もののあわれについて、を、書いている。
西洋の論理学、語り尽くそうとする哲学、その他、諸々に、犯されている人、随分と、苛立つのである。何となれば、答えが欲しいからである。
はい、こうこう、こういうものです、と。
西洋にて、音楽を学んできたという者、書き込みで、省略、行間を読ませるものではなく、明確に、云々という。
それが、病むということなのだが、気づいていない。
書ききれない、という、もの、が、この世に、あるという、こと。
また、書くものがあるということは、書かれないものもあるということ。
書ききれないから、それに近づけるために、書くということもある。
省略も、書くことと、同じである。
生まれ持った日本人であれば、それを、知る。
遺伝子に、それを持つ。
言葉にするということは、観念であり、それを、限定することである。
日本の思想は、限定されない、たゆたう感覚がある。
故に、語り続ける。
西洋の弁証法とは、違う。
芸術にて、完成度が高いもの程、未完の美を顕す。
人間が創作する、最も、美しいものは、未完の美である。
表現し得ないものを、秘めている。その、秘めているものを、美と、認識する。
世阿弥が、何故、秘するは花、と言うか。
美は、秘するものだからである。
それは、美だけではない。
物事の本質も、秘すると、認識するのである。日本人は。
それを、表現して、人に訴える、伝える時、今世だけではない、幾世にも渡ってきた、秘するものがある。
転生を経て、伝え続けたものである。
この、人生の一代で、伝えることなど、たかが知れている。
無意識から、現れ出る、得たいの知れないものの、その姿を、芸術というものが、表現しようとして、呻吟する。
日本では、芸能といった。
そして、生まれ持ったものが、最も、それらを、理解する。
お勉強をして、理解するものなど、たかが知れているのである。
何故、日本に仏教が輸入された時、その思想よりも、造形美に突き進んだかを、見れば、解る。
古代、仏像は、飛鳥時代製作とされていたが、今は、初期白鳳時代であると、言われる。
思想よりも、まず、造形美に進んだ故は、何か。
伝えられるもの、限られると、観たからである。
仏像を製作するという、発願の時。それが、問題である。
念仏申さんと思い立つ心の起こる時
歎異抄で言う。
思い立つ心の起こる時、すべて、弥陀の本願に救われていると、感得するのである。
それは、目に見えて、どうだというのではない。
発願する時、すでに、事が動くと観る。
弥陀の本願は、置いておく。
仏像を作ろうとした時、すでに、仏像が、現れているのである。
しかし、それは、まだ、この世に無いものである。
目には、清かに見えねども、という、心境である。
季節が、次の季節に移る時、はい、今日から夏ですとは、ならない。
目には清かに見えねども、風の音にぞ、驚かされるのである。
日本人の心情を、日本の自然と、風土を無視しては、考えられないのである。
曖昧なものを、善しとする、のは、物事が曖昧だからである。
それを、たゆたう、として、貴んだ。
しかし、世界の常識ではない。
世界の趨勢は、西洋思想からである。
当然、明確に、はっきりとさせる。そして、一神教の、神との契約により、成る民族とは、全く違う。
彼らと、会話するには、彼らに、準じる必要がある。
それは、たゆたう、という、心情を彼らは、理解出来ないからだ。
こちらは、彼らの、心情を理解する。こちらが、歩み寄ることになる。
ここで、語感というものの、違いを知るべきである。
日本人は、世界で、唯一、母音を主にする。
しかし、他民族は、日本以外の、ポリネシアを省く民族は、母音を、右能の処理で、聞き流すのである。
母音を主にする日本人は、サンキューという。
あちらは、サン、と、キューが、一まとまりである。
さアンきイゅゥになるのが、日本人である。
母音を主にする、日本人には、一音に意味がある。
あちらは、単語に意味がある。
アルファベットには、その成り立ちはあるが、一音に意味は無い。
曖昧にしても、伝わるのは、母音主導で、一音に意味があるからである。
例えば、簡単にして言う。
愛しているとは、言わない。
一緒に年を取りたい。そう言えば、伝わる。
一回りも、二周りも、遠まわして言う。実は、それが、遠まわしとは、思わない。
それ程、表現が違う。
簾動かし、秋の風吹く。
と歌えば、それが、どんなことなのかを、知る。
そんな、繊細、微妙なことを、あちらの人々は、理解できない。
理解出来ないことが、悪いことではない。
それが、違いというもの。
仏像製作も、他の民族が製作するものではなかった。
「諸々の仏像とは、美的鑑賞の対象ではなく、彼らは、造形美を追及したわけでもない。教文の意味の造形を通しての感知であり、意味への礼拝であった。たとえば、薬師如来像は、病気快癒の祈念の対象以外の何ものでもなく、薬師如来経を「形」を通して読む行為だった。」
亀井勝一郎、日本人の精神史研究
さらに
「造仏技術とは、造形技術であるとともに信仰の対象であった。言わば特殊な材料による信仰の感覚的消化の過程を意味した。」
とも、言う。
製作の前に、すでに、その像に対する祈りがあった。
それを、観る者も、その祈りを、読むのである。
私が、小説、小野妹子を書いた時、矢張り、いけばな、という意識を隋から、持ち帰り、花を立てるのである。
その立てる行為が、そのまま、祈りになった。
行為が、語るのである。
故に、多くを語ることはない。
物事の本質を語るということは、語り続けるということであり、その行為に耐えるということである。
芸術家が、死ぬまで、創作するのは、語り得ないからである。
舞台芸術のプロは、一つの舞台が終われば、即、次の舞台を考える。
次は、もっと、良く。
日本人の心情を理解する者は、世界のすべての、芸術家である。
もののあわれについて、語り切れない、書き切れないから、書き続け、語り続けると言えば、世界の芸術家は、それこそ、芸術行為であると言うだろう。
古今の歌を続ける。