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もののあわれについて97

防人の歌の最後は、夫婦の歌である。
夫、妻、それぞれの歌を紹介する。

家ろには 葦火焚けども 住み好けを 筑紫に至りて 恋しけもはも
いはろには あしぶたけども すみすけを つくしにいたりて ひふしけもはも

橘樹部郡上丁物部真根 たちばなのこほりかみつよぼろ もののべのまね

家、いはは、いへの方言。
葦火とは、枯れた葦を燃やす。
橘樹郡は、現在の神奈川県川崎市。
住み好けは、住み好きの方言。
恋しけは、恋しくの、方言。
もはもは、もはむの、方言。

我が家では、葦火を焚くので、煤けているけれども、どんなにか、心地がよいか。筑紫に行って、つくづくと、この家を恋ししく、思い出すだろう。

煤けているのが、恋しいのではない。
真根の妻の歌を読めば解る。

その前に、方言の話である。
中央から、外れるに従って、方言というものが出来るが、実は、現在の方言は、昔の中央の言葉であったといえる。
つまり、列島の外れになればなるほど、昔の言葉を使用しているということだ。
現在の方言が、昔の標準語だったということである。

青森。
食べなさいを、ケと言う。
例えば、何処へは、どっさ、あっちにを、あっさと言う。
「どっさ」
「あっさ」
それで、通じる。
私を、ワと言う。
お前を、ワレという土地もある。

一音に意味があると、何度も言うが、日本語には、一音にすべて意味がある。

きイみイがアよオはア
君が代は
実は、この言葉の一音を分析すると、実に有意義なのだ。
しかし、省略する。
ただ、歌う場合のことを言う。

きイみイがア アよオはア
と歌う。
がア、アよオはア
と歌う。
子音を母音に帰して、言葉が成る。
アは、わアに通じる。
アも、わアも、吾である。

イとは、人間のことである。
君が代はの、中には、イと、私のアと、オがある。
オは、送る言葉である。

私と他者との、間に送るものとは、何か。
実に、大和言葉は楽しい。
これを、人に教えるつもりはない。

子音から、母音に帰るということの、脳の働きを研究した学者がいる。
実に、有意義な研究であり、今も、その研究成果が破られていない。
日本人が、虫の音などの自然の音を楽しめるのは、脳の働きなのである。欧米人は、雑音として聴く、ということが、よく解る。
これも、省略する。

妻の歌。

草枕 旅の丸寝の 紐絶えば あが手とつけろ これの針持し
くさまくら たびのまるねの ひもたえば あがてとつけろ これのはるもし

あが手とつけろ
私の手と思ってという意味。
つけろは、つけよの、方言。
針持し
はるは、はりの方言。
持しは、持ちの、方言。

草を枕の、窮屈なごろ寝で、衣服の紐が切れたら、私の手だと思い、これで、直してくださいね。この針を持って。

針と、糸を包んで、夫に渡す妻である。

真根の心地よさの秘密は、この妻の存在なのである。
煤けた家にいる、妻の優しい存在なのである。

紐が切れたら、黙って、繕う妻の存在なのである。

女、母。
いつも、黙って、三度三度の食事を用意する。
ある作家は、そんな母の後姿を見て、生きるということの、現実を知ったという。
そして、母が、食事の用意をしているのを見て、いつも、安心したという。

当たり前のことに中にある、真実である。

当たり前は、当たり前である。それも、当たり前である。
その、当たり前に、現実を観る時、生きるということが、少し観える。
しょうもない人生である。
誰の冗談かしらないが、ここにこうして生きているのである。

ホント、人生とは、悪い冗談である。

私は、大伴家持に、感謝する。
彼によって、こうして、万葉の時代の庶民の歌が読めるのである。
ホント、大伴家持に、感謝状を贈る。
アンタは、エライ。

防人の歌の、ほんの一部を紹介した。
興味のある方は、自分で、万葉集を読むべきである。

理屈を言うな。
万葉集を読め。
人間に大差ないことが解る。
あの時代から、人間が、少しでも、変わったか。
何も変わっていない。
おバカになっただけであろう。

真実、バカは、自分のことを馬鹿だと気づかない。
だから、死んでもバカは、バカなんです。
うま、しか、ではない。バカなんです。

いつも、私は、浮遊霊に言う。
アンタ死んでんだよ。わかってるの。体ないでしょう。
恨み・・・
アホか。
アンタだけが、恨みあるわけないしょ。
アンタも、恨みかってんだよ。
と、自分だけが、被害者だと思い、浮遊しているのである。
ホント、救われない。
バカは、死んでもバカの証拠。
そんな先祖を、持つと、ホント、苦労する。

そして、おかしいのは、お経を上げてあげるから、行きなさいと言う。
どこ、行くの。
死んだ人の世界。
えへーーーー、死んでるの。
当たり前だ。アホ。
そして、読経すると、次元移動するから、おかしい。
お経の意味も、知らないで、あり難いと思い込むあたりは、ホント救われない。

お経の意味。
何のことは無い。単なる。言葉の羅列。
お釈迦様が、すっと立ち上がり、皆を眺め回して云々。億万年前から、教えを説いていたでしょう。
仏になるために、云々、のような、下手な小説のような、お経を上げると、次元移動するから、笑う。

しまいに、極楽の風景は、という、浄土経などを、タラタラと唱えると、安心する。
ホント、死んでも、アホ。

中には、私は、天理教です。
あっそう。
悪しきを祓って助けたまえ、天理王の命。
天理教って、三次元の少し上の霊界で、しょうもないところでも、行く。

大半の宗教の霊界は、この世と、あの世の境目のようなところに、あり、飽きることなく、最高神だと、信じている。

死んでも、妄想たくましくしているから、ホント、疲れる。

騙したあなたが悪いのか、騙された私が悪いのか。
いやいや、アホだから、悪いんです。

すべての宗教を敵に回すことになるが、言う。
神は、妄想である。
仏は、仏陀のオリジナルです。
それぞれが、神と言うものは、霊のことです。
霊にも、色々います。
神と、名乗る霊が、一番程度が低い。
仏とか、菩薩とか言う霊は、頭が悪い。
見破っていますよ、私は。

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2007年10月02日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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