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2007年08月 アーカイブ

2007年08月01日

もののあわれについて72

笠女郎 大伴宿弥家持に贈れる歌
かさのいらつめ おおともすくねやかもちにおくれるうた

君に恋ひ いたも術なみ 奈良山の 小松が下に 立ち嘆くかも
きみにこい いたもすべなみ ならやまの こまつがしたに たちなげくかも

いたも、は、甚だしく、ひどく、という意味。
術は、方法という意味。
小松は、小さな松ではない。小は、接頭語で、松の愛称。

ただ、あなたが恋しくて、慕わしくて、どうしていいのやら、その術も無く、奈良山の松の下に佇んで嘆くばかりです。

大伴家持は、万葉集編纂の主である。
父は、大伴旅人である。叔母に大伴坂上郎女という、奔放な大歌人を持つ。
大伴氏の一族の棟梁として、歌壇の名門として、ハンサムな青年として、多くの女性の憧れの的であった。
大伴家持の頃になると、万葉も晩期に入る。

笠郎女の歌は、片恋、つまり、片思いの歌である。
そのまま、素直に歌う。
立ち嘆くかも、ここに、心の様が、凝縮する。
片恋は、立ち嘆くのである。

わが屋戸の 夕かげ草の 白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかも
わがやどの ゆうかげくさの しらつゆの けぬがにもとな おもほゆるかも

屋戸は、庭の前である。
夕かげ草は、夕暮れのほのかな薄明かりの中に見える草。
消ぬがにもとな、とは、消え入るばかりに、という意味。

私の家の庭先に、薄明かりに浮かぶ草に置く、白露のように、身も心も、消え入るばかりに、切なく思われてなりません。
恋心を、白露に譬えている。

好きだ、好きだ、愛してる、愛してるというのも、恋ではあるが、草露に託す恋心に、奥床しさと、風情を感じる。
恋は、誰をも、詩人にする。

恋がなければ、人生は、実におもしろくないのである。死ぬまでの暇つぶしに、これ程、心を騒がせる、恋、というものが、そういう欲望があってよかった。正に、欲望とは、生きるための恵みである。
恋に執着する。それを、どこかのアホが、捕らわれ、愛欲だの、迷いだのと、屁理屈を言うが、何のことはない。生きるとは、恋することなのである。
恋に集約される、人生を歌い上げたのが、万葉集である。

後に、恋を色と言う文化が出る。
色と恋との、掛詞と歌う。実に良い。
そして、性愛である。
これこそ、人間を人間たらしめる行為は無い。
動物の発情期は、一定であるが、人間の場合は、毎日ある。それが人間たるものである。それを全面肯定して、人生讃歌となる。

性愛を否定する宗教が、誤りであること、明々白日である。
勿論、盛り合うだけの人間もいる。サカルとは、性愛ではない。射精欲であり、高潮欲である。それも、人生の一時期あって、当然である。

二十代前半の男が言う。
俺も年を取ったと。
十代の頃は、マスターベーションを、日に十回も出来た。今では、三回が、ようやくと。
人生には、今しか出来ないことがある。
出来る時には、したいことを、すべきである。
勿論、世のルールに乗っ取ってである。
強姦などは、実に愚かしい。
女にモテなければ、色々な大人のオモチャで、性を楽しめばよい。
実に、優れたマスターベーショングッズがある。

その際、歌の一つでも、歌う教養を持てばよい。
しごきつつ しごきつつかな 年老いる それでもしごく 秋の夜の露

欲望讃歌の万葉集は、世界に唯一である。
ギリシアの欲望讃歌は、語り過ぎる。
インドの性愛も、楽しい。しかし、矢張り、密やかな、性の楽しみに欠ける。
兎に角、技巧を凝らした性技を競うようで、日本人には合わない。

結局、セックスの行き着く先は、射精と、高潮である。
そのために、精神である言葉の世界がある。

セックスの前に歌を交換する余裕が欲しい。

もののあわれについて73

笠女郎の歌を続ける。
大伴家持にあてた歌である。

わが命の 全けむかぎり 忘れめや いや日にけにや 思ひ増すとも
わがめいの またけむかぎり わすれめや いやひにけにや おもいますとも

全けむかぎり、とは、命の続く限り。
忘れめや、とは、忘れはしない。
いや日にけにや、とは、日増しに、日を重ねれば重ねるほどに。

この命の続く限り、忘れません、あなたのことを。日を増すごとに、益々と、思いが募ります。

恋心の直球である。

バレンタインデーという日が、カレンダーに載るほどになった。
バレンタインとは、カトリックの殉教者、聖人である。女性で、乳を切り取られて死んだ。その祝日には、感謝の思いで、プレゼントを贈る日である。
それが、デパートの商戦で、女が告白する日などと、アホなことを喧伝した。今では、チョコレートばかりではなく、とんだ、祝日になってしまった。
義理チョコなどという言葉も出来て、あーあー、である。

何にもないけれど、歌を贈る。
あっ、そうか。今なら、メールがある。
メールによって、短文に思いを込めるようになったという意見もある。
特別、五七五七七に、拘わることはない。
山頭火の場合もあるし、どんな形でもいい。
言葉の力は凄いのである。

君の肌の
奥にある
その硬さに触れたい
僕の心が
そこにある

これは、ゲイを想定して作歌した。
どうであろう。
こんな、どうでもいいものを、一万程書けば、本当になってゆく。それが、芸術の力である。

夕されば もの思ひまさる 見し人の 言問ふすがた 面影にして
ゆうされば ものもいまさる みしひとの こととうすがた おもかげにして

見し人の、とは、逢い見た人、ここでは、家持のこと。
言問ふすがた、とは、ものを言う姿。
面影にして、とは、ありありと、瞼に浮かんで。

夕暮れ、一層思いが募り、お逢いした時の、物言う姿が、まざまざと瞼に浮かびます。そして、更に思いが募ります。

面影にして、とは、見事な結句である。
ここまで惚れられるということは、凄いことであるが、恋をすれば、皆々、この心境になるのである。
今の若者は、どうなのかは知らない。
即、セックスに結びつくのであるから、情緒も、へったくれもない。
飽きれば、恋は終わりである。
成就に時間がかからないから、終わるのも、早い。これ、道理である。

この時代は、名を名乗ることが、相手に許すという合図だった。
名を言うことは、相手を言うこと、つまり、相手が目の前にいるのと同じである。これは、言霊である。

聖書のイエスは、私は言う、と言う。
言うことを言うという。
これ、言霊である。
言うことは成るのである。

キリスト生存時代の二千年前の日本は、部族国家発生の弥生時代である。
稲作から、弥生という説は、誤りで、縄文後期、少なくても、弥生時代に入る500年ほど前から、稲作が始まっていた。

そして、弥生の晩期、卑弥呼が邪馬台国女王となる。
すでに西暦189年頃という。
しかし、57年、すでに、倭双国王が、後漢に使者を派遣し、光武帝の印綬を受けている。
それ以前、倭国は、百以上の部族国家が発生していた。

神武東征は、縄文の後期、稲作を伝えての東征である。
神武天皇は、大和へ向かった。
ダイワと読むと、漢語である。ヤマトと、読むと、大和言葉である。
大和を、大、和にあてたのには、訳がある。
おおいなる、やわらぎ、である。
大和心とは、おおいなる、やわらぎの、こころ、である。
それを、更に総称して、大和魂という言葉を生み出した。

書かれなかったことに、真実がある。

当たり前、当然、であるということは、書かれなかった。
書かれたものは、記録する必要があったのである。
書かれなかったものを、観る目を、心と言い、魂と、言う。
それを、精神という言葉の世界で表す行為を、伝統という。

伝統は、デントウと読むと、漢語である。つたえ、すべる、と読めば、大和言葉である。
伝えて、統べるとは、政治である。政治を、大和言葉で、祭り、奉り、祀り、そして、政、まつりごと、という。

政治学という学問があるならば、日本の政治学を正す必要がある。
欧米の政治学では、理解出来ないのである。

日本は、統べる者を、帝、みかど、と呼ぶ。テイではない。
御、火、土、である。
天皇という言葉は、中国思想の、北斗七星を言う、天帝という語源がある。
すめらみかど、が本当である。
それを、天皇に当てた。

統べる帝である。
実は、統帝で、すめらみこと、でよい。

私は平民である。
天皇は、天皇である。
そのようにして、生まれてきた。私の意志である。
身分というものがある。
平等主義の仏陀も、王という身分を認めている。何故か。
それは、人には、役目があるからだ。その役目を通して、平等、つまり、仏に成ることを言う。
仏とは、平等の別名である。

これ以上になると、皆々が、混乱するので、省略する。

2007年08月02日

京都駅を見る

コンサート開催で、京都に行った。
一泊の予定である。

20年前は、年に一回は、札幌から京都に出掛けていた。お茶や、お花のお弟子さんたちを連れてである。
家元を訪ねるのではない、京都を見るためである。
ただし、行くたびに、京都を嫌いになった。

