私の近所を歩くと、天理教の教会が、四件ある。
一丁にも、満たない場所に、四箇所もの、教会である。
戦後、天理教は、国会議員を出した程、隆盛した時期がある。
現世利益の、最もたる宗教であった。
私の、母方の祖父母は、熱心な天理教信者である。
私も、子供の頃に、教会に、何度となくつれて行かれた。
その頃の、町の天理教の教会は、実に、大勢の信者を、擁していた。
しかし、私がカトリックの洗礼を受けてから、祖母は、別にして、祖父は、非常に嫌った。ヤソ教として、嫌った。
それは、戦争体験からも、頷ける。
ただ、私は、祖父母の信仰深い行為を、尊敬していた。
悪しきをはらうて 助けたまへ てんりんおうの みこと
その祈りの言葉を、当たり前に聞いて、子供の頃を、過ごした。
教祖、中山みき、という、婆さんに関しては、その、奉仕と、施しの精神には、感服するのである。
しかし、教祖の生き方のみで、終われば、問題はなかった。
教団としての、組織を作ることから、教祖自身の、良き行いも、無に帰すのである。
現在の天理教の信者は、中山みきを、神と、思い込むのである。
それは、みきの体に、神が、懸ったからである。
みきが、三日三晩、錯乱した時、天の将軍と名乗る霊が、懸る。
霊に、憑かれたといってよい。
そして、その霊の正体が、何かである。
実に、愚鈍な霊である。
ただし、霊は、霊である。
その霊が、天の将軍と、言ったところで、勝手に言うことである。
一体、天の将軍とは、何か。
ここで、教祖となった、中山みきという、婆さんの、知的レベルが、解る。
信仰深い、婆さんであったことは、確かである。
念仏宗である。
江戸時代末期の、大和地方は、数多くの仏教寺院が乱立していた。
その中で、抜きん出ていた宗派は、宗教ヤクザの、浄土真宗である。
体制に、しっかりと、寄りかかり、磐石な、組織を作り上げていた。
しかし、組織が大きくなると、必ず、反体制の運動が、起こる。
本願寺に対する、反体制の、念仏の集いが起こるのである。
隠れ念仏ともいう。
後に、みきも、その隠れ念仏の様式を、取り入れていることが、解る。
私が、いいたいことは、宗教評論家ではないから、その神の正体である。
それは、現在の天理教の教団を、見れば、一目瞭然である。
その後、中山みきは、死後、幾人かの、人にコンタクトをしている。
それにより、天理教から分派した、グループもいる。
更に、それにより、霊能力を発揮して、活動している者もいる。
祖父母が、熱心に信仰していた、宗教であるが、その程度の、教祖が、死後に人に懸る程度の宗教だということだ。
次元のレベルが、解る。
そして、驚いたことは、祖母が亡くなる前、朦朧とした意識の中で、屋根に、阿弥陀様が、迎えに来ているというのである。
これは、完璧に、天理王という神の正体が、丸見えである。
要するに、単なる霊なのである。
自己顕示欲の強い、少しく、迷う霊である。
その、物言いから、武士の霊であり、更に、その背後に、野心の強い、霊体の集団がある。
大変申し訳ないが、動物の霊の集団を、司る、霊の一味である。
修験道系の、天狗等々の、霊団といえる。
ある、神道系の、霊能者は、亀であると、判断した。
霊界の亀である。
言うほうも、言うほうだが、愚鈍な亀である。
大本教の、出口ナオのものも、中山みきの、お筆先も、実に、くどいのである。
岡本天明という、日月神示という、お筆先などは、具合が悪くなるほど、くどいのである。
頭の悪い霊が、喋るのを、書くからである。
神が、憑いたということは、理解するが、神という、存在は、霊界には無いのであから、霊なのである。
霊を、神と、誤る程、ボケているということだ。
みきの、口から出る霊の言葉を、鵜呑みにしたという、愚かさである。
勿論、霊が、みきの体から、抜けなかったということもある。
実に、しつこい、レベルの低い霊である。
解りました、みきを、差し上げますと、言うと、霊が抜けた。
霊媒体質と、言ってられないのだ。
教団設立に関する歴史等に関しては、いずれ、また、書くことにするが、現在の天理教の、行為行動である。
一時期、搾取の宗教と、言われた程、信徒から、献金を集めた。
教祖の、行為とは、全く別で、屋敷を払って、教会に金を入れるということである。
本部には、お金を入れる柱がある。
仰天する。
あまりにも、愚かである。
天理教教会が、よく、火事を起こすということは、知られていない。
あれは、霊的障害である。
信徒の少年によって、本部の神殿まで、焼けたこともある。
教祖の代々の者、真柱というが、それも、幹部も、霊的障害と、見抜けない程、霊的に未熟である。
血縁が、代々継ぐということから、誤った教団であるということが、解る。
世襲制になって、仏教教団も、どこも、かしこも、おかしくなっている。
血縁は、有り得ない。
古事記を真似た、勝手解釈の、開闢物語を、平気で、信徒の子供たちに、教えるという、馬鹿馬鹿しさである。
古事記の、嘘が、見破れないほど、霊感が無いということを、証明するのである。
そして、いつの間にか、教派神道ということになっている。
教派神道とは、神道に、準じたものということであり、教団設立のために、考えた方便であるはずが、教義になったという、仰天である。
私の、祖父母は、天理教が言う、神の世界には、入らなかったことが、幸いである。
小さな、天理教の霊界を、作って、そこを、天の国だと、思っているのであるから、哀れである。
だいたい、本部に、信徒の霊が、集うのが、関の山である。
何しろ、行くところが無い。
天理教の霊界は、本部教会という、アホらしさである。
故に、益々、霊的障害が、起こる。
お参りに行き、気分の悪くなる人、異常に疲れる人が、大勢いる。
死んだ信徒が、生きている信徒に、憑くのである。
死ぬことを、出直しと言うが、出直しする信徒は、霊界で、天理教から、全く隔絶された、次元に行く。
死んだ信徒が、生きている信徒に憑いて、せっせと、金を、運ばせるのだから、終わっている。
ちなみに、天理教の大教会という場所に行くと、寒々としたものを、感じる。それなら、小さな、熱心な信者の教会の方が、温かい。
つまり、知らないゆえに、信じて、拝む、熱心な信者のいる方が、まだ、真っ当であるということだ。
こういうことである。
誤った神というものを、拝んでも、拝む者の心が、天理教の神もどきの波動を受けないことにより、真っ当な、信仰行為を、行っているといことである。
真っ当な、信仰行為とは、何か。
それが、問題である。
以下、省略。