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2007年09月 アーカイブ

2007年09月01日

もののあわれについて83

東歌には、埴輪の表情があると、万葉を支持する識者は言う。
確かに、そのような原始的な底抜けに明るい表情がある。

そして、初々しい、歌に対する姿勢である。
習い初めの言葉が、楽しいのである。
それは、実にまた、縄文の様である。

すべてが新しい。
そして好奇心に満ちている。

単純素朴であるが、言葉については、品格を保つ。
もっとも、もっとエロスが旺盛であったと思われる。
ところが、言葉の新鮮さにより、堕落していないのである。
堕落とは、言葉に対する感動が無いということである。

言葉を覚え始めた子供は、同じことを何度も繰り返す。覚えた感動である。
東歌にも、それがある。

最初は、話している様が歌になる。ということは、五音と、七音という調子は、もっとも日本人の息遣いだったのであるというだ。
五七調、七五調として、後に、分析されるが、そんなことを意識していない。
言葉の息遣いが、精神の息遣いになった。

それが、なんと、昭和初期までに続いていたのである。
日本人は、潜在的に、この五と七の音に立ち戻りつつ、進む。
底辺に、それがある文学作品を日本人は、美しいと感じるのである。

川端康成がノーベル文学賞を与えられた時、ああ、日本語の、そして日本の美しさを世界の人に読んでもらえると、喜んだ記憶がある。
川端文学の底辺にある語感は、まさにそれだった。

そして、今に至るまで、短歌や俳句が盛んに作られている。
これほどに、続く文芸行為は、世界に類をみない。
誰もが、万葉に続く者なのである。

万葉からはじまり、長い旅をして、再び万葉に辿りつく。つまり、万葉は古里だった。

言葉は、民族の命である。
他の民族は、宗教とは、切り離せないが、唯一、日本は、宗教ではなく、歌なのである。
そして、それを最大に推し進めたのが、天皇である。
私が天皇を、お歌の宗家というのは、そういうことである。

西洋では、詩歌と、歌う声楽と分けるが、日本は、詩歌は、そのまま歌である。
和歌は、そのまま朗詠になる。
野蛮な民族に、その地を奪われたケルト民族も、そのようであった。文字が無かったというが、言葉は、あった。
日本の言葉の有り様と、非常に似ている。
同祖というならば、ケルト民族であろう。

ケルトの自然共生、共感の思想と、循環の思想は、共に日本の古神道である。
そして、最も驚くべくきことは、自然淘汰を善しとし、それを神と見立てることである。その働きを神と観るのである。
原始宗教感情は、すべて自然の働き対するものである。
畏敬すべきもの、それは、自然であった。
実は、今も、そうなのであるが、欧米の思想は、自然支配に立つ。
自然を神から与えられた。それゆえ、如何様にも扱えるという傲慢である。

謙虚な学問がある。
文化人類学である。
歴史、考古学、文化的行為、民俗学等々を総称する。
人類の成長発展を、文化という一つに当てて、俯瞰する学問である。
中学から、これを取り入れて、一つの授業とするべきである。
まだ、未分化であるが、これが、世界に貢献する学問になることは、必至である。

小学生のうたから、株式を教えて、経済的人間を育てるというアホなことをするが、最も大切な、道徳教育が、誤解、彎曲されて理解されているのであるから、文化人類学に、期待する。

道徳教育を、一つの価値を押し付けるものだという、あまりにも、偏狭な考え方に、絶句している。
人間理解の学問が、一つもないのである。
学問を為して、人間ではなくなることを善しとする。
呆れて、物が言えない。

子供たちに偉人伝を読ませると、偏るという、その根性が理解できない。
道徳教育とは、別名、伝統教育だった。
それは、礼儀作法である。
生き方のマナーである。

戦中以外の伝統教育は、素晴らしいものだった。
そして、世界で唯一といってもいいが、伝統教育をしないのは、日本だけである。理想的な伝統教育が出来るのにである。
欧米、アラブ等々の、伝統教育は、一神教の教育である。それは、徹底している。

日本の伝統教育は、平和教育になるのである。
自由と、平等と、博愛というスローガンを掲げる教育も、結果は、一部の人のものである。全くの嘘八百である。
表は、自由と平等、博愛というが、裏では、差別のオンパレードである。
それに、言うが、自由、平等、博愛を教えた仏陀の思想は、壊滅しているではないか。
仏陀の仏教が壊滅している。それは、それらの思想が、遂行されないものだという証拠である。

世界に、自由と平等と、博愛などない。
すべて、損得勘定の、他者排斥の思想である。
それを倫理が無いという。
欧米の倫理は、キリスト教が主であり、アラブは、イスラム、中国は、共産主義である。
そして、ロシアは、侵略思想である。帝国時代から、共産時代に至るまで、である。
どこに、倫理がある。

倫理の哲学の得意な、西洋に、倫理はあるか。
教会を倫理の主にしているだけであり、教会は、倫理のみか、道徳も無い。あるのは、妄想の神の観念による、支配である。
教義は、倫理にあらず。
それでは、哲学者たちが語る倫理は、どこへいった。学校の中で語られるだけである。

現在の欧米の倫理観とは、プロテスタントのカルビンから出たものである。
日本は、儒教の影響が強い。
アラブは、勿論、イスラム法である。
そして、中国は、人民支配の共産主義という、幹部による支配主義である。
そして、ロシアは、どう見回しても、侵略主義のみである。

日本の倫理は、本来、自然共生、共感であるから、それをもっての教育は、世界の平和に寄与するものであるが、アホが、何人いても、アホであるから、教育界には、期待ではない。
社会主義なのか、お馬鹿主義なのか、日教組という組合が仕切る教育は、絶望的である。自由と、平等と、博愛をやっているつもりなのであろう。
この世にありもしないものを掲げているという、哀れである。
実に、宗教と同じであろう。
あの、宗教である。
華麗なる詐欺集団の宗教と同じである。

2007年09月02日

もののあわれについて84

上野国の歌
上つ毛野 安蘇の真麻郡 かき抱き 寝れど飽かぬを あどか吾がせむ
かみつけの あそのまそむら かきむだき ねれどあかぬを あどかわがせむ

上つ毛野は、現在の群馬県。
安蘇は、地名。
真麻郡の、真は接頭語。そは、麻で、刈りきった麻の束。
初句から、ここまでは、かき抱きにかかる、序である。

かき抱き、かきは、接頭語。むだきは、抱くの古語。
あど、とは、何と、という方言。
何と自分は、したらいいのかという意味になる。

上野の安蘇の里の麻郡を抱きかかえるように、かき抱いて寝ても、愛しい思いを満たすことができない。どうしたらいいのか。

燃え滾る妻への愛情である。
これ程、愛されると、妻も本望であろう。
かき抱いても、なお、満たされないもどかしさがあると歌う、この大胆な告白。
安蘇、真麻、郡、飽かぬ、あど、吾がせぬ、すべて、母音のアの響きに、大地の歌を感じさせる。
労働と、愛情との、深い融合。
東歌の手本といえる。

これは、縄文の心を、そのままにした、人間讃歌である。

抱いても、抱いても、まだ満たされないほど、愛するという感情は、原始感覚である。
麻郡を抱いてみて、妻の体を抱くことを思う。こんなに強く抱いても、妻を抱くことが、満たされない。もっともっと、抱きしめたい。
そうして、麻郡を抱く男の姿は、美しい。

現代でも、新婚や、恋愛はじめの頃は、このような気持ちになるであろうが、あまりに、打算に堕落した感がある。
それは、時代の生活の様にある。
これは、語れば空しくなるので、やめる。
金で、愛情も買える時代であるとだけ言う。

下野国の歌
下つ毛野 みかもの山の 小楢のす ま麗し児らは 誰が篭か持たむ
しもつけの みかものやまの こならのす まぐわしこらは たがけかもたむ

下野の、みかもの山の、小楢の若木のように、美しい、あの娘は、誰の妻となり、食事の世話をするのだろうか。

下野は、栃木県である。

片恋の歌である。
勿論、自分の妻になって欲しい。しかし、もしそうでなければ、幸せな結婚をして欲しいと願うのである。

乙女の処女性を尊ぶ心は、男の愛情の神聖さだと言った。

勿論、今は、自分は、多くの女と交わるが、結婚するなら、処女であるという、アホは、いないだろうが。
男は、3分も、あれば、セックスができる。また、3分に一度は、セックスのことを考えている。

下野国の歌
下つ毛野 安蘇の河原 石踏まず 空ゆと来ぬよ 汝が心告れ
しもつけの あそのかわはら いしふまず そらゆとこぬよ ながこころのれ

思いを寄せている娘に、今日こそは、その本心を聞きたいと、駆けて行く若者の心を歌う。
安蘇の河原の小石も、なんのその。
石も踏むことなく、飛んでいる。
空ゆと来ぬよ、とは、上の空で、宙を飛ぶようにという意味。

俺のこと、好きか、嫌いか。
それほどまでに、駆けてくる男に、娘は、嫌いだとは、言えないだろうと思うが、しかし、娘に、好きな男がいたとしたら、男は、絶望である。
その絶望を、どうして、生きて行くのか。そこに、男の生き方がある。
片恋を生きる男は、美しい。
叶わぬものほど、人の心は、躍る、
人に大差は無い。

