常陸国の歌
筑波嶺の 彼面此面に 守部すえ 母い守れども 魂ぞ合ひにける
つくばねの をてもこのもに もりべすえ ははいまもれども たまぞあひにける
母いの、い、は、強調。娘の身を守る母親の心。
魂ぞ合ひにける、は、互いに思い合い、愛が融けあうのである。
霊合、たまあい、という。こういう信仰があった。
つまり、魂が融けあうのである。
相手の霊が、こちらに憑くのである。互いの分霊が、互いに憑く。
相手の思いが、通じる。不思議なもので、そういうこと多々ある。相手の身に起こることが解るというものである。
それ程、深い関わりを持つ。
筑波嶺の、あちこちに番人を置いて、山を守るように、母は、厳しく目を光らせている。でも、私たちの魂は、堅く一つに結びついています。
霊合、というのは、何も恋人同士だけではない。
親子、兄弟、友人、知人にも言える。
私の場合は、何か特別なことがあると、その人の心の声が聞こえる。
それで、連絡すると、よく、どうして解りましたかと、言われる。あなたの声が聞こえたというと、絶句される。
ある時、どうして泣いているの、と、問うと、驚き、どうして私が泣いているのが解るのかと言われた。見えるのだ、私には。
だが、特別な能力ではない。
見える、聞こえるのである。
誰もが経験することは、思い出した時、電話がかかってきたというものだ。誰にでもある。
霊合、とは、そういうことである。
霊を、タマを掛けるのである。
生きている人の霊を、生霊という。
悪い場面でだかり言われるが、この生霊は、守りの生霊の場合の方が多い。
親が子を思い、子が、それで助かること多々ある。
それでは、死霊の場合は、浮遊している場合は、憑依霊となるが、霊界入りしていると、背後霊になる。しかし、守護霊とは、言わない。守護霊は、生まれ持って、ある、特別な霊である。
死霊の幽霊は、迷い霊である。行くべき世界に行けない、行かない。死後の世界を否定する人の多くは、幽霊になること多々あり。
しまいに、自分は、まだ、この世に、生きているというから、手を焼く。
人の幸せは、霊合の者との、出会いと、連れ合いである。
一人で生きられることは、まず無い。人は一人で生きられないようになっている。
信濃国の歌
人皆の 言は絶ゆとも 埴科の 石井の手児が 言な絶えそね
ひとみなの ことはたゆとも はにしなの いしいのてこが ことなたえそね
たとえ、部落の人たちから、憎まれても、口をきいてくれなくても、あの石井の小町娘との仲は、いつまでも絶えてくれるな。
美人の娘と、恋仲になると、部落の男たちから、嫉妬され、憎まれてもいい。恋する若者の、決意表明である。
昔から、そういう恋を生きた人は、大勢いる。
部落を女のために捨てて、二人で、新天地で生きるという。
愛する者といれば、どこででも生きられる。
勿論、現代は別である。
そんな思いの強い愛を生きるのは、差別され、迫害された者に言える。
例えば、同性愛者であるとか。
若い頃、一人の年上の男と付き合っていた青年が、40を過ぎても結婚しない。いまでも、彼を好きだという。
その彼は、家を継ぐために、結婚をした。その時に、別れて、今は、会うこともない。しかし、彼は、彼を愛し続けている。
それも、愛の一つの形である。
人間とは、何と、愛しい存在であろうか。
二度と再び無い、この人生を、たった一人の人を愛して生きるという。
極まるところ、人生とは、最大の自己満足を生きる者が、幸せという感覚を得る。
どこに、何に、自己満足を得るか。
問題は、それである。
信濃国の歌
信濃なる 千曲の川の 細石 君し踏みてば 玉と拾はむ
しなのなる ちくまのかわの さざいし きみしふみてば たまとひろわん
実は、私の好きな歌である。
千曲川の細石でも、あなたが踏んだ石ならば、私にとっては、玉のようにものである。
間接的、愛の告白である。
いつも眺めていた、細石が、あなたの存在によって、光るのである。
あなたの足が触れた石に、あなたが宿ると感じる心。
その石を胸にあてて、あなたを慕う。
片恋、片思いの、篤き恋情である。
今は亡き、映画評論家の小森という、おばちゃんがいた。
彼女曰く。
彼を帰した後、彼の着ていたパジャマを抱きしめて、彼を思うの、と。
同じである。
そんな相手のいることが、幸せである。
何も大層なものなどいらない。
そんな相手がいるというだけで、幸せを感じるのである。
今も昔も変わらない。
幸せは、幸せを感じられる心にある。
どんなに、不幸であると、客観的に見ても、本人が幸せであること、それが重要である。
私は、多くそういう人を見ている。