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2007年11月 アーカイブ

2007年11月01日

もののあわれについて122

天平感宝元年6月1日
家持は、日本で最初の、雨乞いの歌を作る。

天皇の 敷きます国の 天の下 四方の道には 馬の蹄 い尽す極み 船の舳の

い泊つるまでに 古よ 今の現の 万調 奉る長上 作りたる その農業を

雨降らず 日の重なれば 植えし田も 蒔きし畠も 朝毎に 凋み枯れゆく

そを見れば 心を痛み 緑子の 乳乞ふ如く 天の水 仰ぎてぞ待つ あしひきの

山のたをりに この見ゆる 天の白雲 海神の 沖の宮辺に 立ち渡り との曇り合ひて

雨も賜はね

すめらぎの しきますくにの あめのした よものみちには うまのつめ いつくすきわみ ふねのへの いはつるまでに いにしえよ いまのをつつに よろづつき まつるつかさと つくりたる そのなりわいを あめふらず ひのかさなれば うえしたも まきしはたけも あさごとに しぼみかれゆく そをみれば こころをいたみ みどりごの ちちこうごとく あめのみず あおぎてぞまつ あしひきの やまのたをりに このみゆる てめのしらくも わだつみの おきのみやべに たちわたり とのくもりあいて あめもたまはね

農業を生業というところに、注目である。
現在は、米余りであり、減反政策である。
米の消費が落ちて、ますますと、米作りが大変になっている。

端的に言う。
米を食べること、文化である。
米を食べないという、文化に移行したということだ。
さて、では、農業、なりわい、といわれる、日本の米作りを、どうするか。

米を食べる、余裕が無いほどの、生活をしている。世の中だということである。

滅び行くものであれば、いたし方無い。
ただ、稲作を行う、私が尊敬する人々に言う。
農協から、離脱して、自ら、自らの作る米を売ることである。
ベンチャー企業の若手の、意識ある、トップにかけあい、売り込むことである。また、消費者に直接売ることである。
農業という、生業を、今こそ、変容させる時である。

そして、米の文化が、日本の正式国名、豊葦原瑞穂の国であること。穂は、日本の象徴である。
その、穂を持って、他国に出るということもある。
日本の米以上に、美味しい米を作るところは、無い。

日本で米が食べられなくなったのであれば、輸出すること。
勿論、政治家の意識が必要である。

食料自給率が、四割に満たない、この現状を、脅威として、捉える政治家がいないようである。
命は、食べ物によって、成る。
命の教育とは、食べ物の、教育である。

昔、米は、金と同じ価値があった。それは、江戸時代末期まで、続く。
大名を測るに、何万石と、米の量を言う。
しかし、時代は、変わった。変わった時代に、昔の価値を求めても、詮無いこと。

貧しい国を、さらに貧しくして、日本の食糧事情がある。飢えている人を、尻目に、日本は、大量の食糧を輸入し、果ては、捨てる。
いつまで続くのか。
米を食べなくなった。つまり、いつまでも、続かないではないか。
この変化を見れば、当然の帰結である。
稲作は、滅びる。

滅びては、いけないと思う者、その意識のある者、多数を持って、それを打破するべき時である。
農協を捨て、新たな組織を作り、ご飯だけでない、米の理由方法、そして、直接販売等々を考案すべきだ。

米は、どこでも売れるようになった。
これが、ポイントである。
日本の米が、世界を救うこと、誰も気づかないこと、哀れである。

さて、家持は、自分の管理する土地に、水を求めて、歌を作る。そして、それは、叶えられた。言霊の力である。

訳す。
大君、すめらみこと、が、しろしめたまう、天の下。
この国の、残る隈なく、馬の通う限りの陸路から、船の泊まり得る限りの海原から、いにしえより、今日に至るまで、数限りない種々の産物が、貢物として、捧げられてきたが、中でも、大切なものは、農産物、米です。
その農産物が、雨降らないままに、重なり、植えた田も、蒔いた畠朝毎に、枯れてゆくばかりです。
これを見ますと、胸が締め付けられます。
みどり児が、母の乳を求めるように、天つ水が、降り注ぐのを、飢え乾くごとくに、待ち望んでいます。
山のくぼみに見える、白雲。あの白雲が、海原遠く、海の神の沖の宮のあたりまで、一面に広がり、曇りを深くして、雨を降らせてください。

上記の歌、確かに、雨を降らせる言霊である。

祈りの言葉である。

反歌
この見ゆる 雲はびこりて との曇り 雨も降らぬか 心足らひいに
ただ今見える、山の向こうの雲。広がり広がり、雨を降らせよ。心ゆくまで、雨を降らせよ。

その、四日後、雨が降る。

わが欲りし 雨は降り来ぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ

わがほりし あめはふりきぬ かくしあらば ことあげせずとも としはさかえむ

年とは、当時の稲のこと。
祝詞では、尊称して、御年とも、呼んだ。

私が願った雨が、降った。
このようにことであれば、言葉にせずとも、今年は、豊年だろう。

言葉にすることを、言挙げすると、いう。
言挙げせずとも、豊年であろうという、確信を得たのである。

自然を恵みと、捉え、また、自然を脅威と、捉えて、自然と、共生、共感する。
これを、唯神、かんながら、と言う。
さらに、これを、神道と、呼ぶ。
加えて、私は言う。
現在の神道は、宗教である。ゆえに、元の神道を、古神道と、呼ぶ。

日本の、唯神の道を、欧米の思想である、神観念で、捉えるなと、言う。
全く、別物である。

あちらは、人霊が、神と、名乗り、傲慢極まりない、規則や作法、そして、契約を結ぶという、愚劣である。

こちらは、自然に、添い、自然に、畏敬しての、宗教的とも言える、行為である。

故に言う。
日本には、宗教は無い。
現在言われる、宗教という名の元に集う者、多数は、邪である。
邪とは、言葉の世界に遊ぶ者である。

それを、観念と言う。

それらは、観念まみれになり、霊界にても、観念まみれで、迷うのである。

キリスト教の恩寵も、仏教の成仏も、観念であり、想像の産物である。
自己暗示によって成る、救いという観念に、埋没する様、ただ、ただ、哀れである。
もののあわれ、ではない。
単に、哀れである。

2007年11月13日

もののあわれについて123

世の中の常無きを悲しむ歌

天地の 遠き始めよ 世の中は 常無きものと 語り継ぎ ながらへ来れ 天の原

ふり放け見れば 照る月も 充ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば

花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り 黄葉散りけり うつせみも 

かくのみならし 紅の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪変り 朝の咲 暮変らひ

吹く風の 留らぬ如く 常も無く 移らふ見れば 行寮 流るる涙 止みかねつも

天地が始まってから、世の中というものは、無常なものであると、語り継いできた。
大空を仰げば、照る月にも、満ち欠けがある。
山の木々の梢も、春には花咲き匂うが、秋になれば、露や霜に打たれて、ひからび、風の吹くままに、散ってゆく。
うつせみの人も、そうである。
青春の紅顔も、いつしか褪せて、ぬばたまの黒髪も、白髪と変じてゆく。
朝の笑顔も、夕には憂いに沈む。
吹く風の見えない如く、逝く水の帰らぬ如く、無常に映り逝く様を見るにつけ、溢れる涙を抑えることが、できない。

朝の咲
あさのえみ
咲くを、笑みと、読ませる。
これは、その時に出来た表現ではない。
縄文期から、人は、笑むことを、咲くことと、同じように、捉えていたのである。

花が咲く。花が笑むのである。
この感性は、如何ともし難いのである。

民族の優劣を言うのではない。
違いを言うのである。
花の咲くのを、笑みとして、捉えた民族がいるだろうか。

言葉に対する感性も、違うということである。

風情に遊ぶ心を、他の民族は、考えられないのである。

風情は、もののあわれ、から、起こる。

さて、上記の歌である。

取ってつけたような、表現である。
憶良の歌を思い出す。

ここで、歴史的背景を持って、分析することであるが、それをしていると、膨大な紙面を使う。
そこで、象徴的なことだけを、言う。

天平宝勝三年。家持、33歳の時の歌である。
越中に来て、四年目であり、妻も、呼び寄せて、安定した暮らしをしている。

この頃、聖武天皇、東大寺に、大仏建造を遂行している。
国家事業としての、対応である。
天平17年着工である。
天平21年に、陸奥国小田郡、みちのくのくに おだこほりにて、黄金が出た。
大仏が、完成に近づき、総仕上げの、金を塗る、その黄金が、不足していた。
家持も、それを聞き、金が出たことに対する、天皇の宣命に対する、寿ぎの歌を歌っている。

仏教は、当時の官僚の最低限の、教養であった。
時の天皇が、仏教に帰依するのである、当然、下々は、それに従う。

ここで、聖武天皇の、大仏建造に、様々な、意見と、見解があるが、私は、それらの説を取らない。

社会主義系の学者は、それによる、民衆の苦難云々という、お決まりの、民衆抑圧の政治の様を言う。社会主義の国で、国民を圧制しなかった国は、あるのかと、問いたいが、詮無いこと。

そして、神道系の学者は、天皇の仏教傾倒を、批判しつつ、大仏建造を否定する。

仏教系は、大乗の精神、日本にて、完成するという。

様々な、立場から云々するが、心に響かない。

冷静に、事実だけを、見る。
聖武天皇は、その大仏建造の有様を、宣命して、伊勢神宮から、諸神諸仏、諸王諸臣から、男子、女子、老齢者、困窮者、あらゆる人々に、特別処置を取った。
さらに、大恩赦を行う。

これは一体、どういうことか。

宣命を見る。
かけまくも畏き遠我皇御世御世の天皇の御霊たちを拝み仕え奉り、衆人をいざない率いて仕え奉る心は、禍息みて善く成り、危うき変わりて平がむと念ほし仕える奉る間に・・・