万葉も、現代の人も、その心に大差ないということである。

もののあわれについて85

東歌には、どこの国の歌か解らないものもある。
その中から、みる。

うらも無く わが行く道に 青柳の 萌りて立てれば もの思ひ出つも
うらもなく わがゆくみちに あおやぎの はりてたてれば ものもいづつも

うら、とは、裏表の、裏である。つまり、心を意味する。
うら悲しいとは、心悲しいということである。

萌りて立てれば、とは、柳が青々として芽を吹く様である。

もの思ひ出つも、とは、出つは、出づ、いづの方言である。

心無く、無心に歩いていると、柳の木が青々と芽を吹いている。それを見ると、何やら、物思う心が出てきた。
単に、そういう心境を歌う。

西行の歌に
おしなべて 物を思わぬ 人にさえ 心を作る 秋の初風
という歌がある。
それに似る。

実は、この心が、本居宣長がいう、もののあわれを知る心である。

四季の移り変わり、移ろいにある、そこに流れる自然の心。それを心と、捕らえていた。言い難き感覚、感動。早春には、その風がある。

この風という言葉も、自然の心と、観たのである。
風が、心であるという思想。

さらに、推し進めて、風情や、風流という言葉が生まれる。
フゼイ、フウリュウである。これは、漢語読みである。
それでは、大和言葉にしてみると、かぜのこころ、かぜのながれ、である。
これを、欧米流で説明すると、膨大な言葉が必要になる。

大和言葉であれば、一首の歌で、説明する。

秋の夜の 月冴えわたる 寂しさに もの思う我 今ここにあり 天山

風よ吹け 心の闇を 吹きつけて 遥かに照らせ 山の端の月  天山

夏の夜の 月と星との 語り合い 宵わぬうちから あれ色々と 天山

名残おく 風に思いを 乗せてゆく 今日のひと日は 永遠(とわ)の彼方へ  天山

色々と 語れば語る 酒の夜 もう飲まないの ねえ飲まないの 天山

手を重ね 口説いた先に コンドーム セーフセックスの 文字華やかに 天山

歌の道 そんな柄じゃない この俺は それがいいのよ アホでいいのよ 天山

どうぞ皆さんも、うら無くも、暇つぶしに、短歌を作って、楽しんでください。
自分のために。

短歌の作り方
誰かの歌を真似て、戯れ歌にする。
誰かの歌の替え歌を作る。
そのうちに、何となく、自分の言葉になってゆく。
そして、言葉という観念にある、私という意識に、疑いを持つ。
まてよ、俺って、本当の俺って・・・
ということになり、何かに誤魔化されているのじゃないかと、行き着く。
いつから、この言葉を、こう観念したのかという、ところにゆく。
言葉でしか、俺を、俺というものを、認識できないのかと、疑問に思う。
何だ、何なんだ。
そうして、思想というものが生まれる。
実に、人生は、死ぬまでの暇つぶしであるということが解る。

アンタがいてもいなくても、大海の一滴よ。大海の一滴が、無くなっても、どうでもいいじゃん、とは、ボヴォワールの言葉である。
実存哲学という、本当か嘘かしれない哲学の、私の好きな一人です。

日本の実存哲学の道元は、竿の先から飛べという。
もう後がないのが、人生だというのだろう。

そう、毎日、もう後がない人生を生きている。
私も、毎日、竿の先から飛んでいる。

言の葉の 遊びはよして 濡れましょう 今だけ越える ああ深草の 天山

柔肌の シルクに揺れる 桃色の その色染まる 月の夜の宴 天山

上記、卑猥な歌であろうと思うな。
人生は、それに尽きるだろうが・・・
その時だけは、真剣なはず。
それ以外で、真剣なことが出来るなら、世の中、もっと良くなっている。

人を軽蔑することは、知るが、自分を軽蔑することを知らない人の多いこと。
それらが、匿名で何やら書き込みをするから、笑う。
そういう者には、昔、糞して寝ろ、と言った。
または、糞して死ね、と言った。

2007年09月03日

人質解放

あまりに愚かで、アホなことなので、どうするかと、迷ったが書くことにする。

韓国、セムムル教会、キリスト教の新派である、のアフガンボランティア活動である。勿論、それは、布教活動である。

キリスト教徒というのは、タダで、ボランティアなどしない。
必ず、布教が伴う。そう、無償行為などはしないのである。

タリバンの解放の弁である。
韓国軍の撤退と、キリスト教布教の禁止である。
そして、身代金である。これについては、いずれ、その情報が出るであろうから、触れない。身代金がなくては、話にならない。

ラマダンの月に入るので云々という説は、どうにでもなる。
その月には、特別の施しや、奉仕をすれば、今までの罪が許されると、これまた、宗教指導者が、好きなことを言うのである。

アラブの格言
断食して祈れば、悪いことが起こる。
これが、真っ当な神経というものである。

さて、アホのキリスト教徒のことである。
二人も、殺されて、韓国プロテスタントの間から、殉教という言葉が出ている。
どこまで、アホかは、これで解る。
行けば、殺されるに決まっているところに出掛けて、殺されて、殉教というのは、意味が違う。しかし、彼らは、信仰という、とてつもない妄想により、目が曇っているがゆえに、それを知らない。知ることを知らないのは、実に、妄想のせいである。

旧約聖書には、神を恐れることが知恵のはじめ、とある。
神を恐れよ、キリスト教よ。
イスラムの神を恐れることから、知恵がはじまるのである。

十字軍の経験が生かされていないことも、キリスト教徒の頭の悪さである。
まあ、解っていても、やめられないから、キリスト教徒を、やっているのであろうが。哀れである。

福音原理主義といわれる、キリスト教の一派である。イスラム原理主義と、同じである。
それでは、福音を知るかといえば、何も知らない。
新約聖書の福音書のことであろが、彼らは、福音書を読むのではなく、信じるのであり、それを善しとする。

アンパンマンの漫画を信じるのと、変わらないのであるから、恐れ入る。

彼らは、アンパンマンを知らせるために、命懸けで、アフガンに出掛けた。そして、観光旅行用のバスに乗り、アンパンマンを胸に抱き、そして、アンパンマンに祈り、その加護を信じて、タリバンに拉致された。
拉致されてはじめて、少しは、現実を知ったが、アンパンマンに対する信仰は、変わらない。
兎に角、アンパンマンを信じて、解放を待ったのである。

韓国政府は、アンパンマンを信じて、アフガンの人々を幸福にさせるべく、アンパンマンを信じる信徒たちの解放に、大枚な金を用意し、韓国軍の年内撤退も、視野にいれての交渉である。
これも、すべて、アンパンマンを信じる人のためである。そう、アホでも、韓国民である。政府が動かなければ、国内の支持を得られない。

彼らは、解放をアンパンマンの守護であると、感謝したであろう。

この、アンパンマンに神を取り替えても同じことである。

相手をバイキンマンだと仮定しての行動である。

アンパンマンも、バイキンマンも、架空の存在である。
しかし、いくら、死ぬまでの暇つぶしとはいえ、それはないだろうと思うが、そうではない。

信仰という名の、蒙昧は、救いようが無いのである。
彼らは、そりれにより、救われていると言うが、信仰では、救われないことになっているという、宇宙の法則を知らない。

アンパンマンにもバイキンマンにも、作者がいるのである。

韓国国内では、政府が、キリスト教の布教を禁じるというタリバンとの約束をしたことを、非難するという、またアホな団体があるというから、驚く。

宇宙開発を進めて、早く、宇宙空間に、それぞりの宗教の巨大飛行船でも何でも、作るべきである。
どうしても、争いが好きなのであるから、しょうがない。

巨大宇宙船で、思いっきり、神を信じて、生きればよい。とは、言うものの、敵は味方から、出るので、その飛行船でも、宇宙船でも、争いが耐えないだろうが、そんなことは、どうでもいい。

地球では神も、仏も信じない、普通の人々が、普通に暮らしているだけでいいのである。

しかし、どうして、タリバンは、全員を殺さないのか、不思議だ。
そこが、彼らの信仰の曖昧さである。
異教徒は、殺せであろが。何故、殺さない。
女性を殺すのは、禁止されているのは、女がいなければ、子孫が絶えるからである。そういうことには、実に、真っ当であるが、他のことは、実に、不可解である。
要するに、勝手な解釈、勝手な議論であり、あま、暇な男たちが、何やら、するものである。

アフガン政府は、タリバンの仲間の釈放をするかである。
それを前提にした、解放であれば、実に、韓国人キリスト教徒、セムムル教会の信者たちは、愚かなことをしたものである。
しかし、決して、愚かなことをしたと思わないところが、信仰というものの、味噌である。糞ではない。

主イエスの福音を伝えるという言葉を、アンパンマンを伝えると、決して同じとは、考えないところも、糞ではなく、味噌である。

この話をすれば、少しは、理解の手立てになると思う。
私の知り合いに、仏教系の新興宗教に熱心な人がいる。その人が、叫んだ。
イスラムを救うのは、何々の経典しかないと。
彼女は、場所が場所ならば、即座に射殺されていた。
しかし、それを想像するなにものも持たないほど、信仰というものは、人を蒙昧にさせる。

