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もののあわれについて81

下総国の歌
足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継橋 やまず通はむ
あのとせず ゆかむこまもが かつしかの ままのつぎはし やまずかよはむ

真間とは、千葉県市川市。

蹄の音を立てずに走る馬は、いないものだろうか。そんな馬がいたら、真間の継橋を渡っても、誰も気に留めないだろう。気兼ねなく、彼女の元に通ってゆけるのに。

行かむ駒もが
実にいい。女の元に通う歌は多い。そんな中で、足音の立てない馬がいれば、と、有り得ない馬を想像する。
恋は、有り得ない想像を掻き立てる。

合理的、機能的セックスなら、いつでも、どこでも、出来る。
現代では、社内からはじまり、至るところが、セックスの場所になる。古代であれば、それは、もっと、そうであろうが、女の元にというところが、よい。

休憩二時間という、ホテルで、二時間のうちに、セックスを済ますという、合理性。遅漏でない限り、いや、遅漏でも、二時間はかからないだろう。
しかし、本当にセックスを楽しむとしたなら、二時間では足りない。
前戯は、最低30分である。
女の体は、開くのに時間がかかる。
挿入して、じっとしていて、30分。そして、15分程度で射精する。
しかし、女の体は、それからである。エクスタシーに達して、その後、その快感を静まるまで、待つ。人によりけりである。
30分としても、105分である。二時間120分であるが、シャワーを浴びたり、話をして、三時間以上は必要である。

セックスというものも、教えられなければ、解らないものだ。特に、兄弟が男はがりとか、一人っ子とかは、教えられなければ、解らない。

40過ぎて、奥さんが、セックス拒否をした。旦那の無作法な、セックスに耐えられずである。しかし、旦那も、女の体を知らなかった。
アドバイスした。
挿入する前に、ゆっくりと、体を優しくマッサージしなさいと。
マッサージとは、愛撫である。

体を触るということは、相手を理解することと、一緒である。
旦那は、改めて、奥さんの体を知った。
色々と、触ることで、奥さんの、女の体を知った。
ああ、男と違う。円やかで、優しいのだ。
そうすると、単に挿入して、ピストン運動をしていた、自分は、何にも知らなかったと、悟る。悟るというのは、こみういう時に言う言葉である。

拒絶していた奥さんが、セックスがたのしくなったという。当然である。セックスは、命の証。楽しまないセックスは、害である。
次に、単にピストン運動するのではなく、女性自身の味わいを、ペニスに感じることと、テーマを与えた。

すると、ペニスで、女性器、つまり、膣の在り様を探ることになる。
素晴らしい。単なる穴が穴ではなくなる。
こちらの、動きようで、あちらも反応する。
大成功である。
どんなにか、二人の仲が深まったであろうか。

一人の女を通して、すべての女を知ること。そこに、セックス、性交の奥義がある。
百人斬りを云々という男には、女を知る術が無い。
数が多ければ、解るというものではない。

自在に変化する女の体の不思議は、大いなるものに対する畏敬の念を起こさせる。
人体の不思議が、自然界すべての不思議に通じる。
何と、巧妙に造られたものであろうか。
神や仏など、信じなかった者も、セックスの素晴らしさによって、何者か知らないが、何かが在るのではと思うほどになる。

人間は、動物は、雄と雌しかない。
勿論、性同一障害や、同性愛もあってよい。
男が女に出会う。それは、また、もう一つの私に出会うことなのであると、知る。
私の女に、私の男に出会う。そして、私が深まる。
その相手は、私の内に内在していた私であった。
そこまで、深まる。

どうであろうか。
人間とは、実に素晴らしいものである。

しかし、無理は禁物である。
セックスの必要でない夫婦もいる。会話で、十分に満たされるという関係もある。
それは、また、それでよし。

ここで言うことは、夫婦、大和言葉では、めおと、という。
目、音、止、である。
目で見て、音を聴く。そこに留まる。
相手を見て、相手の音を聴く。相手の心の音を聴く。そこに留まるのである。

この、めおと、という歴史は、浅い。
雄と雌という状態の前、単細胞で、分裂していた時期の方が長いのである。
本来は、一個の個体で、成っていた。つまり、人は、一人で成るものなのである。

その単細胞が、もう一つの単細胞を相手とすると、決めた時から、驚くべき、進化がはじまった。
分裂した、もう一つの細胞を、私の相手として、認識するのである。
元は、一緒である。その、遠い意識が、セックスにより、深まれば、甦る。
あなたは、私だった。
これが、悟りである。

人は皆、本当の私に会いたいがために、生まれてきた。

万葉は、それをも教える。
学者でない私が、万葉を語るのは、実に意義深いものがある。
私により、万葉の世界が、拓かれる。
古典ではない。実に、現在ただ今も、万葉の時代なのである。
現在ただ今も、神代なのである。

もう一つ、おまけに言う。
人は、一人で完成するものである。
それは、古事記の最初の神々に表される。
皆、独り神であり、その身を隠すという。
ここに、真実がある。
実に、めおと、というものは、その関係は、それを知るべくの方便である。
しかし、理解出来ない人は、理解しなくてよい。

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2007年08月24日 21:57に投稿されたエントリーのページです。

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