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キリストの絶唱32

マルコ福音第11章、12節から、面白いことが書かれてある。

翌日、かれらがベタニアを出たとき、イエスは空腹だった。その時、遠くに葉のあるいちじくの木が見えたので、おそらく何かあるのだろうと来てごらんになったが、葉のほかには何も見えなかった。まだいちじくの時期ではなかったからである。すると、イエスは、その木にむかって、「今後いつまでも、だれも、お前の実を食べぬように」とおおせられた。弟子たちもそのおことばをきいた。」

これは、マタイの福音第21章にもあるが、そこでは、「これからお前はもう二度と実をつけるな」と木におおせられた。すると、いちじくの木は、すぐに枯れてしまった。とある。

これについての、聖書解釈は、いちじくへの呪いは、実を結ばないイスラエルと、イスラエルへの罰とを意味する。と、いう。
解釈とは、如何様にでも出来るものである。

実を結ばないイスラエルとは、ユダヤ人である。イスラエルへの罰とは、ユダヤ人への罰であろう。

話は、飛躍するが、私は、どうして、ドイツのヒットラーが、ユダヤ人の虐殺を行ったのかということが、疑問である。あの、人種差別は、何ゆえのものかということだ。

旧約の神に選ばれた民である、イスラエル人、ヘブライ人、つまり、ユダヤ人が、何故、あのような迫害を受けるのかということだ。
何か、根本的な問題があるような気がする。

ただし、キリスト教の、このイエスの言葉の解釈を持てば、ユダヤ人は、罰を受けるものであるということになる。

マタイの福音では、その後がある。

これを見た弟子たちがおどろいて、「いちじくの木が、どうしてこんなにすぐ枯れてしまったのですか」とたずねるとイエスは、「まことに私は言う。あなたたちがためらうことのない信仰さえもっていたら、私がいちじくの木にしたようなことができるばかりではなく、あの山にむかって、動いて海に入れ、と命じてもそのとおりになるだろう。あなたたちの信仰にみちた祈りをして乞い求めるなら、なんでも与えられる」とおおせられた。

イエスが空腹であったことを、聖書解釈は、義と愛に飢え渇くイエスを考える、いう。
聖書解釈は、すべて、このように、勝手な解釈をする。

たしかに、マタイは、マルコ福音に先導されて、書かれた。ルカ福音にもである。
後で、書き入れられたと考えられるが、その後の弟子たちの言葉に、解釈の根拠がある。

つまり、信仰により、祈りにより、出来ないことは無いと言うのである。

何度も言うが、イエスは、弟子たちにも、悪霊を追い出し、病を癒す力を与えた。
奇跡の力である。
聖書解釈は、暗にそれを、避ける。
要するに、奇跡を起こすことが出来ないような信仰の者が、解釈するからである。

福音宣教は、奇跡があっての、宣教の意味がある。

私は、台風の進行を何度も変えた。
そして、身近な人に、それを言う。最初は、驚いていたが、そのうちに、当たり前になる。私も、そんなことを、一々取り上げて言う必要も無い。
時々、こうなると、言うと、もう慣れた人は、ああ、そうと、聞く。

私は、奇跡を行っている意識は無い。
しかし、進路変更を何度もするということは、大したことである。
勿論、私は、言霊による。

マルコ福音にも、イエスは言う。
心に疑わず、自分の言ったようになると信じるなら、それは聞き入れられる。それゆえ、あなたたちに言っておく、あなたたちが祈り求めるものはすべて、かなえられるものと、信じよ。そうすれば、そのとおりになるであろう。また、祈るために立ち上がったとき、だれかに対して何か恨みがあるならば、その人を許しなさい。そうすれば、天にいますあなたたちの父も、あなたたちのあやまちを許してくださるであろう。

解釈も何も、イエスは、はっきとり言うのである。
イエスが口にした通りに成ると。

ハリーポッターの世界ではない。
事実である。
祈りと奇跡のカラクリは、次元の問題である。
言葉が叶う次元にワープせよと言うのである。
それは、信仰によって成ると言う。

祈って成らない者が、福音を宣教することは、出来ない。
単なる、遊びであり、道楽になる。

ただし、私は言う。
願って叶わぬこともある。
必要なこと、それゆえに、奇跡は、成就する。

いつもいつも、台風の進路を変えることは、ない。
病の癒しも、そうである。
地震に関しても、止めることの必要な場合と、そうでない場合がある。

もし、私がガンになっても、私は、癒しをしない。
死ぬか、信頼する医者の助言に従う。
出来れば、死にたいが、生かすというならば、生かさせてもらうこともある。

特に、それが医療の、また、医者への奉仕になるのであれば、である。

どんなに優れた霊的能力を持つ者も死ぬ。
実は、本当の能力者には、死は救いである。

肉体は、素晴らしいが、肉体があるゆえに、霊的次元にワープするのが、困難な場合がある。
それから、特別な能力を得たいと、肉体の行をして、得る能力者は、大半が、他の霊的存在に支配される。
要するに、レベルを霊的存在に合わせることによって、得る能力であるからだ。

イエスは、自分の力、次元にワープする力を、信仰と言う。

全く、イエスの奇跡は、言霊の力である。
立って行け。あなたの信仰があなたを救った。起きよ。治れ。
すべて、言霊の力である。

これで解る通り、日本の伝統である、言霊というものが、いかに霊的に進んでいるかということである。
言霊の認識である。

万葉の人は、皆々、それを認識していた。

ユダヤ同祖論という説があった。日本もユダヤ十二支族の一つであるという。
全く、誤りである。

その一つに、生贄、供え物がある。
彼ら、ユダヤ人は、羊を殺し、血を流す。しかし、日本の神道には、そんなものは、一切ない。血を流して供える物は、一つも無い。鴨があると言うであろうが、血は、流さない。祭壇に置く鴨は、血抜きをしたものである。
後は、海の幸、山の幸である。

現在は、鶏を用いるが、伊勢神宮では、生きたままを、捧げて、その後は、森に放すのである。

イエスの、イチジクに対すする言葉は、非常に激しいものである。
二度と、実をつけるなとは、宗教家とは、言えない。
ただし、いちじくを、お前と、呼ぶ。
文章では、擬人化である。
イチジクの木の霊に、言うのである。

それが、何を象徴しているのか。
植物霊とは、精霊である。
私が察するところ、その木には、人霊が、憑いていたと思われる。
その木に、自縛していたのであろう。
それゆえ、イエスは、その人霊を、そこから、開放すべくの、言葉であると、理解する。

それにしても、イエスは、激しすぎる。
これは、肉体イエスの性格であろう。

これが、仏陀なら、決して、このような言葉にならなかった。
仏陀は、静かに、その場から去ったであろう。

勿論、その木に自縛する霊を、言葉無く、諭してである。
私も、そうする。

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2007年08月12日 06:00に投稿されたエントリーのページです。

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