この複雑な国際社会で、この価値観の多様な国際社会で、最も大切なことは、相手の思想、信条を尊重し、私の信念や、信条を抑えることである。
それぞれの国、それぞれの民族、そして、宗教を尊重する。つまり、曖昧に認めること。日本人の得意な礼儀作法である。

上記の人のように、叫ぶと殺される。それでは、目的を達することができないではないか。
普通の人の付き合いでも、相手を否定すると、先に進まない。まず、相手を肯定し、そこからの話し合いである。

日本人ならば、相手の持ち物から、褒める。
あなたの神は、素晴らしい芸術を生み出した。それから、話が始まる。
そして、郷に入れば郷に入り、相手の神を共に拝むのである。
世界共通の礼儀作法は、孔子の言う如く、相手が大切にしているものを、あたかも、自分も大切にしているように、振舞うことからである、と。

価値観の違う人と、対座するには、女を相手にすると思うことである。微妙繊細な心得を持って、対処することである。
女は、まず、持ち物から褒めると、安心する。

さて、私は、韓国人キリスト教徒らが、まともな人間に立ち戻るように、心を込めて、アンパンマンに祈るのである。

アンパンマンの祈りは、こうである。
何もつけて食べてはいけない。アンが入っているのである。アンを楽しめ。
である。

追伸。
タリバン幹部が、明かした。
身代金は、23億円以上であるという。
呆れた。
身代金の使い方を、幹部が明かす。
武器購入や組織の通信網の刷新、自爆テロを遂行するための車両購入に充てると。

見よ、あの23人によって、その何倍の人の殺しが予告された。
彼らは、殺された方が良かったのである。

国際社会、そして韓国国内から、批判の声が上がって、おかしくない。
彼らの自己責任である。
韓国政府は、アフガンへの自粛を打ち出していた。それにも、かからわずのアホの行動である。

アフガンに毛布を送るなどの、ボランティア活動をしている団体等を知るが、毛布一枚につき、送金料の寄付を募るのである。
23億円があれば、アフガンの人のために、どれほどのことが出来るか。
それを、アホどものために、こうである。
韓国政府は、人命を考えての判断だというが、これから、23億円により、殺される人の人命は、どうするのか、どうなるのか。

危険地帯であるというところに出たのは、自己責任であるから、人質に取られた時に、どうぞ、お好きな方法で、殺してくださいと、声明を発表するべきであった。

それが、本当の、国際的良心というものである。

あまりに、馬鹿馬鹿しくて、話にならない。
ホント、糞して、死ね、である。

2007年09月04日

キリストの絶唱42

マルコ第15章である。
ピラトが「あなたが、ユダヤ人の王か」とたずねると「そのとおりである」とお答えになった。

この訳は、別のものもあり、「私ではなくあなたがそういっている」というものもある。

要するに、ピラトは、イエスの罪を、ローマ法では、無実だと思うのである。
ユダヤ人の王というが、武器も、騒ぎも起こしていないのである。

他の福音書では、「私の国は天にあり」とも言う。

革命分子ではないことは、確かである。
しかし、ユダヤ人、その司祭、長老、律法学士たちは、イエスに死刑を求める。死刑にするめには、ローマの許可が必要だったからだ。

ピラトは、司祭長たちがイエスをわたしたのを、ねたみのためだと知っていた。
と、マルコは、書く。

そして、群集である。
ピラトは、イエスの死刑を回避しようと、一人の囚人を慣例に従って許すことにすると、群集に問う。すると、群集は、ピラトの意思に反して、バラバという人殺しの暴動者を許せというのである。

ここが、ユダヤ人を差別する根拠になっている。
イエスキリストを十字架刑にしたのは、ユダヤ人であると。
しかし、違う。
イエスは、旧約の預言通りに、死ぬのであり、ユダヤ人も、役者の一つである。

これで、ユダヤ人が、イエスを許せと言えば、新約の成就が無になる。

ピラトは、再び、群集に「あの人は、どんな悪事をしたのか」と、群集に問うと、彼らは、ただ、「十字架につけよ」と叫ぶばかりである。

勿論、司祭長たちが、画策したことであろうが。

ここで、私の見解を言う。
何度も言うが、当時は、メシアと名乗る者、多数。
イエスも、その一人であり、一派であった。

イエスが、十字架刑につき、死んだ後で、弟子たちが、変容したと言った。それは、共同幻想である。
当時のメシアを待ち望む人々の、共同幻想の中に、イエスの存在が、嵌ったのである。

福音書は、イエス死後、50年から100年を掛けて、伝言ゲームで書き継がれたものである。パウロの書簡より、後になる。実に、パウロが、初期キリスト教の教義の元になるという。

しかし、パウロは、イエス集団の迫害者だった。
そして、パウロの書簡には、一切、イエス在世当時のことに、触れられていないのである。それで、パウロは、共同幻想の、総まとめ役をしたと言える。
パウロの改心は、迫害していた時に、イエスが現れて、何故私を迫害するのかという言葉を聞くのである。
イエスの幻を見たのである。
その真偽については、省略する。
それよりも、イエス死後に、パウロが改心して、何故、あれほどの救世観を持っていたかである。イエスに、触れたこともないパウロが、多くの書簡を残し、さらに、教義の元になるものを、書いているということは、パウロは、すでに、救世観を持っていた。それを、学んでいたということである。そこに、イエスの存在があった。そして、その男は、罪もないのに、十字架刑になり、死んだ。
ここに、パウロが、自分の救世観を投影することが出来るイエスの存在が、突如として啓示のように起こった。イエスを慕う集団の共同幻想に、加担したのである。

イエス集団を迫害しているうちに、あることに気づいたのである。
迫害をするということは、相手を知るということである。落馬して、呆然として、しばしの時間を経た後で、ここに、自分の救世観を投影することが出来ると、悟ったのである。
落馬を、イエスの幻出現と、関連付けた。

ローマ支配にあり、部族間の対立があり、ユダヤ教の官僚的信仰形態に、人々は、ある種の絶望を感じていた。
しかし、メシア観はある。何となく、あやふやな時代に生きて、人の心は、不安である。その不安に、幻想が起こる。そこに、一人の男が、登場する。その男は、権威ある者の如くに、説教をする。
司祭や、律法学士たちに対する不満と、貧しい人のストレスである。金持ちは、神に選ばれた者であるという。いつまでも、日の目を見ない生活である。
それが、爆発したのは、イエスという男が現れてからである。
汝の敵を愛せよ。神は愛である。
部族間の対立のストレスや、異教徒に対するストレスは、最高潮に達していた。
村が違えば、口もきかないのである。異邦人として、対処するのである。
そこへ、神は愛であるから、あなたたちも互いに愛し合えという、説教である。
そして、ユダヤ教の指導者たちへの、批判と、非難は、極まった。イエスは、偽善者たちと呼ぶのである。

イエスは、その死後、変容し、キリストとして、認知される。すべて、共同幻想である。

ピラトは、群集の目の前で、手を洗う。それは、このことに、私は、関与しないという印であった。
そして、群集の望むままにさせた。

ローマ法でも、十字架刑は、極刑である。
死期を早めるために、石打の刑を与える。
いよいよ、イエスの受難物語がはじまる。
なんとでも、後で、意味をつけられる、十字架刑である。
イエスの勝利である。
私は、そう思う。

キリストの絶唱43

ローマ人は習慣として、鞭打ってから十字架につけたという。
その死を早めるためである。
ローマ人の処刑のしきたりによれば、裸にして柱に縛り、先端に鉛のついた皮ひもや鎖で、容赦なく鞭打ったようである。

十字架刑は、政治犯に課される最高刑だった。

ピラトは、イエスに、何の罪も見出せなかった。しかし、群集が、それを求めるのである。だから、鞭打ちも、皆の同情を引くために行わせたようであるが、群集、つまりユダヤ人は、益々、感情的になり、エスカレートさせて、いった。
それほど、この頃のユダヤ人は、ストレスを感じていたのである。
ローマの支配か、ユダヤ教の律法か。
出口の無い、不満である。

政治から、私生活に至るまで、縛られる生活である。

十字架刑には、磔と、くぎづけの二種類あった。
イエスは、くぎづけされた。
くぎづけの方が、苦痛激しく、死も早かった。
両手を、そして両足は、揃えて、くぎを打つ。

昼の十二時になったとき、全地は暗くなり、午後三時まで続いた。そして三時ごろに、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは、「わが神、わが神よどうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。近くに立っていた人々のうち、これを聞いて、「見よ、エリアを呼んでいる」と言う者もいた。すると、ひとりが走って行き、海綿にすっぱいぶどう酒を含ませ、それをよしの棒につけ、イエスに飲ませようとして言った。「エリアがかれをおろしにくるかどうか見ようではないか」イエスは大きな叫び声をあげて、息を引き取られた。

その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニとは、詩篇の言葉である。
ダビデの詩、詩篇22章である。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか
なぜわたしを遠く離れ、救おうとはせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない
夜も、黙ることをお許しにならない

