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もののあわれについて78

巻14は、東国地方の農山漁村の名も無き庶民の歌を238首を収めている。

東歌は、巻20の防人の歌と合わせて320首ほどある。
東国地方の方言を駆使しての、様々な感情を歌う。

名も無い庶民の唄は、民謡のごとくに歌われて、歌いづがれて、皆の歌として残ったものである。人々の共感を呼ばない歌は、自然に消えるものである。

と、すると、人の心に大差はない。
現代人と、万葉人の心も大差が無い。
万葉の歌を、同じことの繰り返しだという、学者がいるが、当たり前である。人間の生は、同じことの繰り返しの中にある。それが、深まるのか、高まるのか・・・

それから、言うが、欧米の思想等を持って、万葉集は理解できない。万葉集は、
言霊により、理解することが出来る。

そして、この東歌を集めて、書き残した者である。その行為がなければ、現存することはなかった。
誰であろう。
防人の歌を集めたのは、大伴家持である。つまり、東歌も家持ではないかと思われる。


常陸国の歌
筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも
つくばねの にいぐわまよの きぬはあれど きみがみけしし あやにきほしも

衣は、絹の意味ではなく、着物のこと。
御衣は、着物の敬語。
あやに、とは、言いようも無く、無性に、という意味。
着欲しも、とは、着てみたい。着たいという意味。

これは、愛情表現の歌である。相手の着物を着たいという。互いに着物を取り替えて着ていた風習がある。
この春、新たに芽生えた桑の葉で飼った蚕の糸で作った着物は、持っていますが、無性に着たいと思っている着物は、あなたのお召し物です。

農村の乙女の歌である。君が御衣というから、相手は、身分のある男なのだろう。
普段は口に出来ない思いを、直球でぶつけている。

あなたの着物を着たいという言葉に、あなたが好きですという、気持ちを、すべて掛けている。
恋の告白である。

恋は、性であった。
何のためらいもなく、性があった。

さて、時代は、それから千年以上を経て、男は、結婚も恋も、セックスもしたくないという。
生きることの最大の喜びである性を、受け付けなくなった。生命力の低下である。
勿論、いつの時代も、虚弱体質の男はいた。が、これほど、多くは無かった。

さあさあと 引かれて入る ホテルへと さあさあと 引かれて股に 溺れる男 天山

溺れるのは、没頭するという意味ではない。女の股に沈没してしまうのである。

人口減少を嘆くことは無い。女は、強い。股を開いて、子を産むのである。後先考えずに、子を産む女は、まだまだいる。安心していい。

ただし、児童虐待が、年々増加している。親が子を殺す。
これは、狂いである。
女が女に留まり、母性を失う。
これは、この世の終わりを告げる。この世は、母性に支えられてあるからである。
集団の中で、生きる時、父性が必要に成る。

母性のからくりは、父性に支えられ、父性のからくりは、母性に支えられてあるということである。
そういう人の表情は、豊かである。
しかし、無表情、能面のような人相が多くなった。
笑うが、笑顔にならないのだ。都会は、そういう人が多い。田舎に行くと、まだ、笑顔がある。
喜怒哀楽を取り戻すことである。
怒哀の表情だけは、ある。
常陸国の歌
筑波嶺に 雪かも降らる 否をかも 愛しき児らが 布乾さるかも
つくばねに ゆきかもふらる いなをかも かなしきこらが にのほさるかも

雪かも、かもの、もは、疑問の助詞、もは、詠嘆の助詞。
降らるは、降れるの、方言。
否をかも、否は、否定、をは、詠嘆の助詞。
児らの、らは、複数ではなく、愛称の節尾語。いとしい、あの子という意味。
布、にのは、方言。
乾さるは、乾せるの、方言。

筑波の山に雪が降っただろうか。いや、そうではなくて、愛しいあの子が、布を干したのではないか。

当時の常陸の国は、布生産が東国一だったそうだ。
雪が降ったように、布が山に干されている風景である。何でもない、当たり前の風景に、愛しいあの子を思う、男の純情である。

雪の降る季節ではない。それなのに、雪に布を掛けて、歌う。幸福感と満足感である。
二人は、気持ちを通じ合わせているのだ。

愛しいを、かなしいと、読ませるということに、注目である。

悲しいと、かなしは、違う。
悲哀という言葉がある。悲しいと、哀しいを重ねる。それで、悲しみの感情を増幅させる。
悲しみを哀しむのである。

愛を、かなしいと読む、かなしいの語感が違うが、それが、哀しい、悲しいと、通じているのは、何故か。

人の世の儚さである。
愛しいも、悲しい、哀しいと同じほど、この人の世を言う。

哀しいことほど、心が入るのである。心になければ、哀しみもない。

実は、愛しいも、哀しいも、悲しいも、もののあわれに、総称される。
おもろうて、やがてかなしき、とは、関西芸能の極みである。
人生とは、おもろうて、やがてかなしき、に至ると、見破ったのである。
その人生は、慈しむものである。
それが、もののあわれである。

何も、大げさな理屈にあるのではない。日々の心の機微に、もののあわれがあるのである。それを、源氏物語は、恋に掛けて語る。故に、本居宣長は、源氏に、もののあわれを観た。

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2007年08月19日 23:29に投稿されたエントリーのページです。

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