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2007年10月 アーカイブ

2007年10月01日

もののあわれについて96

防人の歌を読んできたが、今度は、それを、見送る妻の歌を読む。

草枕 旅行く夫なが 丸寝せば 家なるわれは 紐解かず寝む
くさまくら たびゆくせなが まるねせば いえなるわれは ひもとかずねむ

妻クラ橋部刀自売 めくらはしべの とじめ

丸寝とは、ごろ寝である。

草を枕の不自由な旅を続けている夫は、夜ごと、着の身着のままに、窮屈に寝ているだろう。それを思えば、私も、家で着物の紐を解かずに寝て、夫を思います。

夫の苦労を思えば、云々。
これ以上の説明は、いらない。
今でも、それは、変わらないだろう。
結婚をしない男女が増えたという。
人生の同行者を必要としないのである。
つまり、愛情の機微を知らない者なのである。
すべて、何がしかの計算をしての、結婚である。情熱に任せた、結婚などは、できない。

合理的ということが、幸福には、結びつかない。
計算出来ない、人の心の機微というものがある。

相手のすべてを理解し、納得して、結婚するだろうか。
相手の人柄の、行間を読むのである。

私の文章は、行間を読むことに価値がある。
この、行間を、大和言葉で、たゆたう、という。

欧米人が嫌う、たゆたう心である。
説明不明の言葉である。
日本人の感性でなければ、解らないもの。

私の文章を、行間と、省略が多い文章で、云々と批判した、欧米の論理の好きな者がいたが、人生を、すべて、語りきるのであろう。
私は、そんな者には、なれない。

語りきるということの嘘を知らない。

政治家の演説ではない。
語りきり、説明し切って、安心するという、野蛮な心を持たない。
割り切れない。説明し切れないものがあると知って、人を追い詰めることを、しない。
ここに、風情というものがある。

どんな悪人にも、一分の逃げ道を用意するという、大和心である。

自分の苦労苦難を理解している者がいると思えば、人は生きられる。
男を生かしてきたのは、その女の心である。
男と女の溝を埋めたものとは、たゆたう心なのである。

愛情の形を、行為にしてきた、日本民族の素晴らしいさがある。

さり気ない行為をこそ、貴んできた。

心の内を、出来る限り、目立たすこと無く、密やかに。それを、奥床しいという。
奥床しいとは、抑制の美である。

それが、物理的に狭いと思われる空間にも、無限の空間を生じさせた。
それが、もののあわれ、である。

男女の心の機微にある、抑制の美を、もののあわれ、という。

家なるわれは 紐解かず寝む

これは、人生唯一の歌である可能性がある。
夫が無事に戻った時、その妻は、何と言って夫を迎えたか。
おかえりなさい
それである。
その言葉に、万感の思いを込めて、おかえりなさい、という。

万感の思いを込めて、さようなら、と言えるか。

私の父が、その母の棺に、一言、さようなら、と言った。
はじめて、父の、そんな言葉を聞いた。
人生で、父の、さようなら、という言葉をはじめて聞いた。

母を引き取り、最後まで、面倒を見た父の、万感の思いの言葉であった。
するべきことを、すべてした後の、万感の言葉であった。
それで、善し。
言うことも無い。

人は、行為によって、成る者に成るとは、仏陀の言葉である。

行為以外の何物も、行為の前では、無いものと同じである。

同情するなら、金をくれ、である。

2007年10月02日

もののあわれについて97

防人の歌の最後は、夫婦の歌である。
夫、妻、それぞれの歌を紹介する。

家ろには 葦火焚けども 住み好けを 筑紫に至りて 恋しけもはも
いはろには あしぶたけども すみすけを つくしにいたりて ひふしけもはも

橘樹部郡上丁物部真根 たちばなのこほりかみつよぼろ もののべのまね

家、いはは、いへの方言。
葦火とは、枯れた葦を燃やす。
橘樹郡は、現在の神奈川県川崎市。
住み好けは、住み好きの方言。
恋しけは、恋しくの、方言。
もはもは、もはむの、方言。

我が家では、葦火を焚くので、煤けているけれども、どんなにか、心地がよいか。筑紫に行って、つくづくと、この家を恋ししく、思い出すだろう。

煤けているのが、恋しいのではない。
真根の妻の歌を読めば解る。

その前に、方言の話である。
中央から、外れるに従って、方言というものが出来るが、実は、現在の方言は、昔の中央の言葉であったといえる。
つまり、列島の外れになればなるほど、昔の言葉を使用しているということだ。
現在の方言が、昔の標準語だったということである。

青森。
食べなさいを、ケと言う。
例えば、何処へは、どっさ、あっちにを、あっさと言う。
「どっさ」
「あっさ」
それで、通じる。
私を、ワと言う。
お前を、ワレという土地もある。

一音に意味があると、何度も言うが、日本語には、一音にすべて意味がある。

きイみイがアよオはア
君が代は
実は、この言葉の一音を分析すると、実に有意義なのだ。
しかし、省略する。
ただ、歌う場合のことを言う。

きイみイがア アよオはア
と歌う。
がア、アよオはア
と歌う。
子音を母音に帰して、言葉が成る。
アは、わアに通じる。
アも、わアも、吾である。

イとは、人間のことである。
君が代はの、中には、イと、私のアと、オがある。
オは、送る言葉である。

私と他者との、間に送るものとは、何か。
実に、大和言葉は楽しい。
これを、人に教えるつもりはない。

子音から、母音に帰るということの、脳の働きを研究した学者がいる。
実に、有意義な研究であり、今も、その研究成果が破られていない。
日本人が、虫の音などの自然の音を楽しめるのは、脳の働きなのである。欧米人は、雑音として聴く、ということが、よく解る。
これも、省略する。

妻の歌。

草枕 旅の丸寝の 紐絶えば あが手とつけろ これの針持し
くさまくら たびのまるねの ひもたえば あがてとつけろ これのはるもし

あが手とつけろ
私の手と思ってという意味。
つけろは、つけよの、方言。
針持し
はるは、はりの方言。
持しは、持ちの、方言。

草を枕の、窮屈なごろ寝で、衣服の紐が切れたら、私の手だと思い、これで、直してくださいね。この針を持って。

針と、糸を包んで、夫に渡す妻である。

真根の心地よさの秘密は、この妻の存在なのである。
煤けた家にいる、妻の優しい存在なのである。

紐が切れたら、黙って、繕う妻の存在なのである。

女、母。
いつも、黙って、三度三度の食事を用意する。
ある作家は、そんな母の後姿を見て、生きるということの、現実を知ったという。
そして、母が、食事の用意をしているのを見て、いつも、安心したという。

当たり前のことに中にある、真実である。

当たり前は、当たり前である。それも、当たり前である。
その、当たり前に、現実を観る時、生きるということが、少し観える。
しょうもない人生である。
誰の冗談かしらないが、ここにこうして生きているのである。

ホント、人生とは、悪い冗談である。

私は、大伴家持に、感謝する。
彼によって、こうして、万葉の時代の庶民の歌が読めるのである。
ホント、大伴家持に、感謝状を贈る。
アンタは、エライ。

防人の歌の、ほんの一部を紹介した。
興味のある方は、自分で、万葉集を読むべきである。

理屈を言うな。
万葉集を読め。
人間に大差ないことが解る。
あの時代から、人間が、少しでも、変わったか。
何も変わっていない。
おバカになっただけであろう。

真実、バカは、自分のことを馬鹿だと気づかない。
だから、死んでもバカは、バカなんです。
うま、しか、ではない。バカなんです。

いつも、私は、浮遊霊に言う。
アンタ死んでんだよ。わかってるの。体ないでしょう。
恨み・・・
アホか。
アンタだけが、恨みあるわけないしょ。
アンタも、恨みかってんだよ。
と、自分だけが、被害者だと思い、浮遊しているのである。
ホント、救われない。
バカは、死んでもバカの証拠。
そんな先祖を、持つと、ホント、苦労する。

そして、おかしいのは、お経を上げてあげるから、行きなさいと言う。
どこ、行くの。
死んだ人の世界。
えへーーーー、死んでるの。
当たり前だ。アホ。
そして、読経すると、次元移動するから、おかしい。
お経の意味も、知らないで、あり難いと思い込むあたりは、ホント救われない。