その中の一節に、こうある。

犬どもがわたしを取り囲み
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く
骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く

まさに、十字架刑を受けた、イエス、そのものである。

兎に角、旧約聖書の成就であり、また、それの凌駕である。

人類の罪の贖いのために、神は、その一人子を、世に遣わして、その死によって、人類の罪を許すという、キリスト教の最大の教義が、ここで、完成する。
しかし、ここに最大の欺瞞がある。

罪の最初を、原罪として、制定するという、あまりに愚かな考え方である。
つまり、人間の存在そのものを罪とするという、傲慢である。
それが、人間の生殖の性を、罪とするという、最低最悪の観念を作る。
人間の生存を支配する、その考え方は、一体、どこからのものか。

旧約聖書の最大の矛盾は、人格神ということである。
神に、人格を有するという。
あまりに愚かである。
それで、墓穴を掘る。

神に人格を認めれば、それは、神もどきであろう。
神ではなく、単なる人霊のことであると、認めているのである。
嫉妬と、試み、そして、殺し合いの神である。差別と、偏見に満ちた神である。

この一神教と、仏陀の思想や、日本の古神道を対比させて、考えると、よく解る。
それは、いずれの機会に書く。

今は、イエスの死である。
イエスの死が、世界に与えた影響は、大きい。
それは、ヨーロッパの歴史から、世界の歴史に関与したのである。
勿論、それは、イエスの思想である。
主なる神が愛であるように、互いに愛し合うこと。汝の隣人を愛すこと。そして、極めつけは、敵を愛すこと。
敵は、殺すべきものである。しかし、イエスは、それをも愛せよという。
しかし、ここに、非常に大切な問題がある。つまり、敵という観念である。イエスでさえも、敵という観念から、逃れることができなかったということである。

敵を想定して生きるという人生である。
結果、キリスト教は、イエスの愛を実践できたかというと、全くの逆である。
今もって、それを実行できずにいる。
異教徒は、矢張り、敵である。
つまり、キリスト教も、イエスの教えを実践出来ず、旧約の神観念のままであるということだ。それは、つまり、イエスの死を無駄にする。

簡単に言う。
あるカトリック教徒に、天照大神という言葉を発すると、同じ日本人でありながら、そんなもの、と言う。そんなものである。
ここに、彼らの、最大の欺瞞と、その信仰の嘘八百が見て取れる。

もう一つ言う。
キリスト教の宣教に、現地の信仰形態に乗せて、布教するという方法が取られた。
例えば、スペインに亡ぼされた国、現在の南米である。ペルーやブラジル等々。
そこには、地場の信仰対象を、聖母信仰に重ねて、キリスト教信仰を打ち立てた。その欺瞞である。

そして、最大の嘘は、従わない者は、皆殺しである。
カトリックは、この反省を一度たりとも、行っていない。
日本が、植民地化したことに、戦後始終しているが、キリスト教の国々の植民地化は、甚だしいのである。
しかし、一度たりとも、それを謝罪しないどころか、当然だと思っているという、傲慢である。
一神教のよって、世界は、救われないどころか、益々と、混迷を深めるのである。
それが、イエスの思想であったのか。

イエスは、十字架にて死ぬということを、受け入れた。つまり、言動一致である。
汝の敵を愛せよと言ったように、敵によって、殺された。それを、受け入れた。
しかし、キリスト教徒は、全く、逆のことをして、この2000年を生きている。
アイルランドなど、カトリックと、プロテスタントが、対立し、平気で、汝の敵を殺すという、愚かさである。

彼らの、言い分を一分も、私は、聞けないのである。

私は言う。
滅びよと。
その唯一の神、もろとも、滅びるがよい。
イエスの死を、最大に利用して、最大に、人類を欺くもの、それは、イエスの名において、罪を許すという、彼らである。
彼らとは、偽のキリスト教徒である。

彼らの言う神は、妄想である。

救いとは何か。
それは、自然との共生、共感に他ならない。
他の理屈は、妄想である。
人類の救いは、宗教ではない。宗教的なものによって、救われる。それによって、自然との、共生、共感が行われる。

それをやまと言葉で、言えば
なにごとの おわしますかは しられども かたじけなさに なみだながれる
ということになる。

信仰は、知性と理性を嫌う。それは、信仰が知性と理性によって、暴かれるからである。
無知を、神や仏に棚上げして、惰眠を貪るのである。

もう一つ言うが、彼らの救いに乗れば、確実に、魔界に通じる。何故なら、それは、妄想だからである。

私は、自分の霊的感覚や、霊界に関する思いを、妄想であると、突き放している。
死ねば解ることを、今更であると、思っている。

人生は、実に、空しく、愚かしく、冗談に満ちている。
なんとなれば、この人生が、たった一度だからである。
後戻りなど出来ない、一度だけの人生だからである。転生輪廻によって、もう一度、生まれ変わって生まれても、今の、私には、ならないという絶望である。

はじめから、絶望の存在なのである。
言葉遊びをするのではない。
最初から、生まれた時から、絶望の存在なのである。
何を、恐れることがあろう。
すべては、絶望から始まっている。

絶望から出発したのである。
生きているだけでも、私は、特上だと思っている。

そして、もっと、最悪なことは、皆、死に向かって生きているということである。
絶望からの開放が、死なのである。
つまり、死は、救いとなるのである。

あらゆる人生の諸相は、ゲームであると得心すれば、生きられる。どんな絶望にあっても、生まれた以上の絶望は無い。この絶望を原罪などという、誤魔化しに、私は、一撃を食らわすのである。

私は、実に宗教的であり、信仰深い者である。
それを、知るからである。

神も仏も、この私には、適わないのである。
先祖も、私の一存で、縁を切る。
祟るような、先祖に用は無い。

新しい時代、新しい世紀は、宗教という妄想からの開放である。

2007年09月05日

キリストの絶唱44

安息日が終わったので、マグタラのマリア、ヤコブの母マリア、およびサロメは、香油を買った。イエスに塗りに行くためであった。そして週の第一日の朝早く、日が出るとすぐ、墓に行った。彼女たちは「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、顔をあげてみると、石はすでにわきへころがしてあった。それは非常に大きな石であった。

マルコの福音書、第16章である。

死体は、通常洗い清められるはずだったが、イエスの場合は、安息日が迫っていたため、洗い清められず、血みどろの死体を、もつ薬と香料とともに、白麻布に包んで葬った。
トリーノの聖堂に収められている聖骸布は、そのときのものだと言われる。

墓の中に入った彼女らは、右手のほうに衣をまとった若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。すると、若者は言った。「驚くことはありません。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのでしょうが、ここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい、ここがお納めた場所です。さあ行って、弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。「イエスはあなたがたより先にガリラヤに行かれます。かねて言っておられたとおり、そこで、あなたがたはイエスに会えるでしょう」と。婦人たちは墓を出て逃げ去った。我を失うほど恐れおののいていたからである。そして誰にも言わなかった。それは、恐ろしかったからである。

イエスの復活である。
キリスト教の最大の教義が、この復活である。

金曜の昼に死んで、月曜の朝には、復活していた。
三日後に復活すると言ったイエスである。

イエスの復活がなければ、その信仰は、空しいと、パウロが言う。

ここで、霊学より言う。
人が死ぬということは、肉体から、霊が出るということである。しかし、死後、その直後は、幽霊である。つまり、幽体を有する。肉体に似せた姿である。
中陰と仏教では言う、死後の直後の幽体である。まだ、この世から、完全に去っていない状態である。
キリスト教も、煉獄という、霊的空間を想像した。迷える霊のいる場所、空間である。それは、正しい。
それでは、イエスの復活とは、幽体の姿を見せたものであろうか。

墓にいた若者とは、誰か。
天使と言うであろう。

霊的能力の非常に高いイエスが、幽体のままでいると考えるのは、不自然なのである。
即座に、霊に変容したと言う方が正しい。
しかし、幽体のままでも、その姿を現すことは、簡単である。

私は、肉体のままに、現れたとは、言えないと言う。
それでは、その肉体は、どうしたのか。
墓の中には無かったという。
誰かが、持ち出したのか。違う。イエスは、肉体を消滅させたのである。

そして、墓にいた若者は、イエスであった。
幻を見せることは、簡単である。

ある、芸能人が、自殺した友人が、部屋に訪ねて来て、一緒に食卓で、お茶を飲んだという。まさに生きている時のようにである。
そして、言った。あなたの右脳に語り掛けていると。
右脳である。
右脳の後頭部は、魂の場所である。霊は、脳全体の側頭部にある。
霊は、光であるから、後光という光が射すのである。

翌朝、彼女は、死んだ友人が飲んだ、茶碗を確認した。夢ではないと。

その死の意味について、友人は語ったと言うのである。

私は、イエスが、復活したというのではなく、死後の世界を見せたと解釈する。

人は、死んでも、死なない存在なのである。

霊的存在になると、自由自在である。どのような姿にもなれる。ただし、この世に未練があればである。
実に、多くの人は、この世の未練を捨てる。
幽霊で残るというのは、余ほどの、捕らわれ、未練である。
ただし、時には、死後、死の苦痛により、気絶してしまい、この世で言う、眠るということになる。それが、目覚めるのは、人それぞれである。
中には、百年、二百年と、眠る場合もある。
目覚めて、祟ると、その子孫は、原因不明の、云々ということになる。
また、祟られる場合もそうである。

