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2008年03月 アーカイブ

2008年03月01日

神仏は妄想である。37

宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。その証拠は強力なものではないが、本当だとしても驚くにはあたらないだろう。というのは、まれに信仰治療が効くことがあるのと同じ理由で、そういうこともあるだろうからだ。しかし、わざわざ付け加える必要はないかもしれないが、そのような有益な効果があったところで、宗教的な主張がもつ真の価値をいささかも押し上げるものではない。ジョージ・バーナード・ショーの言葉を借りれば、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っ払いのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」
リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第5章 宗教の起源 より

日本の新興宗教、既成宗教も、奇跡のような話が好きである。
要するに、入信して、病が癒えたというものが多い。
勿論、実際は、癒える人より、死ぬ人の方が多い。

回復、全快という言葉が、大好きであるが、それは、一万人に一人、あるいは、十万人に一人とかの、レベルである。しかし、知能の普通の人は、それでも、信じるという。信じたいのである。

宗教関係の、新聞、雑誌を読むと、必ず、それを信じての、効果なるものが、挙げられる。
体験者の言葉である。
しかし、その裏では、全然効き目の無い人の方が多いのである。

要するに、宝くじを当てましたとか、健康食品を飲んで、良くなりましたという、程度と、同じであり、下手をすると、翌月は、ガン再発ということもある。

この、ブレスレットを付けると、幸運が、訪れる。という、程度である。
それが、宗教になると、さらに、オドロオドロしくなるのである。

カルトという、集団と変わらないのであるが、不思議なもので、カルトと、宗教とは、区分けられる。

一万人が集って、題目を上げるとなると、それは、気がおかしいということになるが、信じる人は、集えば、集うほど、安心する。
要するに、一人では、不安なのである。
皆、同じだと、思う、思いたい。そこにいるという、安心感である。
それを、また、宗教は、安心立命という。

そして、指導者は、躁病のように、檄を飛ばす。
勝って勝って、勝ちまくれ、であるから、実に、おかしなことになる。
要するに、宗教というものを、知らないのである。

今、宗教という、概念は、西洋思想からなる。
それは、一神教を元に、出来上がった、宗教という概念である。
実は、仏陀や、日本の古神道、その他、民族宗教と言われるものは、厳密に、西洋の宗教概念には、入らないのである。

宗教とは、一神教の、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に、言える概念であると、言う。

例えば、仏陀は、宗教を創設したのではないということは、仏陀の教えを、辿れば、わかる。仏陀は、生活指導、また、人生の生き方指導をしたのであり、宗教、つまり、絶対者を想定して、拝むことや、信仰することを、言うのではないということが、解る。

現在の日本の、仏教団体、その他、諸派の、新興宗教等々のいうところの、仏教は、仏陀のものではなく、創作したものである。
拝むという行為自体に、誤りがある。

仏陀は、行為によって成る者に成るという、考え方であり、一切の理屈は、言わない。
まして、霊的なお話や、教義、教学等という、チンケなことを、言うものでもない。

仏陀こそ、合理主義者であり、実践家であった。
例えば、鎌倉仏教という、新興宗教では、親鸞が、最も、それに近いが、しかし、思索に脱してしまった。
思い悩み過ぎた。
そして、簡単明瞭により、とんでもない、集団を作ってしまい、今は、後悔で、一杯であろう。その、組織は、宗教ヤクザとして、現在も、日本に君臨するのである。

その思索の帰路に、陶酔する者が多いが、単なる、ポーズの付け過ぎである。

思索は、思想にならない。
単に、迷いのものである。
だから、文学なのである。そうであれば、実に、納得する。
しかし、これ、宗教と言うと、大いに誤るし、宗教ではないはずである。

矢張り、生き方指導や、生き方、思索をすることを、促したと、見る方が、正しい。

宗教は、ストレスを減らすことで寿命を延ばす偽薬なのだろうか? そうかもしれない。ただし、そう主張したいなら、多くの状況において宗教がストレスを軽減するよりもむしろ引き起こすことを指摘する懐疑論者の異議申し立てをかわす必要がある。たとえば、ふつうの人間の弱さと、ふつう以下の知能しかもちあわせないローマ・カトリック教徒が、半永久的な病的罪悪感によって苛まれることで健康が改善されるというのは信じがたい。ひょっとしたら、カトリックだけを取り上げるのは公正ではないかもしれない。しかし、アメリカのコメディアンのキャーン・ランドマンが言う通り、「すべての宗教は同じ。宗教は、祭日はそれぞれちがうけれど、基本的に有罪」なのだ。

人間を支配する場合は、人間の弱さを支配すると、良い。
一番は、性欲である。
マスターベーションを禁止するキリスト教は、多い。
これは、とんでもない、暴挙であるが、そう教えられると、それに罪悪感を抱き、その度に、罪悪感に苛まれて、甚だしい場合は、ノイローゼになる。

こうして、支配するという、カラクリである。

仏教なども、徹底した、性欲セーブ教団であった。
しかし、今は、その反動か、徹底した、性欲旺盛集団になっているという、日本仏教であるから、何とも、お粗末である。

要するに、話に、ならないのである。

日本の、すべての、仏教団は、親鸞の、浄土真宗になってしまったのである。
つまり、僧の妻帯である。

すべての、宗派の開祖は、独身である。
一人身で、生きた。
しかし、今は、見る影も無い。

自分たちに、都合の良いように、いつでも、変更出来るという、宗教の、嘘偽りである。

すべてに、半人前であるが、言うことは、三人前であるから、手が付けられない。
仏陀は、言う。女の膣に、男根を入れてはならない、と。

2008年03月02日

神仏は妄想である。38

ダーウィン主義者は、「宗教は支配階級が社会の底辺層を隷属させるための道具である」といった政治的な説明にも満足しない。アメリカにおける黒人奴隷が来世の約束によって慰められ、それがこの世における不満を鈍らせ、ゆえに奴隷所有者に利益がもたらされたというのはさっと事実だろう。宗教が老獪な司祭や支配者によって考案されたものかどうかというのは興味深い問いで、歴史家が注意を向けるべきものである。しかし、それ自体はダーウィン主義的な問いではない、ダーウィン主義者はさらに、人々はなぜ宗教の魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、その訳を知りたいと願う。

宗教の起源 より

タイの、東北部、ノーン・カーイ県、メーン・カーイという町の、ある、不思議な寺院を見学した。
敷地に、珍しい像が、立ち並ぶ。そして、本堂のような場所に行き、仏陀像を見た。その二階に上がり、多くの絵画を見て、驚いた。ヒンドゥー一色なのである。
下は、仏陀、上は、ヒンドゥーである。

そして、祈る人々である。

矢張り、他の寺院でも、多く、深く祈る人を見た。
勿論、私も、礼儀に従って、手をあせて、挨拶をした。

その時、何かに打たれたかのように、人は、何故祈るのかという、疑問に、心が占領された。
私も、祈る人間である。
だから、こそ、なおさら、何故、祈るのかという疑問は、大きかった。
しばし、私は、寺院の中に足を止めて、それを、考えた。

私は、10年ほど前から、太陽に、祈りを捧げる。

縁ある人々のために、祈る。
亡き人のために、祈る。

日本の伝統の、祈りとは、宣る、ことであり、それは、言葉にすること、すなわち、言葉が神であるという意識であるから、言葉自体に、力があり、言葉にすることは、成るということであるという、宣る、つまり、祈りなのである。
何か、祈る対象があるわけではない。
だから、像というものを、作らないできた、民族である。

仏教伝来から、仏像というものを、置いて祈るようになった。
伝統から見れば、邪道である。

さて、人は、何故、祈るのか。

ドーキンスは、人々はなぜ宗教に魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、そのわけを知りたいと願う。と、言う。

そして、また
老獪な支配者に利用されたものであるにせよ、あるいはたまたま自然発生的に現れただけのものにせよ、神を求める心を究極的に説明するものとは、いったい何なのだろう?
と、言う。

ここで、私の立場と、ドーキンスの立場を、明確にしておく。
彼は、科学者であり、ダーウィン主義の、自然淘汰を、支持して、神は妄想である、を、語る。
私は、人は、霊であるという、立場から、神仏は、妄想である。という、エッセイを書いている。

ドーキンスは、更に、論じて、その解明に取り組む。

私は、人が、神なるもの、超越した存在を求めるに、内なる、何かがあると、思っている。

例えば、人は、無意識にあるものを、知らない。ゆえに、何事かあると、思う。確かに、ある。しかし、その正体を知らない、ゆえに、それを、妄想の、神仏に転化するのであると。

また、この人生の、多くのストレスから、逃れるには、何かに、棚上げすると、気楽である。孤立無援で、自分の人生と、向き合うのは、しんどいのである。

勿論、中には、知性により、それを、超えて生きる人もいる。
また、逆に、厚顔無恥という形で、やり過ごす人もいる。

我が内に、何かあると、思うところに、仏性とか、神の子である意識などと、吹き込まれると、その気になるのである。

それは、ある種の催眠術である。
催眠術をかけられたまま、人生を終わることになり、更に、霊になってからも、その催眠に、気づかずにいる場合もある。

人間にある、霊性、つまり、無意識の意識を言う。それが、明確でないから、神仏というものに、転化、あるいは、置き換えて、祈る。

昔、ある人が亡くなった。
その人が、何と、自分の墓に向かって祈る姿を見て、仰天したことがある。
その人は、禅に興味を持ち、禅寺に通っていたこともある人だった。
自分で、自分の家の墓に、祈る姿である。

その時、これ、宗教の姿に似ると、思った。
つまり、自分で、自分に祈るのである。
本当は、それしか、方法が無いのかもしれない。

霊界入り出来ない、霊を、迷い霊、浮遊霊という。
中には、子供の霊もいる。
それらを、次元移動させるには、方便が必要である。
なんとなれば、霊は、想念の世界のみにあるからである。

延々と、遊び続ける子供の霊に、死んだことを告げて、死んだ人のいる世界に行くことを教える。
しかし、方法が解らない。
子供の、言う通りの世界を見せて、その場から、次元移動させる。

上記、私の妄想であると、されても、よし。

人は、何故祈るのか。
原始宗教体験である。
自然に対する、脅威は、いかばかりだったかを、想像するのは、至難の業である。
その潜在意識を、受け継いでいれば、当然、脅威を恐れと、感じる。
ユングの言う、集合意識に、それがある。
祈りは、ある種の、昇華である。
それが、集団になり、組織化され、その上に支配者がつき、更に、搾取が始まるのを、宗教と、呼ぶ。

