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2007年08月 アーカイブ

2007年08月01日

もののあわれについて72

笠女郎 大伴宿弥家持に贈れる歌
かさのいらつめ おおともすくねやかもちにおくれるうた

君に恋ひ いたも術なみ 奈良山の 小松が下に 立ち嘆くかも
きみにこい いたもすべなみ ならやまの こまつがしたに たちなげくかも

いたも、は、甚だしく、ひどく、という意味。
術は、方法という意味。
小松は、小さな松ではない。小は、接頭語で、松の愛称。

ただ、あなたが恋しくて、慕わしくて、どうしていいのやら、その術も無く、奈良山の松の下に佇んで嘆くばかりです。

大伴家持は、万葉集編纂の主である。
父は、大伴旅人である。叔母に大伴坂上郎女という、奔放な大歌人を持つ。
大伴氏の一族の棟梁として、歌壇の名門として、ハンサムな青年として、多くの女性の憧れの的であった。
大伴家持の頃になると、万葉も晩期に入る。

笠郎女の歌は、片恋、つまり、片思いの歌である。
そのまま、素直に歌う。
立ち嘆くかも、ここに、心の様が、凝縮する。
片恋は、立ち嘆くのである。

わが屋戸の 夕かげ草の 白露の 消ぬがにもとな 思ほゆるかも
わがやどの ゆうかげくさの しらつゆの けぬがにもとな おもほゆるかも

屋戸は、庭の前である。
夕かげ草は、夕暮れのほのかな薄明かりの中に見える草。
消ぬがにもとな、とは、消え入るばかりに、という意味。

私の家の庭先に、薄明かりに浮かぶ草に置く、白露のように、身も心も、消え入るばかりに、切なく思われてなりません。
恋心を、白露に譬えている。

好きだ、好きだ、愛してる、愛してるというのも、恋ではあるが、草露に託す恋心に、奥床しさと、風情を感じる。
恋は、誰をも、詩人にする。

恋がなければ、人生は、実におもしろくないのである。死ぬまでの暇つぶしに、これ程、心を騒がせる、恋、というものが、そういう欲望があってよかった。正に、欲望とは、生きるための恵みである。
恋に執着する。それを、どこかのアホが、捕らわれ、愛欲だの、迷いだのと、屁理屈を言うが、何のことはない。生きるとは、恋することなのである。
恋に集約される、人生を歌い上げたのが、万葉集である。

後に、恋を色と言う文化が出る。
色と恋との、掛詞と歌う。実に良い。
そして、性愛である。
これこそ、人間を人間たらしめる行為は無い。
動物の発情期は、一定であるが、人間の場合は、毎日ある。それが人間たるものである。それを全面肯定して、人生讃歌となる。

性愛を否定する宗教が、誤りであること、明々白日である。
勿論、盛り合うだけの人間もいる。サカルとは、性愛ではない。射精欲であり、高潮欲である。それも、人生の一時期あって、当然である。

二十代前半の男が言う。
俺も年を取ったと。
十代の頃は、マスターベーションを、日に十回も出来た。今では、三回が、ようやくと。
人生には、今しか出来ないことがある。
出来る時には、したいことを、すべきである。
勿論、世のルールに乗っ取ってである。
強姦などは、実に愚かしい。
女にモテなければ、色々な大人のオモチャで、性を楽しめばよい。
実に、優れたマスターベーショングッズがある。

その際、歌の一つでも、歌う教養を持てばよい。
しごきつつ しごきつつかな 年老いる それでもしごく 秋の夜の露

欲望讃歌の万葉集は、世界に唯一である。
ギリシアの欲望讃歌は、語り過ぎる。
インドの性愛も、楽しい。しかし、矢張り、密やかな、性の楽しみに欠ける。
兎に角、技巧を凝らした性技を競うようで、日本人には合わない。

結局、セックスの行き着く先は、射精と、高潮である。
そのために、精神である言葉の世界がある。

セックスの前に歌を交換する余裕が欲しい。

もののあわれについて73

笠女郎の歌を続ける。
大伴家持にあてた歌である。

わが命の 全けむかぎり 忘れめや いや日にけにや 思ひ増すとも
わがめいの またけむかぎり わすれめや いやひにけにや おもいますとも

全けむかぎり、とは、命の続く限り。
忘れめや、とは、忘れはしない。
いや日にけにや、とは、日増しに、日を重ねれば重ねるほどに。

この命の続く限り、忘れません、あなたのことを。日を増すごとに、益々と、思いが募ります。

恋心の直球である。

バレンタインデーという日が、カレンダーに載るほどになった。
バレンタインとは、カトリックの殉教者、聖人である。女性で、乳を切り取られて死んだ。その祝日には、感謝の思いで、プレゼントを贈る日である。
それが、デパートの商戦で、女が告白する日などと、アホなことを喧伝した。今では、チョコレートばかりではなく、とんだ、祝日になってしまった。
義理チョコなどという言葉も出来て、あーあー、である。

何にもないけれど、歌を贈る。
あっ、そうか。今なら、メールがある。
メールによって、短文に思いを込めるようになったという意見もある。
特別、五七五七七に、拘わることはない。
山頭火の場合もあるし、どんな形でもいい。
言葉の力は凄いのである。

君の肌の
奥にある
その硬さに触れたい
僕の心が
そこにある

これは、ゲイを想定して作歌した。
どうであろう。
こんな、どうでもいいものを、一万程書けば、本当になってゆく。それが、芸術の力である。

夕されば もの思ひまさる 見し人の 言問ふすがた 面影にして
ゆうされば ものもいまさる みしひとの こととうすがた おもかげにして

見し人の、とは、逢い見た人、ここでは、家持のこと。
言問ふすがた、とは、ものを言う姿。
面影にして、とは、ありありと、瞼に浮かんで。

夕暮れ、一層思いが募り、お逢いした時の、物言う姿が、まざまざと瞼に浮かびます。そして、更に思いが募ります。

面影にして、とは、見事な結句である。
ここまで惚れられるということは、凄いことであるが、恋をすれば、皆々、この心境になるのである。
今の若者は、どうなのかは知らない。
即、セックスに結びつくのであるから、情緒も、へったくれもない。
飽きれば、恋は終わりである。
成就に時間がかからないから、終わるのも、早い。これ、道理である。

この時代は、名を名乗ることが、相手に許すという合図だった。
名を言うことは、相手を言うこと、つまり、相手が目の前にいるのと同じである。これは、言霊である。

聖書のイエスは、私は言う、と言う。
言うことを言うという。
これ、言霊である。
言うことは成るのである。

キリスト生存時代の二千年前の日本は、部族国家発生の弥生時代である。
稲作から、弥生という説は、誤りで、縄文後期、少なくても、弥生時代に入る500年ほど前から、稲作が始まっていた。

そして、弥生の晩期、卑弥呼が邪馬台国女王となる。
すでに西暦189年頃という。
しかし、57年、すでに、倭双国王が、後漢に使者を派遣し、光武帝の印綬を受けている。
それ以前、倭国は、百以上の部族国家が発生していた。

神武東征は、縄文の後期、稲作を伝えての東征である。
神武天皇は、大和へ向かった。
ダイワと読むと、漢語である。ヤマトと、読むと、大和言葉である。
大和を、大、和にあてたのには、訳がある。
おおいなる、やわらぎ、である。
大和心とは、おおいなる、やわらぎの、こころ、である。
それを、更に総称して、大和魂という言葉を生み出した。

書かれなかったことに、真実がある。

当たり前、当然、であるということは、書かれなかった。
書かれたものは、記録する必要があったのである。
書かれなかったものを、観る目を、心と言い、魂と、言う。
それを、精神という言葉の世界で表す行為を、伝統という。

伝統は、デントウと読むと、漢語である。つたえ、すべる、と読めば、大和言葉である。
伝えて、統べるとは、政治である。政治を、大和言葉で、祭り、奉り、祀り、そして、政、まつりごと、という。

政治学という学問があるならば、日本の政治学を正す必要がある。
欧米の政治学では、理解出来ないのである。

日本は、統べる者を、帝、みかど、と呼ぶ。テイではない。
御、火、土、である。
天皇という言葉は、中国思想の、北斗七星を言う、天帝という語源がある。
すめらみかど、が本当である。
それを、天皇に当てた。

統べる帝である。
実は、統帝で、すめらみこと、でよい。

私は平民である。
天皇は、天皇である。
そのようにして、生まれてきた。私の意志である。
身分というものがある。
平等主義の仏陀も、王という身分を認めている。何故か。
それは、人には、役目があるからだ。その役目を通して、平等、つまり、仏に成ることを言う。
仏とは、平等の別名である。

これ以上になると、皆々が、混乱するので、省略する。

2007年08月02日

京都駅を見る

コンサート開催で、京都に行った。
一泊の予定である。

20年前は、年に一回は、札幌から京都に出掛けていた。お茶や、お花のお弟子さんたちを連れてである。
家元を訪ねるのではない、京都を見るためである。
ただし、行くたびに、京都を嫌いになった。

さて、今回、新しい京都駅を見た。
素晴らしい近代的な建物である。
これが建つ時に、相当、京都市民が揉めたのである。京都の景観を、云々ということだった。

誤解されることを恐れず言えば、京都の景観など、どうでもいい。
景観を残しても、心と精神を残さなければ、何にもならない。

寺と家元たちのために、京都があるのではない。それらは、一網打尽に焼き尽くしてもいい。
京都の価値は、そんなものではない。

古都、鎌倉に三年住んだが、古都とは、何事かと、いつも思っていた。
鎌倉は、古都でもなんでもない、ただの、田舎町である。
寺が多ければいいというものではない。役立たずの寺が、千件あっても、詮無いことである。総本山という寺もあるから、驚いた。
円覚寺や、建長寺も、何度も訪ねたが、別段特別なものはなかった。
あるのは、寺の欲望である。
ただ、それだけ。すでに、お役目を果たし終わった、跡である。
以下、省略。

さて、京都の新しい駅は、古都に相応しい。近代的であること、それが、いい。
これを、あたかも、古都であるという駅にしたら、もう、京都は終わりである。世界の人が訪れる。京都は、今も、都であるということを、新しい駅が伝える。

市民が、寺が、華麗なるペテン師の家元たちが、残したいと言う景観があるならば、地区を作り、そこだけ、幽霊の出るような場所にしておけばよい。
黙っていても、幽霊の出るような場所、多々あり。また、掘り起こせば、人骨など、出てくるだろう。

ギリシャ、ローマ等々、世界の遺跡のようなものが無くてもいい。
日本人は、そんな伝統を持たなかった。

後は野となれ、山となれ
である。

後世に残すものは、その心であり、精神だった。
日本の建物は、朽ちるからよかったのである。

大きいだけの奈良の大仏など、目障りである。すでに、用済みである。

建物の跡は、野原になり、山になって、善し。

日本の最古の都の駅が、時代の先端を行くものであることこそ、世界の人に驚きを与える。
金持ちの貧乏人遊びに、付き合う必要は無い。

それに、少し歩けば、京都の町は、普通の町並みである。
繁華街なども、狭い。
四条辺りのホテルに泊まったが、普通の町である。
それでいい。
周辺を歩いていると、寺がある。そのうち、寺、寺、寺である。

あれだけの寺が食えているのであるから、まだ、仏教という宗教は、金になるのだろう。
檀家制度が支えている。
奈良は、檀家制度が無いゆえに、貧乏な寺は、没落の一途を辿る。しかし、物好きな人もいて、布施をするから、少しは、やっていかれる。

翌朝、京都駅のビルで、一時間ほど、お茶を飲んで、見渡していた。
かび臭い、多くの建物を巡った観光客、国内外の人を含めて、駅ビルに来て、ほっとするだろう。
すると、何でもなかった、寺などを回っても、何か、あったような気分になる。
駅ビルに来て、また、自分に立ち戻るのである。それに相応しい建物である。

ここには、日本が在る町という、妄想に似た印象を持って京都を去る。
もう一度、来たいと思う。
それで、いい。
脱日常が旅であるから、京都は、それを提供すべき町だ。

実は、旅は疲れる。
いつも通りでないからだ。新鮮さは、ストレスである。そのストレスが、よい刺激を与えるのが旅である。
古い町、京都は、安らぎを与えるようだが、実は、非常に強いストレスも与える。それが、感動と、ごちゃまぜになるのである。

そんな後で、最後に駅ビルに着くと、しっかりと、時代に戻って、シャキとする。
そんな建物である。

ストレスは、別な形のストレスによって、癒される。これが、ストレス解消の技である。

上野駅も、東京駅も、そうだが、こちらは、逆に田舎臭くしてもよい。
まあ、私には、関係の無いことなので、どうでもいいが・・・
上野駅が新しくなった時に、感傷的な言葉も聞いたが、一時的なもの。新しくなることは、時代の、時間の経た、感慨を抱かせる。それの方が、精神衛生によい。

子供が、いつまでも、子供だったら、化け物である。
少年になり、青年になり、そして翁になるから、いい。

ちなみに、古いものを残すということが、何か、良いことだと思う人がいる。古いものは、捨てるべきである。
世界遺産になるようなものを、日本人は作らなかった。それが、伝統的考え方だった。
木の建物は、いずれ自然に帰るから良い。

後は野となれ、山となれ
これが、日本の伝統である。

2007年08月03日

人質

誤解を恐れずに書く。

タリバンに人質にされた、韓国の23名である。
あまりにも愚かである。

神の守護があれば、あんなことにはならなかった。
神の加護が無いからである。
だから、信じる者は、騙される。

殺されても、文句は言えない。

イスラム過激派は、異教徒は、殺してもよいことになっている。

ボランティアというが、実は、キリスト教の布教である。
だから、キリスト教のボランティアというものも嘘なのである。

スペインは、アメリカ大陸で、キリスト教、カトリックの布教で、一億人を殺した。
勿論、野蛮な土地に文化と、正しい信仰を伝えるためである。

韓国人質のキリスト教徒も、そうであろう。
それが、逆に殺されることになる。
あまりに、愚かである。

イスラムを知らないこともそうだが、あの観光並みの佇まいである。
愚かを通り越して、アホであろう。

キリスト教布教のパンフレットが発見されて、よっしゃ、殺すと、殺されたのである。
原理主義は、異教徒を殺せと命令する。

今回、アメリカをはじめとして、世界が、沈黙していた。
何故か。
行くものが悪いとの、判断である。

タリバンも、韓国キリスト教徒も、馬の耳に念仏である。

よくよく、言っておく。
世界は、神の支配にないのである。
世界は、人間が支配している。
エホバの証人は、悪魔の支配と言うが、それも、終わっている。

神も悪魔も、人間の前には、無力である。
人間ほど、この世で力の強いものは無い。

勘違いも、甚だしい。

アフガン政府は、突入しか方法が無い。
これを、きっかけに、内戦になることもある。
その、最初を作った、韓国キリスト教徒の罪は重い。
その、死でも、補えないのである。
また、アフガンの市民が、巻き添えにあう。
悲劇である。

知らないことは、罪であるという、仏陀の言葉、その通りである。
知らなければ、知るための努力をすべきである。

しかし、知らないことを、知らないという、悲劇もある。
今回が、そうである。

人の命は、重いが、また、人の命は、羽よりも、軽いのである。
それの、どちらを選ぶのは、知ること、以外にない。

相撲から・・・

朝青龍は、相撲界追放でよい。
処分の問題以前である。

処分とは、痛みを伴うものである。
彼にとっては、痛くも痒くもない。

痛みとは、生活がかかるということである。
彼は、もう死ぬまで働かなくてもいいだけ、稼いだ。
それも日本の国技で、である。

日本の国技に参加しているという、礼節も無く、無礼極まりない行為を繰り返して、よくぞ、皆々、黙っていたものである。
彼の相撲に、日本の精神の欠片も無いこと、重々見ていた。

あの、人相である。
小ずるい、傲慢な、自己過信の人相である。

強い相撲だろうか。
あれを、強いと言うのだろうか。
私には、下品にしか見えない。

横綱大関には、品格があるものである。

ハメを外すというなら解るが、あれは、彼の本性である。

国技を舐め切っている。

それにしても、外国人を国技に参加させるなら、まず、日本の礼節を教えて、それが駄目ならば、入れないことである。
相撲ファンは、多い。それは、相撲を通して、良き日本の伝統を観るからである。
のこった、という前の、あの所作にある、礼節は、外国人では、理解できないであろう。

相撲協会も落ちたものである。

私は、相撲を見ない。
サヨウナラ、相撲である。
ちなみに言うが、あれって、不健康極まりない。
糖尿病予備軍である。霜降り肉を思い出させる、体躯である。

食べて、確認することは出来ないが、柔らかいーーーと言われる肉付き。
自分で、尻も拭けないような肥え方である。

品格がなければ、見られたものではない。

まあ、一般にスポーツというものは、不健康極まりないものである。
人の作ったルールに体を合わせるというのは、実に、ご苦労である。
スポーツ精神が、健全だと言うのは、まやかしである。

あの体で、健全になれる訳が無い。
どこか、体が、ボロボロになっているのである。
おもしろうて、やがて悲しきスポーツである。

朝青龍は、どこも何とも無い。
ただ、精神が、イカレているのである。

早く、国に返した方が、慈悲深い。

追伸
モンゴル政府が相撲協会に、詫び状を送ったというから、驚く。
その訳は、あの相撲取りの家族、親類が、国営企業を買い取り、国が豊かになっているからである。
それほど、横綱になると、金になる。
勿論、金になっていい。
公金要領の公務員とは違う。
努力と、精進の賜物であろう。

モンゴルは、社会主義の国である。
支配者層と、人民層に分けられる。
あの相撲取りは、支配者層に入ったのである。日本の金で。

余計なことであるが、中国も、日本の金で、今は、日本を凌駕するほどの勢いで、経済成長を遂げている。
勿論、それの恩恵は、支配者層が得ている。
支配者層とは、金を得ることが出来る者である。つまり、世界は、主義を超えて、金になったのである。
インドも日本に支援により、今は高い経済成長である。
しかし、インドも、貧しい人が多い。
日本のボランティアが、そのインドの貧しい人のために、焼け石に水のようなことを、やっている。

経済大国日本では、生活保護の打ち切りで、死んでいる人もいる。
もう一つ、おまけに、食事も抜いて、学業に打ち込んでいる、若者もいることを、知っているか。
あしなが育英会という団体がある。
親を失い、皆の支援によって、学校に行き、生活している若者たちがいる。
貧しいから、食事を抜く。
この今の日本でと、驚くだろうが、いるのである。

実は、私は、密かに彼らに期待している。
彼らのような、苦難、苦労の若者が、いずれ、政治家になり、日本を立て直して欲しいと願っている。
無いということ知る彼らは、無いということの、価値を知る者だからである。

見よ、溢れるほどに、物に恵まれている者の、傲慢と、その怠慢な姿勢を。
無いという価値を知らないゆえに、もう何度も、生まれ変わりしなければならない。それも、無益な生まれ変わりである。

飛躍のし過ぎである。
オシマイ。

2007年08月04日

ボランティアについて2

端的に言う。
ボランティアとは、共生の思想である。
それ以外に無い。

水が上から流れるように、下に行くようなものが、ボランティアではない。
つまり、助けが必要な人を、出来る範囲で、援助する。そして、こちらも、援助されるということである。

ボランティアに、携わっている人が、させていただける、という言い方をするが、非常に宗教的であり、うそ臭いのである。
確かに、それをするに当たっての対象があるということにより、その行為が遂行出来るが、させていただくという、特別な意識を持つこと自体に、問題がある。
させていただくという、私の立場が、矢張り、上なのである。

日本には、お陰様でという言葉がある。
ボランティア行為は、互いに、お陰様で、いい。

天災が発生し、被害が大きいと、即座に、募金を募る。
あれほど、危険なことはない。
実に簡単な行為であり、それで、気持ちが満足するだけであれば、意味が無い。

また、被害がある人が、ハイ、と言って、その募金を受け取るものだろうか。
赤十字、NHK、新聞社等が、募金をつるのが、私は、不安である。

善意をすぐに金にして、解決するのは、安易である。

それより、その場の必要な物を、差し出す方が、真っ当だ。
つまり、現場に駆けつけて、ボランティア活動する人が、真っ当だ。

さて、世界には、多く、支援や、資金が必要な場が多々ある。
しかし、よく考えると、様々な国の、様々な、規約等があり、何事もスムーズにいかない。
日本が支援している国でも、その金が、何に使われているのか、解らない国も多い。
国境を越えるボランティア活動は、実に難しい。

信頼性が高い、組織でも、お金を寄付するのは、注意が必要だ。
募金箱に入ったお金の流れが、全く解らないのである。
下手をすると、宗教団体の資金にされる場合もある。

普段の生活で、ボランティアなどの活動が出来ない人は、多い。だから、安易に募金をするというのは、もっと悪い。
普段の生活の中で、共生の生き方が出来ない人は、ボランティアという行為も、単なる付け焼刃であるし、一過性のものである。

日本には、相手を先に、する、という、美しい行為がある。譲り合いである。
これも、立派なボランティア行為である。

言葉のボランティアも、勿論ある。
挨拶である。
兎に角、ありがとう、が大切である。

ボランティアの語源は、意味意識というように、生きる意味意識である。
それは、人間だけが、相手ではない。
山川草木に至るまでが、対象である。

そうなると、ボランティアという行為は、単なる福祉、奉仕活動に限定されるものではないということが言える。

様々な形と、方法で、ボランティア行為をするのである。
つまり、それは、生きるということと同じである。

海外で、ボランティア活動をする人も多いが、それが、その国、地域の相互扶助を破壊する場合も多々ある。
善なることだから、良いのではない。

貧しい人の多い、インドの地での活動が、単なる焼け石に水ということもある。
あの、マザーテレサという偉人でさえ、インドの根本的な態度を変えられなかったのである。貧しい人が多いが、超金持ちもいる。その格差は、甚だしい。そんな国で、福祉活動とは、とんでもない酔狂になることもある。

バリ島では、バリ島以外の島から来た、売春をする女性が産んだ子供を育てる施設が、三つある。
その一つに、日本のNPOがある。
日本からの、滞在ボランティアを募集している。
一週間の滞在で、65000円ほど、かかる。安いツアーでは、その値段で、ホテル、航空運賃込みである。
それを、滞在するだけで、支払うとすると、この団体が、利益追求であることが解る。勿論、それは、私が裁くものではない。
ただ、事実を言う。
そして、寄付も募るのである。

更に、バリ島の伝統的生き方を教えるかといえば、そうではない。バリ島の伝統を知らずに、やっている。
バリ島には、相互扶助の考え方が生きていて、孤児は、村人が育てる。

タイの地方は、貧しいが、子供が餓死することはない。
それは、お寺があるからだ。
男の子は、出家をすれば、食べていかれる。また、お寺に行けば、布施の食べ物があり、最低限、食べることが、出来る。これも、相互扶助である。
ストリートチルドレンは、タイには、いない。おおよそである。
仏教国の良さが生かされている。

それから、誤解を恐れずに言えば、子供の命を救うと称しての、募金活動をするが、生かして、その後は、どうするのかという場合が多々ある。
戦争によらずの自然淘汰は、当然ある。
子供が育たない環境は、大人も、生きるに、壮絶である。

育った子供に銃を持たせるような環境で、いいのか。
単なる、安易な考えで、生かすということのみを考えるのは、おかしい。

国連と、銘打つと、信用する人が多いが、実に、危険である。
国連、ユニセフなどというと、信用する。
あの組織の金の流れを誰も知らない。全く、見えないのである。
そして、彼らが発表するものを、信じられない。

ユニセフ大使などといわれる人は、痛くも痒くもない生活をしている。
単なる名誉で終わる。
自費で、あのような行動が取れるか。否である。

差別

今回の選挙で、レズビアンをカムアウトした、元大阪府議の、尾辻かな子さんに、一票をというメールを頂いた。
私の尊敬する作家の方である。

民主党に勝たせたら、国会運営が滞ると思ったが、比例区では、尾辻さんに、入れた。
票が足りなくて、議員にはならなかった。

本当は、比例区は、自民党と書きたかった。しかし、今、尾辻さんに入れなければという思い強く、である。

差別。

同性愛者を差別するのは、簡単である。
少数だからである。

少数は、いつも、差別される。

同性愛、ゲイ、オカマ、ホモ等々、無知と、厚顔によるものである。

何せ、ゲイセックスを、釜を掘ると信じている人が、男が、大勢いる。
アナルセックスも知らずに、そういう偏見を持つ。
ゲイが、ホモが、皆、アナルセックスをしていると思い込む。
実に、馬鹿馬鹿しい。

私に言わせれば、子供殺しをする、女好きな男が、差別されず、ある意味で、尊敬を受けるということに、驚愕するのである。
堕胎である。
多数であるからだ。

さて、私は言う。

一時期、セックスに関するエッセイをある雑誌に書くために、取材をした。
何と、ゲイでも、ホモでもない男が、アナル舐め、アナルに、物を入れるセックスを楽しんでいるではないか。
それは、ゲイセックス以上に、驚いた。
快楽を追求すると、そういうことになる。
実に、アナルの快感を知らない男は、大ばか者と言える。

ただ、ゲイ、ホモではないということである。

さて、差別について言う。

いつの時代も、差別はあり、歴史は、差別に彩られている。

民族、宗教の差別は、甚だしい。
非寛容で、排他的。
その中でも、差別がある。

差別は、二人いると、はじまるのである。
人間の性という。
性を、サガと読む。

ムハンマドは、女好きなゆえに、イスラムは、ゲイを差別し、死刑にする。
イエスキリストは、独身主義ゆえに、既婚者を差別する。
仏陀は、虚弱体質ゆえに、勢力旺盛な者を差別する。

よって、教義が出来上がる。

ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、あらゆる宗教がセックスを罪の意識に仕立て上げて、信徒を支配する。