三宝の勝れて神やしき大御言の験を蒙り、天に坐す神地に坐す神の相うなづない奉り、ききはへ奉り、また、天皇の御霊たちの恵み賜ひ撫で賜ふ事に拠りて、顕し示し給ふ物ならしと念ほし召せば・・・

仕え奉り、という言葉が多い。
三宝の勝れて神やしきく大御言の験を蒙り
さんぽうのすぐれて あやしきおおみことの しるしをかがふり

三宝とは、仏法僧のことである。
それらの、勝れて、神やしき、あやしき、おおみことの、しるしを、頂くという。
神やしきを、あやしきと、読ませる。

神仏混合という、言い方を、続けて、今まできた。

神と、仏と、対立させているのである。

神仏は、日本にて、融合しているのである。

仏教という観念が、輸入された。事実である。
それを、受け入れた日本は、仏教を、神と共に、仕え奉るのである。
つまり、仏は、神であり、神は仏であり、混合するのではない。融合するものである。

仏陀の最大の教えは、あわれみと、いつくしみである。
それを、総称して、慈悲という。

慈悲の思想は、日本古来のものである。
それを、仏陀は、言挙げ、つまり、言うのである。
日本は、言挙げせずであるから、言挙げする、仏教を善しとしたのである。

元から、無いものを、どうして、理解出来るのか。
無いものを、理解せよと言っても、理解する、何物も無いのである。

大乗仏典という、滓のような言葉の世界から、仏陀の慈悲の思想を、看破して、それ、我らが心にあるものであると、即座に取り入れたのである。

仏典を、探り、仏陀の真の教えを、見抜いて、取り出したのである。

だから、聖武天皇の、宣命には、仕え奉るという言葉が多い。

仏陀は、私の霊学から見れば、大和の民と、その族を共にする。
日本に、戻り来た民族と、その地に留まった民族である。
つまり、同じ民族である。

およそ、一万年前のことである。
日本の富士王朝の前身は、9050年前に、大陸にて、王朝を築いていた。
そして、里帰りで、一部の者が、大陸から切り離された、列島を目指す。

仏陀の思想を、仏というが、仏陀は、太陽信仰の民の、末裔である。
混乱極まりない、バラモンの蔓延る地に、人の救いの道として、人は、平等であると、高らかに、宣言したのである。

インドの歴史を調べてみることである。
西から来た、野蛮な人種が、インドに、自分たちの都合のよい、差別を持ち込んだ。
それが、今も存続する、カースト制を善しとする、バラモン教、そして、それを受け継ぐ、ヒンドゥー教である。

同じ血の者が、仏を創作しての、太陽信仰の元を伝えた。
それが、慈悲の思想である。

当然、日本人が、有する情感である。

何も、特別なことは無い。
神道系の者、天皇の仏教への、帰依を好まないとは、知らないからである。
知らないものは、無いのであるから、言うことも無い。

さらに、大乗仏教の完成であるという者。誤りである。
大乗仏教が、日本で完成するということは、魔界の完成ということで、有り得ない。

一部の者のみ、大乗の迷いを受け継いでいるのみで、すべての、日本人は、受け継がない。

その証拠は、これから、大乗仏教の教団、教派、宗派は、壊滅する。つまり、日本仏教団のことである。

そして、社会主義系の、分析である。
彼らは、分析をよくするが、それのみで終わる。
いつも、民衆は、圧政に苦しむと、分析しているのが、関の山である。
社会主義が、人間を幸せにすること、皆無である。
歴史を見れば、解る。

万葉の人の、幸福感を見れば、幸福の基本が解る。
それは、縄文期から、カミという、集団のオサを、戴くことである。
その、オサを、主にして、生活の核心がある。

手、タを結ぶものとしての、カミという、指導者を、戴いて、厳しい自然界で生きる。指導者がいなければ、全滅する。
皆で、まとまらなければ、生きられない。故に、大君を戴く。

大君に、帰依することで、国を、成り立たせるのである。

国とは、コクとは漢語であり、くに、と読めば、大和言葉である。

くウにイ
ウ音は、呼ぶ音霊であり、イ音は、受け入れる、そして、人間の意味である。
国を作る者は、互いに、呼び合う関係であり、受け入れる。そして、集団が出来る。
その集団は、人間の集団であり、霊の存在である。

その集団が、発展し、国は、国家という、国の家となり、多くの人は、共同幻想を抱く。
その、共同幻想の大元に、大君を置いて、ようやく、国家意識と、国体意識が、出来る。

大君は、国家共同幻想の、核となり、それは、大変な責務を負う。

天皇制は、2667年を経る。
これ程に、続いたエンペラーの歴史は無い。
更に、万世一系である。

私は言う。
天皇制が、崩壊しても、どうとも思わない。
しかし、日本の伝統が、崩壊してもいいと、思えばの話である。
天皇制が無くても、国として、十分にやってゆけるのである。

現状の教育を見ていれば、次の世代で、天皇制は、崩壊する。
現、皇太子が、最後の天皇となろう。

私は、実に、凄い歴史の中に、生まれたと思う。

現在の皇室は、本当に気の毒である。
秒単位での、ストレスを受ける。
神として、仰がれた時期のみ、余裕があった。
今は、ただ、気の毒である。

あまりに、気の毒であり、天皇制を廃止しても、よいと思う。
あらゆる価値観に、晒されて、しかし、何一つ、ご自分のお考えを言うことが出来ないのである。

国民は、自由と、平等と、博愛などと、言うが、天皇は、何も無い。
ただ、無心に、無私にして、政務を行うのみ。
国民は、自由と、権利を謳歌するが、天皇は、自由も、権利さえも無いのである。

懐かしいであろう。天皇が、大君と仰がれて、国民が、赤子として、大君に仕えていた頃を。
大君は、国民を思い、国民は、大君を思う。

悪魔の思想、共産、社会主義が、入り、勿論、高天原霊界ではない、別次元の霊界関与の者である、が、入り、人心を錯乱させて、あたかも、正義のように、振舞ったのである。

根本から違うことを知らずに、何をか言う。

私の霊学からは、皆々、別霊界の魂を持つ者である。
さらに言う。
地球以外の惑星から、転生した者である。者というか、物である。

解りやすく言う。
化け物である。

2007年11月14日

もののあわれについて124

天平勝宝二年三月一日の暮、春の卯の桃李の花を眺めて作れる歌

春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女
はるのその くれないにおう もものはな したてるみちに いでたつおとめ

紅の花、盛りの桃の花の苑に、明るく立ち留まる乙女の姿。

三月一日とは、新暦では、四月十五日である。
今までに無い、万葉の美的感覚である。
これは、家持の発見であろう。
時代の余裕を、思わせる。

乙女が桃の花の何かで、佇むという、絵画的な風景である。
見えている物を、歌うという姿勢は、以後、古今、新古今に受け継がれる。

万葉初期は、聴くことであった。
それが、見ることになり、更に、観るという行為に成る。藤原定家に至る歌の道が、見えてくるのである。

堅香子の草の花をよぢ折る歌
かたかごそうの花をよぢおるうた

もののふの 八十娘女らが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花
もののふの やそおとめらが くみまがふ てらいのうえの かたかごのはな

大勢の娘たちが、水を汲んでいる、寺の井戸の、かたかごの花。

何事も無い風景である。しかし、それを、歌にすると、一点、絵画のようになるのである。
短歌の成長である。

これを、万葉初期の、生命力欠如とは、思われない。
新しい境地。やや、病的な境地であり、それは、現在まで、続いている。

翻び翔る鴫を見て作れる歌
とびはねる しぎをみて つくるうた

春まけて 物悲しきに さ夜ふけて 羽ぶき鳴く鴫 誰が田にか住む
はるまけて ものかなしきに さよふけて はぶきなくしぎ たがたにかすむ

春になり、それでなくても、物悲しいものを、夜の更けるのを、羽音を立てながら、鳴き行く鴫は、どこの、田に住んでいるのか。

おかしい。
春が、物悲しい、とは。
あの、春の感動は、どうした。

もののあわれ、についてを、書いているが、家持の、心境にある、哀れではない。
これは、一首の病であろう。
抑うつ的である。

憶良の時も、そうだった。
すでに、この頃から、現代病の、抑鬱が、始まっている。

春が、すでに物悲しいものなのに、夜更けに鳴く、鴫の声が、更に、物悲しく聞こえるというのである。

二日、柳黛をよぢて京師を思ふ歌
ふつか、りゅうたいをよぢて みやこをおもううた

春の日に 萌れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ
はるのひに はれるやなぎを とりもちて みればみやこの おうじおもほゆ

春の日に、芽の含み始めた柳の枝を手に取ると、そぞろに、都の大路が思い出される。

鄙で過ごすこと、四年である。
都を懐かしむ心。
それは、柳でなくても、良いのである。
何でもよい。
何かの拍子に、都を思い出す。
ホームシックとも、呼べる心境である。

夜の裏に千鳥鳴くを聞ける歌
よるのうちに ちどりなくを きけるうた

夜くだち 寝覚めて居れば 川瀬尋め 情もしのに 鳴く千鳥かも
よるくだち めざめておれば かほせとめ こころもしのに なくちどりかも

夜更けに、眠れないでいると、川瀬の瀬を求めて、千鳥が鳴く。それは、哀れな程に聞こえるのである。

情もしのに、とは、家持の心境である。
家持が、情もしのに、なのである。
この心の行く先は、何か。

遥かに江を遡る船入りの唄を聞く歌

朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ船入
あさどこに きけぱはるけし いみずがわ あさこぎしつつ うたうふないり

