東歌に入る前に、一言。
若い方々が、もののあわれについては、難しいと言う。
聞けば、文章ではない。
内容が、である。つまり、自分が理解するより、もっと、深い意味があるのではないかというものである。
それを、難しいという言葉に、託す。
それでは、津田左右吉という学者が、万葉の恋歌を、どう評価したのか、抜粋する。
「彼らの思想は自己の経験範囲を出ないから、極めて単純で狭隘で、また何人にも共有のものであり、従ってその作も千篇一律になる。作者自身には感深い歌であっても他から見れば平凡なもので歴史的に考えれば常套的伝統的に堕する。万葉の恋をよんだ短歌の大部分はこれである。」
その通りであるが、その程度にしか、学者も、万葉を捕らえていない。
何人にも、共有のものという。当然である。一律になるという。当然である。
常套的伝統的に堕するという。
その通り、万葉の恋歌は、飽くことなく歌い続けたのである。
それを、千篇一律として、判断することもよし。
しかし、津田は、悲しいかな、人間の、情というものを、知らない。勿論、学者であるから、情など、入れては、研究にならないと思う。
だから、学者の評価したものは、その世界で通用するものである。
若い人が、難しいと言う次元と、津田の説は、天地の差がある。
津田には、万葉の恋歌が、千篇一律であるという、研究成果で、終わりである。
それで、万葉の恋歌も、彼の前では、終わった。
津田は、人間というものを知らないから言えるのである。
恋を知らないとも言える。
恋を知らないということは、万葉時代ならば、人ではない。ヒトデナシである。
青木生子という学者が言う。
「死を」よみこむほどの相聞歌は、たしかに一種の悲劇的調子を帯びている。しかし、その調子に陶酔している甘い感情も一方に感じられる。人々の心に共感を呼ぶ民謡性もまたそこにあるといえる。万葉の無名のこうした歌の数々は、いうなれば愛唱された当時の歌謡曲なのである。
これは、津田の意見に対して、肯定しつつ、新たな意味を求める説である。
津田の説で言うと、すべての、万葉以降の全ての恋歌は、どんな形の詩歌にせよ、一律であろう。
繰り返しても、まだ、足りない。そこに、人間の情、ココロというものの、姿がある。
分析をよくする学者は、それで暇を潰している。
それで、よし。
伝統とは、反芻である。
人間の喜怒哀楽の反芻こそ、伝統と言う。
その反芻に、民族独自の、姿がある。
万葉は、愛と死を、反芻する。
死を読む、挽歌が多いのも、頷ける。
津田の説を、鵜呑みにして、解ったつもりになっているのが、学者というものの姿であろう。それを、哀れという。
人は、喜怒哀楽を反芻して、深まり、高まるものである。
心が、そうして、動くのである。動くとは、生きている証拠である。
恋の情が、最初は、愛する相手に向いている。しかし、それが、単に、我が心の内に、恋が、恋心が動く。
恋とは、私ではないか。気づきである。
相手に恋をして、実に、我の心に気づく。
私の心は、恋に喘ぎ、苦しみ、悶えている。相手ではなく、そこにこそ、私というものが在る。
その私を観る、私の目に気づく。
万葉のテーマは、愛と死である。
つまり、人間の根本的生きる原理を見つめたものである。
それは、当然、繰り返される。
それを、常套的伝統的に堕する、と、分析して、何するものか。
無益なことである。
小さな親切、大きなお世話である。
若い人の難しいという感想には、もっと、ごく自然の恋という感情にある、私を、私自身を感じたいのだという、言葉に、私は受け取る。
繰り返し、反芻こそ、人生である。
私の万葉集があり、あなたの万葉集がある。
それで、いい。
そして、もののあわれ、という、日本の伝統に行き着く。
欧米の思想、哲学の、やり方は、語り尽くすのである。
徹底的に、言葉で、理解しようとする。理論というものである。それらに、日本文の、間合いを読む、行間を読むという、そんな芸当は、理解できない。
この、行間を読むというのは、人間愛のことである。
限定するものは、一つも無い。観念にするものは、一つも無い。しかし、西洋の言葉の世界を潜り抜けると、それが、浅はかに見えるのである。逆である。
語り尽くすことが、出来るものならば、すでに、語られてある。
人生を理論づくめにする行為は、野蛮である。
故に、私は、欧米の思想を野蛮という。
万葉の歌、一首の優しさに適わない。
語りえないものがあるから、繰り返し、反芻するのである。