それは、差別の別名といえる。
宗教である。
この世の最も、最低最悪なもの、それは、宗教である。

いつから、変質したのか。
司祭、僧、等々は、売春夫だった時代の方が長いのである。
そう、アナルセックスで、ある。

さて言う。

この世は、差別の地獄である。
男は女を、差別する。
それは、男が女を知らないからだ。
そして、女も男を知らない。
ゆえに、差別というものは、無くならない。

しかし、政治の場面で、誰かが、少数の意見を言う。それが、進化である。文化の進化という。

差別を無くすなどということは、在り得ない。
だから、差別される側の代弁者が必要である。

ゆえに、私は、レズビアンをカムアウトした、尾辻さんに、投票した。

そして、実は、差別する者は、差別される者でもあるということを言う。
人間とは、実に、愚かなものである。

たかが、摩擦の快感のセックスの形態に、差別も何も、あるものではない。

たかが、民族の違いに、差別も何もあるものではない。

皆々、出たことろは、同じである。

人間は、皆々、女の股から出た者である。

ホントウ、生まれてきて、良かっただろうに。
ほとんど、殺されていたはずの者である。

赤子は、簡単に殺せるのである。

差別を無くすということは、不可能である。
ゆえに、少数を代弁する、公の人が必要である。
それが、時代の進歩というものである。

ちなみに言う。
自分の中でも、差別意識があり、自分を差別するのである。
それの最も端的な感情は、嫉妬である。
他者に嫉妬するが、潜在意識は、実に素直であるから、嫉妬という感情を芽生えさせて、それを、自分向けること多々ある。

幸福感というものに、浸れない人は、たいがいが、そうである。
自分の中で、自分を嫉妬し、差別するのである。
自己矛盾ということになる。
それで、幸福感の得られない人の多いことといったら、ない。

自分を嫉妬するなんて、と、考えられない人は、考えない方がよい。

いずれ、書くことにする。

2007年08月05日

キリストの絶唱29

一人の人が、イエスに
「よい先生、永遠の生命をうけるために、私はどうしたらいいのでしょうか」とたずねた。
イエスは、かれをじっとみつめ、いつくしんで「あなたには一つだけ足りない。帰ってあなたのものものをみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば、あなたは天に宝をつむだろう。それからわたしについてくるように」
その人は、そのことばをきいて心配し、悲しそうに去って行った。かれは、大金持ちだったからである。

そして。イエスは言う。
「金持ちが神の国にはいるのは、なんとむずかしいことだろう。」
弟子たちは、それを聞いて驚く。
イエスは言う。
「子供たちよ、神の国にはいるのは、実にむずかしいことだ。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」
弟子たちは、更に驚いた。
「すると、救われるのは、どんな人ですか」
イエスは言う。
「神にはおできにならないことはない」

当時、金持ちとは、神の祝福のゆえに、富を得ると考えていたから、弟子たちが驚いたのである。

その時、ペトロが、イエスに「ごらんのとおり、私たちは、すべてをすてて、あなたに従いました」といいだした。イエスは「実に私は言う。私のため、福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や田畑をすてる人は、今から、いや今、家、兄弟、姉妹、母、子、田畑の百倍をうけ、迫害もあろうけれど、またのちの世では、永遠の命をうける。しかし、先の人があとに、あとの人が先になることがある。」とおおせられた。

聖書解釈では、お金の使い方である等々と、述べるが、違う。
イエスの言葉、そのものズバリである。
金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより、難しい。

所有しない者には、所有する者の気持ちは、解らない。
世界の金持ちは、子々孫々に至るまで、暮らせるようにと、金持ちである。金が金を生む。金持ちは、滅びることがない。

ここて゛、別の宗教の教祖を上げる。
天理教を開いた、中山みき、である。
施しで、家を潰した。徹底して、人を助けるという信仰である。
その神のレベルは、置いておく。
兎に角、中山みきは、身上潰すほどの施しで、一派を立てた。勿論、現在の天理教は、その逆である。信徒から、奪うことを良しとする。
信徒の家屋敷まで奪う。どうして、そうなったのか。それは、奉る神の正体である。
人を助けて、自分が助かるという、屁理屈を言う。
人を助けて、自分が沈没するとは、言わない。
大半が沈没する。

連帯保証人になって、皆、首吊りしている。

さて、捨てろというイエスの真意は何か。
それは、価値の転換である。
すべてを捨てて、私に着いて来なさいと言う。

昔の日本の女は、すべてを捨てて、男に着いて行った。その男の男振りにである。それ程、男に魅力があった。今は、どうか。
身長から、年収、その他諸々、最後に、チン長まで調べるようである。

ユダヤ教からの、価値の転換である。
富は、神の祝福を受けたと考える、また、教えた、ユダヤ教に対決するのである。

ある時、こずるい、ファリザイ人が、イエスにたずねる。
お金は、誰のものかと。
イエスは、そのコインの肖像は誰かと問う。
チェザルだと言う。すると、イエスは、チェザルのものはチェザルに、神のものは、神に返せと言う。

一世紀と、今の二十一世紀に大差はない。
地獄の沙汰も金次第という、ことわざがある。
都会では、黙っていても、金がかかる。
一に金、二に金、三に金、四、五がなくても、六に金である。

このイエスの言葉の問題は、解決していない。
ローマカトリックは、世界有数の金持ちである。
天の国には、入ることが出来ないのである。
あらっ、どうしょうと、思わないで、堂々と、ローマカトリック、福音宣教とやっているところは、甚だしく、厚顔無恥である。

ある、新興宗教の教祖は、幹部に言う。
30人、信者を作れ。そうすれば、生活が出来ると。
一人30人の信徒をもって、皆、生活をしているのが、宗教家である。それ以上になると、貯蓄である。

寺を見よ。
表面も、金を使う。本尊も金である。皆々、金まみれである。
どこに、仏陀の教えがあるのか。
驚くことは、僧侶も、金ぴかである。
袈裟から、帽子まで、金ぴかである。
口を開けば、先祖供養を言う。そして、金を集める。
商売でなくて何か。
イスエは、言う。
地獄に落ちろ、と。

宗教団体の信徒は、大半がアホだから、選挙の票になる。故に、政治家は、法律で、宗教を、特別視して上げる。宗教法人というから、笑う。
税金のかからない、商売法人と言えば、もっと、支持を集めるだろう。

私も、昔、知り合いの不動産業者から、「先生、ここだけの話、宗教法人付きの寺買わないかい」と誘われたことがある。
一度や二度ではない。
要するに、幽霊寺になってしまって、誰も手がつけられなくなったのである。
そのもの、ズバリ、幽霊が出る寺である。

住職の奥さんが相談に来て、寺に幽霊が出る、何とかして欲しいと言われたこともある。
こういうのを、空いた口が、塞がらないという。

キリスト教系の国の大金持ちになった人は、必ず、ボランティア活動、福祉活動、そして、公の奉仕をする。それは、このイエスの言葉が潜在的にあるからだ。

しかし、代々の金持ちは、そんなことをしない。
血の中に、所有欲の塊が入っている。容易なことでは、取り出せない。

しかし、貧乏人の中にも、その塊がある。
同じものである。
所有欲の塊である。

仏陀の弟子である、目連が、神通力を得た。そして、仏陀に言う。亡き母の姿を見たいと。三度、駄目だと言われる。しかし、四度目に、仏陀は、許す。
目連は、母が地獄で牛になり、引かれて苦しんでいる姿を見て、悲しみ、仏陀に言う。
「だから、見るなといったろう、馬鹿が。お前の母親は、施すということを一切しなかった。だから、地獄で、その心根を、叩き潰されている。しかし、アホならなー、それでも、解らないだろうなー」と、言ったかどうかは、解らないが、目連は、仏陀に、母のために、何か出来ないとたずねる。
仏陀は、そこで、「それなら、本当は、自業自得なんだけど、応援するというのは、どうか。地獄のおかあさんに、頑張れと言うのは」と言ったかどうか、知らないが、それから、盂蘭盆会が始まった。
先祖励まし大会である。
それが、日本に来て、日本の御親祭りに、便乗して、お盆を作り、寺が主導権を握った。汚い奴らである。
元々、日本にあった、先祖祭りである。

ちなみに、供養という言葉の意味は、尊敬すべき聖者をみなば、彼の人に供養せよ、である。つまり、生きている人、尊敬する人に、差し上げるものである。

正しい仏教の言い方にすると、回向という。また、慰霊という。
ちなみに、神道では、一切しない。
御親、みおや、奉りである。

死んでからも、世話をかけるな、アホと、私は言う。

もう一つの極めつけ、先祖供養というブッキョウの皆々、どこからが、先祖でしょうか。
あの、アフリカ東南部からの、先祖でしょうか。
それとも、30代まえくらいからのでしょうか。それでも、一億人になります。

先祖に祟られるならば、先祖を捨てればよい。
先祖と縁を切ればよい。

さて、イエスの言葉である。
捨てた後で、百倍になるという。
それが、嘘である。
聖書を書いたマルコの誤り。

百倍になるとか、ならないとかの話ではない。
そんな問題ではない。

報いを受けるということを前提にする、宗教のお話は、すべて、嘘、大嘘である。

そんな問題ではない。
それを語るに、もう、私のエネルギーがないので、以下、省略する。

キリストの絶唱30

新約聖書の記述に、奇跡がなければ、無に等しい。
聖書になる意味が無い。

イエスの奇跡は、無かったと簡単に言う者たちがいる。聖書学者と言われる者にも、そういう者もいる。

それでは、聖書の価値は無い。

イエスキリストの神は、奇跡の神である。

そして、教祖の多くは、奇跡を行った。
奇跡は、何も不思議なことではない。

今、現在も奇跡を行う者は、多い。
私も、数名知っている。

奇跡が無いという者には、奇跡は、起こらないだろう。必要ないからだ。

一時期、普通のサラリーマンが、手のひらで病を癒す力を得た。
映画にもなった。

奇跡とは、今、現在の時点では、ありえ得ないことを言う。
キリスト教布教に、最新の物を持って当たった宣教師は、神と思われた。要するに、考えに及ばないことが、起こると、人は奇跡と言う。しかし、それを得た人に取っては、当たり前のことである。

イエスの奇跡は、当然あった。
ただし、重大なことは、その力が、どこからのものかということだ。
彼のサラリーマンが得た力は、どこからのものだったのか。偶然に与えられたと、考えるが、決して、そんなことはない。前世に原因がある。
前世、そのための修行をしていたのである。しかし、前世で、その力を得ずして、死んだ。今世で、それが目覚めたのである。
と、そうだとすると、まだ、マシである。
しかし、特別な霊団によって、それを得たならば、非常に危険である。

それを、古神道では、サニワするという。要するに、霊の審判をするのである。
マルコ福音の第10章46節にも、めくらの乞食が現れる。

めくらは、上衣を投げ捨てて、おどりあがってイエスに近づいた。イエスが「あなたは、私になにをしてもらいたいのか」とおたずねになると、めくらが「先生、見えるようにしてください」と答えた。イエスは、「行け、あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。めくらはたちまち見えるようになり、イエスについていった。

病気治しは、教祖の教祖たるところである。
イエスの奇跡に無いものは、天候を左右するものである。
天の様を変えることは、病を癒す奇跡より、簡単である。
例えば、台風の進路を変える。曇りを晴れにする、とか。

イエスの奇跡は、最も、厳しいものである。
自分にである。
福音宣教を言うならば、奇跡の力があって、言えるのであり、奇跡を成せない者は、福音宣教など出来ないのである。
何と無ければ、イエスは、弟子たちに、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えている。
世界のキリスト教徒に言う。奇跡を成せない程度の信仰ならば、無いと同じである。

奇跡を精神論で、云々することなかれ。
そんなものではない。
奇跡は、奇跡として、成って、奇跡である。精神論の入る隙は無い。

奇跡を成せない者が、苦し紛れに作ったものが、教義である。
そんなもので、誤魔化されない。

からしだね一粒の信仰があれば、山をも動かすとイエスは言う。

祈りは叶えられる。
叶えられないならば、叶えられない力しかない。

インド、バラモンには、呪術がある。それが、ヒンドゥーにも、引き継がれ、しまいに、密教に引き継がれた。勿論、魔界の力である。
バリ島などにも、それが伝わり、今でも、ブラックマジック、ホワイトマジックというものがある。
ブラックマジックは、相手を不幸にし、病に、果ては、殺す。
それを、ホワイトマジックで、解消する。

陰陽師安倍清明は、矢張り、式神を用いて、マジックを掛けたり、解いたりした。勿論、式神とは、インド系の魔界に縁するものである。

魔界系は、使いやすいのである。
しかし、その後が悪い。

イエスは、言葉で癒した。
凄まじい、言葉の力である。
これを、古神道で言えば、言霊である。

立って行け、あなたの信仰があなたを救った。
これ程の、権威ある奇跡を行った者は、イエス以降いない。

狂いのエネルギーでも、無理である。
矢張り、次元のマジックを使用した。
それは、一度、別次元に連れて、そこで癒し、現実に戻すのである。
それを、周囲の人は、見抜けなかった。

簡単に言う。
肉体の病は、この次元のものである。それが、霊的な病によるものであれば、霊的な病を癒すことで、肉体を癒すのである。
ただし、霊団による病の場合は、その霊団と対決する。ゆえに、祈りが必要になる。

多くの霊に憑かれた人という場合が、そうである。

悪魔祓いというものがある。
それには、霊界の力が必要になる。

イエスには、アブラハムからエリア、モーゼ等が、援軍に当たった。

大陸を支配する霊界、ヒマラヤである。
その下に、それぞれの地域の霊界がある。

イエスの言う父なる神も、ヒマラヤ霊界である。
それでは、ちなみに、日本には、高天原霊界、タカアマハラ霊界という。
その主宰神として、総称して、天照大神が存在する。

イエスの奇跡の大本が理解出来れば幸いである。

2007年08月06日

キリストの絶唱31

マルコ福音、第11章からは、イエスの受難が描かれる。
エルサレムに近づき、イエスは、小ろばに乗って、入城すると、人々は、自分たちの上衣を敷き、あるものは、木の枝を野原から取り、道に敷いた。
そして前を行く人、後を行く人も「ホザンナ、賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。祝福あれ。今ぞ来る、われらの父ダビデの国。いとたかきところにホザンナ」と叫んだ。

ホザンナとは、ヘブライ語で、私たちを救ってくださいという意味。この時は、歓呼の叫び、万歳との意味になる。

イエスはエルサレムに来て、神殿にはいり、まわりを見まわされたが、もう夕ぐれになっていたので、十二人をつれてベタニアに出ていかれた。

イエスを歓迎した人々は、イエスを、この世の王になるべくある人だと信じていた。
しかし、と、すると、大変、お目出度い人々である。
イエスには、軍隊も、国を作る何物も持たないのである。
貧乏な、宣教の一派だった。

当時は、イエスのように、メシアだと言う者、多数。
要するに、新興宗教の形相である。
しかし、それらの人から、抜きん出たのは、十字架刑である。

神殿に入り、周りを見渡したが、夕暮れになっていたので、ベタニアに出ていかれた。
この、何でもない記述を説明する人はいない。

イエスが、神殿で教えを説いたが、神殿で祈るという、記述は、一つも無い。
イエスが祈るのは、すべて、人里を離れての、山である。

ここに、重大な意味があることを、知らない。

神殿は、イエスにとって、祈りに相応しい場所ではない。

神殿とは、その名の通り、神の住まいである。イエスも、神の玉座という。
しかし、そこで祈ることはない。

祈り、とは、何か、である。

隠れたところに、おいでになる神には、隠れて祈れと、イエスは言う。

ただ今、教会がある。
チャーチは、カトリックに、チャペルは、プロテスタントの教会をいう。

祈りにも、ピンからキリまである。
ピンは、イエスの祈りのように、人里を離れての場所である。キリの祈りは、建物の中で行われる。

建物の中で行われる祈りは、妄想、自己催眠程度のものになる。

イエスは、弟子たちに、どのように祈るのかと問われて、天にまします我らの父よ、との、祈りを教える。
それは、今でも、すべてのキリスト教徒が、唱える主の祈りと言われるものである。

ユダヤ教で、さんざん、祈りについてを、教えられても、実際は、祈りを知らなかったのである。

祈りとは、自己対座、自己観照である。それが、第一である。
そして、レベルが高くなると、祈りは、語り合いになる。誰と、語るのか。霊人とである。

祈りという言葉を、もっとも解りやすく言うには、言霊の古神道の祈りを言うと、解る。
イ、ノ、リ
イを宣べるのである。
イとは、意識の意である。
祝詞は、宣る言葉である。

言葉にすることは、成就するというのが、言霊である。
沈黙することを、黙祷といい、それを、意識的に、あるレベルの心の状態に置くことを、瞑想という。
座禅の座るという行為も、瞑想に近い。
しかし、この瞑想とは、何かというと、非常に難しい。

インドのヨガから、瞑想が始まった。
それが発展して、チャクラを開く等々の、怪しい、教えというか、妄想がはじまった。
七つのチャクラ、または、九つのチャクラ等々、皆、嘘である。
体は、すべての部位がチャクラである。

三蔵法師玄奘は、このヨガ、つまり、大乗仏教におけるユガ論を、求めて天竺に旅した。
だが、実際、ヨガは、インドバラモンから発したものであり、それが仏教にも、受け継がれて、修行の一つとなった。

ヨガで痩せるという程度のヨガならば、大したことはないが、それで、妄想の悟りなどというと、おかしなことになる。

玄奘は、理屈攻めで、その教えを学んできた。
ただ今、日本で読経される、仏典の翻訳も、玄奘のもの多数である。

私は、下手な小説で、玄奘を書いたが、玄奘の創設した、法相宗の教義にまで至ることろまでは、書くことが出来なかった。

玄奘は、晩年、自分は、学を為してきたが、実際、それを実践しなかったと、言う。そして、亡くなった。

ヨガは、禅宗に受け継がれて、中国禅を創作し、それを、道元などが学んできた。
仏に至る道は、多数ある。
日本の仏教は、皆、中国思想を加味されたものである。

祈りは、自己対座であり、自己観照である。
そして、祈りは、次元を超えた霊人との対話である。

日本の伝統は、言葉が神であるから、一切の手続き無しに、言葉に発することによって、祈りの行為が成った。
口から発する音が神であるから、それは、多くを語らない訳である。

西洋思想、西洋宗教学等々は、語るをよしとする。

イエスは、長々と言葉を発する祈りをする、ユダヤ教徒を徹底して、攻撃した。
それを、偽善者と呼んだ。

イエスの奇跡の言葉は、治れである。
言霊である。
治れと言えば治るのである。

祈りに至る手前で、皆、躓いているのである。
イエスが言う信仰に至らない者が、延々と、言葉の祈りを繰り返す。

弥栄と言えば、弥栄がくるのである。
イヤサカという音霊、オトタマが働く。

人は祈り続けてきた。
これからも、祈り続ける。
しかし、神殿で祈る程度では祈りにならない。

これを語るに、死ぬまでも、それ以上もかかる。
故に、以下、省略。

ボランティアについて3

ボランティア精神に、マザーテレサが、引き合いに出されるが、彼女の行為は、ボランティアとは、言い難い。

彼女は、その活動を、あくまで、ローマ法王により、認可されることを望み、そして、認可されて、活動をしている。
カトリックでは、神の代理者である、法王の認可なく活動するのは、タブーである。
そして、修道会としても、認可された。

教会も、その死後、すみやかに、聖人になる資格の、福者の称号を与えた。これから、彼女の奇跡の調査を開始して、聖人に認められるだろう。

「神様のために、素晴らしいことを」と言う。
その信仰に、基づきの行為行動である。
ボランティア活動の一つの形であるが、実は、欧米で言うボランティアは、すべて、その信仰よりなる。

マザーテレサの活動に、共感し、また、その姿に光を見て、続々と、その後に慕う人々が、現れて、現在に至る。
慕うというのは、マザーの活動を見て、生きる意味意識を発見したのである。
と、共に、そのようにしか、生きられない、己の姿に気づいたとも言える。

この世に、天国、神の国を実現しようとするのは、信仰ゆえである。

インドのシステムを変えるというより、その活動自体に意味を見出す。
残念ながら、マザーの活動によっても、インドの風を変えられなかった。

確かに、人間として、対座した時、マザーテレサの威圧感に、圧倒されるだろう。
彼女の背後霊団は、とてつもなく、大きい。

そして、その活動の元は、目の前に現れた、キリストの姿である。
磔のキリストが、目の前に現れて言う。
「私は乾く」
マザーテレサの確信である。
そのメッセージを、インドの地で、実践した。

このような、あきらかなる、メッセージを通常、人は与えられない。
マザーテレサは、選ばれたといえる。

日本のカトリック信者の多くに見られる、ムードの信仰は、無い。
信仰は、即生きることである。
そして、生きることは、神を相手にすること。マザーは、インドの捨てられた人に向かった。そして、その行為を、ボランティアと呼ぶかといえば、違う。
キリストの乾きに、応えたのである。

共生の思想より、強い信仰である。
神のためにという、目的がある。つまり、神による、祝福がある。それは、神からの報いを得ることである。
身も心も、神に捧げた。
それが、行為行動に成った。

それでは、宮城まり子をみる。
障害児の施設、ねむの木学園を興し、現在も、それが続けられている。
彼女は、恋もする、普通の女性である。
何をして、彼女を行為させたのか。
彼女には、福祉という言葉がある。

福祉という言葉についての、解釈は、暇な学者に、任せる。
実践もしないような、学者に、解る訳が無いが、勝手にさせる。

自分の出来ることをする。
ただそれだけである。
そして、それも、そのようにしか生きられないから、それゆえの行為行動である。

彼女は、特別なことをしている意識は、無い。
出来ることをする。
自然発生的である。

啓示も与えられた訳ではない。

日本の伝統には、あわれ、を生きる思想がある。
あわれ、というと、仏教の哀れ、とか、憐れの文字が与えられるが、あわれ、の感覚に近い意識は、慈悲という言葉になる。
もののあわれ、という。
それは、共感と共生の思想であり、人間に留まらず、自然、すべてのものに、通ずるのである。

同じ場所に生きるもの同士の関係である。
ラテン語のボランティアの語源、ボランタスに近い。

そこには、特別の啓示は無い。
あるのは、共に生きるということだけである。
だから、自然に対しても、ボランティアをする。
勿論、今は、それも失われて久しい。
すべて、金に換算し、自然も何もあったものじゃない。
先祖も、子孫も無く、今の利益を確保することに専念し、死後、とんでもない霊的空間に行く者、多数である。

バリ島には、相互扶助の思想が生きている。
日本の伝統と、同じである。
福祉とは、相互扶助を言う。

他人が他人でなくなる瞬間がある。
袖振り合うも他生の縁である。

キリストの乾きに応える、マザーテレサと、他生の縁に生きる者の、行為行動は、違うということが解る。
ちなみに、一神教の場合は、実に激しい行為行動を求められる。
すべてを捨てて、神に向かうということである。

他生の縁に生きる者は、すべてを捨てることなど必要ない。
出来ることをする、のである。

右を打たれたら、左も与えよという、激しい病的感覚は無い。

松のことは、松に習え、竹のことは、竹の習えという、優雅、風情がある。

自分の器に合ったものこそ、大切なことである。
無理に、型に押し込める必要は無い。自分の形を作り上げてゆけばいい。
松尾芭蕉は、大井川を渡る時、捨て子に逢う。
お握りを与えて言う。
「汝は汝の定めを泣け」
実に、福祉であると、私は思う。

2007年08月07日

原爆記念によせて「核」

長崎被爆者の会が、地元選出の議員、元防衛相の久間議員を辞職に追い込むべきと気勢を上げている。
久間が、誤解を招いたという発言にも、許せないと言う。

こういう、女子供のような、感情論から、いつになったら、独立した大人としての、核議論が出来るようになるか、である。

はっきり言うが、戦時下である。
何があっても、当たり前である。

大戦終結当時の日本の指導者に、抗戦意識を失わせる。そのための原爆投下であり、ソ連参戦にあるのは、すでに定説となっている。そして、ドイツのように、分断占領、民族分断を避けられたのも、有力学説の一つだといわれる。
私には、どうでもいいことであるが。暇な学者の言うことである。

私の言いたいことは、久間の云々の問題で、なにを、焦点をぼかしているのかということだ。
いつまで、感情的平和論、感情的核廃絶を言うのかということだ。

あの、あのである。最貧国の北朝鮮が、核開発だけで、大国を振り回しているのである。

「しょうがなかった、とは、何事か」と言う、それを言うとは、何事かという。
戦時下である。と、何度も言う。

戦争が、どんなものであるか、被爆者ならば、よく理解しているであろう。
理想的平和論で、死んだ者が生き返るというならば、話は別である。

どうだ、生き返らせられるか。
無理であろう。
死んだ者は、二度と、戻らない。

だから、こそ、冷静に核を論じることである。

六カ国協議で、主導しているのは、唯一の被爆国、日本か。
違うであろう。
米中である。

これ一つを見ても、日本国民は、単に、感情的になるばかりで、つまり、アホを演じているばかりで、唯一の被爆国としての、発言さえ、世界に出来ていないのである。

もう、いい加減に、アホ、馬鹿、間抜けは、止めるべきである。

阪神淡路大震災の時を、言う。
時の首相の、村山は、即座に自衛隊の出動要請もせず、答弁で、何と言ったか。
はじめてのことで・・・
アホであろう。
理想と、平和を説くが、結局、現実に役立たずだった。
私が、知る限り、あの時に、国会に駆けつけて、即座に自衛隊要請をと言ったのは、石原慎太郎のみである。

結果、助かる者も、死んだ。
それを、見抜いたのは、市民である。
首相が慰問に行っても、誰も相手にしなかった。しかし、天皇皇后両陛下が、いらした時、市民は、感涙の涙で、迎えた。
勿論、天皇陛下は、何も出来ない。しかし、一番、心に掛けていることを知っていたのである。その心が通じていたというのに、私は驚愕するのであるが。

さて、いいたいことは、それである。

核廃絶をと、唱えても、廃絶されるどころか、今では、イランもはじめている。
長崎、何をやっているのだ。

今に、再び、原爆投下される。

涙を流しても、日本人以外に通じると、思っているのか。アホであろう。

アメリカが、日本を守らなければ、日本も核開発する。
それくらいに言わないと、四津国の皆々は、解らないのである。
中津国である、日本は、特別な国であるから、それを理解してもらうには、不可能であるる。

