紀貫之
わがせこが 衣春雨 降るごとに 野辺のみどりぞ 色まさりけり
衣春雨とは、わがせこが衣、と、なる。春雨を引き出すための、序詞である。
わがせこ、というのは、普通は、女性が親しい、恋する男性に言う言葉であるが、ここでは、それを使う。
春雨が降る度ごとに、野辺の緑が色濃くなってゆくことだ。
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
人は、その心も、解らない。しかし、このふるさとの、花は、昔のままに、匂っている。
この歌の題は、省略した。
花とは、梅の花である。
女性が使う、言葉を使い歌を読むとは、貫之は、まさに、作家の走りである。
それを、想定して、創作歌を読むのである。
家にありける梅の花の散りけるをよめる
暮ると明くと めかれぬものを 梅の花 いつの人まに うつろひぬらむ
日が暮れると言っては見て、夜が明けるといっては、見る。絶えず、花から目が離れないのに、散る時は、人の見ぬ間に、散るのである。
めかれぬものを、とは、目が離れないという意味。
万葉との差は、ものの見方の、違いである。
次第に、狭くなっている。見る風景が、身近なことに、始終する。
箱庭の風景である。
これも、時代である。
歌奉れと仰せられし時によみて奉れる
桜花 咲きにけらしも あしひきの 山のかひより 見ゆる白雲
天皇に歌を献上せよといわれて、読んだ歌である。
桜が咲いてしまったようだ。あの山と山の間から見える、白雲よ。
紀貫之について言う。
日本で最初の評論家であろう。
晩年の土佐日記などは、旺盛な、批評精神である。
彼は、漢文の素養の深い人だった。九世紀の、唐の影響の強い時期を経て、和歌に目覚めたのである。
和歌、やまとうたに、目覚めた。
漢詩、唐歌に、対して、和歌を、正統なものとして、回復しようとしたことである。
ただし、その際に、万葉集の、多くを知らなかったということが、難である。
貫之の最大の功績は、ひらがな、の採用である。
まだ、正式文書は、漢文であった。
しかし、歌をよむ時のみ、ひらがな、やまとうた、になるのである。
漢文の名手でも、和歌は、大和言葉であった。
当時、ひらがなは、女文字として、軽く扱われていた。それを、貫之は、土佐日記で、徹底的に、揶揄している。
男もすなる日記というものを、女もしてみんとてするなり。との、書き出しは、実に、挑戦的である。
貫之は、一つの危機意識を感じた。
飛鳥、奈良時代における、やまとうた、の、伝統が、唐文字、唐文化によって、亡き者にされるという、危機である。
今の、私の心境と、近いものがある。
このままでは、忘れ去られる。更に、捨てられる。
そして、ひらがなの成立について、徹底的に、調べていたはずである。
ただ今は、変体仮名から、カナ文字が生まれ、そして、平仮名へと、進むと、考えられている。
それも、一つの方法である。
しかし、音を、漢字に、あてはめていたということは、言葉としての、音があった。それを、表記しなかったはずはないと。
ここで、少し飛躍するが、日本語は、母音が主の、音声である。
そして、子音というものがある。
神代文字、かみよもじ、と言われる、文字には、父音というものがある。
父音と、母音と、子音によって、言葉が成り立つのである。
神代文字の証拠は、あった。
聖徳太子の時に、国書編纂をしている。それが、蘇我家に、保管されていた。
蘇我馬子は、蘇我王朝を目指していたゆえの、行為である。
その、国書が、蘇我入鹿暗殺の際に、つまり、大化の改新の際に、その父、蘇我蝦夷が、屋敷に火を放ち、すべてを、消失していることである。
ただし、その一部を、中大兄皇子に、届けた者がいたとも、言われる。
古事記編纂の、きっかけとなったといわれる。
神代文字に、ついては、いずれ、別の機会に書く。
貫之の時、すでに、ひらがな、というものが、女たちによって、普通に使用されていたということは、事実である。
その、最大の結晶が、源氏物語である。
平安期、九世紀は、漢詩の全盛期である。
それを、経ての、和歌への復興である。
貫之の歌の、作りを、正岡子規のように、断定はしない。
その功績の方が大きいようである。
古今集から、続々と、和歌集が、生まれることになるのである。
抑えていたものを、吐き出すように、和歌がよまれるのである。