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2007年12月 アーカイブ

2007年12月01日

もののあわれについて132

よみ人知らず
題知らず

わが宿の 池のふぢ波 咲けにけり 山ほととぎす いつか来鳴かむ

わが家の、池の藤の花が咲いている。ほととぎすは、いつ来て、鳴くだろうか。

いつか、の、かは、現代文だと、最後にくる。疑問の助詞は、古文では、このように、文中にきて、文末を受ける、つまり、係り結びになる。
文法については書かないが、これから、この表現が多いので、書いておく。

ふぢ波は、藤の花のこと。
山ほととぎすは、夏に、山から里に来て鳴くと、考えて、山にいる間を、山ほととぎす、という。

わが宿とは、家全体を言う。庭も、そうだ。

さつき待つ 花たちばなの 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

五月を待ち咲く、花たちばなの香りをかげば、昔の人の袖の香りがする。
昔の人とは、恋仲の関係であろうか。
花たちばなとは、花が咲くことを言うが、これは、杜若、かきつばたや、菖蒲の立ち姿を言う。

夏山に 鳴くほととぎす 心あらば もの思ふわれに 声な聞かせそ

夏山で鳴いている、ほとときすよ。心あらば、物思いに沈む私に、声を聴かせてくれ。

心あらばと、ほととぎすを擬人化する。

万葉の歌と、歴然として、違うことが解る。

万葉の歌、勇壮として、自然同化をするが、古今は、自然と対立して、こじんまりと、自己の世界を歌う。

この、古今の、もののあわれ、が、以後、主流になるのである。
自己観照という意味では、自己を深めることになるが、歌の世界から、見ると、狭いのである。

そして、ここから、風情という感覚が、現れてくる。

万葉は、自然すべてに、光が射したが、古今、新古今となると、ピンポイントになってくる。
花鳥風月という、ピンポイントである。
新古今になると、さらに観念的になり、それが、芸術としての、芸域にまで、達する。歌が、芸術として、認識される。
歌の昇格なのであるのか、微妙複雑化してゆくのである。

純粋素朴なものが、成長発展するのである。
ただし、それを良し悪しで、判断することはない。
時代である。

きのふこそ さ苗取りしか いつのまに 稲葉そよぎて 秋の風吹く

昨日、さ苗を取ったばかりなのに、もう、秋の風が吹いている。早いものだ。

例えば、この歌を。
秋の風 さ苗取りしか いつのまに 稲葉そよぎて きのうこそなむ
最初と、最後を取り替えてみると、実によく解る。

更に、
秋の風 さ苗取りしか きのふこそ 稲葉そよぎて いつのまにまに

歌の分析に、これは、邪道である。
しかし、理解するために、あえてしてみた。

昨日、早苗を取ったばかりなのに、もう、稲が秋風にそよいでいる。

文法をよくする者、このようなことを、考えることはない。これをすると、分析が台無しになる。そして、文法上では、云々という。
文法が出来て、歌があったのではない。
歌が出来て、文法という、分析がある。
つまり、言葉は、生き物であり、それが、自然に生まれ育ちするものである。
それに、文法という、切り口から、解釈するという、たった、一つの方法であるということ。

まず、語感を感じ取ることから、始まる。

上記の歌、研究者は、二句切れという。
文法上は、二句切れとなろうが、読む者の、心境では、別になることもある。
私が朗詠すると。

きのふこそ さ苗取りしかいつのまに 稲葉そよぎて 秋の風吹く
となる。
誤りだろうか。

初句と、三句と、四句で、切れる。
文法ではない。語感である。

2007年12月02日

もののあわれについて133

よみ人知らず
題知らず

木の間より もりくる月の 影見れば 心づくしの 秋は来にけり

木々の間から、月の光が。物思いのふける秋がやってきた。

もりくる
漏れてくる。
影は、その月の光のことである。

ここで、影というものが、物の影ではなく、月のもれる光を言う。
もりくる月の 光見れば、とは、ならない。
光を影と、感じた、彼らの心境を理解する時、その時代の感覚が解る。

いや、漏れる光を、影と、表現したというべきだ。

月そのものの、光を言う時は、光と言う。しかし、間接的な光を、影という。
影の存在と言えば、無いものではなく、あるものである。

影により、そのものの存在感を、よりいっそう、感じるということもある。
上記の歌、実に、素直な歌である。

心づくし、とは、あれこれと、思うことを言う。
心づくしの、持て成しといえば、心を込めた持て成しと、いうことになる。
づくし、は、尽くし、になる。

心づくしの 秋は来にける
このように、秋を迎える心境を想像して欲しい。
何と言う、優雅さか。また、自然に対する感受性は、見事なものである。

白雲に 羽うちかわし 飛ぶ雁の 数さへ見ゆる 秋の夜の月

白雲を背景に、羽をかわして飛んでゆく、雁の数も、はっきりと解る、秋の月夜である。

当時の夜の光といえば、月明かりと、星明りである。
いかに、月の光が、輝いていたか。
夜の闇に、月の光は、煌々と照る。

闇というものの、価値を知るには、闇の只中に身を置いてみることだ。
私は、本当の闇を知っている。
自然の中での、闇である。

何もかも 何もかもがも 抱きこんで 夜の闇には 音さえも無く 天山

闇は、沈黙である。
その沈黙が、闇の本体である。
闇は、饒舌を許さない。

子供の頃に、本当の闇を知ったこと、宝である。
小さな、ローソクの光でも、それは、大きな救いだった。
私の救いの、原始体験は、闇の中の、小さな光である。
光に向かってなら、人は、歩むことが出来る。もし、闇の只中を行くとしたら、それはそれは、恐怖である。

火というものを知った、古代人が、一躍、文化的行為を獲得する。
火は、故に、信仰の対象とも、なる。

この原始体験の、眠れる意識を、観念による、宗教的救いに、置き換えてしまうと、単なる、妄想になる。
宗教の本体は、妄想である。

おおよそ、4000年ほど、人類は、そうして、観念の救いに陥っている。
唯一、原始体験を下に、行為にのみ、重きを置く、古神道が、残るのみ。

膨大な妄想の思想体系がある、宗教は、神道を、思想体系が無いと、軽蔑する。
逆である。思想体系がなければ、やっていられないという、愚かさである。
つまり、語り尽くそうとする。それは、文学、哲学であり、宗教ではない。しかし、宗教も、そのようだとする。故に、神道は、彼らの宗教概念には、入らない。つまり、神道は、彼らからは、宗教ではない。
私も、神道を宗教と、言わない。日本の伝統である。

神道は、日本人の潜在意識なのである。

なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

実体を見るのではなく、観る、感じることであり、それは、更に実体がない。ただ、流れているのである。なにごとかが、流れているのである。それを、感じ取る。

すべてを、理屈で、解決しようとする、西洋思想が、いかに、偏狭になるかは、ご覧の通りである。
言論を戦わせると言っても、言葉遊びである。

それはしかし、インド思想も、そうである。
三蔵法師玄奘が、天竺の、最高学府ナーランダで、論戦のトップに立った。
言い負かし、である。
論破するという、愚かなことを持って、仏教の最高学府は、成り立っていた。
結果、今は、その仏教は、見る影も無い。
バラモンから、ヒンドゥーという、曖昧模糊なものに、取って代わられた。

仏陀の言葉が、重く響く。
人は、行為によって、成るものに成る。

理論武装という、馬鹿馬鹿しい言葉があり、アホ、バカが、それを言うから、また、おかしい。
いくら、理論を積み上げても、行為行動の前には、塵である。

日本人は、秋の夜の月で、終わる。
実に、気分がいい。

2007年12月10日

神仏は妄想である。

ある新興宗教の、観音経というものを、見て、仰天した。
神仏混合どころではない。実に、稚拙で、お経や、祝詞の継ぎ接ぎであり、内容が、渾然として、こんがらかっている。

どうして、このような、稚拙な文句に、信者が、気づかないのかといえば、単に、知識の不足だけではなく、基本的な、常識的教養を持たないからだと思う。

今、その経典を、ここに書くことは、控える。あまりにも、稚拙であり、また、ここに載せれば、弊害があると思う。

その、新興宗教は、ある、新興宗教から出た。その、大元は、大本教である。
大本教とは、様々な、新興宗教を産んだ、大元である。
つまり、魔界関与であるこというは、このように、証明済みである。

霊団の眷属が、分散したのである。

今は、霊的なことに、触れないが、宗教というものの、原始的姿を観た。

どんな、小さな宗教団体でも、唱える経典を作る。
多くが、既成の経典、特に、仏教経典から、借用する。

例えば、足裏診断で、詐欺罪に問われた、天の声の、教祖は、般若心経を、信者に唱えさせた。
勿論、般若経から出た、般若心経のことなど、知ることもない。
単に、適当に、説得力があるゆえの、盗用である。

現在使用される、般若心経は、玄奘三蔵法師の訳である。
それ以前は、クマラジュウ訳であった。

特徴は、玄奘は、観自在菩薩である。
クマラジュウは、観世音菩薩である。

玄奘は、自在と訳した。観世音とは、違う。
つまり、お経には、訳した者の、思想が入る。当然である。
玄奘は、自在というように、我が内に在るものと観た。
外に在るものではない。内にある存在である。

しかし、これは、梵語からの訳である。それを、漢訳した。
さらに、それを、日本では、漢読みする。要するに音読みである。訓読みすれば、大和言葉に成る。

これ程、不自然なものはない。
それを、読経するのである。

内容は、あたかも、深遠で、壮大な思想を語るようであるが、単なる、言葉遊びである。
大乗思想は、空の思想であるが、その空の思想とは、実に、妄想である。
この宇宙に、空という空間は無い。
宇宙を出て初めて、空という空間がある。

大乗の空観は、インドの言葉遊びに始終する。
それを、皆々、真理だの、なんだのと、勝手に解釈する。
大般若経を読まなければ、実は、般若心経も、理解出来ないはずである。

色即是空 空即是色
物即是無 無即是物である。

何のことは無い。
桃太郎や、浦島太郎の、物語も、読む側の問題である。つまり、解釈の仕様で、如何様にでも、なる。それと、同じである。

漢字の難しいイメージが、深遠さを、語るようだが、軽薄である。

仏典とは、多くの人によって、書き足し、次々に加えられて、膨大になっていった。
般若経というものも、八千の章があるという。
大乗仏典は、その般若経から、出た。維摩経しかり、法華経、華厳経である。また、それとは、異質な、浄土経典も、はやり、それを母体にしている。

そして、その元は、二世紀の、インド哲学というか、仏教学というか、何ともいえないが、龍樹・ナーガールジュナによって、説かれ、更に、五世紀の世親・ヴァスバンドゥによって説かれた、世界には、固定した実体は無いとした、あらゆるものは、空であるという、思想からである。

彼らの、死ぬまでの暇つぶしに、付き合う必要はないが、あまりに、人々が愚かに、唱える故に、書くことにした。

甚だしい場合は、浮遊する霊を成仏させるために、唱えるというものもあり、驚くのである。また、霊の供養のためにという場合もある。

更に、甚だしいのは、霊能者と言われる者も、平然として、唱えるのである。

唱える方も、解らない。唱えられた方も、解らないという、滑稽な展開である。
笑うに、笑えないのである。

更に、読経した後の、功徳という。
功徳とは、功績とか、お返しとか、褒美である。
そんなことが、ある訳が無い。

更に、日蓮などは、法華経でなければ、救われないというから、また、とんでもなく、おかしくなる。

経典は、あくまで、本である。
本を読んで。お勉強になるということは、理解するが、それが、唯一絶対のものとなれば、言わなければならない。

小説を読むと同じように、経典も、読むべきである。
何故なら、書かれたものである。
書かれたという、時点で、それは、過ぎ去るものである。
過去の、考え方である。

過去の考え方に、普遍的なものがあるというのも、一つの思想である。

書かれたものは、お話である。

更に、古いものであり、云々ということの、話は、何の真理も無い。
それが、妄想のものであれば、妄想に過ぎないのである。

更に言うが、漢訳されたということは、漢訳した人の思いが入り、書かれていないことまで、書き足すということもあるということである。
特に、仏典の場合は、そうして、書き足されて、膨大なものになったのである。

浄土経典などは、付き合い切れない程、アホらしい話が延々と続くのである。
そんなものを、死者に唱えて、成仏も何も、あったものではない。
有り難迷惑というものである。

しかし、実際、日本仏教では、それを、唱えて善しとしているのである。
マジである。

信じられないの一言。

2007年12月11日

神仏は妄想である。2

観音様という、菩薩がいる。
架空の存在である。

仏陀在世当時の、修行者だという説もあるが、作り事である。

観音様には、様々な観音様がいる。
私は、その一つも否定はしない。
ただ、観音経という、お経から出たものであり、その実体は無いということである。

観音経は、大乗仏典の、法華経の中に入っている。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品、かんぜおんふもんぼん、である。
現在使用されている、法華経の漢訳は、名訳である、鳩摩羅什、クマラジュウの訳である。

勿論、別の訳のものもある。
例えば、正法華経とか、添品妙法蓮華経というものである。

この、妙法蓮華経に、帰依するという、南無妙法蓮華経というのが、題目である。
念仏は、阿弥陀に帰依すると、南無阿弥陀仏と、唱える。

一つは、お経に帰依するといい、一つは、観念に帰依するというから、おかしい。

兎に角、鳩摩羅什という人は、文学の天才であった。
内容より、素晴らしい漢訳をした。
読経するには、最高の訳をしたのである。
その人の話を書けば、先に進まないので、省略する。

日蓮は、すべての、宗派を否定し、妙法蓮華経により、救われると、説いた。
非常に排他的で、非寛容である。ただし、内輪には、大変、寛容で、やさしい。

御伽噺のような、法華経を、格調高く訳した、鳩摩羅什の訳に、取り込まれたのである。

その姿は、一神教に似る。
私は、すべての宗教を否定する。しかし、日蓮のように、だから、これによって、救われるというものを、提示しない。
後々に、本当のことを、書く。

さて、私の前に、仏教の様々な仏を、徹底否定した人がいる。
江戸時代の、儒者である、山方播桃、やまがたばんとう、である。
著書の、夢の代、という本に、霊魂の否定、神、仏の否定、更に、仏教批判を展開している。
仏教に、教義なるものは、皆無であるが、彼は、仏教の教義を、徹底否定し、批判した。

日本の生んだ、天才的思想家としての、一人であるといっても、過言ではない。人が知らないだけである。

観音、薬師、地蔵、阿弥陀等々を、坊主の作り事と、断定したのである。
確かに、それは、作り事である。

ただ、日本に、仏教が入ってきた時に、教えより先に、仏像製作が行われた事実がある。つまり、造形の方が先になった。
それを、拝む行為としての、仏教であった。
要するに、像を拝む宗教だった。

教義等々は、後の話である。

実は、観音様というのは、仏教のものではなかった。
西アジアで、拝まれていた神の一つであった。それが、変形して、仏教に取り入れられたものである。

現在、日本で、拝まれている、仏教系の、帝釈天や、弁天様なども、インドの神々である。
混在しているのである。
要するに、適当なものである。

観音様というものは、その像を通して、認識された。
つまり、人間の芸の技である。
・・・のような、美しい観音様、である。
この、何々のように、美しい観音様と、人間の想像の産物である。

それでは、観音経では、観音を、どのように説明するのか。
ただ、一心に観音を念ずれば、すべての問題は解決し、観音の力によって、奇跡が起こるという。念彼観音力、ねんぴかんのんりき、である。

例えば、こうである。
もし是の観世音菩薩の名を持する者あらに、たとい大火に入るとも、火も焼くこと能はず、是の菩薩の威神力によるが故に、もし大水の漂はす所となるも、その名号を称せば即ち浅き所を得ん。
というのである。
火にも、焼かれない。水にも溺れないという。

ところが、人は、観音様を唱えても、火に焼けるし、水にも、溺れるのである。
それに対して、宗教家は、言う。
観音様の、実相は、無想であると。
つまり、人の心の様を言うと。

信心が薄いから、云々という言い方もあるが、少し、知恵がつくと、うまく、逃げるのである。

確かに、観音というものは、人の心の在り様である。

火に焼かれても、水に溺れても、死んでも、無想であることを観ることが、観音を観ることだという。

実に、良い説明である。

とすれば、観音でなくても、いいのである。
何故、観音様を掲げるかといえば、人間は、弱い者だからである。
何かに、縋る、すがりたいという時に、目に見えるものが欲しいのである。

彼ら、宗教家は、何とでも言うことが、出来るというのが、ミソである。

実際、私も、観音経を上げることもある。
その、音が好きだからである。

その名を称するが故に即ち解脱することを得ん。
そのように、書かれている。
書かれているから、事実ではない。
要するに、そう思うことであるというのだ。

思い込みという、心の状態が、信仰というものを、確たるものにする。

一度、信じたものは、嘘と、解っても、捨てきれないというのが、人間の、悲しさである。たとえ、捨てたとしても、別の神様を拝みたくなる。
何かを、拝みたくてしょうがない人も、いるのである。

観音が、心の無相であれば、何も実体が無いということである。
また、観音自体も、無相である。
これは、つまり、大乗の教えの、空から、出るものだ。

空という、人知では、計ることが出来ない、境地、空間をもっての、解説である。何を、どのように、説明しても、成り立つという。

私は、宇宙の外でなければ、空という、状態は、無いと言う。

話を元に戻すと、観音というのは、我が内にあるものである。
我が内にあるものを、観音という、総称にするということである。
それは、観音でなくてもいいということだ。

何でも、いい。

昔の人は、言う。
いわしの頭も、信心から、と。

すると、キリスト教徒は、言う。
何でも、信じれば、いいというものではない。
正しい神のみを、信じることであると。
すると、イスラム教徒は、言う。それが、アッラーの神であると。

一向に、妥協しない、強い信仰というものが、それぞれで、出来上がっている。

私は言う。
そろそろ、そういう時代に、別れを告げるべきである、と。

妄想の観念に、心を捕らわれにしている様は、愚かである。

まず、ここに、気づくことである。
話は、それからである。

神仏は妄想である。3

仏典、大乗仏典というものは、次々と、書き足されていった。
要するに、様々な人の、意見が取り入れられて、しまいに、訳する者が、また、手を入れるという、とんでもないことをしているのである。
経典、果たして、そんなものが、経典と成り得るのか。
成り得ているのが、仏教である。
故に、支離滅裂になる。

しかし、宗教家というのは、本当に、おめでたいというか、抜書きして、勝手な解釈をする。
何とでも、言えるのである。
それが、ミソ。

例えば、禅というもの。
何とでもいえる。
言葉で、人を煙に巻くのである。

だが、これからの時代は、かろうじて、その、禅が、残りそうである。
後は、子供の遊びのようなものであり、時代に、対処出来ない。

禅というのは、言葉遊びの、骨頂である。

至道無難という禅者の歌。
草木も国土もさらに なかりけり
ほとけといふも なおなかりけり

どうであろうか。
つまり、すべての観念は無い。あるのは、仏のみであるという。
すべてが、仏であるというのだ。
絶対否定から、悉皆成仏、つまり、すべてが、仏であるという。

こういうのを、言葉遊びという。

いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも
志貴皇子 万葉集

なかりけり なおなかりけり
それも、観念である。
それでは、志貴皇子の歌は、どうか。
目にした、春先の様を、そのままに、歌う。どちらが、自然か。
これを、古神道という。
自然と共感、共生している。

国土も草木も、仏も無いなどという、浅はかな、歌は、読まないのである。
言葉遊びと、神、自然に遊ぶのとは、違う。
自然は、神であった、日本民族である。
そこに、あたかも、在るかのように、思想という言葉が、入ってきた。それは、文明の進化としては、善し。しかし、それを、信仰という形に、観念に、置き換えたところが、勘違いである。

それを、後押しした、哲学者、西田幾太郎がいる。

宗教的意識においては、我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一するのである。そこには真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。宗教的価値というのは価値否定の価値である。

というのである。
呆れる。
加えて、無も無いと書けばよかったのに。

死ぬまでの、暇つぶしにはしては、凝っている。

こういうのを、西洋かぶれ、と言う。
西洋哲学の方法を、持っての、言葉遊びである。

それなら、道元に適わない。
道元の言葉は、見事な、実存哲学である。

その、道元も、仏の家に投げ入れて、と、仏の家の観念を持つ。
要するに、心身脱落を言うのであるが、心身を脱落して、どうするのか。

大悟するというのであろう。
天地宇宙と、一体になるのである。

こういうのを、アホ、バカという。
天地宇宙と、一体になり、糞小便、垂れ流して生きるのである。

それを、言うなら、いない方がよいということになる。

こういう、たわけたことに、真剣になる者もいるのである。

人は、生きられるようにしか、生きられない。

大悟する人は、大悟しか、生きようがないのである。
更に、悟るということも、観念である。
自己満足の、一点に尽きる。

ところが、禅では、考案といって、師匠から、師家から、問題を出されて、それに、答えて、悟りありと、認められるというから、また、笑う。

両手を打つ。どちらの手が鳴ったか。
右でも、左でもない。
心が鳴ったのである。

船が通る。
船が動いたのか、海が動いたのか。
心が動いたのである。

アホらし。

蒔くことも、刈ることも、捕ることも、作ることも、せず、言葉遊びである。そして、托鉢というから、さらに笑う。

生きている価値があるのか。
無い。
死ぬべきである。

坊主のところには、金が集る。
その、金を目当てに、また、それを持ち上げる、思想家がいる。
今は、宗教評論家である。

心の軽くなることを書いて、本を売る。
実に、宗教の堕落である。

舒明天皇の歌。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
ゆうされば をぐらのやまに なくしかは こよいはなかず いねにけらしも

あるがままを、歌う。
自然と、共感、共生する。
何事も無い。
観念の遊びがない。

道元の歌。
峰の色 谷のひびきも 皆ながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

すべては、釈迦であるという。つまり、仏の姿であるという。
観念にやられたのである。
釈迦という、観念である。

私は、
今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
である。

我が釈迦牟尼という、妄想は、無い。

2007年12月12日

もののあわれについて134

読み人知らず

是貞親王の家の歌合せの歌

奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

奥山で、紅葉を踏み分けて、鳴く鹿の声を聞けば、秋は、実に悲しく思われる。

歌合せは、歌人たちが、左右に分かれて、同じ題で、歌を作り、優劣を競ったものである。
古今時代の歌合せは、まだ、初期の段階であり、平安後期から、鎌倉時代に、最も盛んになった。
次第に、形式も出来上がり、知的遊戯としては、最高級である。
勝ち負けの判定には、誰もが納得する理論が生まれる。歌論である。歌合せによって、評論の精神も、生まれることになる。
そして、次第に、歌を歌うことより、歌を評することに、重きが置かれるという自体になってゆく。
これは、歌の堕落である。

歌は、読むことに意義がある。
当然、理屈を超えて、感動させる歌も多々ある。

奥山の紅葉を分け入るのは、鹿である。
踏み分けて聞く、となれば、その人が、分け入ることになる。
紅葉の中を鳴く鹿を、想像して、歌うのである。

鹿の鳴き声に、秋の悲しさを歌う。
これを、単に、秋は悲しいと、悲しいという、意味のみに捉えては、単純すぎる。
悲しいは、哀しいとも、愛しい、とも、書く。

かなしい秋は、実は、愛しい秋でもある。
つまり、秋をこよなく、慈しむということである。

悲しみを、悲しみに限定すると、もののあわれ、の心が、見えにくくなる。
悲しみには、必ず、愛しい、という、慈しみの心が宿る。

そして、また、愛しいは、一種の執着でもある。
愛という文字は、仏教では、欲望を言う。
現在使用される、愛という言葉の認識とは、違う。

慈しみと置き換えた方が、正しい。

悲しみは、歳月を経ると、慈しみに変容する。
もののあわれ、である。

月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあわれを 今宵知りぬる
建礼門院右京太夫は、歌う。

月を眺めてばかりいたが、今夜の星の夜は、何と言うことだろう。あまりの星の光の美しさに、深い、あわれ、を覚えたのである。

悲しみを行き続けた人の、辿りついた、境地である。
悲しみを突き抜けて到達した、心の様が、あわれ、であった。慈しみの心であった。

人生は、悲しみに満ち溢れている。
少しの、問題意識を持てば、生きるということは、悲しみを生きるということである。
何一つ、プラスのイメージで、捉えられるものはない。
生老病死は、人間の定めである。定めは、変えられない。