お経の意味。
何のことは無い。単なる。言葉の羅列。
お釈迦様が、すっと立ち上がり、皆を眺め回して云々。億万年前から、教えを説いていたでしょう。
仏になるために、云々、のような、下手な小説のような、お経を上げると、次元移動するから、笑う。

しまいに、極楽の風景は、という、浄土経などを、タラタラと唱えると、安心する。
ホント、死んでも、アホ。

中には、私は、天理教です。
あっそう。
悪しきを祓って助けたまえ、天理王の命。
天理教って、三次元の少し上の霊界で、しょうもないところでも、行く。

大半の宗教の霊界は、この世と、あの世の境目のようなところに、あり、飽きることなく、最高神だと、信じている。

死んでも、妄想たくましくしているから、ホント、疲れる。

騙したあなたが悪いのか、騙された私が悪いのか。
いやいや、アホだから、悪いんです。

すべての宗教を敵に回すことになるが、言う。
神は、妄想である。
仏は、仏陀のオリジナルです。
それぞれが、神と言うものは、霊のことです。
霊にも、色々います。
神と、名乗る霊が、一番程度が低い。
仏とか、菩薩とか言う霊は、頭が悪い。
見破っていますよ、私は。

2007年10月03日

もののあわれについて98

万葉集の後半の代表歌人の歌を、読む。

大伴旅人

暮春の月、芳野の離宮に幸しし時、中納言大伴卿、勅を奉りて作れる歌一首並びに短歌

み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし 清けくあらし 天地と
長く久しく 万代に 変わらずあらむ いでましの宮 

みよしのの よしののみやは やまからし とうとくあらし かわからし さやけくあらし あめつちと ながくひさしく よろずよに かわらずあらむ いでましのみや

み吉野の吉野の宮は、周囲を取り巻く、山や川の品格が高いゆえに、ゆきめぐる川の気品が、清らかであり、そのような山川に囲まれている、吉野の離宮は、天地と共に、いついつまでも、変わることがないであろう。

反歌

昔見し 象の小川を 今見れば いよよ情けく なりにけるかも

むかしみし きさのおがわを いまみれば いよよさやけく なりにけるかも

春三月、行幸されたのは、聖武天皇である。
昔見たのは、持統天皇の行幸の際である。

柿本人麿呂との歌と比べる。
如何ともし難い、衰弱がある。
すでに、古今や新古今の世界へと向かう。
しかし、万葉の中だと、あまりの、初期万葉の歌に比べて、劣るのは、何故だろうか。

生命感覚の衰退を感じる。
初期万葉の、生命感覚が無いのである。

自然の風景の中に、私が、埋没している。私的感覚で、終わるのである。
短歌の方は、まだ、それなりに読めるが、長歌の方は、あまりに、おざなりなものを感じる。
妻の死に際した、挽歌を読む。

世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり

大宰府から、京に戻った歌を読む。

京なる 荒れたる家に 一人寝ば 旅にまさりて 苦しかるべし
みやこなる あれたるいえに ひとりねば たびにまさりて くるしかねべし

妻のいない家で寝る悲しみを歌う。

そして、その後の歌を読む。

人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり

吾妹子が 植えし梅の木 見る毎に こころ咽せつつ 涕し流る
わがいもが うえしうめのき みるごとに こころむせつつ なみだしながる

要するに、人間は儚い無常の存在であるというのである。
一体、どこからの思想であろうか。
仏教である。

万葉の生命力を削いだ、仏教の無常観である。

すでに、仏教は、当時の知識人たちに、広く受け入れられていた。
聖武天皇とは、大仏の発案者である。

仏の歌はないが、その影響は、こうして、万葉の生命感覚に、大きな影響を与えた。

無常観が、無常哀観になっている。

それを、善しとした、現代の多くの解説者たちである。

はっきり言うが、大和心の衰退は、仏教の、小手先の無常観による。

これが、平安期に至り、最高潮に達する。
貴族は、この無常観に酔い、朝から、セックス三昧を繰り返し、頽廃し、骨抜きにされた。無常観からの、脱出を、色事に、浸ったのである。
そして、あろうことか、そんな中で、仏の救いを求めたという、愚劣である。

当時の仏教は、ハイカラであった。
猫も杓子も、仏、仏、ホトケと、ほざいた。

天武天皇が、仏教を国政の精神的柱にとの、思いも、空しく、とんでもない方向へ、仏教思想が進んだのである。

天皇からして、仏教に凝った。

無常にさらされる、儚い人間の存在である。
そんな、意識は、万葉の初期にはなかった。

そして、それは、現代まで、続いている。

無常と言いつつ、悟りすました僧侶たちの、傲慢は、当時からあった。
そこに救いは、仏の慈悲である等々、まことしやかに、詭弁を打つ。
とんでもない、思想、仏教である。

それを知ることで、人生のすべてを知ったかのような、錯覚を与えた。
当時の素直な人たちである。
私は、それを嘆く。

仏陀の思想が、中国を通して、歪曲されて輸入されたのである。

儒教や道教に影響されず、まず、仏教の妄想に影響されたのは、実に、大和心に、仏教思想の一部が似ていたからである。似ていたゆえに、染まりやすかったのである。

現代も、ある程度の年齢に達すると、急に無常感覚に目覚める人がいる。そして、般若心経などを読経したり、写経したりと、暇つぶしを、始める。

そうして、解ったような気になるから、救われている。
仏教とは、その程度の救いである。

作者不明の、誰が、どのような意図で書いたのか、全く解らない膨大な仏典に、命懸けで、信仰する様は、哀れを通り越し、愚かを通り越し、笑う。
仏陀の声を聞いたこともない者が、仏陀は言うと書くから、笑う。

あれは、皆、創作であること、誰も言わないから、笑う。
それで、金になるから、学者も言わない。勿論、僧侶も言わない。
嘘ですと、言えば、金にならない。

仏教学研究と言うが、研究するものなどない。
すべて、創作であり、妄想である。
それを、宝のように扱う者、多数。
古ければいいというものではない。

暇に任せて、何やら、書き付けたものも、経典として、成り立つという驚き。これを、仰天するという。

兎に角、万葉後期になると、いきなり、低迷してゆくから、頭を傾げる。

無常観が、後の日本の精神に、曇りを与え、いたずらに、人心を惑わせるのである。

わが命も 常にあらむか 昔見し 象の小川を 行きて見むため

私の命が、いついつまでもあったらと願わすにはいられない。昔見た、象の小川を、もう一度見たいものだ。

どうであろうか、この衰弱を。
老人の寝ぼけた、戯言のような、歌である。

勿論、私は、否定しない。
それも、ありだろう。

だが、初期万葉の、清冽とした、生命感覚は、見出せないのである。

実際、仏教の無常観は、抑鬱神経症のような症状を起こした。
以後、無常観といえば、皆々、抑鬱神経症という、病に近いのである。

2007年10月04日

もののあわれについて99

山上憶良

彼について書くと、膨大なものになる。
簡潔に彼を見ることにする。

無位無官の家柄の出である。
彼は、ただ、ひたすらに、家を興すために、努力奮闘する。
身を立て、名を上げて、家を興す、という、それだけのために、人生を費やすのである。

遣唐使に任命されたのは、42歳の時である。それさえも、奇跡的である。
そして、ついに、和銅5年、55歳で、従五位下に叙せられ、養老五年、62歳で、時の東宮、後の聖武天皇の教育係りの一人に任じられる。

彼は、柿元人麿と、同時代の人である。
しかし、その歌は、人麿が、万葉初期の心を持つのに対して、万葉後期の心を持つ。

その訳は、当時の高級官僚の養成期間であった、大学寮の入学資格は、五位以上の身分である。つまり、その受験資格さえなかった。
それだけに、同等以上の学力を身につけて、昇進の道を拓く為には、血みどろの努力を要したのである。

国家の理念も、大化の新政権も、何もかも、どうでもよいことであった。
山上憶良には、ただ、立身出世のみが、あった。

その壮絶な人生の様が、社会詩人、生活歌人と言われるのである。

万葉集では、実に、異色な、歌人である。

庶民を抜け出ようとした、官僚であるが、庶民の歌も、官僚の歌も読まず、独特な歌風を残した。

晩年に及んで、にわかに、執念にとりつかれたように、この世の無常を歌い上げた。

現代人にも、身につまされる、社会に生きるということを、彼の歌から見出せるのである。
何も、古いものではない。今、現在も、彼のような者、多数。

その彼の歌は、実に、惨憺たるものである。
手にした、出世が、すべて、病苦や、貧困、そして老い、死に向かうのである。

その歌には、多く、儒教や仏教用語が使われるが、果たして、彼は、それを、どこまで身の中に取り込んだのかは解らない。
どこに、その思想的基盤を置いたのか、解らない。
ただ、解ることは、実に、素直で、正直であったということである。