人は、葦のように、弱い者である。
一人では、生きられない。本来ならば、共に生きる者に、祈りを捧げてよいものである。相棒に、祈りを捧げて生きるものである。
しかし、それが、出来ないでいる。
互いに向き合って祈る行為が、出来ないがゆえに、共に、並んで、祈りを捧げるという行為に、行き着いたのである。
その対象が、何であれ、それが、作法になった。

ドーキンスは、群淘汰論から、解き明かし、そこから、宗教は、何かの副産物ではないかと、解く。

このところますます多くの生物学者が、宗教はほかの何かの副産物であるとみなすようになっているが、私もそのうちの一人である。もっと一般的にいえば、ダーウィン主義的な生存価について憶測をめぐらすときには、「副産物を考える」必要があると私は思っている。何かについての生存価を問うとき、私たちはまちがった設問をしているかもしれない。その場合、問いをもう少し有益な形に書き直す必要がある。ひょっとしたら、私たちが関心を寄せている形質(宗教)は、それ自体直接の生存価をもっていないかもしれないが、生存価をもつ他の何かの副産物なのかもしれない。私自身の専門分野である動物行動学のアプローチを用いて、副産物説を紹介するのが有益ではないかと思う。

そこから、ガが、蝋燭の炎に飛び込む話が出る。それは、自殺ではなく、ガは、光に向かって飛ぶという習性を持つという。
蝋燭の炎を、月の光と、誤作動を起こすというものである。

宗教的な行動は、別の状態では有益な、あるいは有益だった。私たちの心理の性向の誤作動、不幸な副産物かもしれない。この見方では、私たちの先祖の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかったことになる。それは他の何かの利点をもっていたのであり、そして付随的にのみ、宗教的行動として姿を現すものだったのだ。私たちは宗教的な行動を、そのように名前を変えて呼ぶようになってからはじめて、理解することになるのだ。

更に、ドーキンスは、論述を展開させて、明晰に、語る。

ここに来て、私は、一つ、思うことがある。
信じてしまうと、その妄想から離れることが、出来なくなるという、性向を、人は、持つということである。

完全として、頑固になり、全く、他の説を受け付けなくなる。これは、自己防衛なのであろうか。
私が信じているのだから、正しいという、暴論になるのだ。

ここに、まさに、神仏は妄想である、という、エッセイを書く意味がある。

宗教は、真実を知ることを掲げて、その教えに、帰依させる。そして、それが、唯一正しい道、生き方であると解く。

一つの例を上げる。
韓国では、プロテスタントの布教が甚だしく盛んである。
旅先で、出会った、二人の若い女性は、熱心な、プロテスタント信者である。
彼女、曰く、私たちは、これから、聖書学を学び、マレーシアに、宣教に出るための、準備をしますと。
マレーシアである。イスラムの国である。
彼女たちの、指導者は、のうのうとして、最も危険な布教活動を彼女たちに、吹き込み、鼓舞させているのだろうが、冷静に、判断すると、アフガンに、ボランティアに出た、プロテスタントの信者たちのように、あまりにも、無知蒙昧である。

共に、一神教の者が、相対座すれば、必ず、殺し合いになる。

それを、韓国プロテスタントの、指導者は、知らないのか。

要するに、そういうことである。
一方的価値観のみに、囚われて、他の価値観を知らない者、その名を、宗教信者という。

だから、日本の普通の、おばさんが、イスラムを救うのは、涅槃経ですと、空いた口が塞がらないようなことを言う。
この、宗教の無知蒙昧と、無明、つまり、先行き、真っ暗であること、誰も、知らない。知ろうとしない。逆に、先行き、明るいと、信じ込むのである。

空海が、信者に、日没の太陽を凝視する、行法を行わせた。
その結果、信者は、帰り道、太陽の残像に、山道を転げ落ちるもの、山賊に襲われるもの、等々の被害が出て、それを、中止した。
光を見て、見えなくなってしまったのである。
宗教とは、そのような危険なものである。

実は、暗闇なのだが、信じてしまうと、光があると、思い込み、山道から、転げ落ちるのである。
転げ落ちても、更に、それが修行だ、進めと、躁病的な指導者は、号令をかける。

実に、あわれ、である。

もののあわれについて170

からうじておはしまして、宮「あさましく心よりほかにおぼつかなくなりぬるを、おろそかになおぼしそ。御あやまちとなむ思ふ。かく参り来ることびんありしと思ふ人々、あまたあるやうに聞けば、いとほしくなむ。大方もつつましきうちに、いとどほどへぬる」とまめやかに御物語したまいて、宮「いざたまへ、今宵ばかり、人も見ぬ所あり。心のどこかにもなども聞こえむ」とて車をさし寄せて、ただ乗せたまへば、われにもあらで乗りぬ。

人もこそ聞けと思ふ行けば、いたう夜ふけにければ、「下りね」としひてのたまへば、あさましきやうにて下りぬ。宮「さりや、人もなき所ぞかし。今よりはかようにてを聞こえむ。人などのある折にやと思へば、つつましう」など物語あはれにしたまひて、明けぬれば、車寄せて乗せたまひて、宮「御送りにも参るべけれど、明かくなりぬべければほかにありと人の見むもあいなくなむ」とて、とどまらせたまひぬ。

女、道すがら、「あやしの歩や、人いかに思はむ」と思ふ。あけぼのの御姿の、なべてならず見えつるも、思ひいでられて、


宵ごとに 帰しはすとも いかでなほ あかつき起きを 君にせさまじ

苦しかりけり」とあれば、


朝露の おくる思ひに くらぶれば ただに帰らむ 宵はまされり

この文章の前に、宮が、侍従の乳母に、噂が立つので、出掛けるのを、咎められる段が、ある。

月夜の晩である。

やっとのことで、宮様が、お出かけになり、「あきれるほど、心ならずも、ご無沙汰しました。無情だと思わないで下さい。これも、あなたの責任ですよ。このように、お訪ねすることを、不都合だと思う人が、多くいると、聞いています。その人たちが、気の毒と思い、また、世間をはばかり、慎んでいるうちに、このように、日が過ぎてしまいました」と、まめまめしく、話されて「さあ、お出でください。今夜だけは、人の知らない所があります。心おきなく、語り合いましょう」と、車を、さし寄せられて、無理に乗せますので、女は、夢中で、乗り込みました。

人に、聞きつけられたらと、恐る恐る行きますと、夜も更けていましたので、気づく人も、いませんでした。
宮様は、車を、人陰もない道に寄せて、降りました。月影も、いたく明るく照っていましたので「お降りください」という宮様に、従って、はにかみながら、降りました。「どうです。誰もいないでしょう。これからは、このように、語り合いましょう。あなたの家では、誰か来合わせているのではないかと、思いますと、気が引ける思いがします」などと、しみじみと、お話いたします。
夜が明けますので、車を寄せて、女を乗せ、「お家まで、お送りしたいのですが、明るくなってしまうでしょうから、他所へ行っていたと、人に思われるのも、心なく思います」と、仰せられて、留まられました。
女は、帰る道すがら、「おかしな、夜歩きでした。他の人が見たら、何と言うでしょう」と思うのでした。
明け方の、宮様の姿が、ことのほか、美しく思い出されて

よいごとに かえしはすとも いかでなほ あかつきおきを きみにせさせじ

夜のうちに、お帰えしすることは、ございましても、なんとか、暁に、お越しすることは、したくありません。

心苦しく思いました、と、書き送りました。


あさつゆの おくるおもひに くらぶれば ただにかへらむ よいはまされり
朝露の、置く頃に、お別れする辛さに、比べれば、お会い出来ずに、帰らなければならない辛さの方が、もっと、辛いことです。

スリル満点の、逢引である。
すでに、二人のことが、人の噂になり始めているということである。

女は、われにもあらで乗りぬ、と、ある。
つまり、夢中で、乗った。我を忘れて、乗ったのである。

さらに、あさましきようにて降りぬ、とある。
はにかみながら、恥ずかしく思いつつ、降りたのである。

このようにして、誘う、男は、今までに、いなかったのである。
家には、通って来るが、家以外の他の場所に、連れて行くという、行動である。女は、それに、燃えたのである。
物語あはれにしたまひて、明けぬれば、と、中抜きしてある。

物語を、あはれにした、という。
恋の語りをするのである。それを、物語あはれにしたまいて、と、言う。そして、夜が明ける。

共寝をしつつ、話し合いを続ける。
交わりつつ、睦言である。

性交の様より、物語として、交わりを説くのである。
この、物語あはれに、という、表現に注目である。
物語を、あはれにするということは、どういうことか。

つまり、しっとりと、静かに、言葉を掛け合わすように、語り合うということである。
共寝の睦言が、もののあわれ、というものを、言うのである。
恋の行為である、交わりに、もののあわれ、というものを、観るのである。

もののあわれ、というものの、基本には、恋寝の、様がある。
そのように、しっとりと、あたかも、の如くに、振舞う姿に、もののあわれ、というものを、観ているのである。

それは、慈愛の様になり、心づくしの様になり、様々な、変化を起こすが、その心は、恋の物語にある。

物語の発祥も、ここに尽きる。
日本の物語の発生は、恋の心からなのである。
恋ゆえに、物語というものがある。物語が、恋なのではない。恋が、物語を作るのである。

まさに、それが、この世の現実というものである。

それを、和泉式部が、体験として、書き残したのである。
勿論、和泉式部の作ではないとしても、このように、書かれたということに、意義がある。

源氏物語の、伏線であるという、私の説である。
和泉式部は、紫式部を、触発したのである。
恋こそ、物語たるものであると、創作を促したと言える。

2008年03月03日

もののあわれについて171

さらにかかることは聞かじ。夜さりは方ふたがりたり。御むかへに参らむ」とあり。あな見苦し、つねにはと思へども、れいの車にておはしたり。さし寄せて、「早や、早や」とあれば、さも見苦しきわぎかなと思ふ思ふ、いざり出でて乗りぬれば、昨夜の所にて物語したまふ。上は、院の御方にわたらせたまふとおぼす。
明けぬれば、「鳥の音つらき」とのたまはせて、やをら奉りておはしぬ。道すがら、宮「かやうならむ折は、かならず」とのたまはすれば、女「つねはいかでか」と聞こゆ。おはしまして、帰らせたまひぬ。しばしありて御文あり。宮「今朝は鳥の音におどろかされて、にくかりつれば殺しつ」とのたまはせて、鳥の羽に御文をつけて、