どんなに、傲慢不遜に生きても、必ず老いて、病になり、死ぬ。

実に、一寸先は闇である。
先を知らないだけである。

幸、不幸の概念ではない。
人生は悲しみなのである。
それを生き抜く時に、あわれ、慈しみの心に目覚める。
もののあわれ、とは、それである。

更に言えば、人生にあるのは、絶望である。
希望は、願望であり、願望は、思い込みである。
思い込みを、輝ける希望と、勘違いして生きるのである。実に、おめでたい。そして、その、おめでたさが、救いである。

先を知らないから、かろうじて、生きられる。
突然、癌を宣告される人のように、人生には、そのようなことに、満ち溢れている。

美辞麗句を並べ立てても、真実は、悲しみなのである。

喜びは、一瞬にして、過ぎ去るが、悲しみは、過ぎ去らない。

秋は悲しき
それは、春も、夏も、冬も悲しいのである。

絶望に気づかない人は、もののあわれ、というものを、知ることなく、無為に人生を観ることになる。

辛うじて、世間は虚仮と看破して生きるしかない。
だから、人生を、旅と見立てて、古人たちは、突き放して観たのである。

生きるということが、あまりに、悲しいことだからである。

幸せになると言われて、壷を買う人を笑えない。
誰もが、それに似たことを、行っている。

はっきり言うが、何一つ、人生を救うものは無い。
毎日、絶望の只中にいるのである。

青春の一時期の、虚無感は、真実であった。それを、辛うじて、何事かで、誤魔化し、ごまかし、知らぬ振りをして生きる。あるいは、信じるという、徹底的思い込みで、生きるのである。

安心立命とは、嘘である。

題知らず

竜田川 もみぢ乱れて 流るめり 渡らば錦 中や絶えなむ

竜田川には、紅葉が乱れて流れている。川の中を渡れば、その紅葉の流れを切ってしまうだろう。

大上段に、人生論を語らない日本人は、ただ、歌を読むのである。

今、目の前にある現実に、対処すること。そこに、生きる極意がある。
紅葉の流れを、せき止めることなく、それを、眺めるという、余裕、優雅な心である。人生には、それ以外に、方法が無い。

人生は、流るめり、なのである。
流れているようだ。めり、は、断定ではない。断定を避けているのである。

実際に流れているにも関わらず、流れいると言わない。断定しない。
それが、曖昧さであり、たゆたう心という。
しかし、それを、日本人は、悪しきものとして、卑下した。

流るめり、として、世界を捉えるのは、日本人のみであり、それこそ、世界の平和に貢献する、ものの考え方である。
この世には、何一つ、断定するものは、無い。

インド思想は、空とか、無という言葉遊びを善しとするが、日本の感性は、断定しない、流るめり、なのである。
観念を作らないのである。

もののあわれ、についての、観念を作れば、それは、嘘になる。
ということは、定義を作るという、西洋哲学の基本は無い。ということは、日本には、思想など無いと、言ってもよい。
語ることは、嘘であると、看破しているのである。

しかし、それでは、先に進まないゆえに、便宜上、歌を読むのである。

思想が無いということで、卑下し、不安になることはない。
嘘の言葉遊びで、人生を台無しにするより、目の前にある人や物を、いかに大切にするかである。
それは、自然に思想を観るからである。
日本の思想は、この日本の自然の中に満ち溢れているのである。

もののあわれについて135

よみ人知らず
題知らず

降る雪は かつぞけぬらし あしひきの 山のたぎつ瀬 音まさるなり

降る雪は、降る先から解けている。山の瀬が激しく流れ、音も激しい。

山の瀬が激しく流れるのは、雪解けの水が流れているからだという。
かつぞぬらし、らし、とは、推定であるが、明確な根拠がある。雪解け水である。

音まさるなり
そのままを歌う。技巧も無い。

この川に もみぢ葉渡る 奥山の 雪げの水ぞ 今まさるらし

この川に、紅葉の葉が流れている。奥山の雪解け水が、今、増している。

これも、技巧無く、素直に歌う。
このように、写実的な歌で、歌心を学ぶとよい。
ありのままを、31文字にする。


わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

君が代の原典である。
和漢朗詠集では、わが君は、が、君が代は、になる。
多くの人の口に上った歌である。自然発生的に、国歌となるべくの歌であった。

君とは、天皇を言わない。天皇は、大君である。
故に、この歌の君は、親しい人、愛する人、恋する人を言う。

あなたは、千代も八千代も、お元気でという意味になる。
それを、さざれ石の、巌となりて、苔のむすまで、と歌う。

ここで、この歌の矛盾を言う。
さざれ石が、巌となることは、無い。不可能である。
巌が、砕けて、さざれ石になることはある。
小石が、大きな石になることは無い。

それでは、何故、そのように歌うのか。
人間が千代も、八千代も、生き続けられることはない。不可能である。しかし、その不可能を願うほどに、相手を思うというのである。

限りある 人の世の道 定めある 時を過ごして 悲しきことを 天山

どんなに立派な人だからといって、千年も生きる人は、いるだろうか。
限りあるから、いいのである。
無常観ではない。
事実である。
その事実を無常観という、感覚、更に、観念に押し込めることは、いかがなことか。

限りある ことといえるは 幸いと 今を生きてや 悔いを残さず 天山

わが君は、最高の恋歌である。
しかし、恋歌と言う時、恋歌の変転を言わなければならない。

恋とは、乞うことである。相手の、魂、たま、を乞うのである。
万葉の恋歌は、魂乞いであった。

それが、古今、新古今と、色好みへと、変容する。
ただし、現在言われる、色好みではない。

色好みは、雅、みやび、という、新しい感覚を伴う。
みやび、とは何か。

もののあわれ、の、もう一つの側面である。もののあわれ、の、一部にある、心境である。
みやび、を分析することである。

平安期は、この雅が、主流になる。
みやび、とは、繊細優美であること。
それを、歌にして追求するようになる。


万葉の、丈夫振りから、みやびへ、至る。
手弱女振り、たおやめぶり、という、心境に変容する。

この、雅が、室町期になると、更に、変容して、侘び寂びという、境地を生む。
茶の湯で、侘び寂びが、完成する。

更に、侘びが、綺麗侘び、寂びが、綺麗寂びと、変容する。
その精神史というものを、もっと、掘り下げてみたいと思う。
いずれ、追々と書くことにする。

しかし、すべて、その底流に流れるもの、それが、もののあわれ、である。

2007年12月13日

バリ島へ

バリ島へ

バリ島は、雨期の時期である。
しかし、雨降らず、兎に角、暑いと聞いていた。
本当に、暑かった。
特に、観光の中心である、クタ、レギャン地区は。暑い。

ウブドゥに行き、朝夕の涼しさに、ホッと一息ついた。

今回のツアーは、コンサートツアーである。
総勢、六名。
12月3日の、朝の便が、二時間遅れで、12時過ぎに、飛び立った。
前日、成田空港内のホテルに、泊まった。
朝、8:30集合であるから、横浜からだと、朝、早すぎると、前日から、泊まることにした。

ソプラノ辻知子、ギタリスト千葉真康、カウンターテナー野村さん夫妻、そして、イダキの野中と、私である。

今回の、旅行記は、コンサートと、バリ島の伝統、宗教に関して、少し、詳しく書くことにする。

3日の夜に、デンパサール空港に到着し、ホテルに向かう。
そして、翌日は、フリータイムで、ゆったりと、過ごした。
5日の、朝、10時に、ウブドゥに向かう。

途中、ゴアガジャという、洞窟、ウブドゥの段々畑を見て回り、ホテルに向かった。
12年前に、ゴアガジャに行った私は、あまりの、観光地化された様に、愕然とした。
すべて、整然と、されて、あの、野ざらしのような雰囲気はなく、少し、寂しい気持ちがした。それに、入館料も取られた。トイレも、有料になり、ガイドによると、また、値上がりするという。
1000ルピア、約、12円が、2000ルピアになるのだ。

ホテルに向かう。
コテージになっているホテルである。
一棟、一棟の部屋で、家庭的な雰囲気のホテルであり、皆、大層、気に入った。

到着すると、すぐに、テラハウスの共同オーナーである、クミちゃんが、来た。
すでに、バリ島に来ていた、ヒロ君、クミちゃんの叔父さんにあたる、マディさん、そして、クミちゃんの、旦那の弟、車の運転をしてくれる、親戚の叔父さんと、総勢5名である。

今夜の、コンサートの打ち合わせをした。

テラハウスにて、開催する。
その前に、マディさんの家で夕食を、頂くことになった。
有り難い。

観光旅行では、民家で、食事を頂くことなどないから、皆、喜んだ。
私と、野中は、四月にも、マディさんの家で、食事をしている。

バリ島では、開演時間が、夜7:30が普通であるということから、私たちも、それに習った。

6時に、クミちゃんの家に到着して、家族の皆さんに、挨拶する。
お父さん、お母さん、お兄さんと、お嫁さん、お祖父さん、そして、家のサンガである。
家の敷地の中に、サンガの一角がある。
日本で言えば、神棚や、仏壇の部屋ということになる。
そこで、皆、祈りの挨拶をする。

そして、早速、建てている最中の、テラハウスに移動した。
クミちゃんの家の、隣であるから、家を抜けて、すぐである。

何と、屋根の骨格が、出来上がって、二階には、屋根の瓦が、積み上げてある。これが出来ると、いよいよ、一階の壁を作ることになる。
進み具合は、遅いが、着々と進んでいる。
作業は、皆、近所の人々である。のんびりと、進んでいる訳である。

一階にホールという計画を、変更して、二階を、多目的ホールにすることにして、壁無しの、オープン作りである。
バリ風の、会堂の作り方だ。
一階には、部屋が6つ出来る。それが、ゲストハウスとなる。

本日のコンサートは、一階を使用する。
すでに、舞台のような場所が、用意されていた。といっても、後ろに、ビニールシートがかけられて、小さな電球の、縄で、飾られている。
床の周囲には、蝋燭が、置かれていた。
バナナの葉で、包まれた蝋燭である。
夜の闇が、楽しみである。

床には、バナナの皮の、ゴザが敷かれて、家の外には、イスが用意されている。
オープンで、周囲は、森であるから、何とも、バリ島風の、舞台である。

食事の前に、リハーサルをすることにした。

私も含めて、歌い手は、声の響きが、気になった。
ところが、辻知子が、歌い出すと、風が響くのである。

声楽家という歌い手は、ホールという閉じられた場所で歌うということが、当たり前になっている。
野外で、歌うということは、考えないだろうし、考えられないのである。しかし、特別に、張り上げることなく、声が響くのである。

次の、カウンターテナー野村さんも、然り。
そして、私の声も、然り。

つまり、出来ないということを想定していない、故の、効果である。

どこでも、歌えるという、藤岡宣男の精神が、そのまま、再現されたのである。
藤岡宣男も、どんな場所でも歌うという、域であった。

何度も言うが、張り上げない歌い方である。
静かに、語りかけて歌っても、発声により、響くのである。

何故、小鳥の鳴き声が、響くのかということを、考えると、よく解る。

発声の、技巧が、どうのこうのと言う者は、まず、無理である。
歌の心を伝えたいと、思う者には、オープンであるということが、マイナスにならないのである。要するに、それを、プロと言う。

今回の、伴奏は、ギターである。
千葉の、ギターも、響いた。

アカペラ半分、伴奏半分であり、ギターソロもある。

リハーサルを終えて、客によって、響きが、吸われることもないのであると、思うと、このコンサートは、大きな、チャンスと、確信であった。
新しい、コンサートの形である。

そして、何より、虫の音と、鳥の声と、歌の共演である。
蛙の鳴き声も、鶏の鳴き声もある。
自然のオーケストラの中での、歌となる。

自然の贅沢なホールで、歌うのである。

リハーサルをしていると、自然に人が集ってくるというのも、面白い。
子供たちも、やってきて、見ている。
本番では、子供たちが、噂を流したのか、大勢やってきた。

長期滞在の日本人にも、情報が流れて、来てくれたのが、嬉しかった。

リハーサルを終えて、マディさんの家に行く。
その頃から、お客が、集い始めた。
何とも、適当な雰囲気がいい。

待つことが、苦痛ではない、自然が在る。
いつ、始めても、いいような雰囲気でもある。

厳密さを求める日本人の、良さも、いいが、適当な曖昧さも良い。
コンサートを楽しむということは、そこに、来ること、去ることも、楽しむことなのである。

実は、その秘密は、バリ島の伝統、宗教性にもある。
厳密ではない。
何となくという、曖昧さの中に在る、日本語にすると、たゆたう、心である。
これが、私の古神道と、バリ島の宗教感覚の、共通性を思わせた。

2007年12月14日

バリ島へ2

食事は、自然に、大勢になった。
マディさんの家の、オープンな居間には、10名ほどが集った。
丁度、日本から来ていた、クミちゃんの、友人も、一緒になった。私たちのコンサートを聴きに来たというから、驚く。
バリ島で、ヨガの講習に来たそうである。何と、私たちと、同じ飛行機に乗っていた。

食事を終えて、バリコーヒーを飲み、開演時間の30分前に、テラハウスに行くと、すでに、お客さんが集っていた。子供たちもいる。近所の子供たちである。

私は、待たせるのも悪いと、野中に、イダキ演奏をしてもらった。
前座である。
どんどんと、人が増える。
今回は、クゥッ村の人を招いて、テラハウスのお披露目という意味のコンサートだっだが、日本人も、多く来た。

開演前だが、ギターソロ演奏も、開始した。

蝋燭の光が、また、何とも、風情がある。
舞台には、一つの裸電球である。そして、舞台のし切りに、小さな電球の縄である。
日本の田舎のお祭りという感じである。

いよいよ、開演時間になり、トップは、辻知子の、歌である。
バリ島の一角で、日本のコンサートである。不思議な感覚だった。

プログラムは、臨機応変にしようというアイディアで、進んだ。
通訳無しで、私は日本語で、進めた。

次に、カウンターテナーの野村さんの、アカペラ二曲である。
男の、高い声に驚いたのか、シーンと聴いている。

野村さんは、子供たちを意識してか、プログラムにはない、聞き覚えのある、歌を歌った。すると、子供たちが、小さな声で、反応した。

その頃になると、更に、お客さんが増えた。
用意していたイスが、一杯になる。
日本人の高齢の方も来た。
ハウスに、敷いたバナナの葉のゴザにも、人が一杯になった。特に、子供たちが、後ろに一杯になる。

私が、ギター伴奏で、二曲歌う。
虫の音をバックして、ギター伴奏である。
ところが、声が響くから驚く。
自分でも、その響きを、聴くことが出来た。

そして、再度、野中のイダキソロ、ギターソロと、続く。
ギターソロの、スペイン民謡になると、自然手拍子が入る。
矢張り、リズムと、テンポは、世界共通である。

闇が深くなると、蝋燭の光が、強くなる。

間合いに、子供たちの話し声が入り、何とも、楽しい。

再び、辻知子が、今度は、アカペラで、故郷、さくらを歌う。
バリ島で聴く、故郷と、さくらさくらは、また、格別である。
その、単純なメロディーは、バリ島の人の心も、動かすようだ。

日本人のお客さんは、じっと舞台を凝視している。
長期滞在の人は、懐かしい気持ちなのだろうと、察した。

また、野村さんが、ミュージカル曲を歌う。
英語の歌詞は、バリ島の人も理解する。

学校では、小学生から、英語か、日本語を選んで学ぶのである。
20代の人は、ほとんど英語を理解する。
それは、20年ほど前から、アメリカ人の女性が、無料で、ウブドゥの子供たちに、英語を教えたせいもある。
彼女は、今は高齢になったが、ウブドゥに住み続けて、村の人の世話を受けて生活している。

バリ島には、日本語学校も、多く出来たが、そこに行ける人は、お金のある人である。私は、テラハウスで、無料日本語講座も開催する予定である。
日本語を覚えると、仕事もある。収入も多くなるのである。
貧しい子供は、学校に行けない子もいるという。

例えば、マディさんの収入は、奥さんが働く、500,000ルピアであるが、教育費に、400,000ルピアが飛ぶ。
クゥッ村の男は、皆、絵描きである。そして、田んぼなどの、農作業をする。
絵は、売れなければお金にならない。
いつ、売れるか、解らない。
米は、自分で作るので、食べることは出来るが、それ以上の生活は、お金が必要である。
故に、奥さんが働く。

ちなみに、500,000ルピアは、約、6,000円である。
平均的収入は、日本円で、一万円程度である。
それでは、生活が、出来ない故に、チップで、補う。
私は、チップは、貰った人のものだと、思っていたが、違った。
同じ職場の人は、チップを皆で出して、それを、分け合うという。相互扶助である。

それで、驚くことは、10年前から、給料が上がっていないということである。しかし、物価は、二倍、三倍、それ以上になっているという。
ここに、大きな問題がある。
つまり、搾取である。
誰か。
経営者は、すべて、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、中国、そして、日本人である。

安い労働力を使い、皆、ぼろ儲けをしている。
労働組合も無い。
結果的に、これは、政治の問題である。
しかし、これを書くと、終らなくなるので、後で、書くことにする。

いよいよ、コンサートも佳境である。
ギターソロで、再び盛り上げて、私が、万葉集の朗詠をした。
これは、クミちゃんが、日本人の人に、万葉集の歌を歌うといったというので、取り入れた。
二首を朗詠した。
持統天皇と、大伴家持の歌である。

それが、バリ島の夜に、ぴったりと合った。
虫の音の響きに、唱和した。

そして、最後に、バリ人も知るという、日本の歌である。
色々あったが、タイのチェンマイでも歌った、昴を歌う。

日本人歌手の歌を知っているバリ人は、多い。それも、日本語で歌うから、驚く。
長渕の乾杯を歌った、27歳の、ビーチを仕事場にしているガイドには、驚いた。
カラオケで、覚えるという。
日本では、流行しない歌も、バリ島では、流行っていたから、更に、驚いた。

コンサートが終ると、日本人の方が、挨拶に来てくれた。
バリ人も、名残惜しく、中々腰を上げない。
子供たちも、残っていた。

夜遅いと心配したが、クミちゃん曰く、眠くなったら、帰るから、と。
用意していたお菓子を食べて、子供たちが、輪になっている。

私も、そこに入り、一人一人の名前を聞いた。
誰かが、子供たちに、バリの歌を聴かせてと、言う。
恥ずかしがっていたが、二人の子供が、大きな栗の木の下でと、日本語で、歌うから、驚く。
学校で、習うという。
まだ、小学生である。
その子供たちは、翌日の、クゥッ村の集会所の、ガムラン、バリ舞踊の公演にも来ていた。外国人は、有料だが、バリ人は、無料である。

子供たちは、自然に伝統文化に触れて、やりたい子供は、見て覚えるという。
お金は必要ない。
誰もが、出来るのである。

入場料は、皆、村の資金になり、その伝統文化のために、利用する。
日本のように、家元などいない。団長がいて、取り仕切るが、皆、名誉職である。
それで、生活を立てることはない。
舞踊家はいるが、職業ではない。
それは、伝統なのである。
ただ、舞踊のみで、生活を立てる人も出ているようである。

2007年12月15日

バリ島へ3

6日の朝である。
ウブドゥのコテージの朝は、心地よい。
何より、小鳥の声に目覚める。
すぐに、通りに出るが、森の中である。

朝遅い、野中も起き出して、すぐにプールに入った。
すると、辻知子も、やってきて、プールに入る。

これは、良い気分転換である。

私たちの他に、三組の欧米人、あるいは、オーストリラ人がいた。
皆、目礼する。
中には、パッピーデーと声を掛ける女性もいた。

本日は、ウブドゥ、クゥッ村の、一番大きな寺院の集会所での、コンサートである。
ガムランと、バリ舞踊との、コラボレーションである。

その前に、朝、11時に、10年ほど、バリ島ウブドゥに住み、日本人の学童期前の子供たちに、日本語及び、日本文化の補修授業をしている、飯島さんの家にお邪魔して、色々とお話を伺うことになっている。

10:30になると、クミちゃんが、大勢で、迎えに来た。
車の手配も何もかも、クミちゃんがやってくれる。
皆、親戚の人をお願いするので、最低のチップで、事が済む。ありがたい。

飯島さんの家は、ネカ美術館近くにあり、家の前が田んぼである。

私たちが行くと、居間には、食事の支度がしてあった。
何と、日本食である。
それも、赤飯、煮物、味噌汁、サラダ、煮豆である。

茶碗と、お椀を見て、私たちは、声を上げた。
日本の食卓風景であるから、新鮮だった。

皆で、お話を伺うというだけのはずだったが、食事の持て成しである。

飯島さんは、挨拶もそこそこに、ビール、そして、熱燗の酒を出してきた。
あまりの、歓迎に、皆、絶句である。

昼間から酒を飲まない私も、その好意に、一口、二口と、口をつけた。
皆も、同じである。

それから、赤飯、味噌汁をいただいた。
それが、旨い。すべて、バリ島で、手に入るという。
味噌汁は、ワカメと、豆腐である。
バリ島の豆腐は、何度か煮ると、良い味になるらしい。

また、煮物が、絶品で、唸った。
にんじん、いも、大根、シイタケである。
唐辛子の辛さが、旨い。
醤油の味には、ホッとした。

味噌と、醤油さえあれば、日本食が出来る。
飯島さん曰く、塩は、バリ島の塩が一番であると。
昔ながらに、浜辺で作るという。
後で、千葉君は、お土産に、バリ島の塩を沢山買っていた。

食事が終ると、飯島さんが、話し始めた。
クミちゃんは、飯島トークという。どんどんと、話が進んでゆくのである。

その多くは、バリ島、インドネシア人の、マイナス面である。
その問題意識に、私たちは、身を乗り出して聞いていた。

実は、私たちが、バリ島に来た日から、環境サミットが、行われていたのである。
明日、領事館に出向くはずだったが、思わぬ事態に、全員がサミットの手伝いに出て、会うことが出来ないということになった。

飯島さんは、領事館から、依頼されて、講師を務めている関係から、すべての領事と、親しい。
是非、私を領事たちに、合わせたかったようである。

兎も角、飯島さんの話が続く。
その内容を書くことは、難しい。

ただ、言えることは、政治と、政治家の問題である。
多くの話の中で、非常に参考になることは、政治と、政治家の話だった。
民族性の話は、誤解が多くなるので、別の機会に書く。

インドネシアは、島国である。二万の島が、連なるのである。
バリ島は、その一つ。
中でも、異色なるが、バリ島だけが、バリヒンドゥーなのである。
インドネシアは、イスラムの国である。

簡単に説明する。
インドネシアは、建国当初、宗教、アガマという、に、公認されたのは、イスラム、カトリック、プロテスタントだけだった。
つまり、唯一神を持つ宗教、一神教のみを、アガマとして、公認したのである。

インドネシア憲法前文に、建国五原則があり、その第一条項が、唯一至高の神という概念がある。一神教の信仰を、国家理念としたのである。
唯一神を持ち、教義と、組織が確立している団体を、アガマとして認めたのである。

その中で、バリ島の、ヒンドゥーは、公認されなかった。
多神教と見なされたのである。
バリヒンドゥーである。
実は、ここに、大きな問題がある。

バリ島には、ヒンドゥーの前に、バリ島の土着の信仰形態がある。
その前に、ヒンドゥーが、乗った。
ただし、分析をよくする学者は、そこまでは、立ち入らないようである。
あくまで、ヒンドゥーを主にして、バリ島の信仰を解釈、解説する。

それは、第二次世界大戦後の、建国からの、宗教公認を目ざした、バリ島のエリートたちの集団である、パリサドという団体を主にして、分析するからである。

現在見る、バリ島の信仰は、それからのものであり、新しいと解釈する。
つまり、伝統宗教ではないと、分析する研究家もいる。
それは、それとして、理はある。
つまり、国に、公認されるためには、一神教の姿にしなければならなく、教義と、組織も、作らなければならなかったからだ。

中を省略して、言うと、結果、バリ島のヒンドゥーの神を、イダ・サン・ヤン・ウィ.ディ・ワソという名前にしたのである。

初代大統領スカルノの母親が、バリ人であったこともあり、バリ島の人々の陳情が成功し、バリ島のヒンドゥー教が、公認されたのである。

その際に、仏教も、公認された。
そして、1990年代には、ワヒド大統領によって、儒教も公認された。
現在、公認された宗教は、6つになる。

1950年代に、公認された、バリヒンドゥーは、一部の人によって、なされたものであり、一般の人々には、浸透しなかった。
よって、混乱するようになるのである。
つまり、一般の人は、今でも、どうするべきかを、色々と模索しているのである。
ということは、今まで行ってきたことを続けることであり、新しい方法を学ぶことでもあるということだ。

