これは、笑えない話である。
昔、私のところに、お寺の奥さんが相談に来た。
その内容である。
寺に、幽霊が出るというものである。
冗談ではない。本当の、ことである。
寺に幽霊が出るのは、当たり前で、他の家に出ないのであれば、それは、実に良い事である。寺に出るということは、何らかの救いを求めているのであろう。
幽霊が出るという、相談は多々あった。
それを、否定する何物も無い。
幽霊は、存在するからだ。
しかし、僧侶でも、霊を否定する者がいるのである。まして、死後の世界までも否定するとなったら、一体、何ゆえに僧侶をしているのか、解らない。
商売である。
宗教法人という、税制を免れて、商売をするのだから、やめられない、商売であろう。
霊や死後の世界を否定して、人間の霊的指導をするのなら、いっそのこと、株式会社にするとよいが、そんなことは、しない。要するに、ずるいのである。
今では、幼稚園経営からはじまり、墓地経営である。
そして、あの、意味不明の永代供養ということをするというから、呆れる。
また、それを、テレビに出る、傲慢不遜な占い師が、後押しするという図である。
先祖供養ということの、意味を、明確にしたものはない。
また、そんなことは、出来ない。
先祖とは、どの当たりまでの、先祖を言うのか。
それさえも、明確ではない。
アフリカの、人類発生の頃からの、先祖供養を言うならば、狂っている。
精々、先祖とは、200年300年ほど前の人のことであろうが、今なら、それさえも、明確ではない。
これほど、愚かなことは無い。
私は、墓参り等々の、伝統的行為を否定するものではない。
私も、墓参りに行く。
亡くなった、婆さんが、よく私に、墓に参ってくれと言っていたので、その通りに、墓参りをする。その程度で、十分である。それ以上の、先祖となると、もはや、解るものではない。
僧祖父母までが、限界である。
それを、永代供養とは、笑わせる。
また、どこに、そんな保障があるというのか。まして、偽の仏教である、日本に寺が、いつまでも、続くわけが無い。
科学は、もう、多次元の世界を、証明しつつある。つまり、霊界の存在を証明する。
宗教の時代が終わる時である。
ただし、単細胞の頭の人には、必要である。
手かざしで、興った新宗教は、大本教から、出た。そこから、竹の子のように、分派して、多くの新宗教が起こった。
手かざしを続けている団体もある。
一つの団体に、ある婦人が、その母親と、入信することになった。というのは、彼女は、生まれつき、手かざしで、病を癒す力を、得ていたのである。それを、言えば、誤解されるゆえに、人には言わず、柔道整復士という資格を持って、治療に当たっていた。
さて、入信して、手かざしが始まった。
彼女は、元からある力であるから、他の信者より、強烈である。
次第に、信者たちが、彼女を、救世主と呼ぶようになる。ある種の、敬意を表したのである。しかし、彼女は、完全に嫉妬されて、教団から、抜けざるを得なくなった。
誰が、嫉妬したのか。当然、それは、幹部から、教祖の跡継ぎであろう。
彼女が、そこから抜けたのは、正解であった。
それらの、手かざしの、新宗教のバックの霊団は、ほぼ、間違いなく、邪霊、悪霊、これを言うには、抵抗があるが、動物の霊たちである。
実は、手かざしというのは、誰もが、出来る。それの、強弱はあるが、親が子供に手を当てることで、子供が、癒えるのが、基本である。
そういえば、矢張り、一つの大きな教団になった、新宗教も、その教祖の書物を読めば、病が癒えるということから、広がった。
その教えの、根本は、万教一致である。つまり、すべての宗教は、一つになるというものである。だから、書籍には、すべての宗教の、教えを通して、実相世界を述べている。
理に適う教えであるが、如何せん、組織を作り、巨大化して、教団となり、信者が、寄付をするようになるのである。
有り難いから、寄付をするのであるが、書籍販売だけで、十分に生活が出来るはずである。しかし、組織を持った。
そして、建物を建てて、今に至る。
この、教祖、創立者は、霊界の高い次元に進んだという人がいる。
それを、私は、確かめる方法を持たない。
しかし、教祖の手本である、イエスキリスト、仏陀を、見る。
彼らは、建物を持たない。
イエスキリストに至っては、寝る場所も無いという。仏陀は、寄進されて、修行の場を得た。自分から、建物を立てて、組織を作ることもなかった。
ただ、弟子たちが、伝承しただけである。
伝承したものが、八方に広がり、今に至る。
嘘の伝承も、本当のようになっている様である。
それら、多くの新宗教は、素の神という。
素とは、元である。
神は、何と呼んでも、波動により、答える。
しかし、霊界には、神という存在は無い。
もし、神というならば、宇宙が神である。
一定の存在たる、神というものは、どこを探してもいない。
ただし、霊界でも、レベルの低い霊界というか、迷いの霊界には、自分を神と、名乗るものがいる。
それに、コンタクトされて、神と、つながったと思い込む者もいる。
それが、教祖になるから、極めて危険にことになる。
彼らの、祈りの言葉が、狂っていることは、その祈りの言霊を知れば解るが、今は、それに触れない。
その、言霊は、万葉集の一首にも、及ばないこと、知らない。
日本には、これほど、多くの新宗教があるが、宗教の無い国と言われる。
何故か。
欧米の宗教は、哲学と思想が、完備されている。
それに、対抗出来るほどの、哲学も思想も無いということであるが、それを、心配する必要は無い。
それで、欧米の宗教が明確に、観念の賜物であることが、解る。
日本の宗教観は、何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる、というものである。
つまり、自然崇拝である。
山川草木の前に、佇んだ時に、自然に感動する心を持って、宗教観とするのである。
それ以外に、無い。
そして、それは、実に、正しいのである。
今のところ、地球以外の惑星に、このような、美しい自然の様は見当たらない。
宇宙というものは、果てなく、その先の先までを知らない。
空を見上げて、その星空に、感動する心を持って、宗教観とすることで、成り立つのが、日本の伝統である。
そこに、教義なる、観念は無い。
ただ、生まれて、生きて、死ぬことに、在るものが在るのである。
在るものとは、私の存在である。
行き着くところ、この、私の心以外のものを、人は、見ることも、観ることも出来ないのである。