さて、今回、新しい京都駅を見た。
素晴らしい近代的な建物である。
これが建つ時に、相当、京都市民が揉めたのである。京都の景観を、云々ということだった。

誤解されることを恐れず言えば、京都の景観など、どうでもいい。
景観を残しても、心と精神を残さなければ、何にもならない。

寺と家元たちのために、京都があるのではない。それらは、一網打尽に焼き尽くしてもいい。
京都の価値は、そんなものではない。

古都、鎌倉に三年住んだが、古都とは、何事かと、いつも思っていた。
鎌倉は、古都でもなんでもない、ただの、田舎町である。
寺が多ければいいというものではない。役立たずの寺が、千件あっても、詮無いことである。総本山という寺もあるから、驚いた。
円覚寺や、建長寺も、何度も訪ねたが、別段特別なものはなかった。
あるのは、寺の欲望である。
ただ、それだけ。すでに、お役目を果たし終わった、跡である。
以下、省略。

さて、京都の新しい駅は、古都に相応しい。近代的であること、それが、いい。
これを、あたかも、古都であるという駅にしたら、もう、京都は終わりである。世界の人が訪れる。京都は、今も、都であるということを、新しい駅が伝える。

市民が、寺が、華麗なるペテン師の家元たちが、残したいと言う景観があるならば、地区を作り、そこだけ、幽霊の出るような場所にしておけばよい。
黙っていても、幽霊の出るような場所、多々あり。また、掘り起こせば、人骨など、出てくるだろう。

ギリシャ、ローマ等々、世界の遺跡のようなものが無くてもいい。
日本人は、そんな伝統を持たなかった。

後は野となれ、山となれ
である。

後世に残すものは、その心であり、精神だった。
日本の建物は、朽ちるからよかったのである。

大きいだけの奈良の大仏など、目障りである。すでに、用済みである。

建物の跡は、野原になり、山になって、善し。

日本の最古の都の駅が、時代の先端を行くものであることこそ、世界の人に驚きを与える。
金持ちの貧乏人遊びに、付き合う必要は無い。

それに、少し歩けば、京都の町は、普通の町並みである。
繁華街なども、狭い。
四条辺りのホテルに泊まったが、普通の町である。
それでいい。
周辺を歩いていると、寺がある。そのうち、寺、寺、寺である。

あれだけの寺が食えているのであるから、まだ、仏教という宗教は、金になるのだろう。
檀家制度が支えている。
奈良は、檀家制度が無いゆえに、貧乏な寺は、没落の一途を辿る。しかし、物好きな人もいて、布施をするから、少しは、やっていかれる。

翌朝、京都駅のビルで、一時間ほど、お茶を飲んで、見渡していた。
かび臭い、多くの建物を巡った観光客、国内外の人を含めて、駅ビルに来て、ほっとするだろう。
すると、何でもなかった、寺などを回っても、何か、あったような気分になる。
駅ビルに来て、また、自分に立ち戻るのである。それに相応しい建物である。

ここには、日本が在る町という、妄想に似た印象を持って京都を去る。
もう一度、来たいと思う。
それで、いい。
脱日常が旅であるから、京都は、それを提供すべき町だ。

実は、旅は疲れる。
いつも通りでないからだ。新鮮さは、ストレスである。そのストレスが、よい刺激を与えるのが旅である。
古い町、京都は、安らぎを与えるようだが、実は、非常に強いストレスも与える。それが、感動と、ごちゃまぜになるのである。

そんな後で、最後に駅ビルに着くと、しっかりと、時代に戻って、シャキとする。
そんな建物である。

ストレスは、別な形のストレスによって、癒される。これが、ストレス解消の技である。

上野駅も、東京駅も、そうだが、こちらは、逆に田舎臭くしてもよい。
まあ、私には、関係の無いことなので、どうでもいいが・・・
上野駅が新しくなった時に、感傷的な言葉も聞いたが、一時的なもの。新しくなることは、時代の、時間の経た、感慨を抱かせる。それの方が、精神衛生によい。

子供が、いつまでも、子供だったら、化け物である。
少年になり、青年になり、そして翁になるから、いい。

ちなみに、古いものを残すということが、何か、良いことだと思う人がいる。古いものは、捨てるべきである。
世界遺産になるようなものを、日本人は作らなかった。それが、伝統的考え方だった。
木の建物は、いずれ自然に帰るから良い。

後は野となれ、山となれ
これが、日本の伝統である。

2007年08月03日

人質

誤解を恐れずに書く。

タリバンに人質にされた、韓国の23名である。
あまりにも愚かである。

神の守護があれば、あんなことにはならなかった。
神の加護が無いからである。
だから、信じる者は、騙される。

殺されても、文句は言えない。

イスラム過激派は、異教徒は、殺してもよいことになっている。

ボランティアというが、実は、キリスト教の布教である。
だから、キリスト教のボランティアというものも嘘なのである。

スペインは、アメリカ大陸で、キリスト教、カトリックの布教で、一億人を殺した。
勿論、野蛮な土地に文化と、正しい信仰を伝えるためである。

韓国人質のキリスト教徒も、そうであろう。
それが、逆に殺されることになる。
あまりに、愚かである。

イスラムを知らないこともそうだが、あの観光並みの佇まいである。
愚かを通り越して、アホであろう。

キリスト教布教のパンフレットが発見されて、よっしゃ、殺すと、殺されたのである。
原理主義は、異教徒を殺せと命令する。

今回、アメリカをはじめとして、世界が、沈黙していた。
何故か。
行くものが悪いとの、判断である。

タリバンも、韓国キリスト教徒も、馬の耳に念仏である。

よくよく、言っておく。
世界は、神の支配にないのである。
世界は、人間が支配している。
エホバの証人は、悪魔の支配と言うが、それも、終わっている。

神も悪魔も、人間の前には、無力である。
人間ほど、この世で力の強いものは無い。

勘違いも、甚だしい。

アフガン政府は、突入しか方法が無い。
これを、きっかけに、内戦になることもある。
その、最初を作った、韓国キリスト教徒の罪は重い。
その、死でも、補えないのである。
また、アフガンの市民が、巻き添えにあう。
悲劇である。

知らないことは、罪であるという、仏陀の言葉、その通りである。
知らなければ、知るための努力をすべきである。

しかし、知らないことを、知らないという、悲劇もある。
今回が、そうである。

人の命は、重いが、また、人の命は、羽よりも、軽いのである。
それの、どちらを選ぶのは、知ること、以外にない。

相撲から・・・

朝青龍は、相撲界追放でよい。
処分の問題以前である。

処分とは、痛みを伴うものである。
彼にとっては、痛くも痒くもない。

痛みとは、生活がかかるということである。
彼は、もう死ぬまで働かなくてもいいだけ、稼いだ。
それも日本の国技で、である。

日本の国技に参加しているという、礼節も無く、無礼極まりない行為を繰り返して、よくぞ、皆々、黙っていたものである。
彼の相撲に、日本の精神の欠片も無いこと、重々見ていた。

あの、人相である。
小ずるい、傲慢な、自己過信の人相である。

強い相撲だろうか。
あれを、強いと言うのだろうか。
私には、下品にしか見えない。

横綱大関には、品格があるものである。

ハメを外すというなら解るが、あれは、彼の本性である。

国技を舐め切っている。

それにしても、外国人を国技に参加させるなら、まず、日本の礼節を教えて、それが駄目ならば、入れないことである。
相撲ファンは、多い。それは、相撲を通して、良き日本の伝統を観るからである。
のこった、という前の、あの所作にある、礼節は、外国人では、理解できないであろう。

相撲協会も落ちたものである。

私は、相撲を見ない。
サヨウナラ、相撲である。
ちなみに言うが、あれって、不健康極まりない。
糖尿病予備軍である。霜降り肉を思い出させる、体躯である。

食べて、確認することは出来ないが、柔らかいーーーと言われる肉付き。
自分で、尻も拭けないような肥え方である。

品格がなければ、見られたものではない。

まあ、一般にスポーツというものは、不健康極まりないものである。
人の作ったルールに体を合わせるというのは、実に、ご苦労である。
スポーツ精神が、健全だと言うのは、まやかしである。

あの体で、健全になれる訳が無い。
どこか、体が、ボロボロになっているのである。
おもしろうて、やがて悲しきスポーツである。

朝青龍は、どこも何とも無い。
ただ、精神が、イカレているのである。

早く、国に返した方が、慈悲深い。

追伸
モンゴル政府が相撲協会に、詫び状を送ったというから、驚く。
その訳は、あの相撲取りの家族、親類が、国営企業を買い取り、国が豊かになっているからである。
それほど、横綱になると、金になる。
勿論、金になっていい。
公金要領の公務員とは違う。
努力と、精進の賜物であろう。

