文屋康秀
是貞親王の家の歌合はせの歌
これさだのみこの いえのうたあわせのうた
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
風吹けば、草木が枯れる。だから、山から吹く風を、嵐というのであろう。
吹くからに、とは、吹くと、ずくに、吹くやいなや、更には、何々したばかりに、だからといって、という意味になる。
この歌は、文字遊びをしている。
山風を、嵐という。確かに、山と風で、嵐という文字になる。
こういう、遊びを始めた時代である。
むべ、とは、肯定である。なるほど、という意味。いふらむ、に、かかる。
荒らしに、嵐をかけたのである。
作家活動に余裕が、出てきたのである。
歌合せは、一首の、言葉遊びである。
それも、善し。
深草帝の御国忌の日によめる
ふかくさのみかどの みごくきのひによめる
草深き かすみの谷に 影かくし 照る日のくれし けふにやはあらぬ
御国忌とは、命日である。
草の深い、かすみがかかった谷に、光を隠し、照る日が、暗くなった。今日は、その日ではないか。
照る日とは、天皇である。
深草帝の命日に、つまり、京都深草に、御陵がある、仁明天皇のことを、思い出したのである。
喜撰法師
題知らず
わがいほは 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人は言ふなり
私の庵は、都の巽、東南にある。のんびりと住んでいるが、世の人は、憂いにありと言うらしい。
世を憂いで、宇治山に住むと人が言うが、そんなことはない。平穏無事に、のんびりと、過ごしている。ここには、中世的な、無常感覚などない。
たまたま、宇治山に住んでいるだけである。この、宇治山の、宇と、憂いの、憂を、懸けているのである。
しかぞ住む、とは、確かに住んでいる。このように住んでいるという。
いほ、とは、庵であり、草木を結んで作った家である。
後に、草庵として、茶室の原型になる。
自然豊かな日本では、自然の中で、自然に添うような、生き方を好む。
それが、伝統になるのである。
それでは、伝統とは、何かと言えば、それは、民族の癖ということになる。
特別、仰々しいものではない。単なる癖を、伝統と言うのである。
その癖を徹底させて、文化というものを、創造するのである。
伝統文化とは、民族の癖によって、出来上がったものと、認識すれば、実に、良く理解出来る。
良い悪いの区別ではない。
それぞれの、民族の癖が、伝統となる。それは、また、習慣とか、慣習と呼ばれるものになるのである。
日本は、自然環境に、実に恵まれた、類稀な国である。
美しい自然を失えば、日本は無くなる。
伝統を失うということである。
その自然の中でこそ、培われた行為行動なのであるから、自然が失われれば、当然、伝統行為も、失われる。
能や歌舞伎、茶の湯や、生け花を、伝統文化と言うが、伝統と言うには、歴史が浅すぎる。
精々、室町期の芸能である。
鎌倉時代の礼法である、小笠原流も、新しいのである。
千年を経て、ようやく、伝統なるものと呼べるのである。
そうすると、和歌、万葉集あたりが、伝統と呼べるのである。
勿論、905年成立の古今集も、伝統と呼べる。
芸能では、神楽である。
人の寿命は、短いが、伝統となるには、100代ほどの、世代の積み重ねが必要である。
でるから、伝統には、適わないのである。
短歌は、時代を経ても、読み継がれてきた。
短歌を読むとは、短歌を作ることである。
歌詠みである。
これこそ、伝統である。
辞世の句を読むというのが、当然のことであるというべきだ。
だが、今、辞世の句を読むほどの人が、どれほどいるか。
これは、情けないことである。
能や歌舞伎程度に、触れて、日本の伝統などと言う者は、愚かである。
あれは、単なる、お家芸というものである。
国の伝統ではない。
能が、世界遺産になったというが、それならば、日本語が、世界遺産である。
芸能は、完成するものではないが、能は完成してしまった。
世阿弥で完成である。
今あるものは、その残骸である。
幽玄などというもの、漢語である。
もののあわれ、には、程遠い。