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神仏は妄想である。3

仏典、大乗仏典というものは、次々と、書き足されていった。
要するに、様々な人の、意見が取り入れられて、しまいに、訳する者が、また、手を入れるという、とんでもないことをしているのである。
経典、果たして、そんなものが、経典と成り得るのか。
成り得ているのが、仏教である。
故に、支離滅裂になる。

しかし、宗教家というのは、本当に、おめでたいというか、抜書きして、勝手な解釈をする。
何とでも、言えるのである。
それが、ミソ。

例えば、禅というもの。
何とでもいえる。
言葉で、人を煙に巻くのである。

だが、これからの時代は、かろうじて、その、禅が、残りそうである。
後は、子供の遊びのようなものであり、時代に、対処出来ない。

禅というのは、言葉遊びの、骨頂である。

至道無難という禅者の歌。
草木も国土もさらに なかりけり
ほとけといふも なおなかりけり

どうであろうか。
つまり、すべての観念は無い。あるのは、仏のみであるという。
すべてが、仏であるというのだ。
絶対否定から、悉皆成仏、つまり、すべてが、仏であるという。

こういうのを、言葉遊びという。

いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも
志貴皇子 万葉集

なかりけり なおなかりけり
それも、観念である。
それでは、志貴皇子の歌は、どうか。
目にした、春先の様を、そのままに、歌う。どちらが、自然か。
これを、古神道という。
自然と共感、共生している。

国土も草木も、仏も無いなどという、浅はかな、歌は、読まないのである。
言葉遊びと、神、自然に遊ぶのとは、違う。
自然は、神であった、日本民族である。
そこに、あたかも、在るかのように、思想という言葉が、入ってきた。それは、文明の進化としては、善し。しかし、それを、信仰という形に、観念に、置き換えたところが、勘違いである。

それを、後押しした、哲学者、西田幾太郎がいる。

宗教的意識においては、我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一するのである。そこには真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。宗教的価値というのは価値否定の価値である。

というのである。
呆れる。
加えて、無も無いと書けばよかったのに。

死ぬまでの、暇つぶしにはしては、凝っている。

こういうのを、西洋かぶれ、と言う。
西洋哲学の方法を、持っての、言葉遊びである。

それなら、道元に適わない。
道元の言葉は、見事な、実存哲学である。

その、道元も、仏の家に投げ入れて、と、仏の家の観念を持つ。
要するに、心身脱落を言うのであるが、心身を脱落して、どうするのか。

大悟するというのであろう。
天地宇宙と、一体になるのである。

こういうのを、アホ、バカという。
天地宇宙と、一体になり、糞小便、垂れ流して生きるのである。

それを、言うなら、いない方がよいということになる。

こういう、たわけたことに、真剣になる者もいるのである。

人は、生きられるようにしか、生きられない。

大悟する人は、大悟しか、生きようがないのである。
更に、悟るということも、観念である。
自己満足の、一点に尽きる。

ところが、禅では、考案といって、師匠から、師家から、問題を出されて、それに、答えて、悟りありと、認められるというから、また、笑う。

両手を打つ。どちらの手が鳴ったか。
右でも、左でもない。
心が鳴ったのである。

船が通る。
船が動いたのか、海が動いたのか。
心が動いたのである。

アホらし。

蒔くことも、刈ることも、捕ることも、作ることも、せず、言葉遊びである。そして、托鉢というから、さらに笑う。

生きている価値があるのか。
無い。
死ぬべきである。

坊主のところには、金が集る。
その、金を目当てに、また、それを持ち上げる、思想家がいる。
今は、宗教評論家である。

心の軽くなることを書いて、本を売る。
実に、宗教の堕落である。

舒明天皇の歌。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
ゆうされば をぐらのやまに なくしかは こよいはなかず いねにけらしも

あるがままを、歌う。
自然と、共感、共生する。
何事も無い。
観念の遊びがない。

道元の歌。
峰の色 谷のひびきも 皆ながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

すべては、釈迦であるという。つまり、仏の姿であるという。
観念にやられたのである。
釈迦という、観念である。

私は、
今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
である。

我が釈迦牟尼という、妄想は、無い。

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コメント (1)

通りすがり:

失礼します。
あなたは大変頭がおよろしい。
理知的で理路整然としてらっしゃる。さぞ理性的な方なのでしょう。

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2007年12月11日 18:24に投稿されたエントリーのページです。

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