平和主義の反核と、民族主義の核武装という、アホらしいことを、平然とやっている、日本である。

再び、原爆投下される。

明晰に、核を議論することなければ、何度も言うが、再び、原爆投下される。
勿論、長崎、広島に決まっている。
道筋がついたのである。

日本を足腰立たなくするには、それが、最も良い手段であること、明々白日である。
大陸と、半島が凄まじい反日である。

イスラムが、異教徒を殺すこと、平然であるが如く、反日を教育された者、日本を攻撃するに、躊躇いは無い。

戦後、62年を経ても、この体たらくである。

為政者は、現実に対処する、実行力、それも、大局を見た、行動力が必要である。

中越地震では、即座に自衛隊出動要請を出した。

ちなみに言うが、北朝鮮とは、五年ほど前から、毎日のように、新潟沖、横須賀沖で、銃撃戦が行われているのである。

まあ、国民に知らせると、何せ、感情的になるから、知らせないのである。

もう一つ言うが、世界は、決して話し合いで、解決することはない。
何一つ、話し合いで、解決する問題は無い。

核を利害損得で、冷静に明確に語ること意外に無い。

もう一つ言う。
国旗掲揚、国歌斉唱で、立つことのない教育をしているのである。
アラブ、イスラムに行けば、確実に殺される。
唯一、世界の礼儀作法は、相手国の、国旗、国歌斉唱の際に、起立して、敬意を払うことである。

お解りか。
アホ、馬鹿、間抜け、糞ったれの、感情的平和主義的被害妄想的、頭の悪い日本人である。

ちなみに、私は、縄文式大和魂保持者高天原霊界直系の日本人であるから、少し違うのである。

実に、私も感情的であること、明々白日である。

追伸
理想的平和論を、イスラム過激派の元に行き言えば、殺される。
殺されることのない国内にいて、云々する程度の平和論であるから、終わっている。
それから、もう一つ、言う。
被爆した方々の慰霊を、しているのか。
どのような慰霊であるか。
それが慰霊になっているのか。
祈りを知らない者が、一億人いても、祈りにならないのである。

それから、ついでに言って置く。
日本人兵士の遺骨が、未だに、各国に放置されている。
116万人というが、まだある。
タイの僧侶は「日本人は人間であるか」と言うほどである。
タイ北部から、ビルマ、現在のミャンマーの人々は、未だに現れる日本人兵士の遺骨を、大切に掘り起こして、御祭りしている。

即座に駆けつけて、それらを持ち帰ることの無い日本人に、平和など訪れることのあるわけがない。
死者の声を聞けない者どもが、一億人いても、詮無いこと。

更に言う。
東京大空襲で亡くなった人は、広島、長崎の人より多いのである。
核兵器廃絶ではないだろう。
「全ての兵器の廃絶」である。しかし、それが、いかに非現実的であるか。
非現実的なことを言い、それをメッセージとして世界に発信するのである。

日本は世界最大の核武装により、世界の平和を願うものである。
という、メッセージを発したら、世界は、どのようなところになるであろうか。
震撼とするだろう。
核廃絶より、その方が、あまりの現実的発言に、世界は、沈黙し、アジア諸国は、糞小便を垂れ流す程の効果であろう。

戦争の達人でない限り、素手で、兵器を持つ者と、渡り合うことは出来ないのである。

安倍首相殿

安倍首相殿

ただ今、支持率が落ちるだけ落ちて、野党をはじめ、与党からも、辞任の声が上がっていますが、国民は、あなたが辞任して、改革が遅れた時、大きな後悔をするでしょう。

今、あなたがしている改革は、長年の検案でした。
兎に角、あなたは、辞任せずに、この改革を断行するという意思。
私は評価します。

私の内閣、私の、と、多く私の、と言う言葉に、大きな誤解も生じていますが、それほど、改革に思い入れがあるということ。

私は、自民の民主、そして他の野党の支持者ではありません。
しかし、今、出来る改革をしなければ、日本は、本当に後悔します。

今回の参院選で当選した、野党の新議員は、安倍辞任を簡単に言いますが、一体、それでは、誰が、この改革をやるというのでしょう。
しかし、自民の新議員も、大変残念ながら、成りたい人が当選しています。
六年の任期にある参議院です。

重要な憲法改正の議論に耐えられる人は、いません。それがなりより、残念です。
要するに、お勉強していない人が、議員になっているということです。

お勉強とは、日本学とでもいいましょうか。
大局を見つめるための、日本を学んでいません。

ためしに、彼らに万葉集を講義させてみるといいでしょう。
学者の万葉集ではありません。

日本の心を歌う、日本語の骨頂が万葉集にあります。

また、彼らに辞世の句を詠ませてもいいでしょう。

詠むに耐えられる辞世の句が歌えるでしょうか。

さて、あなたの改革が遅れれば、日本は未来に大きな負債を残したまま進むことになります。

薬害エイズで有名になった、川田さんも当選しました。そして、彼は言います。安倍さん、辞めてくださいと。
しかし、彼は、監視するといいます。
監視するという者が、現状の改革の意味を知らないというのは、実に軽薄です。

私は、彼を支持しますが、現状把握に対して、まだ甘すぎます。

安倍殿
北朝鮮には、一歩も譲らないことです。
今までの政権の中で、唯一、北朝鮮が恐れた政権でした。
選挙の前から、北朝鮮は、安倍批判一色でした。
あの国に恐れられるというのは、実に、実に重要、重大なことです。

日米関係が揺らぐことは、安全保障上、実に危険なことですが、それを現在、多くの日本人は、理解できないようです。

日本に向けられている、核兵器、ミサイルの量を知らない強みです。
攻撃されれば、一溜まりもありません。

それは無いと信じ切っているから、驚きます。

支持率低迷が、政策の不備ではありません。
多くを敵に回しても、やらなければならない時があります。
それが、男の生き方です。

百年後、千年後に評価されて、本望だと進んでください。

政治の空白を作った、アホは、ロクロを回しているといいます。
あれを、生き恥を晒すというのです。

2007年08月08日

もののあわれについて74

笠女郎の歌を、もう一首。
大伴家持に贈った歌である。

思ふにし 死にするものに あらませば 千度ぞ吾は 死にかへらまし
おもうにし しにするものに あらませば ちたびぞわれは しにかえらまし

このような、大胆、素朴、技巧など、吹き飛ぶほどの情熱が、万葉の世界である。

焦がれ死ぬということがあるならば、私は、千度生き返っても、あなたを恋慕う。
家持より、年上の笠女郎である。
激しいばかりの恋心を歌う。
年増女の押し付けが、はっきりと解るのも、面白い。
平静を装っていても、歌を作ると、この激しさである。
実に、万葉集は、大胆不敵でいい。

古今、新古今には無い、野性的な感情である。
新古今は、雅、洗練という意味では、非常に評価されるが、この野性的、生命力は、万葉集に適わない。
一つ言うが、古今も新古今も、万葉集が土台であり、それが無ければ、成り立たなかったということである。

解った風なことを言う、者に言う。
万葉集を基にしてこその、古今であり、新古今である。
親が無くて、子が生まれることはない。
万葉集は、古今、新古今の親である。
万葉晩期は、古今に近くなる。そして、新古今へと続く。
しかし、芸としては高まるが、生命力は、落ちる。

万葉には、芸術活動、文学活動という意識は無い。
ほとばしる、言霊の世界である。
勿論それは、音霊、おとたま、の根拠がある。
音霊とは、数である。
五七五七七という、五七調、七五調には、音霊の訳がある。
これ以上は、古神道になる。

大祓祝詞には、タカアマハラに 神づまります カムロギ、カムロミ のミトコもちて 八百万の神たちを 神集いに集いたまい

大和言葉の、言霊の、そして音霊の、言葉が続く。
そしてそれらの言葉は、善言美辞に溢れるのである。
不吉な言葉や、不幸を連想する言葉は使用しない。

井沢元彦氏に、登場してもらう。

「コトダマは日本人を動かす中心思想の一つである。そして、さらに重要なのは、そのことを万葉時代の日本人は自覚していたのに、現代の日本人はまったく自覚していないことだ。
だから、知らず知らずのうちに振り回される。」
さらに続けて
「二つほど例を挙げよう。
一番わかりやすいのが、前にも述べたが憲法第九条の問題である。
私は、これでも法学部の出身だ。
法律を学んだ者の目から見れば、今の憲法は国民の平和で安全な生活を守るための基本的条件を満たしていない。なぜなら、外国から侵略された場合の対処について、何の規定もないからだ。
この欠陥を埋めるのが、安保と自衛隊だが、自衛隊は憲法第九条を字義通りに解釈すれば、あくまで違憲(偉法)の存在である。
だから、私は憲法九条を改正すべきだと思っている。
国民の安全を守るために、国が軍隊を持つのは当然の義務であるし、持つ以上はそれを憲法に規定しないと危険だ。というのは軍隊とは強力な力を持つ組織だから、法律できちんと縛っておかなければ危ないからだ。簡単に言えばシビリアンコントロール(人民統制)ということである。
戦前の日本、いや大日本帝国はこのシビリアンコントロールが確立できなかったために軍隊が暴走し国を滅ぼした。」

「それなのに、なぜ日本社会党は「非武装中立」などという、現実には実行不可能なことを主張したのか、いや、できたのか。
それもコトダマである。
コトダマの世界では、「外国が攻めて来る」などという「不吉」な想定は一切排除し、「平和、平和」と叫んでいればいい。それで平和は保たれる。もし、「外国の侵略があったら、どうするのか」という意見を言うヤツがいたら、「平和の敵」としてその口を封じればいい。コトダマの世界では「外国の侵略」などというコトアゲするヤツは、「侵略されることを望んでいるヤツ」である。だから、意見を言わさなければいいのだ。そして、一方で憲法を読む。憲法は「祝詞」だから、読めば読むほどにその霊力(すなわちコトダマ)で世界は平和になる。」

「さらに一つコトダマが生きている例を挙げれば「言葉狩り」がある。」
「それゆえ差別を表す語(差別語)を「狩って」消してしまえば、差別という実体も同時に消滅することになる。だからこそ、あんなに熱心に「言葉狩り」をする人々がいるのである。」

「このように、日本人は現代でもコトダマの多大なる影響を受けている。」

言霊を認識していた、万葉人は、現代の人より、賢いと言える。
現代人、特にインテリと言われる人々は、認識せずに、言霊の迷信に陥っているということである。

しかし、井沢氏は、だから、万葉集の意義があるとしている。
言霊ゆえに、編まれた詞華集である万葉集を認めている。

「歴史の宗教的・呪術的側面を無視して、歴史を解明しようとしても、それは無理というものである。」

私も、その通りだと言う。

言霊を知らない者が、いくら解釈しても、解る訳がない。
推測、憶測で、解釈するだけである。

もう一つ言う。
言霊然り、大和言葉然り、それを理解せずに、日本の歴史、日本の心を理解できるわけがない。

そして、それを伝える、教えられる者がいない。教育の世界に、いないのである。これは、驚嘆に値する。
ユダヤ、キリスト教、イスラム教では、幼児から、その経典を教え、思考の土台を作るのである。
もし、小学生の時から、日本の言霊について、大和言葉についてを教えられていれば、インテリと言われる人たちも、幼児以下の日本語の教養を解消できるはずである。

前にも言ったが、井沢氏は、私と違った視点で、歴史と、その根本的原理を見ている。
それが、コトダマであり、私の言霊、大和言葉なのである。

正確に相手の名前を解れば、逢わずとも、祈りや、呪いを掛けることが出来る。日本には、そういう伝統がある。
それを、インテリ、知識人たちは、一笑に付すが、それは、とんだ誤りである。
今、現在も、それが出来るのである。
私は、それの実践者であるから、解る。

もののあわれについて75

大伴家持に寄せられた歌を読む。

河内百枝娘子の歌
かわちのももえのおとめのうた

ぬばたまの その夜の月夜 今日までに 吾は忘れず 間なくし思へば
ぬばたまの そのよのつくよ きょうまでに われはわすれじ まなくしおもえば

はじめてお逢いした、その夜の、月の風情を、今も忘れません。あの夜から、絶えることなく、あなた様を思い続けているのです。どうして、忘れることができましょう。

豊前国の娘子大宅女の歌
ぶぜんのくにのおとめおおやけめのうた

夕闇は 路たづたづし 月待ちて 行かせ吾が背子 その間にも見む
ゆうやみは みちたつたつし つきまちて いかせわがせこ そのまにもみむ

夕闇では、道が暗く、足元が危ないのです。月を出るのを待って、お出掛けください。その間にも、あなたの姿を見ていたいのですから。

安都扉娘子の歌
あとのとびらのおとめのうた

み空行く 月の光に ただ一目 あひ見し人の 夢にし見ゆる
みそらゆく つきのひかりに ただひとめ あいみしひとの いめにしみゆる

み空を行く月の光で、ほんの一目、お逢いしただけのあなたの様が、夢に現れてくださいました。

片恋の歌、つまり、片思いの歌である。
これにより、大伴家持の風貌が、見えてくる。一目惚れされるほどに、美男であった。

さて、この辺りになると、万葉も、やや繊細な感じになってくる。
平安期の伏線である。
初期万葉の、生命力、気迫が薄れて、優美な平安に向かうのである。

万葉集の歌が最も多い時代は、759年である。一応、万葉集、成立としておく。
私は、初期万葉を飾った、舒明天皇一家を、万葉の開始と見る。
舒明天皇の即位、628年。
622年、摂政である、厩戸皇子が崩御し、蘇我の支配が濃厚になっていた時期である。
この舒明天皇の皇子である、後の天智天皇、そして、天武天皇によって、日本の国が確固たるものになる。大化の改新による、天皇家の政である。
大化の改新、そして、飛鳥、奈良における、維新である。
舒明天皇即位から、1380年を経ている。万葉集の歴史である。
舒明天皇は、大化の改新を見ずに、崩御され、沈黙の天皇と私は言う。
蘇我の支配を、じっと見つめ続けていたのである。
蘇我馬子の孫である、入鹿の執政が最高潮に達したのが、642年である。
翌年、643年には、厩戸皇子の子である、山背大兄王及び、その一族を殺した。
見かねた、中大兄皇子、天智天皇が、645年、入鹿を誅する。大化の改新である。

飛鳥、白鳳、奈良時代、その維新により、日本の国が成った。
飛鳥、奈良時代を、日本の精神の原点と呼ぶ。その心は、縄文である。
その縄文の心が、初期万葉に結実した。私が、万葉集を伝統と言う訳である。

さて、上記、三首の歌である。
結句を見ると、間なくし思えば、その間にも見む、夢にし見ゆる、である。

いよいよ、精神が複雑化してきて、繊細になっている。か弱い女の歌になるのである。
大伴家持の歌も、古今や、新古今に通じるものになってゆく。それは、後日に譲る。


2007年08月09日

木村天山の歌

クラシック系音楽評論に詳しいO氏より、私の歌、演歌師、歌師としての、歌唱の評論を頂いた。
以下、それを載せる。

 演歌のみならず、昭和歌謡曲、童謡、そして日本歌曲も歌う演歌師。
雨降りお月さん、トンボのめがね等々の童謡を、日本歌曲の域にまで高める。
アカペラ曲も、ためらいもなく歌う。

 氏の唄には、多くの演歌歌手にはない独特の路線がある。

 まず、消極的な意味での定型的が無いこと。
恣意的に抑制を排し嗜好の一般性を狙うべく定型性を伴った大量消費型のコマーシャリズムに則る演歌歌唱法においては、氏の唄の味わいは到底見出せない。
詩を浮き彫りにするようなフレージングは、面白く、しかし歌詞の息使いと整合し極めて自然である。

具体的には、歌詞の意味・それが与えようとする効果を、独特の「間」と「音圧の変化」そして「ルバート」によって捉え表現しようとする。
確かに音楽で伝えるべくものを譜面の正確な体現により為そうとする方法もあるが、木村天山氏の唄は、それより優先させるものべきが他にも有るのだと感じさせる。
主観性を打ち出した歌唱法ではあるが、メロディーと歌詞を把握しやすいため、結果、配慮の利いたもとなる。

 そして、マイクを使わず、全身を使い声を共鳴させ、時には力技も辞さない果敢な試みが見られ、迫力がある。
また、歌唱に舞踊を取り入れ、身体の動きと強く同調する瞬間が、新しい。
日本舞踊を演歌・朗詠・童謡と日本歌曲へ適合させる新しい解釈。
これは他の演歌歌手とは決定的に異なる。

 よって、他の演歌歌手の形態は、より大衆演歌らしい途を志向するため「均質性」と「形式の統一性」を重んじる結果となるといえる。
しかし、上記のことから木村氏の唄は、寧ろ逆説的には思い切ってジャンルの概念を捨象することで、より高い自由度と効果的な歌唱を呈したといえる。

デメリット:
1. 感情が高じると、ビブラートの幅が広くなりすぎて音程がずれる。安定しない。
2. 特に低音の不安定さが気になる。
3. 音程が非常に正確 とは言えない。
逆に言えば、一般のプロの演歌歌手は、上の3点だけのミスはしない・・・というだけのことです。

評価される部分より、デメリットといわれる部分に、納得する。
感情が高じると、ビブラートの幅が広がりすぎ、音程がずれる、安定しない。と、ある。
その通りで、実は、私は、それを、善しとしているのである。
音程がずれる、安定しないから、いい。
それに関しては、ピアノの辻あやか、からも、感情のために、音程がずれていると、言われる。が、違う。
それでこそ、私の歌なのである。
逆に言うと、そういう、芸当は、誰にも出来ない。物真似で、出来る人は、いるかもしれない。

特に、低音の不安定さが、気になる。
実は、藤岡宣男の凄さは、裏声の高さの美しさも、さることながら、その低音の安定が、見事だった。
低音が、不安定だということは、歌全体が、不安定になる。
要するに、土台の無い建物のようだ。
それでは、芸として、半人前である。

素直に、私は、それを認める。
実に、私は、探りながら、低音を歌うのである。
そして、この探るという行為が、私の芸術活動である。

それが、次の音程が非常に正確、とは言えない。ということになる。
O氏は、ピアノ教育を受けた、クラシックのエリートである。
クラシック音楽は、音程が命である。

私は、音程を否定するものではない。音程あっての、西洋音楽である。
それでは、言うが、ピアノのドという音の幅を、何と聴くかである。
絶対音感という、精神疾患がある。
すべての音に、ドレミの音が、当たるのである。それ以上のヘルツ単位にも、陥る。

西洋音楽の限界は、それである。
人間を機械と一緒にして、善しとする。
声楽家の声は、機械であって、善しとする。

実は、ここが、議論のしどころである。

音程とは、何か。

耳の悪い者は、音楽は、出来ない。要するに、よく聴くことが、出来ないからである。
出す音は、聴く音である。

音程が正確ではないという、その根拠は、西洋音楽の音程のことである。
その音程に、当てはまらない音程を、不正確という。
何故、それが言えるか。
それが、多数だからである。

西洋音楽の音程では、大和言葉の、その音のブレ、ズレを許せないのである。
O氏の指摘により、私は、益々と、意を強くした。

私の万葉集朗詠を、ピアノの辻あやかは、音程が不安定な、でも、何となく、安心するものという。
この、何となく、心が安定するという、ここに、西洋音楽でいう、音程では計ることができない、音、そのものがある。

機械のように、音程が、正確であることを、私は、素晴らしい芸術行為だと言う。
そして、私の歌のように、西洋音楽でいう、音程が正確ではないという行為にも、芸術活動を観るのである。

藤岡宣男は、私に、歌うなら、発声指導を受けてからと、言った。しかし、音程を、正すとは、言わなかった。
つまり、藤岡は、音、そのものの、許容を知っていた。
オーフといわれる、許容範囲である。

音は、心である。
厳密に、それを、規定できないし、出来たら、それは、ゾンビ、妖怪、化け物である。

日本の伝統、言霊を支える音霊は、生きている。
生きているということは、動いている。
死ぬということは、静止である。

音は、動いている。

藤岡は、私の歌を、音程の幅が広すぎて、何の音か、解らないよーーー
と、嘆いていた。

私のビブラートは、楽譜に出来るとも、言った。
ああ、懐かしい。
そうして、言い合いをしていた頃、私は、幸せだった。だから、舞台で歌うこともなかった。藤岡との言い合いで、芸術活動をしていたのである。

私は、藤岡の次にO氏を尊敬している。

さらに、O氏からの、批判を受けて、舞台に立つつもりである。

長唄の稽古をしていた時、三味線の音とは別の音で歌がある。また、三味線の音より、ズレて、歌が始まる。また、二上がり、三下がりが、行われる。
そんな芸当を、西洋音楽は、出来ない。
勿論、今では、邦楽の方が、西洋音楽に近づけて、理解を求めている。

どちらが、許容範囲が、その心が広いのかは、一目瞭然であろう。
常磐津、清元、義太夫、地唄、大和楽、新内等々、西洋音楽の五倍の、力量がいる。

西洋音楽も、音楽である。音楽の一部である。すべてではない。

2007年08月10日

台風の進路変更について

自然現象に手を入れることは、僭越行為の何物でもない。
しかし、私は、今年から、台風や、天候に手を入れた。
だが、続けるつもりはない。

奇跡ではない。
簡単なことである。
言霊の力と、想念の力の統一である。
祈り、という。

天気を変える人は大勢いる。
有名人では、三輪明宏さんなども、雨を止めたりするようである。
だから、特別ではない。

多くの奇跡は、悪霊から出る。
神と言われる霊は、基本的に奇跡は行わない。

例えば、今でも、民族楽器のディジュルドゥ、本当は、イダキでは、雨を降らせることが出来る。雨を降らせることが出来ない、奏者は、贋物である。

雨乞いの祈りは、ある。
天気は、特に人の想念を写すものである。

私が、手を入れたのは、ご存知のように、自然環境に、多く人の影響が入り、温暖化等の状態を作り出しているからである。
人間の責任である。
よって、被害を回避するために、手を入れた。

台風の進路を変更出来る人は、大勢いるが、決して口にしないものである。
新興宗教の教祖で、人に崇められることを好む、アホならば、別だが、それらは、すべて、悪霊、魔神とでもいうが、それらが関与する。

奇跡で、有名なイエスキリストは、また、霊に憑依されていた。
悪霊、魔神ではない。
正しい霊である。
イエスの、守護霊と言ってもいい。

有り得ないと、思われることをする場合は、別の力が必要になる。
別の力とは、霊的力である。
現在の科学では、まだ解明されないだけである。

私は、霊の憑依を拒む。
故に、日本の伝統である、言霊と、想念の合一による、祈りで、行う。
ただし、そのために、特別な、行為をするものではない。
例えば、何か、肉体を痛めるとか、祈りの言葉を唱え続けるとかである。

私は、何も、しない。
ただ、言霊、つまり、言葉に出すのを、想念で、出すのみ。
すると、台風の進路が、見える。
気象庁の予報が、違うと思う。
では、私は、先を預言しているのだろうか。

こうなると、確信するのみである。

すると、天気予報と、違って、進路が変わる。

思い通りになったということで、変えたということになれば、変えたのであるが、別に、私が何もしなくても、変わったのかもしれないと思う。
だから、特別なことではない。

私は、奇跡を嫌う。
何故なら、奇跡は、先ほども言うように、魔の力が多いからだ。
魔でも、何でも、奇跡を起こすという、アホではない。

私は、普通の人間である。
実に、感情的な、激情的な人間である。
それ以外の何者でもない。

だから、空海が、明けの明星を、飲み込んだという話に、不審を抱く。
そういうことをするのは、正しい霊系ではないと考える。

人を驚かすものは、大半が、魔である。
人間に奇跡は必要ではない。

何より、生まれて生きることが、すでに、奇跡であろう。
それ以外に、奇跡が必要か。

2007年08月11日

新聞

私は、多くの新聞を読む。
ただし、今は、半年に一度の割で、銘柄を変える。
視力のせいで、読むという行為が、とても、しんどくなったからだ。

言論の自由であるから、素晴らしいと思う。
新聞の様々な考え方を見て思う。

そして、一時期から、署名入りの原稿も多く出来た。実に、信憑性があっていい。その、内容ではない。誰が書いたのかということが解るから、いい。

毎日の新聞の分量は、文庫本の一冊程度のものだと思う。
半日を、新聞を読むことに費やすこともある。

地方紙も、宗教関係も読む。

昔、日本共産党の赤旗を読んでいたこともある。

一時期、左翼系の考え方を、もったこともあり、共産党に期待したこともある。
勿論、今は、鼻にも掛けない。
現実離れ、理想空想、妄想の、お話である。
やっていることを見て、そう思うに至った。

宮本顕治という、共産党の元議長が亡くなり、その欺瞞的、自己中心的支配欲について、書くことにするかと、思った。
亡くなって、15日ほど過ぎた日である。

すると、即座に彼が来た。
はっきりと、彼の気であると、感じた。

ああ、浮遊していると、思った。

彼の死後、彼の批判的文章を書いた者は、少なくても、体調不調、精神的不調に陥ったはずである。
勿論、書いた人は、そんなことを知る術も無いから、知らない。

私は、書くことを、止め、後日にした。
共産主義というものは、人を人に非ずにしてしまう。
信仰とは、また、違うのだが、信仰に似る。
ただし、妄想に留まらず、それに非情がつくのである。

ソ連共産党にも、中国共産党にも着かず、自主独立路線を歩んだと言われるが、単に、一人独裁体制を作りたかった。
天皇に真似た。
そして、天皇制打倒を掲げた。

もし、万が一、共産党が政権を取った場合、独裁政権を持って、日本を支配したことであろう。
それは、徹底したはすである。
それ程の、支配欲は、どこからかと、探ると、古代、推古天皇の頃に遡る。
蘇我氏の血を引く者である。

蘇我入鹿を倒し、大化の改新を断行した、中大兄皇子、つまり天智天皇がいる。
蘇我入鹿は、独裁政権を目指した。
民意を汲むものではない。
蘇我氏一族のための、政治を行うものである。