モンゴルは、社会主義の国である。
支配者層と、人民層に分けられる。
あの相撲取りは、支配者層に入ったのである。日本の金で。

余計なことであるが、中国も、日本の金で、今は、日本を凌駕するほどの勢いで、経済成長を遂げている。
勿論、それの恩恵は、支配者層が得ている。
支配者層とは、金を得ることが出来る者である。つまり、世界は、主義を超えて、金になったのである。
インドも日本に支援により、今は高い経済成長である。
しかし、インドも、貧しい人が多い。
日本のボランティアが、そのインドの貧しい人のために、焼け石に水のようなことを、やっている。

経済大国日本では、生活保護の打ち切りで、死んでいる人もいる。
もう一つ、おまけに、食事も抜いて、学業に打ち込んでいる、若者もいることを、知っているか。
あしなが育英会という団体がある。
親を失い、皆の支援によって、学校に行き、生活している若者たちがいる。
貧しいから、食事を抜く。
この今の日本でと、驚くだろうが、いるのである。

実は、私は、密かに彼らに期待している。
彼らのような、苦難、苦労の若者が、いずれ、政治家になり、日本を立て直して欲しいと願っている。
無いということ知る彼らは、無いということの、価値を知る者だからである。

見よ、溢れるほどに、物に恵まれている者の、傲慢と、その怠慢な姿勢を。
無いという価値を知らないゆえに、もう何度も、生まれ変わりしなければならない。それも、無益な生まれ変わりである。

飛躍のし過ぎである。
オシマイ。

2007年08月04日

ボランティアについて2

端的に言う。
ボランティアとは、共生の思想である。
それ以外に無い。

水が上から流れるように、下に行くようなものが、ボランティアではない。
つまり、助けが必要な人を、出来る範囲で、援助する。そして、こちらも、援助されるということである。

ボランティアに、携わっている人が、させていただける、という言い方をするが、非常に宗教的であり、うそ臭いのである。
確かに、それをするに当たっての対象があるということにより、その行為が遂行出来るが、させていただくという、特別な意識を持つこと自体に、問題がある。
させていただくという、私の立場が、矢張り、上なのである。

日本には、お陰様でという言葉がある。
ボランティア行為は、互いに、お陰様で、いい。

天災が発生し、被害が大きいと、即座に、募金を募る。
あれほど、危険なことはない。
実に簡単な行為であり、それで、気持ちが満足するだけであれば、意味が無い。

また、被害がある人が、ハイ、と言って、その募金を受け取るものだろうか。
赤十字、NHK、新聞社等が、募金をつるのが、私は、不安である。

善意をすぐに金にして、解決するのは、安易である。

それより、その場の必要な物を、差し出す方が、真っ当だ。
つまり、現場に駆けつけて、ボランティア活動する人が、真っ当だ。

さて、世界には、多く、支援や、資金が必要な場が多々ある。
しかし、よく考えると、様々な国の、様々な、規約等があり、何事もスムーズにいかない。
日本が支援している国でも、その金が、何に使われているのか、解らない国も多い。
国境を越えるボランティア活動は、実に難しい。

信頼性が高い、組織でも、お金を寄付するのは、注意が必要だ。
募金箱に入ったお金の流れが、全く解らないのである。
下手をすると、宗教団体の資金にされる場合もある。

普段の生活で、ボランティアなどの活動が出来ない人は、多い。だから、安易に募金をするというのは、もっと悪い。
普段の生活の中で、共生の生き方が出来ない人は、ボランティアという行為も、単なる付け焼刃であるし、一過性のものである。

日本には、相手を先に、する、という、美しい行為がある。譲り合いである。
これも、立派なボランティア行為である。

言葉のボランティアも、勿論ある。
挨拶である。
兎に角、ありがとう、が大切である。

ボランティアの語源は、意味意識というように、生きる意味意識である。
それは、人間だけが、相手ではない。
山川草木に至るまでが、対象である。

そうなると、ボランティアという行為は、単なる福祉、奉仕活動に限定されるものではないということが言える。

様々な形と、方法で、ボランティア行為をするのである。
つまり、それは、生きるということと同じである。

海外で、ボランティア活動をする人も多いが、それが、その国、地域の相互扶助を破壊する場合も多々ある。
善なることだから、良いのではない。

貧しい人の多い、インドの地での活動が、単なる焼け石に水ということもある。
あの、マザーテレサという偉人でさえ、インドの根本的な態度を変えられなかったのである。貧しい人が多いが、超金持ちもいる。その格差は、甚だしい。そんな国で、福祉活動とは、とんでもない酔狂になることもある。

バリ島では、バリ島以外の島から来た、売春をする女性が産んだ子供を育てる施設が、三つある。
その一つに、日本のNPOがある。
日本からの、滞在ボランティアを募集している。
一週間の滞在で、65000円ほど、かかる。安いツアーでは、その値段で、ホテル、航空運賃込みである。
それを、滞在するだけで、支払うとすると、この団体が、利益追求であることが解る。勿論、それは、私が裁くものではない。
ただ、事実を言う。
そして、寄付も募るのである。

更に、バリ島の伝統的生き方を教えるかといえば、そうではない。バリ島の伝統を知らずに、やっている。
バリ島には、相互扶助の考え方が生きていて、孤児は、村人が育てる。

タイの地方は、貧しいが、子供が餓死することはない。
それは、お寺があるからだ。
男の子は、出家をすれば、食べていかれる。また、お寺に行けば、布施の食べ物があり、最低限、食べることが、出来る。これも、相互扶助である。
ストリートチルドレンは、タイには、いない。おおよそである。
仏教国の良さが生かされている。

それから、誤解を恐れずに言えば、子供の命を救うと称しての、募金活動をするが、生かして、その後は、どうするのかという場合が多々ある。
戦争によらずの自然淘汰は、当然ある。
子供が育たない環境は、大人も、生きるに、壮絶である。

育った子供に銃を持たせるような環境で、いいのか。
単なる、安易な考えで、生かすということのみを考えるのは、おかしい。

国連と、銘打つと、信用する人が多いが、実に、危険である。
国連、ユニセフなどというと、信用する。
あの組織の金の流れを誰も知らない。全く、見えないのである。
そして、彼らが発表するものを、信じられない。

ユニセフ大使などといわれる人は、痛くも痒くもない生活をしている。
単なる名誉で終わる。
自費で、あのような行動が取れるか。否である。

差別

今回の選挙で、レズビアンをカムアウトした、元大阪府議の、尾辻かな子さんに、一票をというメールを頂いた。
私の尊敬する作家の方である。

民主党に勝たせたら、国会運営が滞ると思ったが、比例区では、尾辻さんに、入れた。
票が足りなくて、議員にはならなかった。

本当は、比例区は、自民党と書きたかった。しかし、今、尾辻さんに入れなければという思い強く、である。

差別。

同性愛者を差別するのは、簡単である。
少数だからである。

少数は、いつも、差別される。

同性愛、ゲイ、オカマ、ホモ等々、無知と、厚顔によるものである。

何せ、ゲイセックスを、釜を掘ると信じている人が、男が、大勢いる。
アナルセックスも知らずに、そういう偏見を持つ。
ゲイが、ホモが、皆、アナルセックスをしていると思い込む。
実に、馬鹿馬鹿しい。

私に言わせれば、子供殺しをする、女好きな男が、差別されず、ある意味で、尊敬を受けるということに、驚愕するのである。
堕胎である。
多数であるからだ。

さて、私は言う。

一時期、セックスに関するエッセイをある雑誌に書くために、取材をした。
何と、ゲイでも、ホモでもない男が、アナル舐め、アナルに、物を入れるセックスを楽しんでいるではないか。
それは、ゲイセックス以上に、驚いた。
快楽を追求すると、そういうことになる。
実に、アナルの快感を知らない男は、大ばか者と言える。

ただ、ゲイ、ホモではないということである。

さて、差別について言う。

いつの時代も、差別はあり、歴史は、差別に彩られている。

民族、宗教の差別は、甚だしい。
非寛容で、排他的。
その中でも、差別がある。

差別は、二人いると、はじまるのである。
人間の性という。
性を、サガと読む。

ムハンマドは、女好きなゆえに、イスラムは、ゲイを差別し、死刑にする。
イエスキリストは、独身主義ゆえに、既婚者を差別する。
仏陀は、虚弱体質ゆえに、勢力旺盛な者を差別する。

よって、教義が出来上がる。

ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、あらゆる宗教がセックスを罪の意識に仕立て上げて、信徒を支配する。