バリ島の総本山である、アグン山にある、ブザキ寺院では、パリサドを中心に、今でも、改革を継続している段階である。

ゆえに、ある研究家は、バリヒンドゥーを伝統宗教とは、言えないとまで言う。
何故なら、バリ島の宗教は、俗信としてではなく、国の宗教の公認を受けた新しい宗教であると、認識するのである。

しかし、ここで、総まとめのように、バリヒンドゥーをまとめることは、出来ない。
それを、アガマという普遍的な宗教概念としていると共に、それぞれの、風習、習慣であるところの、行為行動を、アダット、つまり、土着のものである部分もあると認識するのである。

だが、私は、この、アダット、習慣、風習にあるものこそ、バリ島の信仰の本質であると言う。

習慣であり、宗教の本質ではないと断定する、研究家は、宗教というものの定義を、欧米型の、宗教概念で、解釈するからである。
また、インドネシアという国家の宗教概念で、解釈しようとするのである。
それは、それで、認めるが、私は、違う。

風習と、習慣こそ、宗教的行為であること、日本の神道を見れば、解る。

ここで、一人の信仰篤い、バリニーズの話を聞く。
バリ島の神の名前は、宇宙である、サンニャンツンガであるという。
宇宙が神なのである。
そして、その神の、具体的活動の象徴は、ブダマソリア、つまり、太陽であるという。
ソリアとは、太陽のことである。私には、ソリャと聞こえる。
SORIYAである。
その彼は、サンニャンツンガの神の姿を絵に描いてくれた。

バリ島の土着の信仰形態は、宗教ではない。
宗教的行為にあるのだ。
それが、私が言う、神道と、同じところから、発していると言う。

私が、太陽をアマテラスというと、彼は、大きく頷いた。そして、同じだと言う。

ここで、神社神道と、混乱するといけないので、私の神道を、古神道と言うことにする。

古神道も、バリ島の信仰と同じく、教祖や、開祖無く、教義も無い。
風習と、習慣であり、それは、伝統といえるものだ。

それを、宗教ではないと言えば、言える。

バリ島に、ヒンドゥーが来る前は、自然のすべてのものが、神であり、風の神や、水の神や、火の神だった。それで、何も問題がなかった。
しかし、ヒンドゥーが入ると、神の名前が輸入されて、ヴィシュムという神の名や、シバ、ガーネシア、サラサワティーという神の名が、付けられた。

コカコーラーが入ってきた感覚で良い。
飲み物に、皆、名前を付けるという感覚でいい。

自然を神と、観たのが、バリ島の人々だったということを、私は、言う。

サンニャンツンガという宇宙である神に続くのは、火の神と、水の神である。
火の神の大元は、太陽あり、そして、命の、水である。

すべての生命の根源を神として、認めた信仰である。
それが、所作、行為になる。
それが、バリ島の伝統であり、宗教という概念ではない。

古神道も、バリ島の伝統信仰も、共に、宗教学ではなく、文化人類学によって、研究されることを、期待する。

バリ島の人々も、行為を学び続けていると、いう。
つまり、宗教としての、バリヒンドゥーというものを、である。

バリ島の人も、タイの人と同じように、毎朝、椰子の葉で編んだ籠に、供え物をして、土に上に置く。
クミちゃんも、毎朝、50ほどの籠を作り、家の周囲に、勘で、置いて歩くという。

タイでは、ピーという、精霊であり、バリでも、矢張り、精霊を言う。

天と地の霊に対する所作である。

天に昇った霊に対しては、サンガにより、礼拝し、地に下がった霊に対しては、土に、供え物を置く。

今は、ほとんど見ないが、昔、日本の家では、竈の神、トイレの神などに対して、注連縄を張り、お祭りした。それに、似る。

つまり、それは、全ての場所に、霊的空間を認めたということである。
それは、霊感のなせる技である。

自然発生的に、始まったものであると、いえる。

バリ島の信仰を、一神教にするために、唯一の神の、働きとしての、それぞれの神という、教義を立てた。
実は、多神教と言うものも、欧米の宗教学による。
日本の神道系の、宗教も、一は多であり、多は、一であるという、理屈を言う。

実は、一でも、多でもない。
それらを、超越しているのである。
超越とは、次元の違いであるということだ。

一とか、多というのは、三次元的考察である。

キリスト教、イスラム教などの、一神教では、人を神の子というが、決して、人は、神に成らない。
しかし、仏陀の教えは、人は、仏になるものである。

次元を、峻厳して、区分ける一神教であり、次元を超える仏陀の仏である。

霊的感覚から言えば、次元を超える、仏の方が正しい。

神と隔絶するという、一神教は、滅びるのである。

古神道では、次元を超える。故に、人は、命、みこと、となるのである。
そして、画期的なことである、修行という、意識は無い。
生まれて生きること、それをもって、人は命、みこと、になるという。

一体、修行というものは、何か。
実に、贅沢な生き方である。
カルマの、清浄なることを願い、修行するというのである。
転生により、発生した、カルマを、解消するという、考え方は、インド魔界から、発した。
勿論、仏陀も、それである。
そして、転生から抜けて、二度と、この世に生まれないことを、善とする。

輪廻から、抜け出ることを、願う行為を、修行という。
つまり、輪廻を抜けた次元に、存在することを、最終目的にするということである。
それが、インドから出た、考え方である。
仏陀は、それを、完成させ、永遠の、仏となったという。
それが、本当なら、仏陀の生まれ変わりはいないということになる。

ここでは、結論を避ける。

2007年12月17日

バリ島へ4

一時間半ほど、飯島さんのお話を伺った。
結局、時刻は、一時を過ぎて、私たちは、お暇した。

私には、次に来る時は、一ヶ月ほどの予定で、来て欲しいと言う。
そうすると、領事館の方でも、それではと、色々と、企画を持ちかけてくるという。
ただ、一ヶ月の滞在となると、中々、難しい。
日本で、赤字コンサートを続ける意味と、意義があるからである。

今、コンサート活動を中止するのは、今までのコンサートの積み重ねを、やや捨てるということになる。
続けることが、何より、現実なのであり、それは、成功なのである。

藤岡宣男のファンの方は、ほとんど、コンサートに来ることはない。藤岡が、いないからであり、まだ、藤岡の歌が聴けないという人もいる。
それはそれで、何の問題も無い。

それでは、何故、続けるのか。
私の性格である。

止めるのは、今すぐにでも、止められる。
だから、止めない。

釣り糸を海に垂らしていなければ、魚は、繋らない。
釣り人は、海を見つめて、何時来るか知れない、魚を待つ。
人生で、待つということが、最高の知的行為であることを、知る人は少ない。

待つ行為こそが、人間の行為なのである。
人生は、また、待つことに、耐えることなのでもある。

さて、私たちは、一度、ホテルに戻った。
そして、休憩することにした。
コンサートまで、休むことにしたのである。
それはまた、飯島さんの、お話が、内容濃く、消化するのに、時間が必要だったこともある。

バリ島の人々の批判も多く聞いた。
それは、ある種、バリ島に旅に来て、楽しんでいた者の気持ちに、水を掛けるようなものでもあった。しかし、それで、バリ島を嫌うということではない。
問題意識である。

文明国の、情報や、物を、そのまま受け入れて、考えることなく、取り入れている様は、ある種、愚かであるが、それを、日本人は、笑えない。同じように、アメリカを取り入れて、このような、国になったのである。

バリ島では、米が三度採れる。三耗作である。
ところが、農薬を撒き散らしているという。
農薬漬けの、米が出来る。
まして、農薬の、散布の分量を知らないというから、恐ろしい。
これは、たった一つの、例である。
以下省略する。

ここで、一つ言う。
日本の旅行会社の、パンフレットのバリ島を見ると、そこには、神々の島、自然豊かな云々と、謳う。

バリ島が、神々の島であるというのは、否定しないが、それならば、日本は、更に、神々の島である。

バリ島には、神もいるが、インド魔界の、神もどきも多い。それが、おおよそ、七割である。
日本にも、インド系の神々が渡り、拝まれているが、三割程度である。
どちらが、神々が多いのかは、一目瞭然である。

神々の島は、日本のことである。

バリ島の、自然は、破壊されて、今に、見る影もなくなる恐れあり。
ゴミ処理がなされていないので、至る所、大変な状態になっている。
精々、一週間程度の滞在では、そんなところを、見る事も無い。

ジゴロに、騙されて、妊娠し、子供を産んで、バリ島に住む日本人女性が、親の資金を得て、店を出して、少しばかり、成功する。
ジゴロにやられる程度の、頭である。
すぐに、その気になり、召使を雇う。
にわか、金持ちになり、日本語や、日本の文化も知らず、バリ島で、その気になって暮らす。良い結果が、現れる訳が無い。
子供は、バイリンガルだが、母語を知らないから、精神的流浪をすることになる。
そこに、何の問題意識も無い。

こみういう、アホな日本人が、バリ島の伝統を、破壊するのは、目に見える。
少しばかりの、金があることが、仇になるのである。

インドは、ヒマラヤ山脈の上空の霊界の支配にある。
そこから、出るモノは、神もどきであり、魔界関与が、凄まじい。
インドを魔界の地というのは、訳がある。
カースト制という、仏陀でさえも、それを、阻止することが出来ず、逆に、仏陀も、取り込まれた程である。
仏陀の平等の思想は、今は、皆無である。

政治が、低いカーストの、才能ある若者を引き上げるべくの、政策を打ち出すと、高位のカーストが、反対運動をするという、魔である。

バリ島にも、カースト制がある。

インドの地には、仏陀の思想は無い。
日本の僧侶が、仏教を打ち立てて、復興しようとしているが、仏教徒は、カースト制に、含まれないほど、地位が低いのである。
南インドの仏教徒は、最低最悪の生活を強いられている。

ヒンドゥーの神々は、魔神である。
到底、真っ当な神経で、対処できる相手ではない。

あの、地下鉄でテロを起こした、新興宗教も、シバ神を主に、祭っていた。
インド魔界は、ロシアにまでも、広がり、その新興宗教も、ロシアにて、大きな支部に発展していたのである。

ただし、バリ島の人々、バリニーズたちは、救いがある。
それは、キリスト教、イスラム教、その他諸々の、布教する宗教観を持たないからだ。

ぎりぎりのところまで、観光客に、聖域に入ることを許し、しかし、信仰を強制しないのである。
日本の神道と同じである。
決して、人に信仰を強制しない。

バリヒンドゥーに、入信するには、こちらから、お願いしなければならない。
そして、それは、簡単である。
本日から、入信しますと言えば、聖域に、入ることが出来る。

バリ人の、信仰の篤さが、理解できる。
人に、教えを説くほど、弱いのである。
人に、教えを説いていなければならないほど、信仰が、不安定なのである。

しかし、バリニーズは、確固たる信仰があるゆえに、教えを説くことはない。
こちらが、尋ねて、はじめて、口を開くのである。

お解りであろうか。
信仰とは、極めて個人的情緒である。
犯しては、いけない、心の世界である。

信者を獲得するための、行為は、単に、その信仰に不安だからである。だから、大勢の人を集めるのである。
そして、金を集める。兎に角、集めることで、安心する。

多ければ多いほど、信仰に安心するという、信仰の薄さと、堕落である。

信仰は、我が内にあり、一人一人に、神がいるということを、知る行為である。
つまり、一人一宗一派になるのである。
百人がいれば、百の神があると、看破するのが、信仰である。

私は、野中と、ホテルの部屋で、徹底議論していた。
野中は、早稲田の東洋哲学科である。般若経を学んでいた。
議論し、問い詰めていた。

勿論、早稲田大学での、東洋哲学、さらに、宗教であるから、程度が知れる。
真っ当な学者など、一人もいない。職業学者が、精々である。
信仰を知らず、宗教を講義するというから、仰天する。

ましてや、霊感が無いのであるから、何も知らないのと、同じである。

更に、日本の宗教というものがあればの話だが、欧米の宗教学を持って、分析しているのであれば、終っている。
西洋の神学は、ギリシャ哲学の亜流である。
それを、本流として、すべての学問が始まっている。
元が、亜流である。そこから出たもので、真っ当なものなのない。
宗教学も然り。

野中は、結局、神道に、感動して、日本古来の信仰に、目覚めた。
ただ今、私とは、別な角度で、日本の伝統信仰を、追及している。

疲れたので、私は少しベッドで、休むことにした。

コンサートで、歌い、踊るのである。
その前に、疲れては、台無しである。

2007年12月18日

バリ島へ 5

公演会場は、ウブドゥ、クッゥ村の一番大きい寺院の、集会所である。
開演の、一時間前に入るようにと言われた。

少し遅れて、私たちは、到着した。
すでに、ウブドゥのガムラン楽団の人々、舞踊の人々が、集っていた。

私たちは、丁度、プログラムの真ん中に出ることになっていた。

すぐに、浴衣から、着物に着替える。
絽のピンクの着物を着た。
家から踊りの化粧をしてきた、踊り子さんたちが、行き来する。

四人の女の子たちの、衣装が可愛い。
頭に、ウサギの耳をつけている。
彼女たちは、出番が来るまで、踊りの振り付けを練習していた。
楽屋での、その踊りの上手なことといったら、なかった。
バリ舞踊の、基本の所作が、しっかりと出来上がっている。

私と、千葉君は、舞台の出口の横のイスに腰掛けて待つように、言われた。

開演前に、司祭さんが、皆を、清める。

つまり、その芸能活動、音楽、舞踊を、神への供え物として、考えるのだ。

お客の入りは、関係ないのである。
相手は、神様である。

我が身が、供物になるという、感覚である。

それは、日本の神楽に似る。

司祭さんから、聖水をかけられ、三度、その水を手のひらで受けて、飲む。最後にまた、聖水で、清められて、開演である。

ガムランの音が、響き渡る。

出番の女性たちは、その前まで、合掌している。

出口は、舞台の真ん中にある。
神の座から、出るというのだ。

神に捧げると、共に、神に成るのである。
これを、説明するには、多くの言葉が必要である。
今は、その事実だけを言う。

私たちの、出番は、五番目である。

長い時間を、待つ。
女の子たちの出番を見ていると、矢張り、四人が、合掌して待つ。

初めての体験である。
他流試合のような、感覚になる。
そして、考えた。
このような、企画を考えたことを、少し後悔する。
この、バリ島の伝統と、信仰の舞台に、上がるということは、大変なことであると、改めて、感じた。
少し、申し訳ない気分である。

快く、私たちの、時間を与えてくれた、ウブドゥの人々に、心から感謝した。

これは、歌舞伎の中に、バレーの踊りや、オペラが入るようなものである。
そんなことは、考えられない。
それが、出来るということ、ただ、感嘆するほか無い。

出番の前に、私も、合掌して、待った。

千葉君のイスと、譜面台が出されて、私たちは、舞台の真ん中から、出た。

強い光に、客席は、見えない。

私は、言った。
ジャパニーズオールドソング、浮波の港、惜別の歌、そして、オリジナルジャパニーズダンスを、スペイン民謡にて、踊ると。

言う私も、驚くのである。

両側に、構える、ガムランの皆様に、礼をして、始めた。

精一杯歌った。そして、踊った。
それ以外のことは、考えない。
ただ、ひたすら、歌い、踊った。

踊りの途中から、汗が噴出した。

踊りつつ、舞台から抜けた。

拍手が起こる。

楽屋に戻ると、一人の老婦がやってきて、何か言う。
その、老婦は、バリ舞踊の先生だった。

私の踊りを、ずっと、観ていたという。
素晴らしい、素晴らしいと、言ったと聞いた。

ただ、日本舞踊を始めて見たようで、どこの舞踊になるのかと、クミちゃんに、尋ねていたという。
英語が、通じないのだった。
純粋バリ人である。

最後に、ガムランの団長が、私の前に来た。
紹介されて、始めて、団長のいることを知る。

私の汗に驚いていた。
何かを言うが、バリ語であるから、解らない。勿論、インドネシア語でも、解らない。

兎に角、終ったのである。

最後の舞台を見るために、急いで浴衣に着替えて、舞台の後ろに向かった。
最後の舞台は、何と、日本女性である。
バリ舞踊をマスターしての、参加だった。
そして、本日の唯一の、男性舞踊家との、共演である。

男性は、扇子を用いた。
実は、この扇子を用いたのは、日本舞踊の影響からだった。
特殊な、扱いではないが、実に見事な、扇子捌きである。

フィナーレは、女の子たちが、出てきて、客席に降り、客の一人一人の耳のあたりに、花を挿して行く。
それがまた、可愛らしい。

女の子たちが、舞台に戻ると、男性舞踊家が、私たちを舞台に招いた。
そして、何か挨拶をする。
内容は、解らない。

私たちは、一列に並んだ。
そして、写真撮影である。

日本人、欧米人の客、そして、村の人々、昨日の子供たちの、顔もあった。

バリ人は、私の前に来て、何かを言う。
私は、黙って、それを聞いた。

後で、聞いた話である。
私の歌のような、不安定な音程で、歌う歌を、バリ人は、上手だと、認めるという。つまり、彼らは、絶対音感ではなく、言えば、移動音感である。
子音が、主であり、母音の強い日本語では、特に、音程の曖昧さを、好むのである。
それは、音の幅が、あれば、あるほど、勝手に解釈し、自分のいいように、聴くのである。
音程が、確かな歌は、響かないのである。

良い悪いではなく、それが、彼らの伝統の音楽的感覚である。

私の、万葉集の朗詠が、一番、彼らの音感に、ぴったりしていたようである。

これは、新しい発見である。

修正とお詫び

訂正と、お詫びします。

遥かなる慰霊 タイへ

チェンマイの慧燈財団、事務局長小西さんの、奥様を、アカ族出身と書きました。
これは、誤りです。
カレン族です、
カレン族には、赤カレン族、白カレン族がいます。
ミャンマーで、独立運動をしているのが、赤カレン族です。
白カレン族は、タイに多く、平和的といわれています。

ここに、訂正して、お詫びします。

バリ島へ6

舞台を終えて、テラハウスと、クミちゃんの家に戻った。
そこで、バリコーヒーを頂く。

バリコーヒーは、コピと言う。
コーヒーの挽いたままを入れて、粉が底に落ち着いてから、飲む。
最初は、粉っぽく感じられたが、これが、病み付きになる。しかし、私は、それを買って、日本では飲まないことにしていた。バリ島で飲むからいいのである。

手伝いの人や、お客さんの流れて来た人など、大勢が、中庭で、話した。
日本語、バリ語、インドネシア語、そして、英語である。

何を話したのか、忘れた。

私は、舞台が終わり、放心の様である。

終った後の、溜息が、心地よい。

コーヒーを飲み終わり、そろそろと、言うと、車の運転をしてくれる、叔父さんが、オッケーと、私たちを招く。

帰りに、買い物をしたいと言う。
水を買うためである。

大きなスーパーに連れていってくれるという。
早速、皆さんに、お別れして、車に乗り込んだ。

大きなスーパーだった。
遅い時間だったので、お客がいない。

そこで、私は、水と、ビンタンビールの缶ビールを三つ買った。

他の皆は、なにやら、多くの買い物をしている。
聞けば、お土産である。
スーパーで買うと、安い。その手が、あったと、感心した。

買い物を終えて、ホテルに向かう。

私は、部屋に入り、すぐに汗だくになった体を、シャワーで流した。
皆は、それぞれ部屋に入った。
疲れたであろうから、私は、千葉君だけを部屋に呼んで、缶ビールを飲んだ。

野中と、三人で、色々なことを、話し合った。

これからの活動については、勿論のこと、バリ島の文化と、日本の文化について、その相違点等々。そして、政治の問題などである。

石油高は、バリ島も、そうである。
飛行機の、燃料チャージが、また、上がる。
国際社会の状態が、石油を上げているだけではない。様々な問題が、それに、絡まっている。
一面的な、問題ではない。

飯島さんから、聞いた話も、三人で、思い出していた。

インドネシアの政治家の、汚職も、甚だしいほどのものがある。
日本政府も、円借款をしている国が、どのように、それを使用しているのか、調査するとのこと。早急に、行うべきである。
インドネシアには、毎年、日本から、一千億円近い、支援を受けている。

初代大統領スカルノ、そして、二代スハルトと、国民は、多く期待したが、結局は、国民を後回しにして、自分たちの資産を築いた。
ただし、初代スカルノは、まだ、英雄である。
新しい大統領が誕生するたびに、国民は、期待したが、結局、何も変わらないということが、解ったのである。

バリ島一つを上げても、一般の人々は、搾取され続けているのである。

12年前に、バリ島に行った時に、聞いた給料と、現在の給料が変わらないのである。
しかし、物価は、何倍にも上がった。

民主主義、共産、社会主義等々の、イデオロギーに関わらず、政治家や、支配者層は、我が身の懐を溢れさせるために、行動する。
人間の性であろう。

政治家は、どこの国の政治家も、同じである。
心底、国民のために、と、行為行動する政治家は、皆無に近いのである。

日本は、官僚にいいようにされ、税金をふんだんに、無駄に使わせて、更に、税金を上げるというのだから、空いた口が、何とかである。
政治家は、官僚より、更に、税金を無駄に、いや、自分のために使うのであろう。そして、そういう、政治家が、強いのである。皆、それらに、従う。
簡単に言うと、そういうことである。

社会保険庁、そのバックの厚生労働省、そして、防衛庁の様を見れば、日本が、完全に欠陥国家であることが、判明した。
さらに、与党も野党も、何がなにやら、解らないのである。

もし、野党が与党になっても、自分たちが言うことを、言われるだけである。
それを、国民は、黙って見ているという、国民欠陥国家でもある。

これで、選挙の投票など、したくなくなるという図である。

何か、根本のところで、歪んでいるのである。
そのためには、革命が必要である。
革命といえば、共産主義であるが、結果、その正体は、民主主義より、悪いものだったという。

自衛隊が、国会を占領して、暫定政府を作り、新たなる国造りをするというのは、考えられない。

今の日本は、日本人の良さが、すべて裏目に出いるのである。それを書けば、長くなるので、別の機会に書く。

バリ島の話である。

このまま行くと、バリ島は、観光客の、糞尿で溢れる島になる。
実際、糞尿処理は、無いのである。
大型のホテルは、自分のところで、処理する装置を付けているが、数少ない。

ある地区では、ナマズの養殖の食料に、糞尿を使用しているという。
これ以上になれば、神々の島は、糞、小便の島になる。

また、河川の汚染は、甚だしい。
観光客が捨てた、ゴミで、もう、川に入ることが出来ないところもある。

この、ゴミ処理も、何の打つ手が無い。
ゴミは、自然に帰ると思うバリ人に、教えて説くしかない。
一部、 焼却施設を持つ、個人的に、活動している方もいるというが、間に合わないだろう。

こういう問題は、矢張り、政治家の仕事である。
インドネシアの政治システムを知らないゆえに、多くを書くことが出来ない。

私たちが、バリ島に滞在している間、環境サミットが、開催されていた。
帰国後も、それは、続いていたが、あまり、思わしくない様子であった。

二酸化炭素の排出のみを言うが、もっと、専門家の話を聞くべきである。
政治家は、そんなことを知らないのである。
スローガンのみを掲げても、何もならない。
逆に、サミットにより、バリ島の環境を破壊しているのである。
彼らの滞在期間の、糞、小便は、どのくらいの分量になるのだろうかと、思う。

ウブドゥの、棚畠を見に出掛けた時、スコールが降った。
すると、見る間に、鉄砲水のように、道路を流れ出した。
下水道が、整っていないのである。

バリ島は、行政のやるべきことが、多すぎる。
ホテルは、どんどんと建つが、それに伴う、環境のシステムが、ついてゆかないのである。

クタの道を歩いていると、悪臭がするので、見ると、ゴミが、溜まっている。ただ、放置しているのである。
日本の、衛生観念とは、天と地ほどの差がある。
これから、バリ島で、活動すると、思うと、様々な問題が見えてくるのである。

私は、日本から持ってきた、日本酒を飲んだせいで、酔ってしまった。

2007年12月19日

バリ島へ7

7日の昼、私たちは、ウブドゥから、クタのホテルに戻った。
その日、一日、フリータイムである。ゆっくり、のんびりすることにした。

ウブドゥを抜ける頃から、空気が変わる。
山から海のものになる。また、騒音である。クタの車は、多い。

兎に角、暑い。
異常気象である。
とは、言うが、本当は、異常でも何でもない。これが、自然である。

海面上昇というのも、嘘である。水没するのは、別な意味である。
地球は、生きているのである。
たかが、人間のやることに、地球が左右されることはない。
左右されるのは、人間の方である。