その後も、蘇我の一族の、様々な試みがあった。
有間皇子が、犠牲になった、蘇我赤兄の、卑劣な事件もある。

話し合いなど出来ない血を持つ者である。

私は、共産主義という名の、大量虐殺を知っている。
ナチのユダヤ人殺戮の比ではない。
それも、自国民を殺し続けるという、悲惨である。
救いようがないのである。

一時期、赤狩りという共産主義者を迫害した時期があるが、あれをも、肯定せざるを得ない程、共産主義というものは、恐ろしい。
人間より、主義を大切にするというから、驚く。

宗教の蒙昧を言うならば、共産主義の蒙昧は、遥かに凄いのである。

天下統一を前にして、倒れた信長の最後の言葉は、人間とは愚かな者よ、であった。
それは、自分を含めて、自傷ぎみに言ったのであろう。
たかだか、人生五十年を生きる者が、と。

宮本は、98歳まで生きた。
最後の最後まで、支配欲を失わなかった。
それゆえ、死後も、その支配欲に捕らわれているのである。

冥福に至らないところが、人間より主義を生きた者の、迷いであろう。

2007年08月12日

キリストの絶唱32

マルコ福音第11章、12節から、面白いことが書かれてある。

翌日、かれらがベタニアを出たとき、イエスは空腹だった。その時、遠くに葉のあるいちじくの木が見えたので、おそらく何かあるのだろうと来てごらんになったが、葉のほかには何も見えなかった。まだいちじくの時期ではなかったからである。すると、イエスは、その木にむかって、「今後いつまでも、だれも、お前の実を食べぬように」とおおせられた。弟子たちもそのおことばをきいた。」

これは、マタイの福音第21章にもあるが、そこでは、「これからお前はもう二度と実をつけるな」と木におおせられた。すると、いちじくの木は、すぐに枯れてしまった。とある。

これについての、聖書解釈は、いちじくへの呪いは、実を結ばないイスラエルと、イスラエルへの罰とを意味する。と、いう。
解釈とは、如何様にでも出来るものである。

実を結ばないイスラエルとは、ユダヤ人である。イスラエルへの罰とは、ユダヤ人への罰であろう。

話は、飛躍するが、私は、どうして、ドイツのヒットラーが、ユダヤ人の虐殺を行ったのかということが、疑問である。あの、人種差別は、何ゆえのものかということだ。

旧約の神に選ばれた民である、イスラエル人、ヘブライ人、つまり、ユダヤ人が、何故、あのような迫害を受けるのかということだ。
何か、根本的な問題があるような気がする。

ただし、キリスト教の、このイエスの言葉の解釈を持てば、ユダヤ人は、罰を受けるものであるということになる。

マタイの福音では、その後がある。

これを見た弟子たちがおどろいて、「いちじくの木が、どうしてこんなにすぐ枯れてしまったのですか」とたずねるとイエスは、「まことに私は言う。あなたたちがためらうことのない信仰さえもっていたら、私がいちじくの木にしたようなことができるばかりではなく、あの山にむかって、動いて海に入れ、と命じてもそのとおりになるだろう。あなたたちの信仰にみちた祈りをして乞い求めるなら、なんでも与えられる」とおおせられた。

イエスが空腹であったことを、聖書解釈は、義と愛に飢え渇くイエスを考える、いう。
聖書解釈は、すべて、このように、勝手な解釈をする。

たしかに、マタイは、マルコ福音に先導されて、書かれた。ルカ福音にもである。
後で、書き入れられたと考えられるが、その後の弟子たちの言葉に、解釈の根拠がある。

つまり、信仰により、祈りにより、出来ないことは無いと言うのである。

何度も言うが、イエスは、弟子たちにも、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えた。
奇跡の力である。
聖書解釈は、暗にそれを、避ける。
要するに、奇跡を起こすことが出来ないような信仰の者が、解釈するからである。

福音宣教は、奇跡があっての、宣教の意味がある。

私は、台風の進行を何度も変えた。
そして、身近な人に、それを言う。最初は、驚いていたが、そのうちに、当たり前になる。私も、そんなことを、一々取り上げて言う必要も無い。
時々、こうなると、言うと、もう慣れた人は、ああ、そうと、聞く。

私は、奇跡を行っている意識は無い。
しかし、進路変更を何度もするということは、大したことである。
勿論、私は、言霊による。

マルコ福音にも、イエスは言う。
心に疑わず、自分の言ったようになると信じるなら、それは聞き入れられる。それゆえ、あなたたちに言っておく、あなたたちが祈り求めるものはすべて、かなえられるものと、信じよ。そうすれば、そのとおりになるであろう。また、祈るために立ち上がったとき、だれかに対して何か恨みがあるならば、その人を許しなさい。そうすれば、天にいますあなたたちの父も、あなたたちのあやまちを許してくださるであろう。

解釈も何も、イエスは、はっきとり言うのである。
イエスが口にした通りに成ると。

ハリーポッターの世界ではない。
事実である。
祈りと奇跡のカラクリは、次元の問題である。
言葉が叶う次元にワープせよと言うのである。
それは、信仰によって成ると言う。

祈って成らない者が、福音を宣教することは、出来ない。
単なる、遊びであり、道楽になる。

ただし、私は言う。
願って叶わぬこともある。
必要なこと、それゆえに、奇跡は、成就する。

いつもいつも、台風の進路を変えることは、ない。
病の癒しも、そうである。
地震に関しても、止めることの必要な場合と、そうでない場合がある。

もし、私がガンになっても、私は、癒しをしない。
死ぬか、信頼する医者の助言に従う。
出来れば、死にたいが、生かすというならば、生かさせてもらうこともある。

特に、それが医療の、また、医者への奉仕になるのであれば、である。

どんなに優れた霊的能力を持つ者も死ぬ。
実は、本当の能力者には、死は救いである。

肉体は、素晴らしいが、肉体があるゆえに、霊的次元にワープするのが、困難な場合がある。
それから、特別な能力を得たいと、肉体の行をして、得る能力者は、大半が、他の霊的存在に支配される。
要するに、レベルを霊的存在に合わせることによって、得る能力であるからだ。

イエスは、自分の力、次元にワープする力を、信仰と言う。

全く、イエスの奇跡は、言霊の力である。
立って行け。あなたの信仰があなたを救った。起きよ。治れ。
すべて、言霊の力である。

これで解る通り、日本の伝統である、言霊というものが、いかに霊的に進んでいるかということである。
言霊の認識である。

万葉の人は、皆々、それを認識していた。

ユダヤ同祖論という説があった。日本もユダヤ十二支族の一つであるという。
全く、誤りである。

その一つに、生贄、供え物がある。
彼ら、ユダヤ人は、羊を殺し、血を流す。しかし、日本の神道には、そんなものは、一切ない。血を流して供える物は、一つも無い。鴨があると言うであろうが、血は、流さない。祭壇に置く鴨は、血抜きをしたものである。
後は、海の幸、山の幸である。

現在は、鶏を用いるが、伊勢神宮では、生きたままを、捧げて、その後は、森に放すのである。

イエスの、イチジクに対すする言葉は、非常に激しいものである。
二度と、実をつけるなとは、宗教家とは、言えない。
ただし、いちじくを、お前と、呼ぶ。
文章では、擬人化である。
イチジクの木の霊に、言うのである。

それが、何を象徴しているのか。
植物霊とは、精霊である。
私が察するところ、その木には、人霊が、憑いていたと思われる。
その木に、自縛していたのであろう。
それゆえ、イエスは、その人霊を、そこから、開放すべくの、言葉であると、理解する。

それにしても、イエスは、激しすぎる。
これは、肉体イエスの性格であろう。

これが、仏陀なら、決して、このような言葉にならなかった。
仏陀は、静かに、その場から去ったであろう。

勿論、その木に自縛する霊を、言葉無く、諭してである。
私も、そうする。

キリストの絶唱33

イエスは、たとえ話をする。

ある人が、ぶどう畑をつくり、垣をめぐらし、見張り所を立て、それを農夫たちにまかせて、遠方に旅立った。時節がきたので、ぶどうの収穫のわきまえをうけとらせるために、農夫たちにしもべをおくると、農夫たちは、かれをとらえてうちたたき、空手で追い返した。

何人も、おくったが、なぐられたり、殺されたという。
そして、最後に、息子をやると、農夫たちは、跡継ぎだと言い、殺せば、財産は、われわれのものになると言い、殺した。

さて、ぶどう畑の主人は、どうするだろう。と、問いかける。

自身でやってきて、農夫たちを亡ぼし、他の人々に、ぶどう畑を任せるにちがいない。
あなたたちは、「家つくりの、捨てた石が、すみの親石となった。これは主のみわざで、私たちの目にとってはおどろくべきことだ」という聖書のことばを読んだことがないのか」と言う。

この聖書の言葉とは、詩篇118章22,23節のことである。

聖書解釈をみる。
神は、ぶどう畑の主人で、ぶどう畑は、イスラエルの国である。
神は時機に応じて、預言者、義人を使わしたが、イスラエルの悪辣な指導者たちは、彼らを虐待した。そして、最後の息子まで、殺すということ。
神の子イエスも、殺されるということを言う。
このため、神は怒り、イスラエルの遺産を、キリストの教会に譲るという、ものである。

このイエスの、たとえ話は、実に、悲惨であり、驚くほど、暴力的である。
あちらの民族の性質を、よく表すのである。

この、キリスト教会とは、どこの教会かといえば、カトリックである。

カトリック教会というものも、一つの派閥であったが、皇帝と組んで、絶大な権威と権力を持った。
それが、イエスの言うことなのかと、疑問である。

イエスの説教からは、世界宗教に発展する要素は、無い。
あくまでも、イスラエルの宗教で、止まる。

アブラハム、イサク、ヤコブの神である、旧約の神である。
ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、主とする神である。

聖書解釈によれば、イスラエルの民は、メシアを拒み、殺した。故に、神は怒り、その契約を、キリスト教会に譲るということになる。
完全に、ユダヤ教との、決別であり、和解のなにものもない。

ユダヤ教は、いまだに、メシアを待ち、キリスト教は、イエスをメシアとし、イスラム教は、ムハンマドを、最後の預言者として、旧約の神を、奉る。

ユダヤ教、イスラム教は、偶像を嫌い、カトリックのように、イエスの像も、マリア像も、聖人たちの像も置かない。

三者は、決して妥協することなく、いつまでも、敵対し、対立する。

イエスの言葉が空しい。
祈る前に、敵を許せ。そうすれば、父なる神も、あなたがたを許す。

この世で、最低、最悪の観念は、宗教である。

観念まみれ、である。

誰もが認めることだが、原始宗教形態は、太陽信仰である。
そして、土地、地球であり、自然界のあるもの、水や、樹木等々のものである。
そして、人間の男根、女陰信仰である。

観念として、宗教が現れたのは、4000年から5000年前である。
旧約聖書の最初も、4000年前ほどである。
実は、旧約聖書は、ペルシャ、現在のイランに起こった、ゾロアスターに影響を受け、アフリカの土着信仰に影響を受けている。

エジプトのラーという神も、自然神であり、太陽信仰からのものである。

そして、日本も、同じく太陽信仰である。
大陸から切り離されたのは、12000年前である。
列島になり、それ以前の太陽信仰を、そのままに、引き続き、縄文へと至る。

アマテラス、天照という方は、実在の人物である。
太陽信仰を説いた、夫である、天皇、大王としておくが、その死後、引き続き、民に太陽信仰を説いていた。
富士王朝という人もいる。
大和朝廷は、その、富士王朝を、凝縮して、その続きだとした。

ただ今、遺伝子研究により、言語の系統研究が、大きな成果をあげている。

遺伝子学の知見によれば、現代人の祖先は、今から15万年から20万年前に、アフリカに発生し、その後、枝分かれした。

アフリカ中北部、ナイル川上流にさかのぼる。
ヒトの集団が、アフリカの中で、東西に分裂しはじめたのが、20万年ほど前である。
西に行くものは、大西洋に阻まれて、南下し、アフリカ南部で行き止まる。
東に行くものは、北に向きを変えて、スエズ運河を通り、カスピ海南部に至って、5500年ほど前に、南北に分かれる。
南に下ったものは、インドからインドネシアを経て、中国南部と、オーストラリアに行き着く。
北上したものは、カスピ海の北で、35000年前から40000年ほど前に、コーカサスの北を通り、西のヨーロッパ方面に行くものと、中央アジアへ行くものに、分かれる。
東に向かい、東北アジアを経たものは、今から、30000年前から15000年前に、再び細分化し、ベーリング海峡を越えて、アメリカ大陸へ行くもの、満州、モンゴル、チベット、朝鮮半島、そして、日本へと別れた。

列島が大陸から、切り離された記憶が、古事記の、国産みの記述としてある。

言語については、いずれまた、書くことにする。

こうして、人類が生き延びて、今に至る。
彼らは、生きるに必死だった。
原始宗教体験とは、その生きることに関わるのである。
つまり、自然との折り合いである。自然の脅威を、現在の神という観念に近く持ち続けたはずである。
しかし、名は無い。
一日を、支配するのは、太陽である。
それが、太陽信仰への、第一段階であった。

遺伝子学からの言語についてが、人類の有様を言う。
この言語とは、人間の最も素晴らしい創作であり、創造であった。
そして、一気に言うが、言語が、観念の生みの親である。

エジプトの言葉の発生は、実に神聖なものだった。

私がいいたいことは、そこに立ち戻る時、現在の宗教の誤りが、理解できるということである。
作られた言語による観念の産物が、宗教である。
つまり、宗教は、人間が創造したものであること。それは、つまり、神というものも、人間が、創造したものである。

加えて、霊的存在の関与である。
この霊的存在の、問題は、後日に譲る。

いずれにせよ、書かれたものがあるということは、書かれなかったものがあるということである。
そして、書かれなかったものの、方が、当然、レベルが高いのである。

2007年08月13日

終戦記念に

終戦記念日は、お盆の期間でもある。

この世は、何一つ意味は無い。
また、この世に意味の無いことも一つもない。
すべて相対的なものである。
そこで、絶対的なものというのは、すべて妄想である。

不戦の近いを新たにする日本であるが、他国は違う。
開放記念日であり、日本への敵討ちを再確認する日になる国もある。

戦後62年を経た。
歴史の彼方へと、記憶されるようになる。

唯一の被爆国という意味を見出したが、見出しただけであり、その後の処理と、対策を後手にしてきた。
それに関しては、専門家に任せる。

私は、このお盆という、御親、みおや祭りに当たる時期に、終戦を迎えたということを言う。実に、そこに意味を見出す。

戦争を終結させたものは、何か。

御親を総称して、天照大神と言う。
天皇の詔を通して、御親が、終戦を決めた。

この世のこと、多く、霊界が関与する。

支配欲に駆られた霊界の霊が、軍部を動かし、それらが、つまり魔の力が、暴走させた。
無益な人の死を招いた。

これを、悲しみという。

かなし、かアなアしイ
大和言葉で言う。
かなし、とは、か、なし、である。
かアとは、何か。
アの母音は、開くを言う。かアは、カ行の最初である。
かきくけこ、は、人の食に関する事柄が多い。それでは、かアは、くウの食うの前の段階である。
つまり、食べる前の準備である。
つまり、食物を集める行為になる。
それを、分配することを、カミという、上の者が行う。
その分配する者、上の者がいない、無しなのであり、かなし、なのである。

上がいないゆえに、乱れる収集がつかない。
それが、悲しいという言葉に、表される。

悲しいは、所在の無い不安定な状態である。

悲しみとは、そのような心象風景を言う。
孤児に似た孤独感がある。

正しい、上を、カミを失ったがゆえの、戦争は、実に悲しい。
そして、失った多くのもの、特に命であった。
こんな悲しいことはない。

皆々、雲隠れした。
南の島で、アジアの各地で、そして、最後は、少年が特攻隊で、死ぬために、突撃した。
皆々、この世から、隠れたのである。

隠れた悲しみを言う。

この記念日の意味は、大和言葉から、明晰に解る。

隠れた者は、命、みとこ、として、神と尊称を受けるものである。
その伝統も、敗戦によって、無きものとなった。
これは、敗戦より、悲しいことである。

一人の人は、大海の一滴の水であるが、大海も、一滴の水よりなる。

一滴の水が失われることを、悲しむ行為を、慰霊という。
それでは、慰霊という行為にあるものは、と、言えば、これは、あまりに長くなるゆえ、省略する。

一滴の水、天に上り、再び、雨として、降り注ぐことを願う。
慰霊というのは、実に、輪廻に関わる行為であり、再生の祈りである。

この世は、相対である。絶対的なものを掲げては、この世が、曇る。
妄想を廃して、この世の実相に迫る時、この世の、そして、人間の生死が、観えてくる。

輪廻は再生である。

それは、形を変えても、再生である。

これは、宗教の観念を超越する。

2007年08月14日

ここままでは危うい

このままでは、危うい。

世界にひとつだけの花という歌の時も思った。
そして、今回の、千の風である。
ミリオンセラー目前であり、素晴らしいという。

勘違いである。

このままでは、再び、日本に原爆投下される。

地域格差で悩む人々に、世界にひとつだけの花を、聞かせて、感想を尋ねるとよい。いかに、薄気味の悪い歌であることか、解る。

そして、千の風である。
私は、良いも悪いも無い。単なる歌であると認識する。

しかし、この歌のヒットは、おかしい。
日本人の良さが、すべて裏目に出ている。

あの歌は、死者が、生者に語りかけているものであり、生者が、生者に言うものではない。
生者が、あれを受け入れるということは、消滅願望の何物でもない。

ちなみに、116万人の遺骨戻らぬ戦士、病死の兵士の霊が、風になっていると思うか。

私の周囲にも、いい歌で、感動する、等々の感想を言う者、多い。

しかし、あれは、日本の言霊から言えば、死ぬことの容認であり、死の願望である。

全くの勘違いである。
作者の新井という者が、何を考えて、次は韓国の歌手に歌わせると言うのか、解らないが、兎に角、金になるのだろうことだけは、理解出来る。
作者不明の作詞であり、印税は、すべて、新井氏に入る。

猫も杓子もという言葉があるが、今、そのような状況で、皆々、死の願望に陥っている。また、死と言うものを、勘違いしている。

例えば、自分が死んで、あの歌を捧げられたとしたら、どう思うか。

何度も言うが、あの歌詞は、死に行く者が、自分が死ぬことを悲しむ、残された者に、悲しまないで下さい。私は、いつも、あなたたちと一緒にいます。あなたたちを、見つめて、守っていますというのである。

それを、生きている者が歌って、どうする。

愛する人を亡くした人も、慰められるというが、勘違いも甚だしい。
それは、勝手に自分が慰められているだけで、そこに死者の心を思うものはない。要するに、自分が安心し、自己満足すればいいのである。
そんな、勝手な歌があっていいのか。

立派な墓を建てて、安心するのと、一緒である。

死者は、そんなものは、いらない。
死者の必要とするものは、深い哀悼の意である。
また、霊になった者は、何も必要としない。

私が恐れるのは、あの言葉の言霊である。

私は、千の風になって、吹き付けるのであるという、消滅の、死への願望であり、それは、想念となって、現実に、それを引き寄せる。

世界は、軍縮に向かっているだろうか。
少しの興味を持てば、世界が軍拡に向かっていること、明々白日である。

侵略国家のロシアは、帝国時代からロシアは、侵略を国家の核としてきた。そのロシアが、日本に、どれ程の核兵器を向けているか。

被爆国である日本を、足腰立たなくするには、再度の原爆投下である。
そして、日本人は、それを求めている。
千の風という歌は、私に、それを教える。

故に、最低、最悪の歌という。

勿論、一部の人が、それを好んで、歌う、合唱する。いい歌だと、鑑賞するに、何の批判も無い。

ただ、今の、この状況は、実に、危険であり、そうそうに、日本人の本当の良さを、回復しなければならない。
ムードに酔うことは、容認するが、現実を把握せずに、酔いしれるということは、破滅を招くのである。

ここまで、日本の精神、心、そして、魂が骨抜きにされたとは、絶句である。

もののあわれについて76

次第に初期万葉から、洗練されてゆく歌にあって、異色を放つ歌がある。
巻15に、狭野茅上娘子と、その夫、中臣朝臣宅守の間に交わされた贈答歌、63首である。

ちなみに、この巻には、天平8年に新羅に派遣された使節団一行の145首が、収録されている。

狭野茅上娘子の歌
きぬのちがみのおとめのうた

あしびきの 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし
あしびきの やまじこえむと するきみを こころにもちて やすけくもなし

君が行く 道の長路を 繰り畳ね 焼き亡ぼさむ 天の火もがも
みきがゆく みちのながてを くりたたね やきほろぼさむ あめのひもがも

越前の国へ流罪になる夫を歌う。
何故、宅守が罪に問われたのかは、不明である。
学者の説では、宮廷奉仕の女官には、男女問題で厳しい掟があり、その禁を犯したという。
二人は、共に、下級の位である。男は、六位程度、女は、雑用の奉仕する女官である。

越前の国へ行くあなた、山また山を越えて行くあなたのことで、胸が一杯です。安き心地などありません。
心に持ちては、心に抱いて。
単刀直入に言う。

次の歌は、有名である。
あなたの行く道を、手繰り寄せて、重ねて、天から降る火で焼いてしまいたい。
天の火もがもとは、願いである。そんな火があればよい。

二人の恋が、禁を犯したならば、二人で罪をと思うが、夫のみが、裁かれて行く。
また、いつ逢えるとも知れない。
恋は、燃え上がるのである。

障害のある恋は、燃える。
それが大きければ大きいほど、恋心が炸裂するのである。
これこそ、万葉の骨頂である。
焼き亡ぼさむ 天の火もがも
誇張であろうか。誇張と解釈する者は、恋を知らない。
恋は、世界を焼き尽くすのである。だから、恋なのである。
恋に生きた万葉人である。
それで、言うこともなし。

中臣宅守の歌
なかとみやかもりのうた

塵泥の 数にもあらぬ われ故に 思ひわぶらむ 妹が悲しき
ちりひじの かずにもあらぬ われゆえに おもいわぶらう いもがかなしき

塵泥のような、取るに足りない私故に、都にあって、ひとり思い悩む妹のことを思えば、実に、痛々しい、悲しい思いである。

あかねさす 昼はもの思ひ ぬばたまの 夜はすがらに ねのみし泣かゆ

昼は昼で鬱々と、物思い、夜は夜で、夜通し、妹を思い、恋しさに泣けるばかりだ。

吾妹子が 形見の衣 無かりせば 何物もてか 命継がまし
わがいもが かたみのころも なかりせば なにものもてか いのちつがまし

妹子の、形見の衣があるから、それを頼みの綱として、生きている。それがなければ、何を頼りに、命を繋いでゆくか。

逢はむ日を その日と知らず 常闇に いづれの日まで 吾恋ひ居らむ
あわむひを そのひとしらず とこやみの いづれりひまで わがこいおらむ

再び、逢うことのできる日が、いつか。あてどない、常闇の中で、いづれの日まで、恋焦がれていることであろうか。

娘子の歌に比べて、弱い。
女の情の方が、激しいのがわかる。
娘子の情熱に圧倒されている。

越前にいる、宅守の歌に答えた、娘子の歌を読む。

命あらば 逢ふこともあらむ 吾が故に はだな思ひそ 命だに経ば
いのちあらば あうこともあらむ わがゆえに はだなおもいそ いのちだにへば

はだな思ひそ、とは、はなだは、はなはだ、非常に、という意味。
命だに経ば、とは、無事で生きていれば。

生きていれば、きっと逢うことが出来ます。だから、私のことで、心を痛めないで、下さい。思いが過ぎて、体に障るようなことのないように。健康でさえあれば、生きて、お逢いすることが、出来ます。

天地の そこひのうらに 吾が如く 君に恋ふらむ 人はさねあらじ
あめつちの そこいのうらに わがごとく きみにこうらむ ひとはさねあらじ

そこひ、とは、極限、極み、至極の意味。うら、は、うち、である。この天地の中である。
さねあらじ、とは、さね、は、真実。真実であれ、という願い。

広い天地の中で、深くあなたを慕うのは、私以外に、決して、いません。

白たへの 吾が下衣 失わず 持てれわが背子 直に逢ふまでに
しろあえの わがしたごろも うしなわず もてれわがせこ ただにあうまで

差し上げた、白たえの下着を、無くさずに、いついつまでも、肌身につけていてください。私の夫、その逢う日まで。

春の日の うら悲しきに 後くれいて 君に恋いつつ 現しけめやも
はるのひの うらかなしきに おくれいて きみにこいつつ うつしけめやも

春の日は、なにも思うことがなくても、どこか、うら悲しい気分のものですが、まして、私は、ひとり都に取り残されて、ただ、一筋に、あなたを思い続けているのです。なにもかも、上の空で、うつつの心とて、ございません。

逢はむ日の 形見にせよと 手弱女の 思ひ乱れて 縫へる衣ぞ
あわむひの かたみにせよと たおやめの おもいみだれて ぬえるころもぞ

形見として、差し上げたものは、さぞ、痛んだことでしょう。更に、新しい衣を、縫って差し上げます。手弱女の私が、思い乱れて、縫い上げたものです。

この、直情には、圧倒される。
何度も言うが、恋は、生きると同義語だった、時代である。恋は、生命力であった。

冷めた、打算と、低俗な欲望を超えている。
勿論、それも否定はしない。時代が、違うのである。
万葉の価値とは、人間の価値であり、それは、心情の素直さであり、単純素朴の様である。

万葉集の価値である。

2007年08月15日

もののあわれについて77

東歌に入る前に、一言。

若い方々が、もののあわれについては、難しいと言う。
聞けば、文章ではない。
内容が、である。つまり、自分が理解するより、もっと、深い意味があるのではないかというものである。
それを、難しいという言葉に、託す。

それでは、津田左右吉という学者が、万葉の恋歌を、どう評価したのか、抜粋する。

「彼らの思想は自己の経験範囲を出ないから、極めて単純で狭隘で、また何人にも共有のものであり、従ってその作も千篇一律になる。作者自身には感深い歌であっても他から見れば平凡なもので歴史的に考えれば常套的伝統的に堕する。万葉の恋をよんだ短歌の大部分はこれである。」

その通りであるが、その程度にしか、学者も、万葉を捕らえていない。
何人にも、共有のものという。当然である。一律になるという。当然である。
常套的伝統的に堕するという。

