またの日、宮「今日やものへ参りたまふ。さていつか帰りたまふべからむ。いかにしておぼつかなからむ」とあれば、
女
をりすぎて さてこそやめ さみだれて 今宵あやめの 根をやかけまし
とこそ思ひたまふべかりぬべけれ」と聞こえて、参りて、三日ばかりありて帰りたれば、宮より「いとおぼつかなくなりにければ、参りてと思ひたまふるを、いと心憂かりしにこそ、ものうくはづかしうおぼえて、いとおろかなるにこそなりぬべけれど、日ごろは、
宮
すぐすをも 忘れやすると 程ふれば いと恋しさに 今日はまけなむ
あさからぬ心のほどを、さりとも」とある。御返り、
女
まくるとも 見えぬものから 玉かづら とふひとすぢも たえまがちにて
と聞こえたり。
次の日、宮様から、「今日は、お寺参りをしますか、そして、いつお帰りになりますか。どのように、常より、待ち遠しく、思われることでしょう」と、書かれてあります。
をりすぎて さてもこそやめ さみだれて こよいあやめの ねをやかけまし
時期が、通り過ぎてしまえば、そのまま五月雨も、止みます。悲しみも、止むでしょう。
ですから、今宵は、亡き宮様を、偲ぶ涙で、袖を濡らすことになります。
この気持ちは、お解りくださいますね。
と、申し上げて、寺から三日ほどして、戻り帰りますと、宮様から「大変、待ち遠しくなりましたので、お訪ねしたい。でも、以前、思い満たされぬ夜があったので、気後れします。こう申しますと、ひどく冷たいことだと、思われるでしょうが、近頃は
すぐすをも わすれやすると ほどふれば いとこいしさに きょうはまけなぬ
日を過ごせば、あなたを、忘れられると、思っていましたが、日を経るにつれて、恋しさが、増します。今日は、それに、負けて、お訪ねしましょう。
尋常ではない、心の程を、お解りくださるでしょう。
とありました。
お返し
まくるとも みえぬものから たまかづら とふひとすぢも たえまがちにて
恋しさに、負けて、訪ねてくださるとは、思われません。お手紙を、下さることさえ、絶えがちなのに。
と、申し上げました。
恋の駆け引きである。
まくるとも
恋の気持ちに負けて、である。
みえぬものから
そんな、気持ちには、見えません。
とふひとすぢも
文を書いてくれません。
たえまがちにて
絶えがち、なのに。
火に油を注ぐ、女の言葉である。
いや、まだ、そんなに、私を恋しく思っているのではないのでしょう。と、わざわざ、拗ねている。
前夜に、一度、共寝をせずに、語り合っていたことを、宮は、思い叶わぬという。つまり、セックスが、出来なかったという。
また、そんな風なら、と、言うのである。
会う度に、セックスをするという、単純な付き合いをしたいのではない。
恋のやり取り、駆け引きが、楽しい。嬉しい。
その、間、にある、物思いに、女は、賭ける。
その、間、とは、あわれ、である。
当時は、儚さ、ともいう。
恋愛の、間にある、儚さを、見つめるのである。
優雅である。
恋心に、彩られる様を、表現して、雅と、なる。
平安期の、雅は、その底に、恋心がある。
雅の色彩は、恋心を、現すのである。
絵巻とは、それである。
恋は、絵巻なのである。
アメリカの、日本文化研究の、ドナルド・キーン氏は、戦争時に、英訳の源氏物語を読み、驚愕したという。
戦争の無い、優雅な世界というものがあると、感動したのである。
恋に生き、恋に死ぬ物語は、平和の象徴となった。
以後、キーン氏は、日本軍の捕虜から、日本について、多く知ることになる。
日本文化に流れる、平和の思想である。
それが、恋であった。
すぐすをも 忘れやすると 程ふれば いと恋しさに 今日はまけなむ
時を経れば、忘れると、思ったが、逆に、恋しさが募る。それに、今日は負けて、会いに行く。
恋とは、そういうものである。
今も昔も、変わらずに、人の心は、恋に生き、恋に死すのである。
恋人は、いと恋しさに 今日はまけなむ、と、恋人の元に行く。
何が恋しいのか。
孤独を埋めるようなものは、我以外に無いと、思いつつ、それでも、恋に、賭けるという、人間の悲しさである。それを、儚いと、観た。
これは、知性である。そして、感性を拓くのである。
いざ、恋に生きめやも、である。