殺しても なほあかぬかな にはとりの 折ふし知らぬ 今朝の一声

御返し


いかにとは われこそ思へ 朝な朝な 鳴き聞かせつる 鳥のつらさは

と思ひたまふるも、にくからぬにや」とあり。

さらに、あなたの言葉を聞くことが、出来ません。
今夜は、あなたの家が、塞がり、泊まれません。外への、お迎えに参りましょう」と宮様から、お返事がありました。ああ、なんという見苦しいことでしょう。
毎夜は、とてもと、思いましたが、昨夜のように、車で、お出でになりました。車を、さし寄せて、「早く、早く」と、仰せになります。なんと、見苦しいことかと、思いましたが、そろそろと、出て車に乗りますと、昨夜の場所に行って、物語なさいました。
宮の北の方は、宮は、父院の、御宅に行かれたものとの、思いでありました。
夜が明けてきますと、宮は、「鳥の音のつらさ」と言って、静かに車に乗り、送られました。
道すがら、宮様は、「このような時には、必ず来てください」と、仰せになります。「そうそう、始終は、かないません」と、申し上げました。
家まで、来られて、お帰りになりました。
しばらくしますと、御文が、届きました。「今朝は、鳥の音に驚かされて、憎くなり、それを、殺しました」とあり鶏の羽に、その文をつけて、和歌が、添えられてありました。


ころしても なほあかぬかな にはとりの おりふししらぬ けさのいっせい
殺して、飽き足りない思いです。逢っている二人の気持ちも解らず、鳴くときを、知らぬ、鶏の今朝の一声の、つれなさ。

お返事は


いかにとは われこそ思へ 朝な朝な 鳴き聞かせつる 鳥のつらさは
どのように、切ないものであるかは、私の方こそ、知っています。
毎朝、毎朝、宮様が、お出にならぬ夜を明かしたとき、鳴く鳥のつれなさは、と、思いますにつけて、鳥の憎くないことが、ありましょうか。と、ありました。

ここで、面白いのは、さも見苦しきわざかなと思ふ思ふ、という。
そして、いざり出でて乗りぬれば、とある。

こんな、ところで、和泉式部の本性が、現れる。
男好きなのか。
通常言われるような、男好きの女ではない。

更に、あな見苦し、つねにはと、と、言うのである。
毎夜、毎夜は、と、戸惑うのである。

毎夜、毎夜、交わることはと、戸惑う。

そして、交わりを、物語、という。

男と、女が交わることを、物語というのである。物語するとは、情交するということである。

例えば、今時の、若者が、今夜、物語しようと、誘うと、想像してみる。
誘い文句には、使いやすい。

和泉式部の欲望というものを、考える。
通常、欲望といえば、動物的な、欲情の欲望を言うのであるが、彼女の欲望は、知性に、支えられたものである。
欲望が、知性に支えられると、そこに、あわれ、というものが、観えるのである。

人間の欲望が、あわれ、の正体であると、観るのである。
更に、それを、支えるものは、儚さである。

その逆も、ある。
儚さを観て、あわれ、というものを、観る場合もある。

ただ、ここで言う、儚さというのが、無常観というものではないということである。
単なる、無常観では、いい得ないもの。
それは、万葉から、続く、情感である。

万葉から、続く、情感とは、命の輝き、命の賛歌とでも、言う。
それは、一瞬のもの、儚きもの、あわれ、であるもの。
それを、当時、仏教の無常観というものに、置き換えた、そうして、考えた。

無常観とは、感覚である。
仏教の無常観というものが、日本にては、更に、生成発展したのである。

故に、無常観が、無常哀感になったり、無常美観になったりする。

日本にて、無常観に、表情が、現れたといえる。

当初の、仏教の無常観というものは、単純明快なものであったはずだ。しかし、この国に到達して、それが、見事に、開花した。

色々な、無常感覚が、生まれたのである。

簡単に言えば、マイナス思考の無常観もあり、ブラス思考の無常観もあるということだ。

ちなみに、仏陀の言うところの、人生の無常とは、そのまま、常無いという意味であり、それ以上のものではない。
この世は、常が無いのである。だから、捕らわれるものは無い。いつも、心を自由に、静かに、落ち着いて、欲望に、支配されず、自分を、自分で、律して、生きることなのだという、生活指導が、仏陀の方法である。

その教えが、漢訳されて、日本にもたらされ、漢字の意味から、それを、探るようになり、また、日本の風土と、合い間って、独特の無常観という、価値観を見出した。

その、価値観が、平安期を支配したが、果たして、それが、真実だとは、誰も、知らない。ムードである。ムードが支配した。

無常観を、大和言葉にすると、つねなきをみる、ということになる。

上記にも、あな見苦し、つねにはと思へども、とある。

つね、とは、いつも、という意味である。
その、いつもというものが無いことを、無常と言う。

人生は、いつも、同じではありません、と、仏陀は言うだけである。
それを、ここまでに高めた日本人の感性の、豊かさといったら、ない。

つねなきをみる、そして、はかなきをみる、そして、あわれ、というもの、みるのである。

神仏は妄想である。39

コンピューターは言われたことをする。自分のプログラム言語で書かれた指令であれば、どんなものであれ奴隷のように従う。それこそコンピューターがワープロや表計算といった有益な仕事をするやり方である。しかし、逃れられない副産物として、コンピューターはまちがった指示に対しても同じように自動的にはたらいてしまう。ある指令が善い効果をもたらすか悪い効果をもたらすかを区別する術をもっていないからだ。
第5章 宗教の起源 より

上記の、解りやすい例により、ドーキンスは、副産物としての、宗教の解明を、進める。

善い悪いを、区別する術を持たない、コンピューターの宿命は、そのまま、人間心理の、ある部分を引き出すのである。

疑うことのない服従、という言い方を、ドーキンスは、するが、それは、そのまま、宗教信者に、言えることである。

一度、信じるという、プログラムが決定されると、勝手に、その深みに陥り、また、それを善しとして、信仰を続ける。
果ては、何にも動じないという、何と、不動の信仰というものを、打ち立てる。それを、また、本当の信仰と、思い込むという。

御心のままに、と、クリスチャンは、平然という。
そこには、深い信仰というものが、あるように、見えるが、実は、人生放棄の様も、見えるのである。
確かに、御心のままに、と言う姿勢に、何かしら、威厳めいたものを感じる場合もあるが、それは、勝手な、妄想である。

神との対話が、勝手な、一人相撲になっているという、真実である。

ただ、念仏する以外に、方法がないのである。と、聞けば、深い信仰の様に、見えるが、単に、人生放棄の様子になる、場合、多々あり。
開祖となる人が言えば、絵になるが、単なる信徒が、言えば、アホである。

人間は、そんな、単純なものではない。
その証拠に、それを言う親鸞は、考え過ぎて、思索の淵に沈みこんだ。
今も、思索の淵に、沈んでいるのかもしれない。

長年の、教義、教学というものを、学び続けて、プログラムされてゆくと、もう、元に戻ることが、出来なくなる。
思考方法が、一定で、そこから、複雑多岐に渡る、思考が、出来なくなる。

物思う言葉も、すべて、教義用語からなるという、絶望である。
つまり、人間の最も、素晴らしい、創造性という、エネルギーさえも、乗っ取られてしまうのである。

宗教を、文学という、芸術に、高めた人は、多い。それは、文学として、評価出来る。
例えば、岡本かの子という、作家の、仏教についての、書き物は、大変素晴らしい。
後に、それらを、検証するが、名文が、多い。

それらは、仏教というものに対して、創造性を持って、書くからである。
私の解釈というものを、創作するのである。
創作とは、創造であり、芸術活動である。
それならば、評価に値する。

しかし、多く信徒といわれる者は、皆々、プログラムされて、喜ぶのである。
それは、飼い馴らされるというである。
猿回しのようになることを、喜ぶから、宗教指導者は、たまらない。勝手に、喜び、金を運んでくる。
ゆえに、こんな商売は、止められません、となる。

もしこの頭の柔軟体操が功を奏したら、あなたはもう、子供と宗教に関する私の議論の行き着く先がおわかりだろう。自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向をもつ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。―――

心のウイルスとは、言いえて妙である。

読経の最初に、逢い難くして逢う経典は、幾千万億年も逢いがたくという、とてつもない、長い年月を言うが、中国で、訳されたことを思えば納得する。
実に、大げさである。
少し、白髪が伸びても、三千丈も伸びたというのであるから。

縁が無ければ、逢うことなくと、妙なことを言うのである。
それに、騙される。

若い頃、法華経を上げますと、日蓮宗系の、様々な宗派の人に言うと、あなたは、素晴らしい縁により、妙法蓮華経に逢ったのだと、言われた。
また、念仏宗系の宗教の人に、阿弥陀経をあげていますと、言えば、同じ事を言われる。

兎も角、一通りの、様々な宗教経典、それは、新興宗教も含むが、読みまくったのであるから、何とでも、言えた。
多くの相談者の中にも、宗教入信の相談があり、それにより、多くの知識を得た。

若い女性が、相談に来て、旦那が、私と子供を置いて、ある宗教の本部に行くとの、相談があり、当時、出来たばかりの、新しい教団であり、私も、迷いつつ、止めるのは、無理でしょうね、と答えた記憶がある。
宗教免疫の無い人が、続々と、入信する様を見た。
耳障りの良い言葉を、並び立てた、著書は、知能レベルの低い人には、実に、心地よいものだったのだ。

仏教、キリスト教の、焼き直したものであり、何も、目新しくないが、知らない者、没頭して、騙された。

教祖の霊能力により、急成長した、教団もあった。
最初は、仏陀の生まれ変わりであるという、教祖は、仏陀を書いた。
私は、仏陀は、生まれ変わらないから、仏になったと言われると、思ったが、兎に角、その人の著書を読んでいた。
そのうちに、仏陀というのは、誤りで、ゼウスの生まれ変わりであると、なった。
気づいたのであろう。
仏陀が、生まれ変わっては、おかしいと。
しかし、その後、魂の六人の兄弟という説を出して、それらが、順番に、この世に出て、修行する等々の、議論である。