背伸びしてみる、漢文や漢詩の教養であるが、それもこれも、立身出世のためであると、判断する。

彼が、独学で学んだ漢文の書を上げると、易経、からはじまる、四書五経、老子、壮士、列子、淮南子、史記、漢詩の数々、仏典では、般若経、維摩経、法華経等々である。

見上げたものである。
しかし、その努力が、報われたかというと、報われることはなかった。
失意の人。
70歳になっても、死に臨んでも、失意の人であった。

どうであろう。
このような人が、万葉時代もいたということが、私には、救いを与える。

報われない人生を生きるということ。
それは、如何なることか。
それでも、それでも、生きる。

万葉の生命感覚も、天地の神さびる風景も、無い。
歌の序文に、漢文を用いて、その教養を見せるが、それさえも、手段である。
漢文の序に、仏教の無常観を言うが、歌には、それが全く無いという、不思議さや、兎に角、彼の心が、澄み渡ることがなかったことを、知る。

そういう山上憶良であったから、人の不幸には、実に、共感したのである。
人の妻の死や、子供の死などに、多くの歌を作るという。

人は、自分の中に無いものは、見えない、存在しない。しかし、憶良には、不幸という心の様があるゆえ、人の不幸を、その人、以上に共感したのである。
士やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
をのこやも むなしかるべき よろずよに かたりづくべき なはたてずして

どうであろうか。
彼は、その人生は、この歌に、彩られてある。

使用したくないが、煩悩という言葉がある。
仏教家が好んで使用する、愚劣な言葉であるが、彼は、煩悩に憑かれたのである。

煩悩が、人をして、人を生かしめるものであるが、それを否定して、仏教の教えというものを説くという、愚劣である。

煩悩という、欲望を否定して、生きることなど出来ない。
すると、言葉遊びの仏教は、すかさず、煩悩側菩提という、言葉を作るのである。
さらに、墓穴を掘る。

人を誤魔化すのが、宗教であるから、それは、捨てておいて言う。

多かれ少なかれ、人は、山上憶良なのである。
彼の歌は、その苦難や苦労、悩みに呻吟する者に、健闘を与える。
それでも、生きられる。
煩悩まみれでも、生きられる。

崇高な理想、そんなものなど、いらない。
身を立て、名を上げて、ナンボのものだと生きていもいい。

だから、人生は、楽しい。愉快だ。
この、悪い冗談のような、人生で、これ程、報われずとも、生きられる。

私は、多く、その努力の報いを受けない人を見た。
すると、人は、邪まな心になり、ふて腐れる、世を呪う、人を、僻みで見る、偏屈に成る、成功した者を、嫉妬する、果ては、自暴自棄になり、命を絶つ者もいる。

しかし、言う。
生きられるのである。

いつか当たると宝くじ。死ぬまで当たらずともよい。買い続ける。
人生は、それに似る。

明日、良いことがあるかもしれない、ただその希望だけで、生きられる。

死にたいという人に言う。
明日、明日、何か、起こるかもしれない。
まず、明日を見てから。

明日、という、不明な日こそ、救いなのである。

私も、そうである。
明日、こそ、私が、世に認められる日だと、信じて生きる。

明日という未完に掛けた人の思い、死屍累々と、残るのが、この世の常である。

猫も杓子も、バカも、アホも、間抜けも、賢い者も、誰も彼も、明日に命を繋ぐことである。
それ以外に、生きるべき道は無い。

死んでから休むのである。
生きているうちは、走り続けてナンボのもの。

山上憶良の歌から、それを読む。

2007年10月05日

年金横領は死刑である

年金を支払う人は、ほぼ、支払うべき人の半数である。

もう、これで、年金破綻は、決定である。
それ以前に、決定しているが・・・

さて、年金横領である。
公務員は、非国民であるから、当然であるが、横領も、当たり前の感覚である。

表沙汰にならない者は、表に出た者より、多い。

時効というから、笑う。

また、刑事告発をしないと、自治体の長が言う。
返金し、懲戒免職をし、社会的に、制裁を受けたと。

まだまだ、制裁は、受けていない。何故なら、見つかったから、そうなったのであり、見つからなかったら、そのままである。
冗談ではない。

時効だと・・・アホか。

死刑に値する。

年金破綻は、国が破綻するのと、同じである。
問題意識が、皆無である。

再度言う。
もう、年金を払う者は、半数である。どうして、年金制度が、保てるのか。
与野党の議員の話を、信じられるわけが無い。
大半は、年金を当てにしない者が、議論するのである。

現実、年金を貰う人が、今、それで、生活が出来ているのか。

それが、まだまだ、悪くなるのである。

子供の話ではない。
もう、沢山である。
年金など、いらない。
自分の始末は、自分でする。

もう年金を払うことは無い。

何せ、年金横領した者が、平然として、生きているのである。
これ程、国民を愚弄することは無い。

桝添厚生労働大臣が、刑事告訴を、社会保険庁に促している。それは、実に、良いことである。しかし、それは、見つかったからであり、見つからない者は、平然として生きているのである。

仕事らしいことは、何もぜずに、大枚な給与を得て、横領である。
死刑が相応しい。

こんなところで、日本の伝統である、罪を憎んで、人を憎まずなどと、言っている場合ではない。
国民の老後の根幹を揺るがす行為である。

それにしても、この国民は、本当に、アホである。

民主党の、国会質問である。
それは、自分に言うものである。自民党ではなく、自らに言うのである。
何となれば、民主党が政権を担当すると、同じ事を、言われるのである。

政権など、どこの党が担当してもいい。
国民のことを、考えることである。

政治家は、何かと言えば、国民に理解を得て、国民の支持を得てというが、国民のことなど、真剣に考えているとは、思えないのである。

何一つ、国民のことなど、考えていない。

証拠は、天下りの温存である。
何一つ、変わっていない。
政治家と、官僚は、矢張り、グルになっている。

そうとしか、思えない。

政治家と、官僚で、税金の大半を使うのである。

そして、公務員である。

非国民とは、誰か。

よくよく、考えてみるべきである。

三代続く政治家の家系は、呪われている。
確実にである。

年金横領の者、死刑であれば、天下りで、渡り鳥を繰り返して、大枚な、退職金を得ている者は、千年ほど、死刑を繰り返すのである。

こんな国に、誰がした。
勿論、国民である。
アホに選挙権を与えるからである。

給油活動継続

自衛隊による、インド洋の補給活動に関して、野党の面々は言う。

その給油が、アフガン、イラク攻撃に使用された。
それは、一般市民も、巻き添えになり、悲惨を極める。
また、こうも言う。

テロは、貧困、宗教対立等々の問題であり、別の形の、方法もあると。

上記、本当である。

しかし、自衛隊の補給活動は、続けてゆくことが、現状の世界の正義である。

確かに、攻撃に使用された。しかし、それは、当然である。日本は、アメリカと、安全保障条約を結んでいる。アメリカのとる行動に、協力するのが、当然であり、正しい。
もし、それが嫌なら、条約解消すべきである。
アメリカの、戦争好きは、今に始まったのではない。
世界と言うものは、そのようになっている。
それでは、私のように、日本も核兵器を有して、アメリカの言いなりにならない国に、せよと言うしかない。

不条理であることは、この世の当たり前である。

テロが、貧困や宗教云々も、認識不足である。

テロは、宗教と、宗派の思想による。
それを、誰も、止めることは出来ない。
テロリストは、敵と認識して、テロ行為を起こすのである。どこに、話し合いの余地があるのか。

最初から、敵であると認識する者に、説くべき言葉は無い。あるとすれば、彼らの懐に入ることである。そして、彼らの神を共に拝み、その規則に従うことである。
世界は、多面的思想によって成っているということを、理解出来ないのである。

