ベッドに寝て、暫く、放心していた。
うとうとしたが、眠ることは、なかった。
不思議な感覚である。
今まで、どこに旅しても、感じなかったことである。
追悼慰霊は、目的を達することが出来て、良かったが、私の方に、何か、問題がある。
私の満足感であると、客観的には、言える。
実は、慰霊の際に、嫌な気分、変な気を、全く感じなかったのだ。
逆に、私が、清め祓いされているような感じだ。
そして、部屋に戻った私の、心境である。
世の中、つまり、世界のこと、日常のこと、私の属する社会のこと。それらが、どうでもいいことに、思えた。
そして、それが、実に、明確なのである。
このまま、日本に戻らなくても、いい気持ちなのである。
これは、つまり、一つの、死である。
死の感覚である。
戦争で無くなった方は、すでに、清められている。
納得して、死んだ。その時、納得出来ずとも、今は、納得している。
何故か。
日本兵の幽霊が出るという、噂も無いという。
自然である。
自然が、彼らの霊を、清め祓ったのである。
美しい珊瑚の海と、朝風夕風の清らかさ。潮の流れによる、清め祓いである。
清め祓いの私の方が、清められ、祓われていた。
膨大な数の方が亡くなっていれば、海難事故が起きる。しかし、世界中からダイバーが来て、海に潜っても、何も無い。安全である。
要するに、気が、いいのである。
数知れない、遺骨があっても、である。
日本の寺や、それに属する、納骨堂に入っても、その気が、乱れ、濁るのであるが、それが、全く無いのである。
他の慰霊する、土地とは、違う。
改めて、私は、日本の伝統にある、自然と共生、共感する、古神道の、考え方を、得心した。
死は、隠れることなのである。
消滅することではない。
ここで、少し霊というものについて、説明が必要である。
古神道では、四位一体なのである。つまり、一霊には、四つの、魂がある。
三位一体という、キリスト教の教義は、無い。神学という、言葉遊びの世界で、成り立ったものであり、父と子と聖霊とという、一体は、こじ付けである。
和、荒、奇、幸、の、四つの、魂により、霊というものがある。
数霊、かずたま、というものが、言霊を支える重要なものである。
それが、四である。
偶数であるということは、分離するということである。
奇数は、分離しない。偏るのである。
中国思想も、三という、数を、完成の数であり、安定の数とするが、違う。
さて、四つの、魂の、荒魂、あらみたま、が、最後に、この世に残る。
昔の人は、49日は、あらみたま、なので、と、慎重に過ごした。それは、仏教ではなく、日本の伝統の考え方である。
荒魂が、活動すれば、幽霊にもなる。不思議な力も、現す。
それが、無いのである。
そして、私が感じた、死という感覚である。
追悼慰霊をした、私は、彼らに、死という感覚を、教えられていた。
簡単に言えば、私が、この海に来て、私の属する社会生活すべてを、捨てても、いいと思う。どうでもよくなる。その感覚に、死というものが、似ているということ。
最終の自己完結なのである。
これで、よろしいという、思い。
つまり、完結したのである。
彼らの、御霊が、そのようであるということ。
それには、どれ程、多くの人の、祈りがあったか、知れないのである。
彼らの、親兄弟から、親族、友人、知人と、彼らに対する篤い思いは、距離を超えて、きた。その、祈りに、彼らは、満足した。更に、自分の死をも満足した。
国のために、死んだ、という、明確な意味意識である。
大義というものが、如何に、必要かということだ。
だから、テロ行為も、終わらない。
大義があるからだ。
明確な、死ぬことの、意味意識があるからだ。
勿論、テロ行為のそれは、誤りである。だが、大義という、意味では、同じである。
私は、とんでもない、感覚に、立ち往生した。
本当に、このまま、死んでも、良いと、思った。
一霊四魂、ということを、観念として、理解してもよい。
私は、それを、説明する必要を、感じないからだ。
知らなくていいのである。
死ねば、解る。
ここでは、総称して、霊という。
一般に、言われる霊というものは、幽体の霊のことで、肉体に似た姿であるから、幽霊というのである。
そんなものは、即座に脱ぎ捨てて、霊になったのである。
それは、覚悟の問題である。
未練なく、死を受け入れたのであるから、当然、即座に霊になる。
見事である。
若くして命を捧げた彼らの、救いは、国のために死ぬという、一点にあった。それは、国という言葉で、彼らの思いを、総称したのである。
太平洋戦争で、最も、意識したものは、国である。
日本史上、初めての体験である。
国とは、何か。
我らの部落でも、我らの町でもない。
国というものである。
その、国というイメージの、幻想を、天皇という存在が、支えていた。
軍国主義というが、それは、一部の人のことである。
多くの兵士に、軍国主義などない。
軍部が、教育した、国家神道、そして、天皇陛下の、現人神などは、吹けば飛ぶようなものであった。
父や母に、続く、先祖、そして、長い年月の先祖の歴史に、天皇という存在を、置いたのである。
皆、天皇を、天子様として、奉じていた。
そして、国という意識、幻想を作り上げていた。
この戦争で、その国という意識が、明確になった。
国とは、私のことであったという。
世界では、類を見ない、国家幻想を作り上げていた日本という国を、改めて、意識したのである。
軍というものは、暴力であった。
暴力の何ものでもない、存在である。
それにも、耐えられたのは、国が、私だったからだ。
その私には、父や母、兄弟や、友人、愛する人、すべてが、含まれていたのである。
そして、彼らは、死んだ。
朝風、夕風を受けて、美しい珊瑚礁の海で、清められ、祓われて、先祖に続く者として、上昇した。
そして、追悼慰霊に来た私に、死という感覚を教えた。
死者は、言葉にしない。
ただ、伝えるだけである。
遺骨は、一つの物となった。
自然の中に、同化して、何事も無い。
それで、善し、なのだ。
今回、私は、日本人の慰霊のみを、行為した。
多くのアメリカ人も亡くなっている。
共に、国のために、戦った。
大義のために、戦った。
同士である。
憎みあう必要の無い者同士が、国のために、戦った。
平和であれば、友人にも、なれよう。
皆々、演じて生きた。
死を前にした時、人間は、真実を知る。
以下省略。