朝の床で、聞こえてくる、射水川を遡る歌声を聞く。朝早くから、川を上る船人たちの唄である。

抑鬱は、我を観る。
つまり、孤独である。
その孤独の行くへは、何処か。

孤独感と、抑鬱は、紙一枚である。
孤独感に苦しむという場合は、単なる健康的な孤独感か、病的な孤独感かで、意味が違う。
繊細微妙な、日本人の感性は、ここで、佇むのである。

果たして、日本人の孤独感は、病にあるのか、否か。

極め付けの歌がある。
衆人から、家持、最高の歌と、称される歌である。

二月二十三日興によりて作る歌
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに 鶯鳴くも
はるののに かすみたなびき うらかなし このゆうかげに うぐいすなくも
興とは、饗宴、宴会である。
多くの人の中にいて、何故、このように、うら悲しいのか。
裏とは、心のことである。

心が悲しいと、言う。
上記の歌の翌年、天平勝宝三年七月、少納言に任じられて、都に戻り、人との付き合いが、始まっていた。
しかし、家持は、沈む心を抑えられないのである。

もう一首

わが宿の いささ郡竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも
わがやどの いささむらたけ ふくかぜの おとのかそけき このゆうべかも

音のかそけき、つまり、風の音に、心を捉えられているのである。
ささやかな風の音に、何をして、聞き入るのか。
いや、聞き入るのではない。家持が、かそけき、風になっているのである。

私は、抑鬱と言うが、別の言い方をすれば、寂寥感を伴う孤独感である。
何故、このような、寂寥感を持つのか。

人は、何ゆえに、寂寥という感覚を持つのであるのか。

繊細、優美とも言う。
これは、もののあわれ、か。

そう、これも、もののあわれ、である。

いよいよ、捉えることが出来ない、もののあわれ、である。

家持は、万葉集の選者である。
その家持が、万葉を過ぎて、中世へと行く。
万葉を逸脱するのである。

軽薄短小の仏教思想、無常観という、観念、妄想に、家持も、捕らわれ、陥るのである。
無常感覚と言うものが、いかに、お粗末なものであるか。
それは、単に生命力の欠如を現す。
そして、もののあわれ、と言うものの、姿を、更に曖昧、微妙にする。

説明すれば、するほど、もののあわれ、が、遠のくのである。

何度も言うが、人は、老いると、無常感覚を、黙っていても、持つのである。しかし、仏教は、それを、更に、深めるのではなく、貶めるのである。陥れるとも、言う。
浅はかである。

さんざん、遊んだ挙句の果てに、無常観を感じて、出家したとして、何の益も無い。しかし、益があると信じ込む。
実に、仏教というものは、人間を堕落させるのである。

世を儚み、出家したといわれる、西行は、儚んで、あれ程の、歌を読むか。
無常感覚を飲み込んで生きたからこそ、歌を読み続けた。
もし、まやかしの無常観、その感覚に酔うならば、歌など読まない。歌を読むことは、妄執になる。
西行の歌は、皆々、嘘になる。

軽薄な、無常観に酔うものではない。
死後も、無常観に酔う者、浮遊して、この世に漂うのである。
つまり、徹底していないのである。
仏教思想、それは、漂う、浮遊する何物でもない。
誤るな。

二十五日作れる歌一首
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 情悲しも 独りし思へば
うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりとおもへば

ここに至り、家持は、万葉でも、古今や、新古今でもない、新しい境地、まだ、出来ていない、古今や新古今にない、境地を見出した。
家持の世界である。

悟りというのは、こういうことを言う。
決して、仏などには、ならないのである。人間と断絶したものにはならないのである。

こころかなしも ひとりしおもへば
もののあわれ、である。

全く、別手法で、もののあわれ、というものに、達したのである。

絶対孤独と、書けば、限定される。

もののあわれ、とは、無限定のものである。
捕まえ処の無いもの、捉え処の無いもの、それが、もののあわれ、である。

どれ程、言葉を積み上げても、表現し得ないものがある。
もののあわれ
である。

この、万葉集を終えるに、当たり、驚愕することを言う。
仏教、中でも、禅宗では、大悟するという。
余りに、愚かで、空いた口が、何とかである。

人は、悟るものではない。
それを言うならば、悟り続けるという。

日本の伝統に、悟るという心的、状態は無い。

悟りを得た、家持が作る歌を、最後にする。

病に臥して無常を悲しみ、修道を欲して作れる歌
うつせみは 数無き身なり 山川の 清けき見つつ 道を尋ねな
うつせみは かずなきみなり やまかわの さやけきみつつ みちをたずねな

寿を願ひて作れる歌
泡沫なす 仮れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千歳の命を

みつほなす かれるみとぞは しれれども なおしねがいつ ちとせのいのちを

実に、悟りとは、個人的感傷である。

家持も、その個人的感傷から、脱することか、出来なかった。

もののあわれ、万葉編を終わる。

ちなみに、これから、研究出来る者は、家持の、生まれから、その時代を鑑みて、家持を分析することである。

家持の名は、万葉集と、共に、普遍となった。
その大伴家持を研究すること、学徒としては、本望だろう。

遥かなる慰霊の旅・タイへ

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅

11月1日、晩秋を過ぎて冬を感じさせる寒さを感じる日の朝、タイ行きの最終の準備をして、部屋の中を整理し、出掛けた。

実は、その前日、父が、10年程再発しなかった、喉頭癌が再発し、手術をしていた。手術は、うまくゆき、大丈夫とのこと。しかし、高齢でもあり、そう長くは無い。
それも、覚悟していた。声を失った、父とは、話が出来ないが、父は、母や、弟から、私が、タイに慰霊に行くと聞いているはずである。

父は、最期の少年兵である。
志願兵である。
15歳で、お国のために、死ぬ覚悟で、出兵した。
しかし、戦場に出る前に、終戦となった。
もし、終戦が少し遅れていれば、父は、死んでいた。
そして、私も、この世にいない。

バンコクを経由して、チェンライという、北部タイの町に向かう。
乗り継ぎのために、バンコクに一泊することにしていた。

タイは、日本より、二時間遅い。
日本では、深夜12時、タイでは、10時に到着し、タクシーに乗り、バンコク市内の予約したホテルに向かう。

大都会のバンコクの下町にある、安いホテルである。
翌朝、朝食を済ませて、空港に向かうので、十分なホテルだった。
夜の街に出ることもなく、私と、同行の野中は、シャワーを浴びて、ベッドに着いた。
勿論、すぐに、眠ることは出来ない。いつもの癖で、寝つきが悪い。
長旅に疲れは、禁物なので、睡眠導入剤を飲む。
そして、少し缶ビールを飲んだ。
しかし、本来ビールは好きではない。すぐに飽きて、止めた。

日本でも、私の朝は早い。五時から六時に目覚める。
バンコクの朝も、五時に目が覚めた。
目覚めながら、ベッドにいた。
そして、本日の予定、チェンライでの予定を、反芻していた。
強行な予定ではない。
ゆるやかな予定である。決して、無理をするような計画は立てない。

昨日のタクシーを野中が予約していた。
10時になると、タクシーが来た。
5分遅れである。しかし、ホテルに、タクシー運転手から、遅れるとの電話が入ったそうだ。野中が言う。そんなことは、なかったと。きっと、私が、着物を着ていたので、タクシー運転手が緊張したのだろうという。

この、着物姿は、実に、有効だった。
色々な旅の時に書いたので、省略するが、着物の威力は、凄いものがある。
着物は、信用であり、権威であった。

さて、順調に、新しいバンコクの空港に着く。昨日も、新しい空港に着いた。古い空港は、まだ利用されているが、国際線からの、乗り継ぎは、新しい空港が、便利である。

新しい国際空港は、バンコク市街の東約27キロにある、スワンナプーム空港である。
古い、ドン・ムアン空港も、市街から北20キロにあり、現在も使用されている。

チェンライ行きの飛行機は、国内線専門のエア・アジアである。
国内線の格安チケットを売る。座席の指定なく、機内の飲み物サービスも、有料である。

国内線は、陸の上を飛ぶ。海がないから、下界は、山々と、続く。飛行時間は、一時間と少しで、東京札幌間程度である。

田舎の空港である。
早速、タクシーに乗り、市内に向かう。宿泊ホテルを決めていないので、市内の中心に向かってもらった。目印は、時計台である。
ただし、時計台は、改装中であった。
20分程で、市内に入り、下りた前の中華料理店に入った。
料理店といっても、オープンになっていて、地元の人の食堂である。
タイラーメンと、よく解らないが、店先にある、ケースの品を指差し、注文した。すると、注文したものを、横のガス台で、焼いてくれる。

シュウマイに似たものと、小さなアンマン。何となく、美味しいので、更に、もう一つ頼んだが、今、それを、思い出せない。
その店にいると、私の子供の頃の風景がある。40年ほど前の、北海道の田舎街の風景である。食堂のイスも、テーブルも、同じだ。
不思議な感覚に襲われた。
今は、田舎に戻っても、そんな店は無い。

気温が思った以上に低い。肌寒いと思う程だ。
同じタイでも、北であるから、当然であるが、南の国のイメージが無い。

食べ終えて、次に、宿探しである。
地図を見て、安いホテルに向かう。ところが、そのホテルが無い。取り壊されていたのである。驚き。
その付近を少し歩く。
ゲストハウスの前に来て、声を掛ける。
野中に、部屋を見せてもらうと言い、私が中に入った。
確かに、安いだけある部屋である。問題は無いが、最初に泊まるには、少し、寂しい。
気持ちが、萎える部屋は、駄目だと、また、歩く。
今度は、ホテルである。中型ホテルである。
二人で、1200バーツ。約4000円である。
日本円にすると、安いが、現地では、高いホテルである。勿論、まだまだ高いホテルは、ある。しかし、私たちには、高いのである。
最初の一泊を、そこに決めた。ところが、全室、禁煙である。
「あらー、禁煙なら駄目だーー」と、私。英語で、アイ、ヘビースモーカーと言うと、受付の女性が、オッケーと言う。喫煙の部屋があるという。

