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神仏は妄想である。28

神仏は妄想である、という、エッセイを書いている。

それは、神仏であり、宗教家、及び、信徒の批判ではない。
純粋、神仏というものの、思想的批判である。

多くの宗教家、それらは、特に、潜めて、素晴らしい行為行動を行っていることを、知っている。

宗教に、救いはあるか、未来は、あるかといえば、彼らの行為行動により、あると、言える。

それは、人間主義、人間愛に、元ずく、行為行動であり、言論ではない。

行為により、宗教には、救いがある。

宗教家が、実践家として、活動をした事実は、歴史を見れば、よく解る。

私も、多くの宗教家の、人間愛に満ちた、人道的行為行動を見てきた。今も、見ている。

ただし、問題は、その行為行動にあるものである。
人間愛に元ずく、行動には、それ以上のものがない。
例えば、布教、宣教、折伏等々である。

キリスト教徒は、福音宣教といい、善行を行うとしたなら、誤りである。行為自体が、すでに、それであるから、それ以上の言葉は、必要ではない。

それを、行うこと、それで、よい。
人を助けて、それでは、この教えを、信じなさいと、言えば、その行為は、嘘になる。結局、宗教入信のための、手段としての、行為である。
行為は、目的であるはずだ。

この時代であるから、特に、それは、必要なことである。

宗教の役割が、これほど、大きな時代はない。

ある僧侶が、自殺防止のために、手紙相談を始めたという。
実に、真っ当な、宗教家としての、活動である。

私が、追悼慰霊に行く、タイ・チェンマイから北部タイにかけての、戦争犠牲者遺骨収集と、その、追悼慰霊碑を建立したのは、佐賀県の、浄土真宗の僧侶たちである。
そこで、私は、古神道による、追悼慰霊を行った。
浄土真宗の方法でとは、言わない。

宗教に救いがあるというのは、その行為行動にある。

そして、宗教家、宗教団体だから、出来る行為行動である。

真実、教えが、正しいものならば、行為行動以外に無い。

そして、宗教の、行為行動する、範囲は、他のものが、手出し出来ないところのものである。

日本の社会でも、それらの活動が期待される、場面は、多くある。

会員数の多さから、商売をしている団体も多い。
他の分野が行うことを、平気でするのである。
一々例は、上げない。

善行を持って、会員獲得のために、行為するのであれば、すでに、邪である。魔である。
その勢力、拡大のために、する善行というものは、単なる、偽善になる。

宗教に、フィティフィティは、無い。

与えることによって、与えられているからである。
もし、本当に彼らが、神や仏を、信じているならば、すでに、与えられているのである。
それ以上に、何が必要か。

孤立無援で、行為行動出来る力を持つのが、宗教である。

日本で最初に、唐に渡り、玄奘三蔵法師の、弟子になった、道昭は、矢張り、福祉事業を行っている。
師匠の玄奘は、膨大な、仏典の翻訳に、後の生涯をかけた。
何かに、奉仕することによって、その信仰の、証とする。

その、玄奘の、思いは、億万の衆生を救うという、命題だった。
晩年は、天竺行きの、高山病から、肺を病む。
しかし、最後の最後まで、翻訳をし、成し遂げた。

衆生の、救いは、彼の仏典翻訳という、大業に、結実した。

今、日本で、学ばれている、仏典の多くは、彼が翻訳したものである。

道昭は、玄奘の、法相宗を持って、日本の仏教に寄与した。

当時の時代が、要求していたものを、提供した。

そして、現代である。
宗教というものの、本質が、問われている。

教派を、超えて、行為行動をという、動きも、10年以上前から、はじまっている。
教派を、超えることは、実に簡単である。
共に、神や仏という幻想の、ものを、掲げているのであるから、教派を、超えられる。

宗派の、共同幻想である。
なんとなれば、この世のもの、移り行くものである。
宗派の、教えも、移り行くものである。

天動説から、地動説に、変更を余儀なくされたのである、カトリックは。
真実が、明らかにされれば、当然、それを、受け入れる。
宗教の寛容さである。

無知を、そのままに、神に託すことではない。

宝くじに、二度当たった、僧侶は、すべてを、寄付した。当然である。必要ないからだ。
彼には、仏の教えという、黄金の教えを持っている。金は、手段である。
勿論、金を目的とする、宗教団体は、数多い。

キリストは、汝の隣人を愛せよと、宣教した。
しかし、狭義の、隣人愛であった。
それを、広義の隣人愛にまで、広げて活動することで、キリストの教えを、更に、推し進める。

私の、友人、そして、その、指導司祭は、日本にて、アジア人の留学生の、支援をしている。様々な宗教を持つ人々を、分け隔てなく、支援する。
キリストの、隣人愛を、拡大した、行為行動である。

宗教の強さは、そこにある。

神仏は、妄想であるという、エッセイを通して、私は、宗教的行為にある、もの、そして、宗派を超えるもの、そして、教えを、変容させるものを、観るものである。

万教一致を唱える、生長の家という、宗教がある。
実に、正しい。
だが、その、団体が、何を行っているのかで、その、裏づけがある。

すべての、宗教を認めるという。
そして、どんな宗教に入信していても、生長の家の、聖典を唱えることが、出来るというものだ。
だが、教祖が信仰していた元の宗教のことは言わない。イスラムについても、言わない。

しかし、それさえも、言わず、他を受け入れる、古神道、民族宗教は、数多い。
伊勢神宮は、誰もを、受け入れる。
日本の神社は、誰もを、受け入れる。
バリ島、バリヒンドゥーも、然り。
他の、民族宗教も、然り。

タイ・チェンライの寺院に行った時、僧侶に、こちらの、お祈りの言葉を教えてくださいと、言うと、無いという。
私は、日本では、波阿弥陀仏や、南無法蓮華教という、マントラがあるというと、それで、いいという。

要するに、仏は、無限大の存在である。
祝詞を唱えた。
それで、善し。

無節操であることは、無限定であること。
寛容な宗教、伝統宗教は、皆、そうして、他宗教の者を、受け入れる。

御祭りする、神や仏は、人の心を頂くのである。
規則、作法は、それぞれに、任せるのである。

伝統宗教の場に行き、不快な思いをすることは、なかった。

私は、宗教に期待する。
そして、救いを観る。
更に、平和を、もたらせば、神や仏も、その、妄想は、共同幻想として、実に、有意義なものである。

そう、そのうちに、死ぬのである。
人間には、死という、救いが、確実にある。

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2008年02月03日 20:52に投稿されたエントリーのページです。

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