その通り、万葉の恋歌は、飽くことなく歌い続けたのである。

それを、千篇一律として、判断することもよし。
しかし、津田は、悲しいかな、人間の、情というものを、知らない。勿論、学者であるから、情など、入れては、研究にならないと思う。
だから、学者の評価したものは、その世界で通用するものである。

若い人が、難しいと言う次元と、津田の説は、天地の差がある。
津田には、万葉の恋歌が、千篇一律であるという、研究成果で、終わりである。
それで、万葉の恋歌も、彼の前では、終わった。

津田は、人間というものを知らないから言えるのである。
恋を知らないとも言える。
恋を知らないということは、万葉時代ならば、人ではない。ヒトデナシである。

青木生子という学者が言う。

「死を」よみこむほどの相聞歌は、たしかに一種の悲劇的調子を帯びている。しかし、その調子に陶酔している甘い感情も一方に感じられる。人々の心に共感を呼ぶ民謡性もまたそこにあるといえる。万葉の無名のこうした歌の数々は、いうなれば愛唱された当時の歌謡曲なのである。

これは、津田の意見に対して、肯定しつつ、新たな意味を求める説である。

津田の説で言うと、すべての、万葉以降の全ての恋歌は、どんな形の詩歌にせよ、一律であろう。

繰り返しても、まだ、足りない。そこに、人間の情、ココロというものの、姿がある。

分析をよくする学者は、それで暇を潰している。
それで、よし。

伝統とは、反芻である。
人間の喜怒哀楽の反芻こそ、伝統と言う。
その反芻に、民族独自の、姿がある。

万葉は、愛と死を、反芻する。
死を読む、挽歌が多いのも、頷ける。

津田の説を、鵜呑みにして、解ったつもりになっているのが、学者というものの姿であろう。それを、哀れという。

人は、喜怒哀楽を反芻して、深まり、高まるものである。
心が、そうして、動くのである。動くとは、生きている証拠である。

恋の情が、最初は、愛する相手に向いている。しかし、それが、単に、我が心の内に、恋が、恋心が動く。
恋とは、私ではないか。気づきである。
相手に恋をして、実に、我の心に気づく。
私の心は、恋に喘ぎ、苦しみ、悶えている。相手ではなく、そこにこそ、私というものが在る。
その私を観る、私の目に気づく。

万葉のテーマは、愛と死である。
つまり、人間の根本的生きる原理を見つめたものである。
それは、当然、繰り返される。
それを、常套的伝統的に堕する、と、分析して、何するものか。
無益なことである。
小さな親切、大きなお世話である。

若い人の難しいという感想には、もっと、ごく自然の恋という感情にある、私を、私自身を感じたいのだという、言葉に、私は受け取る。

繰り返し、反芻こそ、人生である。
私の万葉集があり、あなたの万葉集がある。
それで、いい。

そして、もののあわれ、という、日本の伝統に行き着く。

欧米の思想、哲学の、やり方は、語り尽くすのである。
徹底的に、言葉で、理解しようとする。理論というものである。それらに、日本文の、間合いを読む、行間を読むという、そんな芸当は、理解できない。

この、行間を読むというのは、人間愛のことである。
限定するものは、一つも無い。観念にするものは、一つも無い。しかし、西洋の言葉の世界を潜り抜けると、それが、浅はかに見えるのである。逆である。
語り尽くすことが、出来るものならば、すでに、語られてある。

人生を理論づくめにする行為は、野蛮である。
故に、私は、欧米の思想を野蛮という。

万葉の歌、一首の優しさに適わない。

語りえないものがあるから、繰り返し、反芻するのである。

2007年08月16日

新人シンガー3

またまた、中孝介の歌を聴くハメになった。

アベマリアを歌っている。
奄美の民謡から始まり、森山直太郎以来のヒットだという新人シンガーである。
独特な奄美の民謡の歌い回しが特徴で、西洋音楽を、やっている、知るっている者には、発声法から何から、話にならない歌であろう。

その、アベマリアは、西洋音楽にいる者を、憤死させるほどのものだった。
北島三郎が、アベマリアを歌うに近いものがある。

奄美や、沖縄民謡は、独特な歌い回しがある。すぐに、それが解る。
不思議なことに、日本人は、その節回しに懐かしさを感じるのである。
沖縄民謡には、精神安定の音があるといわれる。それは音の流れであろう。

西洋音楽は、グレゴリオ聖歌からはじまる。
声のみの、呟きである。
それから、音楽の発展を遂げる。
その音楽の精神的核になったのは、キリスト教である。
中世の異端審判盛んな時代に、その大元が出来る。
それは、民族から言えば、フランク王国である。今の、イタリア、フランス、ドイツというあことになる。
この民族は、特別な取りえは無い。
後に出来るキリスト教神学も、ギリシャ思想を母体にする。
農民の団体であり、その学問も、イスラム帝国からのものであり、ギリシャ思想も、イスラム帝国から、入ったものである。

頭が悪いと、許容範囲が狭まり、それらによってなる、哲学や思想は、隙間の無い言葉の世界を善しとする。
音楽も、機械のように積み上げて成るものになる。
西洋音楽が、あらゆる規定に拘るのは、そのせいである。

規定に雁字搦めになって、西洋音楽で、ございと、やる。

ただし、バッハの音楽により、その許容範囲を広げざるを得ない事態になったこともある。

拘りと、捕らわれの西洋音楽を善しとする者は、神経症的になるものである。
そして、悲しいことにというか、おかしなことに、すべての音楽を西洋音楽の枠で、括るという、馬鹿げたことを平気でする。

楽譜に書ききれない音楽があるということを、知らないのである。

それが、日本の音楽教育の主になり、実に、歪な授業をして、音楽というものを、捻じ曲げる。果ては、情操教育とまで言う。
日本の情操、大和言葉の情操を知らず、それを、情操教育という、アホが多いから、終わっている。

西洋音楽の支配は、西洋の世界支配、植民地政策と、同じである。
今も、西洋は、支配者として、立つという、また、それを許しているということである。

民族音楽などは、音楽ではないことを、平気で言う。
観念によって成り立つ神学と同じように、音楽を観念まみれにした。
音楽学という学問を教える、習う者の、アホさ加減を誰も、問わないから、笑う。

耳だけが、立派ということは、在り得ない。耳が良いということは、それを、歌い、演奏できるということであり、それが出来ないならば、耳が悪いのである。
音楽学をするということは、音楽を為せない者が、理屈だけを捏ねて、遊ぶ。実に、愚かしいものである。
その音楽学学者が、音楽家を評論するから、また、おかしなことになる。

文芸評論というものも、小説が書けない故に、文芸評論をする。勿論、文芸評論が、その域を超えて、芸術活動になることは、多くある。
それでは、音楽学は、どうかといえば、芸術活動になることは、無い。
それなら、歴史学や、哲学になる。

音楽とは、やって、ナンボのものであるから、理屈を捏ねるより、やってみせるのが一番だということである。

さて、西洋音楽は、再現芸術として、十分に完成されている。
野蛮な西洋音楽も、完成されたのであるから、もうそろそろ、観念して、新たな一歩を踏み出せばよい。
勿論、私には、どうでもいいことである。

ただし、天才でなければ、この壁を打破出来ないのである。

それから、もう一つ。
芸術とは、金を食うものである。絶大な支援者が必要である。
教会音楽には、教会が絶大な支援者であり、オペラには、王が支援者になった。
王や貴族のために、人民を動物のように扱い、莫大な金を使い込んで、はじめて、芸術活動が出来る。

世界遺産というものは、すべて、そのようにして出来たものである。
自然以外は。

一般市民が、音楽を楽しむようになったのは、フランス革命以後である。
王や貴族が楽しんだ、音楽である。今言われる、クラシック音楽である。

一部の人のための、音楽をして、音楽という時代は、終わった。

私は、バリ島のガムランを聴いて、バンブー、竹の音楽を聴いて、その観念の薄さに、驚き、そして、音楽の、あるべき姿を観た。
そして、日本の音楽の許容範囲の広さである。

音楽の発生を大切にすることが、芸術を愛することになると、思った。

クラシックや、オペラは、格式の高いものですという、アホの、声楽家の多い日本では、クラシック音楽の必要性など無い。
一音を限定する音楽より、一音を無限にとらえようとする、音楽活動、つまり民謡的なものに、次を期待する。

中孝介のアベマリアを聴いて、クラシック音楽家が、多く憤死するのを、切に望むものである。

日本人の感性を、西洋音楽に閉じ込めれば、確実に、狂い死にする。

2007年08月17日

キリストの絶唱34

一人の律法学士がイエスに問う。
「すべての掟の中で、どれが第一のものですか」と。
するとイエスは言う。
「第一の掟は、こうである。
 イスラエルよ、きけ、私たちの主なる神は唯一の主である。
 あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる神を愛せよ。また、第二は、これである。隣人を自分と同じように愛せよ。これより、重大な掟はない。」

イエスの言葉は、すべて旧約聖書に書かれている言葉である。

私たちの主なる神は唯一の主である。
これは、旧約からの伝統である。
唯一の神である。
アブラハム、イサク、ヤコブの神という。
彼らにコンタクトした神である。

イスラエルにとっての、主は唯一なのである。
当時のイエスの世界観は、どんなものだったのか。
新約時代のパレスチナの世界観は、ローマ帝国である。そして、エジプトやギリシャ。さして広くはない。

ただし、イエスは違う。
30歳から、宣教するイエスの、その前の生活を知ることはない。
15歳で、神殿にて、司祭たちと会話するのを聖書は、書くのみである。
それでは、それ以外の時間は、何をしていたのか。
父ヨゼフの大工の仕事をしていたとは、言えない。
イエスは、旅をしていたのである。

旧約の地である、シナイ半島、アラビア、ペルシャ、そして、インド、中国である。
その説教の内容を見れば、旧約の神を凌駕している。
また、新しい説教の内容は、当時としては、画期的なものである。

律法学士や、ファリサイ人たちは、イエスの権威ある説教に、いつも驚いていた。しまいに、あなたの権威は、どこから来るものかと、問う者もいる。
イエスは、知ったのである。
様々なものの考え方、様々な信仰形態を。

知能優秀な者を、優秀ではない者は、理解できない。
例えば、本のページをめくると、すべて頭に入る人などを、覚えることが、やっとの人は、理解できない。天才を凡才は、理解出来ない。

頭の悪い人が素直にならないのは、素直になれないからである。要するに、理解が出来ないのである。
人間は、実に不平等である。

イエスは知っていて、イスラエル人に、イスラエルの言葉で、説教するために、旧約聖書からの言葉を引用し、方便をもって、説教を繰り返した。

方便といえば、仏陀も、そうである。
難しい話を、難しく話しても、誰も理解できないのである。
そこで、たとえ話ということになる。
方便を便利な方法という人もいるが、言葉遊びである。

仏典は、仏陀の方便を、説いたものである。しかし、その解き方も、人それぞれである。全く、見当外れもある。
権威により、定説とされるが、違う。
権威にある者に、都合よく、解釈される。

カトリックは、法王の権威によって、解釈を限定するが、プロテスタントになると、聖書主義といい、その解釈は、百人百様である。

イエスは、ペルシャに起こった、ゾロアスターの教えも学び、インドにては、古代インドの教えを学び、中国に行けば、道教、儒教の教えも、学んだ。
そして、改めて、旧約聖書の神と対座した。
そして、そこにあるメシア思想に、自分が関与する者であることを、知る。

創世記からはじまる五つの書を、モーゼ五書と呼び、また、それを律法と呼ぶ。
それから、千年以上を経て、未だに、旧約の迷いにあるイスラエルに、イエスは、対峙する。
この民の神を、より広く、世界に通用すべくの教えに変容させることであると、気づくのである。
ゾロアスターの愛の思想、仏陀の平等と慈悲の思想、そして、為政者のための、儒教、様々な術の道教、それらに、相応しい世界的教えを、旧約の神の言葉を通して、イスラエルに語ること。

知る者は、苦しむのである。

主なる神という、核を持たなければ、混乱極まりなくなるイスラエルの人々に、旧約の神の言葉から、刷新させるべく、宣教を繰り返すことになる。

その、第一の掟が、主なる神を愛すこと。そして、隣人を自分と同じく愛すこと。
限定された、旧約の神観念を、広げるべくの宣教である。

イエスの教えの、斬新さは、隣人愛である。
これが、当時では画期的なことだった。価値の転換である。
敵を愛せよ。
敵とは、異教徒である。つまり、他の宗教、他の神を拝む者である。
これ程、画期的なことは無い。

隣人とは、敵のことである。

イエスキリストの十字架は、人間の原罪の救いではない。
それは、異教徒を愛する、許すということの、証明である。
命懸けで、それを、伝えたのである。
そのために、命を捨てた。捨てるに値する、思想である。
世界は、そうしなければ、いずれ滅ぶのである。

狭い民族主義、選民意識を捨てること。それなくして、人間の生きるべき道は無い。
主なる神を愛することは、敵を愛することなのであるという、人類への、語り掛けである。

さて、その教えは、どうなったか。

全く、逆になった。
イエスの思想は、その信者によって、全く別物になったのである。

民族意識旺盛、選民意識旺盛、そして、敵を殺し尽くすこと。異教徒は、殺せである。
旧約の神が、その威力を発揮して、イエスの教えを、無に帰すことをする。
そして、イスラムの登場である。
旧約の神、ムハンマドに懸かり、対立をもたらすのである。

2007年08月18日

キリストの絶唱35

イエスは、神殿で教えておられたとき、「律法学士は、どうしてキリストをダビデの子だといっているのか。
ダビデは聖霊によって、主は私の主におおせられた、私があなたの敵を、あなたの足の下におくまで、私の右にすわれ、とみずからいっている。ダビデ自身が、キリストを主だといっているのに、どうしてダビデの子なのか」とおおせられた。

マルコ福音書12章35,36,37節である。

私がマルコ福音を引用するのは、最古の、極めて、信憑性が高いといわれる、書き物だからだ。
マルコは、洗礼者ヨハネの存在から、書き出している。
54年から、60年にわたって書かれたといわれる。
イエス死後である。

新約聖書の信憑性は、実に薄い。
マタイ、ルカ、ヨハネの福音は、マルコより、もっと後のものである。
その他、カトリック教会が、認可しない福音が、数多くある。しかし、それらを載せると、とんでもない書物になってしまうのである。
奇想天外、嘘八百である。

メシアは、ダビデの家系から出るとは、旧約聖書にある。
そのため、マタイ、ルカの福音書は、そのための記述をするが、実に苦しいものである。
こじ付けである。その矛盾に、キリスト教徒は、気づかない。
例えば、マタイが、ヨゼフをダビデの子孫とするのに、28世代を言う。ヨハネは、41世代を言う。

「19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」という決定的な論証をおこなってきた。すべてはイエスが死んでからずっと後になって書かれたものであり、パウロの手紙よりも後であるが、この手紙には、イエスの生涯にあったとされている事実のほとんど何一つとして触れられていない。すべてはその後に、多数の伝言ゲーム世代を通じて、いずれにせよ自らの宗教的大義をもち、誤りを犯しがちな筆写者たちによって、何度となく繰り返し書き写されてきたものである。」
利己的な遺伝子を書いた、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」から。

イエス誕生の、お話の本質は、すべて、地中海、および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用しているという経緯も解った。
イエス伝説の本質的な特徴のすべてである。
東方の星、処女懐胎、王による赤子への虐殺、奇跡、復活と昇天を含めてである。

「この四人の福音伝道者がどんな人物であったかは誰にもわからないが、彼らが直接イエスに会ったことがないのはほとんど確実である。彼らが書いたことのほとんどは、正直な歴史を書こうとする試みではけっしてなく、「旧約聖書」の単なる焼き直しにすぎなかった。なぜならば、福音書の書き手たちは、イエスの生涯は「旧約聖書」の預言をかなえるものでなければならないと心底から信じ込んでいたからである。」
ドーキンス

こうした、学者たちの試みは、実に有意義である。
それは、妄想を廃するためである。
歴史と伝説は、違う。
しかし、神話であれば、伝説より、意識の深い、何かを探ることは、出来る。
宗教の経典には、皆、このような、とんでもない、妄想、空想が潜んでいる。

イエスの説教も、すべて、旧約聖書の言葉から発している。
つまり、旧約聖書とは、ユダヤ人の共通言語であるから、それを使用しなければ、会話が成り立たないのと同じである。

盛んな新興宗教を見れば解ることだが、突然変異のようにして、出たものより、既成のものから、出る方が、人が集う。
日本の場合で言えば、神道系、それを、教派神道という。そして、仏教系ならば、断然、法華経である。
何も無いところからは、何も生まれないのである。

それらを、ちょこちょこと、アレンジして、新しい宗教のように装うのである。
頭の悪い者を、騙すのは簡単である。

そんな中で、上席を占めるのは、知能の高い者、あるいは、寄付金を多く払う者である。
後は、雑多として、頭数である。それらを、集金マシーンにして、宗教は成り立つ。マシーンになっても、気づかないというのは、実に、気の毒であるが、それを喜んでいるから、世話はない。
そういう者は、すでに、十分救われている。
子供に飴を与えて、喜ばすに似る。
実に、おめでたい、のである。

死ぬまでの暇つぶしに、宗教ほど、楽なものは無い。
無いモノを在ると、信じているのである。こんな、おめでたいことがあるか。そして、もう一つ、人間は、妄想の産物を必要とするということである。

私の霊界という、話も、その一つである。
私の妄想である。
ただし、一つだけ言えることは、この世は、妄想であるというこどた。何一つとして、絶対的なものはないから、妄想でも持たないと、やってられないのである。

実に、人生とは、悪い冗談である。

呪いが叶うなんて、楽しいではないか。
どうだろうか。
祈りが叶うなんて、実に、楽しいではないか。

「精神病院にいる人間は、自分がナポレオンやチャーリー・チャップリンだとか、世界全体が自分に陰謀を企てているとか、あるいは自分の考えを他人の頭の中に吹き込むことができると思い込んでいる。私たちは彼らに調子を合わせるが、彼らの心の内に啓示された信念を真面目には受けとらない。その主たる理由は、彼らと同じ体験を共有する人が多くはいないことである。宗教的な体験がそれと異なるのは、そういう体験をしたと主張する人間が無数にいるという点だけだ。」
ドーキンス

サム・ハリス「信仰の終焉」から。
「合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうではないときは、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想症」・・と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。」

「だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。」

信仰とは、理性を麻痺させる。
麻薬を打つ者は、麻薬を打つという感覚を失う。
そして麻薬患者となる。

信仰も同じで、感覚を失い、聖人と言われるようになる。
人間とは、実に不思議なものである。

2007年08月19日

キリストの絶唱36

イエスはみ教えの中で、「律法学士たちに気をつけよ。かれらは長い服をきて歩きまわることと、広場で敬礼をうけることと、会堂の上座、宴会の上席につくことを好み、やもめの家をむさぼり、長く祈るまねをするが、かれらのうける審判は、ひとしおきびしいことだろう」

モーゼ律法の教師たちである。ユダヤ教の代表である。彼らを、ここまで叩き切るとは、凄まじい迫力であり、彼らを敵にすることは、ユダヤ人を敵にすることになる。
何故、イエスは、そこまで、彼らを糾弾するのか。
偽善者だからである。

現在の日本では、僧侶たちのことである。
宗教指導者の、有様には、辟易するのである。

門主、門跡、管長、座主、特に血筋を持っての、宗教団体の有様は、腐りきっている。
広く貧乏人から金を集め、その嘘八百の教義なるものを持って、妄想を信徒に与えて、弥陀の本願、成仏等々の言葉で、撹乱させる。
一般人より、仏陀に遠い生活をして、僧侶という。呆れる。

果ては、幼稚園経営から、墓地、納骨堂経営までなし、仏陀の教えとは、遥かに遠い。

乞食、を、彼らは笑うことは出来ない。
彼らこそ、華麗なる乞食である。

全く、仏典の教養も無く、他力だの、自力だのと、のうのうと、ブッから、呆れる。
その、食肉妻帯の様にも、呆れる。

仏陀は、出家者には、厳しい掟を与えた。
女の膣に、ペニスを入れてはならない。
それを、堂々と、やっているのである。

ひとしお厳しい審判が待っているだろう。との、イエスの言葉は、なにも、律法学士たちだけではない。

仏陀の仏教を見捨ててもいい。
では、道元の曹洞宗は、どうか。
二年程度の修行を経て、寺の跡取りになれば、安泰した生活を送る。
後は、やりたい放題である。
信じられないの一言。そして、尊敬されるというから、開いた口が塞がらない。

ヤクザと、僧侶の見分けがつかないと言われるほどであるから、そろそろ、信徒も、目を覚まして、寺から見切りをつけるべきである。

何度も言うが、日本の仏教は、仏陀の仏教ではない。
全く関係ないのである。
大乗仏教ということろから、誤っている。
それが仏教の発展という人がいるが、単に、堕落したのである。

勿論、多くの識者や、論者は、日本仏教を擁護する。金になるからである。
宗団に、取り入れれば、金になるのである。

少しの常識的見解があれば、それに迷うことはないが、少しの常識的見解も無いのである。

矢張り、騙される者が悪い。

さて、イエスの言葉である。
自ら、苦境に立つであろうことを言う。

すべて、重荷を負う人、疲れたる者は、我に来たれ、我、汝を休ません。
と言えば、私は、この世に剣を持ってきた。対立を持ってきたと、言う。

キリスト教徒は、前者を使い布教をするが、後者を言うことはない。その意味が解らないからである。

イエスキリストが行いたかったこと、それは、人間が作り出した、神観念からの、脱却である。
神は、人間が創造したものである。
旧約聖書の神観念のみにしか、頭が回らない者たちに、その神の言葉を持って、つまり、それを方法として、教えを説いたのである。

勿論、そのイエスキリストの言葉も、後に、教会が、権力を保つために、支配するために、都合よく作られたものである。

実は、世界は、もはや、一神教の教えでは、限界に来ているのである。
滅びる前の、消え入る前の、盛況を今は、現している。

古代から、ヒトは、畏敬の思いを抱いて生きた。
それは、自然である。
ヒトが人間になっても、潜在意識の奥底で、古代の記憶が残る。
その、畏敬すきべきものを、神という観念にすり替えたのである。

あらゆる宗教の七割以上の人は、本当に、信じている訳ではない。慣習、習慣によるものである。
どちらかと言えば、信じていない人の方が多い。そして、それは正しい。

イエスが言うところの、天国とは、霊界の話であるが、当時の人に合わせて、旧約の観念から、それを説いたのである。
旧約聖書の観念に、雁字搦めにされている者たちを、正常に戻すには、どれほどの、方便が必要だったか。

念仏を信じている、老婆に、教えを説くことは、容易ではない。
念仏によって、極楽に行くと、信じ込む者に、説く、言葉はない。
それなら、念仏を通して、正しい霊界の話を説く方が易い。

イエスはメシアと、呼ばれる。メシアとは、救い主ということである。そして、宗教は、救いという観念を説くが、実は、救いという観念は、観念のみあり、実体が無い。

生きるということが、実に不安定なことである。そこに、付込んでの、不安増大を煽り、その不安からの開放を救いという言葉にするのである。
悩む者を、餌にして、この壷を買えば、悩みが解消するという、悪徳商法の手口と同じなのである。
宗教とは、合法的悪徳商法である。

人間は、宗教的であれば、よい。
宗教的とは、自然に対する畏敬である。それは、生命に対する畏敬である。
それを、神や仏の観念として、人間から引き離し、対立したものとして、教えるから、誤るのである。
宗教は、完全に誤りである。
人間は、宗教的であれば、よい。

もののあわれについて78

巻14は、東国地方の農山漁村の名も無き庶民の歌を238首を収めている。

東歌は、巻20の防人の歌と合わせて320首ほどある。
東国地方の方言を駆使しての、様々な感情を歌う。

名も無い庶民の唄は、民謡のごとくに歌われて、歌いづがれて、皆の歌として残ったものである。人々の共感を呼ばない歌は、自然に消えるものである。

と、すると、人の心に大差はない。
現代人と、万葉人の心も大差が無い。
万葉の歌を、同じことの繰り返しだという、学者がいるが、当たり前である。人間の生は、同じことの繰り返しの中にある。それが、深まるのか、高まるのか・・・

それから、言うが、欧米の思想等を持って、万葉集は理解できない。万葉集は、
言霊により、理解することが出来る。

そして、この東歌を集めて、書き残した者である。その行為がなければ、現存することはなかった。
誰であろう。
防人の歌を集めたのは、大伴家持である。つまり、東歌も家持ではないかと思われる。


常陸国の歌
筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも
つくばねの にいぐわまよの きぬはあれど きみがみけしし あやにきほしも

衣は、絹の意味ではなく、着物のこと。
御衣は、着物の敬語。
あやに、とは、言いようも無く、無性に、という意味。
着欲しも、とは、着てみたい。着たいという意味。

これは、愛情表現の歌である。相手の着物を着たいという。互いに着物を取り替えて着ていた風習がある。
この春、新たに芽生えた桑の葉で飼った蚕の糸で作った着物は、持っていますが、無性に着たいと思っている着物は、あなたのお召し物です。

農村の乙女の歌である。君が御衣というから、相手は、身分のある男なのだろう。
普段は口に出来ない思いを、直球でぶつけている。

あなたの着物を着たいという言葉に、あなたが好きですという、気持ちを、すべて掛けている。
恋の告白である。

恋は、性であった。
何のためらいもなく、性があった。

さて、時代は、それから千年以上を経て、男は、結婚も恋も、セックスもしたくないという。
生きることの最大の喜びである性を、受け付けなくなった。生命力の低下である。
勿論、いつの時代も、虚弱体質の男はいた。が、これほど、多くは無かった。

さあさあと 引かれて入る ホテルへと さあさあと 引かれて股に 溺れる男 天山

溺れるのは、没頭するという意味ではない。女の股に沈没してしまうのである。

人口減少を嘆くことは無い。女は、強い。股を開いて、子を産むのである。後先考えずに、子を産む女は、まだまだいる。安心していい。

ただし、児童虐待が、年々増加している。親が子を殺す。
これは、狂いである。
女が女に留まり、母性を失う。
これは、この世の終わりを告げる。この世は、母性に支えられてあるからである。
集団の中で、生きる時、父性が必要に成る。