それは、差別の別名といえる。
宗教である。
この世の最も、最低最悪なもの、それは、宗教である。

いつから、変質したのか。
司祭、僧、等々は、売春夫だった時代の方が長いのである。
そう、アナルセックスで、ある。

さて言う。

この世は、差別の地獄である。
男は女を、差別する。
それは、男が女を知らないからだ。
そして、女も男を知らない。
ゆえに、差別というものは、無くならない。

しかし、政治の場面で、誰かが、少数の意見を言う。それが、進化である。文化の進化という。

差別を無くすなどということは、在り得ない。
だから、差別される側の代弁者が必要である。

ゆえに、私は、レズビアンをカムアウトした、尾辻さんに、投票した。

そして、実は、差別する者は、差別される者でもあるということを言う。
人間とは、実に、愚かなものである。

たかが、摩擦の快感のセックスの形態に、差別も何も、あるものではない。

たかが、民族の違いに、差別も何もあるものではない。

皆々、出たことろは、同じである。

人間は、皆々、女の股から出た者である。

ホントウ、生まれてきて、良かっただろうに。
ほとんど、殺されていたはずの者である。

赤子は、簡単に殺せるのである。

差別を無くすということは、不可能である。
ゆえに、少数を代弁する、公の人が必要である。
それが、時代の進歩というものである。

ちなみに言う。
自分の中でも、差別意識があり、自分を差別するのである。
それの最も端的な感情は、嫉妬である。
他者に嫉妬するが、潜在意識は、実に素直であるから、嫉妬という感情を芽生えさせて、それを、自分向けること多々ある。

幸福感というものに、浸れない人は、たいがいが、そうである。
自分の中で、自分を嫉妬し、差別するのである。
自己矛盾ということになる。
それで、幸福感の得られない人の多いことといったら、ない。

自分を嫉妬するなんて、と、考えられない人は、考えない方がよい。

いずれ、書くことにする。

2007年08月05日

キリストの絶唱29

一人の人が、イエスに
「よい先生、永遠の生命をうけるために、私はどうしたらいいのでしょうか」とたずねた。
イエスは、かれをじっとみつめ、いつくしんで「あなたには一つだけ足りない。帰ってあなたのものものをみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば、あなたは天に宝をつむだろう。それからわたしについてくるように」
その人は、そのことばをきいて心配し、悲しそうに去って行った。かれは、大金持ちだったからである。

そして。イエスは言う。
「金持ちが神の国にはいるのは、なんとむずかしいことだろう。」
弟子たちは、それを聞いて驚く。
イエスは言う。
「子供たちよ、神の国にはいるのは、実にむずかしいことだ。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」
弟子たちは、更に驚いた。
「すると、救われるのは、どんな人ですか」
イエスは言う。
「神にはおできにならないことはない」

当時、金持ちとは、神の祝福のゆえに、富を得ると考えていたから、弟子たちが驚いたのである。

その時、ペトロが、イエスに「ごらんのとおり、私たちは、すべてをすてて、あなたに従いました」といいだした。イエスは「実に私は言う。私のため、福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や田畑をすてる人は、今から、いや今、家、兄弟、姉妹、母、子、田畑の百倍をうけ、迫害もあろうけれど、またのちの世では、永遠の命をうける。しかし、先の人があとに、あとの人が先になることがある。」とおおせられた。

聖書解釈では、お金の使い方である等々と、述べるが、違う。
イエスの言葉、そのものズバリである。
金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより、難しい。

所有しない者には、所有する者の気持ちは、解らない。
世界の金持ちは、子々孫々に至るまで、暮らせるようにと、金持ちである。金が金を生む。金持ちは、滅びることがない。

ここて゛、別の宗教の教祖を上げる。
天理教を開いた、中山みき、である。
施しで、家を潰した。徹底して、人を助けるという信仰である。
その神のレベルは、置いておく。
兎に角、中山みきは、身上潰すほどの施しで、一派を立てた。勿論、現在の天理教は、その逆である。信徒から、奪うことを良しとする。
信徒の家屋敷まで奪う。どうして、そうなったのか。それは、奉る神の正体である。
人を助けて、自分が助かるという、屁理屈を言う。
人を助けて、自分が沈没するとは、言わない。
大半が沈没する。

連帯保証人になって、皆、首吊りしている。

さて、捨てろというイエスの真意は何か。
それは、価値の転換である。
すべてを捨てて、私に着いて来なさいと言う。

昔の日本の女は、すべてを捨てて、男に着いて行った。その男の男振りにである。それ程、男に魅力があった。今は、どうか。
身長から、年収、その他諸々、最後に、チン長まで調べるようである。

ユダヤ教からの、価値の転換である。
富は、神の祝福を受けたと考える、また、教えた、ユダヤ教に対決するのである。

ある時、こずるい、ファリザイ人が、イエスにたずねる。
お金は、誰のものかと。
イエスは、そのコインの肖像は誰かと問う。
チェザルだと言う。すると、イエスは、チェザルのものはチェザルに、神のものは、神に返せと言う。

一世紀と、今の二十一世紀に大差はない。
地獄の沙汰も金次第という、ことわざがある。
都会では、黙っていても、金がかかる。
一に金、二に金、三に金、四、五がなくても、六に金である。

このイエスの言葉の問題は、解決していない。
ローマカトリックは、世界有数の金持ちである。
天の国には、入ることが出来ないのである。
あらっ、どうしょうと、思わないで、堂々と、ローマカトリック、福音宣教とやっているところは、甚だしく、厚顔無恥である。

ある、新興宗教の教祖は、幹部に言う。
30人、信者を作れ。そうすれば、生活が出来ると。
一人30人の信徒をもって、皆、生活をしているのが、宗教家である。それ以上になると、貯蓄である。

寺を見よ。
表面も、金を使う。本尊も金である。皆々、金まみれである。
どこに、仏陀の教えがあるのか。
驚くことは、僧侶も、金ぴかである。
袈裟から、帽子まで、金ぴかである。
口を開けば、先祖供養を言う。そして、金を集める。
商売でなくて何か。
イスエは、言う。
地獄に落ちろ、と。

宗教団体の信徒は、大半がアホだから、選挙の票になる。故に、政治家は、法律で、宗教を、特別視して上げる。宗教法人というから、笑う。
税金のかからない、商売法人と言えば、もっと、支持を集めるだろう。

私も、昔、知り合いの不動産業者から、「先生、ここだけの話、宗教法人付きの寺買わないかい」と誘われたことがある。
一度や二度ではない。
要するに、幽霊寺になってしまって、誰も手がつけられなくなったのである。
そのもの、ズバリ、幽霊が出る寺である。

住職の奥さんが相談に来て、寺に幽霊が出る、何とかして欲しいと言われたこともある。
こういうのを、空いた口が、塞がらないという。

キリスト教系の国の大金持ちになった人は、必ず、ボランティア活動、福祉活動、そして、公の奉仕をする。それは、このイエスの言葉が潜在的にあるからだ。

しかし、代々の金持ちは、そんなことをしない。
血の中に、所有欲の塊が入っている。容易なことでは、取り出せない。

しかし、貧乏人の中にも、その塊がある。
同じものである。
所有欲の塊である。

仏陀の弟子である、目連が、神通力を得た。そして、仏陀に言う。亡き母の姿を見たいと。三度、駄目だと言われる。しかし、四度目に、仏陀は、許す。
目連は、母が地獄で牛になり、引かれて苦しんでいる姿を見て、悲しみ、仏陀に言う。
「だから、見るなといったろう、馬鹿が。お前の母親は、施すということを一切しなかった。だから、地獄で、その心根を、叩き潰されている。しかし、アホならなー、それでも、解らないだろうなー」と、言ったかどうかは、解らないが、目連は、仏陀に、母のために、何か出来ないとたずねる。
仏陀は、そこで、「それなら、本当は、自業自得なんだけど、応援するというのは、どうか。地獄のおかあさんに、頑張れと言うのは」と言ったかどうか、知らないが、それから、盂蘭盆会が始まった。
先祖励まし大会である。
それが、日本に来て、日本の御親祭りに、便乗して、お盆を作り、寺が主導権を握った。汚い奴らである。
元々、日本にあった、先祖祭りである。

ちなみに、供養という言葉の意味は、尊敬すべき聖者をみなば、彼の人に供養せよ、である。つまり、生きている人、尊敬する人に、差し上げるものである。

正しい仏教の言い方にすると、回向という。また、慰霊という。
ちなみに、神道では、一切しない。
御親、みおや、奉りである。

死んでからも、世話をかけるな、アホと、私は言う。

もう一つの極めつけ、先祖供養というブッキョウの皆々、どこからが、先祖でしょうか。
あの、アフリカ東南部からの、先祖でしょうか。
それとも、30代まえくらいからのでしょうか。それでも、一億人になります。