実は、タイのホテル、ゲストハウスは、禁煙が多い。多くなったといってよい。公共施設、レストラン、等々、皆、禁煙である。しかし、野外は、喫煙できる。暖かい国なので、外でも、平気である。

与えられた部屋は、二階の豪華な部屋である。
そうそう、それで朝食付きである。

部屋が決まり、安堵して間もなく、明日からの部屋と、ミャンマー国境へ行くための、手配をしなければならない。
と、そこで、野中が、自分のリュックを忘れたと、言う。
えっー、どこで。
あの、食堂だと、言って、野中が出た。
私は、冷静に、考えた。
確か、ゲストハウスまでは、背中にあったと思った。置いたとしたら、あの、ゲストハウスである。
戻ると、無いという。
「あんた、あのゲストハウスに行っておいで」と、私。
その時、野中が、中華料理店の主人に親切にしてもらい、色々と、連絡を取ってくれたという。タクシーなら、空港のタクシー乗り場だと、近くの旅行会社に行き、一緒に電話をしてくれた。そして、その旅行会社の人も親切にしてくれた。
そこで、ミャンマー行きのことも、聞いたという。
禍が転じて福となる。
2400バーツで、一日、ミャンマー行きが出来るという。
後で、その旅行会社に行くことにして、まず、ゲストハウスに、野中が、行った。案の定、リュックは、そこにあった。
目出度し目出度しである。

そして、早速、あさっての、ミャンマー行きの申し込みに行く。
約6時間の予定で、2400バーツ。観光、食事込み込みの料金である。
温泉、サルの何とか、色々と、オーナーが言う。私は、ミャンマーに行くだけが、目的だから、聞き流していた。
兎に角、料金を払い、決定した。約6800円である。

そして、最後に、オーナーが言う。
女は、どうすると。
女学生なら、一晩、4000バーツだと言う。約、13000円程度である。
売春である。平然として言うから、驚く。
私が、そういう話を断る時、アイ ライク ボーイと言う。すると、何も言わないのである。ボーイが好きなのだから、女に興味が無いのである。そこまで言わなければ、しつこく、売春を勧められる。ところが、このオーナー、その言葉に、たじろぐ事無く、何度も、私に言うから、驚いた。
誰が教えたのか、オマンコを連発する。
もう、笑うしかない。何を意味するのか、知っているのか、知らないのか。女を、そういうものだと、教えた日本人がいるのであろう。

旅で、問題なのは、食べることである。さて、昼は、夜は、何を食べるか。旅の楽しみの半分は、食べることである。現地のものを、食べる。それは、現地を理解する、最高の手立てである。そして、市場、スーパーでの買い物。私は、これが、大好きである。

2007年11月15日

遥かなる慰霊の旅 タイへ2

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 2

長旅では、決して無理な予定は立てない。
必ず、一日を置き、間を置いて行動することにしている。
前回のタイでは、野菜サラダを食べて、当たり、一日寝ていることになった経験がある。それは、消耗が激しく、辛いものだった。吐き気が止まり、下痢だけになったので、病院に行くことはなかったが、24時間、動くことが出来なかった。

ミャンマーに入る前日は、一日、のんびりと過ごすことにした。
と言っても、ホテルを変更しなければならない。

朝、ホテルの豪華な朝食バイキングを食べて、休み、チェックアウトの12時まで、ホテルにいた。

ホテル探しの前に、昨日の旅行会社に向かった。そこで、紹介されるホテルなら、良いホテルを紹介されると思った。

行くと、私たちを待っていたかのように、昨日のオーナーがいた。
あらら、と思った。社員で、良いのに・・・

ホテルの紹介を言うと、オーナーが、一番良いホテルを紹介した。
通常の日本のホテル並みの料金である。
違う、違う、もっと、安いホテルだと言うと、次のレベルに落とすが、まだ、駄目だ。私の和服のせいで、お金があると、勘違いしている。
「もっともっと、安いホテルでいいの」私が言った。日本語で。通じた。

コテージ風のホテル、実に、その会社の向かいの、ゴールデントライアングルインという、一泊800バーツ、二泊で、1600バーツのホテルに決めた。二泊で、約5200円ほどである。朝食付き。
実は、私は、一泊600バーツほどのホテルを望んでいた。約2000円である。
しかし、妥協した。

オーナーが、私たちを連れて、ホテルに向かった。
二階建てのコテージである。私たちの部屋は、二階の角部屋である。道路に面していて、目の前に、ソニーの看板が見える部屋である。
十分だった。
オーナーは、また私に、オマンコと言った。笑って、済ませた。

その日は、タイマッサージの予定である。
一時間200バーツ、約660円のマッサージである。それが、また、凄かった。
アカ族の女マッサージ師である。うまい。マッサージというより、指圧に近い。
日本の一割の料金で、十分なマッサージを受けられる。これが、タイの魅力でもある。

野中は、少しタイ語が出来るので、アカ族の女と親しくなり、色々と、彼女の境遇を聞いた。未婚の子持ちである。息子は、ミャンマーの孤児の施設にいるという。
ミャンマーのアカ族には、古代の乱交の風習があり、誰の子か解らないらしい。
いずれ、息子には、英語を学ばせたいと言う。日本円にして、一月3000円ほどの資金があれば、それが出来るが、その3000円を得ることが出来ないのだ。

その日の、朝食は、ホテルで取ったが、昼食が思い出せない。手帳見ると、夜に和食とあるが、その和食の内容も、思い出せない。矢張り、細かに書いておかなければ、忘れる。

実は、日本から出る前に、私は、鼻風邪を引いていた。それも、強烈なものである。親切に、子供の鼻をかんであげて、その紙で、自分の鼻をかんで、移ったものである。免疫がなく、治りが悪いので、抗生物質を飲んでいた。
引き続き、風邪薬と、抗生物質を飲み続けていた。

夜の食事をして、野中と別れて、私は、ぶらぶらと、小路を歩いた。
小路の端の、オープンな中華料理の店で、緑茶を頼んだ。
禁煙ではないが、灰皿が無い。
オープンだが、店先のイスに座り、タバコに火を点けた。
灰は、ブリキの缶に入れるらしい。いちいち、立ち上がって、その缶に捨てる。
禁煙運動家には、実に、気分の良い、対処である。
タバコを吸うのが、面倒になるのである。

少しして、私は、ホテルに戻る道を歩く。
その辺りは、マッサージの店が多い。妖しい店もある。
わざわざ、レディーマッサージとある。何となく、理解できる。
そこを通ると、マッサージマッサージと、声がかかる。

その時の私は、タイパンツと、Tシャツなので、それほど、強引な誘いはなかった。
ただ、可愛らしい女の子が、じっと、こちらを見ているのに、心が弾かれた。その顔には、悲しみがある。悲哀といってもいい。
抗えない運命の中に身を置くという、風情である。
生きるため。
生きるためにと、考えて、生きるということを、知らない、日本の若者には、理解出来ない風情である。
食うために、男の性の処理を行う。

チェンマイに行くと、チェンライから来たという者が多い。そのチェンライで、更に、田舎から出てきて、働く。
少数部族の女が多い。
マッサージも然り、体で稼ぐしかない。
うまくいけば、レストランのボーイ、ウエイトレス。ホテルの下働きである。
その給与は、一月、3000バーツ程度。約、一万円である。
しかし、生活が出来ない。それと同じ分を、チップに頼るという。
それで、約二万円。

しかし、私は、哀れむことはしない。する必要も無い。
それが、現実である。
私も、日本にて、現実を生きる。
観光旅行なら、私は、来ることも無い。また、そんな余裕は無い。
慰霊と、ボランティアをするための、支援を受けて、旅をしている。
私も、哀れまれる存在である。

悲しい顔をした彼女は、私を悲しい顔をした、男だと、見ていたはずである。

例えば、私が彼女の一時間を買ったとして、私は、彼女に解消して貰う、欲望は無い。

私のマッサージをして貰う歴史は、長い。マッサージを受けるプロである。つまり、余程の力量のある者でなければ、私を満足させられない。オイルマッサージを、何度かしたが、あんなものは、子供だましである。
逆に、後味が悪くて、凝りが出て、具合が悪くなる。
凝りを取り除くという技は、並大抵ではない。

変な整体に、痛みのないソフト整体などという者がいる。あれは、逃げである。凝りを取り除こうとすれば、当然、痛みがある。生殺しのような、整体マッサージを受けて、何度も、具合が悪くなった。二度と、受けない。
どんなマッサージ師、整体師より、私の方が巧い。何せ、マッサージを受け続けて、30年以上のキャリアである。
理屈ではない。

ちなみに、死んだ人間には、凝りというものが無い。
生きている人間にだけ、凝りというものがある。
生きている証拠が、凝りである。

凝りには、その人の、全人生が表現される。
一時的にでも、凝りを取り除くということは、その人を、一時時に、人生から、解放するということである。
その意識無い者が、マッサージなど、出来るはずもない。

更に言う。

性処理のマッサージも、二度としたくないというものが、本当である。
性とは、繰り返しである。
繰り返しから、逃れられない。つまり、性とは、排泄の快感である。糞、小便と同じである。それが、崇高な生殖に繋がると考えるのは、愚かである。

妊娠から、出産に至り、そこから子育てが始まる。そこに、崇高な行為がある。
性行為が、崇高ではない。
子供が出来てからが、本当である。
だから、生み逃げする男などは、最低最悪である。