世論の半数が、継続賛成という。当然である。
国際社会が、それを評価し、続けることを、希望している。
多数に、従わない場合は、叩かれても、しょうがない。

しょうがないということを、生きる時に、生きるという実感を得るのが、人間である。

この世に、理想世界などない。
ある訳が無い。

どこかの宗教とは、違うのである。
いや、すべての宗教は、最も、世界に戦争の火種をもたらす。
皮肉なものである。

平和と愛を語るが、宗教は、それ一つも、そして、全く逆を、信徒に命ずるのである。

宗教こそ、理性を破壊し、平和を壊し、愛の心を、踏みにじる。

これが、唯一という宗教は、この世の悪である。
少しの霊感があれば、神と名乗る、仏と名乗る者、すべて人霊であることが解る。
つまり、宗教者には、霊感が無いのである。

給油を拒み、日本が孤立すれば、その後は、戦争に突入するということは、歴史を観れば解ることである。

何も、給油で世界貢献をしなくても、色々な方法があるという政治家もいる。
色々な方法とは、金で解決の方法である。それは、色々な方法ではない。

たった一つの方法である。

この、ぬくぬくとした日本にいて、貧困とは、笑わせる。
彼は、貧困の人々の元に行かないから言えるのである。
貧困を見て来るがいい。
世界の貧困が、どのようなものであるのかを、見るべきである。

分析をよくする学者の説を、取って、貧困がテロを生むなどとは、呆れ果てる。
貧困がテロを、生むのではない。
テロは、思想が生むのである。

解った風なものが、言う。
貧困により、その貧困の元を作る国、宗教を攻撃すると。
貧困は、そんな、生易しいものではない。
貧困は、すべての、活力を奪う。
テロなど、出来るわけが無い。

この、豊かな日本にいて、何を言うのかと、私は言う。

ちなみに、最大野党の民主党が、政権を取れば、確実に、日本は孤立し、戦争への道が始まる。
それは、自民党のやることだと思っていたが、まさか、野党の民主党だとは、つい先ごろまで、考えることがなかった。

2007年10月06日

もののあわれについて100

山上憶良が筑紫で最初に作った歌がある。
日本挽歌という。

不思議な歌なのである。
つまり、大宰府の長官として、赴任した大伴旅人に同行した妻が、まもなく、亡くなった。それを、悲しみての、歌である。
何故、人の妻の死に対して、このように、嘆くのか。
それが、憶良なのである。
自分が苦しんだことが、共感の才として、備わったのである。
この歌ばかりではない。多々、挽歌を歌うのである。

そして、この歌の長歌より、序文の漢文による哀悼の意が、珍しい。
そこで、この漢文の序文を読むことにする。

けだし聞く、四生の起滅することは、夢の皆空しきにたくらべ、三界の漂ひめぐることは、環の息まざるにたとふ。所以に、維摩大士は方丈に在りて、いたつきの患を懐くことあり、釈迦能仁は双林に坐して、ないをんの苦しみを免れるること無し。
故に知りぬ、二聖の至極なるも、力負の尋ね至るを払うこと能はざることを。
三千世界、誰かよく黒闇の捜り来るを逃れむ。
二つの鼠競い走りて、目をわたる鳥あしたに飛び、四つの蛇争い侵して、隙を過ぐる駒夕べに走る。
ああ、痛ましき哉。
紅顔は三従と共にとこしなえに逝き、素質は四徳と共にとこしえに滅ぶ。何ぞ図らむ、偕老は要期に違い、独飛、半路に生きむとは。
蘭室の屏風いたづらに張り、断腸の哀しみいよいよ痛く、枕頭の明鑑空しくかかり、せんえんの涙いよいよ落つ。泉門一たびおおわれて再び見るに由なし。
ああ哀しき哉。

愛河の波浪は己にまづ滅び、苦海の煩悩もまた結ばるることなし。もとよりこの穢土を厭離す。本願はもちて生を彼の浄刹によせむ。

注・読みやすく、書き直しています。

どうであろうか。何か、仏教の説教のようである。
この中の語彙を、それぞれ解釈しようと思ったが、そうすると、とんでもなく、長くなるゆえ、止めた。

仏典は勿論、漢文からの文字の使用である。
しかし、憶良は、それらを理解していたわけではない。装飾として使用したのである。
言えば、寄せ集めである。
何故か。それが不思議だ。

これは、序文である。序文に心血を注いで、どうする。
人の哀しみを、吾哀しみとして、哀しむという神経は、共感と言ったが、それが、ある一定の線を越えると、神経症になる。
憶良は、その苦労に病んでいたのである。

それによる、ある種の浮つきが、このような序文を書かせた。
本題の歌よりも、力が入ってしまったのである。
ここでは、長歌を読まない。

三千世界というのは、三千大世界のことであり、天台の祖、天台智顕の考え方である。
中国、天台密という、密教の一つでもある。
空海の密は、真言である。
密教とは、仏教にあらず。仏陀をダシにしているだけで、独自の教義と、思想を打ち立てる。チベット密教とも、違うが、まあ、根は、インドバラモンからの呪術から出たものである。

この三千世界というのが、定着して、すべての世界を、このように呼ぶようになったが、違う。
三千とは、すべての世界、この世もあの世も、含めてある、世界と言う解説をする。

私は言う。
霊界までを、七千世界という。その上の霊界、神の如き世界も含めると、九千大世界である。

隙を過ぐる駒夕べに走る
史記からの出典である。
隙間を走る駒は、瞬時に去る。それをもって、人生の無常迅速を言う。

この序文は、何から何まで、漢文の書籍から出ているのである。
知ったことを書きたいのは、人情であろう。

例えば、国家の品格という本が売れた。
私は、その国家の品格を撃つという本を読み、国家の品格を、読むことになった。

国家の品格と名づけることから、品格などないと知るものである。
学者にありがちな、知識の寄せ集めである。
あたかも、自分の考えのように書くから、笑う。
あれを、多くの人が読んで、納得しているとしたら、余程、読書量が無い者であろう。
すべて、古典に書かれてある。

国家の品格を撃つという、本は、著者の創造がある。それで、納得する。

国家の品格などという、アホな題名に、私は、品格という言葉の意味を知らない人と、みた。
そして、内容は、大和言葉を知らない故に、書けるものである。
もののあわれを書くが、何一つ、もののあわれについてを、知らないのである。つまり、大和言葉を知らない。
大学の教授などとは、その程度であり、それに教えられるのであるから、その生徒も、知れた者である。

もう一つ、武士道というものに関しても、認識不足である。
要するに、日本のことを知っていると、思い込んでいる様、ありありとしている。

それから言うが、国家に品格などと名うつことはしない。
国家は、品物ではない。
国家とは、共同幻想であり、国家は、思想と理念により、成るものである。
国家を導くものは、その祖先の理念の実現なのである。

日本の国家の理念とは、大和魂である。
すると、アホがまた、とんでもない無知蒙昧を曝け出す。

何度も言うが、大和魂とは、
おおいなる やわらぎの たま
である。

たまとは、霊である。
魂とは、霊を脱した、人間の本性である。
それが、和であるというのだ。
ワとは、漢語であり、やわらぎ、とは、大和言葉である。

やわらぎ、とは、融通無碍、自由自在の心であり、たゆたう心、つまり、人と人を結ぶ関係、相手の心を踏みにじることなく、曖昧にして、適当な距離感覚を持ち、事無く、関係を維持するものである。

それは、相手の孤独を尊ぶ行為である。
人は、人の孤独に介入できる者ではない。
その、一人一人の孤独を生きるところにある、人間関係の妙である。妙味である。

人間を尊ぶとは、その人の孤独を尊ぶのであり、それを損なう行為を、悪しきこととした。

もののあわれ、とは、そういう、深い人間洞察があって、成り立つ、一つの生き方の処方でもある。でもあるのであり、それのみではない。

それに、大がつく。
ダイとは、漢語であり、おおいなる、とは、大和言葉である。
発音すると、オホイナルという発音になる。
以下省略。

2007年10月07日

もののあわれについて101

憶良は、万葉の歌の中で異色である。
それは、現代人に似る。

字義のみの、無常観、無常意識を持ち、この世を穢土と呼ぶ仏教の現実把握をもって、歌うが、実のところ、その心境を深めることもない。それは、ただ、現実の厳しさから得たものである。
体験と言う。しかし、体験は、経験という、思索に耐えての、体験である。
何でも体験すれば、いいというものではない。
私は、行為を最も貴ぶが、貧乏体験の長い人や、苦難苦労が長い人が、捻くれるのを、見ている。
心が、捻くれる程の体験は必要ない。
また、それにより、心偏狭になる場合もある。

