宮
「かろがろしき御歩(ありき)すべき身にてもあらず。なさけなきようにおぼすとも、まことにものおそろしきまでこそおぼゆれ」とて、やをらすべり入りたまひぬ、いとわりなきことどもをのたまひ契りて、明けぬれば帰りたまひぬ、すなはち、「今のほどもいかが、あやしうこそ」とて、
宮
恋と言へば 世のつねのとや 思ふらむ 今朝の心は たぐひだになし
御返り、
女
世のつねの ことともさらに 思ほえず はじめてものを 思ふあしたは
と聞こえても、「あゆしかりける身のありさまかな、故宮のさばかりのたまはせしものを」とかなしくて、思ひ乱るるほどに、例の童来たり、御文やあらむと思ふほどに、さもあらぬを心憂しと思ふほども、すきずきしや。帰り参るに聞こゆ。
女
待たましも かばかりこそは あらましか 思ひもかけぬ 今日の夕暮
宮は、「私は、軽々しく、出かけることが出来る身ではありません。情けない、ひどいと、思われても、私の恋心は、おそろしいほど、高ぶっています。
と、言われて、そっと、女の所に、すべりこまれました。
まことに、せつないほどの、くさぐさのことを、約束されて、夜が明けました。
いとわりなきことどもをのたまひ契りて
この一言に、情を交わす。セックスする様が描かれる。
男が、女とセックスする時、色々と、約束をするというのが、今も昔も、変わらない。
結婚する、あれを、上げる、これを、上げる。旅行をしよう等、多くの言葉を、発する。それは、発情のゆえもある。
黙々と、セックスするのは、結婚して、惰性になってからだ。
契りて
その一言に、託すのである。
昭和30年代から、小説の中で、セックスの様を、書き描くことが、流行になった。
その、襞に、起立した、男棒を静かに、埋めて、云々。エロ小説の、ような、文が、文学として、登場した。
良いことであった。
勃起小説とも、言う。
それから、行き着くところまで、行くことになる。
もう、書くことが無くなる程、セックス描写を、書き尽くした。
文学の可能性も何も、あったものではない。
文学は、小説、実話、ファンタジーとまで、広がり、無限に広がったように、思えた。
何を書いても、文学である。
そうして、更に、堕落した。
商売である。
売れる本を、作る。それは、質の良い本ではない。兎に角、売れる本である。
書き手を、有名にする。
小便臭い、少女小説を、褒める程、堕落した。
歌手の大衆化として、カラオケが登場し、小説は、大衆化して、誰もが書く。
良い時代である。
多く人は、勘違いし始めた。
実に、大衆は、愚かである。
簡単に騙される。
夜が明けました。宮様は、お帰りなされました。
それなのに、すぐに「お別れしてから、どのように過ごしていられますか。われながら、あやしく、苦しい気持ちです」と、仰せられた。
こいといえば よのつねのとや おもふらむ けさのこころは たぐひだになし
恋と言えば、世の常と、思われるでしょうが、私の今朝の、恋心は、何も比べられないような、激しいものです。
お返し
よのつねの ことともさらに おもほえず はじめてものを おもふあしたは
世間並みの、ありふれた恋とは、思いません。
今朝、はじめて、恋の切なさを、知ったのです。
女が世に言われる、浮かれ女ではなく、真に心の底から、人を恋うたのは、今朝はじめての、ことだったのだ。
男への、恋心の、きざしたことと、宮への、さきざき、は、男を恋したことなどなかったという、反論めいた、思いである。
と、申し上げるにつけても、私は、何と思いがけない、奇妙な、めぐり合わせに、あったものであろう。
亡き宮が、あれほど、深く愛しんでくれたのに、今は、新しい恋のとりこになってしまった。
悲しみと、反省に、心乱れています。
いつものように、童が、来ました。
宮様からの、お手紙があると、思っていましたが、そうではありません。
辛く思われましたが、私は、何と、好色な女なのでしょう。
すきずきしや
この言葉に、女の思いを、すべて込めるのである。
何と、好色とは、男好きということであるが、更に、恋という関係に、深く縁する者という意識である。
男が、寄って来るのである。
また、男が、放っておかない、女なのである。
そして、それをまた、受け入れる女である。
だが、運命のようなものに、翻弄されるのではない。
そこに、主体性がある。
それは、歌を、見れば解る。
世のつねの ことともさらに 思はれず
世の中にあるような、恋ではないというのである。
そんな、恋ではない。
はじめてものを 思ふあしたは
何という、大胆不敵な、歌であろう。
今、はじめて、恋をしたという。そして、明日に賭けるのである。
様々な、恋の遍歴をしているが、しかし、今、はじめて、恋を知ったという、その恋である。
それを、繰り返しても、はじめの恋であると、言うのだろう。
女の、生命力の強さである。
フランスのマリー・アントワネットの言葉である。
いくらでも、殺すがいい。
私は、いくらでも、生んでやる。
男が、適わない、女の強さである。
生んだ子供が、すべて、違う男の子供であるという、それをね生きられるのが、女であり、それが、強さであろう。
和泉式部の、女の強さに、感服する。
恋は、いつも、新しいのである。
恋に生き、恋に死す。
それで、いい。
そこに、歌が生まれる。これ、もののあわれ、である。
童が、帰りますので、それに託して、申し上げました。
またましも かばかりこそは あらぬまし おもひもかけぬ きょうのゆうぐれ
お出になるのを、お待ちするとしたら、このように、切ないものです。今日の夕暮れといいますのに、お心にかけても、お文も、下さらないので、心が乱れたのが、よく解ります。
おもひもかけぬ きょうのゆうぐれ
思いに、かけてもらえないのでしょう。日は暮れてゆきますのに。
いよいよ、男女の愛情関係の、駆け引きに入ってゆく。