先祖に祟られるならば、先祖を捨てればよい。
先祖と縁を切ればよい。

さて、イエスの言葉である。
捨てた後で、百倍になるという。
それが、嘘である。
聖書を書いたマルコの誤り。

百倍になるとか、ならないとかの話ではない。
そんな問題ではない。

報いを受けるということを前提にする、宗教のお話は、すべて、嘘、大嘘である。

そんな問題ではない。
それを語るに、もう、私のエネルギーがないので、以下、省略する。

キリストの絶唱30

新約聖書の記述に、奇跡がなければ、無に等しい。
聖書になる意味が無い。

イエスの奇跡は、無かったと簡単に言う者たちがいる。聖書学者と言われる者にも、そういう者もいる。

それでは、聖書の価値は無い。

イエスキリストの神は、奇跡の神である。

そして、教祖の多くは、奇跡を行った。
奇跡は、何も不思議なことではない。

今、現在も奇跡を行う者は、多い。
私も、数名知っている。

奇跡が無いという者には、奇跡は、起こらないだろう。必要ないからだ。

一時期、普通のサラリーマンが、手のひらで病を癒す力を得た。
映画にもなった。

奇跡とは、今、現在の時点では、ありえ得ないことを言う。
キリスト教布教に、最新の物を持って当たった宣教師は、神と思われた。要するに、考えに及ばないことが、起こると、人は奇跡と言う。しかし、それを得た人に取っては、当たり前のことである。

イエスの奇跡は、当然あった。
ただし、重大なことは、その力が、どこからのものかということだ。
彼のサラリーマンが得た力は、どこからのものだったのか。偶然に与えられたと、考えるが、決して、そんなことはない。前世に原因がある。
前世、そのための修行をしていたのである。しかし、前世で、その力を得ずして、死んだ。今世で、それが目覚めたのである。
と、そうだとすると、まだ、マシである。
しかし、特別な霊団によって、それを得たならば、非常に危険である。

それを、古神道では、サニワするという。要するに、霊の審判をするのである。
マルコ福音の第10章46節にも、めくらの乞食が現れる。

めくらは、上衣を投げ捨てて、おどりあがってイエスに近づいた。イエスが「あなたは、私になにをしてもらいたいのか」とおたずねになると、めくらが「先生、見えるようにしてください」と答えた。イエスは、「行け、あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。めくらはたちまち見えるようになり、イエスについていった。

病気治しは、教祖の教祖たるところである。
イエスの奇跡に無いものは、天候を左右するものである。
天の様を変えることは、病を癒す奇跡より、簡単である。
例えば、台風の進路を変える。曇りを晴れにする、とか。

イエスの奇跡は、最も、厳しいものである。
自分にである。
福音宣教を言うならば、奇跡の力があって、言えるのであり、奇跡を成せない者は、福音宣教など出来ないのである。
何と無ければ、イエスは、弟子たちに、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えている。
世界のキリスト教徒に言う。奇跡を成せない程度の信仰ならば、無いと同じである。

奇跡を精神論で、云々することなかれ。
そんなものではない。
奇跡は、奇跡として、成って、奇跡である。精神論の入る隙は無い。

奇跡を成せない者が、苦し紛れに作ったものが、教義である。
そんなもので、誤魔化されない。

からしだね一粒の信仰があれば、山をも動かすとイエスは言う。

祈りは叶えられる。
叶えられないならば、叶えられない力しかない。

インド、バラモンには、呪術がある。それが、ヒンドゥーにも、引き継がれ、しまいに、密教に引き継がれた。勿論、魔界の力である。
バリ島などにも、それが伝わり、今でも、ブラックマジック、ホワイトマジックというものがある。
ブラックマジックは、相手を不幸にし、病に、果ては、殺す。
それを、ホワイトマジックで、解消する。

陰陽師安倍清明は、矢張り、式神を用いて、マジックを掛けたり、解いたりした。勿論、式神とは、インド系の魔界に縁するものである。

魔界系は、使いやすいのである。
しかし、その後が悪い。

イエスは、言葉で癒した。
凄まじい、言葉の力である。
これを、古神道で言えば、言霊である。

立って行け、あなたの信仰があなたを救った。
これ程の、権威ある奇跡を行った者は、イエス以降いない。

狂いのエネルギーでも、無理である。
矢張り、次元のマジックを使用した。
それは、一度、別次元に連れて、そこで癒し、現実に戻すのである。
それを、周囲の人は、見抜けなかった。

簡単に言う。
肉体の病は、この次元のものである。それが、霊的な病によるものであれば、霊的な病を癒すことで、肉体を癒すのである。
ただし、霊団による病の場合は、その霊団と対決する。ゆえに、祈りが必要になる。

多くの霊に憑かれた人という場合が、そうである。

悪魔祓いというものがある。
それには、霊界の力が必要になる。

イエスには、アブラハムからエリア、モーゼ等が、援軍に当たった。

大陸を支配する霊界、ヒマラヤである。
その下に、それぞれの地域の霊界がある。

イエスの言う父なる神も、ヒマラヤ霊界である。
それでは、ちなみに、日本には、高天原霊界、タカアマハラ霊界という。
その主宰神として、総称して、天照大神が存在する。

イエスの奇跡の大本が理解出来れば幸いである。

2007年08月06日

キリストの絶唱31

マルコ福音、第11章からは、イエスの受難が描かれる。
エルサレムに近づき、イエスは、小ろばに乗って、入城すると、人々は、自分たちの上衣を敷き、あるものは、木の枝を野原から取り、道に敷いた。
そして前を行く人、後を行く人も「ホザンナ、賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。祝福あれ。今ぞ来る、われらの父ダビデの国。いとたかきところにホザンナ」と叫んだ。

ホザンナとは、ヘブライ語で、私たちを救ってくださいという意味。この時は、歓呼の叫び、万歳との意味になる。

イエスはエルサレムに来て、神殿にはいり、まわりを見まわされたが、もう夕ぐれになっていたので、十二人をつれてベタニアに出ていかれた。

イエスを歓迎した人々は、イエスを、この世の王になるべくある人だと信じていた。
しかし、と、すると、大変、お目出度い人々である。
イエスには、軍隊も、国を作る何物も持たないのである。
貧乏な、宣教の一派だった。

当時は、イエスのように、メシアだと言う者、多数。
要するに、新興宗教の形相である。
しかし、それらの人から、抜きん出たのは、十字架刑である。

神殿に入り、周りを見渡したが、夕暮れになっていたので、ベタニアに出ていかれた。
この、何でもない記述を説明する人はいない。

イエスが、神殿で教えを説いたが、神殿で祈るという、記述は、一つも無い。
イエスが祈るのは、すべて、人里を離れての、山である。

ここに、重大な意味があることを、知らない。

神殿は、イエスにとって、祈りに相応しい場所ではない。

神殿とは、その名の通り、神の住まいである。イエスも、神の玉座という。
しかし、そこで祈ることはない。

祈り、とは、何か、である。

隠れたところに、おいでになる神には、隠れて祈れと、イエスは言う。

ただ今、教会がある。
チャーチは、カトリックに、チャペルは、プロテスタントの教会をいう。

祈りにも、ピンからキリまである。
ピンは、イエスの祈りのように、人里を離れての場所である。キリの祈りは、建物の中で行われる。

建物の中で行われる祈りは、妄想、自己催眠程度のものになる。

イエスは、弟子たちに、どのように祈るのかと問われて、天にまします我らの父よ、との、祈りを教える。
それは、今でも、すべてのキリスト教徒が、唱える主の祈りと言われるものである。

ユダヤ教で、さんざん、祈りについてを、教えられても、実際は、祈りを知らなかったのである。

祈りとは、自己対座、自己観照である。それが、第一である。
そして、レベルが高くなると、祈りは、語り合いになる。誰と、語るのか。霊人とである。

祈りという言葉を、もっとも解りやすく言うには、言霊の古神道の祈りを言うと、解る。
イ、ノ、リ
イを宣べるのである。
イとは、意識の意である。
祝詞は、宣る言葉である。

言葉にすることは、成就するというのが、言霊である。
沈黙することを、黙祷といい、それを、意識的に、あるレベルの心の状態に置くことを、瞑想という。
座禅の座るという行為も、瞑想に近い。
しかし、この瞑想とは、何かというと、非常に難しい。

インドのヨガから、瞑想が始まった。
それが発展して、チャクラを開く等々の、怪しい、教えというか、妄想がはじまった。
七つのチャクラ、または、九つのチャクラ等々、皆、嘘である。
体は、すべての部位がチャクラである。

三蔵法師玄奘は、このヨガ、つまり、大乗仏教におけるユガ論を、求めて天竺に旅した。
だが、実際、ヨガは、インドバラモンから発したものであり、それが仏教にも、受け継がれて、修行の一つとなった。

