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もののあわれについて164

御覧じて、げにいとはしうもとおぼせど、かかる御歩さらにせさせたまわず、北の方も、例の人の仲のやうにこそおはしまさねど、夜ごとに出でむもあやしとおぼしめすべし。「故宮のはてまでそしられさせたまひしも、これによりてぞかし」とおぼしつつむも、ねんごろにおぼはされぬなめりかし。暗きほどにぞ御返りある。

ひたぶるに 待つとも言はば やすらはで 行くべきものを 君が家路に

おろそかにやと思ふこそ苦しけれ」とあるを、「なにか、ここには、

かかれども おぼつかなくも 思ほえず これも昔の えにこそあるらめ

と思ひたまふれど、なぐさめずはつけ」と聞こえたり。おはしまさむとおぼしめど、うひうひしうのみおぼされて、日ごろになりぬ。

それを、御覧になって、宮様は、可愛そうに思われました。
しかし、夜歩きは、しませんでした。
それに、北の方(妻)も、世の常の睦まじい夫婦仲のようではなかったが、毎晩出かけるのでは、不審に、思われるでしょう。
亡き兄宮が、最後まで、兎に角言われ、噂されたのは、この女であったと思われ、慎まれるのであったが、それは、女のことを、ねんごろに、思い召していなかったからでしょう。

暗くなった頃に、お返事がありました。

ひたぶるに まつともいはば やすらはで ゆくべきものを きみがいえじに
あなたが、ひたすら待つというのならば、何をおいても、ためらわずに、あなたの家に向かって行きます。

私の思いを、いかげんなものだと、思っていられるかと思うと、心苦しいものです。と、書かれてあった。
それを見て、女は、いいえ、私のほうは、

かかれども おぼつかなくも 思ほへず これもむかしの えにこそあるらめ
お越しいただけない、という、おぼつかない状態ですが、心細く思われません。
これも、亡き兄宮様との、ご縁で結ばれているからで、ございましょう。

と言う、女の気持ちの底に、亡き宮との、宿縁に結ばれている私は、慰めの言葉を、かけていただかなければ、耐えられそうにありません。
と、打ったえる気持ちを、歌にしました。

宮は、出かけようと思ったが、心重く、そのまま、日が経過した。

女は、宮の気持ちを信じかねる思いあり、冷淡になると、逆に、宮は、積極的に、女に近づこうとするという、男女の駆け引きの様あり。

かかれども おぼつかなくも 思ほへず これも昔の えにこそあるらめ

これも昔の えにこそあるらめ
つまり、宿縁によるものだと歌う。
仏教の、思想が、浸透している、証拠である。

縁とは、えにし、であった。
縁にこそあるらめ
恋も、縁に支えられてある。
縁なくば、恋は、叶わぬ。
叶わぬ恋をすることほど、哀しいことはない。
縁が無いものを、どうすることもできない。

女は宮と、一度、契っている。
これは、縁有り、とみる。
縁があるから、交わることが、出来た。それでは、この先の、関係を、如何にするのか、進めるのか。

恋愛とは、何か。
交わることは、出来た。それから、何を持っての、付き合いになるのか。

現代は、セックスフレンドという存在がいる。
セックスのみの、関係で、善しとする。
しかし、恋愛は、セックスに尽きる。
セックスが、目的であるから、それを、成就させれば、後はない。ただ、次々と、体の関係を、持つのみ。

ある27歳の、女性が、五年ほどの付き合いのある、男に尋ねた。
私たちは、付き合っているよね、と。
すると、男は、言った。別に、付き合っているという、気持ちはない、と。
女は、驚いた。
五年も、セックスを繰り返しているのである。いずれは、結婚するのだろうと、思っていた。
しかし、男の意識には、それが、なかった。
だが、哀しいことに、女の体は、男の体に、慣らされて、しまっていた。

結婚しない、セックスの関係に、女は、絶望を感じた。
それでは、どうするか。
別れる。
しかし、体が、もう、後戻りできないようになっている。

ある女は、妊娠して、男に告げた。
すると、男は、簡単に、堕してくれと、言う。
君と、結婚するつもりは、ないと。
女は、混乱する。
今までの、付き合いと、体の重ねた日々は、なんだったのか。

今度は、男の方をみる。
長年の付き合いの女に、別の男がいると、知る。
問い詰めると、素直に、認めた。
どういうつもりだと言うと、女は、あなたも、楽しんでいるでしょう。今更、どういうつもりも無い。私こそ、どういうつもりで、付き合っていたのかと、聞きたいと。

恋愛の目的を、明確にしていない、恋愛である。が、恋愛とは、そういうものである。

恋愛の目的は、恋愛することである。

そして、実のところ、恋愛とは、乱交という無意識の意識に、支えられてある。

そして、また、それは、性格である。
恋愛も、性格による。

人は、生きられるようにしか、生きられない。

好き者といわれても、好きなものは、好きなのである。
セックス好きなのである。

兎に角、多くの者と、交わりたい。
今では、男女問わず、交わる者がいる。
進化したのだろう。

性を楽しむことは、生を楽しむことでもある。
性を楽しむ者同士が、恋愛をすれば、いい。

結婚は、次元が違う。

恋愛が、結婚に行き着くと、考える方が間違っている。
恋愛と、結婚は、別もの。別次元のものである。

当時は、男が、女の元に、通う形の恋愛である。
女は待つ。男が行く。

男は、多くの女の元に通ってもいい。
乱交である。

人間に大差は、無い。
昔の男と、今の男が、何か違いがあるか。同じである。
そして、女も、同じである。

結婚とは、国家が認めた、男女の契約である。
恋愛は、個人的、行為である。
誰も、その、良し悪しを、判断するものを、持たない。

恋愛こそ、百人百様の様がある。当然である。
この、恋愛の様にあるものから、もののあわれ、という心的状態を、得た日本人である。

恋に生き、恋に死す、からいい。
結婚は、相互扶助の、関係である。そのまま、福祉である。

皆々、恋愛は、これも昔のえにこそあるらめ、なのである。
それ以外に、何があるのか。
昔の縁ゆえの、関係である。

何故、北海道の男と、九州の女が、恋愛するのか。
遠く離れた土地の相手と、何故、恋に落ちるのか。
偶然にしては、出来すぎている。
当然、縁、えにし、があった。それは、昔のえにこそあるらめ、なのである。

男と、女が、相対する時、そこには、膨大な男と、女の縁がある。
それが、解れば、人生の秘密を知ることになる。


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2008年02月15日 16:47に投稿されたエントリーのページです。

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