イエスはみ教えの中で、「律法学士たちに気をつけよ。かれらは長い服をきて歩きまわることと、広場で敬礼をうけることと、会堂の上座、宴会の上席につくことを好み、やもめの家をむさぼり、長く祈るまねをするが、かれらのうける審判は、ひとしおきびしいことだろう」
モーゼ律法の教師たちである。ユダヤ教の代表である。彼らを、ここまで叩き切るとは、凄まじい迫力であり、彼らを敵にすることは、ユダヤ人を敵にすることになる。
何故、イエスは、そこまで、彼らを糾弾するのか。
偽善者だからである。
現在の日本では、僧侶たちのことである。
宗教指導者の、有様には、辟易するのである。
門主、門跡、管長、座主、特に血筋を持っての、宗教団体の有様は、腐りきっている。
広く貧乏人から金を集め、その嘘八百の教義なるものを持って、妄想を信徒に与えて、弥陀の本願、成仏等々の言葉で、撹乱させる。
一般人より、仏陀に遠い生活をして、僧侶という。呆れる。
果ては、幼稚園経営から、墓地、納骨堂経営までなし、仏陀の教えとは、遥かに遠い。
乞食、を、彼らは笑うことは出来ない。
彼らこそ、華麗なる乞食である。
全く、仏典の教養も無く、他力だの、自力だのと、のうのうと、ブッから、呆れる。
その、食肉妻帯の様にも、呆れる。
仏陀は、出家者には、厳しい掟を与えた。
女の膣に、ペニスを入れてはならない。
それを、堂々と、やっているのである。
ひとしお厳しい審判が待っているだろう。との、イエスの言葉は、なにも、律法学士たちだけではない。
仏陀の仏教を見捨ててもいい。
では、道元の曹洞宗は、どうか。
二年程度の修行を経て、寺の跡取りになれば、安泰した生活を送る。
後は、やりたい放題である。
信じられないの一言。そして、尊敬されるというから、開いた口が塞がらない。
ヤクザと、僧侶の見分けがつかないと言われるほどであるから、そろそろ、信徒も、目を覚まして、寺から見切りをつけるべきである。
何度も言うが、日本の仏教は、仏陀の仏教ではない。
全く関係ないのである。
大乗仏教ということろから、誤っている。
それが仏教の発展という人がいるが、単に、堕落したのである。
勿論、多くの識者や、論者は、日本仏教を擁護する。金になるからである。
宗団に、取り入れれば、金になるのである。
少しの常識的見解があれば、それに迷うことはないが、少しの常識的見解も無いのである。
矢張り、騙される者が悪い。
さて、イエスの言葉である。
自ら、苦境に立つであろうことを言う。
すべて、重荷を負う人、疲れたる者は、我に来たれ、我、汝を休ません。
と言えば、私は、この世に剣を持ってきた。対立を持ってきたと、言う。
キリスト教徒は、前者を使い布教をするが、後者を言うことはない。その意味が解らないからである。
イエスキリストが行いたかったこと、それは、人間が作り出した、神観念からの、脱却である。
神は、人間が創造したものである。
旧約聖書の神観念のみにしか、頭が回らない者たちに、その神の言葉を持って、つまり、それを方法として、教えを説いたのである。
勿論、そのイエスキリストの言葉も、後に、教会が、権力を保つために、支配するために、都合よく作られたものである。
実は、世界は、もはや、一神教の教えでは、限界に来ているのである。
滅びる前の、消え入る前の、盛況を今は、現している。
古代から、ヒトは、畏敬の思いを抱いて生きた。
それは、自然である。
ヒトが人間になっても、潜在意識の奥底で、古代の記憶が残る。
その、畏敬すきべきものを、神という観念にすり替えたのである。
あらゆる宗教の七割以上の人は、本当に、信じている訳ではない。慣習、習慣によるものである。
どちらかと言えば、信じていない人の方が多い。そして、それは正しい。
イエスが言うところの、天国とは、霊界の話であるが、当時の人に合わせて、旧約の観念から、それを説いたのである。
旧約聖書の観念に、雁字搦めにされている者たちを、正常に戻すには、どれほどの、方便が必要だったか。
念仏を信じている、老婆に、教えを説くことは、容易ではない。
念仏によって、極楽に行くと、信じ込む者に、説く、言葉はない。
それなら、念仏を通して、正しい霊界の話を説く方が易い。
イエスはメシアと、呼ばれる。メシアとは、救い主ということである。そして、宗教は、救いという観念を説くが、実は、救いという観念は、観念のみあり、実体が無い。
生きるということが、実に不安定なことである。そこに、付込んでの、不安増大を煽り、その不安からの開放を救いという言葉にするのである。
悩む者を、餌にして、この壷を買えば、悩みが解消するという、悪徳商法の手口と同じなのである。
宗教とは、合法的悪徳商法である。
人間は、宗教的であれば、よい。
宗教的とは、自然に対する畏敬である。それは、生命に対する畏敬である。
それを、神や仏の観念として、人間から引き離し、対立したものとして、教えるから、誤るのである。
宗教は、完全に誤りである。
人間は、宗教的であれば、よい。