母性のからくりは、父性に支えられ、父性のからくりは、母性に支えられてあるということである。
そういう人の表情は、豊かである。
しかし、無表情、能面のような人相が多くなった。
笑うが、笑顔にならないのだ。都会は、そういう人が多い。田舎に行くと、まだ、笑顔がある。
喜怒哀楽を取り戻すことである。
怒哀の表情だけは、ある。
常陸国の歌
筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも 愛しき児らが 布乾さるかも
つくばねに ゆきかもふらる いなをかも かなしきこらが にのほさるかも

雪かも、かもの、もは、疑問の助詞、もは、詠嘆の助詞。
降らるは、降れるの、方言。
否をかも、否は、否定、をは、詠嘆の助詞。
児らの、らは、複数ではなく、愛称の節尾語。いとしい、あの子という意味。
布、にのは、方言。
乾さるは、乾せるの、方言。

筑波の山に雪が降っただろうか。いや、そうではなくて、愛しいあの子が、布を干したのではないか。

当時の常陸の国は、布生産が東国一だったそうだ。
雪が降ったように、布が山に干されている風景である。何でもない、当たり前の風景に、愛しいあの子を思う、男の純情である。

雪の降る季節ではない。それなのに、雪に布を掛けて、歌う。幸福感と満足感である。
二人は、気持ちを通じ合わせているのだ。

愛しいを、かなしいと、読ませるということに、注目である。

悲しいと、かなしは、違う。
悲哀という言葉がある。悲しいと、哀しいを重ねる。それで、悲しみの感情を増幅させる。
悲しみを哀しむのである。

愛を、かなしいと読む、かなしいの語感が違うが、それが、哀しい、悲しいと、通じているのは、何故か。

人の世の儚さである。
愛しいも、悲しい、哀しいと同じほど、この人の世を言う。

哀しいことほど、心が入るのである。心になければ、哀しみもない。

実は、愛しいも、哀しいも、悲しいも、もののあわれに、総称される。
おもろうて、やがてかなしき、とは、関西芸能の極みである。
人生とは、おもろうて、やがてかなしき、に至ると、見破ったのである。
その人生は、慈しむものである。
それが、もののあわれである。

何も、大げさな理屈にあるのではない。日々の心の機微に、もののあわれがあるのである。それを、源氏物語は、恋に掛けて語る。故に、本居宣長は、源氏に、もののあわれを観た。

2007年08月20日

もののあわれについて79

相模国の歌
ま愛しみ さ寝に吾は行く 鎌倉の 美奈の瀬川に 潮満つなむか
まかなしみ さねにあはゆく かまくらの みなのせがわに しおみつなむか

ま愛しみ、とは、まは、接頭語。愛しさに耐えかねて、という意味。
さ寝にの、さは、接頭語。
美奈の瀬川とは、鎌倉の、稲瀬川。大仏のほとりを通り、長谷を流れて、由比ガ浜に注ぐ。
私も、何度か見たが、今は、川とはいえない流れである。下水道のようである。
満つなむか、の、なむは、らむ、の方言。

恋しさに耐えかねて、妹のところに寝に行くのだが、美奈の瀬川に潮が満ちていることだろうか。

瀬川の対岸に住む女の元に通うのである。潮が満ちれば、橋がないので、濡れてしまう。
これから向かう男の心情を、そのままに、表現する。
何気ない、自然の一こまのような風景である。

人麿の歌にも、感じられない、音調がある。音楽的である。その音楽とは、縄文である。縄文から培われてきた、音調である。

ゆっくりと、声に出して読むと、その風情が、音と共に、感じられる。
もっぱら、言葉の音のみに頼る、歌。
音の響き。
まア、さア、という、接頭語に注目する。
掛け声である。
さアー、といった掛け声の感覚がある。
現代でも、驚くと、まアーと、声を上げる。ぅわアーと、声を上げる。それを、そのまま、歌にする。
意味を強める感覚になる。勿論、当時の人は、そんなことを考えて歌うのではない。
自然に発した通りに歌うのみである。

次の歌も、そうだ。

武蔵国の歌。
多摩川に 晒す手作 さらさらに 何ぞこの娘の ここだ愛しき
たまがわに さらすてづくり さらさらに なにぞこのこの ここだかなしき
さらさらに、という言葉は、翻訳出来ない日本語である。
擬態語といわれる、日本語は、世界には無い。
しかし、日本人ならば、解るのである。
川で布を晒している。その様が、さらさらに、なのである。

ひらひら、ひらりひらり、ゆらゆら、ゆらりゆらり、等々、日本語の語感を考えさせられる。ここだ愛しき、とは、凄く、たくさん、一杯という意味。

多摩川で、布を晒す、さらさらという水音のように、どうして、この子が、こんなに可愛くてならないのか。
人を好きなるという、心のカラクリは、解らない。
勿論、性に目覚め、その性の対象として、相手を認識した時、性の欲が、好きだと勘違いしてしまうことがある。それは、誰もが経験することであろう。
しかし、当時、思いは、即座に性に直結していた。

複雑になったことが、幸せであるとは、言えない。

女に好かれて、様々な女とセックスを繰り返していた男が、30を前に、インポになった。もう、どうしても、駄目だという。
通常のセックスに飽きた。何の感動も無い。
そして、色々と、シチュエーションを変えて、試してみた。パンティを脱がさず、横からペニスを差し込む等々。しかし、結局、もう、飽和してしまった。
射精しないセックスは、拷問になった。
そして、禁欲である。
暫く、女との関係を絶った。

別の男は、女に、尻の穴に、何でもいいから、突っ込んでもらい、漸く、勃起して、挿入し、体力を使い果たして、性交を終える。
もういい。女はいい、と、思うのである。

何ゆえのセックスか。ということを、知らない。
欲望とは、いえ、飽きる程の性は、矢張り、意味が違う。
要するに、イメージの無いセックスは、不毛だということである。

マスターベーションでも、イメージの豊かなものは、充実する。
イメージとは、何か。妄想である。

さて、この歌にある、底抜けに明るい、性である。
さらさらに、と歌うほど、爽やかで華やかである。

この歌は、男にも、女にも、歌われたであろう。
男は、好きな女を思い。そして、女は、自分を、愛しきこの子と、言われることを願って歌う。
健康。
そういう言葉が浮かぶ。
セックスに陰鬱な影が無い。

古代の人は、セックスの姿を見られても平気だった。
豪族の者になると、必ず、侍従がついた。人の見ている前で、平気でセックスをしていたのである。
また、乱交である。
農民は、月夜の晩に乱交する。

人の性交を平気で見て、喜び、また、自分も、性交を楽しむ。

ただし、そこにも一定のルールがあった。
乱交してよい時に乱交する。
制するべき時には、歌を歌う。

再度、確認するために、言うが、通い婚の時代である。
男が女の元に通う。子供が出来ると、女の親元で、育てる。

農民とて、最低限のルールがあった。
乱交は乱婚ではない。

年齢に合わせて、相応の付き合い方があった。

さて、東歌になると、愛という言葉が多くなる。
愛しき、かなしき、と読ませる。
哀しい、悲しいに通ずる言葉の音である。
いつから、愛しいが、悲しい、哀しいになっていったのか。
私は、平安期の頽廃した貴族によるものと思う。そして、仏教の思想である。
無常観が、大和言葉の堕落を促した。
そして、今に至るのである。
これについては、追々と、語ることにする。

2007年08月21日

もののあわれについて80

下総国の歌
鳩鳥の 葛飾早稲を 饗すとも その愛しさを 外に立てめやも
にほどりの かつしかわせを にへすとも そのかなしさを とにたてめやも

鳩鳥とは、湖や沼にいる、小柄な水鳥。
葛飾の、葛、かづにかけて、枕詞とされている。
葛飾早稲とは、千葉、埼玉、東京にかかる、下総国葛飾郡一体の土地。
饗、にへ、とは、神に捧げる食物の意味。大嘗祭、新嘗祭の、嘗、にあへ、の意味。おおにあへまつり、にいにあへまつり、正しく読むべき。漢語で読めば、意味が違う。
ここでは、今年の新穀を神に捧げて、来年の豊穣を願う。当時は、家ごとに、饗を、行った。
外に立てめやも、とは、やも、は、とも、を受けた反語。外に立たせておかれません、という意味。

葛飾の早稲の新穀をお供えする、物忌みの厳しい新嘗のお祭りでも、あの、愛しい方がこられたら、外に立たせたままでは、おかれません。そんなことは、私にはできません。

当時の、饗は、大変厳しく、許された乙女が、奉仕した。家人も、祭りの当夜は、家に入ることを、禁止されたという。
厳粛な儀式である。
その際、乙女であるというのが、ポイントである。
乙女を、汚れない者として、認識したのである。
そういう意味では、男尊女卑ではなかった。乙女は、格段に高い地位にあった。
乙女の処女性を尊ぶ。それは、また、男の神聖な愛情を尊ぶことであった。

物忌みとは、忌中である。
人が死ぬと、忌中という看板が掛けられる。物忌みのことである。
つまり、神聖なことなのである。
人の死を、不浄と見なしたのは、死は、気の枯れたもの、として、扱われたからである。死が、不浄なのではなく、魂の抜けた肉体が、不浄であった。
気の枯れた物、だからだ。
神道では、葬儀を行わない。
葬儀は、村人が行う。野辺の送りなどという。その間は、忌中なのである。
喪が済むと、潔斎して、清め祓いをして、生活を始める。

さて、現在、一般農家では、新嘗祭など、行わない。
11月23日は、勤労感謝の日ということで、休日ではあるが、唯一、新嘗祭を行うのは、天皇、皇室だけである。

秋祭りは、皆、新嘗祭から、はじまる。
輝く伝統を守りつつ行くはずが、これも、忘却された。
大いなるものに対する感謝の祈り、それが失われれば、核が失われる。
食物への感謝の無い日本の食糧自給率は、今年、四割を切った。
これに、危機意識を感じない国民は、滅ぶのも、目の前である。

命とは、何か。食べ物である。
この基本的なことを、子供たちに教えないのである。
屁理屈ばすかりを教える。
命の尊さとは、食べ物の尊さである。

人を殺しては、何故いけないのかと、問われて、大人は、慌てふためく馬鹿馬鹿しさである。
人を殺すとは、食べ物を殺すのであり、食べ物が無ければ、人は生きられないのである。すると、人は食べ物かというアホがいる。人は、食べ物の結果の賜物である。そういう意味である。

自然を破壊するのも、人を殺すと同じである。
生きとし生けるもの、すべてが、平等である。

日本の精神は、それである。

誰も言わないから言う。
世界中で、食べ物を作られるのに、自給率が四割を切る国は、日本だけである。
どんな野蛮な欧米の国でも、四割などという国はない。
本当に、これ程、愚かな国は無い。
これも食べ物を作る人々を尊敬しない教育のせいである。

金に任せて、輸入し、大半が、とんでもない食べ物を食べている。
中国ばかりではない。ベトナム、タイ、インド、インドネシア、台湾等々、日本に輸出する食べ物は、危険な物ばかりである。
知らぬは、日本人だけである。
中国人は言う。どうせ、日本人が食べるものだ、と。農薬でも、何でも使う。糞から、反吐から、何から何まで使うと。

少しばかり賢くなって、国の滅びを早めるのである。

万葉の心から、今の日本を眺めることである。
先行き、不透明ならば、古典に学ぶことである。

日本の御親、天照大神から、稲を授けられたのである。
日本人は、稲によって命を繋いできた。
日本の正式名称は、豊葦原の瑞穂の国である。
とよあしはらのみずほのくに、である。
瑞穂とは、稲に尊称を与えている。瑞とは、水であり、水は命である。また、瑞とは、水の尊称である。
水に、お、という丁寧語である、お水というのも、日本だけである。

ちなみに、日本以外の国に行くと、水道の水でも、飲むことが出来ない。唯一、水道の水が飲める国なのである。
今、それさえも、危うい。
国土自体が、恵みの国であること、何故、教えぬ、伝えぬ。

歌の話である。
この歌は、神に奉仕する乙女が、愛しい男に歌うものである。
これは、男も女も、歌ったであろう。共に、互いのことを思いつつ。
そして、いずれ乙女は、男と結ばれて、子を産み、次に繋げる。
愛しさが、連綿と繋いで、命の讃歌を歌う。
万葉の相聞歌、つまり、恋の歌は、命の歌であった。

恋、性、愛は、一直線につながっていた。

万葉を 懐かしめ 万葉に 辿り行けばや 性をも恋も 天山

2007年08月22日

テラの会活動

2008年四月より、開始する、テラの会の活動内容が、ほぼ決定した。

タイにおいては、チェンマイにて、コンサート、及び教育資金援助を掲げて、タイの中学、高校生を支援する日本の現地法人慧燈財団への協力。
また、その団体は、タイ・ビルマ戦線にて、戦死、病死した日本人慰霊を行っている。
それに対する、支援もする。
また、財団が行う里親制への支援と、北部タイの、まだ開発されていない、財団も手の届かない、子供たちへの教育支援を行う。

児童の昼食にするために、コオロギを飼育する学校もある。
コオロギ、バッタ等の昆虫は、タイでは、空揚げにして食べる習慣がある。
しかし、それだけでは、足りない。
昼食に、日本のインスタント食品や、乾パンなどの支援をしたいと考える。

次に、バリ島である。
こちらは、テラハウスがオープンすることによって、場所が出来、また、宿泊施設により、収入が入ることになる。
その、テラハウスにおいて、現地の子供たちへの、無料日本語講座を開催する。
また、バリ島滞在日本人のための、日本セミナー開催。
バリ島、ウブドゥの青年たちが、英語が出来るのは、矢張り、アメリカ人女性の無料英語講座によるものという。
それにより、仕事の幅が広がり、就職に就く者もいる。
学校でも、英語、日本語の必修科目がある。
インドネシア政府は、日本の資金援助を毎年受けている。
故に、必修科目に日本語を入れるのだ。

タイ・バリ島、共に、日本人長期滞在高齢者への、介護サービスへの促しを行う。
それが、新たな仕事になることによって、現地の経済を活性化させる。

さて、私の、もう一つの大きな希望は、戦争犠牲者の慰霊である。
兵士、民間人、皆々である。

慰霊、つまり、次元移動を、していただくということである。
皆々、まだ、その場に、留まっている場合、多々あり。
霊的に、浄化していただくための、慰霊である。
そのはじめに、オーストラリアの、ダーウィンにての慰霊行為である。
サイパンは、思った以上に成果を上げた。
オーストラリアから、ニューギニア、そして、ラバウル、ガダルカナルである。

そして、アジア、ベトナム、カンボジアでの、活動である。
日本セミナーを開催したい。
手始めは、日本語講座である。
日本を理解してもらうために、一番のこと。

それもこれも、高齢者の介護を視野に入れている。
日本国内では、高齢者の介護は、絶望的であることに、皆、気づいていない。

私は、預言する。
日本では、介護が飽和して、大変な問題になる。
自分だけは、大丈夫だと信じている、アホが多い。
認知症である。
10人に四人が、認知症になる。
今でも、介護士が足りない。また、介護士のなり手がない。皆、アジアの若者が、肩代わりする。
日本人の介護士は、給与が安くて、生活できないのだ。
政府が、ようやく、賃金保証などの待遇を示唆したが、遅い。
地方公務員の給与を抑えて、介護士に回すべきである。
非国民の公務員は、給与が上がることを、当たり前だと思っている。労働組合という、合法的ヤクザも、その後押しをする。

さて、経済大国日本が、介護も出来ずに、崩壊する様は、無様である。

ある程度、元気なうちに、海外、アジアの国に出て、介護を必要とする時、現地の若者が介護する。私は、それを、予知している。
そのための、準備である。
勿論、私は、それを商売にしない。

いくら、お金を積んでも、日本で、介護を求められなくなる。
それを、言っておく。
テラの会は、今までにない、活動ゆえに、理解されにくい。
新しいことは、理解されないのだ。

勿論、私は、それで本望である。

2007年08月23日

キリストの絶唱38

夕暮れになったので、イエスは十二人をつれていかれた。みな席について、食事をしていたとき、「まことに私はいう。私と一緒に食事するあなたたちのなかに、一人、私をわたす人がいる」とおおせられた。彼らが心配して、それぞれ「私ですか」とたずねた。イエスは「十二人の一人で、私と一緒に鉢に手をかけるのがその人だ。人の子は、自分について書かれてあるとおりにいくが、しかし、人の子をわたすその人はのろわれたものだ。この人にとっては、むしろ生まれないほうが、よかったものを」とおおせられた。

この箇所は、完全に創作である。
たとえ、神の子と言えど、それは、決して口にしてはいけない言葉がある。

むしろ生まれないほうが、よかったものを
とは、全くの、出鱈目である。

裏理切り者のユダの存在がなければ、新約聖書の、大切な役者がいなくなるのである。ユダは、イエスの最大の功労者である。
実は、このユダの書物も、残っている。
ユダの福音書と呼ばれる。

ユダは、イエス集団の経理係りのような世話をしていた。
いくらイエスでも、毎日奇跡を起こして、食べ物を得ているわけではない。
食事の世話から、寝泊りする場所の確保などを手配していた。

生まれを否定する者は、悪魔以外にない。
つまり、存在の否定は、無い。あってはならない。
まして、神の子であるならば、それを言えば、神の存在さえも否定することになる。

ヒットラーも、ポル・ポトも、毛沢東も、その存在を否定できない。彼ら一人で、殺した人の数は、星の数になるとしても。

福音書のユダの裏切りは、下手な芝居より悪い。

ユダは、周到に計算して、自分の役回りを演じた。
他の弟子たちは、アホだが、ユダは違った。
アホは、何人いても、アホである。アホに、11人掛けてもアホである。
しかし、ユダは、現実をしかと見つめていた。そして、イエスのメシアであることを、遂行させた。
イエスがメシアなら、ユダもメシアである。

最後にユダは、木に首を吊って死ぬことになっているが、違う。
イエスとの対比である。同じく、木で死んだとした。
ユダは、生き続けて、最後まで、その真偽を見つめていた。

新約聖書の中で、イエスの次に存在感を持つ者、それは、ユダである。

イエスの弟子のほとんどは、後に殉教する。
イエスの胸で甘えていた一番年下のヨハネだけが、長生きである。

宗教的天才は、身の回りに男しか、集わせない。
仏陀も、女を遠ざけた。どうしても、弟子にという女が現れた時も、仏陀は、許可しなかった。修行の妨げになるからである。
女には別の生き方があると知っていた。
しかし、仏陀も、弟子たちに懇願されて、女も弟子に加えることになる。

孔子も、弟子は、皆男である。
思想集団に女は入れない。
入れると、乱れる。
女を集団に入れたら、確実に分解してしまう。
つまり、女は、思想集団に向かないのである。

イエスにも、大勢の弟子の集団があったが、女を近づけなかった。

思想集団に内助の功は、いならない。それが、命取りになってしまうのである。
女は、過ぎるから、墓穴を掘る。
女は、人や子供を救う時に、我を捨てて行動する。しかし、そうすると、冷静な判断ができない。助けようとして、自分も死ぬのがオチである。

男の思想集団に理想的なものは、同性愛感覚である。

男同士が愛し合っても、冷静でいられる。
それでも、アレキサンダー大王は、男の愛人に裏切られたのである。
実に、ここのところは、微妙である。
女性性の強い男と、愛し合う時、男も注意を要する。
男として、男を愛するという強い意識のみが、同性愛を確固たるものにする。

ユダは、イエスを精神的に愛した。それは、徹底していた。この人のためになら、鬼に悪魔にもなろうと、腹を決めた。それほど、賢かった。

最も愛されたヨハネは、ユダの愛と違う。
多分に情緒的なものである。が、逃げ出した弟子たちと違う。最後の最後まで、愛してくれた師匠を見つめ続ける。それも、また、一つの愛である。
イエスの母マリアと、イエスの最後を見つめ続ける。

イエスの唇の温かさを知るヨハネの心は、最後を遂行した師匠を、哀しみつつ、誇りに思ったであろう。
そして、確信する。
神の子であったと。
ヨハネだけは、その宣教の仕方が、他の弟子たちと、違う。

イエスの肌の温かさに眠ったヨハネにしか解らない人間イエスの、真実である。

女の体は、円やかで柔らかい。しかし、男の体は、硬く冷たい。
少年が、男の体に抱かれて眠ることを覚えた時、それが実に安定した安らぎを得ることを知る。少年は、生涯、男の体に安らぐのである。

そして、思想集団には、それが必要だった。

女人禁制は、意味がある。

親に愛されて育つ子供は、人を愛することができる。
同じように、男に愛された男は、人を愛することができる。

イエスは、できれば、独身で生きる方がよいという。
それは、多くの人のために生きられるからである。
一人の女を愛することもよし。しかし、多くの人を愛する男は、男に愛された方が易い。
これ以上、説明しない。

女のように男に愛されることを望む男の話をしているのではない。
男として、男に愛される男の話をしている。
理想に生きる男は、皆、男に愛されて、生きる。
古代、男衆、女衆に分かれて作業をしていた意味が解る。
男は、男によって、男になる。
女は、女によって、女になる。
そして、その男と女という、性差のある、違う者同士が家庭を作る時、その経験が生きるということを、古代から知っていた。

ある部族では、男の成人式に、成人男性の精液を飲む。
また、年上の男に愛されて、一人前になり、部族の中に戻り、女と結ばれる。

イギリスの騎士道も、年上の男に愛され、成長して、また、今度は、年下の男に、それを伝える。それを同性愛趣味とする、また判断することの愚かさといったらない。

ユダと、ヨハネの生き方に、男の生き方を観る。

ユダの裏切りを、小説仕立てにして、福音書は、文学として、最低線をいった。

生まれるものをして、生まれぬ方が良かったという言葉は、自然界の激怒を買う。
神の怒りより、自然界の怒りの方が恐ろしい。

もう一つ言う。
誰がイエスかを、ユダが教えるために、ユダが先導してイエスを捕らえたというが、そんなことがある訳が無い。
イエスは、当時すでに有名である。
誰がイエスかを見極めるために、ユダがそんなことをする必要は無い。
イエスを知る律法学者が一人付き添えば、簡単なことである。
それによっても、福音書の、浅はかな、カラクリに愕然とする。
芥川賞も、取れない。
矛盾だらけだからだ。

キリストの絶唱37

マルコ第13章は、世の終わりについて言う。

宗教は、人を脅すものであるから、当然、終末思想、世の終わり等々の、お話を作る。
1999年に向かって、多くの新興宗教が、世の終わりを喧伝した。
そして、人の不安を煽り、信徒を増やすという。

イエスキリストの、世の終わりというものも、その一つに当たる。
しかし、実に、世の終わりは、毎日繰り返されている。
人の死である。

本日か、明日か、明後日か、百年後か、千年後か、世の終わりは、いつもある。
人は死ぬことによって、世を終わる。

今、人類は、核兵器によって、即座に、世の終わりを演じることも出来る。

イエスは、世の終わりの話の後に、御伽噺のようなことを言う。

「さて、その日には、この苦難ののち、日がくらみ、月は光を失い、星は空からおち、天の力はゆれうごき、そして人々は、人の子が、大勢力と栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。そのとき、かれは天使たちをおくり、地の果てから天の果てまで、地の四方から選ばれた人々を集める。」

旧約聖書の神の奇跡を信じている者たちに、ここまで譬えて言わなければ、迫力に欠けるるのだろう。
しかし、旧約の神も、雲には、乗らなかった。

思い出して欲しい。日本の古事記を。
雲に乗って、天孫降臨したのは、我がタカアマハラ霊界からの、ニニギの命である。

聖書解釈では、世の終わりについて、旧約のイザヤ書における、バビロンとエドムの滅亡の光景を指し、エゼキエル書でのファラオの滅亡を言うとある。
一部の学者は、エルサレムの滅亡という者もいる。
キリスト教新興宗教は、この、イエスの世の終わりの言葉を、この世の終わり、つまり、世界の終わりと、解釈するのである。

選ばれた人とは、キリスト教徒のことを言うと、手前勝手なことも言う。

キリスト教徒のような、偽善者たちが、選ばれるということは、一切無い。
自分たちが、選ばれるという思い込みは、本当に、救いようがない。

人は死によって、この世の終わりを体験する。

「いちじくの木からこのたとえをくみとるがよい。その枝がやわらかくなって葉を出せば、夏が近いことがわかる。それとおなじことで、そういうことが起こったら、事はもうせまってきた。門口に近づいたと知らなければならない。まことに私は言う、それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。天地はすぎさるが、しかし私のことばはすぎさらない。」

「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないのである。かれが不意に帰ってきたとき、あなたたちはが眠っているのを見つけられることがないように。わたしはあなたたちに言っていることをすべての人に言う。目をさましていなさい。」

伝言ゲームで書かれた福音書であるから、イエスの言葉、説教は、実に、注意深く読まなければならない。書いた者の、願望や、思い込みが激しい場合は、支離滅裂になる。

それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。と言い、天地はすぎさるが、私の言葉はすぎさらない。
今の代は、すぎさらない。天地はすぎさる。
何、言ってんのー
今の代が過ぎ去らないで、天地が過ぎ去って、そして、私の言葉は過ぎ去らない。

こういう、とんでもない言葉遊びを、教会は、あのように、このようにと、屁理屈をつける。
自分たちの、都合の良いように、解釈する。
そして、自分たちは、救われると、思い込む。イエスが嫌った、律法学士と同じであることに、気づかない。

それでは、私は言う。
人は確実に死ぬ。その時、世が終わる。
それが、いつになるのかは、誰も知らない。だから、目覚めていよ。
限りある人生である。
死ぬことが救いなのである。そして、それが世の終わりである。
自然死も、事故死も、戦争死も、天災死も、何もかも、死ねば、世の終わりである。
その時が、いつきてもいいように、目覚めていよ。
そういうことである。