どこの、レベルの霊界の情報であるかが、次第に知れてきた。

ゼウスの、生まれ変わりとは、これ如何にである。
ギリシャの神であり、人間もどきである。神もどきである。
何とも、はや・・・

その娘が、大天使ミカエルとなった。
カトリックが、認証した、大天使である。
天軍の総帥ということになっている。

信者には、続々と、西洋の偉人の生まれ変わりが出た。
不思議なことに、日本人がいない。
教祖は、古代語にて、呪文のようなものを、唱えて、前世を引き出すという、芸当をした。

あまりにも、やり過ぎたのであろう。予言通りに、教祖は、夭逝した。
案の定、その後、弟子たちが、分派して、小さな団体が多く出来た。

霊界の、ある世界が、関わると、簡単に出来ることであるが、人は知らない。故に、没頭した。

ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。―――彼らにとっては、どちらの忠告も同じように信用できそうに聞こえる。両方とも尊敬すべき情報源からのもので、その指示を尊重し、服従することを要求するような厳粛な真剣さをもって発せられるからだ。同じことが、世界に関する、宇宙に関する、道徳に関する、そして人間の本性に関する命題についても言える。そして、その子供が成長して自分の子供をもったとき、当然のごとくその一切合切―――ナンセンスなものも意味のあるものも同じようにーーーを、同じように感染力のある厳粛なやり方で自分の子供に伝える可能性は非常に高い。

簡単に言う。
信者になるということは、兵隊になるということで、兵隊になるということは、命令に絶対服従するということである。
それが、良い命令、悪い命令に関わらず。

死ぬと、解っても、命令が出ると、自爆テロを起こすのである。
特攻するのである。

2008年03月04日

神仏は妄想である。40

宗教が何かの心理学的な副産物であるという考え方は、進化心理学という、目下発展中の重要な分野から自然に生まれてくる。進化心理学者たちは、眼がものを見るために、そして翼が空を飛ぶために進化した器官であるのとまさに同じように、脳は、一連の専門的なデーター処理の必要性に対処するための器官(モジュールと言ってよい)の集合ではないかと言っている。血縁関係を扱うモジュール、互恵的なやりとりを扱うモジュール、共感を扱うモジュール、等々が存在するわけだ。宗教はこうしたモジュールのいくつかが、たとえば、他人の心についての理論形成のためのモジュール、同盟を形成するためのモジュール、集団内メンバーを優遇しよそ者には敵対的に振舞うためのモジュールが誤作動したことの副産物とみなすことができる。
宗教の起源 より

さらに、物理学にても、ついに、次元の差があることを、突き止めようとしている。
ワープする宇宙という、本を書いた学者がいる。
東大にても、講演をしたというから、本格的である。

宗教が、負っていた、次元の違い、つまり、霊界の存在さえも、科学の手になる、時代に突入したといえる。
勿論、それにより、ついに、科学でも、証明される、霊界と、更に、宗教活動の、布教を旺盛にする、心霊宗教団体も、現れるだろうが、基本的に、それらと、違う。それらは、妄想の霊界のことを言うのであり、物理学の次元違いの、霊界のことではないのだ。

だが、ドーキンスは、少し違う。
続けてみると、

こうしたモジュールのいずれも、ガの天空航法に相当する役割を果たしうるもので、私が子供の騙されやすさについて説明した例と同じような形での誤作動を起こしやすい。こちらも「宗教は副産物」であるという見解の持ち主である心理学者のポール・プルーニは、子供にはもって生まれた心の二元論に向かう性向があると指摘している。彼にとって宗教とは、本能的な二元論の副産物である。私たち人類、ことに子供は、生まれながらの二元論者ではないだろうかと彼は言う。

二元論者は、物質と、精神の間に、区別をつける。
一元論者は、精神は物質、脳の中の物質の一つの表れで、物質と別に存在することは、ありえないと、考える。

それは、つまり、宗教は、二元論の、最たるものであるということだ。
簡単に言えば、肉体と、精神、あるいは、心、魂、霊、は、別物という、考え方である。
肉体に、魂が宿り、死後、肉体から抜けて、魂は、霊界に入る、という、考え方は、まさにそうである。

しかし、心霊と、宗教の違いは、教義によって、それが在る、無いということになる。
ドーキンスは、物質を離れて、精神、心というものは、在り得ないという。
それは、脳内物質であるというのだ。

二元論者は、ほんのわずかな機会でもとらえて、生命をもたない物理的な対象を人格化し、滝や雲にさえ、精霊や悪魔を見る。
ドーキンスは言う。

それは、つまり、子供の思考形態であるということだ。

日本の伝統、万葉集は、その、二元論の考え方で、溢れている。
だが、それは、宗教ではなく、文化であり、精神の芽生えの時期である。

生まれ変わりという、考え方も、つまりは、入れ替わりという、考え方である。
霊が、移り行くのである。
転生輪廻という、考え方にある。

ドーキンスの論述は、私の霊学にも、大きな影響を与えた。
つまり、転生するということの、説明は、実に難しいものである。
前世というものは、単純なものではないのだが、Aという、魂が、Bに、生まれ変わったと、簡単に言う。そんなものではない。
私の全人格が、すべて、生まれ変わるということは、在り得ないのだ。

だが、通俗的な、前世云々を言う者、そのように、単純に言うのである。

さらに、ドーキンスの分析は続き、
子供は生まれつきの目的論者であり、多くの人間は成長しても、そこから完全に抜け出ることはできない。
と、言う。

人間は、つまり、宗教的な観念を受け入れるための、生まれながらの、素地を持つということができる。
二元論、目的論とは、まさに、宗教の特徴である。

意味の無いものに、意味を。
その、想像力は、激しく、妄想的である。
そして、あらゆる事柄を、それに、神や仏に、結びつけて、考えることが、できるのである。完全に、やられて、しまう。

毎日新聞、2月19日の朝刊にて、アフガニスタンの国境地帯出身の、パキスタン有力者が、自爆テロの実行犯に、仕立て上げる秘密訓練所の、様子を話している。
アフガニスタン国境には、複数の秘密施設があり、現在、約400名の、若者が、訓練を受けているという。

武装組織は、貧しいが、信仰心の篤い家庭で、育った15から20歳までの、子供たちに、狙いを絞り、実行犯を、リクルートしているという。
司令官は、20歳以上だと、知識がついて、洗脳しにくい。また、生活に余裕があれば、信仰心も、揺らぐという。

その教えは、自爆の後は、永遠の命が、神から与えられ、食料にも困らない天国に行ける、と教える。

少年たちは、一ヶ月も、たたないうちに、自爆を志願するという。
指名されないと、泣き叫ぶ子供もいるという。

純真な、少年たちが、テロリストたちに、悪用されている。

しかし、これが、宗教の、最終の恐ろしさなのである。
このように、簡単に、自爆を志願するように、洗脳されるということである。

二元論とか、目的論と、言っているうちは、良いが、このように、テロ行為を、簡単に出来る人間に、仕立てられるということは、実に、恐ろしく、許しがたい。

命を懸けて、神や、仏を伝えるという、行動は、純真、純粋に見えるが、それが、洗脳だとしたら・・・

地下鉄サリン事件を、笑えるものではない、ということだ。
宗教の、本質を表して、しまったのである。
あれが、宗教の本体である。

どう、言い逃れしても、同じ、種から、出ているのである。

キリスト教の中には、私たちの教会は、カルト宗教ではありません、という、パンプレットを、配布するものがあるが、根は同じである。

宗教は、どんなに大きくなっても、カルトである。

危険な妄想に、毎日、浸り続けているのである。

宗教が平和と、イメージされるのは、策略である。
最も、平和に、遠いのが、宗教というものの、本質である。

2008年03月05日

どこまでも国民を愚弄する、非国民。

国民を愚弄する、非国民の様は、数知れない。

また、厚生年金事業振興財団が、天下り情報を隠蔽していた。

公務員制度改革大網で、定められた、天下り役員の最終官職や役員報酬が、独自の判断で、公開しないという、行為である。

元社会保険庁長官などを、学識経験者と記載するなど、手が込んでいる。
詐欺のようである。

それが、理事長であるというから、呆れる。
理事長の年間報酬は、手当てを除く、本棒だけで、約1300万円。常務理事は、約1100万円である。

国が、所管する公益法人の、有給常勤役員の平均年間報酬は、400万から800万円である。

驚きは、06年の、決算は、約22億円の赤字である。

公益法人の、指導監督基準では、常勤理事の報酬は、収支状況と比べて、不当に高額にしないように、定めてある。

それなのに、平然として、高額の報酬を得て、なお、天下りの様を、隠蔽するという。

どこまでも、国民を、愚弄するのか、計り知れないのである。

勿論、何の仕事も無いのである。
名誉職のようなものであり、実質的に、のうのうとして、過ごしているのである。
この財団は、厚生年金会館や、ウェルサンピア、病院を経営している。
理事長や、常務理事などの、天下りの連中は、何も、していないのである。

単なる、給料ドロボーである。
まして、赤字経営である。

新聞に名前が載っている。
子々孫々にまで、恥ずかしい思いをさせても、平気でいるという、厚顔無恥である。

いつから、日本人が、中国人のようになったのか、知らない。
この年齢の者どもは、団塊の世代であろう。

最も、日本人としての、伝統を身につけなかった者どもである。

自分が、生んだ子供でさえも、どうでもいいと、思う連中であるから、何も言うことは無いが、公金横領は、許せない。
一般国民の、1000万人以上が、年収200万円程度であるという、状況の中での、非国民の行為に、本当に、怒り心頭である。

まさか、アホな宗教家が、彼らは、前世の行いが良かったから、今は、幸せに、公金横領していいのですとは、言わないだろうと思うが、同じ穴の狢であるから、言う可能性はある。

こういう者どもは、死んでも、このようであり、死んでも、治らない病を、持つのである。

余程、家系の因縁が、悪人のものなのであろう。

そういえば、ロス疑惑といわれた、事件の何とかさんという者が、日本では、無罪とされたが、ロサンゼルス警察に、身柄を拘束された。
23年を経ても、まだ、疑惑が、残るということなのだろう。

