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もののあわれについて100

山上憶良が筑紫で最初に作った歌がある。
日本挽歌という。

不思議な歌なのである。
つまり、大宰府の長官として、赴任した大伴旅人に同行した妻が、まもなく、亡くなった。それを、悲しみての、歌である。
何故、人の妻の死に対して、このように、嘆くのか。
それが、憶良なのである。
自分が苦しんだことが、共感の才として、備わったのである。
この歌ばかりではない。多々、挽歌を歌うのである。

そして、この歌の長歌より、序文の漢文による哀悼の意が、珍しい。
そこで、この漢文の序文を読むことにする。

けだし聞く、四生の起滅することは、夢の皆空しきにたくらべ、三界の漂ひめぐることは、環の息まざるにたとふ。所以に、維摩大士は方丈に在りて、いたつきの患を懐くことあり、釈迦能仁は双林に坐して、ないをんの苦しみを免れるること無し。
故に知りぬ、二聖の至極なるも、力負の尋ね至るを払うこと能はざることを。
三千世界、誰かよく黒闇の捜り来るを逃れむ。
二つの鼠競い走りて、目をわたる鳥あしたに飛び、四つの蛇争い侵して、隙を過ぐる駒夕べに走る。
ああ、痛ましき哉。
紅顔は三従と共にとこしなえに逝き、素質は四徳と共にとこしえに滅ぶ。何ぞ図らむ、偕老は要期に違い、独飛、半路に生きむとは。
蘭室の屏風いたづらに張り、断腸の哀しみいよいよ痛く、枕頭の明鑑空しくかかり、せんえんの涙いよいよ落つ。泉門一たびおおわれて再び見るに由なし。
ああ哀しき哉。

愛河の波浪は己にまづ滅び、苦海の煩悩もまた結ばるることなし。もとよりこの穢土を厭離す。本願はもちて生を彼の浄刹によせむ。

注・読みやすく、書き直しています。

どうであろうか。何か、仏教の説教のようである。
この中の語彙を、それぞれ解釈しようと思ったが、そうすると、とんでもなく、長くなるゆえ、止めた。

仏典は勿論、漢文からの文字の使用である。
しかし、憶良は、それらを理解していたわけではない。装飾として使用したのである。
言えば、寄せ集めである。
何故か。それが不思議だ。

これは、序文である。序文に心血を注いで、どうする。
人の哀しみを、吾哀しみとして、哀しむという神経は、共感と言ったが、それが、ある一定の線を越えると、神経症になる。
憶良は、その苦労に病んでいたのである。

それによる、ある種の浮つきが、このような序文を書かせた。
本題の歌よりも、力が入ってしまったのである。
ここでは、長歌を読まない。

三千世界というのは、三千大世界のことであり、天台の祖、天台智顕の考え方である。
中国、天台密という、密教の一つでもある。
空海の密は、真言である。
密教とは、仏教にあらず。仏陀をダシにしているだけで、独自の教義と、思想を打ち立てる。チベット密教とも、違うが、まあ、根は、インドバラモンからの呪術から出たものである。

この三千世界というのが、定着して、すべての世界を、このように呼ぶようになったが、違う。
三千とは、すべての世界、この世もあの世も、含めてある、世界と言う解説をする。

私は言う。
霊界までを、七千世界という。その上の霊界、神の如き世界も含めると、九千大世界である。

隙を過ぐる駒夕べに走る
史記からの出典である。
隙間を走る駒は、瞬時に去る。それをもって、人生の無常迅速を言う。

この序文は、何から何まで、漢文の書籍から出ているのである。
知ったことを書きたいのは、人情であろう。

例えば、国家の品格という本が売れた。
私は、その国家の品格を撃つという本を読み、国家の品格を、読むことになった。

国家の品格と名づけることから、品格などないと知るものである。
学者にありがちな、知識の寄せ集めである。
あたかも、自分の考えのように書くから、笑う。
あれを、多くの人が読んで、納得しているとしたら、余程、読書量が無い者であろう。
すべて、古典に書かれてある。

国家の品格を撃つという、本は、著者の創造がある。それで、納得する。

国家の品格などという、アホな題名に、私は、品格という言葉の意味を知らない人と、みた。
そして、内容は、大和言葉を知らない故に、書けるものである。
もののあわれを書くが、何一つ、もののあわれについてを、知らないのである。つまり、大和言葉を知らない。
大学の教授などとは、その程度であり、それに教えられるのであるから、その生徒も、知れた者である。

もう一つ、武士道というものに関しても、認識不足である。
要するに、日本のことを知っていると、思い込んでいる様、ありありとしている。

それから言うが、国家に品格などと名うつことはしない。
国家は、品物ではない。
国家とは、共同幻想であり、国家は、思想と理念により、成るものである。
国家を導くものは、その祖先の理念の実現なのである。

日本の国家の理念とは、大和魂である。
すると、アホがまた、とんでもない無知蒙昧を曝け出す。

何度も言うが、大和魂とは、
おおいなる やわらぎの たま
である。

たまとは、霊である。
魂とは、霊を脱した、人間の本性である。
それが、和であるというのだ。
ワとは、漢語であり、やわらぎ、とは、大和言葉である。

やわらぎ、とは、融通無碍、自由自在の心であり、たゆたう心、つまり、人と人を結ぶ関係、相手の心を踏みにじることなく、曖昧にして、適当な距離感覚を持ち、事無く、関係を維持するものである。

それは、相手の孤独を尊ぶ行為である。
人は、人の孤独に介入できる者ではない。
その、一人一人の孤独を生きるところにある、人間関係の妙である。妙味である。

人間を尊ぶとは、その人の孤独を尊ぶのであり、それを損なう行為を、悪しきこととした。

もののあわれ、とは、そういう、深い人間洞察があって、成り立つ、一つの生き方の処方でもある。でもあるのであり、それのみではない。

それに、大がつく。
ダイとは、漢語であり、おおいなる、とは、大和言葉である。
発音すると、オホイナルという発音になる。
以下省略。

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2007年10月06日 00:20に投稿されたエントリーのページです。

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