さて、復活を最大の教えとして、信仰を築くキリスト教であるが、霊学から見ると、特別なことではない。

イエスの最大の奇跡であるが、霊の世界を知る者には、当然であって、当然のことである。

ちなみに、仏陀は、その死後、姿を見せることがなかった。その必要が無いのである。

再度言う。
霊的存在になると、光の存在になり、光のみを見せる。
それは、青い光だったり、黄色だったりと、その人の好きな光を発する。
そして、それは、数秒である。
亡くなった直後に、霊体になった場合は、数分見せる場合もある。それは、昼間でもである。

イエスの復活の有様を書く、福音書は、そうであれとの願いを書いている。
弟子たちの中に現れて、皆、その姿を見たということも、正しい。そのようなことは、出来る。

私の知り合いで、祖母が亡くなり、家族で食事をしつつ、祖母の話をしていると、祖母の顔が、浮かんだという。
皆、それを見ている。皆に、見せたのである。
私は、在ると。

イエスの奇跡と同じように、弟子たちは、別次元に移行されていたのである。

ただ今、アメリカでは、量子力学の学者たちが、同じ場所で、別空間が存在するとの、証明を始めている。
まだ、翻訳されていないが、私の知り合いが、その書籍を取り寄せて、訳している。これから、私の手元にもくる。
それによると、同じ場所で、別次元が存在し、そこでは、多次元の生き物、人間、つまり霊的存在者が、生活、生きているとする。

それを、ある人は霊界と呼び始めているという。

数学では、楽々と、五次元の世界を説明している。
五次元とは、神と尊称される霊界の次元である。勿論、六、七、八次元が存在する。

日本上空には、八次元の霊界、高天原、タカアマハラ霊界が開けてある。勿論、その霊界は、世界で唯一である。
ヒマラヤ霊界も五次元までである。

何故、日本上空に、八次元の霊界が開けるのかは、人類の正しい太陽信仰を続けていたからである。
太陽を神と仰いできた民族の末裔である。
しかし、選民意識は無い。そんな程度のレベルの低い意識ではない。

2007年09月06日

キリストの絶唱45

復活したイエスの現れた記述が、マルコ第16章に書かれる。マルコの最後の場面である。

そののち、イエスはかれら十一人が食卓についているところに現れ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活した自分を見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスはかれらに仰せられた、「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を述べ伝えよ。信じて洗礼をうける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう。信じる者には次のようなしるしが伴う。かれらは、私の名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語る。へびをつかみ、毒を飲んでも、決して害を受けない。かれらが病人に手を置けば、その病人は回復する。」

まずこれは、彼らの願望である。
復活したという、願望が復活したという、信念に変わり、ついに、復活したイエスを描いたのである。

食卓についているところに現れたというのは、イエスの言葉、私の名において、二人以上が集えば、そこに私がいる、という言葉による。
実際、イエスの霊は、弟子たちの場にいたであろう。
そして、弟子たちが、自分たちの、信仰の薄いことを嘆く。
何度も、イエスから、言われた言葉、信仰薄い者たちよ、を思い出す。

そして、弟子たちは、イエスの言葉を反芻して、納得し、ついに、上記のイエスの言葉となる。
しかし、実に、この頃、すでにに教団としての活動の一歩が始まっていたことを、推測できる。
それは、洗礼である。
水による洗礼も、信じることで、変容するという考え方を持った。
当時は、洗礼など、多々あったからである。

イエスを信じる洗礼である。
しかし、主イエスは、水による洗礼ではなく、霊による洗礼と言った。それは、どんなことか。霊による、洗礼とは、古神道の禊である。
禊祓いである。
だが、ここで、キリスト教徒は、躓く。

ただ今の教会の洗礼は、水による洗礼であり、それを秘跡として扱う。
いくらアホが、水につかっても、アホである。
人間が変容するには、それ相応の経験と体験が必要である。
その人生経験を、霊による洗礼という。
信じて洗礼を受ける者は、救われる、と言うが、その救いが原罪からの救いというから、救いにならない。
救い、救いというが、誰も、救いの意味を知らない。
神学などは、妄想一辺倒のものであるから、一人相撲を取るようなものである。

救いとは、その妄想からの脱出である。

助けてくれ、と言うのは、助けて欲しい、問題が発生している時である。
神は、助けてくれると言っても、何をどう助けてくれるのかを、誰も知らない。
何からの救いかを、教会は、ハイ、原罪からの救いですというが、原罪自体、妄想の産物であるから、終わっている。
自分で盗みをして、自首して、自分で裁くような、滑稽な漫才のようなことをしていると、気づかないのである。

イエスの言葉と言うのは、弟子たちの願望である。
信じない者は罰せられる。つまり、ここで、教義の根本が出来上がっているのである。信じない者は、罰が与えられる。
イエスは、一度も、神の罰を言わない。
世の終わりの譬えの時だけ、罰に関する言葉があるのみ。罰に似たものである。

キリスト教徒の神の罰は、キリスト教徒のみに言える。だから、本当に、キリスト教徒は、注意すべきである。しかし、それ以外の宗教や、無神論の人には罰は当たらない。
日本では、罰の変わりに、祟るという神がいる。
罰と、祟りは違う。
罰は、自らが罰だと認めてなる。祟りは、降ってくる。突然、祟りがある。人生とは、そのようなものである。
罪と罰が、凄く好きなキリスト教であるから、何も言うことはないが、死ぬまでの暇つぶしには、ご苦労なことですと、言うしかない。

私の名によって悪霊を追い出し。
これが、キリスト教の最大の特徴である。
エクソシストという、悪魔祓い専門の司祭がいる。
悪魔、悪霊との戦いである。実に、戦いが好きな者たちである。
追い出しという観念には、悪いもの、嫌なものを、追い出すという、単純素朴、悪く言えば、稚拙、お馬鹿である。
霊を追い出して、それで、めでたしめでたしだと、解決には、なにらない。
キリスト教の中に、悪魔や悪霊の場所はない。
これが、仏教系や、我が神道系ならば、必ず、その場所を定める。
仏教では、地獄とかである。そこが、仏教の愚かなところであるが、まあ、地獄を悪魔の場所と定めるから、まだいい。魔界というものを、知らないのである。
神道では、荒ぶる神として、祀る。その場所を設ける。
ちなみに、東南アジアなどでは、仏教と、精霊信仰が交じり、小さな悪魔、悪霊の祠を用意する。そして、そこに、水や花を置く。
タイでは、ピーという霊の祠が、至るところにある。
バリ島では、道端に、花や食べ物をのせた葉を置き、祈る。
皆々、浮遊霊の場所になっているが、あれは、良いことである。その存在を認められているという霊に安心感を与えることにより、あまり、変な悪さをしない。

悪霊を追い出して、どうする。その悪霊は、どこへ行く。
キリスト教は、未だに、この問題の解決をしていない。
対立の思想は、ここでも始まっている。
聖書は、実に対立の思想である。愛の思想を言うイエスも、矢張り、敵というものを想定したのである。
敵を愛せよと、敵を想定している。
これが、仏陀になると、敵はいない。想定しない。

今、キリスト教徒が、へびをつかみ、毒を飲めば、害を受けて倒れる。
かれらが病人に手を置けば、その病人は死ぬ。

このマルコの復活のイエスの言葉は、弟子たちが、頭の悪い弟子たちが、一生懸命に考えて、主イエスなら、こういうであろうということを、言葉にして確認したのである。
勿論、イエスは、その場に霊としていた。
そして、呟いた、信仰薄い者たちよ、と。私の言葉で言えば、頭の悪い者たちよ、になる。

この福音には、その後の記述あるものもある。しかし、私は、それを紹介しない。
聖書の言葉は、あまりに漠然として、捕らえどころなく、混乱するからである。
例えば、私は道であり、真理であり、命である。と、主イエスが言うが、それ一つとして、明確なものはない。どうでも、解釈出来るのである。
道であり、真理であり、命である。
どうすればいいのか、この解釈を。
それをキリスト教は、すべてのすべて、とか、全知全能とか、永遠の永遠とか、しまいに、言葉に出来ない、神の偉大さ等々、皆、言葉にしているではないか。

仏陀もイエスも書き物を残さなかった。何故か。書き物によって、その言葉の意味を探ることに始終し、現実を生きないからである。

無益な議論に始終して、耕しも、捕ることもせず、人の物を貰って、のうのうとして生きるのである。
総称として、宗教家と言われる。
イエスは、彼らを、偽善者であると、言い切った。
モルモン教という、キリスト教新派があるが、教祖は、妄想により、アメリカの始まりを経典として書いた。嘘八百であるが、それを奉じる州があり、大統領まで出そうという勢いである。
単なる創作の夢物語を経典にするという仰天であるが、モルモン教徒は、真剣である。
しかし、聖書も、それに劣らず、である。