冤罪の逆も、有り得るということだ。

真実は、本人が一番知っているが、嘘をついている場合は、第三者が、それを、立証しなければならない。

もし、万が一、有罪判決を受けたら、どうするのだろう。
嘘が、あばかれたら、どうするのだろう。
それでも、無罪を主張するのだろうか。
その権利は、ある。

要するに、この世は、嘘も、真実も、隠し通せる所なのである。

言わず語らずという、日本人の美徳が、すべて、裏目に出ているようである。
誰も言わない。皆、同じ事をしている。故に、公務員は、非国民でいられる。
利己的な遺伝子を、そのまま、表に出しているのであろう。

もののあわれについて172

二三日ばかりありて、月のいみじう明るき夜、端にいて見るほどに、「いかにぞ。月はたまふや」とて


わがごとく 思ひはいづや 山の端の 月にかけつつ なげく心を

怜りもをかしきうちに、宮にて月の明かりしに、人や見けむと思ひ出てせらるるほどなりければ、御返し


一夜見し 月ぞと思へば ながむれど 心もゆかず 目は空にして

と聞こえて、なほひとりながめいたるほどに、はかなくて明けぬ。またの夜おはしましたりけるも、こなたには聞かず、人々方々に住む所なりければ、そなたに来たりける人の車を、「車はべり。人の来たりけるにこそ」とおぼしめす。むつかしけれど、さすがに絶えてはてむとはおぼさざりければ、御文つかはす。宮「昨夜は参り来たりとは、聞きたまひけむや。それもえ知りたまはざりしにやと思ふにこそ、いといみじけれ」とて、


松山に 波高しとは 見てしかど 今日のながめは ただならからむ

とあり、雨降るほどなり。「あやしかりけることかな。人のそらごと聞こえたりけるにや」と思ひて、


君をこそ 末の松とは 聞きわたれ ひとしなみには たれか越ゆべき

と聞こえつ、宮は、一夜のことをなま心憂くおぼされて、久しくのたまはせで、かくぞ、


つらしとも また恋しとも さまざまに 思ふことこそ ひまなかりけれ

御返は聞こゆべきことなきにはあらねど、わざとおぼしめさむもはづかしうて、


あふことは とまれかうまれ 嘆かじを うらみ絶えせぬ 仲となりせば

とぞ聞こえさする。

二、三日ばかり経ち、月の明るい夜でした。
女が、縁先にいて、月を眺めていますと、宮様から、「どうして、お過ごしですか。月を御覧になっていられますか」と御文がありました。

わがごとく おもひはでづや やまのはの つきにかけつつ なげくこころを

私と、同じように、山の端に沈む月を見て、かつての夜のことを思い出しているのでしょうか。私は、あなたに、逢えないことを、嘆いています。

いつもの御文より、心曳かれるものでした。
かって、宮の邸で、月が明る過ぎるほど照っていた、あの夜、人が、どこかで、見ていなかったかと、思い出されていましたところでしたので、お返ししました。


いちやみし つきぞとおもへば ながむれど こころもゆかず めはくうにして

あの夜に、見た月と同じ月だと思いますと、宮様が思い出されて、眺め尽くします。でも、私の心は、空ろですから、目も空です。宮様が、お出でになりませんから。

と申し上げて、なおも一人で、眺めていますうちに、夜が、はかなく、明けてしまいました。
次の夜に、宮様が、お出でになりましたが、女の方は、知りませんでした。
女の家には、人々が、それぞれの部屋に住んでいましたから、そちらの方へ来た車を、宮が「車があるけれど、誰か男が来ている」と思し召したのです。
不本意でしだか、女との縁を切ることは、出来ませんから、女に御文をつかわされました。
宮は「昨夜は、参りましたが、お訪ねしたことを、聞きましたか。それさえも、知らないと、思いますと、いたく悲しいものです」と、お書きになられ、


まつやまに なみたかしとは みてしかど きょうのながめは ただならぬかな

あなたの波高い、盛んな浮気は、知っていましたが、今日の長雨と、同じように、昨夜見てしまったことは、ただならぬことなのです。

と、添えられてありました。
それは、雨が降っている時でした。
不思議なことです。宮様に、誰か、ありもしないことを、申し上げたのでしょうか。と、思い、


きみをこそ すえのまつとは ききわたれ ひとしなみには たれかこゆべき

宮様こそ、浮気な方だと、聞いております。宮様と、同じように、誰が心変わりなど、できましょうか。

と、申し上げました。
宮様は、先夜のことを、何となく心憂く思われて、久しい間、お便りもありません。
そのあとで、このような、歌を読まれました。


つらしとも またこいしとも さまざまに おもふことこそ ひまなかりけり

あなたのことを、恨みがましく思い、また、恋しく思い、心の休まることがありません。

お返事を、申し上げたいということは、ないではありませんが、宮様が、あまりに、言い訳なさるのも、気が引けて、


あふことは とまれかうまれ なげかじと うらみたえせぬ なかとなりせば

お逢いすることが、どのようになりましょうとも、嘆きはしません。
二人の間が、恨みの絶えない仲になりましたら、悲しいことです。
と、仰せになりました。


恋に、障害は、付き物で、障害の無い恋は、空虚である。
障害が、多々あれば、それだけ、恋の強さが、試され、さらに、恋は、刺激され、燃え上がる。
恋の持続のためには、障害は、必要不可欠である。

そして、恋に伴う、想像は、果てしない。
相手を、疑いはじめると、すべてを、疑う。そして、それが、また、恋心を、燃やす。

人の立てる噂も、恋人の、糧になる。
一喜一憂という、感情の綾。恋の快感である。

この、日記の特徴は、和歌である。
実に、多くの歌の、やり取りがある。それは、当時の風習のようにあったが、この日記は、甚だしく、歌が多い。

一つの、歌集のための、恋のようである。
単なる、恋愛日記ではないということだ。
つまり、恋心に、言葉の世界、歌の世界が、介入して、更に、恋というものの、姿を見せるのである。

恋は、無益ではない。
勿論、無益な恋が、悪いことは無い。
恋こそ、人間の最後の無益な行為である。
この、無益な行為に、生きることは、更に、人間らしいと、言える。

和泉式部は、出家を考えるほど、仏教にも、帰依するのだが、結局、恋に生き抜くことになる。
そして、多くの歌を詠んだ。
無益な恋の成果が、歌である。

恋の成就は、結婚ではない。
当時は、そのような意識は、希薄である。

恋は、恋である。
それは、江戸時代まで、続く。
江戸の遊郭文化は、恋の文化である。結婚は、別物だった。そこには、明確な区分けがあった。

恋は、恋で終わる。
それは、儚いものであり、更に、熟して、もののあわれ、というものを、朧に浮かび上がらせるのである。

2008年03月06日

もののあわれについて173

かくて、お間遠なり。月の明き夜、うち臥して、「うらやましくも」などながめらるれば、客に聞こえゆ。


月を見て 荒れたる宿に ながむとは 見に来ぬまでも たれに告げよと

樋洗童して、「右近の尉にさし取らせて来」とてやる。御前に人々して、御物語しておはしますほどなりけり。人まかでなどして、右近の尉さし出でたれば、宮「例の車に装束せさせよ」とて、おはします。

こうして、宮様との、間は、遠のいていました。
月の明るい夜、女は、横たわり、「うらやましくも」などと、物思いしながら、見ていましたので、宮様に、お歌を差し上げました。

つきをみて あれたるやどに ながむとは みにこぬまでも たれにつげよと

月を見て、この荒れた宿で、切ない思いをしておりますこと、宮様以外の誰に、告げたらいいのでしょう。どうせ、おでましに、ならいでしょうが。

便器の掃除などをする、童に、右近の尉に、渡しておいでと、お使いを出されました。
宮様は、御前に、人々をお召しになって、語らっているときでした。人々が、退出してから、右近の尉が、御文を差し出しますと、「いつもの車の仕度をさせなさい」と仰せになり、お出かけになりました。

「うらやましくも」と、女が思う。
この、うらやましくも、とは、月の澄んだ様を言うのである。
うらは、裏に通じる。つまり、心のことである。
うら悲し、といえば、心が、悲しいことをいう。
やましく、とは、疾しい、そして、病むのである。
心が、病む。
それは、月の光を見て、その澄み渡る様に、心を病むのである。
つまり、それは、月の孤高とした様と、わが身との、差である。
一つ、忽然として、光り輝くもの、月という存在に、投げかける、心の悲しみ。

暫く、遠のいている、宮との、関係を、憂いでいる。
それは、恋である。

女は、恋の病に、侵されているのである。
恋は、病に至る道である。

更に、恋により、うらやましくも、が、癒されもする。
この、恋というものは、何であるのか。
何ゆえに、人は、恋に陥るのか。

恋が性と、直結していた、万葉の時代から、微妙複雑になる、過程の時代である。
色好みという、考え方をもった時代は、つい、前のことである。
それは、男の、それを、言った。しかし、今、女は、色好みに、向かっている。

和泉式部は、平安期の、女歌人の、最もな存在と言われる。
色好みの女の、歌が、平安期の、歌の、頂点をゆくのである。

歌詠みの、感性は、恋の色好みと、通じるものがある。
万葉を継ぐ者、が、和泉式部であった、といえる。

もし、色好みという、恋のみに、身を投げ出していたら、果たして、歌という、言葉の精神に高めることが、できたであろうか。
そこには、歌を詠むという、現代の言い方をすれば、醒めた目が、あったはずである。
恋にのみ、没頭すれば、歌など、詠むことは無い。
恋に、帰結すれば、いいのだ。
しかし、歌を詠み続けた。

また、歌を詠まないわけには、いかなかったと、いえる。
ここに、和泉式部の、存在する、理由がある。

後に、和泉式部は、宮様を亡くし、失ってからも、歌を詠み続ける。
それが、証拠である。
挽歌である。そして、相聞歌である。

私は、日記の後は、和泉式部の歌を読むことにしたいと、思っている。

源氏物語は、多くの学者、研究家、作家等々が、言う、単なる、情感という、もののあわれ、ではない。
勿論、それも、ある。しかし、もののあわれ、というものは、情感のみでは、いい表すことが、出来ない、日本の伝統としての、心象風景である。

