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もののあわれについて124

天平勝宝二年三月一日の暮、春の卯の桃李の花を眺めて作れる歌

春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女
はるのその くれないにおう もものはな したてるみちに いでたつおとめ

紅の花、盛りの桃の花の苑に、明るく立ち留まる乙女の姿。

三月一日とは、新暦では、四月十五日である。
今までに無い、万葉の美的感覚である。
これは、家持の発見であろう。
時代の余裕を、思わせる。

乙女が桃の花の何かで、佇むという、絵画的な風景である。
見えている物を、歌うという姿勢は、以後、古今、新古今に受け継がれる。

万葉初期は、聴くことであった。
それが、見ることになり、更に、観るという行為に成る。藤原定家に至る歌の道が、見えてくるのである。

堅香子の草の花をよぢ折る歌
かたかごそうの花をよぢおるうた

もののふの 八十娘女らが 汲みまがふ 寺井の上の かたかごの花
もののふの やそおとめらが くみまがふ てらいのうえの かたかごのはな

大勢の娘たちが、水を汲んでいる、寺の井戸の、かたかごの花。

何事も無い風景である。しかし、それを、歌にすると、一点、絵画のようになるのである。
短歌の成長である。

これを、万葉初期の、生命力欠如とは、思われない。
新しい境地。やや、病的な境地であり、それは、現在まで、続いている。

翻び翔る鴫を見て作れる歌
とびはねる しぎをみて つくるうた

春まけて 物悲しきに さ夜ふけて 羽ぶき鳴く鴫 誰が田にか住む
はるまけて ものかなしきに さよふけて はぶきなくしぎ たがたにかすむ

春になり、それでなくても、物悲しいものを、夜の更けるのを、羽音を立てながら、鳴き行く鴫は、どこの、田に住んでいるのか。

おかしい。
春が、物悲しい、とは。
あの、春の感動は、どうした。

もののあわれ、についてを、書いているが、家持の、心境にある、哀れではない。
これは、一首の病であろう。
抑うつ的である。

憶良の時も、そうだった。
すでに、この頃から、現代病の、抑鬱が、始まっている。

春が、すでに物悲しいものなのに、夜更けに鳴く、鴫の声が、更に、物悲しく聞こえるというのである。

二日、柳黛をよぢて京師を思ふ歌
ふつか、りゅうたいをよぢて みやこをおもううた

春の日に 萌れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ
はるのひに はれるやなぎを とりもちて みればみやこの おうじおもほゆ

春の日に、芽の含み始めた柳の枝を手に取ると、そぞろに、都の大路が思い出される。

鄙で過ごすこと、四年である。
都を懐かしむ心。
それは、柳でなくても、良いのである。
何でもよい。
何かの拍子に、都を思い出す。
ホームシックとも、呼べる心境である。

夜の裏に千鳥鳴くを聞ける歌
よるのうちに ちどりなくを きけるうた

夜くだち 寝覚めて居れば 川瀬尋め 情もしのに 鳴く千鳥かも
よるくだち めざめておれば かほせとめ こころもしのに なくちどりかも

夜更けに、眠れないでいると、川瀬の瀬を求めて、千鳥が鳴く。それは、哀れな程に聞こえるのである。

情もしのに、とは、家持の心境である。
家持が、情もしのに、なのである。
この心の行く先は、何か。

遥かに江を遡る船入りの唄を聞く歌

朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ船入
あさどこに きけぱはるけし いみずがわ あさこぎしつつ うたうふないり

朝の床で、聞こえてくる、射水川を遡る歌声を聞く。朝早くから、川を上る船人たちの唄である。

抑鬱は、我を観る。
つまり、孤独である。
その孤独の行くへは、何処か。

孤独感と、抑鬱は、紙一枚である。
孤独感に苦しむという場合は、単なる健康的な孤独感か、病的な孤独感かで、意味が違う。
繊細微妙な、日本人の感性は、ここで、佇むのである。

果たして、日本人の孤独感は、病にあるのか、否か。

極め付けの歌がある。
衆人から、家持、最高の歌と、称される歌である。

二月二十三日興によりて作る歌
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに 鶯鳴くも
はるののに かすみたなびき うらかなし このゆうかげに うぐいすなくも
興とは、饗宴、宴会である。
多くの人の中にいて、何故、このように、うら悲しいのか。
裏とは、心のことである。