ここで、はっきりさせるが、経典というものは、文学である。それ以下でも、以上でもない。信徒は、その経典の信者である。
虫は、人間をどのように認識しているか。
次元の高い世界を、人間は、虫に劣らず認識できない。別次元のことを、この世の言葉にできない。ゆえに、高い次元を知るものは、書き物を残さない。残せば、嘘になるからである。

何でも経典にすることが出来るのである。
兎に角、人間は迷い、苦しみ、呻きたいのである。
それで、人生の本当の苦しみを忘れるという、アホなことをして、死ぬ。
ご苦労サンです。

2007年09月08日

キリストの絶唱・最後

キリストの絶唱と題して、勝手気ままなことを書いた。
しかし、終わりにする。

そこで、最後に当たって言う。
私の友人には、キリスト教徒、特にカトリック信者が多い。シスターもいる。修道院長をしている友人もいる。
その彼らは、私のエッセイを呼んでいる可能性は、大である。しかし、私たちの友情は、これによって、損なわれることはない。

大半は、一つの宗教団体を批判すると、その信者は、私に近づくことをしない。
その程度の信仰なのである。

何度も言うが、私は、信徒に対して、批判する者ではない。信仰は、極めて個人的な情緒であり、それを何人も、侵してはならないのである。

私は、小学四年生から、聖書に親しみ、中学生の頃は、聖書を諳んじていた。今は、すべて忘れている。
実に、多くを聖書から学んだ。その訳の、最悪さが、私の文章の元になっているから、私の文章作法も、最悪である。

すべての学問を身に着けることは、出来ないが、最低、人間としてのお勉強を、私は、宗教を学ぶことで、為してきた。
それは、実に有意義だった。
宗教とは、学ぶに足る妄想である。

さて、日本の宗教という観念は、鎌倉仏教による。
法然、親鸞、道元、日蓮の、書いたものを読めば、日本語の、新しい日本語の格調の高さが知れる。
彼らの思想は、欧米の思想を凌駕する。
それは、一つ日本語の能力にある。
その一行を解釈するに、欧米の言葉では、膨大なものになる。

彼らの日本語の、その大元は、お歌である。万葉集に代表される歌の言葉である。

31シラブルによる、つまり、音による、言葉の組み合わせ。
音の組み合わせは、日本語にしかない。
漢字などは、独立語であるから、一文字に、多くの意味がある。が、今、漢字の文化は、日本によって、花開いている。

また日本語には、一音に意味がある。

さて、この2000年、聖書は、多くの人に、誇大妄想を与え続けてきた。
私は、今、その流れに一石を投じる。もはや、聖書の世界では、世界は成り立たないのである。
進化したのである。

とは言え、日本人の知能指数が、低下していることは、否めない。
それは、テレビ文化による。
テレビは、思考力を低下させる、最もたるものである。
日本人は、テレビに占領されて、その心も占領されて、後は、衰退の一途を辿るのみ。

いやいや、もう無駄口をやめて、まとめる。

あらゆるキリスト教系の宗教は、百害あって一理無しである。
そこまで、極端に言うことはないだろうが、言う。
神学は、ギリシャ哲学から抜け出てなく、そして、ギリシャ哲学より、レベルが低いということである。
西洋の思想は、神との戦いであるというが、無いものと戦っても、詮無いこと。
姿の無いものに戦いを挑んでも、詮無いこと。
自己の観念との戦いに疲れ果てた姿が、西洋思想の、それである。

あの、ニーチェでさえ、神は死んだと、神と言う観念から、抜けられなかった。

宗教的天才は、新しい観念を生み出すのである。
神や仏に対決する、新しい観念を生み出すのである。

聖書が翻訳されてから、神という言葉の観念が定着した。
しかし、日本では、神明と言った。
仏法に惑わず、神明を尊びである。
日本の神は、上であり、守であり、集団をまとめるものを、カミと呼んだ。
日本のカミは、そのようものである。神明のみである。
シンメイと読めば、漢語である。かみのあかり、と読めば、大和言葉である。
神という実体は無いが、その明かりは、ある。神の如くのもの、である。

つまり、明かりを求めて生きるものであるということである。それは、自然界と同じである。自然以外のもの、超自然と言われるものの存在も、無くてよいのである。自然が、人間の上や、守を超えたものであった。
それの総称が太陽である。

太陽は、光り輝く。
それで善しとした。

浪花のことは、夢のまた夢なのである。
後は、野となれ山となれ。
ここに、神学の入り込む余地はない。

天地創造の神とは、人間の願いである。
唯一の神とは、人間の願いである。
その願望が、信念となり、そして、目の前に妄想を広げる。

しかし、再度言う。
信仰とは、個人的な極めて個人的な情緒である。
私は、それを否定しない。

おしまい。

追伸。
私はカトリック教徒として、多くの司祭、プロテスタントの牧師に会っている。
中には、実に素晴らしい方がいた。
それは、人間としての魅力としての、素晴らしさである。
キリスト教徒としては、皆々、最低最悪であった。
つまり、彼らは、イエスキリストを対立したものとして、捕らえ、そのイエスに対する信仰を説くのである。
嘘である。

何度も言うが、イエスを信じるということは、イエスになるとというこである。
つまり、言葉の世界を超えて行動するということである。

イエスにならない者の言葉を、いくら聞いても、詮無いことである。

それでは、私は、どうなのかといえば、唯一、私の知る限り、イエスになろうとした者である。しかし、それは大きくの誤解や、蔑みを生む。
しまいに、異端とされる。
要するに、キリスト教である。
つまり、教義の上のキリスト教である。

今、イエスキリストが存在したならば、キリスト教徒に、殺されること、必至である。

キリスト教徒とは、そういうものである。

お解りか、アホな、キリスト教徒。
イエスは、言う。
主よ主よというものが、天の国に入るのではない。
父のみ旨を行う者が、天の国に入るのである。

何度、イエスが言うか。

父のみ旨とは、何か。
敵を愛することである。
キリスト教発生から、敵を愛したキリスト教徒は、いたか。

全世界に、キリスト教の妄想を広め、主イエスが言うように、剣を世界に、撒き散らしたのである。
お解りか、アホなキリスト教徒よ。

ローマ法王は、億単位の人を、主の名において殺した。
それでも、主イエスというのか。
さあ、私の前に出よ。
そして、申し開きをせよ。
私が取り次げば、主イエスは、聞かれる。

キリスト教の神は、妄想である。

ナザレのイエスは実存した。
諸国を流浪し、心根の優しい、そして、強い性格であった。
今と同じように、当時の宗教家の偽善を許せず、自分一人が犠牲になれば、少しは、何とかなると考えた。
そして、神の子となるべく、決心した。
その第一声は
悔い改めよ
神の国は
近づいた。
である。

これを、理解できる者は、キリスト教徒であることを止める。

キリスト教というものには、主イエスが不在だからである。

さあ、親兄弟を捨てて、父のみ旨を果たすべきである。

すべての財産を捨てて、私に従え。
主イエスは、今も、そう言う。

しかし、誰か、それを為す人がいるか。
ああ、インドのマザーテレサか。
違う。
マザーテレサは、この世の報いを受けたのである。
何と無ければ、聖人として崇められる。

主イエスは、盗人のように、磔られたのである。

主イエスの愛に泣く人よ。
すぐ傍にいる、敵を愛してみよ。
唾棄すべき、敵を愛してみよ。

戦後、アメリカ兵に体を売って、家族兄弟姉妹を養っていた者、女に、キリスト教徒は、適わない。その足元にも、及ばない。

実に、この世の最低最悪の存在、キリスト教徒である。

さあ、この私の前に出よ。
その体の奥に、その後ろにあるものを、透かして見よう。

堂々として、私の前に、キリスト教徒であると言うがよい。

私は、イエスになれず、何と、誇大妄想ばりの、霊的能力を得たのである。

呪われた農水省

国の最も根幹となす、省庁は、農林水産省である。
その大臣が、続けて、解任、辞任するという事態は、実に、ゆゆしきことである。

更に、今回は、四日間の間に、大臣と、次官が辞任するという事態に、見舞われた。

大いに誤解されること、必至であるが言う。

安倍内閣は、伊勢神宮にて、清め祓いをするべきである。

国の農林水産が低迷すれば、国力が削がれる。
日本は、それにより成り立っている国である。認識が甘い。
国の生命線である。

呪われた、農林水産省を、清めるべきである。
そのためには、皇祖皇宗の天照大神に、祝詞を唱えて、弥栄をもたらさなければ、ならない。
天皇は、神であるから、祝詞は、唱えない。
天皇は、言葉を発する。つまり、詔である。
天皇は、祭司であるが、無力の存在である。
無力の存在の、その価値は、ただ、その天皇霊にある。

ここで、アホは、天皇は人間だというだろう。
その通り、天皇は、人間がその地位につく。
しかし、天皇という存在は、神である。人間天皇と、地位としての天皇は、別物である。
役者が役になる時だけ、役者であるように、天皇も、ある時のみ、神に成る。