それを、観念として、捉えることは、出来ない。
日本人の、心を作り上げてきたものである。
恋愛論、人生論というような、観念ではない。

他に類を見ない、心象風景である。
観念として、言葉にすることの出来ないもの、それが、もののあわれ、である。

在って、あるがままに、という、在るべき、様なのである。

日本の文学は、今でも、それを、書き続けていると、私は、思っている。

果てしないもの、もののあわれ、というものを、である。

もののあわれ、とは、人間の存在の、そのままである。
よって、すべてを、表せるものではない。

これが、理想の、云々であるというような、思想、哲学などにない、もの、それが、もののあわれ、というものである。

書き続けられるもの、それが、もののあわれ、である。

西行が、伊勢神宮を参った時に

なにごとの おわしますをば しらねども かたじむなさに なみだこぼるる

と、歌うもの、それである。

何事、つまり、物の本質というものは、解らない。しかし、何かがあると観る、感性により、もののあわれ、というものの、姿を観るのである。


君が代を、教えてください。

往復はがきが、届いた。
札幌の知り合いの、女性である。

驚いた。
国歌、君が代の、歌詞を教えて欲しいというものだった。

小学生の息子が、国歌を教えて欲しいと言う。しかし、私も、一度も、歌ったことがないというのだ。
学校では、教えないともいう。

一度、札幌講演の時にも、一人の女性から、君が代の、意味を教えてくださいと言われたことがある。それも、子供が、教えて欲しいということからだ。

一体、この国は、どうしてしまったのか。

園遊会の時に、将棋の米永さんが、陛下に、君が代を歌うように、運動していますと言うと、陛下は、強制にならないようにと、お答えになった。

強制も、何も、礼儀であろう。

日教組、北海道は、北教組であるが、彼らの奉じる、社会、共産主義の国の、国歌や、国旗の有り様を、見よと言う。

国に対する誇りというものを、教育しないで、国際化も何も無い。

相手国に、行けば、相手国の、国歌や、国旗掲揚がある。その時の、礼法を、知らないことになる。
それは、大変、失礼なことである。

何度も、言ったが、それは、礼儀作法である。

強迫神経症というしかない。
私も、別に、強制せよと、言うのではない。
国際人としての、当然の礼儀であるというのだ。

君が代が、恋歌だと言うと、嫌がる、研究家もいるが、古今集の、原文は、まさに、恋歌、または、長寿を祝う、願う歌である。

明治初頭に、取り合えず、国歌として、イギリスに紹介したのが、始まりであるが、この、歌詞は、通常、色々な形で、歌われていたものである。

現在の、曲は、薩摩琵琶から、取られている。

君が代の、君を、天皇に、解釈するという、過ちを犯したことは、事実である。
天皇は、大君と、御呼びする。
君とは、あなた、という意味である。

恋歌が、国歌だとは、何と、風情のある国かと、私は、思っている。

さて、この、君が代の、歌詞は、実に、大きな嘘が、ある。
それは、細石が、巌になるというのである。
全く、自然界では、考えられない出来事である。

巌が、砕けて、細石になることは、あるが、その逆は、在り得ない。

つまり、それほど、相手を、思うということである。
思いの強さが、在り得ないことを、在りえるようにするという、意思である。

国歌、国旗、恐怖症という言葉が、いつかの、新聞に載り、それを、強制される、先生が、神経症になるというものである。

たかが、国旗であり、国歌である。
戦争時の、おぞましい記憶となるという、のである。

心理的に、そういうことは、ある。それは、認める。
だが、それを、体験しない人に多いというのは、それは、洗脳によるものである。

要するに、絶対主義の思想による。
戦中の、軍国主義と、変わらないのである。

実に、おかしな、話である。

日本では、個人の自由意志に、任せられるという、言葉は、通用するが、イスラム圏などては、殺されると、教えた方が、身のためである。
勿論、死ぬまで、イスラム圏などに、出掛けないというなら、何も言うことは無い。

しかし、アジア、アメリカ、アフリカ等々、どこの国にも、国旗や、国歌はある。
そのための、礼儀作法だけは、教えておいた方が、身のためである。

どこにでも、原理主義という、危険な人は、いるのである。

個人の自由など、全く通用しない、国の方が、多いのである。

昔、師事した、英語の先生に言われた。
英語の丁寧な言い方、つまり、敬語を身につけるということは、身を守るためなんです、よ、と。

日本の考え方と、全く、別物だったことに、いたく驚いた、記憶だ。

2008年03月07日

神仏は妄想である。41

ドーキンスは、二元論、目的論から、思考姿勢、デザイン姿勢と、論述を展開し、宗教が副産物であることを、裏付ける。
様々な形で、宗教の副産物であることを、提唱する面々を上げて、こう言う。

デネットによって言及されているとりわけ興味深い可能性は、宗教の不合理性は、脳に作られたある特定の不合理な、おそらく遺伝上の利点をもっていると思われるメカニズム、つまり、私たちの恋に落ちるという傾向の副産物だというものである。
宗教の起源 より

そして、実に、説得力ある、展開が繰り広げられる。
ただ今、私は、別のエッセイで、もののあわれについて、という、ものを書いている。
そこでは、日本民族の、伝統である、もののあわれ、という、情感は、恋によるものからだと、話を展開させている。
恋に生き、恋に死ぬこと、そこから得られる、心の様を、もののあわれ、の原点であることを、書いている。

万葉集は、恋の歌、相聞歌が、八割を占める。
宗教というもの、ではなく、日本民族が、恋により、その心の有り様を、作り上げていったということを、書いて、もののあわれというものを、表したいと思っている。

恋とは、原始人間の心的、体験である。

さて、ドーキンスの、論述を見る。

人類学者のヘレン・フィッシャーは、「ヒトはなぜ恋に落ちるのか」で、恋愛感情が狂気であり、厳密に必要だと思えるものに比べてどれほど行き過ぎたものであるかを、みごとに表現している。―――私たちが受け入れやすい熱狂的な一夫一妻制的愛よりもむしろ、ある種の「複数恋愛」のほうが、一見したところ合理的である。二人以上の子供、親、兄弟姉妹、教師、友人、あるいはペットを愛することができるというのは、問題なく受け入れられる。そのように考えていくとき、私たちが配偶者間の愛に全面的な排他性を期待するのは、どう考えても奇妙ではないだろうか? しかしそれが私たちの期待するのであり、理想として目指すものである。それには理由があるにちがない。

第5章の、宗教の起源の佳境に、入ってゆく。

配偶者の愛に全面的な排他性を期待する、という、部分に、私は、宗教そのものを、感じる。
日本の宗教人口は、実に、人口以上の人口であり、おそらく、一人が、複数の宗教に、入会しているのであろうと、推察できる。
万葉集の恋の、民族性が、それに、表されているようだ。

ヘレン・フィッシャーほかの研究者は、恋に落ちることに、その状態に高度に特異的で特徴的な神経活性物質(実際には自然の麻薬)の存在を含めて、独特な脳の状態がともなうことを示した。進化心理学者たちは、この不合理な一目惚れが、共同親たるパートナーに対する忠誠心を、子供を育てられるだけの長期間にわたって持続させるための一つのメカニズムになりえるのではないかという彼女の意見に賛成している。

恋により、自然の麻薬が、脳内から出る。
そうであるから、恋に生き、恋に死ぬことが、できるというものである。
恋は、盲目である。
恋は、病であるとも、言われた。

蓼食う虫も好き好きとは、恋の理解不能を言う。
どうして、あのヒト、あんなヒトを好きになったの、である。
恋は、止められない。

不合理な宗教が、もともとは恋に落ちるために自然淘汰によって形作られた不合理なメカニズムの副産物だということはありえるだろうか? 確かに、宗教を信じることは恋に落ちるのと同じ性質のものをもっている(そして両方とも、麻薬でハイになったときの属性の多くをもっている)。神経精神科医のジョン・スミーンズは、この二つの熱狂によって活性化される脳の領域には有意の差があると警告している。にもかかわらず、彼はいくつかの類似点をあげている。

つまり、
宗教がもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなちわ神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な強化の過程によって衝き動かされている。正の強化の多くは宗教に由来する。すなわち、危険な世界にありながら自分は愛され、保護させているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったとき祈りに応えて、山からやってくる助けといったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝時代には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生物学的な随伴現象をもっている。
と、言う。

祈りによって、そのような、現象を引き起こすことは、実に、多い。
たまたま、恋ではなく、信仰という、状態において、恋と、同じような、現象を引き起こす。
恋が、できない状態、あるいは、恋に縁が無い場合も、信仰に、没頭すること、多々あり。

恋が低俗で、信仰が、高尚であるとは、言えないのである。

誤作動、あるいは、転移とでも言う。
恋の激情を、宗教に向けるということは、実に、有り得るのだ。

徹底した、思い込みが、脳内に、麻薬をもたらし、一人それに、酔う。
神との合一とか、仏との、一体とか、瞑想による、恍惚感というもの、脳内の自然麻薬の、お蔭である。

麻薬撲滅を運動しても、いかに、取り締まろうが、無くならないのは、使用する人がいるということだ。
自分で、脳内麻薬を作れない人は、錠剤の麻薬に頼る。

恋により、麻薬を作られない人が、信仰によって、麻薬を作る。すると、止められない。そして、熱心な信徒として、その信仰に命を、捧げることになる。
勿論、個人の自由である。

しかし、何故、トーキンスが、神は妄想である、を書くのか。
それは、宗教を、強制されるからである。
自由であるべきはずの、個人的、極めて個人的な、情緒を、強制されるからである。そして、裁かれるからである。

支配者が、宗教を掲げて、人の自由を奪うからである。
そして、私は、更に、それらが、最も、平和的ではないからである。と言う。

一人で、行っているのならば、問題は無い。
インドのヨガ行者が、どんな、苦行でも、勝手に行っているうちは、いいが、それを、人に強制すれぱ、迷惑である。
まして、それが、真実であり、それに、従えと言われれば、また、実に迷惑である。

布教、宣教等々の、宗教の、伝播は、ありがた迷惑なのである。
だが、騙される人は、宗教に勧誘されたことを、感謝するというから、如何ともし難い。

麻薬は買うが、宗教は、布施、献金、という、搾取を持って、堂々と、金を集める。更に悪いことは、信徒の金を使い、指導者が、その、野心のため、個人的な、快楽のために、使用するという、呆れた行状をするということ。
快楽とは、欲望の云々ではない。
さらに、人を集わせるために、信徒の金を利用して、宗教の巨大化を図るという、馬鹿馬鹿しいことをする。