人は行為によって、自由に成るものである。
しかし、人は、体験によって、自己限定をし、他者への理解力を失う場合もある。

体験した人でなければ解らないという言葉が、傲慢に成ることもある。
体験をせずとも、人間は想像力によって、事の真相と、真理を知ることも出来るからだ。

日本挽歌の反歌を読む。

はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の 術もすべなき

はしきよし
愛しき、に、感動の助詞をつけて、はしきよし、である。
愛を、ハと読ませている。
愛しいという感情の、詠嘆である。ああーーー、という詠嘆である。

かくのみからに
こんなことになろうとは、という意味。
かくのみ からに と、別けることができる。
かくのごとく、である。

こんなことにらろうとは、思いもしなかった。私を慕ってくれた妻が亡くなろうとは。

旅人の、妻の死を嘆き哀しむのである。
それは、自分の妻にも重ねるのである。
これが、自分の妻ならば、という共感意識である。

妹が見し あふちの花は散りぬべし 吾泣く涙 まだ子なくに

あふちの花は、栴檀である。
五月ころに、葉の付け根に、淡い紫の花を咲かせる。

旅人の妻は、その頃に亡くなったのであろう。

妻が見て、喜んだあふちの花も、もう終わる。しかし、私の哀しみは、終わることがない。涙は、乾かない。

大野山 霧立ちわたる 吾が嘆く おきその風に 霧立ちわたる

大野山に霧が立ちわたっている。嘆きのあまりに、溢れるため息の風で、霧が立ちわたっている。

おきその風には、定説がない。
ため息の、息ののような風という意味である。

霧立ちわたるを、二度使うほど、嘆息の思い強くしている。
霧立ちわたる心である。
霧は、私の溜息によって出来るのである。

和歌になると、序文とは、全く違う。

憶良には、永遠なるものや、生命感覚というものが、見出せないが、和歌には、万葉の息吹を少しみる。

立身出世を望むあまりの、知識の吸収が、情緒を、分離させてしまったのである。

600年に中国から、大量の書物が日本に、もたらされた。
それは、日本の意識の幕開けである。
隋から唐にかけての中国から、日本は多くのものを学んだ。
貪欲に学んだ。
大化の改新を為しえたのは、隋へ出向いて、学んだ者による。

私は、中国の、儒教、道教、そして仏教を批判するが、否定するものではない。

現在言われる、日本の伝統文化と言われるものは、室町期のものを言うが、それらの思想的根拠は、中国思想である。

陰陽五行における、世界の把握は、日本の文化の元である。
様々な観念を得たが、それを独自に咀嚼して、日本のものに仕上げた。

だが、それらは、元から、あったものである。
それを理解できたということは、それを理解し得るものを、有していたということである。

室町期の伝統文化を否定はしない。
しかし、日本には、それ以前から、あったのである。
それを、私は、総称して、古神道という。

伝統は、万葉集に言えるものだと、私は、考えている。
この万葉の伝統から、日本を理解することで、より円やかな日本を理解できる。

和歌の発生は、自然発生である。
話言葉が、歌になった。また、歌になっていたということだ。

単語に意味があれば、そのようなことにはならなかったといえる。
一音に意味があるゆえに、五七調、七五調が生まれた。

古事記や、日本書紀も、大和言葉としての意味と、成果はある。
内容に関しては、為政者の思い強く、ある種の、作為がある。
私は、それをもって、批判する。

大和朝廷の以前の朝廷を、圧縮して、長い間の正統政権を、ことごとく取り入れての、書物である。
嘘ではないが、省略している。

歴史書は、その時の、為政者の思いに深く寄るものだ。

推古天皇の時に、はじめて、正統政権の崇めていた、天照大神を、皇室の神として、承認する。
それは、以前の正統政権の時の、主である。

皇紀2667年であれば、それ以前の王朝からの歴史は、膨大なものである。
私は、それに一万年を加えて、12667年のヤマトの国の歴史を観る。
丁度、日本列島が、大陸から離れた頃である。

これ以上になると、私の妄想になるので、省略する。

巨額不払い

女の汗と涙と、義理と人情を食潰して成った、保険会社である。
そして、日本の経済を、滅茶苦茶にしたのも、保険会社である。

これ程、女を食い物にした、企業も今までに無い。

保険勧誘員を、女、準じて、子供のような女に、させた。
家族から、親族、友人、知人、その縁から、保険の契約を取り付けた。

中には、上からの指示で、ノルマを与えられて、泣く泣く、マンコを使って、契約を取った。

それのみではない。

保険会社の、重役、取締り等々、全国を歩いて、現地妻を作り、やりたい放題、女を使用した。
現地妻になった、女の相談を受けたこともあり、その内容は、十分に知っている。
実に、大枚な報酬を得て、のうのうとして、ゴルフ三昧、女のマンコ三昧である。

そのマンコを楽しんだ者は、今、豊かな老後を送るか、死んだ。

巨額不払いである。

これは、自滅である。
保険会社の根幹、つまり、柱である。それを、そのままにして、過ごしていたという、意識の低さは、社長が、謝罪会見し、頭を下げても、許されないし、後の祭りである。

要するに、契約者など、どうでもいいのである。
非国民の公務員と、同じである。

罪が重すぎて、手がつけられないのである。

業務改善などという、甘い処置では、もう、無理であるから、皆々、契約者は、解約すべきである。

私も、五年前に、すべての保険を解約した。
中には、潰れた、保険会社もあった。
勿論、何の謝罪もない。

政府は、速やかに、保険会社を、整理すべく、動くべきだ。
あれらに、改善など出来るわけが無い。
それが、出来るのならば、不払いなど、起こっていない。

意識の低さは、救いようがないのである。

日本生命の社長の言葉。
「あらゆる局面で、顧客の視点に立った経営体制に改めないといけない」
もう、遅い。
こういうのを、アホ、バカ、間抜けという。

2007年10月08日

お相撲さんは、バカです。

相撲取り、力士に、考える力などないことを、何故、知らないのか。

相撲で、毎日を過ごしているのである。
思考力など、期待できるわけが無い。

相撲協会云々は、やめた方がいい。

「力士の指導に関する検討委員会」を設置するという。
そこには、外部の有識者も、参加するという。
実に、良いことである。
外部から、頭の良い人を、入れなければ、彼らでは、何も出来るわけが無い。

スポーツを健全と思う人がいる。
不思議である。
あんなもの、健全でも、安全でもない。心身共にである。
スポーツマン精神など、あろうはずがない。

勿論、力士もである。
アホである。

実は、相撲とは、スポーツではなく、神事である。

神に奉納するものである。
そこには、感謝や、願いが、ある。
特に、豊穣を願う神事である。

スポーツとは、格も品も、違う。
だから、力士のアホも、許されていた。

しかし、今、現在の相撲は、スポーツに堕落したのである。

あんな連中は、通常であれば、肥満体の、糖尿病患者である。
それが、許されて、受け入れられるのは、神事を司るという、一点である。
それを、相撲協会の、誰一人もいない。

実に、愚かであり、哀れである。
それを、相手にする者も、愚かであり、哀れである。

私は、相撲を見ない。
あれは、老人の暇つぶしである。
そんな、暇は無いのである。

様々な問題が起こっている。
そんな問題は、とうの昔からあった。
今更である。

しつけと称して、暴行を加えるなど、あれらの顔を見れば、即座に解るというものである。どこに、知性があるのか。まして、理性が。

頭が悪いから、殴る蹴るの暴行をするのである。
話が出来ないのである。
スムーズに言葉が出ないのは、力士のインタビューで、了解済みである。

頭が、即座に動かないのである。

以下、省略。

もののあわれについて102

熊凝の為に其の志を述ぶる歌六首並びに序
くまごりのために そのこころざしをのべる うたろくしゅ ならびにじょ

今度は、序を省略して、歌を読む。

長歌
うち日さす 宮に上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を
百重山 越えて過ぎ行き 何時しかも 京師を見むと 思ひつつ 語らひをれど
おのが身し いたはしければ 玉鉾の 道の隈廻に 草手折り 紫取り敷きて
床じもの うちこい伏して 思ひつつ 嘆き臥せらく 国にあらば 父とり看まし
家にあらば 母とり看まし 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に臥してや
命過ぎなぬ

