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キリストの絶唱31

マルコ福音、第11章からは、イエスの受難が描かれる。
エルサレムに近づき、イエスは、小ろばに乗って、入城すると、人々は、自分たちの上衣を敷き、あるものは、木の枝を野原から取り、道に敷いた。
そして前を行く人、後を行く人も「ホザンナ、賛美されよ、主のみ名によって来るおん者。祝福あれ。今ぞ来る、われらの父ダビデの国。いとたかきところにホザンナ」と叫んだ。

ホザンナとは、ヘブライ語で、私たちを救ってくださいという意味。この時は、歓呼の叫び、万歳との意味になる。

イエスはエルサレムに来て、神殿にはいり、まわりを見まわされたが、もう夕ぐれになっていたので、十二人をつれてベタニアに出ていかれた。

イエスを歓迎した人々は、イエスを、この世の王になるべくある人だと信じていた。
しかし、と、すると、大変、お目出度い人々である。
イエスには、軍隊も、国を作る何物も持たないのである。
貧乏な、宣教の一派だった。

当時は、イエスのように、メシアだと言う者、多数。
要するに、新興宗教の形相である。
しかし、それらの人から、抜きん出たのは、十字架刑である。

神殿に入り、周りを見渡したが、夕暮れになっていたので、ベタニアに出ていかれた。
この、何でもない記述を説明する人はいない。

イエスが、神殿で教えを説いたが、神殿で祈るという、記述は、一つも無い。
イエスが祈るのは、すべて、人里を離れての、山である。

ここに、重大な意味があることを、知らない。

神殿は、イエスにとって、祈りに相応しい場所ではない。

神殿とは、その名の通り、神の住まいである。イエスも、神の玉座という。
しかし、そこで祈ることはない。

祈り、とは、何か、である。

隠れたところに、おいでになる神には、隠れて祈れと、イエスは言う。

ただ今、教会がある。
チャーチは、カトリックに、チャペルは、プロテスタントの教会をいう。

祈りにも、ピンからキリまである。
ピンは、イエスの祈りのように、人里を離れての場所である。キリの祈りは、建物の中で行われる。

建物の中で行われる祈りは、妄想、自己催眠程度のものになる。

イエスは、弟子たちに、どのように祈るのかと問われて、天にまします我らの父よ、との、祈りを教える。
それは、今でも、すべてのキリスト教徒が、唱える主の祈りと言われるものである。

ユダヤ教で、さんざん、祈りについてを、教えられても、実際は、祈りを知らなかったのである。

祈りとは、自己対座、自己観照である。それが、第一である。
そして、レベルが高くなると、祈りは、語り合いになる。誰と、語るのか。霊人とである。

祈りという言葉を、もっとも解りやすく言うには、言霊の古神道の祈りを言うと、解る。
イ、ノ、リ
イを宣べるのである。
イとは、意識の意である。
祝詞は、宣る言葉である。

言葉にすることは、成就するというのが、言霊である。
沈黙することを、黙祷といい、それを、意識的に、あるレベルの心の状態に置くことを、瞑想という。
座禅の座るという行為も、瞑想に近い。
しかし、この瞑想とは、何かというと、非常に難しい。

インドのヨガから、瞑想が始まった。
それが発展して、チャクラを開く等々の、怪しい、教えというか、妄想がはじまった。
七つのチャクラ、または、九つのチャクラ等々、皆、嘘である。
体は、すべての部位がチャクラである。

三蔵法師玄奘は、このヨガ、つまり、大乗仏教におけるユガ論を、求めて天竺に旅した。
だが、実際、ヨガは、インドバラモンから発したものであり、それが仏教にも、受け継がれて、修行の一つとなった。

ヨガで痩せるという程度のヨガならば、大したことはないが、それで、妄想の悟りなどというと、おかしなことになる。

玄奘は、理屈攻めで、その教えを学んできた。
ただ今、日本で読経される、仏典の翻訳も、玄奘のもの多数である。

私は、下手な小説で、玄奘を書いたが、玄奘の創設した、法相宗の教義にまで至ることろまでは、書くことが出来なかった。

玄奘は、晩年、自分は、学を為してきたが、実際、それを実践しなかったと、言う。そして、亡くなった。

ヨガは、禅宗に受け継がれて、中国禅を創作し、それを、道元などが学んできた。
仏に至る道は、多数ある。
日本の仏教は、皆、中国思想を加味されたものである。

祈りは、自己対座であり、自己観照である。
そして、祈りは、次元を超えた霊人との対話である。

日本の伝統は、言葉が神であるから、一切の手続き無しに、言葉に発することによって、祈りの行為が成った。
口から発する音が神であるから、それは、多くを語らない訳である。

西洋思想、西洋宗教学等々は、語るをよしとする。

イエスは、長々と言葉を発する祈りをする、ユダヤ教徒を徹底して、攻撃した。
それを、偽善者と呼んだ。

イエスの奇跡の言葉は、治れである。
言霊である。
治れと言えば治るのである。

祈りに至る手前で、皆、躓いているのである。
イエスが言う信仰に至らない者が、延々と、言葉の祈りを繰り返す。

弥栄と言えば、弥栄がくるのである。
イヤサカという音霊、オトタマが働く。

人は祈り続けてきた。
これからも、祈り続ける。
しかし、神殿で祈る程度では祈りにならない。

これを語るに、死ぬまでも、それ以上もかかる。
故に、以下、省略。

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2007年08月06日 04:38に投稿されたエントリーのページです。

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