心が悲しいと、言う。
上記の歌の翌年、天平勝宝三年七月、少納言に任じられて、都に戻り、人との付き合いが、始まっていた。
しかし、家持は、沈む心を抑えられないのである。

もう一首

わが宿の いささ郡竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも
わがやどの いささむらたけ ふくかぜの おとのかそけき このゆうべかも

音のかそけき、つまり、風の音に、心を捉えられているのである。
ささやかな風の音に、何をして、聞き入るのか。
いや、聞き入るのではない。家持が、かそけき、風になっているのである。

私は、抑鬱と言うが、別の言い方をすれば、寂寥感を伴う孤独感である。
何故、このような、寂寥感を持つのか。

人は、何ゆえに、寂寥という感覚を持つのであるのか。

繊細、優美とも言う。
これは、もののあわれ、か。

そう、これも、もののあわれ、である。

いよいよ、捉えることが出来ない、もののあわれ、である。

家持は、万葉集の選者である。
その家持が、万葉を過ぎて、中世へと行く。
万葉を逸脱するのである。

軽薄短小の仏教思想、無常観という、観念、妄想に、家持も、捕らわれ、陥るのである。
無常感覚と言うものが、いかに、お粗末なものであるか。
それは、単に生命力の欠如を現す。
そして、もののあわれ、と言うものの、姿を、更に曖昧、微妙にする。

説明すれば、するほど、もののあわれ、が、遠のくのである。

何度も言うが、人は、老いると、無常感覚を、黙っていても、持つのである。しかし、仏教は、それを、更に、深めるのではなく、貶めるのである。陥れるとも、言う。
浅はかである。

さんざん、遊んだ挙句の果てに、無常観を感じて、出家したとして、何の益も無い。しかし、益があると信じ込む。
実に、仏教というものは、人間を堕落させるのである。

世を儚み、出家したといわれる、西行は、儚んで、あれ程の、歌を読むか。
無常感覚を飲み込んで生きたからこそ、歌を読み続けた。
もし、まやかしの無常観、その感覚に酔うならば、歌など読まない。歌を読むことは、妄執になる。
西行の歌は、皆々、嘘になる。

軽薄な、無常観に酔うものではない。
死後も、無常観に酔う者、浮遊して、この世に漂うのである。
つまり、徹底していないのである。
仏教思想、それは、漂う、浮遊する何物でもない。
誤るな。

二十五日作れる歌一首
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 情悲しも 独りし思へば
うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりとおもへば

ここに至り、家持は、万葉でも、古今や、新古今でもない、新しい境地、まだ、出来ていない、古今や新古今にない、境地を見出した。
家持の世界である。

悟りというのは、こういうことを言う。
決して、仏などには、ならないのである。人間と断絶したものにはならないのである。

こころかなしも ひとりしおもへば
もののあわれ、である。

全く、別手法で、もののあわれ、というものに、達したのである。

絶対孤独と、書けば、限定される。

もののあわれ、とは、無限定のものである。
捕まえ処の無いもの、捉え処の無いもの、それが、もののあわれ、である。

どれ程、言葉を積み上げても、表現し得ないものがある。
もののあわれ
である。

この、万葉集を終えるに、当たり、驚愕することを言う。
仏教、中でも、禅宗では、大悟するという。
余りに、愚かで、空いた口が、何とかである。

人は、悟るものではない。
それを言うならば、悟り続けるという。

日本の伝統に、悟るという心的、状態は無い。

悟りを得た、家持が作る歌を、最後にする。

病に臥して無常を悲しみ、修道を欲して作れる歌
うつせみは 数無き身なり 山川の 清けき見つつ 道を尋ねな
うつせみは かずなきみなり やまかわの さやけきみつつ みちをたずねな

寿を願ひて作れる歌
泡沫なす 仮れる身ぞとは 知れれども なほし願ひつ 千歳の命を

みつほなす かれるみとぞは しれれども なおしねがいつ ちとせのいのちを

実に、悟りとは、個人的感傷である。

家持も、その個人的感傷から、脱することか、出来なかった。

もののあわれ、万葉編を終わる。

ちなみに、これから、研究出来る者は、家持の、生まれから、その時代を鑑みて、家持を分析することである。

家持の名は、万葉集と、共に、普遍となった。
その大伴家持を研究すること、学徒としては、本望だろう。

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2007年11月14日 01:38に投稿されたエントリーのページです。

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