うち日さす
京、宮中、皇居、都の、枕詞。

たらちしや
たらちねに同じ。母にかかる枕詞。

常知らぬ
日ごろは、まるで知らない。未知なる意味。

国の奥処 くにもおくか
奥処は、奥深く入った処。

百重山 ももへやま
山の名ではなく、山また山と、幾重にも重なる山々の意味。

いたはしければ
労しいで、労すること。ここでは、病に侵されて大儀であるという。

道の隈廻に みちのくまみに
道の曲がる奥の隅の意味。

床じもの
寝床のようにして、の、意味。

世の中は かくのみならし
世の中とは、こうしたものなのであろうか、という意味。

犬じもの 道に伏してや
犬のように道に倒れて伏す。

命過ぎなぬ
命を終えることであろうか。

都に上がるのだと、これまで一度も離れたことのない、母の元を離れて、見知らぬ国々、そして、山々を分け入り、一時も早く、都の有様を見たいと、同行の者と語り合うのだが、なんとしても、この身が大儀であるあまり、道の隅に、草草を手折り、敷きつめて、それを寝床にして、まろび伏すのである。
ここが、国であれば、父が看取り、家であれば、母が看取ってくれる。
ああ、世の中とは、このようなものなのだろう。
犬のように、道端に倒れて、この命を終わるのであろう。

憶良が、熊凝の死を、憐れみ、代わりに歌を作るのである。
この歌は、端的に、熊凝の死に託して、自分の鬱積を晴らすようである。

序文の方が、立派で、歌のほうは、散漫である。

漢文の序に力を注ぎ、長歌は、散漫になるという。
憶良は、唐文学、漢詩に影響を受けている。または、その知識が、何かを邪魔する。

要するに、遣唐使として唐に学んだ自分に酔うのである。
しかし、それが、上面のものであることが、歌を見れば解る。

だが、ここに、万葉の時代から、平安へと向かう、時代の苦悩を観るのである。
飛鳥、奈良から、天平へ。そして、平安に向かう人の様を観るのである。

奈良時代後期の、天平人の惑いである。

反歌
たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか 吾が別るらむ

母に、一度も会うことなく、鬱々としておぼつかないままに、どちらを向いて別れようとしているのだろうか。

常知らぬ 道の長手を くれくれと 如何にか行かむ 糧米はなしに
つねしらぬ みちのながてを くれくれと いかにかゆかむ かりてはなしに

はじめて辿る、見知らぬ冥土への長い道。そこを、どんな思いで、歩いていったら、よいのか。

くれくれと
心暗く、とぼとぼという意味。

糧米
食料の意味。

万葉初期の生命感覚は、命は、霊であった。しかし、憶良になると、それは、肉体の存続である。故に、死は絶望である。
あの、お隠れになるという、感覚を忘れた。
勿論、中国思想のものである。

反歌には、情を感じるが、それでも、あまりに現実的な歌に、驚く。
死に行くのに、食料を心配するのである。
糧米はなしに
何と言う、現実感覚であろう。
暗い思いに、沈んで、どのようにして行くのか、食料も無しに。と歌う。

万葉初期の生命感覚であれば、如何にか行かむ 雲隠りなむ のようになるはずである。

それが、食べ物も無くとは、如何なる衰弱か。

勿論、あからさまに、現実を歌い上げるという姿勢は、評価する。そして、自分の境遇というものに、すべての価値基準を置くということも。

しかし、万葉初期は、作為は無い。
作為があっての、天真爛漫ではない。

憶良を、続ける。

2007年10月09日

もののあわれについて103

子等を思ふ歌一首並びに序
こらをしのぶうたいっしゅ ならびにじょ

釈迦如来、金口に正に説きたまふ。等しく衆生を思ふこと、羅五羅の如しと。また、説きたまふ。愛は子に過ぎたるはなしと。至極の大聖すら、なほ子を愛しむ心あり。況や世間の蒼生、誰か子を愛しまざらめや。

金口 こんく
如来は黄金の身。その口も、黄金であるゆえに、金口と、尊称した。
すでに、当時、如来像は、金色であった。
唐でも、見たであろう。
偶像の最もたるものである。

等しく衆生を思ふこと、羅五羅の如し
ひとしくしゅじょうをおもうこと らごらのごとし

羅五羅は、釈迦の子供。
衆生を子供のように思うということ。

愛は子に過ぎたるはなし

子を思い愛する愛に、勝る愛はない。

至極の大聖
釈迦のこと。
如来の尊称がつく。すでに、釈迦は、如来という観念である。
釈迦以外の如来は、皆、観念の産物である。
阿弥陀如来等々。
南無阿弥陀仏とは、阿弥陀に帰依するという意味。

大乗仏教から、多くの想像の仏が作られた。
大乗の思想、あたかも、小乗より、大きな思想に思えるが、単なる、空想である。
小乗の、狭い仏教団に対抗して、生まれた教団である。それから、多くの宗派が、生まれた。つまり、何をどのように解釈してもいいのである。
大きな船に衆生を乗せて、彼岸に送るという、実に、傲慢な教えである。

仏教の教義というのは、支離滅裂である。
何をどのように、解釈、教義を作ってもよい。
中国に入ってきてからは、壮大な妄想を展開した。

大乗仏典とは、何の根拠もないものである。

ちなみに、仏教の読経というのは、はじめは、暗記をするために、されたものである。口伝えにして、仏陀の教えを伝えたことからのもの。
それが、いつしか、仏に手向けるものになっていった。
読経とは、私のために、するべきものであったが、書物になり、集団で、暗記をするために、皆で、読経を始めた。
それが、今では、形式になり、読経として、ナンボのものになった。
本末転倒も、甚だしい。

そして、笑うのは、経典の最後に、その経典を読むと、どんな功徳があるのか、書かれるという、誇大妄想である。
これには、釈迦も、仰天である。

尊い教えというのは、解るが、経典に功徳があるという、教えには、首を傾げる。
サンスクリット語の経典を訳した、中国仏教では、それらの人の思いが、経典に入り、とんでもないものになっていった。
甚だしいのは、経典を作る。つまり、創作もしたのである。
勿論、大乗経典の多くは、作者不明である。次々と、受け継ぐごとに、思い入れを付け加えていった。

釈迦が、書き物を残さないということの、真実を知らない行為であり、皆々、嘘である。

大乗が生まれて、仏陀の教えは、一気に堕落した。

憶良が、遣唐使に出た唐では、仏教の隆盛の時期であるから、当然、多くの刺激を受けてきたであろう。
憶良の、序を読むと、それが、よく解る。

分派に分派を重ねた、宗団が、さらに、分派して、つまり、亜流となって、日本に渡り、仏陀には遠い、教義を生み出し、今に至る。
日本仏教の大元、天台というもの、天台教学などという、お化けを作り上げて、そこから、様々な妄想を生み出したのである。
天台も、密教の一派である。
真言も、密教である。
この、密教とは、実に、仏陀に遠い。そして、仏陀が、遠ざけた、バラモンと、その呪術を持っての、修法をよしとする。
亜流というより、全く別物と言った方がよい。

密教の、修法、その教え、おどろおどろしい、曼荼羅などを、有難がるアホがいるが、あれは、魔界のものである。
あれを、宇宙だなどというから、笑う。

蒔きも、刈りも、そして、捕ることも、作ることもせずに、堂々と、妄想を積み重ねて、それを、信じるという様。あきれ果てる。

彼らの言う、信仰とは、仏に行くものではない。
すべて、自分の妄想の信念に、戻るものりであり、仏との結縁などという、アホな行為を繰り返して、また、元のところに戻るという、業態を演じてるのである。

ぐるぐると、廻り、辿りついたところが、私だったという。
勿論、仏は、私であるから、いいのだが、あれは、単なる、遊びである。
子供の遊びより、悪い。

密教とは、秘密にしているものがあるという意味であるが、頭隠して、尻隠さずである。
すべては、お見通しである。
あれで、人生を棒に振る。
ご苦労なことです。

蒼生
あをひとのくさ
民草、つまり、庶民の意味。

お釈迦様が、その御口から、正しく仰せられた。自分が衆生を思うことは、わが子の羅五羅を思うことと、同じである。
また、こうも、仰せられた。
愛は、子を思う愛に、勝る愛は無いと。
お釈迦様のような、大聖人でも、わが子を愛している。
まして、この世に生きる人は、皆、誰か、子を愛さないものが、いましょうか。