ヨガで痩せるという程度のヨガならば、大したことはないが、それで、妄想の悟りなどというと、おかしなことになる。

玄奘は、理屈攻めで、その教えを学んできた。
ただ今、日本で読経される、仏典の翻訳も、玄奘のもの多数である。

私は、下手な小説で、玄奘を書いたが、玄奘の創設した、法相宗の教義にまで至ることろまでは、書くことが出来なかった。

玄奘は、晩年、自分は、学を為してきたが、実際、それを実践しなかったと、言う。そして、亡くなった。

ヨガは、禅宗に受け継がれて、中国禅を創作し、それを、道元などが学んできた。
仏に至る道は、多数ある。
日本の仏教は、皆、中国思想を加味されたものである。

祈りは、自己対座であり、自己観照である。
そして、祈りは、次元を超えた霊人との対話である。

日本の伝統は、言葉が神であるから、一切の手続き無しに、言葉に発することによって、祈りの行為が成った。
口から発する音が神であるから、それは、多くを語らない訳である。

西洋思想、西洋宗教学等々は、語るをよしとする。

イエスは、長々と言葉を発する祈りをする、ユダヤ教徒を徹底して、攻撃した。
それを、偽善者と呼んだ。

イエスの奇跡の言葉は、治れである。
言霊である。
治れと言えば治るのである。

祈りに至る手前で、皆、躓いているのである。
イエスが言う信仰に至らない者が、延々と、言葉の祈りを繰り返す。

弥栄と言えば、弥栄がくるのである。
イヤサカという音霊、オトタマが働く。

人は祈り続けてきた。
これからも、祈り続ける。
しかし、神殿で祈る程度では祈りにならない。

これを語るに、死ぬまでも、それ以上もかかる。
故に、以下、省略。

ボランティアについて3

ボランティア精神に、マザーテレサが、引き合いに出されるが、彼女の行為は、ボランティアとは、言い難い。

彼女は、その活動を、あくまで、ローマ法王により、認可されることを望み、そして、認可されて、活動をしている。
カトリックでは、神の代理者である、法王の認可なく活動するのは、タブーである。
そして、修道会としても、認可された。

教会も、その死後、すみやかに、聖人になる資格の、福者の称号を与えた。これから、彼女の奇跡の調査を開始して、聖人に認められるだろう。

「神様のために、素晴らしいことを」と言う。
その信仰に、基づきの行為行動である。
ボランティア活動の一つの形であるが、実は、欧米で言うボランティアは、すべて、その信仰よりなる。

マザーテレサの活動に、共感し、また、その姿に光を見て、続々と、その後に慕う人々が、現れて、現在に至る。
慕うというのは、マザーの活動を見て、生きる意味意識を発見したのである。
と、共に、そのようにしか、生きられない、己の姿に気づいたとも言える。

この世に、天国、神の国を実現しようとするのは、信仰ゆえである。

インドのシステムを変えるというより、その活動自体に意味を見出す。
残念ながら、マザーの活動によっても、インドの風を変えられなかった。

確かに、人間として、対座した時、マザーテレサの威圧感に、圧倒されるだろう。
彼女の背後霊団は、とてつもなく、大きい。

そして、その活動の元は、目の前に現れた、キリストの姿である。
磔のキリストが、目の前に現れて言う。
「私は乾く」
マザーテレサの確信である。
そのメッセージを、インドの地で、実践した。

このような、あきらかなる、メッセージを通常、人は与えられない。
マザーテレサは、選ばれたといえる。

日本のカトリック信者の多くに見られる、ムードの信仰は、無い。
信仰は、即生きることである。
そして、生きることは、神を相手にすること。マザーは、インドの捨てられた人に向かった。そして、その行為を、ボランティアと呼ぶかといえば、違う。
キリストの乾きに、応えたのである。

共生の思想より、強い信仰である。
神のためにという、目的がある。つまり、神による、祝福がある。それは、神からの報いを得ることである。
身も心も、神に捧げた。
それが、行為行動に成った。

それでは、宮城まり子をみる。
障害児の施設、ねむの木学園を興し、現在も、それが続けられている。
彼女は、恋もする、普通の女性である。
何をして、彼女を行為させたのか。
彼女には、福祉という言葉がある。

福祉という言葉についての、解釈は、暇な学者に、任せる。
実践もしないような、学者に、解る訳が無いが、勝手にさせる。

自分の出来ることをする。
ただそれだけである。
そして、それも、そのようにしか生きられないから、それゆえの行為行動である。

彼女は、特別なことをしている意識は、無い。
出来ることをする。
自然発生的である。

啓示も与えられた訳ではない。

日本の伝統には、あわれ、を生きる思想がある。
あわれ、というと、仏教の哀れ、とか、憐れの文字が与えられるが、あわれ、の感覚に近い意識は、慈悲という言葉になる。
もののあわれ、という。
それは、共感と共生の思想であり、人間に留まらず、自然、すべてのものに、通ずるのである。

同じ場所に生きるもの同士の関係である。
ラテン語のボランティアの語源、ボランタスに近い。

そこには、特別の啓示は無い。
あるのは、共に生きるということだけである。
だから、自然に対しても、ボランティアをする。
勿論、今は、それも失われて久しい。
すべて、金に換算し、自然も何もあったものじゃない。
先祖も、子孫も無く、今の利益を確保することに専念し、死後、とんでもない霊的空間に行く者、多数である。

バリ島には、相互扶助の思想が生きている。
日本の伝統と、同じである。
福祉とは、相互扶助を言う。

他人が他人でなくなる瞬間がある。
袖振り合うも他生の縁である。

キリストの乾きに応える、マザーテレサと、他生の縁に生きる者の、行為行動は、違うということが解る。
ちなみに、一神教の場合は、実に激しい行為行動を求められる。
すべてを捨てて、神に向かうということである。

他生の縁に生きる者は、すべてを捨てることなど必要ない。
出来ることをする、のである。

右を打たれたら、左も与えよという、激しい病的感覚は無い。

松のことは、松に習え、竹のことは、竹の習えという、優雅、風情がある。

自分の器に合ったものこそ、大切なことである。
無理に、型に押し込める必要は無い。自分の形を作り上げてゆけばいい。
松尾芭蕉は、大井川を渡る時、捨て子に逢う。
お握りを与えて言う。
「汝は汝の定めを泣け」
実に、福祉であると、私は思う。

2007年08月07日

原爆記念によせて「核」

長崎被爆者の会が、地元選出の議員、元防衛相の久間議員を辞職に追い込むべきと気勢を上げている。
久間が、誤解を招いたという発言にも、許せないと言う。

こういう、女子供のような、感情論から、いつになったら、独立した大人としての、核議論が出来るようになるか、である。

はっきり言うが、戦時下である。
何があっても、当たり前である。

大戦終結当時の日本の指導者に、抗戦意識を失わせる。そのための原爆投下であり、ソ連参戦にあるのは、すでに定説となっている。そして、ドイツのように、分断占領、民族分断を避けられたのも、有力学説の一つだといわれる。
私には、どうでもいいことであるが。暇な学者の言うことである。

私の言いたいことは、久間の云々の問題で、なにを、焦点をぼかしているのかということだ。
いつまで、感情的平和論、感情的核廃絶を言うのかということだ。

あの、あのである。最貧国の北朝鮮が、核開発だけで、大国を振り回しているのである。

「しょうがなかった、とは、何事か」と言う、それを言うとは、何事かという。
戦時下である。と、何度も言う。

戦争が、どんなものであるか、被爆者ならば、よく理解しているであろう。
理想的平和論で、死んだ者が生き返るというならば、話は別である。

どうだ、生き返らせられるか。
無理であろう。
死んだ者は、二度と、戻らない。

だから、こそ、冷静に核を論じることである。

六カ国協議で、主導しているのは、唯一の被爆国、日本か。
違うであろう。
米中である。

これ一つを見ても、日本国民は、単に、感情的になるばかりで、つまり、アホを演じているばかりで、唯一の被爆国としての、発言さえ、世界に出来ていないのである。

もう、いい加減に、アホ、馬鹿、間抜けは、止めるべきである。

阪神淡路大震災の時を、言う。
時の首相の、村山は、即座に自衛隊の出動要請もせず、答弁で、何と言ったか。
はじめてのことで・・・
アホであろう。
理想と、平和を説くが、結局、現実に役立たずだった。
私が、知る限り、あの時に、国会に駆けつけて、即座に自衛隊要請をと言ったのは、石原慎太郎のみである。

結果、助かる者も、死んだ。
それを、見抜いたのは、市民である。
首相が慰問に行っても、誰も相手にしなかった。しかし、天皇皇后両陛下が、いらした時、市民は、感涙の涙で、迎えた。
勿論、天皇陛下は、何も出来ない。しかし、一番、心に掛けていることを知っていたのである。その心が通じていたというのに、私は驚愕するのであるが。

さて、いいたいことは、それである。

核廃絶をと、唱えても、廃絶されるどころか、今では、イランもはじめている。
長崎、何をやっているのだ。

今に、再び、原爆投下される。

涙を流しても、日本人以外に通じると、思っているのか。アホであろう。

アメリカが、日本を守らなければ、日本も核開発する。
それくらいに言わないと、四津国の皆々は、解らないのである。
中津国である、日本は、特別な国であるから、それを理解してもらうには、不可能であるる。