性処理マッサージは、商売として、堂々としたものである。
毎日、食堂で、食べるように、性処理マッサージで、処理をする。それでいい。それで、生計を立てる者がいる。
経済行為である。

日本も、戦後、女の股で、ドルを稼いだ。
韓国でも、女の股で、外貨を稼いだ。中国もであり、その他、多々ある。
政府は、女に感謝して、余りある。
女の股が、国の経済を立てる。
正統な売春に、異議申し立て出来る者はいない。
正統な売春とは、児童買春以外である。男も、体を売って稼ぐといい。売れればである。

遥かなる慰霊の旅 タイへ3

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 3

ミャンマー国境の町、メーサイへ向かう。
ホテルを朝、10時に出発する。
乗用車には、運転手と、オーナーがガイド役で、同乗。
この、オーナーが、兎に角話しがしたいようで、英語でまくし立てる。それも、よしと、タイ、最北の町に向かう。

運転手は、19歳の、まだ少年の面影のある子。英語ができないゆえに、話ができない。
運転が上手で、思った以上に早く、メーサイに到着した。約一時間である。

町に入ると、俄かに活気がある。
そして、国境の前の広場は、人の波である。

二時間の約束で、オーナーと別れる。
二時間あれば、川で、慰霊が出来ると考えた。
また、子供服も、携えていた。

まず、タイ側で出国をし、橋を渡って、ミャンマーに入る。
10ドルを支払い、出国審査を受ける。
パスポートを預けて、預り書を貰う。
ミャンマーは、タチレクのみに入るので、スムーズである。
ただ、半日程度の観光客が多いので、並んでいる。
皆、欧米人である。日本人の姿は、見なかった。

ようやく通されて、橋を渡り、タチレクの入国審査である。
問題なく、スムーズに進む。

橋の上でも、商売が行われていた。
驚いたのは、海からのカニを売っていたことだ。タイ人なのか、ミャンマー人なのか、解らない。
野中が、タイ語で話すので、タイ語も通用するようである。

タチレクに入ると、すぐに、トゥクトゥクの誘いである。
バイクに、荷台を取り付けて、二人の客を乗せられる。
一人100バーツで、市内観光が出来る。
おじさんは、タチレクの名所の写真を見せて、すべて回ると、言う。言葉は、解らないが、そう言っていると、解る。
私は、町を見下ろせる、寺、パゴダを指した。
そこを見てから、川沿いに行こうと、思った。

町一番の寺には、人がまばらである。
小学生ほどの年齢の少年僧の姿が、目に付く。

まず、寺の本堂に入り、黙祷する。
横で、地元の人が、礼拝していた。
着物姿からか、別の観光客をつれて着ていた、男が、私に説明するから、おかしかった。
片言の英語で、よく解った。
片言の英語しかできない私には、片言の英語が、通じるのである。

仏像の話をするのは、難しい。
日本の仏像のイメージではない。仏像に対する認識が違うのである。
これは、後で、タイの仏教を語る時にも、書くことにする。

ただ、あちらの仏像には、霊的波動が強いということだ。
それは、人霊の憑依現象である。
あちらの人は、寺、仏像即、仏の世界である。
当然、死後、寺に集う霊もいる。

寺を終わり、その上の塔へ向かう。
そこからの眺めが、素晴らしい。八方を眺めることが出来る。

実に、親切な女が、礼拝の仕方を教えてくれた。
塔の周りに、七体の仏像があり、生まれた曜日による、仏様である。
花と、鳥籠を買う。鳥籠には、すずめが入っている。

仏像の前での礼拝の仕方を教えられて、仏像に手を合わせ、水を掛ける。
その時、私が、よく解らないので、後ろから、日本語で、三回、二回、一回と、教えるものがいる。振り向くと、少女である。
女は母親で、少女は、その子であった。

水を掛けて、すべてが終わると、すずめを放つのである。
それで、完了。
すると、少女が、チャイナブッダ、タイブッダ、ビルマブッダと、指差した。
その場所に向かう。

四体の仏像がある。
皆、造りが違う。
何となく、中国の仏像、タイの仏像、ビルマの仏像が解る。
そして、少し離れてある仏陀の像は、インドの姿だろうか。

ここでは、仏陀が、普遍的存在の、ブッダとしてある。
ブッダは、仏の総称であり、実在の仏陀を言うのではない。
タイも、ビルマも、小乗仏教が伝わった。
これについても、後述する。

一応の礼拝が終わる。と、途端に、親子が、袋から、何かを取り出した。
物売りだった。
次から次と、売る物が出てくる。
私は、少女の20枚で100バーツの絵葉書を買った。
しかし、これはどうだ、これはどうだと、出てくる。
一々断るのが面倒なので、立ち上がった。
タイ語で、コークプンカップと、お礼を言う。

これ以上、押し売りされると、折角の気分が悪くなると、出口に向かった。
野中も、そくそくと、戻ってきた。

客が少なく、私たちに、バーイと、言う。
その時、少年僧三人が、道とは別の場所から、現れた。
私は、すぐに小銭を探して、彼らに供養した。
丁度、野中がいて、写真を撮る。

トゥクトゥクに乗り込んで、道を戻る。
少し、名残惜しい気がした。物売りが無ければ、もう少し、時間を持って、暫く、周囲を見渡していたいと思った。
タチレクは、小さな町である。その町に、人種の坩堝があった。
ミャンマー人といっても、多くの少数部族がある。
そして、インド系の人。タイ人もである。中国人も、勿論いる。
それらが、ミャンマー人や、タイ人として、括られる。

トゥクトゥクのおじさんは、どういうつもりか、街中を走る。何も言っていない。
屋台のもの売りの市場に出た。
一斉に、物売りが寄って来る。
ゴーゴーと、おじさんを促す。

おじさんが、何を考えているのか解らないが、教会、キリスト教会に連れてゆく。プロテスタントのバプテスト教会と、カトリック教会である。
写真にある、観光名所を示さなかったので、おじさんが、気を回しているようだった。
そこで、私は、おじさんを止めて、川沿いに行くことを言う。しかし、言葉が通じない。
野中が、英語、タイ語で言うが、駄目。
何としても、通じない。
頷くが、また、別の場所に行く。

教会の前に戻る。
その時、一人の黒人が現れた。
宣教師であろうと、思った。
私たちの話を聞いて、通訳に出てくれた。
もう、二時間に迫り、いまから、川沿いに行っても、無理だろうと思い、元の場所に戻ることを、伝えてもらう。漸く通じて、発進した。

元の場所に戻り、私は、慰霊が出来ないことと、子供服を、少数部族の人に渡せないことが、残念だった。
残り時間は、15分程である。その時、トイレに行きたくなった。が、見当たらない。しかたなく、下町の中に入る。トイレを借りようと思った。
そこが、下町の、囲いのある場所だとは、後で知る。

老人に、トレイを借りたいと、野中が、タイ語で言うと、通じた。
一件の家を示された。そこに、女の子と、男の子、そして、二人の幼児が寝ていた。
トイレを借りて出た。
そこで、子供服を上げたらと、野中が言う。
打って付けだった。早速、取り出して、女の子と、男の子に合うものを、探す。そして、寝ている幼児の服も、多くあった。大半が、ぴったりである。そして、まだ残るものを、先ほどの老人に託した。
老人が、その地区の警護役だと、写真で知ることになる。

2007年11月16日

遥かなる慰霊の旅 タイへ4

遥かなる慰霊の旅・タイへの旅 4

いよいよ、国境を越えて、再びタイに戻る。
名残惜しい。
二時間は、あっという間であった。
何より、川沿いにて、慰霊が出来なかったのが、残念である。勿論、どこの場所でも、出来るが、ミャンマーである。怪しまれて、尋問を受けるということになれば、大変なことである。
この地にも、多くの日本兵が、辿り歩いた土地である。
しかし、もう時間が無い。

国境を戻る。
すでに、一時を過ぎている。
腹も空いた。

国境を渡る橋で、彼らと出会った。
それは、橋を拠点にして、生活する、アカ族の子供たちである。要するに、ストリートチルドレンである。
まず、私の傍に来て、缶を差し出す。お金を恵んで欲しいというものである。
小銭を出して、その中に入れた。すると、次から次と、やってくる。
私の周りに、子供が溢れた。

その中に、一人、賢い顔の男の子がいた。
子供たちは、貰った小銭を彼に渡している。要するに、その中の、主、オサなのである。
彼は、子供たちに、分配する役割を持っていると、見た。
その彼の白いTシャツは、煤けて、真っ黒になっている。

彼は、私たちが、ミャンマーの手続きを忘れていることを、教えてくれた。
そのまま、タイの国境に向かっていたのだ。
再度、戻り、ミャンマーを抜けることが出来た。

その時である。あの、子供服をと思った。しかし、もう一枚も無い。

私は、タチレクの街中でインド人が売っていた、揚げ物を、彼に渡した。
興味本位で買った揚げ物だった。後で、どんなものか、食べてみようと思ったのだ。
彼は、それを受け取ると、皆に、分配した。
さすがだった。

少数部族に関しては、多くを知らないが、実に、多くの部族がいる。
中でも、有名なのは、アカ族である。
実は、この地は、アカ族の支配にあった土地である。しかし、彼らは、追われて、分散し、ミャンマー、タイに、点在している。
ミャンマーにいるアカ族が、特に貧しい。だが、貧しいといえば、多くの少数部族は貧しい。ろくな、衣服も無い部族もいるという。

そこで、あることを、聞いた。

貧しい少数部族に、キリスト教の布教が入っているという。
私も、タチレクで、プロテスタント、カトリックの教会を見た。
プロテスタントは、数多く、多くの派閥が参入している。