地震が起これば、無に帰す。
到底、地球のやることに、適わない。

問題は、環境破壊する時、目に見えないものを、ないがしろにすることである。

石炭は、樹木の化石であり、石油は、生き物の、死骸の産物である。
山を切り崩すという行為は、そこに住むものたちの、存在を無にするということである。
つまり、多くの生き物を殺す。
命が大切なものが、人間だけである訳が無い。

また、重大なことは、地霊である。
地霊とは、そこに生きて死んだものの、総称である。
これを、無視すると、とんでもないことになる。

政治家、官僚、企業等々は、それを、知らないのである。

古代人ならば、山を切り崩すことは、神を切り崩すことだと、恐れ慄いたはずである。

すべてには、所作がある。
やも得ず、自然を開発する時は、それなりの所作が必要である。


さて、私は、夕方、少し日が翳り始めたので、マッサージに出掛けた。
フットマッサージならば、一時間で、50,000ルピアからある。約、600円程度である。
至る所に、マッサージ店がある。大半が、美容室と一緒である。

前回来た時に、親しくなった店もあるが、私は、新しく開拓しようと、ホテルの並びを歩いた。
言えば、本通ではなく、仲通である。
一番目に、目に入った店に入った。

フットマッサージを頼んだが、何と、前身マッサージを始めるではないか。私の発音が悪かったと思う。
タイマッサージになっていた。
バリ島でも、タイマッサージという言葉が使われる。
だが、バリ島風に、オイルを使用する。

オイルマッサージは、嫌いだったが、それが、感動ものだった。
凝りをほぐすのである。
指圧に似た、マッサージをしてくれた。

バリニーズで、27歳のマッサージ歴4年の女性である。

私は、そこに、帰国の日まで三回通った。
一時間、75,000ルピアである。約、850円である。

値段は、ピンからキリまである。
クタ通りに出ると、それが、100,000ルピアから、200,000ルピアになる。
1200円から、1400円程度である。

ここで、両替のことについて書く。
政府公認の両替が、一番安全である。
クタ通りには、多く、闇の両替がある。
そこでは、完全に騙しのテクニックがある。
金額が、大きいので、勘違いするのを、利用して、不正を行う。必ず、騙される。

手品のようなことをして、騙すのであるから、恐れ入る。
例えば、40枚を渡されたと思うが、数えると、30枚になっているのである。
手品である。
それはそれは、上手である。

はっきりと、解る不正が、二度あった。
私は、その都度、掛け合いに行った。
彼らは、私のような大声を嫌う。
仕方なく、不正を認めて、支払う。そうでなければ、彼らも、商売であるから、平然として、無視する場合が多々ある。
一度、手にしたものを、再度、やり直すということを、しない。
また、日本人が、不正に気づいていも、日本円に換算して、その程度ならと、諦めるということも、知っているのである。

両替をやる者は、ジャワ人が多い。バリニーズは、不正を行えないのである。

政府公認の両替に行くと、実に、機械的であるが、道端の両替に行くと、実に、ショーのような、雰囲気になるから、面白い。
その、スリルもあって、私は、道端の両替に行くこともある。

ただ、不正両替をする、彼らの気持ちは、痛いほど解る。

レートの良いところに行くと、必ず、手数料を取られる。
すると、何もレートなど良くない。
結果、政府公認の両替より、悪いことになる。

何度も言うが、必ず騙される。

さて、体についたオイルを、ホテルのプールで泳ぎ、取り去る。
心地よい疲れで、冷房の効いた部屋で、休む。
すると、夜の食事の時間になる。

食べることが、楽しみになる。

私は、一度、バリ島の日本食の店に連れて行くと、皆に言っていた。
それを、その日に、実行しようと思った。
いかに、バリ島の日本食の店が、頑張っているかを、見せたいと思った。
勿論、日本人観光客が、多いから、日本食の店が乱立したのである。

料金は、高いが、日本円に換算すると、日本の料金より、半額程度になる。
それも、割安感を感じさせる。
しかし、日本円に換算ばかりしていると、誤る。
バリ島の、現地料金を、把握することが、大切である。

数日間の観光旅行では、そんなことを、考えない。単に、バリ島を通過するだけであるから、お金を使う。それも、善し。
ただし、落としたお金は、大半が、バリ島の人には、行かない。皆々、搾取される。

夜、皆を、日本食のレストランに連れた。
結果は、美味しいという。
生ものを食べるのは、バリ島では、危険だが、日本食のレストランは、安全である。

寿司飯が美味しい。
味噌汁もいい。
刺身も、旨い。

目出度し、めでたし、である。

一度、ホテルに戻り、提案をする。
バリ島の、レディボーイショーを見るかというもの。
皆、行きたいと言う。

野村さん夫婦は、始めてのことで、奥さんが、おかまショーですかと、改めて聞く。
日本では、ニューハープと言うと、私。奥さんが、頷く。
その、奥さんは、ショーに目をそむけることなく、最初から最後まで、じっと、見ていたのである。
私は、大音量に、疲れ果てたが。

少し、ホテルで、休憩して、ホテル近くのバーに出掛けた。
ショーまで、一時間ほどある。
皆、それぞれの飲み物を注文して、ショーの始まるのを待つ。

レディボーイの裏側については、野中が、徹底取材している。

バリ島へ8

帰国の日である。
7日間の予定が、矢張り、あっという間に過ぎた。

朝、ホテルのレストランに行く。
まだ、誰も来てない。
少しして、辻さんが、出てきた。

楽しかったというのが、開口一番である。

最初のバリ島が、楽しいということは、嬉しいことだ。

ホテルを出る、夕方、四時までには、時間がある。皆、フリータイムである。
帰り支度をしなければならない。
野中は、朝から、帰り支度をしていたという。

バリ島から、去るということに、皆、一抹の寂しさがある。

私は、朝食を終えて、矢張り、帰り支度を始めた。が、一度止めて、ベランダに出た。
ベランダから、木の枝に、巣作りをしている、小鳥を、毎日眺めていた。
目の前に巣がある。
そんな体験は、滅多に無い。

小鳥は、何の心配もなく、恐れもなく、巣作りに励んでいる。
天敵がいないのである。

日本に帰るという意識は、いつものことであるが、不思議である。
また、来るのだと、言い聞かせて、帰路に着くのである。

古人は、人生を旅に、見立てた。
実に、見事な、ことである。人生は、旅である。

旅は、いつか、終わる。それが、死ぬ時である。
その、死ぬ時まで、旅を続ける。そして、本来の世界に帰るという、考え方がある。実相の世界という。しかし、だが、である。実相世界が、本当だとしても、今は、この、迷いの人生を生きている。ここに、いるのである。

実は、私は、大いに、迷いたいと思っている。
迷っている、振りをして、生きたいと思っている。

バリ島も、その一つの方法である。

帰る日の、昼食を考えた。
私は、地元のスーパーで、買い物をして、部屋で、食べることを、提案した。皆は、賛成した。

早速、私は、車をチャーターして、千葉君と、スーパーに買い物に出掛けた。

主に、パン類を買い、ジュース、ソーセージ、チーズを買った。
それを、辻さんの部屋で、皆で食べた。
地元の人の食べるものを、食べるという、体験である。

デザートに、買った、ナタデココの、シロップ漬けを食べて、愕然とした。不味い。皆、そう思った。そこで、バリ島の味との、相違を知った。
最後に、勉強になった。
味というものの、感覚が、違うのである。
余計な味がある。この、余計な味が、バリ島である。
皆、それぞれに、カップ一杯を食べた。そして、お替りなしである。
残したものを、部屋に、そのままにしておいた。ボーイさんたちが、食べてくれると、有り難いと思った。

昼食を終えて、皆、それぞれの行動に、移った。
私は、最後の、マッサージに、向かった。
例の、タイマッサージである。

最後なので、フットマッサージをした。
一時間を、どのようにするのかと、期待した。
足裏から、太ももにかけてを、じっくりと、力強く揉む。実に、うまいのである。
オイルを使うが、揉むといいう感覚である。

満足して、私は、来年の四月に来ることを言うと、彼女は、ニコニコして、頷く。
オッケー、オッケーを繰り返した。

ホテルに戻り、オイルを流すために、プールに入った。
二三度、プールを泳ぎ、部屋に戻って、シャワーを浴びた。

そして、いよいよ、最後の帰り支度である。
次のことを、考えつつ、荷物を詰める。
ここでも、捨てなられない性格が出る。買い物をした、ビニール袋まで、鞄に押し込めた。

ゴミ問題が、頭から、離れないのである。
バリ島では、ゴミの分別もない。皆、一緒にして、捨てるのである。
観光客のゴミの、分量を考えただけでも、ぞっとする。

兎に角、日本に戻ってから、バリ島のゴミについて、考えようと思った。
いずれ、テラハウスを開くのである。あの場所で、出るゴミだけでも、しっかり、処理するべく、方法を考えることだと思うのだ。

四時を過ぎて、私たちは、ホテルの玄関に荷物を運んだ。
そして、送迎の車を待つ。

来年から、年に三度は、来ることになるバリ島である。
行き来をしている、うちに、住むようになるかもしれない。
人生は、どうなるか、解らない。

札幌から、鎌倉に出た時も、突然のように決めた。そして、横浜へ。そして、これから、また、何処かへ行くのである。
定住という、考えはない。
矢張り、旅を続けている。

帰国して、数日を経た日に、札幌のお弟子さんから、電話が入った。
ある方の、ご主人が亡くなったということだった。
これから、このような、連絡が多くなる。
私の両親も、生きている。ということは、いつか、死ぬということである。
年毎に、亡くなる方が、多くなる。そういう、年になった。

日本から、離れると、そういう時に、駆けつけることが出来ない。
親の時も、会えないかもしれない。その覚悟が、必要である。
また、自分も、どこで、命を落とすかしれない。
それを、思うと、捨てるしかない。
そう、後は野となれ山となれ、である。
その覚悟を持って、すべてに、臨むのである。

帰りの、ガルーダーインドネシアは、ジャカルタで、多くの人が降りて、私は、体を伸ばして、座席に寝ることが出来た。
ぐっすりと、寝て、二度目の食事の時に、目覚めて、食事をして、また、寝た。そして到着、一時間前に、目覚めた。

アイスクリームが出た。
サービスがいい。他の航空会社より、良いと、聞いた。

バッグから、羽織を出して、日本到着に備えた。日本は、冬である。
真夏から、真冬に戻る。

私は、思う、古代、三ヶ月をかけて、中国に渡る人々がいた。多くは、学僧である。そして、長年にわたり学んで、日本に戻り、その学んだ教えを伝えた。今、私は、飛行機で、数時間で、各地に行く。さて、古代の彼らと、何が違うか。彼らより、実に、充実して、多くのことを、見聞している。
情報は古代より、遥かに、遥かに多い。
それでは、彼らより、よりよく、生きられるはずである。また、多くの情報から、摂取して、多くの良質な。情報を得られる。
確かに、彼らの、時間軸というものと、私のそれは、違うが、しかし、遥かに、私の方が、条件は良い。
それのみではない、多くの考え方を知り、広く見聞を持って、世界に臨むことが出来る。
大変、申し訳ない、言い方であるが、彼らは、それしか、知ることがなかったゆえに、狭義の、学びに捉われた。
しかし、私は違う。
さまざまな中にあるものからの、様々な情報を、伝えることが出来る。
これこそ、仏陀の唯一の教えであるなどということがないのである。
仏陀の教えも、タイと日本では、全く、別物であるということ。
聖教などというものがないことを、知るのである。
何一つとして、断定するものはないのである。
昔の人は、実に、うまいことを言った。
郷に入れば、郷に入れ。
クミちゃんの家のサンガで、祈る時に、どんな風に祈ってもいいと、言われた。
私たちは、神道の拍手を打ち、祈った。
誰も、咎める者は、いなかった。
バリ島の伝統は、嘘ではなかった。

形に拘るものは、形で終わる。
本来あるべきものは、形を問わないのである。
本来あるものとは、本物ということである。

あえて言う。
型というものは、必要である。
しかし、型を必要としない、日本以外の場で、形を強制されないということは、本物である。
バリ島の、寺院に入る時は、男女問わず、腰巻が必要である。
最低限の、決まりである。
それの無い人には、寺院が用意している。
最低限、守って欲しいと思うことを、準備している。
それでよし。

2007年12月20日

もののあわれについて136

読み人知らず 題知らずを続ける。

ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな

ほとときず なくやさつきの あやめぐさ あやめもしらぬ こいもするかな

恋歌であるが、実に激しい。
ほととぎすが鳴く五月、あやめが咲く。私は、あやめも知らない恋をする。恋をしている。

この歌では、あやめも知らぬ恋もするかな、が、意味を持つ。
その前を、序詞という。枕詞と同じである。
最初の、あやめぐさが、次のあやめを、引き出すのである。
万葉にはなかった、表現である。
作為がある。それは、短歌の成長である。
成長を、堕落と言えば、それは、その人の自説である。

歌を作るという余裕を、ここから観るのである。

あやめが、人の心を解ることはない。
ただし、ここでは、あやめにも、心が通じるという思いで歌を作る。
あやめも知らない恋をする程、秘めているのであり、秘めた恋は、実に激しい。

余計なことだが、植物に心があるということを、証明した人がいる。
また、水にも、心があることを、証明した人もいる。
自然のもの、人の心に通じる、こころ、というものを、有する。

松尾芭蕉が、松のことは松に、竹のことは竹に聞け、と言う。
意識下の世界では、自然界に繋がる心があるということである。

あやめも知らぬ恋をする、という、心境に、もののあわれ、というものがある。
もののあわれ、の、もう一つの姿である。

万葉、大伴坂上郎女の歌。
夏の野の 繁みに咲ける 白百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ

同じ心境である。
ここでは、繁みに咲く白百合は、人目につかない。それと、同じように、私の恋心は、誰も知らない。故に、更に苦しいのである。

この、知らえぬ恋は苦しきものぞ、の前が、序詞になるといえるが、古今の序詞と違う。
実際に見ているのである。繁みの白百合を見ているのである。
ほととぎす鳴くや五月のあやめ草は、見なくてもいい。見えていなくても、それを言いたいのではなく、知らない恋をする、ということを言いたいがための、序詞である。

恋というものは、このようなあるものが、ベストなのだろう。
思う恋である。

恋は、相手の魂を、乞い願うことである。
つまり、タマコイ、魂恋なのである。

日本人は、恋を知る民族であり、愛を知るものではない。
愛と言う言葉は、最初は、仏教の愛着、愛執などのように、捉われる欲望として、認識された。

欧米の愛の思想は、神との契約による、思想がある。
愛と言う関係も、契約関係である。

恋は、契約ではない。
感情の発露である。相手の魂を乞う、感情、情緒の発露である。
それが、官能と直結していた。
恋の原始感覚は、官能と共にある。
欲望に忠実であった。
だから、乱交という場合も、現代の乱交という意味と、全く別物である。
性の欲望に忠実であり、それは、生きるということに直結していた。

時代が、病んでくると、乱交が、機械的な性の処理になる。
古代の性の処理は、心と性が、一緒にあるのだ。
だが、女性は、今も、万葉時代のように、性と心とが、同通すること、多々あり。
女のエロスは、男には、理解出来ないほどに、深い、激しい。

性に溺れた男を、立ち直らせることは、出来るが、女は、非常に難しい。いや、性に溺れ続けることの方が多い。

この時代は、まだ未分化といえば、言える。
非常に曖昧である。

恋も性も、たゆたう、のである。

夕暮れは 雲のはたてに ものぞ思ふ 天つ空なる 人を恋ふとて

はたて、は、果ての意味。
夕暮れ時、雲の果てにあるものを思う。恋する人は、手の届かないところにいる人。
ゆうぐれはくものはたてにものぞおもふ あまつそらなるひとをこふとて

朗詠も、文法も、三句切れである。

雲のはたて、と、天つ空との対応である。
片恋の歌である。
男でもあり、女でもあり、心境は同じである。

秋と共に、夕暮れというのは、歌の核心に迫ることになる。
枯れ行く秋と、一日の終る手前の、まだ、夕映えの光ある頃という、実に、曖昧な季節と、時間帯を、好むのである。

遥かなものを思うことが、手の届かない片恋の人であるという、世界観である。
現代の、世界の情報が瞬時に手に入る時代ではない。距離感覚ではなく、時間感覚である。

時間感覚が、遅いとみる。
要するに、ゆったりとしている。

ただ、すでに万葉後期から、現代に続く、生命力の欠如は、否めない。
後に、文法とされるものが、複雑になればなるほど、それが強くなる。しかし、その複雑さをもって、万葉初期を、単純で、皆、同じような歌の集りであると、判断してしまう、短絡的な、見方は、誤りであること。今まで、重々書いた。

もののあわれについて137

読み人知らず 題知らず

ゆく水に 数書くよりも はかなきは 思はぬ人を 思ふなりけり

むばたまの 闇のうつつは さだかなる 夢にいくらも まさらざりけり

上記、最早、万葉とは、全く違う世界である。

流れてゆく水に数を書くことよりも、はかないこと、それは、私を思ってくれない人を、恋しく思うことだ。

闇の中での現実は、はっきりとした夢に比べて、どれとぼに勝っていることか。
うつつ、とは、現である。現実である。
夢かうつつか、といえば、夢か現実かである。
現実よりも、夢の方が、強く意識されるという心境は、ただ事ではない。
神経を病むのである。
気を病む。
すでに、現代病が、ここにある。

時代区分などというものは、千年も経ると、千年単位で、考察されたりする。
奈良時代も、現在と、同じだとも言えるのである。
古典は、古いという、考え方は、一つの自説である。

人の心、何も変わっていないではないか。

ただ、時間の流れが、違うのみ。

ゆく水に数を書くなどという、余裕ある時間を、現代人は、持てない、持たないのである。
水に文字を書くと言う、無駄、無益なことを、現代人が、しないだけである。

水自体に、何かを書くという行為は、はかないものである。それより、はかないのは、片恋、片思いの恋であるという。

流れに、ものを書き付けるなどという、行為を、今、誰がするか。
そんな、余裕は無い。

これは、時間の感覚、時間の、捉え方である。

もののあわれ、というものは、この時間の、捉え方に、大きく影響する。
もののあわれ、というものの、時間の認識である。

あわれ、という言葉を、儚きという言葉に、置き換えているようである。
しかし、あわれと、はかなき、は、違う。

あわれには、慈悲の思想が宿るが、はかなきには、絶体絶命の、定めがあり、それは、実に厳しい現実を言う。
儚きもの、それは、人間の存在であるというのだ。
何故か。
人間は、死ぬからである。
死によって、すべてが、ごわさんとなる。
死によって、すべてが、虚無に帰す。
これも、一つの観念である。

儚いのは、死というものから、逃れることが出来ない、人の定めなのである。何人も、そこから、逃れることが出来ない。だから、宗教が、現れる。そこからの救いである。しかし、宗教は、何一つ、救わない。思い込ませるだけである。
不安を鎮め、心の安定を得るというが、単なる、誤魔化しである。
人は、信じ込んで、騙されるのを、よしとする。

それでは、死からの救いを何によって得るのか。
何によっても、得ることはない。
それが、歌の道である。
それが、もののあわれ、である。

救われるという、観念を持たないのである。

古代、日本の伝統は、死を隠れるとして、自然の中に、融合すると、考えた。
実に、宇宙的である。

消滅するのではない。
自然と、宇宙と一体になるのである。それを、隠れると言った。

敬称して、お隠れ遊ばすである。
更に、崩、と書いて、神上がり、かむあがり、と読ませた。

古代日本の伝統である。

別の世界に、移行することを言う。
天国でも、仏の世界でも無い。
そんな観念の、あるばすの無い世界を言うのではない。
別の世界とは、自然の世界であり、それは、宇宙である。

少しの、注意深さがあれば、解ることである。

宗教の、神学、教学、教義等々を見れば、それが、すべて観念であるということが、解る。観念まみれである。
日本の伝統は、それを、善しとしない。

自然の世界にも、幾層もの、世界を観たのである。
自然の隠れた姿も観たのである。
人の死は、隠れてある自然に融合するのである。

故に、古代の人の、思いは、先祖崇敬である。
すべてが、ここに行き着く。
それを、先祖供養という言葉で、置き換えているが、全く違う。

先祖は、子孫に供養するものである。子孫が、先祖に供養するというのは、逆転しているのである。
根本から違う。
要するに、死者の存在ではなく、こちら側、つまり、生きている者の側から、供養するというのである。その心は、こちらの満足感である。
死者への追悼慰霊という思いは、決して、供養ではない。
崇敬である。

そして、何より、先祖代々のという、馬鹿馬鹿しい言葉は無い。
辿れば、皆々、先祖は、一つに行く着く。
故に、先祖を、祖先として、総称することになるのである。

それは、自然の中心である、太陽をして、総称した。
天照である。
あまてらす、ということになる。

天を、照らすもの、である。それは、地をも照らす。
生きとし、生けるもの、その照らす光を受けずにいないのである。
根本原因である、太陽を拝することが、先祖崇敬という伝統になった。
実に、真っ当である。

誰もが、納得する。

それ以上も、それ以下も無い。

死と格闘して、成り立つ思想、哲学は、すべて、この日本の伝統に行き着く。

そこに、辿りつくために、もののあわれ、という、道を見出したのである。
それが、日本人である。

2007年12月21日

神仏は妄想である。4

長野県小諸市の、新興宗教の殺人事件で、解ったことは、暴力が、常態化していたということである。

単なる水を、奇跡の水として売っていたというのは、可愛げがあるが、結果、暴力常態化という、状態に陥るのである。

すべての、宗教が、そうであると、断言できる。

小諸の新興宗教の話ではない。
皆々、宗教とは、そのような状態に陥るのである。
何故か。
そこに、魔がいるからであり、魔が、宗教を作るからである。

野心の強い、霊、この場合は、悪霊、邪霊、浮遊霊、そして、魔界の霊団である。

ちなみに、言うが、宇宙には、神ではなく、霊がいるのである。
その霊体が、便宜上、神と名乗ることもある。
特別な場合である。
そういう霊体は、高い次元の空間にいる。
次元の波動が、違う。

また、そのような、高い霊の世界に在る霊は、基本的に、奇跡ということを、起さないのである。

さて、宗教団体の暴力である。
背後の霊団が、暴力団のような霊団であるから、結果、信徒が、その波動に、凶暴化する。
そして、他の宗教をはじめとして、自分たちに反対する者、逆らう者、批判する者、等々を、暴力にて、抹殺しようとする。

あの、O教団は、武器まで製造して、国内戦争をしようとしていた。
驚くべき、暴力の、様である。

ここ数年でも、小さな教団、新興宗教による、殺人事件や、奇怪な事件が多かった。
すべて、邪霊、悪霊の類が、憑いたのである。

そのような霊が憑けば、当然、威力を増し、信者をどんどんと、増やす。
人は、悪に惹かれる。勿論、信じる人は、悪霊などとは、思わない。それを、神だと、信じるのである。

新興宗教から、また、新宗教が、続々と現れるというのも、霊の分散である。

邪霊、悪霊、まして、魔界の霊団が、調和することなどない。
分裂に、分裂を重ねる。

大本教から、分散した、宗教は、数知れない。
それほど、大霊団による、宗教創作だった。

勿論、仏教系も多々ある。

そして、キリスト教系である。
続々と、新宗教が、創作された。日本的に、変形してである。
牧師が、少女たちに性的暴行を加えていたという、事件もあった。

婦女暴行事件は、宗教内では、数限りない。
マスコミが、書かないだけである。
いや書けないのである

小諸の宗教を見れば、宗教というものの、いかがわしさが、よく解る。
巨大な神社を建てた。信者の金である。それで、更に、金を集める。
騙される信者が、アホだが、信じ込むのであるから、救いようが無い。

しかし、皆々、宗教というものは、その程度であるということ。

神社などは、誰でも建てられる。
教祖になるもの、いつからでも、なれる。
適当に、寄せ集めた教えを述べていれば、事足りる。

簡単な祝詞一つで、般若心経一つで、新宗教を起せるのである。

祝詞も、人の作ったものである。
霊感に導かれて、言葉が出たと言えば、それも、事足りる。

兎に角、騙されたい人がいるということである。

長年に渡り、精神的放浪をしてきた人が言う。
様々な、宗教や、精神世界の集いに出たが、結局戻ったところは、自分の心だったと。
そして、伊勢神宮にお参りに行きたくなりましたと言う。
それは、よいことである。
お参りするには、何の問題も無い。