平和主義の反核と、民族主義の核武装という、アホらしいことを、平然とやっている、日本である。

再び、原爆投下される。

明晰に、核を議論することなければ、何度も言うが、再び、原爆投下される。
勿論、長崎、広島に決まっている。
道筋がついたのである。

日本を足腰立たなくするには、それが、最も良い手段であること、明々白日である。
大陸と、半島が凄まじい反日である。

イスラムが、異教徒を殺すこと、平然であるが如く、反日を教育された者、日本を攻撃するに、躊躇いは無い。

戦後、62年を経ても、この体たらくである。

為政者は、現実に対処する、実行力、それも、大局を見た、行動力が必要である。

中越地震では、即座に自衛隊出動要請を出した。

ちなみに言うが、北朝鮮とは、五年ほど前から、毎日のように、新潟沖、横須賀沖で、銃撃戦が行われているのである。

まあ、国民に知らせると、何せ、感情的になるから、知らせないのである。

もう一つ言うが、世界は、決して話し合いで、解決することはない。
何一つ、話し合いで、解決する問題は無い。

核を利害損得で、冷静に明確に語ること意外に無い。

もう一つ言う。
国旗掲揚、国歌斉唱で、立つことのない教育をしているのである。
アラブ、イスラムに行けば、確実に殺される。
唯一、世界の礼儀作法は、相手国の、国旗、国歌斉唱の際に、起立して、敬意を払うことである。

お解りか。
アホ、馬鹿、間抜け、糞ったれの、感情的平和主義的被害妄想的、頭の悪い日本人である。

ちなみに、私は、縄文式大和魂保持者高天原霊界直系の日本人であるから、少し違うのである。

実に、私も感情的であること、明々白日である。

追伸
理想的平和論を、イスラム過激派の元に行き言えば、殺される。
殺されることのない国内にいて、云々する程度の平和論であるから、終わっている。
それから、もう一つ、言う。
被爆した方々の慰霊を、しているのか。
どのような慰霊であるか。
それが慰霊になっているのか。
祈りを知らない者が、一億人いても、祈りにならないのである。

それから、ついでに言って置く。
日本人兵士の遺骨が、未だに、各国に放置されている。
116万人というが、まだある。
タイの僧侶は「日本人は人間であるか」と言うほどである。
タイ北部から、ビルマ、現在のミャンマーの人々は、未だに現れる日本人兵士の遺骨を、大切に掘り起こして、御祭りしている。

即座に駆けつけて、それらを持ち帰ることの無い日本人に、平和など訪れることのあるわけがない。
死者の声を聞けない者どもが、一億人いても、詮無いこと。

更に言う。
東京大空襲で亡くなった人は、広島、長崎の人より多いのである。
核兵器廃絶ではないだろう。
「全ての兵器の廃絶」である。しかし、それが、いかに非現実的であるか。
非現実的なことを言い、それをメッセージとして世界に発信するのである。

日本は世界最大の核武装により、世界の平和を願うものである。
という、メッセージを発したら、世界は、どのようなところになるであろうか。
震撼とするだろう。
核廃絶より、その方が、あまりの現実的発言に、世界は、沈黙し、アジア諸国は、糞小便を垂れ流す程の効果であろう。

戦争の達人でない限り、素手で、兵器を持つ者と、渡り合うことは出来ないのである。

安倍首相殿

安倍首相殿

ただ今、支持率が落ちるだけ落ちて、野党をはじめ、与党からも、辞任の声が上がっていますが、国民は、あなたが辞任して、改革が遅れた時、大きな後悔をするでしょう。

今、あなたがしている改革は、長年の検案でした。
兎に角、あなたは、辞任せずに、この改革を断行するという意思。
私は評価します。

私の内閣、私の、と、多く私の、と言う言葉に、大きな誤解も生じていますが、それほど、改革に思い入れがあるということ。

私は、自民の民主、そして他の野党の支持者ではありません。
しかし、今、出来る改革をしなければ、日本は、本当に後悔します。

今回の参院選で当選した、野党の新議員は、安倍辞任を簡単に言いますが、一体、それでは、誰が、この改革をやるというのでしょう。
しかし、自民の新議員も、大変残念ながら、成りたい人が当選しています。
六年の任期にある参議院です。

重要な憲法改正の議論に耐えられる人は、いません。それがなりより、残念です。
要するに、お勉強していない人が、議員になっているということです。

お勉強とは、日本学とでもいいましょうか。
大局を見つめるための、日本を学んでいません。

ためしに、彼らに万葉集を講義させてみるといいでしょう。
学者の万葉集ではありません。

日本の心を歌う、日本語の骨頂が万葉集にあります。

また、彼らに辞世の句を詠ませてもいいでしょう。

詠むに耐えられる辞世の句が歌えるでしょうか。

さて、あなたの改革が遅れれば、日本は未来に大きな負債を残したまま進むことになります。

薬害エイズで有名になった、川田さんも当選しました。そして、彼は言います。安倍さん、辞めてくださいと。
しかし、彼は、監視するといいます。
監視するという者が、現状の改革の意味を知らないというのは、実に軽薄です。

私は、彼を支持しますが、現状把握に対して、まだ甘すぎます。

安倍殿
北朝鮮には、一歩も譲らないことです。
今までの政権の中で、唯一、北朝鮮が恐れた政権でした。
選挙の前から、北朝鮮は、安倍批判一色でした。
あの国に恐れられるというのは、実に、実に重要、重大なことです。

日米関係が揺らぐことは、安全保障上、実に危険なことですが、それを現在、多くの日本人は、理解できないようです。

日本に向けられている、核兵器、ミサイルの量を知らない強みです。
攻撃されれば、一溜まりもありません。

それは無いと信じ切っているから、驚きます。

支持率低迷が、政策の不備ではありません。
多くを敵に回しても、やらなければならない時があります。
それが、男の生き方です。

百年後、千年後に評価されて、本望だと進んでください。

政治の空白を作った、アホは、ロクロを回しているといいます。
あれを、生き恥を晒すというのです。

2007年08月08日

もののあわれについて74

笠女郎の歌を、もう一首。
大伴家持に贈った歌である。

思ふにし 死にするものに あらませば 千度ぞ吾は 死にかへらまし
おもうにし しにするものに あらませば ちたびぞわれは しにかえらまし

このような、大胆、素朴、技巧など、吹き飛ぶほどの情熱が、万葉の世界である。

焦がれ死ぬということがあるならば、私は、千度生き返っても、あなたを恋慕う。
家持より、年上の笠女郎である。
激しいばかりの恋心を歌う。
年増女の押し付けが、はっきりと解るのも、面白い。
平静を装っていても、歌を作ると、この激しさである。
実に、万葉集は、大胆不敵でいい。

古今、新古今には無い、野性的な感情である。
新古今は、雅、洗練という意味では、非常に評価されるが、この野性的、生命力は、万葉集に適わない。
一つ言うが、古今も新古今も、万葉集が土台であり、それが無ければ、成り立たなかったということである。

解った風なことを言う、者に言う。
万葉集を基にしてこその、古今であり、新古今である。
親が無くて、子が生まれることはない。
万葉集は、古今、新古今の親である。
万葉晩期は、古今に近くなる。そして、新古今へと続く。
しかし、芸としては高まるが、生命力は、落ちる。

万葉には、芸術活動、文学活動という意識は無い。
ほとばしる、言霊の世界である。
勿論それは、音霊、おとたま、の根拠がある。
音霊とは、数である。
五七五七七という、五七調、七五調には、音霊の訳がある。
これ以上は、古神道になる。

大祓祝詞には、タカアマハラに 神づまります カムロギ、カムロミ のミトコもちて 八百万の神たちを 神集いに集いたまい

大和言葉の、言霊の、そして音霊の、言葉が続く。
そしてそれらの言葉は、善言美辞に溢れるのである。
不吉な言葉や、不幸を連想する言葉は使用しない。

井沢元彦氏に、登場してもらう。

「コトダマは日本人を動かす中心思想の一つである。そして、さらに重要なのは、そのことを万葉時代の日本人は自覚していたのに、現代の日本人はまったく自覚していないことだ。
だから、知らず知らずのうちに振り回される。」
さらに続けて
「二つほど例を挙げよう。
一番わかりやすいのが、前にも述べたが憲法第九条の問題である。
私は、これでも法学部の出身だ。
法律を学んだ者の目から見れば、今の憲法は国民の平和で安全な生活を守るための基本的条件を満たしていない。なぜなら、外国から侵略された場合の対処について、何の規定もないからだ。
この欠陥を埋めるのが、安保と自衛隊だが、自衛隊は憲法第九条を字義通りに解釈すれば、あくまで違憲(偉法)の存在である。
だから、私は憲法九条を改正すべきだと思っている。
国民の安全を守るために、国が軍隊を持つのは当然の義務であるし、持つ以上はそれを憲法に規定しないと危険だ。というのは軍隊とは強力な力を持つ組織だから、法律できちんと縛っておかなければ危ないからだ。簡単に言えばシビリアンコントロール(人民統制)ということである。
戦前の日本、いや大日本帝国はこのシビリアンコントロールが確立できなかったために軍隊が暴走し国を滅ぼした。」

