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イスラム16

愛するわが子、イサクを神の命じるままに、生贄にしようとした、アブラハムの絶対的帰依、それは、ムハンマドが言う、イスラムであり、最初のムスリムは、アブラハムであるということになる。

アブラハムの生涯は、神への依存一筋である。

「アブラハムはユダヤ教徒でもなかった。キリスト教徒でもなかった。
 彼は純正な帰依の人、全き帰依者(ムスリム)だった。偶像崇拝者のたぐいではなかった。
あらゆる人間の中で最もアブラハムに近い者は、直接彼に従った人たち、次にこの預言者。次いで信仰深いすべての人々。アッラーはすべての信者を護り給う」
この預言者とは、ムハンマドのことである。

永遠の宗教というテーマがムハンマドにはあった。
それは、歴史を通して一貫している。
次々に預言者が現れ、使徒も使わされた。その中で、イスラムとして、絶対帰依をした者は、アブラハムが最初であり、ムハンマドは、その直系であることを意識する。
ただ、アブラハムとの違いは、この永遠の宗教を支える預言者系列の最後であるという、強烈な意識だった。

全預言者の封印である。
彼の後には、預言者と呼ばれるものはない。彼より後に現れてイスラムの共同体を指導するものは、いずれもムハンマドの代理人である。
それを、カリフと後に呼んだ。

ムハンマドの前に現れた多くの預言者たちは、それぞれの時代が、その預言者の精神に支配される。
最も強い個性を発したのは、イエスキリストであろう。
次の預言者が現れるまで、その預言者の精神によって、色づけされた宗教の時代が続く。
イスラムの宗教的歴史観では、人類の歴史は、多くの預言者的周期の連続と考える。

それでは、アブラハムの周期の精神はというと、帰依、イスラムである。ここにきて、再び、ムハンマドの帰依、イスラムの時期に入るということになる。

ムハンマドは、最後の預言者であるから、歴史は、時間は、円環運動を止め、真っ直ぐな直線的に延びて、世界の終末に向かって進むのである。

アブラハムの信仰、今の言葉で言えば、アブラハム原理主義である。
つまり、ムハンマドからみれば、ユダヤ教もキリスト教も、永遠の宗教が歪曲し、堕落したものとなったということである。

このムハンマドの行為に、非常に似ている、日本の宗教家がいる。
日蓮である。
法華経に帰依するという、題目を発明し、南無妙法蓮華経と、法華経に絶対帰依する。
そして、他の仏教宗派を、ことごとく、否定した。
これも、一つの原理主義である。
膨大な経典の中から、仏陀最高のそして最後の教えであり、仏陀、仏教の本質があるという絶対帰依である。
日蓮は、天台から出た。その天台教学を母体にしての、独自の教学を展開した。
その行為は、非寛容であり、排他的である。
実に、一神教に似る。
宗派を否定するのであるから、他宗教を否定するのは、当然である。

しかし、キリスト教神学の妄想に比べると、仏教教学の妄想は、綻びが多い。
語り尽くすことをよしとする、ギリシャ哲学母体の言葉の隙間には、入り込む余地が無い。
あちらの哲学者は、その神学にいつも対決をせまられるのである。ミイラ取りが、ミイラになってしまった例は、多すぎる。

西洋哲学は、未だに、神観念と、やりあい七転八倒している。

絶対帰依を、イスラムというならば、日蓮もイスラムである。
それを実行する人を、ムスリムと呼ぶならば、日蓮も、ムスリムである。

いずれにせよ、宗教という妄想には、手がつけられない。

先にアブラハムを紹介したが、多くの予言が成就している。その訳は、聖書は、後で書かれたからである。これを、事後予言という。

イスラムは、指導者がいるが、信徒は、皆司祭でもある。その意味では、実に真っ当である。
職業宗教家がいるということは、衣食住に不自由しないということである。
それのみか、日本の僧たちは、財産まで持ち、その子孫に寺を譲り、益々繁盛させて、口からは、仏の道という言葉が出るから、仰天する。
仏の道は、商売の道であったかと、得心するのである。
仏陀のオリジナルを、このように商売に出来るという時代に、呆れて物も言えない。

庇を借りて、商売するのである。
仏陀、哀れ。

日本人は、中々、イスラムを理解出来ないというが、日蓮宗を学べばよい。
驚くべき、強情と、傲慢満載である。

私の尊敬する神道家がいるが、仏教の涅槃の境地は、神道の魂鎮め、と同じであるというが、私は、それを支持しない。

私の妄想は、古神道の、自然共感、共生で十分である。
稲の一本も植えず、魚の一匹も、捕ることをせず、瞑想によって、涅槃の境地に達したからといって、何もならない。
何ゆえに、この三次元に生まれたのかということである。
涅槃の境地に達するのは、死んでからで、十分である。

政治が宗教を容認するのは、カタルシスである。
人民、国民が、不平不満を、宗教という妄想で、昇華するのを、善しとするからである。

人は、その宗教への信仰によって、行為行動の規範を得るが、理性的な人間を完全に狂わせるのも、宗教であること、明々白日である。

このバランスを、仏陀も古神道も、中庸、御中として、尊んだ。
それを学ぶに、誰も否定は、出来ない。

もう少し、ムハンマドの時代のアラビアを見て、このエッセイを終えることにする。

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2007年07月20日 07:00に投稿されたエントリーのページです。

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