伊勢神宮では、神道の布教もない。強制も無い。
ただ、拍手して、お辞儀をして、拍手をして終る。
後は、古代の森を、歩けばいい。

それが、伝統である。

日本には、このように、自然な伝統がある。

狂信、盲信の類は無い。

伊勢神宮に病気治しや、奇跡を求めて行くこともない。
ただ、お参りなのである。

世界中から、ルルドの聖水を求めて、巡礼するというが、聖母出現で、奇跡の水が出るということに、不思議は無い。
魔の力であれば、そんなことは、朝飯前である。

聖母が魔であると言うのではない。
聖母である、証拠は無い。
ただ、現れた姿を見て、聖母マリアだと、信じたのである。

ルルドの水で、治る人より、死ぬ人の方が多いこと、誰も言わない。

心底、騙されたいのである。
それを、総称して、愚かという。

ちなみに、私は、出現した聖母が、祝福したという、蝋燭を持っていた。
今は、使い果たして、無い。
その預言が、1999年の、世の終わりの時に、世界が暗闇に陥るため、その蝋燭で、光をというものだった。

聖母の出現について言う。

その姿を現している霊は、何物であるかということである。

同じく、神や、仏、も、そうだ。

我は、観世音菩薩であるというならば、真っ赤な嘘である。
そんな存在はない。
観世音菩薩は、それを訳した、クマラジュウの言葉である。

強力な霊能力を持った、新宗教がある。
それは、また、分散して、宗教を科学として、教団を立ち上げ、大々的な広告宣伝により、立派な建物を建てている。

教えは、漫画である。
耳障りの良い言葉を並べての、教えは、頭の弱い人を、取り込んだ。

多くの霊言集を出した。
そんなに多くの神様、仏様が、懸かるというのである。
魔としか、いいようがない。

昔から、多くの神、仏を祭ると、悪いことばかりが起こると言われることを、知らないようである。

一人の霊が、分裂的に、語ることを、信じ込んでしまったのであれば、哀れである。
他の宗教の、教祖の霊言集まで出して、信者を獲得しようとしたことも、見え見えである。

こうして、低レベルの霊から、通信を受けて、それを、布教するという、哀れさは無い。そして、その信者である。
さらに、もし、それが、単なる創作ならば、更に悪いのである。
人の心を、玩ぶ、商売とするのである。
すべての宗教が、そのようである。

神仏は妄想である。5

この一年ほどの間に、ある、新興宗教の勧誘をされて、迷惑しているという人の、相談を多く聞いた。

その教団は、新しい伽藍を建てて、必至の金集めをしているのである。
つまり、信者獲得のために、信者を最大限利用している。

信じる者は、騙されるので、信者は、すべて、騙されている。

仏教を掲げるが、全く仏教とは、異質のものである。
まず、密教から出ている。
教祖は、天台の資格を得て、仏像製作にいそしみ、新宗教を立てた。

天台密、真言密、そして、S如密というから、密教である。
密教は、仏教ではない。
天台も、真言も、そうである。
インド、バラモンの呪術を主にした、仏教に似せた、魔界からのものである。
それでは、チベット密教はと、いうことになる。
チベット密教も、仏教ではない。
土着の信仰に、インドバラモンの、呪術を重ねて、更に、独特の、教義を打ち立てたものである。

その、教団の主たる経典は、涅槃経である。
最高の経典であるとする。
創作の経典であり、全く、何の根拠も無い。

最も、恐ろしいのは、教祖一家を奉ることが、主であり、仏陀などは、論外なのであるから、仰天する。

教団独自の、用語を作るのは、どこも皆同じであるが、あまりに、低級である。
また、教団の霊能者を養成する。

その、養成所に、勧誘されて、困って、私に、相談に来た人もいる。

名刺大の、特別お札が、三万円である。
特別な人しか、手に入らないという。
私の手元に、それがある。
護摩焚きをして、作ったものである。

お守りであろうが、何の波動も無い。

さて、本部に行った。
立川から、八王子という土地柄は、インド魔界の神々に、占領されている場所である。
あの辺りにある、宗教施設は、その通り、魔界からの、関与が大きい。
魔界の関与の大きなところは、人の心を惹きつける。

正しく次元移動しない、霊の溜まり場になっているのである。
本部を、極楽だと、信じている霊が、多数、漂う。

後に、あれを、清め祓いするのは、大変なことになると、感じた。

タイ・バンコクの有名寺院から、仏舎利を頂いたというが、金にあかせて、手に入れたものである。

信徒は、兎に角、毎月、小銭を多くの人から、徴収させられている。
ご供養と称して、一人五百円を徴収するのである。
広く、信徒に、そのような、行為をさせている。
信者ではない人からの、金集めである。

信じる者は、騙されるから、せっせと、人から、五百円を集めて、それを、本部に奉納するというか、吸われる。

信者の一人が言う。
法華経は、書き上げられて、500年の効力しかない。最後は、涅槃経によって、救われると。
しかし、何からの救いなのか、誰も知らない。

生長の家と、同じく、宗教の関わらず、入会することが出来るという、許容範囲である。一見、拘りがないように見えるが、それは、手である。
兎に角、信者、会員を、一人でも増やしたいのである。

人が増えれば、金も集る。

本当に、現世の人を救いたいと思うならば、宗教など、作らない。
教祖にも、ならない。

信仰は、迷いだからである。

仏陀、イエスキリスト当時の、時代は、今と違う。
その土地だけの、情報の中に、生きて、その現状に、沿って生きるしかない時代である。
そこに、いながらの、生きるということである。

イエスの言葉も、拡大解釈されて、イエスの本当の真意を知る者は少ない。
世界の、果てまで行き、教えを伝えよとイエスは、聖書の中で言うが、創作である。また、世界の果てなど、当時の人は、知らない。
限定された世界の中である。

自己顕示欲。教祖の、資質は、それに尽きる。

三蔵法師玄奘が、億万の衆生を救わんがために、と、天竺に、教えを求めて行った、精神とは、根本的に違う。
死ぬまで、求道の旅をしたのである。
ただし、法相宗という、一派を立てたことは、事実であるが、教祖ではない。仏陀の教えの一端を、明示しただけである。

その、法相宗も、滅びたと言ってよい。
日本では、薬師寺が、それである。
いつも、寝ぼけたことを説教している。

そこの、教団に入信して、良いことづくめだと言うが、悪いことづくめになった人の話は、無い。
どこの、宗教も、そうであるが、良いことづくめを言うが、それ以上に悪いことづくめになった人の方が、多いのである。

法華経系の宗教団体の、新聞を見ていると、必ず、苦難苦悩から、法華経によって、宿命転換をして、今に至るという、記事が載る。

順風満帆だった、人生が、離婚によって、最悪なものになり、家のローンだけが残り、悲嘆に暮れていた時に、勧誘されて、入信し、それから、どんな困難も、乗り越えて、今に至ったという。
その間には、子宮筋腫、自律神経失調、緑内障、変形性股関節症、硝子体網膜牽引症候群、胆のう摘出等々の病を、克服したという。

違う。
知らずに、法華経の因縁掘り起こしによって、悪因縁ばかりを出した故である。
それを、超えてきたというから、信じる者は、盲目になるのである。

良くなった人が、一人いれば、悪くなった人は、一万人以上いるのである。

悪くなった人の相談を受けていた私は、それらの、嘘が、よく解るのである。

高僧、老僧といえば、何やら、特別の感慨を受けるが、迷いの、そのままを、生きたということである。
彼らは、言葉遊びに始終して、蒔くことも、刈ることも、捕ることも、作ることもせずに、安穏として、あろうことか、苦難の修行をして、と言うから、仰天する。

苦難を生きる人は、蒔き、刈り、捕り、作る人を言うのである。

修行は、好きで勝ってにやっていることであろう。
褒められたものではない。
また、そのようしか、生きられなかったのである。

実に、妄想の仕業をもって、云々する、宗教というもの、皆々、嘘である。

実際、日本には、宗教というものがなかった、世界でも、稀な国である。
日本には、伝統と呼ぶ、自然共生、共感の、有りのままの、所作しかなかった。
その名称さえ、なかった。
仏教により、仕方なく、神道という言葉で、区分けしたのである。

そして、日本の神は、カミであり、欧米のアラブの、様々な神の、唯一のというものはない。

山川草木、すべてが、カミであり、それらは、人間に、分配されるという意味での、カミであった。
言挙げしない、自然が、カミの象徴としてあった。
自然の恵みが、分配される。それを、総称して、神と、呼び、更に、死者を、命、
みこと、として、神と、称したのである。

死者に、命、という、文字を当てたということに、驚嘆する。
命は、いのち、とも、読む。

命は、寿命ではない。
命、大いなる、いのち、のことである。
死者は、大いなる、いのち、の中に、入るものであるという、真実を知っていたのである。

故に、死者を、隠れた存在として、認識した。

そこに、教義という、言葉遊びは、一切無い。

2007年12月22日

非国民に呆れる

防衛事務次官だった、守屋という男は、家族総出で、接待、賄賂漬けだったということが、明確になった。
呆れる。

そして、更に、取次ぎの代理店だった、山田洋行が、巨額の金を得ていたということである。勿論、税金である。

もう、これについては、罪云々の問題ではない。

私の言いたいことは、こういう、ことは、他の官僚たちも、平然と行っているということを言うのである。
大なり小なり、こういう、ことを、平然として行うのである。

税金とは、国民の金である。
その金を、掠め取るために、皆々、官僚になるのである。
公務員である。
言えば、非国民である。

公務員が、非国民であること、何度も言った。
それは、国家、地方に、関わらずである。

安定志向を目指す者は、公務員になるべく、努力して、勉強する。要するに、非国民になるために、頑張るのである。
呆れる。

いつから、公的職業が、このように、堕落したのか。
江戸時代から、代官という者が、商売人と、組んで、賄賂漬けであったが、必ず、それを、諌める部下や、見張りがいた。
今は、知っても、知らない振りをする。
いずれ、自分にも、それが、回ってくることを知っているからだ。

偉くなると、本当に、頭のどこかが、鈍化する。
守屋という、男も、どこかが、鈍化して、麻痺し、ついには、我一人という意識になったのだろう。
天皇と言われたというから、驚く。

発覚したということは、運が悪かったということである。
もし、発覚しなければ、知られず、のうのうと、豊かな老後を送っている。そういう、者が、多数いるのである。
今、のうのうとして、豊かな老後を送っている。

例えば、社会保険庁の長官を務めた皆々である。
誰も、切腹するようなことを、しない。
これ程、国家を震撼させる、自体を起こしても、平然として、退職金を渡り鳥で、受け取り、のうのうとした、豊かな老後を送るということである。

彼らに、少しでも、日本人としての、精神、心、魂が、あれば、自害する。

恥だからだ。
いつから、恥という、心の感覚を、捨てるようになったかは、欧米の思想が、まかり通ってからである。

恥の精神を忘れて、日本人であるとは、言えない。勿論、彼らは、日本人でなくていいのである。金さえ、掠め取ったら、後は、どこの国の人になってもいいのである。
その子孫は、いずれ、因果応報で、苦難、苦痛の人生を歩むことになるが、彼らは、そんなことも、どうでもいいのである。
ここまで、日本人として、落ちたということである。

日本人として、落ちたということは、もはや、救いは無いということである。

2007年12月23日

神仏は妄想である。6

ここで、改めて、断っておくことは、私は、信仰を否定するものではないということである。

私は、宗教団体が、神仏の名を使用して、人を騙すことを、言うのである。

例えば、浄土宗、浄土真宗を言う。

法然や、親鸞が、どのような境地で、念仏信仰を説いたかということである。
今、それを、継ぐ者は、どこにもいないのである。

本願寺というのは、浄土真宗であり、浄土宗の本山は、京都、知恩院である。
それらが、本当に、宗祖の教えを守り続けているのかといえば、全く、逆である。

彼らは、形式と、迷信を配したのである。
つまり、仏壇、仏具等々、先祖供養も、否定したのである。

親鸞は、歎異抄にて、はっきりと、父母のためには、念仏しない。何となれば、自分が救われれば、自ずと、父母は、救われるのであるという。

有名作家が、親鸞の教え、また、その系統を継ぐ、蓮如などの思想を、まことしやかに、語るが、単に、それに、酔うのである。
あたかも、自分も、求道の者であるかのように、装う。あたかも、そのように、演じる。そして、それに、酔うのである。
勿論、本人は、真剣なのだろう。
小説を書く事無く、そのような、教えを書き始めたということ、文学の堕落である。

それなら、借金返済のために、大作を書いた、ドストエフスキーの方が、まだ、作家として、真っ当である。
ただし、彼のテーマも、手薄なものである。
文章が重厚であるから、騙されているだけである。
キリスト教の、罪と罰を、いくら考えても、詮無いものである。

日本でも、キリスト教の原罪をテーマに、小説を書いて、デビューした、女性作家がいるが、原罪というものは、妄想である。
それを、問うということ、遥かに、おかしい。
人の心の中にある、氷点というらしいが、それは、己にあるのであり、人皆にあると、信じ込むのは、実に、誤りである。

それなら、仏教の、無明の方が、ぴったりとくる。
無明とは、アホであるということである。
人は、皆、アホの境地を持つというなら、話は解る。

生まれ持っての、原罪とは、大嘘である。
アダムとエバなど、存在していないのである。
彼らが犯した罪が、人類の罪であるという、とんでもない、権力者の支配を強めるために、出来た教義は、妄想以外の何ものではない。

さて、念仏宗の、様々である。

今では、親鸞の教えも、廃れて、金ぴかの阿弥陀如来を掲げて、それを、拝むというから、笑う。
そして、それらの、座主である。
僧侶としては、終っている。
始末に終えないのである。

もし、法然や、親鸞が、生きていたら、彼らは、迫害するであろう。

教えの、全く逆を行為行動しているのである。

哀れなのは、それらの、信徒である。
せっせと、寺に、寄進、つまり、なけなしの金を運ぶのである。
それらは、皆、僧侶の、飲み食い、果ては、女を買う金に変わる。
仏に差し上げているというが、仏は、金など、欲しない。誰のものになるかといえば、寺のもの、僧侶のものになる。

僧侶の、割烹での、会話を聞いた。
皆々、ニコニコとして、この商売は、やめられない、と、言う。
仰天するのである。
信徒が、どんな思いで、布施をしているのか、知らない。

信長が、比叡山焼き討ちをしたのは、実に、正しい。
今も、すべての、寺院を、焼き討ちすべき時期が、やってきた。

高僧、老僧の、耄碌した話を聞いて、涙を流す時代ではない。
彼らは、どんなにか、豊かな生活をしていることか。

全く、御伽噺のような、読経をして、平然としていられるという、その根性は、どこからのものか。

鎌倉仏教が、現在の仏教の大元である。
文学としての、鎌倉仏教は、評価するが、完全迷いの仏教を創作したということは、事実である。
また、仏陀の仏教ではなく、漢訳され、仏典の仏教を、更に、妄想逞しく、創作したということである。

ホント、いい迷惑である。

人は、行為によって、成るものに成る、という、仏陀言葉を借りれば、今の、浄土宗、浄土真宗の僧侶などは、自害して果てるべき、罪をを、負うこいうことである。
勿論、死後は、極楽どころか、地獄に落ちるのが、真っ当である。

ちなみに、彼らは、法然や親鸞が、霊界のどこにいるのかを、知らない。

さて、極楽にいるのでしょうか。

何か、聞くところ、法然は、日蓮と一緒にいるようである。
当然である。
念仏唯一、題目唯一と、根は、同じことを言うのであるから。

それでは、親鸞は、どうか。
今でも、地獄は、一定住みかとかいい、思索に耽る、何とも、表現出来ないところにいるようである。

もののあわれについて138

もののあわれについて、を、書いている。
西洋の論理学、語り尽くそうとする哲学、その他、諸々に、犯されている人、随分と、苛立つのである。何となれば、答えが欲しいからである。
はい、こうこう、こういうものです、と。

西洋にて、音楽を学んできたという者、書き込みで、省略、行間を読ませるものではなく、明確に、云々という。
それが、病むということなのだが、気づいていない。

書ききれない、という、もの、が、この世に、あるという、こと。
また、書くものがあるということは、書かれないものもあるということ。

書ききれないから、それに近づけるために、書くということもある。
省略も、書くことと、同じである。

生まれ持った日本人であれば、それを、知る。
遺伝子に、それを持つ。

言葉にするということは、観念であり、それを、限定することである。

日本の思想は、限定されない、たゆたう感覚がある。
故に、語り続ける。
西洋の弁証法とは、違う。

芸術にて、完成度が高いもの程、未完の美を顕す。

人間が創作する、最も、美しいものは、未完の美である。

表現し得ないものを、秘めている。その、秘めているものを、美と、認識する。

世阿弥が、何故、秘するは花、と言うか。
美は、秘するものだからである。
それは、美だけではない。

物事の本質も、秘すると、認識するのである。日本人は。

それを、表現して、人に訴える、伝える時、今世だけではない、幾世にも渡ってきた、秘するものがある。
転生を経て、伝え続けたものである。

この、人生の一代で、伝えることなど、たかが知れている。

無意識から、現れ出る、得たいの知れないものの、その姿を、芸術というものが、表現しようとして、呻吟する。
日本では、芸能といった。

そして、生まれ持ったものが、最も、それらを、理解する。
お勉強をして、理解するものなど、たかが知れているのである。

何故、日本に仏教が輸入された時、その思想よりも、造形美に突き進んだかを、見れば、解る。

古代、仏像は、飛鳥時代製作とされていたが、今は、初期白鳳時代であると、言われる。
思想よりも、まず、造形美に進んだ故は、何か。

伝えられるもの、限られると、観たからである。

仏像を製作するという、発願の時。それが、問題である。

念仏申さんと思い立つ心の起こる時
歎異抄で言う。
思い立つ心の起こる時、すべて、弥陀の本願に救われていると、感得するのである。
それは、目に見えて、どうだというのではない。
発願する時、すでに、事が動くと観る。

弥陀の本願は、置いておく。

仏像を作ろうとした時、すでに、仏像が、現れているのである。

しかし、それは、まだ、この世に無いものである。

目には、清かに見えねども、という、心境である。
季節が、次の季節に移る時、はい、今日から夏ですとは、ならない。
目には清かに見えねども、風の音にぞ、驚かされるのである。

日本人の心情を、日本の自然と、風土を無視しては、考えられないのである。

曖昧なものを、善しとする、のは、物事が曖昧だからである。
それを、たゆたう、として、貴んだ。

しかし、世界の常識ではない。
世界の趨勢は、西洋思想からである。
当然、明確に、はっきりとさせる。そして、一神教の、神との契約により、成る民族とは、全く違う。
彼らと、会話するには、彼らに、準じる必要がある。
それは、たゆたう、という、心情を彼らは、理解出来ないからだ。
こちらは、彼らの、心情を理解する。こちらが、歩み寄ることになる。

ここで、語感というものの、違いを知るべきである。

日本人は、世界で、唯一、母音を主にする。
しかし、他民族は、日本以外の、ポリネシアを省く民族は、母音を、右能の処理で、聞き流すのである。

母音を主にする日本人は、サンキューという。
あちらは、サン、と、キューが、一まとまりである。
さアンきイゅゥになるのが、日本人である。

母音を主にする、日本人には、一音に意味がある。
あちらは、単語に意味がある。

アルファベットには、その成り立ちはあるが、一音に意味は無い。

曖昧にしても、伝わるのは、母音主導で、一音に意味があるからである。

例えば、簡単にして言う。
愛しているとは、言わない。
一緒に年を取りたい。そう言えば、伝わる。
一回りも、二周りも、遠まわして言う。実は、それが、遠まわしとは、思わない。
それ程、表現が違う。

簾動かし、秋の風吹く。
と歌えば、それが、どんなことなのかを、知る。

そんな、繊細、微妙なことを、あちらの人々は、理解できない。
理解出来ないことが、悪いことではない。
それが、違いというもの。

仏像製作も、他の民族が製作するものではなかった。

「諸々の仏像とは、美的鑑賞の対象ではなく、彼らは、造形美を追及したわけでもない。教文の意味の造形を通しての感知であり、意味への礼拝であった。たとえば、薬師如来像は、病気快癒の祈念の対象以外の何ものでもなく、薬師如来経を「形」を通して読む行為だった。」
亀井勝一郎、日本人の精神史研究
さらに
「造仏技術とは、造形技術であるとともに信仰の対象であった。言わば特殊な材料による信仰の感覚的消化の過程を意味した。」
とも、言う。

製作の前に、すでに、その像に対する祈りがあった。

それを、観る者も、その祈りを、読むのである。

私が、小説、小野妹子を書いた時、矢張り、いけばな、という意識を隋から、持ち帰り、花を立てるのである。
その立てる行為が、そのまま、祈りになった。

行為が、語るのである。
故に、多くを語ることはない。

物事の本質を語るということは、語り続けるということであり、その行為に耐えるということである。
芸術家が、死ぬまで、創作するのは、語り得ないからである。

舞台芸術のプロは、一つの舞台が終われば、即、次の舞台を考える。
次は、もっと、良く。

日本人の心情を理解する者は、世界のすべての、芸術家である。

もののあわれについて、語り切れない、書き切れないから、書き続け、語り続けると言えば、世界の芸術家は、それこそ、芸術行為であると言うだろう。

古今の歌を続ける。

2007年12月24日

もののあわれについて139

読み人知らず 題知らず

君や来む われや行かむの いさよひに まきの板戸も ささず寝にけり
きみやこむ われやゆかむの いさよいに まきのいたども ささずねにけり

いさよひ、は、動詞、いさよふ、から転成した、名詞である。
躊躇うために、くずぐずしている様。

あなたが来るだろうか。それとも、私が行こうか。躊躇う心で、まきの板戸も閉めずに寝てしまった。

これは、遊び心である。
翌日当たりに、相手に歌を贈ったのであろう。
遊び心は、余裕である。

次の歌も、そうだ。

月夜よし 夜よしと 人に告げやらば 来てふに似たり 待たずしもあらず
つきよよし よるよしと ひとにつげやらば こちょうににたり またずしもあらず

今夜は、月が美しい、いい晩ですねと、あの方に告げたら、それは、いらっしゃい、来て欲しいと言うのと同じになってしまう。でも、私は、待っていない訳ではない。
複雑な心境であるが、遊び心である。

万葉時代には、無い歌である。

待たずしもあらず、とは、打消しを二度、行っている。
待たず、あらず、である。
精神構造が複雑になるのである。

文法では、文法法から、それを解くが、語感で、理解することが、先決である。

何度も言うが、それは、現代に続く。
複雑怪奇になることを、文明が進化するということと、考えていいのか、どうか。複雑になったら、良いという訳ではない。

だが、すでに、もののあわれ、に関する、情緒も、複雑になりつつあるのである。
いよいよ、藪の中に入るということだ。

偽りの なき世なりせば いかばかり 人の言の葉 うれしからまし

もし、偽りの無い世の中ならば、あなたの言葉が、どれ程、嬉しい言葉でしょう。

恋の駆け引きのようである。
万葉には、このような歌は無い。

駆け引きをしても、単純明快である。

どうも、複雑で、少し捩れてくるのである。
これが、時代というものなのか。

好きだ、愛していると、言われても、すぐに信じることが出来ない。それは、この世が、偽りに満ちているからだ。偽りの無い世の中ならば、そのまま信じることが出来る。
男女の心は、移ろうものである。
それは、いつの時代も、そうだ。
そのように、移ろいやすい男女の恋の心が、明確に見えてきたのである。

兎に角、それを、一歩前進として、良く解釈することにする。

万葉では、その時が、永遠であった。
今が永久であるという、思い、一点である。
つまり、命が輝くのである。
それを、失えば、また、前に進む。実に、旺盛な生命力である。

