それを、創作した、竜樹は、かろうじて、それで生きられたのである。

人間の前頭葉は、悲劇を生むのである。

知るという行為は、妄想である。
億万の書物を読んでも詮無いこと。
山川草木に、適う訳が無い。
一本の野花に、流れる雲に、立つ霧に、潮騒に、小川のせせらぎに、自然の在るものに、適う訳が無い。
そこに共感、共生した、先祖たちの思いを抱く、それが万葉の世界である。
それこそ、あるがまま。
何も、屁理屈の仏教思想など必要ない。

我、念仏するでは駄目だ。それでは、念仏の声のみして。いや、それも駄目だ。それでは、念仏か念仏する。ああ、悟ったという、そんな遊びを喜んでする程、大和言葉の世界は、アホではない。

いわばしる たるみのうえの さわらびの もえいずるはるに なりにけるかも

はるすぎて なつきらるらし しろたえの ころもほしたり あまのかぐやま

これで、十分である。
以下、省略。

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2007年07月01日 17:12に投稿されたエントリーのページです。

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