ある夜、安食堂で、テレビを見た。
たけしの、TVタックルだと思う。
昭和の偉人たちの、特集であった。
印象的だったのは、経営の神様といわれた、松下幸之助と、ダイエーの、中内功である。
たまたま、うまくいった、男たちである。
成功したから、偉人になったのであり、特別の思想云々の話ではない。
たまたま、成功したのである。
それを、事後予言的に、語るという、愚かさである。
そんな、話は、聞き飽きている。
しかし、テレビは、つけっ放しであるから、自然に、出演者の話が耳に入る。
後半に、美輪明宏の言葉に、絶句した。
今の人は、本物を求め始めていると言う。
千の風が、売れ、ふじこ・ヘミングのピアノのCDが、何十万枚売れたと言う。
文化の基本のクラシックや、千の風を、本物だという、偽者である。
ついに、化けの皮を、剥がしたのである。
または、耄碌したのか。
本物が、千の風であり、ふじこ・ヘミングのピアノだと言う神経は、ただ事ではない。
変な、霊能者と、組んだだめか、本当に、それが、本性なのか。
千の風の、訳、そして、曲をつけた、新井某氏は、実に、気味の悪い人である。
何でも、その奥さんが、マネージャーとして、ついている。それが、また、アホであるから、ペラペラと、本音を喋るのである。
ポーズであると言うのである。
何が。
千の風のへの、思いである。
要するに、売れればいいのである。
世の人を、騙して、売れれば、いいのであること、堂々と言う。
昔、一杯のかけそば、という、お話が、大流行した時期がある。
大晦日の夜に、親子の母と、二人の息子と、一杯の、かけそばを、分け合って食べるという、お話である。
結果は、大嘘の、作り話であった。
世の人の、感動したいという、感動依存症に、迎合して、作った、お話である。
韓国映画の、流行も、感動依存症の、中高年を、騙したものである。
軽薄短小な、物語に、感動するという、薄っぺらさである。
そして、あろうことか、韓国では、三流の男役者に、日本の中高年の、女たちが、大枚をつぎ込んで、感動依存症を、解消するという様である。
さて、ふじこ・ヘミングのピアノである。
好き嫌いがある。
音楽は、好き嫌いで、決まる。
好きな人は、いいが、あの、ピアノ演奏は、偏狭過ぎる。
言えば、大根を刻んだような、演奏である。
クラシック音楽を知らない、美輪であること、十分に理解した。
多くの、オーケストラとの、出演での、演奏は、聴いていられないほどの、ものである。
指揮者が、ふじこと、合わせるための、苦労が、見て取れる。
私は、音楽に、素人である。
素人の、私が解ることである。
美輪の、霊感というものも、マジで、聞けないと、心底思ったのである。
天草四郎の生まれ変わりと、言われているが、天草四郎は、15歳で、死んでいる。斬首である。
さらに、その四郎が、後ろについているという。
その、四郎が、わしは、美しかったと言ったというから、笑う。
あまりに、軽薄である。
感動依存症候群によって、舞台を続けていられるのであろう。
哀れである。