形見こそ 今はあたなれ これなくは 忘るる時も あらましものを

この形見が無ければ、思い出すことも無かったものを。これが無ければ、あの人を忘れる解きもるだろうに。

あたなれ、の、あたは、仇である。
形見が仇となっているという。

形見こそ 今は仇なれ、ということだ。

思いが、以前と違うのである。
忘れたいのに、これがあるばかりに、思い出すというのである。

実に、現代に似る。

それでは、それを捨てないのかといえば、捨てずに持っているのである。
複雑な心境である。

読み人知らずは、庶民の歌である。
庶民が、すでに、こういう心境を得ているのである。

これが、源氏物語に至るのである。

この後の、和歌集を見れば、新選万葉集というものが、古今集の前後にあり、そして、伊勢物語、竹取物語と続く。
村上天皇の951年には、和歌所が置かれる。

枕草子、和泉式部日記、紫式部日記、そして、源氏物語と続く。
女房文学の時期に入る。

もののあわれについて140

読み人知らず 題知らず

紫の ひともとゆえに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る

紫草の一本を見るだけで、武蔵野の草か、すべて懐かしく、しみじみと見るのである。

この場合の、あはれとぞ見るは、懐かしく、しみじみとした感覚である。
それも、一つの意味になる。
あはれとは、懐かしく、しみじみとしたものである。

世の中は なにか常なる 飛鳥川 きのふのふちぞ けふは瀬になる

この世の中は、何が常住普遍であるのか。そのようなものは、一つも無い。飛鳥川は、昨日のふちが、今日は、もう瀬になっている。

ギリシア哲学の最初も、無常を観る。
仏陀の思想も、無常を観る。
哲学の根本原理は、この無常を観ることからだった。

この世は、常の無いものである。
それが、もののあわれ、という感覚に、新たなる影を与える。

万葉の命の輝きに、翳りを帯びるのである。
そして、それが、命の輝きに、更に、輝きを増すことになる。だが、それを、知るには、時間が必要であった。
平安から、室町、鎌倉、戦国時代と、無常観に、歴史が、人の心が、捉われるのである。
そして、明治からの、戦争の数々は、また、この無常観を、際正せるのである。

万葉の生命感覚を、再確認するには、長い時間がかかった。
そして、また、更に、時間を要したのは、もののあわれについて、である。

本居宣長によって、提唱されたが、それも、ほんの僅かな時期である。
古事記伝の方が、大きな影響を与えた。しかし、古事記は、時の為政者による、都合の良い、偽書となる。
大和朝廷以前の、富士王朝の長きに渡る、歴史を、神話として、提示した。全くの誤りである。
実在の人物を、神話の創作した人物のように扱うのである。

古事記は、書き直しが必要である。
多くの研究者たちを、撹乱させた罪は重い。

日本書紀の神代の時代の記述も、誤りである。
神武天皇からのみ、正しいと言える。

読み人知らず、題知らずの、最後は、旋頭歌である。
旋頭歌とは、片歌の繰り返しである。
五・七・七の繰り返しである。

うちわたす 遠方人に もの申すわれ そのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも
うちわたす おちかたびとに もうもうすわれ そのそこに しろくさけるは なんのはなぞも

遠いお方に、私は、ものを申すのである。その、あなたの傍に咲いている花は、何の花ですかと。

実際に、大声で、叫んでいるようである。
その花は、何の花ですか、と。

花の名を尋ねる歌である。
何事も無い。

うちわたす、の、うちは、接頭語である。
遠くにいる人を、オチカタビトという。
万葉に近い歌である。

三句切れであるが、朗詠すると、もの申すわれが、もの申す、われと、切る。
面白い歌だ。

短歌形式の、五・七・五・七・七に、本来拘ることはない。
五と、七音による、言葉の並びに意味がある。

五音とは。七音とは。
それは、言霊を支える、音霊、オトタマによる。

音霊は、数霊、カズタマに、支えられてある。
七音は、五音を含む数である。
五音が、最も、意味深い。
日本語の母音が、語に統一されたのには、意味がある。
最も、美しい響きである、清音である。
日本語の根本は、清音にあり。
濁音は、後に出来たものである。
奈良時代には、母音が、七つあったといわれる。しかし、統一されて、五音になる。
本来は、五音であった。

五で、一つの、まとまりを作る。
五は、完全の意味である。

二音は、分離する意味の象徴数である。
五音に、二音を加えて、七音にして、末広がりを願うのである。
故に、五音と、七音による音が、理想とされた。
それは、無意識下による。

五十音図は、子音が、すべて、母音に返るのである。
つまり、清音で、終る。
日本語の歌は、すべて、清音で終るものである。

これが、他の民族と、根本的に違うところである。
日本人とポリネシア以外の民族は、母音を聞き流す脳である。
言葉の違いは、脳の違いである。

更に、日本語の場合は、列島であるゆえに、純粋に言葉が培養されたのである。
つまり、日本語というものは、世界の文化遺産に成り得る言語である。
稀有な存在なのである。

言語というものの、原点が日本語にある。
それは、人間の純粋な感情を表す時、どの民族も、日本語の母音に行き着くのである。
ここに極まれりという、感情の時に、日本語の母音に行き着く。

大和言葉の、骨頂は、すべての音が、母音に行くということである。
他の民族の脳は、母音を聞き流すことで、ある精神的バランスを保つが、母音のみでは、精神不安に陥る。何故か。
言語学者の研究を待つことにする。

清音で、終る日本語を正しく発声し、なおかつ歌うということになると、それは、日本の伝統歌にあるものを、知らなければならない。
西洋音楽の者が、日本の歌を歌う場合は、それが、出来ないのは、西洋人の脳に真似るからである。
骨格と、脳が違う。

ゆえに、私は、藤岡宣男の日本語の歌、声楽家としては、稀有であったという。
すべての、子音が、清音の母音に返るのである。
その清音のままに、最後を全うする。
それこそ、大和言葉の歌であった。

声楽家の発声の主である、ベルカントという、発声では、決して成らないものである。
骨格と、脳が違うのであるから。
しかし、藤岡宣男は、西洋の発声を身につけ、更に、日本語、大和言葉の、発声を、独自に開発した、身につけたといえる。

清音の美しさは、もののあわれ、の、最たるものである。
その歌声に、もののあわれ、が、あるということ、更に言う。

ちなみに、短歌を、精読すれば、自ずと、母音の清音の様が解る。それを、そのまま、息を長く発声してゆくと、清音の美しさが理解できる。

紫の
むウらアさアきイのオ、と、読んでみると、よく解る。
それ、大和言葉である。

神仏は妄想である。7

佐賀県で、起こった、銃乱射事件である。
二人の方が亡くなった。
実に、痛ましい事件である。

さらに、犯人の男が、自殺した。
その場所が、カトリック教会である。

犯人の母親が、熱心なカトリック教徒だというから、さらに、その母親は、気の毒である。

これは、狂いである。
自殺するならば、一人で、いいが、人を殺しての、自殺であるから、その問題の根は深い。

キリスト教徒に、精神的疾患が、多いということは、あまりに知られていないし、それは、ある種の差別になるので、誰もいえない。

日本は、一応、仏教国である。
その先祖たちは、徳川三代将軍、家光の時世に、皆、寺に属することを強制された。
キリシタン禁制のためである。
それ以後、日本人は、皆、寺に、その名が残ることになるし、全員が、仏教徒としてある。

先祖の、癖である、仏教徒という、感覚を、死んでからも持つ。

それが、不思議なもので、後世の子孫が、宗教を変えるときに、猛烈に、反対することがある。

ある、禅宗の信徒だった、家系の者が、新興宗教に入信した。
しばらくして、異変がおき始めた。
夜中に、仏壇が、動くのである。
毎日続いて、私のところに、相談に来た。

その先祖が、敵対視していた、経典を、その新興宗教は、主として、帰依するのであるから、当然、先祖は、怒る。
だが、怒るということは、まだ、この世に未練があるということである。
未練がなければ、そんなことは、どうでもいい。

結果、その仏壇を、別の兄弟のところに、移すということで、解決した。

キリスト教を、嫌う先祖は多い。

私が、いいたいことは、死後も、自分の宗教に、拘り、捕らわれるということである。

それほど、宗教というものは、潜在意識に、影響する。
さらに、宗教の毒も、影響する。

これから、徐々に書いてゆくが、キリスト教というものは、大きく、カトリックと、プロテスタントに、分かれる。
ローマカトリック、そして、日本基督教団、さらに、アメリカから来た、多くのキリスト教新興宗教である。

新興宗教の方は、エホバの証人、つまり、ものみの搭である。そして、モルモン教である。
その他、日本で出来た、新宗教もある。

それらは、聖書を聖典とする。
モルモンだけは、教祖が、書いた、妄想の聖典を持つ。

韓国から、来た、統一教会という新宗教も、キリスト教の一派である。

事件の裏には、多くの問題が、潜在している。
心理的要素も、大きいが、誰も、先祖の因縁等を観る者は、いない。

問題は、実に、根深いものがある。

宗教は、人の創作したものであるが、それを信じると、それが、真実になる。
その、妄想から、逃れるためには、余程の覚悟が必要である。

先祖が、日蓮宗だった者が、キリスト教徒になると、精神的不安感を増大させて、信号を送るという、例も見た。
結局、神経症になったまま、人生を過ごす人もいる。

だが、その先祖も、初めから、熱心な信徒だったかというと、違う。
囚われた、だけである。

死後も、囚われる。

すべての、宗教にいえることだが、信仰に入ると、特別意識、選民意識を持つ。
自分は、救われる者だという、意識である。
そして、他の宗教の者、その救いに無いと、判断する。
あるいは、自分の宗教が、最高のレベルで、他は、まだ、未熟であるとする。

キリスト教徒や、イスラムの場合は、特に、それが、強い。

勿論、救いというものが、妄想であることを、知らない。
流れる雲に、救いを説くことは、しない。
しかし、人間の生きるということは、流れる雲に変わらないのである。

ここが、問題である。
キリスト教は、人間は、生まれた時から、罪があるという。
原罪というものだ。
真っ赤なうそである。

兎に角、何からの、救いかということを、創作した。
原罪意識である。

日本でも、親鸞が、それに似た、意識をもった。
それは、作家の太宰治も、そうである。
しかし、それは、病である。

救いではなく、その、病を治すことを、考えるべきである。

原罪説の、嘘は、アダムと、エバという、存在が、嘘であるということからも、解る。
創作である。

あえて、罪意識の創作をするというのは、単に、支配するための、教義である。

ユダヤ人キリスト教から、奪って、白人のキリストを掲げて、ローマカトリックが、興った。それは、時の、権力者、皇帝と結託して、出来たものである。
本当の、キリスト教徒は、異端として、退けられ、さらに、殺された。

その、発生過程を見れば、嘘が、解るのである。

明らかに、宗教には、作為がある。
組織を作り、体制を整えるということは、大きな作為がある。
権力志向である。

キリスト教国、イスラム教国ともに、政教一致である。
為政者には、宗教が、最も良い、支配の手段になる。

無いものを、あるものと、信じ込ませて、支配するのである。
実に、利用価値のあるもの、それが、宗教である。

さて、事件によって、亡くなった方の霊位である。
突然の死に対して、どのような、感覚を持つか。

霊学から言う。
ただ今は、気絶している状態である。
それが、いつまで、続くのかは、解らない。
意識が、昏睡状態である。

多くの人の、慰霊の思い深くして、早く、目覚めて、霊的存在であることに、気づくことである。

このようなことの、起こらないような、政府、行政の、あり方を考え、そして、更に、日本の伝統的考え方である、罪を憎んで、人を憎まずという、実に、人道主義といえる、考え方をもって、望むことである。

日本の伝統的考え方は、生きるに、実に、豊かな、ものの考え方である。
それは、決して、教義とならないのである。
自然に、人が生きるために、あるべき思考法をもって、望むのが、日本の伝統である。

ちなみに、どんな、宗派の先祖でも、神道の祝詞に対しては、抵抗しないということである。
神道は、宗派とは、別して、当然であるという、伝統にある。

それは、皇祖皇宗による。
天照大神に対しては、宗派の如何に関わらず、抵抗しない。
私は、清め祓いを頼まれると、必ず、その家の宗派の経典を、読経し、最後に、祝詞をもって、清め祓いを、行う。

そして、ちなみに、日本の古神道には、妄想は無い。
教義も、教祖も無い。
宗教ではない。
それは、日本人の自然観であり、その自然観が、そのまま、自然崇敬に至り、それが、神道という形で、現されるのである。
自然崇敬は、先祖崇敬と、同じである。
死ぬということは、自然に隠れる身とするからである。
死ぬのではなく、隠れた存在になると、観る。
実に、真っ当な感覚である。

2007年12月25日

神仏は妄想である。8

宗教というものを、検証してゆくと、本当に、人間の愚かさを知る。
それ、愚かさを、無明というが、宗教自体が、無明であることを、知らない不幸である。

さて、私は、多くの教祖から、成り立つ宗教を知るが、面白いのは、教祖より、高い次元にいる、信徒の霊位である。
これは、どういうことか。
教祖は、自己顕示欲旺盛に、宗教を立ち上げる。しかし、信徒は、ただ一筋に、信仰の道に生きるのである。
すると、教祖より、高い境地に至る場合、多々あり。

こうして、教祖というものの、正体が解るのである。

例えば、誤った教えであったとしても、信徒が、その誤りに入らず、次元の高いレベルの心を、培えば、その信仰を通して、高いレベルに行くということである。

であるから、すべては、一つの方法であるということである。
何も、信仰行為を行わない者でも、高いレベルの霊位にある人もいる。

宗教というものは、方法に過ぎないのである。それも、たった、一つの、である。

とんでもないのは、矢張り、教祖や、開祖、そして、その団体の代表にある。

ある、新宗教の、新聞等を読むと、至るところに、勝ち負けという言葉が使われる。
勝ち抜け。信仰とは、勝つことである。
そして、師弟の関係である。
師弟関係の、尊いことを、くどいほど言う。

つまり、代表者と、信者の師弟関係である。

190カ国に、布教を展開して、宗教研究者にも、注目される宗教である。

果たして、その実態は、どうなのか。
代表は、世界各地から、顕彰され、世界各地の大学の名誉教授を受ける。
その訳は、簡単である。
金にあかせて、寄付をするのである。
現金でなければ、物である。
ワシントンに、会館を建設することになり、祈りの場として申請したが、住民が、反対運動をした。その、団体は、日本では、政党を持つからである。
会館が、単なる、祈りの場にならないとの、懸念である。

信者から、金を巻き上げて、我が身の、名誉のために利用するという、手である。しかし、信者は、喜んで、お金を出すというカラクリ。
信じられないが、サラ金から借りても、支部の目標額に、皆々、布施をする。

その、団体が唱える経典は、悪魔の好む、法華経である。
また、別名、地獄行きの、法華経である。

その代表の書き物には、いつもながら、民衆を救うのだ。敵を倒すのだ。味方を増やすのだ。と、ある。
随分と、単純明快であるが、だからこそ、人が集うのだろう。
宗派から、破門されて、益々と、その威力を増した。
実に、魔の経典の力である。

宗派とは、宗門である。
その宗門は、他の同じ宗派より、重要な教え、つまり、秘伝があるとされる。
勿論、秘伝といっても、しょうもない、拘りである。
三重秘伝なるもの。文底秘沈といい、法華経本門寿量品の文底に三大秘法の御本尊を、秘し、沈められているという。

兎に角、勝手な想像であるが、その宗門の、信徒の団体が、破門されて、益々、勢いよくしている様、何とも、理解し難いのである。
しかし、公宣流布を掲げて、勝ちまくれという。

唯一の宗門から、離れて、ついに、我らこそが、仏意仏勅の、宗教だと言うから、頭が変になる。
では、その宗門の、秘伝等々の教えは、どうするのだろうか。
どんどんと、簡略化して、世界に流布させている、仏の教えというもの、本当なのであろうか。
仏教というものを、どうも、知らないようである。

勿論、出たところは、日本仏教であるから、最初から、誤っているのである。

何度もいうが、日本の仏教とは、中国思想による、仏教であり、天台という僧から、多くを受け継いでいる。
言えば、三千大千世界という。
心の世界を言うが、それは、五千大千世界と言ってもいいのである。
何とでも、言える。

代表者が、言う。
まず、組織を作ることからだと。
そして、それ以前の代表者は、30名ほどの信者を集めれば、食っていかれると言うのである。
すべては、明らかにされる。

公宣流布というのは、組織を支配する者の、自己顕示欲であること、明々白日である。
そして、名誉欲である。

私は、宗教者が、単に、人を助けるために、布教をせずに、淡々として、各地、各国で、奉仕活動をしている様を知る。
それは、その働きで、教えというものを、実践しているのである。

マザーテレサが、偉大であるというのは、その奉仕活動ではなく、彼女は、助けた人に、キリスト教、カトリックの信仰を、強要しなかったことである。
後の行為行動は、多くの宗教家たちも、やっていることである。それが、大であるか、小であるかの、違いである。

だが、カトリックは、彼女の死後、速やかに、聖人の手前である、福者という、称号を与えて、カトリックの広告塔にすべくの、処置であるから、情けない。
カトリックの、イメージアップに、利用するという、浅ましさである。

世界に、広げるが、決して、ただで金をばら撒くのではない、その新宗教である。
代表者は、ガンジー、キングと、自分の名前を並べての、展示会をするという、傲慢である。
結局、ノーベル平和賞を狙うのであろうが、叶わないだろう。
その心の、秘法を、実に、世界は、見抜いているのである。

人間が、あのように、厚顔に成り切れるという、見本を見るのである。

勿論、多くの世界では、金に結びつく故に、顕彰、顕彰、また、顕彰して、更に、感謝状授与等々、限りなくやるのである。
それだけ、組織を作り上げて、金の流れを作ったのである。

実に、上手な商売である。
勿論、信者は、それを善しとしている。

日蓮は言う。
南無妙法蓮華経と唱えるわが弟子の位は、諸宗の元祖よりも勝れたること、百千万億倍である。
さらに、わが門下は過去世を尋ねれば、八十億劫もの長い間、無量の仏に仕えた大菩薩である。

改めて、日蓮の、誇大妄想の様を知るのである。

このようなこと、多々、教祖という人々は、平然として言う。

八十億劫もの間、仏という、妄想に仕えたということなのであろう。
今に至るまで、その妄想から、抜けきれないでいるのである。

実に、哀れである。

再度、確認の意味で言う。
仏典は、漢訳されたものである。
訳したということは、訳した者がいる。
そして、訳されたものには、訳した者の、思想が混入する。
付け加え、付けたし、更に、手を加えて、上質な、文学とするのである。

仏典は、文学である。
文学は、迷いである。

2007年12月26日

もののあわれについて141

六歌仙の歌
僧正遍昭 そうじょうへんぜう

西大寺のほとりの柳をよめる
にしのおおてらの ほとりの やなぎをよめる

浅緑 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か
あさみどり いとよりかけて しらつゆを たまにもぬける はるのやなぎか

薄緑の柳の糸をよって、玉のように白露を、つらぬいている、春の柳。

柳の枝を、糸に例える。
白露を、その枝が、貫いているという。
糸よりかけて、は、糸のようにして。露の玉を、それが貫くという。

春の柳が、擬人化されている。
このようにして、短歌の世界が、表現の世界となってゆく。
表現するというこに、重きがおかれる。つまり、文芸の意識である。

はちすの露をみてよめる

はちす葉の にごりにしまぬ 心もて なにかは露を 玉とあざむく

玉とあざむく、にある、文芸の意識である。
泥水に育つ、はちすの葉であるが、にごりしまぬ、と、濁りに染まらない、美しい清い心を持つと、擬人化する。それが、どうして、葉に置く、露を玉と、見せかけて人を、騙すのかという。
こういう、捻りの歌が、出てくるのである。
遊び心である。

題知らず

名にめでて 折れるばかりぞ をみなえし われ落ちにきと 人に語るな

名前に惚れて、折ったのだ。おみなえしよ、私が堕落したと、人に語るな。
おみなえしを、擬人化し、女と、見立てて、女のために、堕落したと言われることを、恐れた風を、装う歌である。

上記の歌、読み人知らずは、勿論、万葉には、見出せない歌である。

いよいよ、短歌の世界が、変化してゆくのである。

表現の革命が、密やかに、行われる。
万葉の世界から、一気に、このような歌にくると、戸惑うことになる。

五節の舞姫を見てよめる

天つ風 雲の通ひ路 吹き閉じよ をとめの姿 しばしとどめむ

大空を吹く風よ、雲の中の通い路を、吹き閉じてくれ。天女の美しい姿を、もう暫く、この地に、留めて置きたいのだ。

自然体ではなく、技巧的である。
自然を自然として、歌う、万葉集とは、意を異にする。

これは、万葉集の歌の世界から見れば、堕落である。一方、新しい歌の手法としては、革新である。
これも、生成発展の一つであると、認識する。

在原業平

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

世の中に、桜と言う花がなければ、人の心は、穏やかであったろう。
つまり、桜があるということで、心が乱れるのである。
それは、逆説で、桜の花というものは、素晴らしいものであるというのだ。

こうして、捻る歌になってゆく。

濡れつつぞ しひて折りつる 年のうちに 春はいくかも あらじと思へば

雨に濡れながら、折ってきました。今年の春は、もう過ぎてしまいますゆえに。
しひて、は、無理やりである。しひて折りつる、と、春を惜しむ気持ちを、強調する。

桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに 

桜花よ、散り乱れてくもれ、老いというものを、見えなくするほどに。
老いらくは、老ゆらく、である。
桜も、擬人化し、老いというものも、人間のように扱うのである。

来むといふなる、は、来るだろうかという。
道まがふがに、は、まぎれるだろうか。まぎれるように、である。

この、在原業平の歌物語として、伊勢物語がある。

暫し、もののあわれ、というものの、姿、隠されるようである。

しかし、この変転を経て、源氏物語に、結実してゆくのである。

もののあわれ、にある、色好みに、徐々に進んでゆく。
恋と性が、直結していた、万葉が、恋と性を、引き離してゆく。
性が、色好みとして、ベールをかぶるのである。

もののあわれについて142

在原業平

あづまの方へ、友とする人、ひとりふたりいざなひて行きけり。三河の国八つ橋といふ所に至れりけるに、その川のほとりに、かきつばたいとおもしろく咲けるを見て、木の陰におりいて、かきつばたといふ五文字を、句のかしらに据えて、旅の心をよまむとてよめる。

唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ

東国のほうへ、友人をひとり、ふたり、誘い、行った。
三河の国の八橋という所に至り、その川のほとりに咲く、かきつばたが、大変おもしろく、咲いていたのを見て、木の陰に馬を下りて座り、かきつばたという文字を、各句の頭に一字ずつおいて、旅の感想を読もうと、よんだ、歌。

私には、慣れ親しんだ妻がいる。その妻に別れて、はるばると、やって来た。この旅を、しみじみと思うのである。

実は、この歌は、枕詞、掛詞、序詞、縁語、懸詞などの、様々な技巧を用いて、作られている。それは、文法をやる者、得意になる。
遊戯歌という。
つまり、余裕存分に、作る歌である。

余裕は、遊び心になる。

その遊び心を、如何に受け取るかで、歌の姿が、変わる。
万葉とは、全く違う歌の姿である。

万葉にも、余裕のある歌があるが、ここまでの技巧や、作為はない。
これを、堕落と言えば、言える。
進化と言えば、言えるのである。
いよいよ、歌合せという、遊戯が出来るのである。

遊戯も、競うようになると、遊戯を超えて、競技になる。
歌の競技が出来るのである。
その判定をする意味で、歌論や、評論活動も、盛んになる。
評論活動とは、まず、歌論から、始まったのである。

もののあわれ、が、歌の道にあるということを、以前書いた。
その、歌の道が、いよいよ、複雑化してくるのである。

在原業平を読むと、相当に、歌の道が、創作という世界に移行してゆく様が解る。
作家活動である。

やよひのついたちより、忍びに人にものら言ひて後に、雨のそぼ降りけるによみてつかはしける

起きもせず 寝もせで 夜を明かしては 春のものとて ながめ暮らしつ

三月の一日から、人目を避けて、女と語り合い、その後で、雨がしょぼしょぼと降った時に、読んでつかわした歌。

起きもしないし、寝ることもしないで、一晩、夜を明かしては、長雨を、ああ春であると、ぼんやりと、眺め暮らしたことだ。

業平は、女性遍歴の多い男である。
忍びとは、人目を避けて会う。
人とは、女のことである。
そぼ降る、とは、シトシトと降る雨である。
読んで、送った歌である。

要するに、恋歌である。

あの夜のことを、思い出しているというのだ。
あの夜の、やり取りとは、セックスである。それを、ぼんやりと、思い出し、過ごすということである。何のことは無い歌である。

しかし、何のことは無い歌が、このように、歌にすると、何事か、意味あるように、思われるから、不思議である。

春のものとて ながめ暮らしつ、とは、女に対する恋の詠嘆という、解説があるが、そんなものではない。
ここに、もののあわれ、を、観るものである。
情交の後の、気だるい、感覚を、春雨に託して、物憂い気持ちを、歌う。
それを、春のものとて ながめ暮らしつ、とは、微妙繊細な、心の機微である。

