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もののあわれについて189

五月五日になりぬ。雨なほやまず。一日の御返りのつねよりももの思ひたるさまなりしを、あはれとおぼし出でて、いたう降り明かしたるつとめて、「今宵の雨の音は、おどろおどろしかりつるを」などのたまはせたれば、


夜もすがら なにごとをかは 思ひつる 窓うつ雨の 音を聞きつつ

かげにいながらあやしきまでなむ」と聞こえさせたれば、なほ言ふかひなくはあらずかしとおぼして、御返り、


われもさぞ 思ひやりつる 雨の音を させるつまなき 宿はいかにと

昼つかた、川の水まさりたりとて人々見る。宮も御覧じて、「ただ今いかが。水見になむ行きはべる。


大水の 岸つきたるに くらぶれど 深き心は われぞまされる

さは知りたまへりや」とあり。御返、


今はよも きしもせじかし 大水の 深き心は 川と見せつつ

かひなくなむ」と聞こえさせたり。

五月五日になりました。
雨はまだ、やみません。
先日の女の返事が、常よりも、物思い深く感じられた宮は、あわれに思い、ひどい雨後の明けに「昨夜の雨の降る音は、すごいものでしたが、いかがですか」と、お手紙がありました。


よもすがら なにごとをかは おもひつる まどうつあめの おとをききつつ

一晩中、何を思い、明かしたのか。
宮様のことばかりでした。窓を叩く雨を切なく聞きながら、です。

家の中にいましたのに、あやしきまでに、袖が涙で、濡れました。
と、申し上げると、宮様は、この女は、やり取りの上手なものだと、思い、お返事を書かれました。


われもさぞ おもひやりつる あめのおとを させるつまなき やどはいかにと

私も、あなたと同じように、雨を聞きながら、思い続けていました。
たしかな夫のいない、宿で、どのように過ごしているのかと。

女が、定まった夫もなく、一人でいることへの、哀れみと、かつて戸を閉ざしていた夜の思い出とを、引き出し、少し、皮肉めいた感じで応える。

昼頃、加茂川の水が増したということで、見に出かけられました。
宮様も、御覧になり、「今どうしておいでですか。私は、増水を見にいきました。


おおみずの きしつきたるに くらぶれど ふかきこころは われぞまされる

大水が、岸を浸しているのに、比べても、私の方が、はるかに、人思う心の深さは、勝っています。

そのような、私の心を、お解りくださいますか」と、書かれました。
そのお返事に


いまはよも きしもせじかし おおみずの ふかきこころは かわとみせつつ

今は、なさか、おいでになりは、しないでしょう。
心の深さを、川で、お示しになっても、

かいなくなむ。
ああ、つまりません、という。
どうせ、来ては、くださらないのでしょう。

雨降れば、雨に。風吹けば、風に。雪降れば、雪に。
すべての、事象が、恋に染まる。

そしてそれは、恋のみではなく、喜怒哀楽に、つけて、自然の事象が、すべて、それに、関わってくる。

大水が岸を、越えたと、言えば、その、岸を、帰し、に懸ける。
大水のように、岸を越えて、おいでください。という気持ちを、きし、という言葉に懸けて歌う。

時間というものの、感覚が違う。
それを、知るだけでも、価値がある。

文のやり取りとは、現代のメールである。

メールにより、短文の才能が、開花しているはずだ。

今、どこ。
いつものとこ。
来る。
行く。
じゃあ。
うん、じゃあね。

関係というものも、偏狭になった。
二人にしか解らないのである。

歌は、誰もが、理解する。その、違いである。

なにごとをかは思ひつる
われもさぞ思ひやりつる

何を思い明かしたのか。
私も、思い続けていた。

思うことは、一緒である。
それを、恋という。

心というものの、有り様が、恋によって、明確になるのである。

万葉の恋は、性に、直結していた。
そこに、曇りは無い。
しかし、性の前に、佇む、という行為を覚える。
歌心である。

それが、思ひ、となる。
思ひ、は、心である。
恋に、歓喜し、恋に、悲しむという、心の様を観るのである。
心とは、恋にあった。
それは、新鮮な驚きである。

無骨な者も、細やかになる、心を作る、恋というもの、である。

おしなべて 物を思わぬ 人にさえ 心を作る 秋の初風
西行

恋の、色好みが、風情として、感得させられるようになる。

人の心と、自然との、深い関わりにより、日本人の、感性が、磨かれるのである。

古代の、恋即性が、色好みとして、変容し、さらに、風情として、変容する様、ただただ、驚くばかりである。

雅というものも、色好みによる。

恋を、色と、見立てた感性には、矢張り驚く。
恋は、色合いである。

恋の、一部分にある、性愛というものを、取り出してみても、どれほど多くの作家が、描いたことであろう。しかし、まだまだ、描ききれない。
エロ小説も、いつまで、終わらない。
繰り返し、繰り返し、同じことを、繰り返している、性愛のお話も、終わることがない。
人間が、生きる限り続く。

ものの真実とは、実に、単純明快なものである。
この世に、奥義なるものなど無い。

これを、色即是空などと、解ったような言葉で、断罪するのは、実に愚かである。
色は、物質である。それは、空である。
そんなことは、はじめから、解っていたことである。

今、有る様に、生きる時、その、生きるということを、最大限に生かす、楽しむことを、日本民族は、善しとしてきた。

恋に生き、恋に死す、ことである。

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2008年02月27日 05:47に投稿されたエントリーのページです。

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