天皇の位は、伊勢神宮と同じである。

そうそう、神という言葉を使うと、あの、一神教の神を連想するのであった。違う。日本の神は、上であり、守である。
皆を束ねるという、者、その尊称を神という。

ホント、いちいち、面倒である。西洋の思想に、侵されて、神観念も、へんちくりん、になった。

さて、清め祓いを行い、安倍内閣は、進むべきである。

政治も人間のすることである。
当然、誤りも、生ずる。
そこで、最も大切なことは、謙虚である。そのための、清め祓いをすること。
それは、自民党でなければ、できない。
他の政党は、そんな心の器が無い。
日本人であるのか、他国人であるのか、解らないような者、多数。

アメリカ大統領が、戦死者の追悼に教会に出掛けても、何も言われない。しかし、日本だけが、戦没者をお祭する、靖国神社に出掛けると、批判を受ける。それは、中国や、韓国のみではなく、国内からもである。
こんな、狂っている国は無い。

そして言う。A級戦犯云々と。
それでは、多くの国で、戦争を起こした者に対しては、どうしているのか、言えと、私は言う。

日本だけが、どうして、戦争を起こした者が、云々されるのか。
どこの国でも、戦争を起こした者がいる。

勿論、心得違いや、邪まな心の者がいるから、それは、それでいい。
そういう者は、叩いても解らないし、殺しても解らないから、放っておくに限る。

自民党が支持されるのは、器が大きいからである。
民主党は、どうだ。
共産党、社民党は、言うに及ばす。
公明党は、日蓮仏法を掲げるから、また、話にならない。

伊勢神宮に行くことが出来るのは、自民党のみである。
清濁併せ呑むからである。
それが、不明金という問題も起こすから、マイナスの面が全面に出て、支持率を下げる。
多くの要職につけば、当然、全体を見渡すのが、難しくなる。しかし、時代に合わせて、金銭問題は、しっかりとするべきだ。

大臣級だから、目立つだけで、野党にも、探偵事務所を雇い、調べると、続々と、金銭問題から、色事問題まで出る。
組合系から出た議員は、もっと、とんでもない問題もある。

さて、伊勢神宮のことである。
全国の神社仏閣、教会、等々の宗教施設を、見回して、これ程、真っ当な国の、お宮は無い。
出雲大社にも、出掛けたが、伊勢神宮とは、月とスッポンである。

伊勢神宮だけは、飛びぬけている。というか。存在の有り様が違うのである。

清めは、出来るが、祓いは、伊勢神宮だけが出来る。
外宮ではない。内宮のみである。
内宮以外は、気分転換である。

そうそうに、伊勢神宮に参るのみである。

と言っても、詮無いことだと知っている。
知らない者に、知れと言っても、詮無いこと。
意識の無い者に、意識せよと言っても、詮無いこと。

大臣の認証式を天皇陛下の、御前にて行うのは、意味がある。
その天皇陛下の御前にての、認証を無碍にしてしまう者は、大変、辛いことであるが、即座に、霊界に入ることは出来ない。
それならば、大臣などにならず、一般人でいる方が易い。

伝統とは、想念を作ることを言う。
仏教を信じていた先祖は、仏教という想念があるから、死後も、仏教の想念の世界に行く。また、子孫にも、それを望む。
勿論、想念とは、妄想である。
しかし、この人生も、想念のものである。
妄想である。

無いものを、妄想するのである。
仏教の無の思想は、ここから出たものである。
実は、すべては、妄想、すなわち、無であるということになる。

しかし、それでも、妄想に生きるゆえに、伝統の妄想に、身を入れることが必要になる。

意味不明に思えるだろうが、次元の違う話は、このように、意味不明になるのである。

兎に角、呪われた、農林水産省の清め祓いを、お勧めする。

真っ当な日本人なら、私の言うことは解る。
昔から、良いと言われていることをする。それが最善のことである。
先のことは、見えないから、なおさらのことである。

日本人は、あまりに不祥事が起こると、厄払いをするのである。
まして、国の中枢の者である。
伊勢神宮でなければ、解決できない。

2007年09月09日

弁護

山口県光市の母子殺人事件の裁判である。
当時、18歳の少年が、殺害後に、23歳の妻を犯した。
現在26歳である。

その弁護団に、橋下弁護士という者が、マスコミで、弁護人の懲戒請求を求めた。
それに対して、弁護団の4人から、損害賠償請求訴訟を起こされた。

橋下弁護士は、弁護団は、1.2審で争わなかった犯行態様について、差し戻し審で、新しい主張を始め、主張を変えた理由を、遺族や社会に説明していないというものである。
さらに、弁護団は、最高裁の弁護を、日本弁護士連合会の模擬裁判のリハーサルという理由で欠席したことを、謝罪しないという。

弁護士の信用を失わせ、品位をおとめしているというものである。

さて、この弁護団は、死刑廃止の論者だという。

被告の弁護をするというのは、憲法に保障された人権の有り様である。
上記の少年は、死刑に相当する。
しかし、少年の口述を、更に、推し進めて、新たな口述を良しとした。

例えば、犯した行為を、生き返るだの、押入れに入れたら、ドラエモンが云々だのという話である。
要は、少年の未熟さを、情状酌量にすることを、言うのであろうろ。

私は、加害者の人権を認める者だが、それ以上に、被害者、そして、遺族の人権も認める。

少年の犯罪は、極刑である、死刑に相当する。問答無用である。

被害者の夫である方も言うが、法律が為さなければ、自分が手を下すと言った。最もである。彼の犯行は、許されることではない。
それが、どのように、未熟だといっても、許されないことは、ある。

更正。
これが、問題である。

更正の余地ありと、認めると、減刑される。

少年犯罪で、更正の余地ありと認められた、少年院を出た、もう青年のお勉強を見て欲しいと頼まれた人の相談を受けた。
その事件は、極悪非道の事件であった。
私は、引き受けるように言ったが、結果は、あまりの、非道さの事件であり、遺族のことを思うと、引き受けられないという結論である。
その人は、言った。
しかるべき、償いをすべきであり、真っ当に教育を望むこと自体が、おかしいと。

少年犯罪の問題である。
どこまでが、少年として許されるか、である。
もし、大人が、つまり、少年でない者が犯せば、死刑である事件でも、少年であるということで、減刑されるという。
理想論を語る人には、更正という言葉が生きるが、遺族や、親族、そして、私のような者には、通用しない。

やったことは、償うべきである。

社会は、宗教の世界ではない。
許すことによって、許される、などという、アホなことを言っていては、社会が成り立たない。
また、更正という、欺瞞である。

勿論、更正という行為によって、真人間になるという、ことはある。
そういう人も、多く知っている。
しかし、事件の有り様、その事件の社会的影響を考えれば、死刑を求刑すべきものもある。
人間にあらずの行為、事件を犯した者は、少年であっても、死刑である。

命を、命で、償うこと。これに尽きる。

理想を為すには、人間が成熟し、それ相応に、成長していなければならない。
今、時代は、そんな時代ではない。

あまりにも、未熟で、未成長である。
ゆえに、死刑を求める。

何人も人を殺してはならないという、理想論は理解する。ゆえに、死刑廃止にも、理解を示すが、それには、人間の質が問題である。
社会性の意識が低い者は、死刑制度がなければ、極悪事件を簡単に起こすのである。

死刑という檻を設けないと、無法地帯になるのである。

かけた情けの枝で死ぬ、ことになる。
死刑廃止にするほど、人間は成長していないのである。

アホな日本人

嫉妬と、やっかみの強い日本人というものは、どこにでもいるようです。

タイ・チェンマイ公演での、ギター伴奏をお願いした、Aさんが、周囲の皆に、出演を止められて、結局、無いことになりました。

勿論、私は、やりますが・・・

結局、長期滞在の、暇人たちが、Aさんの出演を阻止したということです。
その訳は、周囲の友人たち、長期滞在の、アホな日本人たちですが、皆々、誰一人、やったら良いと言わず、止めたというから、驚く。

その理由は、お金を取るからだという。
これは、チャリティであり、一部をに日本の現地法人慧燈財団に寄付するというもの。
この財団は、日本語学校を開校し、戦没者の遺骨収集を行い、里親制を作り、タイの高校生を支援している。

この、一部を寄付するというが、気に入らないらしい。
全額寄付としても、いいのだが、ホール代金等の経費を引いた、全額であるから、担当の者が、真っ当に、一部と表記したのである。

オフィスtw2は、妖しい事務所だと言う。
何で妖しいのかではなく、単に、妖しいと言うのみ。

真っ当であれば、影が無いゆえ、見るものが、妖しいと、妖しく見えるのである。
つまり、自分を写すからである。
木村天山は、怪しいという者も、それは、自分の姿を写して言う。

オフィスtw2は、コンサート、セミナーを開催しているのみで、何の妖しさもない。

要するに、やって欲しくないのだ。
A氏にも、目だって欲しくない。

その彼らのやっていることは、暇な任せて、女を買い、そう売春である。とっかえひっかえ、女を買う。酒を飲んで、何やら、金持気取りでいる。
日本では、決して、金持ちの生活が出来ないが、チェンマイでは、金持ちに似せたような、気分で、生活出来るのである。しかし、根は、貧乏人である。話にならない。
ホント、アホである。