少数部族を、キリスト教に改宗させるという、傲慢極まりないことをしている。
そして、その方法である。
断じて、許し難いのである。

教会に出ると、お金を出すのである。
そして、村の中心人物に目をつけて、それを、懐柔する。勿論、お金である。
そして、村の人々を教会に通わせる。
それが、それまでであればいい。しかし、それが、逆効果を生む。
教会に行けば、お金が貰える。すると、働かない。そして、余裕が出来ると、麻薬をやる。

国境地帯は、麻薬の温床である。

勿論、キリスト教の信仰を拒んで、お金を貰わない部族もある。
貧しいままで、自分たちの信仰を守る。というより、伝統を守るのである。

キリスト教徒は、売春を事の他、嫌うが、キリスト教徒である、売春をするのは。ヨーロッパ系の男は、大半が、タイ人の女を連れている。
勿論、欧米人だけではない。多くの国籍の者、売春をする。
それは、それでいい。

しかし、キリスト教を布教するために、お金を使用するとは、許せないのである。
つまり、体は、買わないが、心を買うということである。
それを、私は、売心と言う。
ばいしん、である。

買春をする者を、キリスト教徒は、裁くが、心を買う行為を平然と行う。
それらの、お金は、本国の信者から、集めたものである。
キリストの教えを伝えるためにという、大義名分で、思う存分に、寄付を募るのである。

そして、最も大切な、部族の伝統を破壊し、平然として、誤りのある、キリスト教を伝える。
一神教が、現在の世界の、大きな罪悪であることを、彼らは知らないし、知ろうとも思わない。信じてしまえば、元に戻らないのが、一神教である。

欧米諸国の傲慢は、キリスト教に象徴される。
ここでは、教義に触れないが、彼らの神学は、完全無欠に誤りである。
それは、唯一の神というからである。

この宇宙に、唯一の神という存在は無い。

更に言う。
チェンマイにて、野中が、プロテスタント系の教会に、何度か出掛けて、その教えの様を、見聞してきた。
明らかに、タイの国情を混乱させる教えを、平然と行っている。
タイは、九割以上が、仏教であり、それは、宗教の域を超えて、伝統となっているのである。加えて、ピーという、精霊信仰である。仏教以前の、タイの伝統的信仰形態である。
それを、簡単に破壊する。

我のみが正しいと、キリスト教徒は、どれ程多くの人の命を奪ったか知れない。
侵略というならば、アメリカなどは、とんでもない侵略をしたのである。数限りない、インディアンを殺しつくして、アメリカという国を建てた。清教徒というが、とんでもない。悪教徒である。

スペインなどは、アメリカ大陸で、現在のブラジル、ペルー、チリなど等の、原住民を一億人殺したのである。カトリックの名においてである。

ただ今、タイに布教するキリスト教は、タイの伝統を破壊し、果ては、対立をもたらす。
タイ南部では、イスラムが、仏教徒を殺すと言うテロが、横行している。これに、キリスト教が絡めば、また、大変なことになる。

まず彼らがやることは、罪の意識を植え付けることである。
タイでは、何でもなかったことが、罪と意識される。そして、次に、マインドコントロールである。
洗脳するのである。

他宗教に免疫の無い、タイの若者が、その罠に嵌る。
一見して、ボランティア等で、良い行為をしているが、元を辿れば、布教である。彼らは、無償の行為などしない。神の愛が、アガペーという、無償の愛と言いつつ、彼らは、信者獲得のために、善行をする。それは、善行にならない。報いを求めるからである。キリスト教への改宗である。

そして、その奥の奥には、白人支配の傲慢がある。
白人のみ、正しいのである。
キリスト教が、ローマカトリックになった時からの、それは、歴史である。
本来の、ユダヤ人キリスト教徒までも、異端として、退けたのである。
十字架に張付けられたイエスキリストを、白人に、置き換えたのである。

主なる、イエスキリストは、ユダヤ人である。

低脳な霊能者をも凌ぐような、低レベルの、霊的行為をもって、洗脳する様を、野中は確認している。
賛美歌を歌いつつ、聖霊が降りたと、若者を騙すのである。
キリスト教徒の上に、聖霊が降りることは、無い。降りるのは、悪霊である。聖霊が降りれば、原爆など投下出来ない。
キリスト教徒の霊性とは、自己暗示である。彼らが、逆立ちしても、太陽の霊性を得ることは出来ない。すべて、実証済みである。

仏陀は、人は行為によって、成るものに成ると言う。実に、正しい。
キリスト教徒の行為を見よ。それで、十分であろう。

タイには、いや、ミャンマーにも、続々と、キリスト教の布教が入り込んでいる。イスラムとの、戦いである。世界は、イスラムに傾いている。巻き返しを行っている。
私は言う。決して、キリスト教によって、救われることはない。混乱を招くのみである。

遥かなる慰霊の旅 タイへ5

遥かなる慰霊の旅・タイへ 5

タチレクの国境を越えた。
タイに戻る。
心なしか、後ろ髪を引かれる思いがした。二時間は、やはり短い。
ああ、これが人生かという思いと、共に、ここに、再び来るという、強い思いである。
それが、確実になったことがある。

野中が、オーナーと連絡して、待ち合わせの場所を決めている間に、私は、路上でミカンを買った。
一つを食べ、旨いので、もう一つを食べた。
野中が呼びに来たので、後を付いた。
国境の境目に外から向かう。
丁度、そこに、タイ最北の碑があった。
その時である、ハローと叫ぶ声がする。
何度かの声に、私は、国境の鉄格子を見た。
あのアカ族の主、オサである少年が、私に声を掛けていた。

私が食べていたミカンを、くれ、と言っていると感じた。
すぐに、傍に近づき、金網越しから、一つミカンを差し出した。
それを受け取る。

頷いた少年に、私は、感動した。
単なる、物乞いだったとしても、私は感動した。
後で、すべてのミカンを上げなかったことを後悔したが、これこそ、後の祭りである。

来年、もう一度来て、あの子に、大金を上げようと思った。
大金といっても、あの子にとっての大金であり、日本円にして、五千円程度である。
それを、元手に、物乞いではなく、物を仕入れて売ることを教えたいと思った。
子供たちの、主、オサになっているのである。賢いはずだ。

橋の上で、生活しているアカ族の子供たちに、その場で、生きるべくの支援をしてもいいだろう。
今日を食い凌ぐことで、精一杯なのだ。
そこに、ほんの少しの援助があれば、何とか、新しい道を踏み出せる。

再び、ここに来ると、決めた。
彼らに会うためである。
そして、川沿いでも、慰霊を行うと、再度、決めた。

車に乗り込み、メーサイ一のレストランに向かった。
それも、コースの中に入っているのだ。

国の違いが、ハッキリと解る。
タイに入ると、建物から、違う。
タチレクと、メーサイでは、その様が、全く違うのだ。

レストランでは、昼食のバイキングである。
焼き飯、焼きソバから、名前の解らない食べ物が沢山ある。
口に合わないが、食べた。空いた腹を満たすためである。
スープソバも食べたが、調味料の混ぜ合わせに慣れていないゆえに、へんてこりんな、味になる。
口直しに、甘いお菓子を食べる。お菓子は、美味しい。

食べ終わり、私は、一足先に、店先に出て、タバコをふかした。

空を見上げると、曇っていた空に、薄っすらと、日差しが差している。
何とも言えぬ気持ちである。
一年前には、考えていなかった、旅である。
まさか、タイ最北の地に来て、ミャンマーに入るとは。

オーナーも、運転の少年も、野中も出てきた。
オーナーが、ショッピングと、何度も言う。
レストランの隣に、装飾品の店がある。
そこに行けということなのだ。
愛想程度に入ってみることにした。

一人の若い女性店員が、私に、張り付いた。張り付くという程の、接近である。
私、あなた、割引する。それを、繰り返すのである。
視線を向ける物を、すぐに、目の前に取り出す。
商魂というのか、何というのか、殺気まで、漂う。

私は、着物には、何も付けないと、身振り手振りの英語で言った。
それでも、私、あなた、割引すると、張り付いてくる。

やっと、助け舟が現れた。
別の客が入ってきたのだ。
私は、即座に、店を出た。すると、野中も、逃げるように、出てくる。

何事もなかったのかように、車に向かう。
オーナーは、買い物については、何も言わなかった。

温泉、サル、何とかのこんとか、オーナーが言う。
野中が、私に、聞く。
どこかに連れて行きたいようだとのこと。
しかたなく、温泉と言った。本当は、疲れ切っていた。
タチレクの町での、緊張感が、どっと出た。

車が走り出す。
オーナーが、温泉の説明をするが、もう、黙って聞いていた。何を言っているのか、解らない。
うとうとしていると、車が、大きくカーブして、森の中に入った。

海の家のような、オープンな店が何件かある。
オーナーが言う。
生卵を買って、温泉でゆで卵にと。
普通の卵と、鶉の卵のような大きさの卵が、それぞれ、網の袋に入られて売られている。
私は、腹を撫でて、もう十分だと、表現する。
オーナーが、理解したようで、先に進む。

温泉への近道なのか、草の多い、湿地帯を歩く。
温泉の建物があるが、普通の建物である。
幾つかの部屋があり、それぞれの部屋に、浴槽がある。
私たちは、一番大きな部屋を選んだ。
客は、私たちだけである。

部屋には、大きな風呂が、二つあった。
一つの方は、温泉の濃い方で、もう一つは、薄い方である。
窓の扉が、下から上に上げる扉で、全開にしてある。
外では、お婆さんが、山菜を採っていた。