「それなのに、なぜ日本社会党は「非武装中立」などという、現実には実行不可能なことを主張したのか、いや、できたのか。
それもコトダマである。
コトダマの世界では、「外国が攻めて来る」などという「不吉」な想定は一切排除し、「平和、平和」と叫んでいればいい。それで平和は保たれる。もし、「外国の侵略があったら、どうするのか」という意見を言うヤツがいたら、「平和の敵」としてその口を封じればいい。コトダマの世界では「外国の侵略」などというコトアゲするヤツは、「侵略されることを望んでいるヤツ」である。だから、意見を言わさなければいいのだ。そして、一方で憲法を読む。憲法は「祝詞」だから、読めば読むほどにその霊力(すなわちコトダマ)で世界は平和になる。」

「さらに一つコトダマが生きている例を挙げれば「言葉狩り」がある。」
「それゆえ差別を表す語(差別語)を「狩って」消してしまえば、差別という実体も同時に消滅することになる。だからこそ、あんなに熱心に「言葉狩り」をする人々がいるのである。」

「このように、日本人は現代でもコトダマの多大なる影響を受けている。」

言霊を認識していた、万葉人は、現代の人より、賢いと言える。
現代人、特にインテリと言われる人々は、認識せずに、言霊の迷信に陥っているということである。

しかし、井沢氏は、だから、万葉集の意義があるとしている。
言霊ゆえに、編まれた詞華集である万葉集を認めている。

「歴史の宗教的・呪術的側面を無視して、歴史を解明しようとしても、それは無理というものである。」

私も、その通りだと言う。

言霊を知らない者が、いくら解釈しても、解る訳がない。
推測、憶測で、解釈するだけである。

もう一つ言う。
言霊然り、大和言葉然り、それを理解せずに、日本の歴史、日本の心を理解できるわけがない。

そして、それを伝える、教えられる者がいない。教育の世界に、いないのである。これは、驚嘆に値する。
ユダヤ、キリスト教、イスラム教では、幼児から、その経典を教え、思考の土台を作るのである。
もし、小学生の時から、日本の言霊について、大和言葉についてを教えられていれば、インテリと言われる人たちも、幼児以下の日本語の教養を解消できるはずである。

前にも言ったが、井沢氏は、私と違った視点で、歴史と、その根本的原理を見ている。
それが、コトダマであり、私の言霊、大和言葉なのである。

正確に相手の名前を解れば、逢わずとも、祈りや、呪いを掛けることが出来る。日本には、そういう伝統がある。
それを、インテリ、知識人たちは、一笑に付すが、それは、とんだ誤りである。
今、現在も、それが出来るのである。
私は、それの実践者であるから、解る。

もののあわれについて75

大伴家持に寄せられた歌を読む。

河内百枝娘子の歌
かわちのももえのおとめのうた

ぬばたまの その夜の月夜 今日までに 吾は忘れず 間なくし思へば
ぬばたまの そのよのつくよ きょうまでに われはわすれじ まなくしおもえば

はじめてお逢いした、その夜の、月の風情を、今も忘れません。あの夜から、絶えることなく、あなた様を思い続けているのです。どうして、忘れることができましょう。

豊前国の娘子大宅女の歌
ぶぜんのくにのおとめおおやけめのうた

夕闇は 路たづたづし 月待ちて 行かせ吾が背子 その間にも見む
ゆうやみは みちたつたつし つきまちて いかせわがせこ そのまにもみむ

夕闇では、道が暗く、足元が危ないのです。月を出るのを待って、お出掛けください。その間にも、あなたの姿を見ていたいのですから。

安都扉娘子の歌
あとのとびらのおとめのうた

み空行く 月の光に ただ一目 あひ見し人の 夢にし見ゆる
みそらゆく つきのひかりに ただひとめ あいみしひとの いめにしみゆる

み空を行く月の光で、ほんの一目、お逢いしただけのあなたの様が、夢に現れてくださいました。

片恋の歌、つまり、片思いの歌である。
これにより、大伴家持の風貌が、見えてくる。一目惚れされるほどに、美男であった。

さて、この辺りになると、万葉も、やや繊細な感じになってくる。
平安期の伏線である。
初期万葉の、生命力、気迫が薄れて、優美な平安に向かうのである。

万葉集の歌が最も多い時代は、759年である。一応、万葉集、成立としておく。
私は、初期万葉を飾った、舒明天皇一家を、万葉の開始と見る。
舒明天皇の即位、628年。
622年、摂政である、厩戸皇子が崩御し、蘇我の支配が濃厚になっていた時期である。
この舒明天皇の皇子である、後の天智天皇、そして、天武天皇によって、日本の国が確固たるものになる。大化の改新による、天皇家の政である。
大化の改新、そして、飛鳥、奈良における、維新である。
舒明天皇即位から、1380年を経ている。万葉集の歴史である。
舒明天皇は、大化の改新を見ずに、崩御され、沈黙の天皇と私は言う。
蘇我の支配を、じっと見つめ続けていたのである。
蘇我馬子の孫である、入鹿の執政が最高潮に達したのが、642年である。
翌年、643年には、厩戸皇子の子である、山背大兄王及び、その一族を殺した。
見かねた、中大兄皇子、天智天皇が、645年、入鹿を誅する。大化の改新である。

飛鳥、白鳳、奈良時代、その維新により、日本の国が成った。
飛鳥、奈良時代を、日本の精神の原点と呼ぶ。その心は、縄文である。
その縄文の心が、初期万葉に結実した。私が、万葉集を伝統と言う訳である。

さて、上記、三首の歌である。
結句を見ると、間なくし思えば、その間にも見む、夢にし見ゆる、である。

いよいよ、精神が複雑化してきて、繊細になっている。か弱い女の歌になるのである。
大伴家持の歌も、古今や、新古今に通じるものになってゆく。それは、後日に譲る。


2007年08月09日

木村天山の歌

クラシック系音楽評論に詳しいO氏より、私の歌、演歌師、歌師としての、歌唱の評論を頂いた。
以下、それを載せる。

 演歌のみならず、昭和歌謡曲、童謡、そして日本歌曲も歌う演歌師。
雨降りお月さん、トンボのめがね等々の童謡を、日本歌曲の域にまで高める。
アカペラ曲も、ためらいもなく歌う。

 氏の唄には、多くの演歌歌手にはない独特の路線がある。

 まず、消極的な意味での定型的が無いこと。
恣意的に抑制を排し嗜好の一般性を狙うべく定型性を伴った大量消費型のコマーシャリズムに則る演歌歌唱法においては、氏の唄の味わいは到底見出せない。
詩を浮き彫りにするようなフレージングは、面白く、しかし歌詞の息使いと整合し極めて自然である。

具体的には、歌詞の意味・それが与えようとする効果を、独特の「間」と「音圧の変化」そして「ルバート」によって捉え表現しようとする。
確かに音楽で伝えるべくものを譜面の正確な体現により為そうとする方法もあるが、木村天山氏の唄は、それより優先させるものべきが他にも有るのだと感じさせる。
主観性を打ち出した歌唱法ではあるが、メロディーと歌詞を把握しやすいため、結果、配慮の利いたもとなる。

 そして、マイクを使わず、全身を使い声を共鳴させ、時には力技も辞さない果敢な試みが見られ、迫力がある。
また、歌唱に舞踊を取り入れ、身体の動きと強く同調する瞬間が、新しい。
日本舞踊を演歌・朗詠・童謡と日本歌曲へ適合させる新しい解釈。
これは他の演歌歌手とは決定的に異なる。

 よって、他の演歌歌手の形態は、より大衆演歌らしい途を志向するため「均質性」と「形式の統一性」を重んじる結果となるといえる。
しかし、上記のことから木村氏の唄は、寧ろ逆説的には思い切ってジャンルの概念を捨象することで、より高い自由度と効果的な歌唱を呈したといえる。

デメリット:
1. 感情が高じると、ビブラートの幅が広くなりすぎて音程がずれる。安定しない。
2. 特に低音の不安定さが気になる。
3. 音程が非常に正確 とは言えない。
逆に言えば、一般のプロの演歌歌手は、上の3点だけのミスはしない・・・というだけのことです。

評価される部分より、デメリットといわれる部分に、納得する。
感情が高じると、ビブラートの幅が広がりすぎ、音程がずれる、安定しない。と、ある。
その通りで、実は、私は、それを、善しとしているのである。
音程がずれる、安定しないから、いい。
それに関