新約聖書の記述に、奇跡がなければ、無に等しい。
聖書になる意味が無い。
イエスの奇跡は、無かったと簡単に言う者たちがいる。聖書学者と言われる者にも、そういう者もいる。
それでは、聖書の価値は無い。
イエスキリストの神は、奇跡の神である。
そして、教祖の多くは、奇跡を行った。
奇跡は、何も不思議なことではない。
今、現在も奇跡を行う者は、多い。
私も、数名知っている。
奇跡が無いという者には、奇跡は、起こらないだろう。必要ないからだ。
一時期、普通のサラリーマンが、手のひらで病を癒す力を得た。
映画にもなった。
奇跡とは、今、現在の時点では、ありえ得ないことを言う。
キリスト教布教に、最新の物を持って当たった宣教師は、神と思われた。要するに、考えに及ばないことが、起こると、人は奇跡と言う。しかし、それを得た人に取っては、当たり前のことである。
イエスの奇跡は、当然あった。
ただし、重大なことは、その力が、どこからのものかということだ。
彼のサラリーマンが得た力は、どこからのものだったのか。偶然に与えられたと、考えるが、決して、そんなことはない。前世に原因がある。
前世、そのための修行をしていたのである。しかし、前世で、その力を得ずして、死んだ。今世で、それが目覚めたのである。
と、そうだとすると、まだ、マシである。
しかし、特別な霊団によって、それを得たならば、非常に危険である。
それを、古神道では、サニワするという。要するに、霊の審判をするのである。
マルコ福音の第10章46節にも、めくらの乞食が現れる。
めくらは、上衣を投げ捨てて、おどりあがってイエスに近づいた。イエスが「あなたは、私になにをしてもらいたいのか」とおたずねになると、めくらが「先生、見えるようにしてください」と答えた。イエスは、「行け、あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。めくらはたちまち見えるようになり、イエスについていった。
病気治しは、教祖の教祖たるところである。
イエスの奇跡に無いものは、天候を左右するものである。
天の様を変えることは、病を癒す奇跡より、簡単である。
例えば、台風の進路を変える。曇りを晴れにする、とか。
イエスの奇跡は、最も、厳しいものである。
自分にである。
福音宣教を言うならば、奇跡の力があって、言えるのであり、奇跡を成せない者は、福音宣教など出来ないのである。
何と無ければ、イエスは、弟子たちに、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えている。
世界のキリスト教徒に言う。奇跡を成せない程度の信仰ならば、無いと同じである。
奇跡を精神論で、云々することなかれ。
そんなものではない。
奇跡は、奇跡として、成って、奇跡である。精神論の入る隙は無い。
奇跡を成せない者が、苦し紛れに作ったものが、教義である。
そんなもので、誤魔化されない。
からしだね一粒の信仰があれば、山をも動かすとイエスは言う。
祈りは叶えられる。
叶えられないならば、叶えられない力しかない。
インド、バラモンには、呪術がある。それが、ヒンドゥーにも、引き継がれ、しまいに、密教に引き継がれた。勿論、魔界の力である。
バリ島などにも、それが伝わり、今でも、ブラックマジック、ホワイトマジックというものがある。
ブラックマジックは、相手を不幸にし、病に、果ては、殺す。
それを、ホワイトマジックで、解消する。
陰陽師安倍清明は、矢張り、式神を用いて、マジックを掛けたり、解いたりした。勿論、式神とは、インド系の魔界に縁するものである。
魔界系は、使いやすいのである。
しかし、その後が悪い。
イエスは、言葉で癒した。
凄まじい、言葉の力である。
これを、古神道で言えば、言霊である。
立って行け、あなたの信仰があなたを救った。
これ程の、権威ある奇跡を行った者は、イエス以降いない。
狂いのエネルギーでも、無理である。
矢張り、次元のマジックを使用した。
それは、一度、別次元に連れて、そこで癒し、現実に戻すのである。
それを、周囲の人は、見抜けなかった。
簡単に言う。
肉体の病は、この次元のものである。それが、霊的な病によるものであれば、霊的な病を癒すことで、肉体を癒すのである。
ただし、霊団による病の場合は、その霊団と対決する。ゆえに、祈りが必要になる。
多くの霊に憑かれた人という場合が、そうである。
悪魔祓いというものがある。
それには、霊界の力が必要になる。
イエスには、アブラハムからエリア、モーゼ等が、援軍に当たった。
大陸を支配する霊界、ヒマラヤである。
その下に、それぞれの地域の霊界がある。
イエスの言う父なる神も、ヒマラヤ霊界である。
それでは、ちなみに、日本には、高天原霊界、タカアマハラ霊界という。
その主宰神として、総称して、天照大神が存在する。
イエスの奇跡の大本が理解出来れば幸いである。