ちなみに、慧燈財団からは、成功を祈るの、メッセージを得ている。
なにかをやる人は、やる人のことを、理解できるのである。
やらない人は、嫉妬とやっかみに、狂う。

タイ人は、無料である。
日本人には、寄付をしてもらう。
それは、慧燈財代の建てた、慰霊碑の管理に、役立ててもらうためである。

これから、コンサートを、きっかけにして、様々な活動を考えている。
慧燈財団が手の届かない、タイ北部の、ミャンマー国境地帯の少数部族の人たちの付き合いをし、支援をしたいと考えている。
特に、就学出来ない子供たちに、支援をしたいと思っている。

また、日本人の遺骨を集めて、大切にしている現地の人に、何か報いたいと思うのである。

このことにより、日本人の長期滞在者も、アホがいるということがわかったので、日本人であるということだけでは、信用しないことにした。

周りの日本人が、応援してくれないと、A氏は、チェンマイにいるので、無理に誘えないのである。

要するに、どこの場所にあっても、日本人のグループがあり、それらが、皆、それぞれの足を引っ張るということである。

それとは、別に、バリ島では、私の日本セミナーの開催を待つ日本人の皆様がいる。
すでに、現地で活動している人からは、支援のメッセージが届いている。

タイ・チェンマイのイメージは、安く女を買えるということなのであろう。これが、日本人の、40,50代のアホな、男たちを、滞在させる、唯一の、目的になっている。

反吐が出る。


2007年09月10日

世界は悪い方向へ向かっている

世界は、確実に悪い方へと進んでいる。

ドイツで、今月4日に、発覚した、大規模爆破テロ未遂事件で逮捕された3人のうち、2人が、イスラム教に改宗した、ドイツ人だったという。

イギリステロ未遂も、そうであった。

テロの、裾野が広がっている。
EUも、対テロ強化に乗り出した。

ドイツは、カトリック、そして、ルターを出したプロテスタントの国である。
つまり、キリスト教国である。

ドイツの昨年のイスラム改宗者は、約4,000人という。これは、2005年の4倍であるというから、驚く。
何ゆえの、改宗なのか。

一つの神を捨てると、もう一つの神を必要とするのは、人間の普遍的とも言える、蒙昧である。

イスラムには、独特の魅力がある。
それは、キリスト教、ユダヤ教にないものである。
つまり、信仰は、神と私の関係なのであるということを、全面に打ち出す。
司祭は、いない。
宗教指導者はいるが、カトリック、プロテスタントの教会と違い、縦割りの組織は無い。
教会に、雁字搦めにされている、キリスト教徒には、魅力的に見えるのであろう。

不透明な時代に、明確に、アッラーのみが、神である。
そして、曖昧ではない、規律と、教えと、強制である。

しかし、そいう人が多くなれば、対立の激化を生むことは、必至である。

異教徒は、殺せというのである。

つまり、イスラム以外の人間は、殺してもいいのである。
こんな、危険な思想は、無い。
しかし、キリスト教徒は、神の名の元に、億単位の人を殺した。
政治による殺人の、数十倍もの、人の命を奪った。

その反省を、まだ、キリスト教会は、行っていない。
それのみか、今も、続けられているということである。

世界は、確実に、宗教対立の戦争へと、向かっている。
国と国ではない。
宗教と宗教である。

そして、悪の方が強いというのが、この世の現実である。

大規模テロの計画は、終わらない。

寝ぼけた日本人には、到底理解できない、世界の状況である。

イスラムとの対話を、どのようにしてゆくのか。
真剣に、考える時である。
そのためにも、イスラムを知ることなのであるが、日本は、崩壊に向かって、邁進している。そのことさえにも、気づいている人は、ほんの僅かであるから、イスラムなんて、ずーっと遠いところの、お話だと、思っているのである。

私の書いた、イスラムを読めば、最低限、イスラムのことが解る。

もののあわれについて86

稲つけば かかる吾が手を 今夜もか 殿の若子が 取りて嘆かむ
いねつけば かかるわがてを こよいもか とののわくごが とりてなげかん

稲をつくので、こんなに荒れてしまった手。今夜、お屋敷の若様が、それを見て、嘆くだろう。

下女、奴婢として働いている少女が、屋敷の息子に愛されている。叶わぬ恋であるが、少女には、命の燃える恋である。
悲恋という関係が、多くの人の心を動かし、残った歌である。

吾が面の 忘れむ時は 国はふり 峰に立つ雲を 見つつ偲はせ
わがおもの わすれんしだは くにはふり みねにたつくもを みつつしのばせ

あなたが旅先で、私の顔を忘れそうになったら、国いっぱいに広がる雲の峰を見て、私を偲んでください。

旅の無事を祈る歌である。
峰に立つ雲、というのが、いい。

仏教伝来によって、この万葉の心が、狭く解釈され、余計な観念が与えられた。
雲を心の濁り、塵だとして、仏の慈悲を月の光に見立てるのである。
この観念より、月は、仏の光と限定されて、今に至る。

小理屈、屁理屈の仏教思想が、万葉の心を無碍にしたといえる。

心に雲がかかると、仏の慈悲が見えずに、云々と、したり顔で言う僧たちの、堕落は、甚だしい。
どんなに精進しても、仏教の観念の内から、逃れられないのであるから、困ったものである。
白鼠が、クルクルと回っているようなものである。

南都の仏教は、いわば、大乗の初期の仏教であり、それは、国家的精神的支柱としたものである。
そして、天台、真言の、最澄と、空海は、それぞれ、優秀な者の仏教である。お勉強が出来た仏教である。最澄の天台が、今の日本仏教の根本精神になっている。すなわち、悉皆仏性である。皆々、仏性を宿している。全ての人が救われる、仏になれるというものである。
ここから、生ぬるい仏教が、始まり、鎌倉仏教に至っては、仏教とは、名ばかりの思想に堕落した。
勿論、文学としては、耐ええるものだが、宗教としては、三文の値打ちである。

仏教の教学とは、滅茶苦茶なものである。
妄想を積み上げて行くのであるから、いくらでも、生成発展する。しかし、所詮は妄想である。
念仏の浄土宗は、中国浄土宗の流れを汲む。勿論、禅も、そうである。中国思想である。
題目の日蓮は、法然の念仏からヒントを得ての、題目である。題目を上げて、云々というのは、自力というが、法然の他力と、違わない。根は、同じところから出る。
空海の真言は、最低である。インド、バラモンの呪詛を元に、壮大な妄想を描いたのである。曼荼羅。なんという、魔であろうか。あれを、凄い凄いという者、多数。解らないからである。

宇宙の真理を図にするというから、それは、図に乗るだけの行為であると言う。
証券会社の株取引や、資産運用のお勧めではないだろうが。
あれを、真っ当に拝んでいると、チベットのように、国を奪われる。

勿論、美術としては、認める。否定はしない。
宗教とするところに、妖しさを感じるのである。
手品のように扱うから、笑うのである。

もう一つ、言う。
一つの経典を取り出し、宗派を興すのは、勝手なことであるが、それが、仏陀の教えではないということである。
それでは、仏陀の教えはというと、ダンマパダである。
しかし、寝ぼけたような言葉の羅列である。それを、ご丁寧に、解釈するという。何とでも、解釈できるのである。
そして、言うが、仏陀は、書き物を一切残していない。
つまり、教えは、書くことが出来ないと、知っていた。
つまり、真実があれば、それを書くのではなく、行為行動するということである。
いかに、僧侶たちの、説教というものが、嘘か、解る。

膨大な書を残した宗教家は、文学者であり、小説家の程度と、考えていれば、間違いない。あれらは、小説なのである。
小説とは、人間の迷いの嘘八百を描くものである。
これくらい言うと、少しは、解るであろう。

本物の宗教的有様は、伊勢神宮の様にある。
何も無い。
教祖も、教義も、大伽藍も無い。
無い無いづくしである。
あるのは、天照大神のお住まいである、掘っ立て小屋、高床式の小屋である。神明造というが、小屋に変わりなし。
そして、ご神体といえば、鏡。
うすら、煤けた鏡である。
この世の価値は、皆無である。
自然の有様を、そのままに、最低限の手の入れようである。
あれでいい。

私が仰天したのが、龍の宮である。
注連縄を張り、その中に、石が積み上げてある。
盗もうと思えば、一つや二つ、すぐに手にすることが出来る。しかし、あんなもの、何の価値もない。
石ころである。
それを、そのままに、龍の宮というから、仰天する。

あれでいい。

妄想に染まりきって、生き死にを繰り返すならば、石ころの方が易い。

仏教を、お勉強すれば、輪廻から抜けるというより、輪廻から、抜けられなくなる。それを、知らないから、哀れである。
もののあわれ、ではない。
単なる、哀れである。

余計な知恵は、人間が、ずるくなるだけで、救いなど、ある訳が無い。

念仏を唱えて救われるなら、あいうえお、を唱えて救われた方が易いのである。
阿弥陀と縁をするより、あいうえお様と、縁をする方が実によい。
経典に帰依する、南無妙法蓮