脱衣の籠も無く、そのまま着物を脱いで、湯に浸かる。
確かに温泉である。硫黄の匂いが、強い。
浴槽があるのみの、部屋で、体を洗う場所も無い。ただ、湯に浸かるだけ。

私は、30分程、湯に浸かっていた。勝手に、熱いお湯を注いだ。
野中は、途中で出た。
その湯が効いた。
湯から上がると、疲れが、更に倍加した。

チェンライに着くまで、私は、うとうとして、ぼんやりしていた。
ホテルに着いたら、そのまま、眠ってしまうだろうと思えた。

約七時間の行定だった。
あっという間の出来事だが、密度濃くして、感慨無量である。
一気に終わったのである。
せめて、メーサイに一泊すれば、何とか、気分的にも、安定したであろうと思う。

だが、もう終わった。
最初の目的である、ミャンマー入りが終わった。
部屋の前の廊下に置かれた、イスとテーブルで、ミャンマーの絵葉書を眺めた。
確かに行ったのだと、一人、言い聞かせた。

後は、夜の食事である。
昼間の食事が効いて、腹が空かない。
野中も私も、ベッドに横になった。

手帳を見るが、その夜に、何を食べたのか、書かれていない。思い出せない。
翌日の昼は、イタリア料理で、パスタを食べているのだが、その夜が、思い出せない。
チェンマイ行きのバスに乗る前で、印象があるから、思い出せるが、あの疲れた夜に、何を食べたのか。

酒も飲まずに、早々に、ベッドに着いたはずである。
兎に角、疲れた。昼間の印象に夜のことが、かき消されている。

2007年11月17日

もののあわれについて125

万葉集の歌は、天平宝字三年、759年に終わる。

天平の最大の特徴は、聖武天皇の、東大寺をはじめとする、全国68箇所に及ぶ、国分寺の建設である。

古代史における、空前絶後の出来事である。

ただし、現在、その面影を残すのは、東大寺のみ。後は、皆、廃墟と化した。

天武天皇は、国家仏教としての意識であり、聖武天皇は、まさに、仏教国家である。

これは、政教一致の様である。
だが、皮肉なことに、ここにおいては、仏教の精神というより、それらのエネルギーが、芸術、特に美術と、建築に表現される。
厩戸皇子は、仏教の精神を持っての、国造りを目指したが、ここに至ると、精神というより、目に見えるものとしての、仏教である。
仏教の堕落であるが、また、それは、芸術の勃発である。

世界の遺跡の、大半は、このように、膨大な浪費を伴い、建設される。
支配者の大欲が、引き起こす。
それが、今の歴史遺産となっている。

何故、聖武天皇は、膨大な労力をかけて、そのような建設を行ったかは、察しが着く。

天平7年から9年にかけて、全国的に天然痘の流行があり、多くの死者を出した。実は、その前には、天変地異である。

当時の人は、まだ、それらの出来事を、何ゆえのものか、つまり、何の祟りであるかと問うのである。

天平9年には、全盛の藤原不比等の四人の子等が、全員死ぬ。
政治の中枢にいた者たちである。

藤原の血を引く、光明皇后は、即座に、長屋王の死を思ったであろう。
藤原氏の策謀により、自殺をしたのである。

聖武天皇の詔は、天平4年から6年まで、天変地異の様を書いている。
そこでは、国民のせいではなく、責めは、予ひとりにると、述べている。
天皇の責任を感じているのである。

天皇が、自ら、自責、不徳と、罪を告白するというのは、前代未聞である。

さらに、政治的危機にあり、天皇は、それからの救いとして、仏にすがるのである。

しかし、救われることは無かった。
聖武天皇は、結局、退位をして、孝謙天皇に席を譲り、出家するのである。
あれ程のエネルギーをかけて、建造したが、心は、安心せず、不安なままで、退位する。
つまり、天皇の失格である。

不思議なことは、それらのことを、伊勢神宮や、宇佐八幡に、問わせていることである。

仏教国家を目指したから、神々の世界が、衰退したかというと、そうではない。
更に、神の世界が、仏教に抵抗した様も無い。

依然、伝統として残り、仏教の隆盛を善しとするのである。

結論から言えば、仏陀の思想は、元々、日本の思想であったからだ。
それは、仏陀の釈迦族と、日本民族とは、同一民族だったからだ。
しかし、今は、省略する。いずれ、書く事になる。

当時、すでに、奈良に、六宗が、成立していた。
三論、成実、法相、倶舎、律、華厳、である。

その中で活動の様が残る者は、行基である。
衆生救済を成した唯一の人である。
空海などが有名だが、行基が、最初である。
何か。
民衆の中に入り、橋を作り、堤を築いた。

実は、行基の師匠が、道照であり、道照は、あの、三蔵法師で有名な、唐の玄奘の弟子である。
玄奘三蔵法師が、天竺から戻り、唐で、翻訳をしている時に、道照が、唐に渡る。
玄奘から、道照は、前世で縁ありと言われて、大切に指導された。
玄奘は、法相宗の開祖でもある。

道照も、井戸を掘り、橋を作ると、続日本書紀にある。
つまり、灌漑土木の技術を唐から、持ち込んだのである。

現在の、腐れ坊主とは、違うのである。
当時の僧とは、世の中の実践者として、大いに活躍した。

信仰が、社会的実践として、成る時代である。
信仰とは、実践であったということだ。
民衆救済のために、実践することが、信仰であった。
行基は、特記すべき人物である。
何となれば、一切の書き物を残すことなく、ただ、実践したのである。

当時の仏教は、実践者の仏教であり、思想は、一部の者のみが、享受したのである。

知識階級における、仏教の無常観ばかりを見ていると、誤る。
民衆に支持される、僧たちの活動をも、見ることだ。

南都の仏教からは、天台、真言などは、新興宗教である。
ところが、今の仏教は、天台を多く継ぐ。
つまり、新興宗教の、さらに、新宗教であるということだ。

勿論、思想的には、堕落している。

天台の最澄は、その教義に、法相宗の僧に、徹底的に叩かれているが、如何せん、権力がついて、日本仏教の元を創作する。

時代としては、柿本人麿などと、同じ時代に行基がいるが、交流したという、何物も無いのである。
別空間に在るようである。

万葉集には、憶良の、無常観を歌うものがあるが、仏教を歌う者は、皆無である。
そこで、薬師寺に残る、仏足石歌、ぶっそくせきか、を見る。

もののあわれについて126

仏跡を恭ふ

御足跡作る 石のひびきは 天に到り 地さえ揺すれ 父母がために 諸人のために
みあとつくる いしのひびきは あめにいたり つちさえゆすれば ちちははがために もろびとのために

この御足跡 八万光を 放ち出だし 諸々救い 済したまはな 救ひたまはな
このみあと やよろずひかり はなちでだし もろもろすくい わたしたきはな すくひたまはな

如何なるや 人に坐せか 石の上を 土と踏みなし 足跡残けるらむ 貴くもあるか
いかなるや ひとにいませか いしのうえを つちとふみなし あとのけるらむ とうとくあるか

丈夫の 進み先立ち 踏める足跡を 見つつ偲ばむ 直に会ふまでに 正に会ふまでに
ますらおの すすみさきたち ふめるあとを みつつしのばむ ただあうまでに まさにあふまでに

仏教が、大和言葉で語られたという例である。
救済を、済したまはな 救いたまはな、と歌う。
わたす、済す、救いたまはな

一体、何からの救いであるのか。
何も書かれていない。

この時代の人は、何から救われたかったのであろうか。

今の時代も、一体、何から救われるために、信仰するのか。
実は、誰も解らないのである。

仏という、超越した存在に、何かの救いを求めているのではなく、崇敬の思いに満ちているのである。
つまり、崇敬の思いが、そのまま、救いになるのである。

何度も言うが、万葉初期には、崇敬ではなく、共感であった。
そして、共生していた。
超越した者、存在を置かないというのが、万葉初期である。

自然との、共生、共感で、自分も、超越した者、いや、超越などという観念は、必要なかった。
私は、この心境、この思いを、神代の感覚という。

神代の感覚が、万葉初期には、溢れていた。
これが、最大の重要なところである。

神代の感覚を失ってから、現代に至るまで、人は、病むようになる。

上記の歌、文学的何物も無い。敬虔な思いのみである。

通俗的な言い方をすれば、敬虔なクリスチャンという時、そのクリスチャンは、あたかも、正直、真面目な人物ということになるが、単なる、妄想の観念に、凝り固まった者ということになる。
神様には、敬虔になるが、他のものに対しては、一切の妥協は無い。非寛容で、排他的である。

結果、仏教というものも、当初は、敬虔な思いだけでよかったが、一神教の形相を帯びることになる。
鎌倉仏教を見れば、一目瞭然である。
念仏宗が、題目宗を、削除しようと、権力に働きかける。その逆もある。

更に読む。

人の身は 得がたくあれば 法のため 因縁となれり 努めもろもろ 進めもろもろ
ひとのみは えがたくあれば のりのため よすかとなれり つとめもろもろ すすめもろもろ

四つの蛇 五つの鬼の 集れる 穢き身をば 厭ひ捨つべし 離れ捨つべし
よっつのへび いつつのおにの あつまれる きたなきみをば いといすつべし はなれすつべし

雷の 光の如き これの身は 死の大王 常に偶へり 畏づべからずや
いかづちの ひかりのごとき これのみは しにのおおきみ つねにたぐへり おづべからずや

因縁を、よすが、と読ませる。
因縁を、大和言葉で、よすが、という。
よすが、といえば、因縁より、深い意味になる。
縁、とも書く。
よす が、と別ける。拠る、寄る、因る、縁る、由る、選ると、多くの書き言葉がある。
そして、がは、我のことである。
我の寄るべきことろ。我の寄るべきものである。

