六歌仙の歌
僧正遍昭 そうじょうへんぜう
西大寺のほとりの柳をよめる
にしのおおてらの ほとりの やなぎをよめる
浅緑 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か
あさみどり いとよりかけて しらつゆを たまにもぬける はるのやなぎか
薄緑の柳の糸をよって、玉のように白露を、つらぬいている、春の柳。
柳の枝を、糸に例える。
白露を、その枝が、貫いているという。
糸よりかけて、は、糸のようにして。露の玉を、それが貫くという。
春の柳が、擬人化されている。
このようにして、短歌の世界が、表現の世界となってゆく。
表現するというこに、重きがおかれる。つまり、文芸の意識である。
はちすの露をみてよめる
はちす葉の にごりにしまぬ 心もて なにかは露を 玉とあざむく
玉とあざむく、にある、文芸の意識である。
泥水に育つ、はちすの葉であるが、にごりしまぬ、と、濁りに染まらない、美しい清い心を持つと、擬人化する。それが、どうして、葉に置く、露を玉と、見せかけて人を、騙すのかという。
こういう、捻りの歌が、出てくるのである。
遊び心である。
題知らず
名にめでて 折れるばかりぞ をみなえし われ落ちにきと 人に語るな
名前に惚れて、折ったのだ。おみなえしよ、私が堕落したと、人に語るな。
おみなえしを、擬人化し、女と、見立てて、女のために、堕落したと言われることを、恐れた風を、装う歌である。
上記の歌、読み人知らずは、勿論、万葉には、見出せない歌である。
いよいよ、短歌の世界が、変化してゆくのである。
表現の革命が、密やかに、行われる。
万葉の世界から、一気に、このような歌にくると、戸惑うことになる。
五節の舞姫を見てよめる
天つ風 雲の通ひ路 吹き閉じよ をとめの姿 しばしとどめむ
大空を吹く風よ、雲の中の通い路を、吹き閉じてくれ。天女の美しい姿を、もう暫く、この地に、留めて置きたいのだ。
自然体ではなく、技巧的である。
自然を自然として、歌う、万葉集とは、意を異にする。
これは、万葉集の歌の世界から見れば、堕落である。一方、新しい歌の手法としては、革新である。
これも、生成発展の一つであると、認識する。
在原業平
世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
世の中に、桜と言う花がなければ、人の心は、穏やかであったろう。
つまり、桜があるということで、心が乱れるのである。
それは、逆説で、桜の花というものは、素晴らしいものであるというのだ。
こうして、捻る歌になってゆく。
濡れつつぞ しひて折りつる 年のうちに 春はいくかも あらじと思へば
雨に濡れながら、折ってきました。今年の春は、もう過ぎてしまいますゆえに。
しひて、は、無理やりである。しひて折りつる、と、春を惜しむ気持ちを、強調する。
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに
桜花よ、散り乱れてくもれ、老いというものを、見えなくするほどに。
老いらくは、老ゆらく、である。
桜も、擬人化し、老いというものも、人間のように扱うのである。
来むといふなる、は、来るだろうかという。
道まがふがに、は、まぎれるだろうか。まぎれるように、である。
この、在原業平の歌物語として、伊勢物語がある。
暫し、もののあわれ、というものの、姿、隠されるようである。
しかし、この変転を経て、源氏物語に、結実してゆくのである。
もののあわれ、にある、色好みに、徐々に進んでゆく。
恋と性が、直結していた、万葉が、恋と性を、引き離してゆく。
性が、色好みとして、ベールをかぶるのである。