当時、釈迦を持ち出せば、説得力があったのである。

何せ、国家を挙げての、仏教擁護である。
当時、最新の学問であった。
今で言えば、東洋哲学の仏教学ということになる。

私が、仏教を容認するのは、その支離滅裂な教義ではなく、それによって起こった、美術、芸術活動である。
造形美術から、絵画など、多くの芸術活動を展開した。
それが、素晴らしい。
拝まれる仏像を、鑑賞に耐えられる像にしたのである。

日本の仏教は、その芸術活動に、多く負うのである。

芸術、そして、文学としての、仏教は、実に素晴らしい成果をあげた。

次に、歌を読む。

2007年10月10日

もののあわれについて104

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ 何処より 来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいし寝さぬ

うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしのばゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ

まなかい。
目先の意味。

もとなかかりて。
もとづくところなく。わけもなく。しきりに、の意味。

やすいし寝さぬ。
安眠すること。ぬ、は、打消し。

瓜を食べると、子供のことを思い出す。栗を食べると、なおさらに、子供が恋しく思い出される。いったい、子供というものは、どこから、どのような因縁で、現れてきたのだろうか。その面影が目先に、ちらついて、夜も、眠られないのである。

反歌

銀も 金も玉も 何かせむに 勝れる宝 子にしかめやも

しろがねも こがねもたまも なにかせむ まされるたから こにしかめやも

銀も金も、玉も、それがどうしたというのであろう。とても、子供には、及ばない。

反歌は、有名であり、結婚式などで、挨拶の言葉で、聞くことがある。
しかし、それは、実に、濁りがある。意味は、解るが、その前後の歌を読むと、この歌には、どうも、純粋な情感がない。
心に沁みる、清らかさ、香りの高さはない。

こういう、直接的表現をしなければならない、憶良の心境に、迷いを観る。
万葉初期ならば、子供の有りのままを歌い、そこに、深い情を感じる歌になるのである。
わざわざ、こういう、明らかに、納得させる歌を読むところに、憶良の迷いがある。

序に、生半可な仏教経典の言葉を大量に使用して、大上段に構える。そして、長歌と、反歌で、子供に対する思いを、歌う。どうも、何か、勘違いしている様あり。

すでに、現代の人のように、妄想の教えに、酔い、あたかも、知る如く、悟るが如くに、ある様、如何にも、現代の人に似る。

多く、新興宗教の教祖などの文を読むと、そこには、薄っぺらい感傷と、大上段に構える言葉の羅列があるが、決して、心に響いてこないのである。
しかし、信徒は、それを読んで、最も、解りやすいようであるから、感動する。その感動も、実に、薄っぺらいということに、気づかない。

しまいに、漫画のような、文になるから、終わっている。

絵のある漫画の方が、それより、深い場合、多々ある。

解釈というものは、実に、その解釈をする人の、思想による。
思い込みによる。
憶良の歌を評価する学者は、すべて、当時の政治の有り様で、解釈する。
律令体制の、重税にあえぐ、庶民の云々とか、言う。
明らかに、目が濁るのである。

最初から、主義という、物差しを持って、解釈しようとする。
だから、学者の解釈を、鵜呑みにしないことである。

偏見と、偏狭に満ちている。
いずれ、貧窮問答歌の際に、それを書くことにする。

2007年10月11日

議員辞職

自民党の衆議院議員である、52歳の木村議員が、辞任した。
同じ、木村だが、私とは、全く、関係ない。

その理由が、政治家に向かない性格だという。

四期目にはいる、議員であり、その父も、県議を務めていた。

どうであろう。
選挙に落ちた者から、見れば、喉から手が出るほど、欲しい、当選である。

一度、議員をやれば、辞められないほどの、待遇である。
兎に角、議員をやりたいという者がいる。
前科になっても、議員を辞めない者もいるのである。

ここで、二通りの、意見がある。
有権者の期待を裏切る行為である、というもの。
もう一つは、気持ちでは、理解できるというものであり、性格に向かない政治家を続けることはないというものである。

何せ、政治家に向かない者、例えば、赤城など、堂々として、農水省の大臣にまでなるのである。
有権者も、何も無い。
向かない者が、政治家などするべきではない。

自ら、断腸の思いで、辞任したのであろう。
辞職とも言える。

52歳とは、政治の世界で、これからである。

これからという時、辞めるという勇気を買う。

私は、横浜市に住んで、中田市長の最初の当選を喜んだ一人だ。
目に見えて、市政が変化していった。

新しいタイプの、新しい時代の政治家である。
評価する。
政治的才能のある者が、突然現れると、希望が湧く。

政党政治ではない。
人間政治を観るのである。

政治家は、天下、国家を論じる。
そして、ある時には、そこに命をかける。

政治そして、国家とは、統治である。
この、統治という意味を、十分に知るべきである。

国民は、国家に、統治されるのである。
別名、支配される。
そして、支配されると共に、世界に対しては、国民として、守られるのである。

その国家の、支配の采配を、政治家が負う。
政治家は、奉仕者であると共に、支配者の一人となる。
これが、現実である。

そして、国民の唯一の、国政参加は、選挙である。
この選挙によって、統治する者を選ぶ。それが、民主主義といわれる。
ただし、あくまでも、理想である。
本当に、民主化がなされているのかといえば、それは、国民の意識の問題であり、国民の意識の高低が、政治家の、そして、国家の意識の高低を決めるのである。

選挙で、選ばれるということは、大変な僥倖であり、また、重大な責任を負う。

国会議員が、戦争を容認すれば、戦争が始まるのである。

惰性と、しがらみなどで、政治家になっては、いけない。

木村さんも、父親の後援会が、後ろ盾で、国会に登院したのだろう。
本人の強い意志ではなかった。
それで、そこまで、議員を続けて、遂に、決断した。
勇気を買うものである。

郵政反対の立場であったが、それでは、選挙に出られないと、沈黙して、従ったという。

お解りであろうか。
政党政治とは、そういうことである。

人間政治に、変える人を、政治家として、掲げたい。

政治は、数である。
戦国武将が、戦いに勝つことが、政治であったように、現在の政治は数である。

この現実を実現するのは、選挙なのである。

多数を与党という。少数を野党という。
この、与野党のバランスが、民主主義には、必要不可欠である。

中国共産党の政治には、野党がいない。故に、歪で、独裁制を帯て、国益の混乱を招いている。
真っ当な、野党がいないと、民主的に進まないのである。

独裁制は、必ず破綻するのである。
または、崩壊である。

軍事政権は、矢張り、国益を、定めるに、混乱する。
つまり、国家の主が、軍隊だからである。
国民の政治ではなく、軍隊の政治であり、その軍隊を掌握する者の、独裁政権となる。

国民から離れた政治に、未来は無い。

何故なら、国家とは、人によって成り立つものである。

人を無視する国家は、在り得ない。
つまり、それらの国家は、成り立たないのである。
国家ではなく、セクトである。

ミャンマーに、国際社会の、良心が介入して、国民国家として、成り立つことを促すことは、実に、正しい。
独裁であることで、制裁を受けることも、実に、正しい。

それを、実行できるのも、各国の政治家である。
政治家は、自国のみならず、他国でも、政治家として、認知せられる。

志の高い者でなければ、務まらないのである。

故に、性格が政治家に向かない、合わないという政治家は、辞任、辞職すべきである。

安倍総理の辞任も、理解する。
無理に続けることは、国民のために、ならないのであり、無理に続けて、国民に迷惑をかけるということは、許されないのである。

国家は、国民あってのものであるからだ。

私は、日本国に、統治されることを、支配されることを、善しとして、日本人でいるのである。

2007年10月12日

金持ちが天の国入るのは・・・

2006年度の、バチカン市国の収支報告である。
歳入、歳出、差し引き、240万ユーロと、三年連続の黒字である。

経営としては、実に良い成果である。

ローマ法王に、言う。

金持ちが天国に入るのは、駱駝が、針の穴を通るよりも難しいと、主イエスは、仰せられる。

カトリックとは、ローマカトリックとの、冠がつく。
何故か。

ユダヤ人キリスト教徒から、キリスト教を、異端であるローマ人が奪ったのである。
ローマ皇帝が、国教として、認定した。
ゆえに、ローマカトリックと言われる。

バチカン市国には、色々な収入源がある。それは、必要経費を出すために、必要であると、認める。しかし、最大の収入は、世界から集る、寄付である。
8600万ユーロである。
また、市国の計上には、上がらないものもある。
「ピエトロの募金」である。
毎年、6月29日の、ペトロと、パウロの祝日に、世界の信者から、寄付がくる。
毎年、5000万ユーロ以上であるから、驚く。

