ボランティア精神に、マザーテレサが、引き合いに出されるが、彼女の行為は、ボランティアとは、言い難い。
彼女は、その活動を、あくまで、ローマ法王により、認可されることを望み、そして、認可されて、活動をしている。
カトリックでは、神の代理者である、法王の認可なく活動するのは、タブーである。
そして、修道会としても、認可された。
教会も、その死後、すみやかに、聖人になる資格の、福者の称号を与えた。これから、彼女の奇跡の調査を開始して、聖人に認められるだろう。
「神様のために、素晴らしいことを」と言う。
その信仰に、基づきの行為行動である。
ボランティア活動の一つの形であるが、実は、欧米で言うボランティアは、すべて、その信仰よりなる。
マザーテレサの活動に、共感し、また、その姿に光を見て、続々と、その後に慕う人々が、現れて、現在に至る。
慕うというのは、マザーの活動を見て、生きる意味意識を発見したのである。
と、共に、そのようにしか、生きられない、己の姿に気づいたとも言える。
この世に、天国、神の国を実現しようとするのは、信仰ゆえである。
インドのシステムを変えるというより、その活動自体に意味を見出す。
残念ながら、マザーの活動によっても、インドの風を変えられなかった。
確かに、人間として、対座した時、マザーテレサの威圧感に、圧倒されるだろう。
彼女の背後霊団は、とてつもなく、大きい。
そして、その活動の元は、目の前に現れた、キリストの姿である。
磔のキリストが、目の前に現れて言う。
「私は乾く」
マザーテレサの確信である。
そのメッセージを、インドの地で、実践した。
このような、あきらかなる、メッセージを通常、人は与えられない。
マザーテレサは、選ばれたといえる。
日本のカトリック信者の多くに見られる、ムードの信仰は、無い。
信仰は、即生きることである。
そして、生きることは、神を相手にすること。マザーは、インドの捨てられた人に向かった。そして、その行為を、ボランティアと呼ぶかといえば、違う。
キリストの乾きに、応えたのである。
共生の思想より、強い信仰である。
神のためにという、目的がある。つまり、神による、祝福がある。それは、神からの報いを得ることである。
身も心も、神に捧げた。
それが、行為行動に成った。
それでは、宮城まり子をみる。
障害児の施設、ねむの木学園を興し、現在も、それが続けられている。
彼女は、恋もする、普通の女性である。
何をして、彼女を行為させたのか。
彼女には、福祉という言葉がある。
福祉という言葉についての、解釈は、暇な学者に、任せる。
実践もしないような、学者に、解る訳が無いが、勝手にさせる。
自分の出来ることをする。
ただそれだけである。
そして、それも、そのようにしか生きられないから、それゆえの行為行動である。
彼女は、特別なことをしている意識は、無い。
出来ることをする。
自然発生的である。
啓示も与えられた訳ではない。
日本の伝統には、あわれ、を生きる思想がある。
あわれ、というと、仏教の哀れ、とか、憐れの文字が与えられるが、あわれ、の感覚に近い意識は、慈悲という言葉になる。
もののあわれ、という。
それは、共感と共生の思想であり、人間に留まらず、自然、すべてのものに、通ずるのである。
同じ場所に生きるもの同士の関係である。
ラテン語のボランティアの語源、ボランタスに近い。
そこには、特別の啓示は無い。
あるのは、共に生きるということだけである。
だから、自然に対しても、ボランティアをする。
勿論、今は、それも失われて久しい。
すべて、金に換算し、自然も何もあったものじゃない。
先祖も、子孫も無く、今の利益を確保することに専念し、死後、とんでもない霊的空間に行く者、多数である。
バリ島には、相互扶助の思想が生きている。
日本の伝統と、同じである。
福祉とは、相互扶助を言う。
他人が他人でなくなる瞬間がある。
袖振り合うも他生の縁である。
キリストの乾きに応える、マザーテレサと、他生の縁に生きる者の、行為行動は、違うということが解る。
ちなみに、一神教の場合は、実に激しい行為行動を求められる。
すべてを捨てて、神に向かうということである。
他生の縁に生きる者は、すべてを捨てることなど必要ない。
出来ることをする、のである。
右を打たれたら、左も与えよという、激しい病的感覚は無い。
松のことは、松に習え、竹のことは、竹の習えという、優雅、風情がある。
自分の器に合ったものこそ、大切なことである。
無理に、型に押し込める必要は無い。自分の形を作り上げてゆけばいい。
松尾芭蕉は、大井川を渡る時、捨て子に逢う。
お握りを与えて言う。
「汝は汝の定めを泣け」
実に、福祉であると、私は思う。