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自然葬

バリ島にて、自然葬を行うことにした。
ただ今、企画を立てている。

要するに、散骨である。
バリ島のバリヒンドゥーの形式で、僧侶にマントラを唱えていただき、そして、バリ島の風習にある、海に散骨するというものである。

実に、意義深い。

列島の民族は、先祖崇拝、先祖祀りを縄文期から、行ってきた。
何も、仏教によるものではない。
もとから、先祖崇拝は、あった。
ただし、死という観念が、今とは、全く違う。
もののあわれについてに書くので、参考に。

天皇家、豪族たちは、墓を作ったが、庶民は、ただ、死体を土に埋めた。
死体は、単なる抜け殻、物になった。
死者の霊は、山に帰ると信じられた。
そして、山から、子孫を見ていると。

年に一度は、山から下りて、子孫のところにやってくる。それが、仏教の、盂蘭盆会と重なった。
そのうちに、鎌倉時代を過ぎる辺りから、僧侶が葬式を始めるようになる。
実は、その前は、葬式という形式もなかった、庶民には。
村々が、野辺の送りをして、埋葬していた。

鎌倉時代の最後に、おびただしい死者が出た。
鎌倉に、その死者は、捨ておかれた。それを見かねた、一人の僧が、死体を集めて、読経を始めたのが、仏式の葬儀の始まりとなる。
死体処理のボランティアから、それは、始まった。

極端な話、鎌倉では、死体を道端に捨てる者が多く、幕府が、立て札を立てて、捨てるなと禁を発したほどである。
死体は、霊の抜けた、抜け殻という意識が強く、それでよかった。

さて、時代は、今日である。
この狭い日本の土地に、墓地開発である。
もうそろそろ、止めた方がよい。
そして、葬儀の様も、変わる。誰も信じていない仏教の、仏式で葬儀をする必要は無い。ただ、僧たちの、収入のために、行われる。
あの、何の意味もない、戒名料など、馬鹿馬鹿しいのである。

法号、院号などは、何の意味もない。
霊学からも、心霊の立場からも、霊界においても、何の意味がない。
いつまで、あんなものに惑わされているのかと、信じられない。

勿論、仏陀も、一言も、それを言わない。
後の仏教が、始めた形式である。

兎に角、日本仏教は、大嘘である。
全くの、出鱈目。
単なる、中国思想である。
鎌倉仏教の開祖を尊敬する者だが、彼らは、皆々、新興宗教である。
その元が、漢訳された仏典であるから、空いた口が塞がらない。

もっと、驚くのは、漢字の意味で、仏典を訳すことであるから、また呆れる。
彼らの言う、教学なるものは、すべて妄想である。
どう説明しようが、真言密教は、インドバラモンの呪術であり、天台は、中国の僧、天台チギの戯言である。浄土も、浄土真宗も、あの時代だけのもの。その他諸々。単なる思想である。
その前身の、大乗仏教の、竜樹の空観というものが、嘘であるから、どうしようもない。

ただし、皆々、文学としての価値は、相当なものである。

さて、バリ島での、自然葬である。
もうそろそろ、そういう葬儀、また、遺骨の扱いをしてもよい。
新しい時代である。

人が死ねば、肉体は、単なる物、抜け殻である。そして、遺骨は、同じく物である。自然に帰るものである。
海に流す。実にいい。
日本の伝統である、自然と共感、共生するという考え方の通りである。
自然に戻る。
真実であろう。

死んで墓に入るなどとは、戯言である。
また、本当に墓に入る霊は、次元移動せずに、墓に捕らわれ、そこに留まるのであり、とんでもない、誤りである。

進化という言葉は、霊体に言えるのである。
霊は、次元移動して、進化するのである。

バリヒンドゥーのマントラの音霊は、実によい。
ヒンドゥーというが、実は、あれは、バリ島の元からの信仰形態であり、インドヒンドゥーの神様の名前を仮に借用しているだけである。
元を辿れば、日本の神道と同じである。

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2007年07月05日 07:05に投稿されたエントリーのページです。

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