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もののあわれについて146

紀友則

梅の花を折りて人に送りける
君ならで たれにか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る

あなたではなくて、誰みせようか。梅の花の色も香りも。あなただから、理解できるのです。

知る人ぞ知る
知らなければ、知ることは、出来ないのである。
知る人ぞ、知る、というのは、実に、巧みな言い方である。
誤ると、単なる、おせいじに、なる。


桜の花の散るをよめる

ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

光のどかな、春の日に、心が落ち着かなく、花が散るのである。
古今の美意識である。
これが、古今である。

ひさかた、は、枕詞である。
光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ
しづ心は、桜の花の心である。擬人化している。

あわただしく、落ち着かなく、という意味。
それほど、桜の花は、散るを、急ぐものである。未練なく、散る、桜に、感動するのである。

すでに、この頃から、桜に寄せる、日本人の思いが、出来上がっていたといえる。

この当たりの時代から、現代に続く、日本人の感性というものの、萌芽が見える。
万葉から、変容した、感性である。
次第に、平安の、みやび、雅に、近づいてゆくのである。

もののあわれ、というものの、姿が、一時期、雅に、覆われると、考えてもよい。

日本人が、自然のものを、擬人化する時、それは、単なる、文学上のことではない。
擬人化という、言葉に惑わされないことである。
文学上は、擬人化というが、実際、日本人は、桜の木に、心があると、確信していたのである。
山川草木に心がある。
その心は、人間の心より、高い位置にある。
つまり、神意識である。
自然に神を観ていた。

ただ、桜の花を、愛でていたのではない。桜の花を、崇敬していたと、思う方が合っている。
桜の花を、拝むと言ってもよい。

大和心というものは、それを、言う。

大和心から、大和魂という、言葉に変容するのである。

日本人の、自然を観る目を、確認しておかなければ、大和心は、理解出来ない。
例えば、欧米の自然観は、どうか。
征服して、従わせるものが、自然である。
神という、創造主は、人間に自然の支配を任せたと、考える。

自然と、対立する思想と、自然と、同化する思想とでは、全く違う。

大和心の、別名を、古の神の道という。
古神道である。

それでは、心というものを、どのように、認識していたのか。
心は、思いである。思いは、思考ではない。
思索のように、湧き上がってくるものである。
自然のもの、すべてに、その、想いがあると、観た。

心理学で言う、潜在意識の、底から、湧き上がる思いが、心である。
そして、更に、神という、自然と、通ずるものが、タマである。つまり、魂である。

ここに、大和魂の、根拠がある。

仏教の唯識というもの、心理学を、当時から凌駕すると言うが、日本の伝統は、唯識という、理屈より、感性で、認識していたのである。

そして、結果、
大和心、大和魂も、もののあわれ、に、立ち戻るのである。

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2008年01月02日 07:21に投稿されたエントリーのページです。

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