信徒は、自分の金で、大きな伽藍を建てる宗教を、誇るという、呆れた様である。
出した金で作られた、お札を、また、金を出して買うのである。

すべて、脳内の麻薬のためである。

ここでガの光コンパス反応に相当するのが、一人の異性、たった一人の人間とだけ恋に落ちるという、この一見不合理だが有益な習性である。脳のメカニズムの誤作動の副産物――ガがロウソクの炎に飛び込むに相当するーーは、ヤハゥェ(あるいは聖母マリア、あるいはホスチア、あるいはアラーの神)との恋に落ち、そのような愛に動機づけられた不合理な行動をおこなうことである。

ホスチヤとは、ミサにより、パンが変容して、キリストの体になると、信じられる、パンのことである。

私は、個人的に行うことに何の抵抗もない。
個人的、行為であるから、没頭すれば良いのだ。
マスターベーションを禁止するような、馬鹿なことを言うのではない。

それを、他人に、伝播させる行為に、危険を感じるのである。また、多くの戦争の種となるのである。
それでなければ、ならないという、断定的行為を、である。
マスターベーションを、多くの人とするという、狂いに、私は、驚愕するのである。

神仏は妄想である。42

多神教から一神教への変化を、自明な進歩的改善としてあつかわなければならないという明確な理由はない。しかし広くそう認められている。この発展過程から、イブン・ワラック「(なぜ私はイスラム教でないか)の著者」はふざけて、一神教はやがて、もう一つの神を取り払って無神論になるべき運命にあるという推論をしてみせた。「カトリック百科事典」は、多神教と無神論を無頓着にいっしょくたにして退ける。「正式な狭義としての無神論は自己論駁的であり、事実問題として、多数の人間から理に適ったものとして賛同を得ることはけっしてなかった。多神教もまた、大衆の想像力をどれほどたやすくつかもうとも、哲学者の精神を満足させることはできない」
第2章 神がいるという仮説 より

多神教は、多くの差別を受けてきた。そして、現代に至るまで、差別を受けている。
それは、数として、一神教が多いからであるという、簡単な理由である。

一神教を奉じる国の、政府の政策も、一神教を優遇するという、方策がとられている。

ただ、多神教では、このような、理屈を言う者、多々あり。
多は、一にして、すべては、一つの働きである。それが、変化しているだけであると。

宗教は、なんとでも言う。何の根拠の無いものでも、教義として、立たせるのである。

ドーキンスも言う。
私がどうしても書きとどめておかずにはいられないもう一点は、宗教が、いかなる証拠ももたず、もつことができるはずもない細かな出来事について、なぜああも傲慢な口ぶりで断言できるのか、ということだ。ひょっとしたら、ほんのわずかに異なる意見をもつ人間に対して、とりわけ三位一体説というこの領域での異論に対して、独特の激しい敵意を引き起こすのは、哲学的な意見を支持するいかなる証拠も、いずれにせよ存在しないという、まさにその事実なのかもしれない。

トマス・ジェファーソンの言葉がある。
理解不能な提案に対する唯一の武器は冷笑である。観念に理性が働きかけることができるためには、まずそれが明確なものでなければならない。しかし三位一体については、明確な観念をもつ者は誰もいない。それは、自分をイエスの司祭だと称するペテン師たちの単なる呪文にすぎないのだ。

中世の、異端審判は、皇帝に、三位一体を承認させ、異端を徹底的に、殺したのである。
そして、一丁、出来上がったのが、カトリック教会である。
ドーキンスは、言う。
神学は蒙昧主義である。
さらに、
神学は、―――科学や、あるいは大部分の人文学の他の分野とちがってーーー17世紀で、止まっている、と。

信じる者は、信じ込むことで、自己完結するのである。
そして、信じていることは、単なる妄想や、根拠の無い観念である。

それ、すべての宗教に、言えるのである。
宗教的行為ではない。宗教である。

私が言う、宗教的行為とは、宗教のようにみえるが、長年の積み重ねによって成り立った、作法という意味である。
例えば、日本の場合は、新嘗祭などの、伝統行為である。
もっと、砕けると、秋祭りなどの、伝統行為である。
それは、宗教ではなく、宗教的行為である。
宗教という言葉に抵抗があるならば、伝統行為である。
私は、それを、実に、真っ当な感覚であると、観るものである。

先祖が、次第に、形を整えていった、作法を、伝統行為という。
伝統行為の中には、観念が無い。
ただ、伝える先祖の心があるのみ。

人間は、宗教がなくても、伝統行為で、生きられるのである。

ドーキンスは、後に、道徳というものも、宗教によるという考え方を、検証している。人は、宗教が、無ければ、道徳的になれないのかを、問う。

日本には、宗教という言葉が無かった。
最初、江戸幕府が、アメリカのペルーに使用した言葉は、宗門とか、宗旨という言葉だった。つまり、仏教のそれぞれの、宗派のことを言った。それが、どうも違うらしいということで、宗教という、訳が出来たが、実際、日本には、宗教という、観念は無い。
宗教学とは、欧米の一神教により成り、その宗教の概念での、宗教というものは、日本には無いのである。

宗教とは、観念を創作するものである。
それは、皆、人間の頭の中で、捏ね繰り回したものである。

私が、文学の方が、宗教より、勝っていると、考えるのは、文学は、いつも、迷いである。そして、それは、人間の、当たり前の姿である。だから、上等だと、思う。
宗教は、観念により、解決する。本当は、何も、解決していないのだが。

信じる者は、騙されて、観念の遊戯の中に、入れられ、搾取されて、喜ぶというものである。
哀れというしかない。

簡単に言う。
日本の仏教は、すべての宗派が、供養商売に、堕落して、のうのうとしている。
供養という、観念である。
勿論、最初の、供養という意味からは、遠く離れた観念である。

思い込みで、あたかも、それが、あるが如くの、妄想である。

例えば、私の手元に、多くの宗教の供養に関する本がある。
どれでもいいが、手を伸ばして取り上げたものが、立正佼成会という、法華経を信奉する、新興宗教のものがある。
実に、解りやすい、つまり、単純で、誰もが、理解できる、文章である。
それを、見る。

供養には、四つの意義があるという。
第一、 宇宙の大生命である、久遠実成の本仏に、いま現在こうして生かしていただいることに感謝申し上げることです。
第二は、宇宙の大生命を法則を解き明かし、人間の正しい生き方を教えてくださった釈迦に感謝し、その教えに帰依する真心を表白すること。
第三は、われわれを守護する、守護尊神に、心から感謝すること。
第四は、先祖代々の諸精霊を供養すること。
である。

そこで先祖供養の第一義は、こうして人間として存在させてくださることに感謝申し上げることであります。われわれがご宝前で読経し、そのご恩に感謝もうしあげるならば、霊界におられる先祖代々の諸精霊もそれを喜んでくださり、満足されることは間違いありません。そうした「感謝」と「満足」の交流は、必ず温かで美しい精神世界をかもし出します。それこそが先祖供養の根本義なのです。
ところが、無数ともいうべき先祖の諸精霊の中には不幸にしてまだ成仏できずに迷っておられる方があるはずです。供養によってそうした霊を成仏していただくことも、子孫にとって重大な務めであります。

上記、非常に解りやすい文章であり、信じれば、そうなるように、思えるが、実際、仏教の教義としては、支離滅裂である。

例えば、一つを言う。
成仏できずにいる、霊を、成仏させるという。全く、そんなことは、在り得ないのである。
成仏とは、その本人の問題であり、いかに、子孫が、読経しても、成仏など、あるわけがない。
仏になるとは、輪廻から、外れるということである。
何故、子孫の読経によって、仏になるのか。

成仏という言葉一つにしても、勝手な解釈、勝手な妄想であり、全く、何の根拠もない。
さらに、悪いのは、孝徳により、家運が栄えたり、問題が解決するというのである。
要するに、入会すれば、開運するということを言う。
そうして、入会して、良くなったという、体験を載せるのである。

通信販売の、広告のようなものである。
しかし、信じてしまうと、そのようになると、思えるから、愚かである。

一体、いつから、仏陀の教えが、このように、支離滅裂になってしまったのか、呆然とする。

良くなった人が、一人いれば、悪くなった人は、その何千倍、何万倍もいる。
すべての、先祖を供養するという、とんでもないことを、教えるのである。

笑うのは、仏教の最高権威のある、学者が、言うのでと、ある。何を持っての、権威なのか。
アカデミズムによる、権威を、権威というのか。

新興宗教の、まさに、支離滅裂さを、露呈しているのである。
勿論、知的レベルの低い人には、十分に通用するだろう。
また、何も知らない人には、である。
論外である。

2008年03月08日

神仏は妄想である。43

「キリスト教はこれまで人類に投げかけられたもっとも倒錯した体系である」といったジェファーソンの意見は、理神論と合致するが、無神論とも合致する。同じことが聖職者主義に強固に反対したジェームズ・マディソンにも言える。「これまで十五世紀もの長きにわたって、キリスト教を法的に確立されたものにしようという試みがなされてきた。その結果、何か得られたか? あらゆる場所で、それは多かれ少なかれ、聖職者の傲慢と怠惰、信者の無知と隷属、そして両者における迷信、偏見、迫害をもたらした」。ベンジャミン・フランクリンの「灯台のほうが教会よりも役に立つ」やジョン・アダムズの「もし宗教さえなければ、この世界は、およそ考えられるあらゆる世界のなかで最善のものであっだろう」といった発言も同様である。アダムズは、とりわけキリスト教に対する驚くほど痛烈な非難をおこなっていた。「私が理解するかぎり、キリスト教は一つの啓示であったし、いまもそうである。しかし、ユダヤ教とキリスト教の啓示の合わせたものに無数の寓話、物語、伝説が混ざり込んで、これまで存在したかぎりもっとも血なまぐさい宗教になってしまうということが、いったいなぜ起こったのか? 」そして、一方ではジェファーソンに宛てた一通の手紙でこう書いている。「人の悲しみにつけこむという点で、人類の歴史がこれまでもちつづけてきたもっとも破滅的な実例のことーーー十字架、すなわちキリストの受難―――をほのめかそうとしているのだと考えるだけで、私はほとんど戦慄を覚える。悲しみという原動力の生みだしてきたものが、どれだけ悲惨な出来事であったかを考えてもみよ」。
第2章 神がいるという仮説 より

