もののあわれについて72
笠女郎 大伴宿弥家持に贈れる歌
かさのいらつめ おおともすくねやかもちにおくれるうた
君に恋ひ いたも術なみ 奈良山の 小松が下に 立ち嘆くかも
きみにこい いたもすべなみ ならやまの こまつがしたに たちなげくかも
いたも、は、甚だしく、ひどく、という意味。
術は、方法という意味。
小松は、小さな松ではない。小は、接頭語で、松の愛称。
ただ、あなたが恋しくて、慕わしくて、どうしていいのやら、その術も無く、奈良山の松の下に佇んで嘆くばかりです。
大伴家持は、万葉集編纂の主である。
父は、大伴旅人である。叔母に大伴坂上郎女という、奔放な大歌人を持つ。
大伴氏の一族の棟梁として、歌壇の名門として、ハンサムな青年として、多くの女性の憧れの的であった。
大伴家持の頃になると、万葉も晩期に入る。
笠郎女の歌は、片恋、つまり、片思いの歌である。
そのまま、素直に歌う。
立ち嘆くかも、ここに、心の様が、凝縮する。
片恋は、立ち嘆くのである。
わが屋戸の 夕かげ草の 白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかも
わがやどの ゆうかげくさの しらつゆの けぬがにもとな おもほゆるかも
屋戸は、庭の前である。
夕かげ草は、夕暮れのほのかな薄明かりの中に見える草。
消ぬがにもとな、とは、消え入るばかりに、という意味。
私の家の庭先に、薄明かりに浮かぶ草に置く、白露のように、身も心も、消え入るばかりに、切なく思われてなりません。
恋心を、白露に譬えている。
好きだ、好きだ、愛してる、愛してるというのも、恋ではあるが、草露に託す恋心に、奥床しさと、風情を感じる。
恋は、誰をも、詩人にする。
恋がなければ、人生は、実におもしろくないのである。死ぬまでの暇つぶしに、これ程、心を騒がせる、恋、というものが、そういう欲望があってよかった。正に、欲望とは、生きるための恵みである。
恋に執着する。それを、どこかのアホが、捕らわれ、愛欲だの、迷いだのと、屁理屈を言うが、何のことはない。生きるとは、恋することなのである。
恋に集約される、人生を歌い上げたのが、万葉集である。
後に、恋を色と言う文化が出る。
色と恋との、掛詞と歌う。実に良い。
そして、性愛である。
これこそ、人間を人間たらしめる行為は無い。
動物の発情期は、一定であるが、人間の場合は、毎日ある。それが人間たるものである。それを全面肯定して、人生讃歌となる。
性愛を否定する宗教が、誤りであること、明々白日である。
勿論、盛り合うだけの人間もいる。サカルとは、性愛ではない。射精欲であり、高潮欲である。それも、人生の一時期あって、当然である。
二十代前半の男が言う。
俺も年を取ったと。
十代の頃は、マスターベーションを、日に十回も出来た。今では、三回が、ようやくと。
人生には、今しか出来ないことがある。
出来る時には、したいことを、すべきである。
勿論、世のルールに乗っ取ってである。
強姦などは、実に愚かしい。
女にモテなければ、色々な大人のオモチャで、性を楽しめばよい。
実に、優れたマスターベーショングッズがある。
その際、歌の一つでも、歌う教養を持てばよい。
しごきつつ しごきつつかな 年老いる それでもしごく 秋の夜の露
欲望讃歌の万葉集は、世界に唯一である。
ギリシアの欲望讃歌は、語り過ぎる。
インドの性愛も、楽しい。しかし、矢張り、密やかな、性の楽しみに欠ける。
兎に角、技巧を凝らした性技を競うようで、日本人には合わない。
結局、セックスの行き着く先は、射精と、高潮である。
そのために、精神である言葉の世界がある。
セックスの前に歌を交換する余裕が欲しい。