旧約の言葉を意識するゆえに、イエスの言葉が複雑怪奇になるのである。

旧約の神ではない、大和の神は、すでに、イエス在世当時より、一万年前に、雲に乗って、天孫降臨している。
旧約の神は、イエス在世当時から、4千年前である。

何を、たわけたことを言う。

ひとえに、神学という、妄想の酷さである。
その解釈大半が、あの、あのである。中世という、教会支配の暗黒の時期になっているのである。
異端審判の、最低最悪の様は、無知としか、言いようが無い。

頭の悪い者が、いくら考え続けても、良いアイディアは、浮かばない。堂々巡りをするのが、精々である。

ムハンマドの起こしたイスラムが、教会支配の地に、乗り込んで、飲み込んでゆくのに、慌てて、十字軍を興す程度の頭の出来である。
何故、イスラムが、支持を得るのかを、考えることが出来なかった、頭の程度が、あの当時のカトリック教会指導者の、知的レベルである。

複雑怪奇な神学より、イスラムの方が、実に、明確で、解りやすい教えだった。
司祭は、いらない。偶像を拝むな。一人一人が、アッラーと結ばれよ。あなたと神の関係である。

今、現在もイスラムは、増大している。
その勢いを、止めることが出来ない教会の、頭の悪さは、尋常ではない。

カトリックの指導者の、キンキンキラキラの姿と、イスラム指導者の、質素さを見れば、誰もが、イスラムを信奉する。
つまり、偽善者であること、明々白日であるからだ。それに気づかないという、頭の悪さである。
教会と、モスクを比べて見よ。
金に任せてキンキンキラキラの教会と、何も無いモスク。祈りのみが有効なモスクである。

ただし、私は、イスラムにはならない。
私は、自然が神殿で、ご神体が太陽の、古神道という、日本の伝統にある。
これには、イスラムも、適わない。
本当に、何も無いのである。
教祖も、経典も、教義も無い。こうせよ、ああせよ、も、無い。
楽しい時は、歌って踊って、哀しい時は、泣いて、怒る時は、心を鎮めて、喜びの時は、皆に、振舞って、ただ、それだけ。
それなのに、死んだら、最も高い次元のタカアマハラ霊界に行くという、妄想、モウソウである。

イスラムも、唖然某然。

金ピカの杖で、世界を祝福するというローマ法王である。
最も世俗的である。
その権威と権力のために、今まで、どれだけの人を殺戮したのか。
さあーーー言え。
神に選ばれたとは、これいかに。
悪魔であろう、その神は。

まだまだあるが、以下省略。

2007年08月24日

695日祭

8月25日は、藤岡宣男崩、神上がり、という。695日祭である。

崩を、かむあがり、と読ませた。
古代、人の死は、隠れると言った。
その身を隠してしまうことを、かむあがりと、言う。

人は、死んでも、無くならないのである。
消滅するということは、有り得ない。
宇宙の外に出るというならば、消滅もあるだろうが、宇宙の外は、無い。完全無欠の無である。
宇宙の中に、実は無という空間は無い。妄想である。
ただし、未解決のブラックホールから、宇宙が生まれた。その場が、無であるとするならば、するでよし。未知なるものを、人は無と呼ぶ。

水は、蒸発して、空に上り、また、雨として降る。
そのように、人の死も、考えた。そしてそれは正しい。

さて、695日祭である。

命日というのは、命、みこと、と読み、命上がりの日という意味である。
命の日とは、不思議な言い方であるが、誰も、気に留めない。
命とは、死者に対する尊称である。
日本人は、死者を命と呼び、神になると確信した。
すると、アホが、神、神格化などと言う。
日本の神観念は、一神教の神観念はない。
そして、神格化もしない。

日本が言う神は、霊のことである。

ちなみに、霊魂という。霊と、魂と分けて考える。
それも、実に正しい。

霊と、魂は、働きが違う。

仏教の言う、転生輪廻は、誤りが多い。
生まれ変わりというが、私が死んで、また、私が、そのまま、生まれ変わるということは、無い。
私の霊格、人格は、霊界に残る。転生は、私の一部が、つまり、分霊という形で、人の魂に関わるのである。
しかし、これ以上は、混乱するであろうから、省略する。

霊界は、我と私が逢う空間である。
我と、私とは、混乱するでろあう。
本当の私に、私が逢うのである。
それでは、この世の私は、本当の私ではないのか。本当の私とは、全意識を意識した時に、解ることである。

ただ今は、ほんの意識の部分のみで、生きて考えている。

私は、藤岡宣男と、695日も、逢うことなく過ごしている。
一日たりとも忘れることはない。
そして、日増しに、別れた悲しみが強くなる。

忘れることなど、有り得ない。
普段は、忘れて過ごしているということもない。毎日、何度も思い出すのである。
それは、ある種、苦難に似る。
様々な思い巡らし、七転八倒することもある。

これを生きるためには、と、考えて、今を生きる。

人は、人にして上げたことは、忘れない。人にされた好意は、忘れる。いかに、自我意識が強いのか。

藤岡が、完全無欠の人間ではなかったことが、私には、救いである。
几帳面で、しっかりしていたところもあるが、どこか抜けていたところもあり、愛すべき存在だった。

さて言う。
藤岡宣男は、無くなってはいない。
死んで無いと思うことの、いかに愚かなことか。
次元を異にしている。
そして、次元の幅が、この世から離れていればいるほど、手が届かないのである。
私の悲しみは、それである。

肉体というものに、阻まれて、次元の格差を埋めることができないのだ。
勿論、コンタクトはある。しかし、肉体がある時のように、直に話すことができない。

それに、浮遊していないから、簡単にコンタクトは、できない。
迷いにあるならば、招霊することもできる。
だが、藤岡は、霊界に場所がある。
故に、私は、悲しいのである。

アメリカにいるというならば、電話で話すこともできる。
しかし、次元が違えば、もう、こちらの能力では、如何ともし難いのである。

聞く者、聞くがいい。

もののあわれについて81

下総国の歌
足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ
あのとせず ゆかむこまもが かつしかの ままのつぎはし やまずかよはむ

真間とは、千葉県市川市。

蹄の音を立てずに走る馬は、いないものだろうか。そんな馬がいたら、真間の継橋を渡っても、誰も気に留めないだろう。気兼ねなく、彼女の元に通ってゆけるのに。

行かむ駒もが
実にいい。女の元に通う歌は多い。そんな中で、足音の立てない馬がいれば、と、有り得ない馬を想像する。
恋は、有り得ない想像を掻き立てる。

合理的、機能的セックスなら、いつでも、どこでも、出来る。
現代では、社内からはじまり、至るところが、セックスの場所になる。古代であれば、それは、もっと、そうであろうが、女の元にというところが、よい。

休憩二時間という、ホテルで、二時間のうちに、セックスを済ますという、合理性。遅漏でない限り、いや、遅漏でも、二時間はかからないだろう。
しかし、本当にセックスを楽しむとしたなら、二時間では足りない。
前戯は、最低30分である。
女の体は、開くのに時間がかかる。
挿入して、じっとしていて、30分。そして、15分程度で射精する。
しかし、女の体は、それからである。エクスタシーに達して、その後、その快感を静まるまで、待つ。人によりけりである。
30分としても、105分である。二時間120分であるが、シャワーを浴びたり、話をして、三時間以上は必要である。

セックスというものも、教えられなければ、解らないものだ。特に、兄弟が男はがりとか、一人っ子とかは、教えられなければ、解らない。

40過ぎて、奥さんが、セックス拒否をした。旦那の無作法な、セックスに耐えられずである。しかし、旦那も、女の体を知らなかった。
アドバイスした。
挿入する前に、ゆっくりと、体を優しくマッサージしなさいと。
マッサージとは、愛撫である。

体を触るということは、相手を理解することと、一緒である。
旦那は、改めて、奥さんの体を知った。
色々と、触ることで、奥さんの、女の体を知った。
ああ、男と違う。円やかで、優しいのだ。
そうすると、単に挿入して、ピストン運動をしていた、自分は、何にも知らなかったと、悟る。悟るというのは、こみういう時に言う言葉である。

拒絶していた奥さんが、セックスがたのしくなったという。当然である。セックスは、命の証。楽しまないセックスは、害である。
次に、単にピストン運動するのではなく、女性自身の味わいを、ペニスに感じることと、テーマを与えた。

すると、ペニスで、女性器、つまり、膣の在り様を探ることになる。
素晴らしい。単なる穴が穴ではなくなる。
こちらの、動きようで、あちらも反応する。
大成功である。
どんなにか、二人の仲が深まったであろうか。

一人の女を通して、すべての女を知ること。そこに、セックス、性交の奥義がある。
百人斬りを云々という男には、女を知る術が無い。
数が多ければ、解るというものではない。

自在に変化する女の体の不思議は、大いなるものに対する畏敬の念を起こさせる。
人体の不思議が、自然界すべての不思議に通じる。
何と、巧妙に造られたものであろうか。
神や仏など、信じなかった者も、セックスの素晴らしさによって、何者か知らないが、何かが在るのではと思うほどになる。

人間は、動物は、雄と雌しかない。
勿論、性同一障害や、同性愛もあってよい。
男が女に出会う。それは、また、もう一つの私に出会うことなのであると、知る。
私の女に、私の男に出会う。そして、私が深まる。
その相手は、私の内に内在していた私であった。
そこまで、深まる。

どうであろうか。
人間とは、実に素晴らしいものである。

しかし、無理は禁物である。
セックスの必要でない夫婦もいる。会話で、十分に満たされるという関係もある。
それは、また、それでよし。

ここで言うことは、夫婦、大和言葉では、めおと、という。
目、音、止、である。
目で見て、音を聴く。そこに留まる。
相手を見て、相手の音を聴く。相手の心の音を聴く。そこに留まるのである。

この、めおと、という歴史は、浅い。
雄と雌という状態の前、単細胞で、分裂していた時期の方が長いのである。
本来は、一個の個体で、成っていた。つまり、人は、一人で成るものなのである。

その単細胞が、もう一つの単細胞を相手とすると、決めた時から、驚くべき、進化がはじまった。
分裂した、もう一つの細胞を、私の相手として、認識するのである。
元は、一緒である。その、遠い意識が、セックスにより、深まれば、甦る。
あなたは、私だった。
これが、悟りである。

人は皆、本当の私に会いたいがために、生まれてきた。

万葉は、それをも教える。
学者でない私が、万葉を語るのは、実に意義深いものがある。
私により、万葉の世界が、拓かれる。
古典ではない。実に、現在ただ今も、万葉の時代なのである。
現在ただ今も、神代なのである。

もう一つ、おまけに言う。
人は、一人で完成するものである。
それは、古事記の最初の神々に表される。
皆、独り神であり、その身を隠すという。
ここに、真実がある。
実に、めおと、というものは、その関係は、それを知るべくの方便である。
しかし、理解出来ない人は、理解しなくてよい。

2007年08月25日

もののあわれについて82

常陸国の歌
筑波嶺の 彼面此面に 守部すえ 母い守れども 魂ぞ合ひにける
つくばねの をてもこのもに もりべすえ ははいまもれども たまぞあひにける

母いの、い、は、強調。娘の身を守る母親の心。
魂ぞ合ひにける、は、互いに思い合い、愛が融けあうのである。

霊合、たまあい、という。こういう信仰があった。
つまり、魂が融けあうのである。
相手の霊が、こちらに憑くのである。互いの分霊が、互いに憑く。
相手の思いが、通じる。不思議なもので、そういうこと多々ある。相手の身に起こることが解るというものである。
それ程、深い関わりを持つ。

筑波嶺の、あちこちに番人を置いて、山を守るように、母は、厳しく目を光らせている。でも、私たちの魂は、堅く一つに結びついています。

霊合、というのは、何も恋人同士だけではない。
親子、兄弟、友人、知人にも言える。
私の場合は、何か特別なことがあると、その人の心の声が聞こえる。
それで、連絡すると、よく、どうして解りましたかと、言われる。あなたの声が聞こえたというと、絶句される。
ある時、どうして泣いているの、と、問うと、驚き、どうして私が泣いているのが解るのかと言われた。見えるのだ、私には。
だが、特別な能力ではない。
見える、聞こえるのである。

誰もが経験することは、思い出した時、電話がかかってきたというものだ。誰にでもある。

霊合、とは、そういうことである。
霊を、タマを掛けるのである。
生きている人の霊を、生霊という。
悪い場面でだかり言われるが、この生霊は、守りの生霊の場合の方が多い。
親が子を思い、子が、それで助かること多々ある。

それでは、死霊の場合は、浮遊している場合は、憑依霊となるが、霊界入りしていると、背後霊になる。しかし、守護霊とは、言わない。守護霊は、生まれ持って、ある、特別な霊である。

死霊の幽霊は、迷い霊である。行くべき世界に行けない、行かない。死後の世界を否定する人の多くは、幽霊になること多々あり。
しまいに、自分は、まだ、この世に、生きているというから、手を焼く。

人の幸せは、霊合の者との、出会いと、連れ合いである。
一人で生きられることは、まず無い。人は一人で生きられないようになっている。

信濃国の歌
人皆の 言は絶ゆとも 埴科の 石井の手児が 言な絶えそね
ひとみなの ことはたゆとも はにしなの いしいのてこが ことなたえそね

たとえ、部落の人たちから、憎まれても、口をきいてくれなくても、あの石井の小町娘との仲は、いつまでも絶えてくれるな。

美人の娘と、恋仲になると、部落の男たちから、嫉妬され、憎まれてもいい。恋する若者の、決意表明である。

昔から、そういう恋を生きた人は、大勢いる。
部落を女のために捨てて、二人で、新天地で生きるという。

愛する者といれば、どこででも生きられる。
勿論、現代は別である。
そんな思いの強い愛を生きるのは、差別され、迫害された者に言える。
例えば、同性愛者であるとか。

若い頃、一人の年上の男と付き合っていた青年が、40を過ぎても結婚しない。いまでも、彼を好きだという。
その彼は、家を継ぐために、結婚をした。その時に、別れて、今は、会うこともない。しかし、彼は、彼を愛し続けている。
それも、愛の一つの形である。

人間とは、何と、愛しい存在であろうか。
二度と再び無い、この人生を、たった一人の人を愛して生きるという。
極まるところ、人生とは、最大の自己満足を生きる者が、幸せという感覚を得る。
どこに、何に、自己満足を得るか。
問題は、それである。

信濃国の歌
信濃なる 千曲の川の 細石 君し踏みてば 玉と拾はむ
しなのなる ちくまのかわの さざいし きみしふみてば たまとひろわん

実は、私の好きな歌である。

千曲川の細石でも、あなたが踏んだ石ならば、私にとっては、玉のようにものである。

間接的、愛の告白である。

いつも眺めていた、細石が、あなたの存在によって、光るのである。
あなたの足が触れた石に、あなたが宿ると感じる心。
その石を胸にあてて、あなたを慕う。
片恋、片思いの、篤き恋情である。

今は亡き、映画評論家の小森という、おばちゃんがいた。
彼女曰く。
彼を帰した後、彼の着ていたパジャマを抱きしめて、彼を思うの、と。
同じである。
そんな相手のいることが、幸せである。
何も大層なものなどいらない。
そんな相手がいるというだけで、幸せを感じるのである。

今も昔も変わらない。

幸せは、幸せを感じられる心にある。
どんなに、不幸であると、客観的に見ても、本人が幸せであること、それが重要である。
私は、多くそういう人を見ている。

2007年08月26日

原発

原発反対というのが、正義の面をしている。
実に、偽善的である。

8月22日、東京電力の需要が、6147万キロワットに達した。
需要急増に対処するため、停止中の塩原水力発電所を緊急稼動させた。
停電の恐れが出たために、化学、非鉄金属などの工場23件に供給カットを通達したのである。

柏崎刈羽原子力発電所が、地震のために、停止し、供給力が低下したためである。

この時代、電気を使用しない生活は、考えられない。すべて、電気である。これから、エコカーで、電気自動車が出てくる。

勿論、地方が、東京の犠牲になる必要は無いという人もいるだろう。
それでは、東京の国税が、どれくらいかを言われる。

電気を使い放題で、原発に反対しても、説得力が無い。
電気の無い生活をして、その不自由を感じて、はじめて解る。

原発の恐れは、事故であり、テロ行為による攻撃対象となることである。
それを、どうするのかである。
事故に関しては、徹底した管理と、その体制を求める。

ただ、テロである。
北朝鮮の工作員は、すでに調査している。
北が、仕掛ければ、日本は混乱になり、北の思う壺になる。それに、どう対処するかである。

これ以上は言わない。

原発反対するためには、電気の消費を落とすことである。しかし、それは現実的ではない。いかに、折り合いをつけてゆくかである。
もっと、冷静に、それを判断する必要がある。

もう一つの提案は、無人島に原発を作ることである。
これなら、少しは、現実的だ。
日本にも、多くの無人島がある。
ただ、お金がかかる。

エネルギー資源の無い日本の弱点であるから、政府は、科学者の団体を作り、より安全な原発、エネルギーの確保を為すべきである。

風力発電もいいが、もっと、国がバックアップしないと、単なる思い付きの行為で終わる。

実は、自然で安全なエネルギーというのは多々ある。
例えば、奇想天外なところで、地球の自転を利用して得るエネルギーである。
これなら、世界的に、エネルギーが供給される。
しかし、石油国、それで、莫大な利益を得ている者、利権を持つものたちから、猛反発をくらう。

ソーラーシステムというものも、もっと改良して、電気を生むことが出来る。

実は、安全な水も、空中から得ることが出来る。
簡単な機械を作れば、それが可能だ。
しかし、それを発明した人は、殺されはしないが、抹消された。
永遠に点く電球を発明した人もいたが、却下された。
すべては、利益追求の人たちによってである。

石油での国際摩擦、紛争、戦争がある。
日本の科学者は、石油に代わるエネルギーを創出する方法を研究する能力がある。

要するに、世界は、得る者が主導権を握っているのである。
何の努力もなく、埋蔵する石油を売って、莫大な利益を上げる者が、決める。
その利権を持つも者が決める。

石油によって、飛びぬけたような生活をしている、ほんの一部の人は、一度死ねば、二度と再び、転生できないほどの、霊的空間に行く。
石油に祟られるのである。

分配の法則というのが、この世の法則であるが、それをせずに5,000年ほどを経ている。
人間である。
不自然な生活、生き方を人間だけが、している。

実は、私の言う、大和言葉の世界は、この分配の法則、そのままである。
世界は、日本の言葉に学ぶことなのであるが、何せ、唯一の神てあるから、救いようがない。語る言葉が無い。

地球がおかしい、危ういというが、実は、地球は、なんでもない。人間だげが、他の動物もであるが、住み難くなっている。
地球の魂が、少しはがり浄化しようとすると、一変に地球を凍らせることもできる。

自分の撒いた種で、自分が苦しむのである。
温暖化もそうである。

温暖化防止の云々は、あれは、表向きである。
本当は、誰も、そう、利益を上げる者、利権を持つ者は、平然としている。
彼らは、痛くも痒くもない。

温暖化で苦しむのは、世界の貧乏人である。
彼らにしてみれば、それは、どうでもいいことである。
格差どころではない。
彼らは、人間を物だと認識している。

大邸宅に住み、自家用の飛行機、ヘリコプターを持つ者が、世界のことなどに、目を向けるだろうか。
それならば、もっと早くから、世界は、より良くなっている。

二千年前、インドのアシュカ王は、仏陀の慈悲の思想を体現し、何年毎に、すべての財を布施した。それにならった、諸国の王たちである。
しかし、イスラムが起こり、根こそぎイスラム化した。
そしてインドでは、カースト制という、魔界支配の先導での、差別階級を今の世までも、維持しているという、驚きである。

話が長くなるので、この辺で。

2007年08月27日

今の日本

ただ今の、日本人のレベルを知りたければ、政治家を見ればよい。そこに、皆、日本人の顔がある。

民主党は、自民から政権を取るべくの、言動である。それだけ。
今回の参議院のことも、史上初であること。
そして、重大な局面にきている日本の政治という。
これは、アホだろう。
そして、共産の、いつまでもの理想と、社民のお馬鹿は、死んでも治らない。

自民党は、自由民主党という。
民主党は、その前の自由が無い。
言葉遊びである。
民主党の大半は、何か。旧社会党である。話にならない。勿論、自民党や、その他諸々。
今回、国民新党という政党もある。

自民党は、安倍首相で内閣を改造する。しかし、党内でも、色々と意見が分かれる。

日本の未来は、どうなる。

党、などの話を聞きたいのではない。
日本を、どうするのか。

早く、やるべき、改革を為して、先に進むことである。
安倍さんだって、一人目立ちたいわけではない。一つの駒だと、思っているはず。

民主党など、あまりに矛盾を抱えている。
党の統一など、有り得ない。
支持基盤の多くは、労働組合である。
ゴロツキが、支持基盤である。

郵政民営化反対の議員の気持ちは、よくわかる。
しかし、一度、方向を決めたのである。その方向に向かって、進みつつ、手直しすればよい。その、臨機応変さを、自民党は、持っていた。

小泉を支持したのは、他でもない、国民である。
国民の総意に従って進めばよい。

安倍さんに対する批判や非難は、ただ、停滞させるだけの話。
さっさと、安倍さんに進めさせて、それから、政権交代などなんだの、やればよい。

政権交代を国民は、望んでいるのではない。
日本国民として、誇りを持ち、安心して暮らしたいのである。
この、安心とは、経済、老後、そして、安全保障である。

格差社会というが、社会システムが進めば、当然、そうなる。
そこで必要なことは、地域の意識である。
改革によって、格差が広がったというが、当然であろう。
何のために、歴史というものがあるのか。
過去を検証するためだけではない。未来を創造するためにこそ、歴史はある。

シャッターが閉まった商店街は、地方の至る所にある。
青森や富山だけの問題ではない。
何故、そうなのか。
それが、歴史にある。答えが歴史にある。

皆が、平等に与えられるという、アホな、幻想を持つなかれ。
それを、政治家が言っても、信じるな。
そんなことは、できるわけがない。

年金が破綻することも、暗に政治家が言う。
今は、大丈夫です。今の若者が、危ういと。

社会保険庁の、あの怠慢ぶりの犯人が組合であると、解っても、何も起こらない。
非国民である、公務員を辞めさせて、新たに雇うと安倍さんが言うのである。今までにない決断である。

それこそ、格差のある、低い地方の人々が、老後を年金に託している。真面目に、年金を支払い、それを、頼りにしている。
政治家は、その代表であろう。代弁者であろう。

党など、どうでもいいのである。
いやいや、党だから、色々と方法がある。
資金を、云々かんぬんと、訳知ったようなことをいう。

年金をあてにしない人が、年金を論じるという、アホみたいなことをしている。

郵政民営化で、何が起こるか。郵便貯金の開放である。
そんなことは、すでに、ずーーーっと前から始まっている。
外資に乗っ取られることを、善しとしてきたではないか。

東京駅周辺を見よ。
三菱という、明治維新に、ただ同然で、丸の内の土地を手に入れた者以外の土地は、皆々、外資の手が入っているではないか。
金持ちの先祖というのは、大概が、こズルイ者である。
土地を持っていたというのは、土地を手に入れたという者であり、それは、土地を奪った者である。
最初から、土地は、誰のものでもない。
後で、土地に名をつけたのである。

さて、預言する。
民主党は、分裂する。
政権など、取る前に分裂する。
もし、分裂せず、政権を取ったなら、日本は絶望的、いや、絶望である。
自民党より、矛盾が多い。多すぎる。

早急に憲法改正を行い、自衛隊を軍隊として機能させて、安全保障に向かわせるべきである。世界を見回せば、平和憲法云々という場合ではない。
日本の存続がかかっている。
理想は、もう十分である。

歴史は繰り返されると言うではないか。
再び、日本に原爆投下されないように、切に願う。

非常時の場合、日米安保は、機能しないのである。

といっても、政治家を見れば、国民がアホであることが、実によく解る。
感情以外で、政治を考えられないのである。
また
政治家になった途端に、偉くなるから、理解不能になる。
民主主義が機能するのは、選挙をする国民が、実に賢い場合に言える。

政権交代をするのは、国民である。
民主党が言うことではない。
そして、それを言わせてはならない。
国民が政権交代をさせるのである。何を、傲慢なことを言うのか、民主党。
いいかげんにせ、アホ。

追伸
小沢さんは、耄碌した。完全に。
掛け声だけで、何一つ、現実的な政策を掲げてない。
テロ特法に反対するというが、それでは、日本は、何によって国際社会に通用するのか。
また、金を出すのか。
自衛隊を、撤退させて、どうする。
何も、アイディアがない。単なる、パフォーマンスである。
そして、言うことが、いい。
国連が、承認してないと。
アホか。
国連とは、何か。
アメリカが国連に加盟金を支払っていないのだ。真面目に払っているのは、日本のみ。
唯一、膨大なお金を払っているのは、日本のみ。
アフガンに民主党青年隊を送り、ボランティア活動をさせてみよ。
皆、人質、あるいは、殺される。
こういう、危機意識の無い者が、政治家に、何人いても、詮無いこと。
私は、小沢さんを、政治家として尊敬していた。
しかし、もう、今、彼は、単に、自分の欲望、つまり、政権交代のみを望む。
終わっている。
政権交代を、誰も望んでいない。
国民が望んでいることは、年金、老後の介護、そして、安全保障である。
ちなみに、北朝鮮に拉致された、多くの方々の、救出に何故行かない。
政治家ならば、まず、それをする。
小泉改革によって、格差が広がったのではない。歴史が、そうなのだ。
それより、小泉さんは、いずれにせよ、拉致被害者を、連れて帰った。
今まで誰もしなかったことを、した。評価する。

2007年08月28日

キリストの絶唱39

かれらが食事をしているとき、イエスは、パンをとり、祝福をとなえ、それをさき、みなに与え、「これをとれ、これは私の体である。」とおおせられた。また、さかずきをとり、感謝の祈りをとなえ、かれらに与えて飲ませ、そして、「これは、多くの人のために流される契約の私の血である。まことに私は言う。神の国であたらしいものを飲む日まで、私はもうぶどうの実からつくるものを飲まない」とおおせられた。