現代に続く、心の複雑化を、観る。

現代は、しかし、二時間、三時間のホテルでの、休憩という中での、セックスは、性の消耗に過ぎなくなっている。
うまく行けば、一晩泊まるということもあるが、セックスが、単なる、欲望のみの充足で終わり、その後の、感慨など、捨てたのである。

愛とか、恋とかいうものも、消耗に過ぎないもの。
ここに、現代の闇がある。また、病みもある。
最早、セックスというものが、目的であり、手段ではなくなったといえる。

セックスという、手段が、恋心を深めるというものではなくなってゆくのである。
性は、性として、単独に完結し、恋は、恋で、完結する。そして、いずれも、それに、組しない者が、現れる。

性が、生殖を伴わないものになり、性が狂う。
快楽としての、性として考えても、快楽という、感覚も、病むのである。
当然、歌など、読めるものではない。

性に、風情が、伴う程、余裕は無い。

男女共に、排泄行為であり、気分転換や、上辺の、欲望充足で、終る。
すると、飽く事無く、性を求めるという、病に陥る。

性が、精神や、心に、魂に響かないのである。
これは、進化がひっくり返って、退化したのではないかと思える。

セックス依存症という、病に陥り、現代は、非常に病むことになる。

人にあひて朝によみてつかはしける
ひとにあひてあしたによみてつかはしける

寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかな
いぬるよの ゆめをはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかな

一緒に寝た夜の夢が儚く、再びまどろむと、更に、儚いものになりました。

男は、夜明け頃に帰る。
その後で、文を使わす。それを、後朝の文という、きぬぎぬの文である。
女との関係を、夢に例えている。
思い出せば、哀しいのである。儚いのである。
何故か。
永遠の関係というものは、無いと、知るのである。
すべての関係は、刹那である。
この刹那、一瞬に賭ける思いを、恋という。

もののあわれ、は、恋にあり。

2007年12月27日

再び日本に原爆投下される日

日本に、再び、原爆が投下されると、書いているが、誰も、信用しないようである。
というより、あまりの、恐れに、口を閉ざしているのかもしれない。
それとも、言霊の威力を、無意識に信じて、それを、口に出すことを、恐れているのか。

12月13日、フランス・ストラスプールにて、開かれた欧州会議で、旧日本軍の慰安婦問題について、日本政府の公式謝罪と、補償を求めた、決議案が採択された。
その会議に、働きかけたのは、人権団体アムネスティ・インターナショナルである。

非難決議案は、最初、米下院にて、中国系反日団体が動き、マイク・ホンダ議員が、本会議に持ち込んだ。

その後、カナダ、オランダも、非難決議案を採決したのである。
今回で、四度目である。

議決に法的拘束力はないが、これは、完全に日本のイメージを作り上げる、手である。

おしくも、12月13日は、南京陥落から、70年を記念して、南京大虐殺記念館が、再オープンした。
30万人が虐殺されたと、10倍以上の捏造を、平気で、国民に見せる中国政府である。

中には、旧日本軍の、残虐さを強調する展示品が、並べられて、見る者をして、徹底した日本嫌悪に、陥らせる。
反吐が出るほどの、内容であるとの、報告を見る。
あまりの、残忍さにである。

反日教育の拠点になるといわれる、南京大虐殺記念館である。

30年前に、韓国に行った。
その当時は、まだ、観光客など行かない。

私は、ソウルの、戦争記念公園に行き、リレーフを見た。
一人の老人が近づいてきた。
日本語を話すのである。

私は、あなたと友達になれる、という、前置きから、驚愕したことを、聞く。
子供たち、そして、孫たちに、私たちの世代は、こう教えていると言う。
必ず、日本に仕返しをすることだと。
日本を叩きのめすことを、教えていると。

高校生の私は、絶句した。

返す言葉がなかった。

凄まじいばかりの、迫力を持って、その老人の言葉が、胸に突き刺さった。

そして、私は、当然だと、思い込んだ。

目の前の、リレーフには、白旗を持って、降参している、韓国の人に、日本軍が、銃を向けて、打ち続けているのである。

歴史の授業にても、そのようなことを、教えられる。
日本という国は、本当に悪い国である。
その国民である、私は、死ぬほど、恥ずかしいのである。
日本人であることを、止めたいというのが、本音だった。

それから、30年を経て、私は、日本軍が行ったことと、日本人が、されたことの、両方を知った。
そして、今、戦争というものの、不合理さを、つくづくと感じている。

戦争さえなければ、このような、ことにはならなかった、と。

一部の人の、情熱での、戦争である。

そして、世界は、実に、複雑であることを、身を持って知った。

非難決議案が、これからも、続き、世界が、日本に対するイメージを、最悪にする。
その時である。
再び、日本に原爆が投下される。

国連という、響きは、日本では、悪いものではない。
しかし、国連とは、実際、本当の姿は、日本を敵国とした国々の、同盟なのである。

古代、日本人は、日本を、中津国と呼び、四方の国を、四津国として、考えた。
中津国は、神の国であり、四津国は、神の国ではない、と。

これは、大変、誤解される、言い方であるが、日本が世界の中心であるという、考え方である。
そして、それは、どこの国にもある、ナショナリズムである。

そうして、我が国を、誇るのである。

反日に、熱を入れる中国は、どんな国であるのかといえば、多くの他民族国家である。しかし、現在は、中国人として、統一された、見解を持つ。
結論から言えば、最も、野蛮な民族が、主導している国である。

それでは、欧州は、どうか。
これも、最も、野蛮な民族が、支配した。
それでは、インドは、どうか。
矢張り、最も、野蛮な民族により、成った国である。

野蛮とは、強いということである。

この、自然界と同じように、強い者が勝つ。

ロシアも、然り。
帝国時代から、侵略を善しとしてきた、国である。
今も、それは、変わらない。

そして、最悪なのは、アメリカであろう。
アメリカと言う国が、誰によって成ったのか。

歴史を、よくよく、学ぶことである。

アメリカは、核兵器を所有し、それを、使用した国である。
更に、アメリカは、戦争の概念を持たない国である。
戦争というものの、本質を知らない国である。故に、世界で、一番、戦争を仕掛ける国である。

日本が、敗戦することを、知りつつ、東京大空襲、そして、沖縄占領である。
一般市民を、徹底して、攻撃したのである。
どこに、国際法というものがあるのか。

戦争とは、戦争をする者との、戦いであり、一般市民を攻撃することではない。
それが、国際法の戦争である。

日本人が、ロシア、中国、朝鮮人にされたことは、誰も言わない。
アメリカにされた、原爆投下に関しても、言わない。

これが、逆ならば、どうなったのか。

強い者が、勝つという、自然の法である。

中国が、甚だしい発展を遂げて、大国に向かっている。
世界が、認めることである。
そして、日本を、徹底的に敵視する、朝鮮人である。
北朝鮮は、いつでも、日本に核を打てるように、準備している。
その、北が、アメリカとの、関係改善に向けて進む。

ロシア、中国は、日本の分断を望む。

世界が、日本を叩きのめそうとする日、再び、原爆投下される。

日本の政治家は、望み無い。
日本を、憂うる人は、数少ない。数名程度であろう。

昭和天皇の、苦悩が、手に取るように、解る。

マッカーサーの、ところに、多くの日本人政治家、企業家が、日参した。
それは、戦争責任の無いことを言う。
甚だしいのは、もし、万が一の場合は、亡命である。

マッカーサーは、不遜になった。
矢張り、どこの国の人間も、同じである、と。

そして、昭和天皇の、面会依頼である。
亡命の希望であろうと、傲慢不遜に、天皇に、面会した。

天皇が、部屋に入った時も、所在無く、一時間近くも待たせて、パイプを加えて、ようやく、椅子に、腰を下ろした。

あまりに、無礼な態度に、天皇に、付き従った者は、顔を、紅潮させたという。

天皇が、口を開いた。
それを、聞いた途端に、マッカーサーは、起立したのである。

予期しない言葉であった。

そのお言葉を、書くことは、不敬に当たるので、書かない。

翌日、マッカーサーは、本国に飛んだ。
日本国民を、支援する依頼を、アメリカ政府に、自ら、求めるためにである。

本当の、日本人を、彼は、観たのである。

それ以来、天皇に対する、マッカーサーは、敬意を表し、自ら、天皇を車の扉を開けて、という、最高の礼儀を尽くした。

人間の尊厳というものを、天皇を通して観たのである。

JHQは、日本の精神を破壊するために、神道といわれる、神社を調査した。しかし、何も出ないのである。
神主は、ただ、御幣を振り回し、市民は、拍手を打って、礼をするだけである。
教義も、見当たらない。
主なる、人物も、いない。

調査を打ち切り、教育、国民教育に、スポーツ、セックス、娯楽等々の、どうでもいいものを、掲げて、教育をするのである。
そして、アホな日本人は、皆々、スポーツとセックスに明け暮れて、楽しい自由を謳歌して、経済大国を、喜んで、今に至る。

昭和天皇という、本当の日本人を観て、マッカーサーは、人間存在の尊厳をのみ、日本に許したのである。

犯すことの出来ない、存在の尊厳である。

国を愛すると言えば、敬遠され、線を引かれる。
神宮を拝すれば、ナショナリズムの、云々と言われる。

共産、社会主義、そして、物知り顔の識者の思うとおり、日本は分断されて、塗炭の苦しみに入るのである。

日本人は、世界に分散して、ユダヤ人のように、祖国を捜し求めて、さ迷う。
ホント、哀れである。

これを、読む人、誰も、信じられないだろうが、本当である。

再び、日本に原爆投下されて、少しは、何がしか、理解するのである。
勿論、斜めに構えた、若者、中年、老人には、解らないことである。

ホント、哀れである。

2007年12月28日

大嘘

ある夜、安食堂で、テレビを見た。
たけしの、TVタックルだと思う。

昭和の偉人たちの、特集であった。
印象的だったのは、経営の神様といわれた、松下幸之助と、ダイエーの、中内功である。
たまたま、うまくいった、男たちである。
成功したから、偉人になったのであり、特別の思想云々の話ではない。
たまたま、成功したのである。
それを、事後予言的に、語るという、愚かさである。

そんな、話は、聞き飽きている。
しかし、テレビは、つけっ放しであるから、自然に、出演者の話が耳に入る。

後半に、美輪明宏の言葉に、絶句した。

今の人は、本物を求め始めていると言う。
千の風が、売れ、ふじこ・ヘミングのピアノのCDが、何十万枚売れたと言う。

文化の基本のクラシックや、千の風を、本物だという、偽者である。
ついに、化けの皮を、剥がしたのである。
または、耄碌したのか。

本物が、千の風であり、ふじこ・ヘミングのピアノだと言う神経は、ただ事ではない。
変な、霊能者と、組んだだめか、本当に、それが、本性なのか。

千の風の、訳、そして、曲をつけた、新井某氏は、実に、気味の悪い人である。
何でも、その奥さんが、マネージャーとして、ついている。それが、また、アホであるから、ペラペラと、本音を喋るのである。

ポーズであると言うのである。
何が。
千の風のへの、思いである。
要するに、売れればいいのである。
世の人を、騙して、売れれば、いいのであること、堂々と言う。

昔、一杯のかけそば、という、お話が、大流行した時期がある。
大晦日の夜に、親子の母と、二人の息子と、一杯の、かけそばを、分け合って食べるという、お話である。
結果は、大嘘の、作り話であった。

世の人の、感動したいという、感動依存症に、迎合して、作った、お話である。

韓国映画の、流行も、感動依存症の、中高年を、騙したものである。
軽薄短小な、物語に、感動するという、薄っぺらさである。
そして、あろうことか、韓国では、三流の男役者に、日本の中高年の、女たちが、大枚をつぎ込んで、感動依存症を、解消するという様である。

さて、ふじこ・ヘミングのピアノである。
好き嫌いがある。
音楽は、好き嫌いで、決まる。
好きな人は、いいが、あの、ピアノ演奏は、偏狭過ぎる。
言えば、大根を刻んだような、演奏である。

クラシック音楽を知らない、美輪であること、十分に理解した。

多くの、オーケストラとの、出演での、演奏は、聴いていられないほどの、ものである。
指揮者が、ふじこと、合わせるための、苦労が、見て取れる。

私は、音楽に、素人である。
素人の、私が解ることである。

美輪の、霊感というものも、マジで、聞けないと、心底思ったのである。

天草四郎の生まれ変わりと、言われているが、天草四郎は、15歳で、死んでいる。斬首である。
さらに、その四郎が、後ろについているという。
その、四郎が、わしは、美しかったと言ったというから、笑う。

あまりに、軽薄である。

感動依存症候群によって、舞台を続けていられるのであろう。
哀れである。

神仏は妄想である。9

これは、笑えない話である。

昔、私のところに、お寺の奥さんが相談に来た。
その内容である。

寺に、幽霊が出るというものである。
冗談ではない。本当の、ことである。

寺に幽霊が出るのは、当たり前で、他の家に出ないのであれば、それは、実に良い事である。寺に出るということは、何らかの救いを求めているのであろう。

幽霊が出るという、相談は多々あった。
それを、否定する何物も無い。
幽霊は、存在するからだ。

しかし、僧侶でも、霊を否定する者がいるのである。まして、死後の世界までも否定するとなったら、一体、何ゆえに僧侶をしているのか、解らない。
商売である。
宗教法人という、税制を免れて、商売をするのだから、やめられない、商売であろう。

霊や死後の世界を否定して、人間の霊的指導をするのなら、いっそのこと、株式会社にするとよいが、そんなことは、しない。要するに、ずるいのである。

今では、幼稚園経営からはじまり、墓地経営である。
そして、あの、意味不明の永代供養ということをするというから、呆れる。
また、それを、テレビに出る、傲慢不遜な占い師が、後押しするという図である。

先祖供養ということの、意味を、明確にしたものはない。
また、そんなことは、出来ない。

先祖とは、どの当たりまでの、先祖を言うのか。
それさえも、明確ではない。
アフリカの、人類発生の頃からの、先祖供養を言うならば、狂っている。

精々、先祖とは、200年300年ほど前の人のことであろうが、今なら、それさえも、明確ではない。
これほど、愚かなことは無い。

私は、墓参り等々の、伝統的行為を否定するものではない。
私も、墓参りに行く。
亡くなった、婆さんが、よく私に、墓に参ってくれと言っていたので、その通りに、墓参りをする。その程度で、十分である。それ以上の、先祖となると、もはや、解るものではない。

僧祖父母までが、限界である。
それを、永代供養とは、笑わせる。

また、どこに、そんな保障があるというのか。まして、偽の仏教である、日本に寺が、いつまでも、続くわけが無い。

科学は、もう、多次元の世界を、証明しつつある。つまり、霊界の存在を証明する。
宗教の時代が終わる時である。

ただし、単細胞の頭の人には、必要である。

手かざしで、興った新宗教は、大本教から、出た。そこから、竹の子のように、分派して、多くの新宗教が起こった。
手かざしを続けている団体もある。

一つの団体に、ある婦人が、その母親と、入信することになった。というのは、彼女は、生まれつき、手かざしで、病を癒す力を、得ていたのである。それを、言えば、誤解されるゆえに、人には言わず、柔道整復士という資格を持って、治療に当たっていた。

さて、入信して、手かざしが始まった。
彼女は、元からある力であるから、他の信者より、強烈である。

次第に、信者たちが、彼女を、救世主と呼ぶようになる。ある種の、敬意を表したのである。しかし、彼女は、完全に嫉妬されて、教団から、抜けざるを得なくなった。
誰が、嫉妬したのか。当然、それは、幹部から、教祖の跡継ぎであろう。

彼女が、そこから抜けたのは、正解であった。
それらの、手かざしの、新宗教のバックの霊団は、ほぼ、間違いなく、邪霊、悪霊、これを言うには、抵抗があるが、動物の霊たちである。

実は、手かざしというのは、誰もが、出来る。それの、強弱はあるが、親が子供に手を当てることで、子供が、癒えるのが、基本である。

そういえば、矢張り、一つの大きな教団になった、新宗教も、その教祖の書物を読めば、病が癒えるということから、広がった。
その教えの、根本は、万教一致である。つまり、すべての宗教は、一つになるというものである。だから、書籍には、すべての宗教の、教えを通して、実相世界を述べている。

理に適う教えであるが、如何せん、組織を作り、巨大化して、教団となり、信者が、寄付をするようになるのである。
有り難いから、寄付をするのであるが、書籍販売だけで、十分に生活が出来るはずである。しかし、組織を持った。

そして、建物を建てて、今に至る。

この、教祖、創立者は、霊界の高い次元に進んだという人がいる。
それを、私は、確かめる方法を持たない。

しかし、教祖の手本である、イエスキリスト、仏陀を、見る。
彼らは、建物を持たない。
イエスキリストに至っては、寝る場所も無いという。仏陀は、寄進されて、修行の場を得た。自分から、建物を立てて、組織を作ることもなかった。

ただ、弟子たちが、伝承しただけである。
伝承したものが、八方に広がり、今に至る。
嘘の伝承も、本当のようになっている様である。

それら、多くの新宗教は、素の神という。
素とは、元である。

神は、何と呼んでも、波動により、答える。
しかし、霊界には、神という存在は無い。
もし、神というならば、宇宙が神である。
一定の存在たる、神というものは、どこを探してもいない。

ただし、霊界でも、レベルの低い霊界というか、迷いの霊界には、自分を神と、名乗るものがいる。
それに、コンタクトされて、神と、つながったと思い込む者もいる。
それが、教祖になるから、極めて危険にことになる。

彼らの、祈りの言葉が、狂っていることは、その祈りの言霊を知れば解るが、今は、それに触れない。

その、言霊は、万葉集の一首にも、及ばないこと、知らない。

日本には、これほど、多くの新宗教があるが、宗教の無い国と言われる。
何故か。
欧米の宗教は、哲学と思想が、完備されている。
それに、対抗出来るほどの、哲学も思想も無いということであるが、それを、心配する必要は無い。
それで、欧米の宗教が明確に、観念の賜物であることが、解る。

日本の宗教観は、何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる、というものである。
つまり、自然崇拝である。

山川草木の前に、佇んだ時に、自然に感動する心を持って、宗教観とするのである。
それ以外に、無い。
そして、それは、実に、正しいのである。

今のところ、地球以外の惑星に、このような、美しい自然の様は見当たらない。
宇宙というものは、果てなく、その先の先までを知らない。
空を見上げて、その星空に、感動する心を持って、宗教観とすることで、成り立つのが、日本の伝統である。

そこに、教義なる、観念は無い。
ただ、生まれて、生きて、死ぬことに、在るものが在るのである。
在るものとは、私の存在である。
行き着くところ、この、私の心以外のものを、人は、見ることも、観ることも出来ないのである。

2007年12月29日

神仏は妄想である。10

神という文字は、最初は、稲光の様を言う。つまり、自然の、異様な光景をもって、神という文字が生まれた。
雷神というものが、象徴している。
後に、天の神なる、観念が生まれるが、中国思想に、基本的に、神という観念はない。
あるのは、孔子の言う、天の思想である。

道教で言うところの、ものは、神というより、精霊である。あるいは、化け物のことである。
神仙の思想は、あくまで、生きている人間のことであり、通常の人間の限界を超えた者、仙人による。

日本ではじめて、神道という言葉を使用したのは、有間皇子の父である、孝徳天皇である。
仏教という概念が、輸入されてから、日本の国の、本来の伝統行為を、神という言葉で、表現したのである。

ちなみに、孔子は、知らないことを、知らないという。それが、立派である。
鬼神を語らず、というのである。
孔子は、三次元以外の世界を、知らないと、明言した。
故に、孔子の思想は、平面的である。
人の道の先にあるものは、天であるという。
決して、超越した、次元にあるものではない。

孔子の論語は、道徳を言うのであり、それ以上ではない。
生き方の、規範を示したのである。
それはそれで、有意義である。
一つの方法として、利用出来る。

中国に、仏教が輸入された時に、ある混乱が起こる。
道教、儒教との、関わりである。
どちらが、上かという議論に、沸いた。
結局、皇帝により、等分という判定を下される。
それぞれを、尊重するというものである。

しかし、仏という、存在は、中国になかった。
故に、仏を論じるのに、多くを費やすことになる。

梵語の仏陀の音訳を、佛に当てることになる。
元は、人と、音を表す文字の組み合わせである。人に似たものという意味である。
音訳で、仏という文字を仏陀に当てたのである。

仏陀の略称を、仏というのである。

ここでも、解るとおり、梵語を、音訳するということである。
音訳するので、漢語に意味の無いこともある。しかし、日本に、漢語の仏典が、輸入されると、漢語の意味で、仏典解釈を行うという、過ちを、多々犯すのである。

要するに、仏典解釈ではなく、漢語解釈である。
ここに、大きな問題がある。

音訳しただけであるのに、その音訳された、漢字を持って、解釈に当てると、とんでもない、意味解釈になるのである。
ところが、それが、大手を振って、行われた。つまり、創作である。
本来の、梵語の意味など、どこ吹く風である。

当然、ずれずれに、ズレるのである。

そして、訳した者の、作為が入るのである。

さて、それでは、日本の伝統としての、神という言葉についてを、検証する。

柿本人麿の歌から見る。
吉野の宮に幸でましし時、柿本人麿の作れる歌

やすにしし 吾が大君 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳はる 青垣山 山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立て 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉ふる 神の御代かも

ここで、神ながら 神さびせすと
山神、川の神、神の御代
神という言葉が、このように使われる。

神ながら、とは、神にましますままに。
神さびせす、とは、神としての、振る舞いをなさる。
山神は、やまつみ、と言う。山祇である。山々を、支配する神である。
ちなみに、海神は、わだつみ、といい、海を支配する神である。
そして、川の神という。

ここで、解ることは、日本人の神というものは、人間と隔絶されたもの、対立したものではない。
大君という、天皇も、また、神と、呼ぶ。

つまり、ある働きを、神と呼ぶのである。

それは、列島の民族が、見出した、真理である。
働きが、神なのである。
それは、広義に解釈して、いいのである。
この、宇宙の働きも神である。
そして、自然界のすべての、働きも神である。
さらに、人間の社会を治める働きをする人も、神である。

キリスト教、イスラム教の言う神とは、全く違うのである。
さらに、多くの宗教が、掲げる神というものとも、完全無欠に、違うのである。

もし、一神教が、宗教であるというならば、日本には、宗教はない。あるのは、伝統行為のみである。
そして、唯一神というものは、必要ないのである。

更に言えば、何故、仏教の仏に対しても、受け入れたのかといえば、仏も、神と、同じく、働きと、観たからである。
特に、天武天皇は、国民に仏を奉ることを詔したのは、仏の働きに、真理を観たからである。
それは、働きである、神というものを知るゆえである。

ここで、新宗教が言うところの、神とは、働きであり、それが、様々な形を持つゆえに、多神教というものも、一に帰すのであるという、詭弁に騙されてはならない。

万教帰一を言う新宗教は、一見して、正しく見えるが、それは単なる詭弁である。
書籍販売で、巨大教団になった、宗教の教祖は、多くの宗教の教えを取り入れて、それが、実相世界を言うものであり、実相を知ることで、すべての病が癒え、完全無欠な人間、つまり、神の子としての、完全な生き方が、出来ると説く。
一見して、なるほどと、思わせるものの、実は、大きな誤りを犯している。

完全無欠ではなく、不完全なものとして、この世に生まれたことを、謳歌するために、生まれたのである。
仏陀が言う、生老病死という、定めを、あえて知り、この世に、生まれたのである。

物質は、無いといっても、目の前には、物資がある。
それを、無いとは、いえない。
本来は無いものであると、言っても、今、目の前にあるのである。
在る物を、無いと、言い聞かせて、無い、無い、と思い込む方が、誤りである。

病も無いという。それは、影であるというのである。
それならば、生まれて生きる、意味が無い。
何故、自害して果てなかったのか。
それは、教祖の自己顕示欲と、生に対する、執着であろう。

その、教団は、次に三代目が、教祖の跡を継ぎ、更に、宗教として、活動を続けるのであろう。
それが、嘘である。

神ながら 神さびて、に、非常に近いように見えるが、実態は、宗教団体である。

病が癒えても、人間は、死ぬのである。
10年長く生きようが、20年長く生きようが、大差無いのである。

日本の伝統にある、神というものを、再度、考察することである。
万葉集を読めば、それが、解る。

もののあわれについて143

在原業平

五条の后の宮の西の対に住みける人に、本意にはあらでもの言ひわたりけるを、むつきの十日あまりになむ、ほかへ隠れにける。
あり所は聞きけれど、えものも言はで、またの年の春、梅の花盛りに、月のおもしろかりける夜、こぞ恋ひて、かの西の体に行きて、月のかたぶくまで、あばらなる板敷きに伏せりてよめる