イタリア国民が、納税する際に、申告書に、自由意志で、1000分の8を、特定の宗教に寄付と、書き入れることが出来る。イタリア・カトリックが、受け取る金額は、毎年、10億ユーロ以上である。

宗教が金を集めるのは、十分承知している。

実に、宗教という、商売は、丸儲けである。

市国は、神の国だそうな。
信じられない。

主イエスは、再度言うだろう。
金持ちが天の国に入るのは・・・駱駝が針の穴を通るより難しい、と。

ユダヤ人キリスト教徒は、今も、残っている。しかし、ローマカトリックからは、異端とされる。
正統が、異端とされる。
不思議である。

最も、イエスキリストに遠いもの、それが、カトリック教会である。

申し開きは出来ない。

サタンの上前をはねるのであるから、恐れ入る。

伝言ゲームで書かれた聖書というものを、持っての、商売である。
カトリックに認定されない、聖書も多数。
都合の良いものだけを、取り入れたのである。

権力と、結びついて、他を、異端とするなどとは、呆れる。

世界の信徒を、無知蒙昧に沈めての、信仰であるから、救われない。

哀れである。
信者がである。

本当に、天の国に入ると、信じているから、また、哀れである。
キリスト教霊界は、三次元の少し上で、喧騒と、無知蒙昧に溢れている。

私は、カトリックである。
ゆえに、真実を言う。
そして、私は、主イエスの信徒である。

ちなみに、私は、仏教徒である。
仏陀の信徒である。

そして、私は、日本人であるから、伝統の古神道を奉じるのである。

実に、バランスの取れた、宗教観を持って、霊界を眺めている。

そうそう、一つ加えて、バリ・ヒンドゥの信徒である。
バリ島の、伝統神の、信徒である。

そして、私は、何も持たないのである。
貧しく生まれて、貧しく死んでゆくのである。
そして言う。
後は野となれ山となれ。

カラス

カラスについての、報道が無くなった。
しかし、カラスは、まだ活動している。

東京都も、カラスの駆除に、様々な方法を取っていたが、カラスは、自然消滅する。

実は、報道されないが、五年前ほどになるが、丁度、東京都のカラス問題が、盛んだった頃、地方では、カラスの原因不明での、死が、確認されている。
鳥インフルエンザではない。

滅びる前の、ひと時、盛りを終えて、カラスは、その本来の山奥に、戻っているのである。

一時、人間社会に寄生して、生活していたが、カラスも、腹を決めたようである。

すべて、人間社会の出す、毒素を見抜いたのである。

賢いカラスも、人間社会を、見捨てたといえる。

そして、もう一つは、自然災害、天変地異を予感している。

身を守るために、山奥に戻るしかないと、決めたのだ。

三年ほど前、私の近所では、ゴミを漁るカラスの対処に、ネットを被せていたが、今は、カラスの姿は、無い。
別の場所で、活動しているのであろうと、思ったが、別の場所でも、カラスの姿を見ないと言う。

土鳩は、その動き退化して、道路を平気で歩く。
車の通る大通りを、方向感覚を失くしたかのに、歩いている。
轢かれる、鳩も多い。

スズメも、その動き緩慢であり、瞬発力を失った。
こうして、地に、変化が、現れている。

地震の前には、鼠が、逃げ出す。
その他、動物が、その本能で、何かを察知して、行動する。

今年は、ミンミンゼミが鳴く前に、ヒグラシや、遅く鳴くはずの蝉が、鳴いた。

十年ほど前、鎌倉でも、蝉や、ヒグラシ等、一斉に鳴き始めた。

その間に、多くの地震災害が起こった。

さて、このカラスの行動の意味するものは、何か。

カラスは、人間の付け焼刃のような、自然回復の努力を、あざ笑い、花壇などを、破壊する。
それも、報道されない。

根本から行動しない、人間に、言葉ではなく、行為を持って知らせている。
しかし、今は、それも、諦めたようである。

カラスに捨てられた、人間の社会である。

人間の、食べ残したものを食べて、カラスも、寿命を縮めたのである。

都会の、異常な気温の上昇に、異変を感じての行動であろう。

カラスは、巣作りも、山奥に変えた。

しかし、その山奥も、人間の手が入り、自然ではなくなる。

鼠が、悪さをしている内が、花である。
いずれ、鼠も、場所を変える。

動物が去る場所に、人間が住めるだろうか。

ただ今、突然変異の、微生物が、人間の生活の場に、現れて、新しい病気を引き起こす。
もうすでに、それが、始まっている。
手始めは、原因不明の、皮膚病である。

それは、汗疹のようなもので、大したことのないものに思えるが、実は、肝臓が、やられているのである。
特に、ジャンクフードを食べる若者に、それは、蔓延する。

年間、四トンの毒物を食べているのである。

これ以上は、詮無いことなので、省略する。

ちなみに、都会に住む人は10人に、8人が、自律神経を侵されている。
体感温度の、異常である。

自律神経は、内臓の働きである。
肝臓と、内臓を侵されれば、生きるに、大変なストレスを受ける。

メタボリックなどというのは、嘘である。
全く、検討違いの話である。

昔、体脂肪を、多く持つ人は、長寿であった。
食料の少ない時代である。

食糧難など、すぐ、目の前である。
勿論、誰も、信じないだろう。
それは、密かに、やってくる。

カラスと、話が出来るなら、人間の問題を、聞いてみたいものである。

2007年10月13日

パロマ

こういうことは、もう、書きたくないのだが、書く。
書いても詮無いことだと知る。

悪いことをした者を、悪いと書いても、詮無いことである。

しかし、矢張り、書く。

パロマである。

業務上過失致死傷容疑で、パロマ前社長と、前取締役品質管理部長が、書類送検である。

驚きは、事故情報を把握しながら、対策を、講じなかったという。

CO中毒事故が、相次いで発生していた。しかし、製品回収を怠る。
昭和60年以降、28件21人が死亡である。

倫理の欠片も無い。
中国人と、同じである。
そして、社会保険庁、その年金横領と同じである。
加えて、公務員と同じである。
危機意識と、倫理の無さである。

前社長の世代が、今の管理職などの教育をした。

この問題は、氷山の一角である。

その悪度さは、安全装置の、不正改造にも、現れている。

言葉が無い。

これも、ひとえに、切腹という作法を失ったからだ。
この社長は、のうのうと、豊かな老後を送るのである。
間接的に、人殺しである。
その意識が無い。皆無であるということ。
神経が、いかれている。

こういう人間が、日本に蔓延していること、十分に知る。

苫小牧の肉偽装の、ミートポープ社の社長も、そうである。

まだまだいる。

何時の時代も、こういう、悪人と呼ぶ者はいる。
どうしても、どう説いても、解らないという、根っからの悪人である。

現代は、善人面をして、こういう悪人が跋扈する。
昔は、悪人は、悪人の顔をして歩いていたのである。
そして、悪人の世界でのみ、活動していた。

今、彼らを裁くのは、司法である。
しかし、善良な、パロマの社員には、申し訳ないが、パロマは、これで、潰れる方が、悪因縁を持ち続けないで、いいのである。

亡くなった21人の、慰霊も、為していないだろうし、また、彼らに、慰霊の行為が、出来る訳ではない。
21人に、呪われたら、有名霊能者でも、手出しは出来ない。

実に、後味の悪いことである。

殺人罪を適用すべきである。

人を殺せば、少なからず、呪われ、祟られるのである。
その思いを解消するには、死を持ってでなければ、解消出来ないのである。

死刑を野蛮であるという人も多くいる。
善人面をして言う。
死刑には、実に、深い意味がある。

死刑でなければ、購えない罪もある。

理屈は、解る。
出来れば、死刑ではない、罪の償いをするべきであるが、許されないこともある。
それとも、因果応報で、殺されるべくの、因縁があったのだと、言っても、いいだろうか。

因果応報を説く者どもの、矛盾が、ここにある。

ただし、一つだけ言う。
日本人は、罪を憎んで人を憎まずと言った。
ここには、重大な秘密がある。

しかし、今は、説明を、避ける。


2007年10月14日

もののあわれについて105