マルコ14章22節から、最後の晩餐の様である。

その後で、かれらは賛美歌を歌ったとある。

実は、この賛美歌というのが、西洋音楽の大本である。
つまり、ユダヤ教の歌である。
多くは、旧約の詩篇を歌った。
しかし、西洋音楽は、グレゴリオ聖歌から始まったという、説を取る。何故か。西洋音楽が、ユダヤ人の賛美歌から始まったと、いいたくないのである。
実は、グレゴリオ聖歌というものは、ユダヤ教の賛美歌から、取られたものである。
そうそうに、音楽史を書き改めるべきである。

もう一つ言う。
カトリック教会系の修道会などで歌うものも、詩篇である。すべて、ユダヤ教の様である。
何も、創意工夫などない。ユダヤ教そのままである。
実は、初期キリスト教も、ユダヤ教徒と一緒に、礼拝等をしていたのである。
ユダヤ教の一派としての、キリスト教徒だった。

日本の新興宗教と同じで、仏教の教えを元に、様々な宗派を作るのと同じである。
ユダヤ教の新派であった。

さて、最後の晩餐は、多くの謎がある。

イエスの言葉である。
カトリックは、この晩餐を写し、ミサを制定した。
パンとぶどう酒の変容である。
聖体というパン、そして、ぶどう酒の血である。
「これを記念として行え」とミサ聖祭で言うが、イエスは、そんなことを一言も言っていない。

さて、この記述は、真実か否か。

ユダヤ教の伝統に則りイエスも、それに従った。
パンもぶどう酒も、食前に祝福して、食べるのである。
何も特別なことではない。

一つのパンを分け与えるという行為には、同胞という意識を確認し、また、ぶどう酒も、血族を確認するのである。
要するに、選民意識である。神に選ばれた民であるという。

偶像崇拝を嫌う、ユダヤ教、イスラム教には、このような儀式は、一つもない。

物に、注目させるという、単純素朴な手段である。
人は、それで安心する。

お守り。
霊験新たかな、お守り。
人は、それで安心を得る。

宗教団体では、必ず、物を信者に与える。
本尊、守護符等々。物を与えられると、人は安心する。
錯覚である。

それに救われたと思い込むのは、実に易しい。

宗教は、救いを言うが、決して、救わない。
救えば、宗教は成り立たないのである。
つまり、救わず、いついつまでも、通わせること、献金、布施、奉仕させ続けることをする。
金を集めて、建物を建てて、信者を安心させる。そうして、また、金を出せて、教団は、金まみれになるのである。
最も、世俗的な行為を、神や仏の名で行うのである。

成金趣味の伽藍を建てて、信者を騙す。勿論、騙される者が悪い。

すべての宗教は、悪である。

人間に必要なことは、宗教的であれということである。

神の国で新しいものを飲む日まで、私はもうぶどうの実から作ったものを飲まない。
このイエスの言葉を、勝手に解釈する教会である。
メシアの国、新しい国、キリスト教は、キリスト教の全世界制覇を言うのであろう。
イエスを、全世界と結びつけるのである。

それを、そのまま、全世界とは、受け取れない。
彼らの世界観とは、どこまでなのか。
彼らの世界観と、世界という認識を知らないで、それを解釈することは出来ない。

日本の天照大神を、全世界の人に信じて貰うという、暴挙に出る者は、日本には、一人もいない。
それほど、日本人は、正しいのである。

その地に行けば、その地の神を拝む。
それが、正しい。
この神でなければ、ならぬという、暴挙を行わない。
それが、正しい神奉りの有り様である。

私の知り合いには、多く、バリヒンドゥーや、イスラムに入信した人がいる。
夫の宗教に入信するのだ。
八百万の神を奉ずる日本人には、神の姿が、様々にあるという、当然するぎることを、生まれつき具えている。

所違えば品変わるという、当たり前のことをである。

世界は、唯一神では、もう平和など有り得ないということ、重々解ったであろう。

ユダヤの一地方の神観念を持って、全世界だのとは、笑わせる。
多くの人とは、すべての人であるという、聖書解釈であるが、それを全世界に拡大するとは、呆れる。

旧約からの脱却を図ったイエスの目論見は、新約のイエス伝によって、再び、旧約に引き戻されている。
キリスト教徒は、もっと、聖書を読むべきである。
ちなみに、尋ねるが、キリスト教徒で、旧約、新約共に、すべての聖書を読み込んだという者がいるか。
いれば、手を上げてみよ。
私の前で、手をあげてみよ。

亜流の亜流をもって、クリスチャンだとは、笑わせる。
もう一つ言う。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の、一つをすべて暗証している者があれば、手を上げてみよ。
命懸けで、信じているならば、福音書の一つくらいは、暗証するはずである。
さあ、私の前で、手を上げてみよ。

2007年08月29日

キリストの絶唱40

イエスは、捕らえられる前に、ゲッセマニという所で祈る。

「アッバ、父よ、あなたにはどんなこともおできになります。このさかずきを私から遠ざけてください。しかし、私の思いのままではなく、あなたのおぼしめしのままに」

これを持って、キリスト教徒は、祈る時、最後に、「あなたのみ旨のままに」と付け加えて、人殺しに行くのである。
その、み旨が、人殺しでも、み旨である。

戦勝祈願という行為がある。

昭和天皇も、行った。
しかし、天皇は、即座に、その誤りを知る。
「私は、間違っている。皇祖は、平和の神である」
深く天皇は傷ついた。
だが、戦争に反対すれば、自分の命まで危うい状態であることを知る。
もし、万が一のことを考えると、殺されては、日本のためにならない。

終戦の詔がなければ、確実に日本人は、一億総玉砕していた。そして、今は、日本に、日本人ではない、他の民族が暮らしていた。

この私の考え方を、右翼、右派と呼んでもいい。
真実を言うのである。

アホは、どうしても、あちらは、白、こちらは、黒と決めて、安心したいようである。
何度、私は、右でも左でもなく、上、カミであると言っても、理解できない。つまり、右と左しか、無いのである。
哀れである。
360度など知らない。
度数は、30度程度であると、信じている。
哀れである。

福音書の最大の矛盾がある。
このさかずきを遠ざけてください、とは、下手な歌舞伎であろう。
源の義経が安宅関を越えるような、芝居に近い。
弁慶が、関所の役人の前で、義経を打つのである。
「主のせいで、あらぬ嫌疑をかけられたのだ」と、義経を打つ。
見せ場である。
客は、それに泣く。

実際にあったことである。
これで、義経と弁慶が、どれほど愛し合っていたのかが解る。
打つ程に愛していた。
大切であれば、打つのである。
日本人は、である。
師匠は弟子を打つ。
大切であれば、あるほど、打つ。サド、マゾの世界ではない。

あの、野蛮な民族でも、日本人の心情を少しは、持っていたという、驚きである。

イエスに、それを言わせて、どうする・・・

あの権威ある説教と、布教を繰り返し、奇跡を数多く行った、イエスに、何を言わせる。

聖書解釈は、さもさもしく解説する。

やがて起こる受難と死の苦しみは、イエスの魂と感情に強く響く。神の子イエスは罪を取り除くすべての点において、われわれと同じ人間性を取り、人類のあがないのために自ら進んで貧困、苦行、宣教などによってこれまでにも多くの購いをしてきた。そして今、最後の償いを受難と死去によって果たし、救世の大業を成就しようとしている。イエスが世のあがないのために自分に要求される受難と死に直面してあとずさりしようとするその人間性の弱さに対して示した内的戦いをさす。

人類のあがない、というが、世界人類のことではないと、はっさきりさせるべきだ。
イスラエルのあがないだろう。ユダヤ人のあがないであろう。

ここで再度言うが、教会は、旧新に関わらず、原罪という説を取るが、イエスは、一言も、原罪のあがないなどということは、言わない。
信者を支配するために、創造した、教義としての、原罪である。
生まれ持って、罪人だとは、実に、愚かしい。

それなら、人間を創造したことを、後悔した、旧約の神と同じであろう。
全知全能の神が、後悔するか。

これも何度も言うが、イエスは、旧約からの、脱却を図ったのである。
嫉妬深く、人を殺すのが好きで、試みを好み、感情的で、同性愛を嫌う、神、神もどきである。そこからの、脱却である。

それから、実際、この時の弟子たちは、イエスの祈りの言葉など聞いていない。皆、というか、三人の弟子は、寝ていたのである。
どうして、イエスの祈りの言葉が、解るのか。
聞いてもいない言葉を書くのは、嘘偽りであろう。

それなら、イエスは、なんと祈ったか。
自分がイエスならば、なんと祈るか。
考えてみよ、キリスト教徒。

イエスキリストを信じるということは、イエスキリストになるということである。
それは、仏陀も然り。
さあ、イエスになるのか、仏陀になるのか。
なれないものならば、素直になれませんと言え。

私は、人間で、神でも、仏でもありませんと言え。
人間に内在している、神性、仏性とは、妄想、モウソウである。

人間の魂は、何にも限定されない、自由を有する。
言葉で限定することができない、融通無碍で自由偏在の魂を有する。

つまり、神も仏も超える。
観念を超える。

イエスは、それを知っていた。

お解りか、アホども。

キリストの絶唱41

実は、この41は、二度書くことになった。
というのは、書いたものが消えてしまったのだ。
機械の操作ミスはしていない。
保存したものが、出ないのである。これを、魔という。
しかし、今、再び書く。

人々はイエスを、大司祭のところにひいていった。司祭長、長老、律法学士たちもみなそこに集った。はなれてついてきていたペトロも大司祭の中庭にはいり、下男たちといっしょにすわっていた。

司祭たちは、イエスを死刑にするために、計っていたのである。しかし、中々、統一した意見が出ない。
子供騙しのような場面である。

最後に司祭が問う。
「あなたは、キリストか。祝されたものの子か」とたずねると、イエスは「そのとおりである。あなたたちは、人の子が、力あるものの右にすわり、天の雲にのって来るのを見るであろう」とおおせられた。そのとき、大司祭は、自分の服をひきさき「どうしてこれ以上の証人がいるだろうか。あなたたちも冒涜のことばを聞いたろう。どう思うか」といった。かれら一同は、死刑に値すると決定した。

アホは、10人いても、アホである。
司祭たちの、アホぶりは、たまらないほど、アホである。
イエスは、それに「天の雲にのって来るのを見るであろう」と言う。

天の雲にのってというのは、世の終わりの譬えのときも、出てくる。

天の雲、とは、実に霊系正しい心霊が、乗るものである。
旧約には、一度も出てこない。
ここで、ああっと、思い出す人もいるだろう。
日本の神話である。
12000年程度前に、大陸から、日本列島が切り離される前後、私は、その後だと思うが、天の雲に乗って、ニニギの命が、天孫降臨するのである。
ちなみに、旧約の神は、4500年ほど前である。

天の八重雲を伊豆の千別きに千別きて天降りよさしまつりき
その時、磐根樹立草の片葉をも語止めて、つまり、自然界すべてのものが、語ることを止めて、天孫降臨を見守ったのである。

私は、この妄想の方が好きだ。

いわねきねたち くさのかきはも ことやめて
何と言う良い音霊の響きであることか。

これが、カンジーザ゛イボーサツ ギョウジンハンニャハーラミータとか
ニジセソン ジュウサンマイとか
ジガトクブツライ ショコショコッシューとか
やられては、たまらない。
仏典により、大和言葉が、破壊された。

それならば、ナムカラタンノートラーヤヤというように、梵語そのままの読みにした方がいい。
これについては、また、いつか書く。

さて、

自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向を持つ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告を区別する方法をもたないということになる。「ワニの住むリンポポ川に足を踏み入れるな」は正しい忠告だが、「満月の夜には子羊を生贄にしなければならない。そうしなければ雨が降らないだろう」はせいぜいよくて、時間とヒツジの無駄遣いにしかならないという、この二つの違いがわからない者が出てくるのだ。
「神は妄想である」より。リチャード・ドーキンス。
心のウイルスとは、宗教のことである。

また、彼は言う。
宗教指導者は子供の脳の脆弱さと、早い時期に脳を教化することの重要性を十分に理解している。と。

だが、と、私は言う。
日本人の脳は、幾つになっても、子供のようであり、その脆弱さゆえに、教化されると、途端に、洗脳されるという。
それは、新興宗教を見れば、よく解る。
何故あのような、馬鹿馬鹿しい教義に、騙されるのかと言っても、知る術を知らない。そして、あまりに、無知なのである。
学問にあらずの勉強をしていると、簡単に洗脳される。

私は、多く、若い人の入信の様を見たが、実に、無知であった。
いとも簡単に騙されるのである。
それらの相談を受けた時、私は、その信仰を否定することはなかった。
入信の相談も受けたが、私の答えは、あなたが必要とするものである限り、あなたの自由であると、アドバイスした。
そして、面白いことに、老若問わず、一つの神を捨てると、別の神を欲するということである。

拝むものを欲するのは、人類の、抜き難い定めである。

宗教のもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなわち神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な教化の過程によって衝き動かされている。正の教化の多くは宗教に由来する。すなちわ、危険な世界にありながら自分は愛され、保護されているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったときに祈りに応えて、山からやってくる助け(詩篇)といったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生理学的な随伴現象をもっている。
ドーキンス。

イエスを裁いたのは、誰か。それは、キリスト教徒と同質な性格を持つ者たちである。
権威と奢り高ぶりである。
自分たちは、神に選ばれた民であるという、選民意識。

イエスは言う。
主よ、主よというものが、天の国に入るのではない。父のみ旨を果たすものが入る、と。

イエスはキリストだと、宣言しても無駄である。
イエスは、父のみ旨、つまり、敵を愛することを、掟にしたのであるから、それを実行しない者が、天の国に入るはずがない。それを、キリスト教徒は知らない。

残念ですが、キリスト教徒は、イエスの言う天の国には、入れません。
それでは、どこへ行くのか。
それは、キリスト教霊界という、三次元と、四次元の隙間である。
そこに、イエスは、いない。

カトリックでは、煉獄で苦しむ霊魂のためにと、祈るが、それより、その煉獄に入るであろう、自分のために、祈る方が、得策である。

キリシタン弾圧で、殺された多くの騙されたキリシタンの霊が、ハライソを求めてさ迷う姿は、哀れすぎるのである。
世界有数の拷問であった、キリシタン迫害は、目に余るものがある。
私は、それを調べて、絶句した。
これほどまでに、残忍な拷問を考えることができるという、その人間の残忍さを、である。
その拷問を考え出した者を、私は、呪ったものである。

キリシタン弾圧は、両者を共に、地獄に叩き落した。
その種を撒いたのは、イエズス会という、プロテスタントに巻き返しを狙った、戦闘的なカトリック信者の男子の集いである。
イグナチオ・ロ・ヨラ、そして、日本にキリシタンを伝えた、フランシスコ・ザビエルである。
今では、彼らには、聖がつく。聖人になっている。

最強な、同性愛集団といえば、殺されかねないが、言う。
ローマの直轄地といえば、いいのか。ローマ法王の支配する土地を広げるべくの布教である。
前、ヨハネパウロ二世も、自国のポーランドの反共運動に大枚の資金を投じて、今は、その九割が、カトリックに立ち戻っているというから、仰天する。
大陸の人間は、野蛮であると知っているが、実に、やることが、野蛮である。
宗教戦争を起こす程に、狂っているのである。

ちなみに、日本の場合は、宗派の争いはあるが、程度が違う。
歴史では、信長、秀吉、家康が、門徒との、戦をしているが、宗教が、兵を持つという思想に、反対したものである。
宗教の政治的位置付けをするために、戦った。
宗教が、政治に関与してはならないという、思想である。
それは、つまり、ローマ法王のような存在は、戦の元になるというものである。
彼らは、そこで、天皇を掲げた。天皇の平和的存在意義を見抜いていたのである。

何故、近代を拓いた信長が、天皇を破壊しなかったのかと考える。もっとも、亡ぼしやすい相手である。何も持たないのである。兵力もない。皇居は、丸裸である。
しかし、信長は、天皇を打たなかった。不遜な態度で臨んだが、天皇を叩けば、今、敵ではない者もを、敵にしてしまうことを知っていた。そして、未来永劫、この国の人々から、裁かれることを知っていた。
つまり、天皇という存在が、支配者の存在ではなく、国の心に、関する存在であると知っていたのである。
今に至るまで、天皇は、民主的である。
天皇は、国民の総意に基づき、認証するだけである。
天皇制を欧米の専制君主制に似たものであると、考えるのは、誤りである。欧米の思想では、解釈できないのである。
多くの人は、それをする。

国家の共同幻想に持つ、精神的支柱というものは、実に、必要不可欠である。
だから、欧米では、そこに宗教を入れる。
政治的手法では、支配し得ないものを、宗教が持つ。
アラブのイスラム指導者を見れば、よく解る。

一時期、日本には、宗教が無い。神不在だなどと、まことしやかに言われたが、皆々、欧米の思想を持っての、解釈である。
日本には、彼らの言う宗教はいらない。また、神もいらない。
日本には、天皇に象徴される、御祖、御親、みおや、の考え方がある。
それが、精神の支柱としてある。
そして、最大の特徴は、宗教指導者と違い、天皇は、国民の総意によるというものである。
国民の総意が、天皇退位を望めば、そのようになるのである。
あちらは、殺しあう。
見て解る通り。

さて、イエスを亡き者にしようとする、クライマックスが、この程度の、子供騙しであるから、人生は、この程度と、考えておいた方がいい。
キリスト教徒は、である。

私は、宗教も言語と同じように、十分に恣意的な発端から十分なランダム性をともなって進化し、いま私たちの目の前にある、あきれるほどのーーーそしてときには危険なーーー豊かな多様性がもたらされたのだと推測している。同時に、ある種の自然淘汰が、人間心理の根本にある均一性と結びついて、多様な宗教がいつくかの重要な特徴を共有するようにとりはかったということはありうる。たとえば多くの宗教が、私たちの肉体が死んでも人格は生きる延びるという、客観的には信じ難いが主観的には魅力のある教義を教えている。不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、ひろまっていく。そしてこの「願望本位の思考法」というものが無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向をもつからである。「ヘンリー四世」の第二部で、ヘンリーが息子に向かって、「そなたの願いがやがては信念になるのだ、ハリー」と言ったように。
ドーキンス。

知性と理性は、宗教の迷いとなるのである。
欧米の思想では。

幸い、日本には、そのような宗教概念がない。観念も無い。
誰だ。
小さな親切、余計なお世話をするものは。

2007年08月30日

人殺し

人殺しである。

携帯サイト「闇の職業安定所」と呼ばれるサイトで知り合った男三人が、全く関係ない女性を殺した。
金欲しさだという。

ああ、戦争でもあれば、こんな男たちも、国のために死ねると思った。

平和な日本で、実に無意味な人殺しである。

携帯サイトには、一万件ほどの、殺人に関する募集があるというから、驚く。
これを取り締まる法律は無い。
それでは、どうするか。

毎日のように、殺人事件がある。
そして、実に無意味なのである。
無意味に人殺しが出来る時代である。
これには、時代のすべての要素が、絡み合う。

許せないと言っても、する人がいる。
どうするのか。

匿名での、書き込みである。
問題は、それである。

殺した男三人は、素性を互いに知らないという。
三人が偽名を使うという。

匿名の書き込みである。問題は。

人を、匿名で、言いたい放題に言えるという、暴力の社会である。
好き勝手なことを、勝手な言い分を匿名で書くと言う暴力が、根本にある。
それの延長戦に、この問題があるということを、私は知る。

著名人たちが、論争するのは、誰が何を言うから、聞けるのである。
特別に、匿名にする理由が無いにも、かかわらず匿名での、書き込みが、いまだ、盛んである。

私も、書かれた本人であるから、よく解る。

何故、匿名にするのかといえば、怖いからである。
何故、怖いのか。
書いていることが、他人を怒らせることを知っているからである。

私は、人殺しなどしたくないし、また、呪詛することもない。ただし、他の人は知らない。相手が誰か解れば、殺しに行くかもしれない。

さて、無意味な殺人事件の解決は、この平和な日本であるから、大変である。
アホ、馬鹿を束ねるには、あの種の強制が必要である。強制の別名は、教育である。

自由な教育などというものはない。あれば、贋物である。
教育は、強制である。
そして、それは、必要な強制である。

意味のある人殺しは、いいが、意味の無い人殺しは、駄目であることを教えることである。

すると、意味のある人殺しは、どんなものかと問うだろう。
それは、戦争である。
戦争のみに、人殺しは許される。
すると、戦争反対や、人権を守る人たちが、云々するだろう。勿論、云々するだけである。

早速、アフガンや、イラクに出掛けて貰い、人権や、平和を訴えるべきである。
命懸けで、彼らを説得して欲しい。
ほとんどが、殺される。

命懸けで、伝えなければ、人には、伝わらない。
この言論の自由の日本で、云々する程度の、戦争反対や、人権であるから、程度が知れている。

許せないというならば、許さず、殺すべきである。
世界は、そのような環境である。

それが、現実である。
殺人の被害者の、家族、友人、知人は、よくぞ耐えているものである。
本当に、心から敬意を示す。

私が、そういう環境に置かれれば、相手を殺すであろう。勿論、手を掛けずにである。呪詛は、叶うと知っている。

マスコミは、許しがたい事件であると、大声を上げるが、他人のことである。
サイトを取り締まる云々と言っても、痛くも痒くもない。

許せないから、許さないと言わないと、アホや馬鹿は、解らない。
そして、許さないという姿勢を持って望むことである。

この事件の通報者は、加害者の男である。そして言った。死刑になるのが怖いから、通報したと。実に、稚拙である。知的レベルが低すぎる。
話は別になるが、もし、死刑というものがなければ、通報もしなかったということである。
いかに、死刑という制度が必要か、解るというものである。
死刑廃止とは、人間の質が高くて、為すことが出来るのである。死刑廃止を掲げる人は、そこのところを、よくよく考えるべきである。

被害者の女性は、31歳で、母親と二人暮らしで、父親を早くに亡くしている。この母親の悲しみを思うと、私は、身を引き裂かれる思いがする。
母親に新しい家に住ませたいと、働いていたという。

殺した男たちは、彼女を襲う前まで、知らない人である。
彼女は、殺される理由が無い。

日本は、法事国家である。法律により、裁判所が裁く。
すみやかに、極刑を望む。
更正の余地があっても、極刑である。
生き直すという、安易な考え方を持たせては、いけない。
特に、若年の場合に、更正という言葉が出るが、死刑である。
命は、命によってでなければ、償えないことを、強制として、教えるべきである。何故なら、日本は平和であるからだ。

しかし、こうした事件により、
平和の屋台骨が、崩れていることを知るべきである。

だから、再度言うが、死刑廃止を訴える団体があるが、彼らは、殺されたことがないから、平然として、死刑廃止を言う。殺されては、死刑廃止も、言えないのである。

誰の命も、平等にあるという妄想は、捨てるべきだ。
死んでもいい命は、世の中に数多くある。

実に、人は、幸福である時には、学ばないものである。不幸の時に、学ぶという愚かさである。

何のための平和かを考えるべきである。

2007年08月31日

年金である

この原稿は、八月上旬に書いたもの。忘れていたようで、今、掲載します。

制度は崩壊しています。

足りない分を税金で・・・
何を言う。
何を冗談を言う。

すべての責任は国民にある。
自民党政権が続いたから、自民党に責任があるというアホがいる。

まず言う。
元、前、そして現政治家は、皆、自害することである。
国民の代表であろう。そのための、政治家であろう。

今の若い人は、もらえないと、現閣僚が言う。真実である。

制度が崩壊しているのである。

厚生省、社会保険庁の、すべての職員が自害して果てるべきである。
少しでも、国民の数を少なくすること。
もう一つ、付け加えると、自治労である。組合の幹部は、火を点けて燃やした方がよい。彼らのためにも、なる。地獄で永遠に苦しむより、その方が易しい。
何度でも、言うが、彼らは、ヤクザより悪い、ゴロツキである。
労働者の権利・・・嘘を言うな。幹部になれば、どんな暮らしをするのか。
労働者の権利は、働かないことか。働かない者が、給与を得ることか。
組合は、自分たちが、最も嫌った組織になったことを知らない。

年金が崩壊するということは、国が破産するということである。

破産する年金を誰が、払うか。
それでも、何かを信じたくて、掛け金を払うというのは、強迫神経症である。

行き倒れで死ぬと覚悟すれば、容易いことである。

銀行封鎖。
誰も信じられないだろうが、戦後、それがあった。
今、83歳を過ぎた人は、皆知っているはず。

また、財閥解体で、国民は一律になった。
信じられないだろうが、本当である。

関東大震災で、一文無しになった人も大勢いる。

歴史には、何でもある。

信じたあなたが悪いのよ、ということである。
騙したあなたは、今は、いない。
皆、死んでしまった。

野党のアホが、弱者救済と叫ぶが、誰のことを言うのだろうか。
弱者とは、誰か。
大企業のことか。

もし、弱者を主にして、考えていたら、国は立ち行かない。
弱者は、弱者として価値がある。

私も、弱者である。

他に、弱者とは、誰か。
そして政治家の、お前が強者か・・・

介護士の待遇を上げるということを、政府が始めた。
いつかいつかと、待っていた。
これから、大量の介護が待っている。
弱者とは、手前勝手な、団塊の世代のことか・・・
主義主張、権利と、自由を謳歌した、無責任な世代である。それの、介護をすることで、国が潰れる。
東京都は、300万人の介護が待っている。しかし、介護する者がいない。

年金どころの、問題ではない。

もうすぐしたら、東京は、痴呆老人で溢れる。原宿、新宿も、池袋も、痴呆老人がたむろする。
朦朧とした老人が首都を占領する。

さて、時代はいつも、危機である。

自然災害か、北朝鮮が、核を落とすのか知れないが、滅亡して、一息つく。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、最後の審判を終えて、滅亡し、ようやく地球に、平和が訪れ、再び、穏やかな、石器時代が始まる。

生き残った者は、知識を捨てて、自然と同化して生きる。
その時、幸せを知るのである。

そういう時も、アホがいて、神の怒りが、とか、神に感謝、とか言うが、誰も聞く者はいない。
狂った者として、捨て置かれる。

日が暮れると、寝て、日が昇ると、起きて、人は生きる。

ソウイウモノニ、ワタシハ、ナリタイ。

頭の悪いひとへ。
この文章は、皮肉です。カワニクではありません。ヒニクです。

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