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キリストの絶唱33

イエスは、たとえ話をする。

ある人が、ぶどう畑をつくり、垣をめぐらし、見張り所を立て、それを農夫たちにまかせて、遠方に旅立った。時節がきたので、ぶどうの収穫のわきまえをうけとらせるために、農夫たちにしもべをおくると、農夫たちは、かれをとらえてうちたたき、空手で追い返した。

何人も、おくったが、なぐられたり、殺されたという。
そして、最後に、息子をやると、農夫たちは、跡継ぎだと言い、殺せば、財産は、われわれのものになると言い、殺した。

さて、ぶどう畑の主人は、どうするだろう。と、問いかける。

自身でやってきて、農夫たちを亡ぼし、他の人々に、ぶどう畑を任せるにちがいない。
あなたたちは、「家つくりの、捨てた石が、すみの親石となった。これは主のみわざで、私たちの目にとってはおどろくべきことだ」という聖書のことばを読んだことがないのか」と言う。

この聖書の言葉とは、詩篇118章22,23節のことである。

聖書解釈をみる。
神は、ぶどう畑の主人で、ぶどう畑は、イスラエルの国である。
神は時機に応じて、預言者、義人を使わしたが、イスラエルの悪辣な指導者たちは、彼らを虐待した。そして、最後の息子まで、殺すということ。
神の子イエスも、殺されるということを言う。
このため、神は怒り、イスラエルの遺産を、キリストの教会に譲るという、ものである。

このイエスの、たとえ話は、実に、悲惨であり、驚くほど、暴力的である。
あちらの民族の性質を、よく表すのである。

この、キリスト教会とは、どこの教会かといえば、カトリックである。

カトリック教会というものも、一つの派閥であったが、皇帝と組んで、絶大な権威と権力を持った。
それが、イエスの言うことなのかと、疑問である。

イエスの説教からは、世界宗教に発展する要素は、無い。
あくまでも、イスラエルの宗教で、止まる。

アブラハム、イサク、ヤコブの神である、旧約の神である。
ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、主とする神である。

聖書解釈によれば、イスラエルの民は、メシアを拒み、殺した。故に、神は怒り、その契約を、キリスト教会に譲るということになる。
完全に、ユダヤ教との、決別であり、和解のなにものもない。

ユダヤ教は、いまだに、メシアを待ち、キリスト教は、イエスをメシアとし、イスラム教は、ムハンマドを、最後の預言者として、旧約の神を、奉る。

ユダヤ教、イスラム教は、偶像を嫌い、カトリックのように、イエスの像も、マリア像も、聖人たちの像も置かない。

三者は、決して妥協することなく、いつまでも、敵対し、対立する。

イエスの言葉が空しい。
祈る前に、敵を許せ。そうすれば、父なる神も、あなたがたを許す。

この世で、最低、最悪の観念は、宗教である。

観念まみれ、である。

誰もが認めることだが、原始宗教形態は、太陽信仰である。
そして、土地、地球であり、自然界のあるもの、水や、樹木等々のものである。
そして、人間の男根、女陰信仰である。

観念として、宗教が現れたのは、4000年から5000年前である。
旧約聖書の最初も、4000年前ほどである。
実は、旧約聖書は、ペルシャ、現在のイランに起こった、ゾロアスターに影響を受け、アフリカの土着信仰に影響を受けている。

エジプトのラーという神も、自然神であり、太陽信仰からのものである。

そして、日本も、同じく太陽信仰である。
大陸から切り離されたのは、12000年前である。
列島になり、それ以前の太陽信仰を、そのままに、引き続き、縄文へと至る。

アマテラス、天照という方は、実在の人物である。
太陽信仰を説いた、夫である、天皇、大王としておくが、その死後、引き続き、民に太陽信仰を説いていた。
富士王朝という人もいる。
大和朝廷は、その、富士王朝を、凝縮して、その続きだとした。

ただ今、遺伝子研究により、言語の系統研究が、大きな成果をあげている。

遺伝子学の知見によれば、現代人の祖先は、今から15万年から20万年前に、アフリカに発生し、その後、枝分かれした。

アフリカ中北部、ナイル川上流にさかのぼる。
ヒトの集団が、アフリカの中で、東西に分裂しはじめたのが、20万年ほど前である。
西に行くものは、大西洋に阻まれて、南下し、アフリカ南部で行き止まる。
東に行くものは、北に向きを変えて、スエズ運河を通り、カスピ海南部に至って、5500年ほど前に、南北に分かれる。
南に下ったものは、インドからインドネシアを経て、中国南部と、オーストラリアに行き着く。
北上したものは、カスピ海の北で、35000年前から40000年ほど前に、コーカサスの北を通り、西のヨーロッパ方面に行くものと、中央アジアへ行くものに、分かれる。
東に向かい、東北アジアを経たものは、今から、30000年前から15000年前に、再び細分化し、ベーリング海峡を越えて、アメリカ大陸へ行くもの、満州、モンゴル、チベット、朝鮮半島、そして、日本へと別れた。

列島が大陸から、切り離された記憶が、古事記の、国産みの記述としてある。

言語については、いずれまた、書くことにする。

こうして、人類が生き延びて、今に至る。
彼らは、生きるに必死だった。
原始宗教体験とは、その生きることに関わるのである。
つまり、自然との折り合いである。自然の脅威を、現在の神という観念に近く持ち続けたはずである。
しかし、名は無い。
一日を、支配するのは、太陽である。
それが、太陽信仰への、第一段階であった。

遺伝子学からの言語についてが、人類の有様を言う。
この言語とは、人間の最も素晴らしい創作であり、創造であった。
そして、一気に言うが、言語が、観念の生みの親である。

エジプトの言葉の発生は、実に神聖なものだった。

私がいいたいことは、そこに立ち戻る時、現在の宗教の誤りが、理解できるということである。
作られた言語による観念の産物が、宗教である。
つまり、宗教は、人間が創造したものであること。それは、つまり、神というものも、人間が、創造したものである。

加えて、霊的存在の関与である。
この霊的存在の、問題は、後日に譲る。

いずれにせよ、書かれたものがあるということは、書かれなかったものがあるということである。
そして、書かれなかったものの、方が、当然、レベルが高いのである。

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2007年08月12日 20:07に投稿されたエントリーのページです。

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