穢き身を、厭うとか、離れ捨てるというのは、仏教による。それ以前は、そんな感覚は無い。
心の影を、四つの蛇とか、五つの鬼という。

或る評論家は、信仰を内面化させた、珍しい表現だという。

これが、極まると、親鸞のように、救われない者という肥大化した意識が、生まれてくるのである。

徹底した、他力本願というが、徹底した、肥大化した自我である。

知識人に、親鸞に帰依する者が多い。それは、肥大化した自我意識を持つからである。
あたかも、救いを求めているかのように、振舞うのである。
その実は、我に酔うのである。
救いを求めている我に酔う。救われない我に酔う。

それでは、自力の禅の道元は、どうか。
私は批判する。
しかし、道元は、独特な言葉を用いるゆえに、批判を書いても、理解するのが、難しい。
いずれは、書くが、今は、省略する。
ただし、道元も、自我から、抜けきれないのである。

仏の家に、自我を投げ入れて、仏という、自我を持つというものである。

万葉集とは、異質な、歌を紹介したが、これもまた、ある一面である。

書き残してあるということは、書かれなかったものもあり、書かれても、消滅してしまったものもある、ということである。
残されたものによって、辛うじて、探る行為を、歴史を観るという。
探るのであり、真相究明ではない。

2007年11月18日

遥かなる慰霊の旅 タイへ6

遥かなる慰霊の旅 タイへ6

チェンマイ行きのバスに乗る。
約三時間のバス旅である。最高のバスを選んだ。一人、280バーツである。約900円。
その下が、エアコン付きで、その下が、普通のバスである。
エアコン付きでいいと思ったが、野中が、最高の方が、私のためにいいと言うので、そうした。
確かに、足を伸ばせて、背凭れは、大きく倒すことが出来る。そのまま、眠られる大きさである。

大半の客が、外国人である。
変なのは、香港映画が大きな画面で、放映されていることだった。ジャッキーチェーンの映画だった。しかし、それが終わると、静かになったから、良かった。
水のボトルと、クッキーの袋が渡された。サービスである。
出発すると、女性の係員が長い挨拶をする。それが、可笑しくて、声を上げそうになったが、我慢する。

さて、チェンライを去るにあたり、少しチェンライのことを書く。

13世紀に、ラーンナー・タイ王国の首都であった。
現在、タイ最北の県都としてある。

私たちが、空港から街に出た中心部に、時計台があり、改装中だった場所から南側が、ツーリストエリアである。
バスターミナルがあり、ナイトバザールや、デパート、土産物屋、スーパーなどがある。
レストラン、旅行会社、バーなどが、集中している。

少し小路に入ると、マッサージの店が多い。
タイマッサージであるが、腕前は、それぞれ。巧い人に当たると、感動ものだ。
先にも書いたが、小数部族出身の女性が多い。
勿論、売春の匂いもある。明らかに、看板に、レディマッサージと謳うものもある。
ただ、大半は、普通のマッサージである。
マッサージ中に交渉して、何とかなる場合もあるのだろう。

国境の街、メーサイから車で、戻る時に、温泉に立ち寄ったことを書いた。
その温泉の後で、道端に、果物を売る店が立ち並ぶ地域がある。
バナナ、パイナップル等である。

野中が、車を止めた。
オーナーが、言った言葉で、食べようと思ったのだ。
チェンライは、タイで、一番が三つあると言う。
一つは、米である。
そして、パイナップルと、ライチである。ライチを、私は知らない。

疲れている私は、何だと、少し苛ついた。早くホテルに戻りたいのにと。
皆、車から降りるので、私も降りた。
野中が、パイナップルを買った。
すると、その場で、皮を切り取り、果肉のみにしてくれる。
その間に、味見用も、出してくれた。
それの、旨いことといったらない。甘くて、何ともよい歯ごたえと、舌ざわりである。
思わず、うまーい、と大声で言った。

皆、うまい、うまいと、食べた。
運転の少年が、四つ買っていた。
余程安いとみえて、100バーツで、お釣りが出た。一つ20バーツとしても、70円程である。

これを書いていて、思い出したことがある。
夜の食事が、思い出せなかったが、和食を食べたことである。

ミャンマーのタチレクから戻って、疲れていたので、和食にしようと、日本レストランに入ったのだ。
レストランと言っても、普通の店である。
そこで、私は、天ぷらそばを、注文して、驚いた。

どんぶりに、そばがあり、てんぷらが、別の皿で出てきた。
天ざるの、温かいバージョンである。
驚いた。その量である。
一つ一つを、そばのどんぶりに入れて食べた。
腹一杯になった。
誰が教えたのか、随分な量で、天ぷらそばというより、そば天ぷらと言う感じだった。
野菜が多かった。エビもあった。三本ほどである。

北海道弁では、たまげた、と言う。
ホント、たまげた。

その後の胃のもたれに、胃腸薬を飲んだのだった。
記憶というのは、それに関連することから、呼び起こされる。食べ物は、食べ物によって、呼び起こされる。

パイナップルは、ホテルに着いてから、また、ゆっくりと、味わって食べた。
矢張り、旨いのである。
それで、思い出したのは、バリ島のパイナップルジュースである。
最初にバリ島に出掛けた時、朝食で、最後に、パイナップルジュースを飲んだ。あまりの美味しさに、何度か、お代わりして、たらふく飲んで、とんでもないほど、腹をふくらませてしまったのである。

それから、暫く、パイナップルジュースを飲まなかった記憶がある。
何事も、程々ということだが、ハメを外してしまうこともある。特に、飲む食べることに関しては、そうだ。

貧乏に生まれたせいか、ホテルのバイキングの朝食は、あれもこれもと、食べ過ぎる。
結局、食べ過ぎて、後悔する。
ただ、私の場合は、最初は、少しだけ取り、また、少し取りとしているうちに、結果、大量になっているということだ。
最初から、多めに取れば、それで十分なのだろうが、取り方が、怪しいのである。分量が解らなくなる。

チェンライの街を観光することはなかったが、一つだけ、野中と、お寺に入った。
最初のホテル近くにある、ワット・チェットヨートという、お寺である。

私が最初に入った。
玄関にいたおじいさんに、土足で上がるなと、言われた。勿論、言葉は、解らないが、伝わった。
野中が後から来た。

最初に、私は、合掌して、黙祷したが、般若心経を唱えることにした。
最後の言葉のみ、原語の梵語、サンスクリット語で唱えた。

タイのお寺は、どことなく、乱雑な感じがしていた。雑然としているのである。
厳かというより、気楽さである。
これが、伝統なのである。

小乗仏教が伝わり、タイという国に、自然に同化した。実は、タイの仏教は、宗教ではない。伝統なのだ。
国民の九割が仏教徒だからということではない。
タイ族の人に、自然に受け入れられたと言う方が当たっている。
仏陀の慈悲の思想が、すんなりと入ったのである。

そして、仏像である。
姿から、その微笑まで、日本の仏像とは、違う。

伝統であるところの、仏教というものを、宗教として、認識すれば、誤る。
それでは、キリスト教や、イスラム教の場合は、どうかと言えば、伝統にならず、宗教になるのである。
それは、教えによる。
神に成るということは、出来ない教えと、仏に成ることが出来る教えとでは、まるで違う。
神という、対立したものを置くものと、仏という、我が内にあるものを観る教えとでは、全く違う。

一神教でも、人間は神の子であると言うが、便宜上の言葉である。人間は、神には、成れないのである。
一神教の最大の矛盾は、神という、超越したものを、理解するということである。同じものでなければ、理解出来ないのである。
つまり、完全無欠、全知全能という神を、人間は、理解出来ない。理解不能なものを、信じるということは、嘘である。

仏陀が、生き方を説いたというと、一神教の人は、それは道徳のようなものであり、宗教ではないという。その通りで、仏陀は、宗教を起こしたのではない。生き方を、説いたもので、宗教ではない。
宗教という、概念は無い。
宗教という概念を置いた、キリスト教、イスラム教とは、意を異にする。
ただし、仏教を宗教として捉える仏教がある。日本の仏教である。その観念を持って信仰するという。観念を信仰するというのである。
違う。これについては、更に、後で語ることにする。

遥かなる慰霊の旅 タイへ7

遥かなる慰霊の旅 タイへ7

チェンマイ郊外に来て、私は目を開けた。
眠っていた。

街というものにも、波動がある。生きている。動いている。
チェンマイの活気が感じられる。
ああっ、懐かしい。一年前の風景が広がる。

どの辺りなのかが、解る。
バスの車掌が、紙タオルを配った。そして、また、挨拶である。
どうも、可笑しい。それがまた、長いのである。
ありがとうございました、だけではなく、時候の挨拶でもしているのだろうか。
笑いそうになるが、堪える。

タイ語は、何となく、柔らかな感じがする。
ほんにゃら、ほんにゃら、と、私には、聞こえる。それがまた、いい。
挨拶が、ほんにゃら、だから、可笑しい、楽しい。

最後の、コープクンカーという、感謝の言葉のみ、理解した。
最後に、カーとは、女性の語尾で、カップと言えば、男の語尾になる。
間違って、カーと言うと、女性、特に年配の女性に、正される。
男は、カップだよって。
夜に、カーと言えば、間違いなく、ゲイになるのだろう。

バス停に到着すると、大混乱である。
タクシーから、トゥクトゥクから、ソンテウという、乗り合い車である。ソンテウは、タクシーのように使用することも多い。
野中が、ソンテウを捕まえた。

それに乗り込み、行き場所は、私が言う。
ターペー門。モントリーホテル。日本語である。
だが、ターペー門は、チェンマイの中心部である。旧市街と、新市街の境目である。ターペーと言えば、必ず解る。

自慢じゃないが、私の英語は、大半がタイ人に通じないのである。
前回の時に、エアポートが通じず、何度言っても駄目で、結局、野中に言わせた。
発音と、抑揚が違うのである。
ェァポートのようになる。
エ・ア・ポー・ト、では通じない。

モントリーホテルは、勿論、予約していない。
行けば、何とかなる