五条の后の西の対に住んでいた人に、本意ではないが、つまり、最初からそのような気持ちではなかったが、付き合っている人がいた。ところが、その人は、正月十日過ぎに、他に隠れてしまった。
居場所は、聞いたが、探すことができないでいた。翌年の春、梅の盛りの、月の美しい夜、去年を恋い慕い、あの西の対に行き、月の沈むまで、戸障子の無い板の間に横になってよんだ。

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

月は昔のままの月ではないのか。春は昔の春のままではないのか。
我が身だけは、昔のままである。

結論から言えば、業平の歌は、全く万葉には無かった感覚である。
言いたいことを言わない表現である。
多くの言いたいことがあるゆえに、それを語ることなく、別な観点から、歌うのである。

複雑になったといえば、言える。

えものも言はで、などという、言葉が出来る。
消息もすることが出来ない。探すことが出来ないのである。

仮名序の業平の評は、その心あまりて、ことば足らず、と言われる。
感情過多で、表現不足であるということだ。

万葉では、その心あまりて、そのまま歌う、つまり、直に歌うのである。
業平の感情過多をを、風情と考えるかである。
それは、これからの歌を見つつ、考える。

業平の歌の最後に一首。

病して弱くなりにける時よめる。

ついにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

遂に行く道とは、死への道である。
それが、昨日、今日とは、思わなかった、と歌う。

思わざりしを、が、非常に強く、響く。
思わなかったという意味だが、を、は、詠嘆である。

一音に意味のある、日本語、大和言葉であると、何度も言うが、を、が、詠嘆を現すという事実である。

おオは、送る言葉であるが、をヲには、詠嘆がつくということである。
送る時の、余韻を、をが更に、強めるのである。

何々を、という時は、断定である。
を、という音にある、表情である。それは、様々になる。
音ひとつにある、思いを知る時、大和言葉の重さを、察する。
それは、日本人であれば、誰もが自然に身につけるものである。言葉に対する感性である。
こればかりは、如何ともしがたいのである。
民族性である。

日本語が美しいのは、母音の清音である。
濁音を嫌った。
それを、他の民族に知らしめることは、大変な労力がいる。

言葉が出来上がる、何千年の間、純粋培養された、日本語の魅力である。
静かに、ゆっくりと、母音の一音に意味のある、言葉を、培ってきたのである。

世界の言語の中でも、稀有な存在である。

ちなみに、わいうえを、について言う。
えは、ゑと書く。
わいうゑを、である。

五十音図最後の行である。
すべて、感嘆を意味する。

わア、とは、我である。
東北地方では、自分を、今でも、わア、という。
関西では、相手のことを、ワレとも言う。
わア、は、人間のことである。
つまり、あいうえお、の、い、と同じである。

あアは、上を、わアは、下を表す。つまり、上は、神を、下は、人間をである。

ちなみに、あアいイ、とは、あい、という言葉になり、それは、愛、藍、間、相とも、書く。
あ、は、開いている意味である。
い、は、受け入れる。
上の、あは、開き、下の、いは、受け入れる。

霊である神と、人との、交わりである。

さらに、恋になると、こオいイである。
送る、オと、人である、イである。
魂を、送るのであり、それは、生身の人間である。

もののあわれ、は、あくまでも、生身の人間の情であるということ。
そして、こオいイ、とは、心的状態を言う。

性というものに、託して、魂を、送る情である。
性が、魂と、共にあった、時代である。

性は、もっと、自由自在に解放されていた。
色好みについての、具体的な、感覚については、後述する。

2007年12月30日

もののあわれについて144

小野小町

題知らず

花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに

花の色は、色あせてしまったことだ。ただ、空しく過ぎたものだ。私が、物思いをしているうちに。

わが身世にふる
ふるとは、経ると、降るとを、かけている。
ながめせしまに
眺めると、長雨を、かけている。

花の色は、容色の衰えと言う場合もある。

実に、歌が、複雑になっている。

だが、素直に読むと、うつりにけりな、が、心に響く。
文法解釈等々の解釈は、長雨により、花が散るという。
長雨が降っている間に、花が散るのである。それに、我が身を重ねる。

いたずら、に、人生を過ごしてしまうこと、多々あり。
だが、人生は、いたずらなものである。
一体、どうしても必要な、生き方というものがあるのか。

私が死んでも、世の中は、何の変わりなく、変転してゆくのである。
これを、実存という。さらに、言葉にして、語るものを、実存哲学という。

西洋の、哲学の言葉の、煩雑さといったら、無い。
しかし、日本の場合は、すっぱりと、歌にして、実存を言う。

日本には、哲学も思想も無いと、言われた時期があるが、それは、西洋かぶれの、学者たちであり、彼らは、日本を、何も知らなかったと言える。

例えば、道元などは、あちらの、実存哲学を、軽々と、超えていた。
大地雪満々
言語同断の言葉の世界を、生み出した。

竿の先から飛べ。
それを、西洋哲学は、延々として、難儀な言葉の世界で、やる。

和歌の、一つに適わないこと、証明される。

思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
おもひつつ ぬればやひとの みえつらむ ゆめとしりせば さめざらましを

思い出して寝たからだろうか。夢を見た。夢であると知るならば、目覚めなかったものを。

三句切れである。朗詠する場合も、三句切れになる。

夢と知りせば さめざらましを
夢と知っていたなら、目覚めないでいた、という。

深読みする。
実は、人生は、夢の如きものである。
人生自体が夢なのである。

もののあわれ、は、人生を、夢の如くと、捉える。

人生と言う夢から、覚めるのは、死である。
死と言う、厳然たる事実である。
そこに、歌を読む意味がある。意味意識とでもいう。

意味意識という、意識を持つことが、時代の進歩発展であった。
無意味なことは、やってられないのだ。しかし、その無意味にある、行為に、実は、深い意味があるという。
万葉は、神代の感覚が旺盛であり、迷いや、不安より、生命の讃歌を謳歌する。しかし、古今になると、神代の感覚が薄れ、神と、人との、分離が始まる。
つまり、精神の誕生である。

ある、著名な禅者が、日本の精神は、鎌倉に出来たというが、違う。
日本の精神は、万葉後期から、始まっていた。
それ以前は、心の時代であり、更にそれ以前は、霊と、魂の時代である。
霊と魂の時代とは、神代の時代である。

自然という神と、分離していない時代である。
それが、次第に、自然と、対立してゆくのである。

幼児は、母親と、離れると、分離不安に陥る。
人間も、自然と、離れることで、分離不安を起こすのである。

自然と、共生、共感していた、時代を、神代という。
それが、万葉以前である。
万葉初期の歌に、それが、結実されている。

今はとて わが身時雨に ふりぬれば 言の葉さへに うつろひにけり

今はもう、時雨が降るように、私は、年老いた。あなたの約束の言葉まで、定かではなくなってしまった。

色見えで うつろうものは 世の中の 人の心の 花にぞありける

色見えで
色合いも見えないように。
目には見えないが、移ろうものは、人の心の花であった。
ける、は、詠嘆である。

人の心の花の移ろいを、嘆くのである。
それは、恋人の心であろうが、世の中の人の心は、見えないが、移ろうものであるということ。

うつろひ、うつろう、などの表現が多い。
この世を、うつろひ、と見るのである。

ギリシャ哲学も、仏陀の思想も、うつろひ、の一言である。

多くを語らず、31文字で、実に、壮大な思想を、語るのである。
うつろうものは 世の中の 人の心の 花にぞありける

人の心だけではない。世の中の、すべてのものが、移ろうのである。

人生に佇む時、昔の歌を読むことである。
誰もが、皆、それ、を、感じたのである。

共感は、時空を飛ぶ。

2007年12月31日

タイの政治から、更に飛躍して云々

アジアの国で、最も、親日であり、その民族性が、大変、優しく、親切に満ちているタイでの、今回の、下院の選挙結果を見て、人間の無明をみるものである。

タクシン元首相は、タイで、一番の金持ちである。

チェンライの、地元の旅行会社のオーナーは、タクシンを、吐き捨てるように、タイで一番の金持ちだ。政治を、自分の都合の良いようにして、更に、金を得たと言った。

チェンマイの若者が、言う。
タクシンの時は、医療費が、日本円で100円程度であると言う。そして、それ以上は、かからなかったと。
それが、タクシンの金ではない。国民の金である。

東北部を、イサーンと言う。
そこが、最もタクシンを支持する。
理由は、タクシンなら、タイで、最も貧しい東北部を、助けてくれるという。
汚職や、都合の良い法律を作るということを、無視するのである。

要するに、タクシンの本性を見抜けないのである。

国を食い物にしても、平然としている。
更に、最も悪いことは、大統領制を目指していたということである。

タイは、国王がいる。
最も、国民の信頼篤い国王である。

それを、犯しては、いけない。
タイが、まとまるのは、国王の存在である。
それを、無き者にしようとするのである。

勿論、国王は、高齢であるから、いつ、何事か、起こるかもしれない。

その、国王の承認を得た、クーデターの様だったはずだ。
何故、国王が、クーデターを、承認したのか。
それは、タイの方向性を、最重要視したからである。
国民のために、最も、誠実な、政治をと、願ったからである。

それが、今回の選挙では、無に帰した。

タクシン派が勝った。
将来を見つめれば、決して、選択しない、はずであった。
しかし、タイの国民、さらに、特に貧しい地域の人が、タクシンを選んだ。

情けないのである。

将来の安定ではなく、今すぐの、100円を求めたということである。

ここに、タイという国の、無明がある。

タクシン派は、皆々、タクンシによる、利権を信じての、政治団体である。
何と、言い訳しようが、それに変わりない。

タイの人々の、微笑みと、その曖昧な、行為行動は、日本人に、合うものである。しかし、誠実さに、欠ける。

日本人の、曖昧さは、たゆたう、という、精神的余裕を生むが、タイ人の、曖昧さは、不誠実という行為を、生むのである。

政治家というものは、どうしても、不誠実になる。
そして、支配者という立場に立つと、それで、最早、思想も、何も無くなる。
民主、共産、社会主義等々の、思想、イデオロギーは、皆々、嘘である。単に、支配者の、猿芝居である。

騙しの、思想であるということだ。

そこで、生きるのは、伝統行為、伝統思考である。
しかし、それを、宗教という概念に、結びつけて、宗教行為として、判断するのである。

違う。
国王の存在を見ても、そこには、国民の尊厳という、重たい、実に、誠実な、意味意識がある。

皇后様が、宗教について、仏教以外の宗教にも、大きな心で、向かうべきだと、メッセージを発した。
それは、それで意味あることだが、イスラム、キリスト教という、排他的宗教を、単に容認すると、南部タイのように、簡単に人殺しをするのである。テロ行為である。

農作業をしていた、普通のタイの、仏教徒を、イスラムが、撃ち殺すという、テロ行為である。

許しがたいが、イスラムという、非常に排他的な宗教は、異教徒を、簡単に殺すのである。

南部タイは、戦闘状態に入っている。
仏教徒も、身を守るために、武器を持つのである。

さらに、タイ全域に、キリスト教のプロテスタントが、激しい、布教の行動を起こしている。

こうして、タイの人の、曖昧さを、利用しての、教派拡大である。
最初は、ボランティア等の良き行為をするが、最後は、搾取である。

さて、タクシンは、ばら撒くたげて、根本的解決を、提示しないのである。
貧しい者は、いくらでも、騙せると、思っている。
金を持つ者、金を利用して、人の心を、懐柔する。そして、更に、金儲けをするのである。

あの、クーデターの折角の、意味が、今回の選挙によって、無きものになったということ、本当に、残念である。

民主主義というものの、嘘八百である。
選挙は、選挙である。選ばれるのではない。選ばせるのである。

それならば、国王に、政治をお返しした方が、国民のためになる。
特に、現在の国王は、実に、素晴らしい人間性を持ち、国王たる、意味意識を、十分に備えている。
一人の、仏教徒としても、素晴らしい。

世界に、宗教として、認められている宗教で、唯一、平和的行為行動をとれるのは、仏教である。
その、最大の教えは、慈悲と、平等だからだ。
そこには、殺生を嫌う思想がある。
要するに、殺しである。

生きとし、生けるものを、殺してはならないのである。
高次元の霊界の、教えである。

ビルマ、タイ、カンボジア等々に、流れた仏の教えは、それであった。
日本の、仏教とは、全く違う。
別物と、考えた方がいい。

日本の仏教は、中国思想による仏教である。
要するに、中国的思考法による、仏教という名の、異仏教である。
更に、本当のところ、仏教ではないのである。

日本仏教の最大の、誤りは、野心によって、成ったということである。
最澄と、空海こそ、最も、堕落した僧侶であったという。

宗教を、野心として利用したのである。
どう、良く解釈しても、二人の掲げたものは、完全に、誤りである。
空海を評価するなら、文学としてである。
こけおどしも、過ぎるのである。

これ以上は、別の機会に書く。

タイの政治である。
タクシン派の、台頭によって、混迷深くして、タイの政治は、暗雲が垂れ込め、一人の人間の、欲望に、国が、利用されるということになる。
そして、それに、群がる、利権を求める、コバンザメの政治家である。

全く、日本と、同じである。
理想高くしても、長いものに巻かれるというのが、日本の政治家である。
政党政治などというが、どこに、政党の特徴があるのか。
与党になれば、与党を演じるのみであり、野党になれば、野党を演じるのみである。

どういうことか。
野党も、与党も、根は、同じであるということだ。
政治家になるということ、自体が、野心の何物でもないということだ。

身を捨てて、国のために、などということは、考えない。
考えている振りは、する。

政治家三代目の、安部首相で、少しは、真っ当な政治がと、期待したが、結果は、辞任である。
要するに、真っ当に政治家をするという人は、辞任するような、政治システムであるということだ。要するに、政治などは、信じるに足りないのである。
そう、詐欺集団の、宗教団体と、同じだと、思えばよいのである。

大衆は、いつの時代も、騙され続けているのである。
実に、大衆は、愚かである。

しかし、識者、評論家たちは言う。
大衆は見ている。大衆は、騙されないと。あれは、金儲けの、方便である。
金を積まれれば、翌日は、別のことを言うのである。
それが、精々の者どもである。

私は言う。
大衆ほど、愚かで、騙される者はいない。
宗教に騙され、政治に騙され、しまいに、霊感に騙され、さらに、芸能人にまで、騙されて、喜んでいる様、哀れという他無い。

そういうのを、死んだほうがマシという。
大衆は、死んだ方がマシなのである。

アメリカ大統領は、平気で、若者を戦場に送り、千人死のうが、一万人死のうが、平然として、理想を言うのである。
それで、平然として、朝昼晩と、飯を食うのである。
信じられますか。
私は、信じられません。

タイも、地獄から、逃れられないのであること、重々知るものである。

年の初めに

年の初めに思う。

まず、日本という国は、崩壊したのであるから、国旗、国歌を廃止するべきである。
これは、日教組をはじめとして、社会共産主義、その他、諸々の、亡国を望む者のためには、必要なことである。

いずれは、原爆投下されるのである。もはや、守るべきものなど無いと、知るべきである。

勿論、世界の笑いものになる。しかし、現在も、世界の笑いものになっている。
知らないだけである。

例えば、食料自給率39パーセントである。こんな国は、先進国で、在り得ない。
政治家と、官僚の、税金搾取は、どこの国の政治家、官僚もそうであるが、それでも、世界の笑いものになっている。

政府開発援助金の、使い道など、知らずに、大枚の金を、援助するという、唖然であるが、官僚の天下りの、受け入れ先になる、特殊法人等々を、未だに、整理整頓できずにいる。

偽装問題で、責任者が、いくら、頭を下げても、こちらに、響いてこない。
心底、反省などしていない。その証拠に、表沙汰にならなければ、そのまま、続行していたのである。

いつから、中国人のように、日本人がなってしまったのか、知らない。
その中国からは、反日感情凄まじく、南京の、戦争記念館では、吐き気のするような、日本憎悪を、中国人に植え付けている。
それに、徹底抗議が出来ない、日本政府である。
全くの、捏造を、そのままにして、いられる、神経が解らない。

更に、従軍慰安婦問題でも、米国、カナダ、欧州等、四度目の、非難決議である。
これにも、日本政府は、何の手も、打たない。
外務省は、抗議をしているとは、言うが、彼らは、日本を売っての、外務省である。要するに、非国民であるから、話にならない。

食料自給率の、大きな原因は、輸入である。
大企業の、輸出で、外貨を稼ぐ代わりに、食料を輸入するという。そして、日本の農業政策など、何の手も打たない。
打っているというのは、ポーズである。

米で成り立っていた、日本の米が、危ないのである。
しかし、それに、手を打つこともない。

もう一つ、おまけに言う。
中国を笑えないのである。
日本の食品の、添加物は、規制が甘く、一人当たり、年間四キロもの、添加物を食べていることになり、それから起こる病気も、無視出来ない。

中国では、国内の食べ物で、年間40万人が死ぬというが、日本も、調べると、その程度は、食べ物で死んでいるかもしれない。

地球規模で、異常気象が起こり、いつ、大飢饉が、襲ってきても、おかしくない。
それなのに、支給率39パーセントである。
信じられないのである。

しかし、それも、貧乏な一般市民の問題であると、知らぬ振りをする、金持ち政治家である。

最も、笑われていることは、国内の、反日教育である。
これには、呆れて、物も言えない。

河川や、湖の生態系の、変化や、山の状態なども、瀕死の状態である。

天皇の口を通してまで、外来種の魚は、戻さないようにと言わしめる。
日本が、私のものという意識を持てば、こんな、状況には、憂いに満ちるが、そうでもないらしく、皆、平然としている。

マスコミだけは、正義の味方のように、環境汚染を言うが、自分たちが、精神汚染をしていることを、知らない。
ニュースを伝えているというだけで、偉くなるという、マスコミ人は、一体、何者なのであろう。

兎も角、衣食住という、最低の問題を、根本から考えないということは、世界の笑いものであるということ。
政治家、官僚という、非国民が、そのようにしているのである。

最悪の事態は、世界貿易機構の交渉によって、米の完全自由化が、行われるとしたら、自給率は、12パーセントになるという、驚きである。

ワーキングプアという言葉がある。
働いても、生活保護より、少ない賃金を貰う若者たちである。
格差社会などいうものではない。

そして、国家として、最大の問題である、年金である。
今、年金を貰う世代は、ドロボーと言われるようになる。
いずれは、年金を貰うより、生活保護を貰って、老後を過ごした方が良くなる。

そして、年金不信を起こしても、歴代の保険庁長官等々、誰も、切腹しないのである。それのみか、天下りを繰り返して、退職金を大枚に得て、のうのうとして生きているということである。
その子孫は、確実に、祟られる。

一部の政治家を抜きにすると、政治家にななるということは、野心と、自己顕示欲以外の何物でもないということが、解る。

少しばかり、有名になると、皆々、政治家になる。
政治家になると、国民の痛みが、解らなくなる。

北朝鮮は、国会会期中に、核兵器を、国会辺り、その付近に落とすことである。
国民は、大歓迎である。
革命が出来ないシステムであるから、他から、破壊されないと、どうしようもない。

戦争犠牲者の遺骨も、世界に、散らばして、靖国問題も無いもない。
遺骨収集するのに、官僚を5名程、辞めさせれば、資金は、出る。

これで、増税など、平気で言う政治家がいれば、終わっている。
予算が無いなどとは、言わせない。
無駄な、税金を大枚使って、更に、税収が足りないとは、言わせない。
国会議員に当選した人と、落選した人を、比べてみるとよい。
その差は、天地の差である。
土下座しても、政治家になりたい人の気持ちが、よく解る。
アホでも、政治家になれば、支配層に入るからだ。

ただし、官僚は、アホではなれない。
頭が良くなければ、希望なし。
ただし、その頭の良さは、国民のために、生かされない。皆々、自分のためである。

そろそろ、私も、足の塵を、日本の地に、払い、出発したいと思う。

本当の、日本に生きたいと、思う。

自然と、同化し、共存共栄していた、日本である。
自然に、なんとなく、頭を垂れる、日本人の生き方である。
自然と、共感し、自然に隠れるように、死んだ日本人である。

倫理を、自然から学んだ日本である。

思想も、哲学も、自然から、学んだ日本である。

国民を、おおみたから、公宝、と呼んだ、天皇様がいる、日本である。

神である、山を、平気で削り取ることのない、日本である。
更に、川も、湖も海も、神として、実に、謙虚に、利用していた日本である。

私は、そういう、日本を求めて、旅をする。

この、日本には、日の丸も、君が代も、もう、いらない。

別の場所で、私は、日の丸を掲げ、君が代を、別の場所で歌うのである。

何度も言っているが、君が代の、君は、天皇のことではない。
君とは、君と呼ぶ私がいる。そして、君とは、私の大切な人のことである。

天皇は、恐れ多くも、大君と、御呼びしたてまつる、存在である。

更に言う。
君が代の、君とは、国土のことである。
日本の国の、国土のことである。

そうでなければ、あんな、大嘘の歌は、歌わない。
細石が、巌となるか。
巌が、細石になるのである。

少しの興味を持てば、解ることである。

思想、信条の自由で、国旗掲揚、国歌の時に起立しないという。
人の葬式に出て、宗派が、違うから、手を合わせないという、ある地獄と縁する新興宗教のようになってしまった。それも、気づかないという。
手のつけようがないのである。

君が代は、国土の擬人化である。
末永く、国土豊かにあるようにとの、祈りであること、誰も気づかないという、愚かさは、死んだ方がいい。

次の原爆投下で、日本人は、実に実に、日本の国土が美しく、大切なものであることを、知る。しかし、知るということは、無くなるということである。
失って、はじめて、物の本質を知るというのが、九割の人間である。
後の、一割は、人間ではない。


唯、救いはある。
新年、元旦に初春という。
この時期は、冬の寒中である。その只中で、先人たちは、初春を祝うと言う。
何故か。
冬の真っ只中にある、春の息吹を観ていたのである。

雪間の草の春をみせばや

千利休は、そこに、茶の湯の心を観た。
茶の湯の心は、侘びであり、寂である。その心は、もののあわれ、に貫かれている。
言葉の魔術師、松尾芭蕉は、その道は、一なりという。
五・七・五という、俳句という言葉の世界は、言葉の滓である。
短歌よりも、更に、削り取って、大博打を打った。
日本人なら、解るという、信念である。

省略、省略、更に、省略した後に残る言葉の滓である。

こんな、文化は、日本以外に無い。

仮名とは、仮に使う言葉であった。そして、平仮名は、女子供の使う言葉であった。
大人の男は、漢語で、物を書く、詞を書くのであった。

だが、源氏物語によって、ようやく、漢字かな混じり文が、万葉以前からの、心を表すものだと、気づく。
大和言葉の目覚めである。

漢語を自由自在に扱い、さらに、大和言葉に目覚めて、すこぶる発展を遂げたのが、日本語の世界である。

無意識の、大和言葉を、漢語が、引き出したともいう。

我が内に、在るものしか、観えないのが、人間である。
私の中に無いものは、存在しないのである。

日本人に潜在していた、大和言葉の心、魂である。

言霊の、ま幸く国であった。
言葉が霊であった。つまり、言葉に、神を見出したのである。
こんな国は、世界に稀有である。

自然は、神が創りたもうたという、妄想は無い。
自然こそ、神であった。自然こそ、霊であった。

文字を神聖なものとして、扱った民族がいた。
日本民族の末裔である。

大陸から、切り離される一万二千年前、以前より、日本の歴史がある。
富士王朝でも、9,000年以上である。
仏陀も、日本民族の、一人であった。

今年は、私が、その日本の歴史を書く。
ただし、読者は、限定される。

私は、職業学者ではない。

皇祖皇宗を信奉する、大和の民の一人である。
私は、二十歳の時に、日本人として生きることを、定めとして、主体的に、行為行動してきた。

問題意識が、深まれば、深まる程、皇祖皇宗の思い篤くして、更に、皇祖皇宗を、作り上げた、古の、大和の民の意識を、受け継ぐのである。
命を掛けて守るものがあるという、皇祖皇宗の、願いを知ることになる。

この、私の行為行動で、再度の、原爆投下が回避されるのであれば、いつでも、命を捨ている。しかし、この願いは、叶わず、日本は、廃墟となる。

一万二千年前に、祖先が辿った道を、私は、再度、歩む年にする。
それが、この、年、皇紀2668年であり、富士王朝9,058年であり、ヤマト民族史13,058年の、今年である。

壮大な妄想による、私の年の初めに、でした。

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