アメリカ建国の頃からの、政治家たちの、言動に多く、無神論があったことを、トーキンスは指摘しているが、現在は、驚くほど、宗教が、跋扈していることをいう。

さて、私は、別の面から、考察する。

アダムズの言葉にある、キリストの受難である。
これが、人類の罪を負うという、キリスト教の教義である。
勿論、勝手な、想像である。
しかし、それを、人に強制するという、傲慢である。

イエス・キリストは、そのようなことを言ったのかといえば、聖書に書かれていると、言う。その聖書は、誰が書いたのか。
イエス・キリストではない。
その死後、多くのセクトによって、編纂されたものである。
要するに、セクトの、書物である。それを、正典として、取り上げた教会が、勝手に、そこから、抜書きして、教義を作る。
それに、人類の罪を負ってとある。
それを、信じて、すべての人に、その教義を強制しようとする。

キリスト教の罪は、原罪である。
最初の人間である、アダムと、エバによる罪である。
それが、人類の原罪となったという、お話である。

それが、教会の洗礼によって、許されるというもの。
そして、なお、罪を犯しても、司祭の許しがあれば、許されるという、教義である。教義は、狂気になった。

カトリックに対して、プロテストが起こると、両者は、宗教戦争をはじめる。
しかし、プロテスタントが、出来上がると、続々と、新しいセクトが、出来て、新しい解釈から、新しい教義が、出来る。勿論、それも、狂気である。

人間が、考えることである。

人類の贖いのために、十字架につけられた、主イエスを信じることによって、永遠の命が、得られます、と、道端で、スピーカーから、流す者もいる。
主イエスが、人類の贖いのためにという、あまりにも、狂気の妄想に、取り付かれて、それを、押し付ける強制をはじめると、一神教は、血みどろの戦いに、突入する。

宗教が、政治システムを作り上げているゆえ、結果、国と国は、宗教により、対立するという、単純なカラクリである。

社会、共産主義というのも、宗教と、何ら変わらない。
根は、同じく、狂気の妄想である。

皆々、世界を、大混乱に陥れたい者である。

インド独立後に、国を出た、ネールの言葉。
インドおよびその他の土地で、宗教と呼ばれるもの、あるいはともかくも組織された宗教の偉容はあまりに恐ろしく、私はしばしばそれを非難し、すっかり掃き清めてしまいたいと願った。ほとんどつねに、それは、盲信、反動、ドグマ、偏見、迷信、搾取、および既得権の維持に味方するように思われた。

知性によって、それは、理解される。
そして、感性によって、行為される。
さらに、それらは、理性を元とする。
人間に添わったもの、それらがあれば、すべて解決する。
宗教により、何か、特別なものが、生まれる訳ではない。
それを、宗教によるという人は、勘違い、あるいは、単に知らないだけである。

善良な人とは、宗教に関係ないのである。
また、人類愛を行為する人もである。
それが、宗教により、成っているとしたら、間違いなく、純粋ではなく、宗教の毒がある。

人間の行為に、神や仏を、絡ませることはない。

神や仏が、いなければ、善が行えないというのならば、はじめから、その人には、善が、無いのだ。
子供に、ののさまの目があるから、悪いことをしては、いけませんと教える愚は、行ってはいけない。
何かの目があるからではない、知性と感性、それを、真っ当に行為させる、理性こそ、育てるべきものである。

ののさまの目があると、教える僧侶は、み仏の目があるにも、関わらず、どんなことをしているのか。
僧侶といっても、一般人と、何も変わらない生活をしているのではないか。
違うといえば、大嘘を言い、根拠無き、経典を読経して、金を得ると言うことである。
蒔きも、刈りも、捕ることも、作ることもせずに、のうのうとして、人から、搾取して、生活しているのである。それも、一般人より、十分に良い生活である。

私が、京都や、鎌倉という町を嫌うのは、そういう輩が多すぎるからだ。
鎌倉などは、昼間でも、幽霊屋敷のような、町である。あれほど、僧侶が、いるにも、関わらずである。信じられないのだ。

ネルーの言うとおりである。
それ以上の言葉は、無い。

信仰が無くても、祈る生活は出来る。
信仰が無くても、人間として、立派な人生が送れる。
一体、何をして、人に信仰を、求めさせるのか。私は、迷いであると言う。

テラの会の経緯

テラの会の経緯について

昨年、2007年4月、バリ島に出掛けた。
バリ島に、建設中の、テラハウスを見るためである。
私の、お弟子さんが、バリ人と、結婚して、その家の敷地に建てるものだった。最初は、漠然とした、イメージであった。
そこで、何か、出来ると、いいなーあという程度である。

その、旅行記は、天山通信に書いたが、告知板には、掲載していない。

その前の年の、06年に、タイの、リゾート地、パタヤに出掛けている。
それは、単に付き合い程度のものだった。
丁度、タイ国王、在位60年の、お祝いがあった。

タイに、出掛けたのは、10年振りである。
その時は、まだ、何も、計画がなかった。

そして、その年の、12月に、チェンマイに出掛けた。
何故、チェンマイかということが、解らない。
ただ、チェンマイに行きたいと思った。
それが、後々に、大きなポイントになるのだが。

タイの、南部のリゾート地には、興味が無い。
もっと、タイという国を知りたいと思う気持ちと、何か、言葉に出来ない思いがあった。
10日間という、滞在は、私には、長いものだった。
そして、そこに、多くの日本人高齢者の方々が、長期滞在をしていることを、知る。
帰国してから、チェンマイには、再度行くであろうと、直感した。その意味が、後で解る。

さて、四月のバリ島行きを、決めてから、私の中で、ある変化が、起こった。
それは、うまく言葉に出来ないものである。
たた、湧いてきた、思いである。

それが、戦争犠牲者の、慰霊である。

その伏線は、25年前以上になる。
戦地に出掛ける人が、よく、私の相談に来て、幽霊を見た。それから、具合が悪いというものである。
信じる、信じないの問題ではなかった。
実際、具合が悪くなっているのである。

その人たちは、慰霊に、出掛けた訳ではない。
単なる、仕事の場合や、レジャーでの旅行である。

その度に、清め祓いを行っていた。

具体的に、どのような、幽霊なのかは、省略する。

それに対する、私の思いが、結実したと言えば、言える。
さあ、そのチャンスが、来たと、思った。

やらなければ、ならない、と。

それでは、どこへ。
一番最初に、思い出したのは、サイパンだった。
思い立ったが、吉日である。
バリ島に、出掛ける前に、サイパンの旅行を、決めた。

格安ツアーである。
すへで、自由行動のツアーであるから、その間の、時間を、追悼慰霊の所作に、あてるというものだった。

サイパンの追悼慰霊は、実に、充実したものだった。
私の方法で、追悼慰霊が、出来たことを、満足した。

それから、事は、あるものに、動かされるように、進んだ。
いつも、同行している、野中が、タイのチェンマイに、三ヶ月程、滞在して、タイ語を、学びたいという。
そこで、私は、七月、八月の二ヶ月なら、時間を上げることが、出来ると、タイに、送り出した。

そこで、野中が、仕入れた、情報である。
タイ・ビルマ戦線の犠牲者のことである。
すでに、追悼慰霊の碑が、建設されてあり、その、現地財団の、創設者が、自分の故郷の、人だったということ。
更に、野中の、おばあさんも、その活動に、支援していたということが、解った。

慧燈財団のことである。

野中は、その滞在中に、追悼慰霊碑に、詣でた。
そこで、現地の事務局長である、小西氏に、出会ったのである。

タイ・ビルマ戦線、つまり、インパール作戦の犠牲者は、タイ北部に、点在しているという。

それを、聞いた私は、即座に、その地の、追悼慰霊を決行しようと、考えた。

さらに、折角出掛けるのであるから、コンサート開催などによる、現地の人々との付き合いである。また、長期滞在している、日本人の方との、付き合いである。

次第に、やるべきことが、固まってきた。

野中が、チェンマイに滞在している、間に、次のチェンマイ行きを計画し、追悼慰霊と、コンサートの準備をしてもらった。
慧燈財団の小西事務局長さんにも、お世話になった。

それが、昨年、2007年の11月である。
その時の、旅行記は、遥かなる慰霊の旅として、告知板に掲載した。

その際に、ビルマ、ミャンマー行きも、行った。
丁度、ミャンマーの僧侶たちのデモを撮影していた、日本人カメラマンが、射殺された後である。

タイと、ミャンマー国境地帯にいる、少数部族の子供たちが、ストリートチルドレンになっている様を、見て、彼らの支援を考えた。
これは、私の普通の感情である。
最初に、衣服の支援である。
日本では、多く、捨てられる衣類である。それを、リサイクルする。単に、そういうことである。

追悼慰霊と、コンサートを行い、次への、ステップを踏み出した。
長期滞在の日本人の方々にも、お逢いした。

そして、翌月の、12月は、最初のバリ島ツアーを開催した。
コンサートを主体にした、ツアーである。

建設中の、テラハウスにて、地元の人を、招いてのコンサート、そして、村の、ガムラン、バリ舞踊との、共演である。
それも、次に続くものだった。
次は、ガムランと、舞踊の共演を、提案された。

ガムランと、日本舞踊の共演とは、聞いたことがない。
これは、是非、やってみたいと思う。

バリ島から、戻り、翌月、つまり、2008年の一月、トラック諸島慰霊を決定し、すぐに、ツアーを申し込む。
それは、産経新聞の記事が、きっかけだった。
海底の、遺骨が、見世物にされているというものである。
それを、確認する、そして、追悼慰霊をする。

その旅も、一度で、済まなくなったことは、地元の人との、付き合いである。
九割の島人が、無職、であり、無収入である。
食べ物は、島の自然の物を食べて生きてゆける。
しかし、最低限の衣類は、買わなければならない。
それを、支援することにした。

着物着のまま、である。
どうして、衣類を手に入れるのかと、尋ねると、出稼ぎに出ている、兄弟や、親戚から、貰うということだった。
それ以外の、方法は無い。
だから、どんなに、古くなっている、衣類でも、着ている。

日本で、捨てられる衣類を、リサイクルすると、それも、ごく普通の感覚である。

そして、翌月は、タイ、東北部、イサーンといわれる、ラオス、カンボジア国境地帯への、旅である。
タイの、最も、貧しい土地を、見るためと、ラオスの、子供たちに、衣服の支援である。

しかし、私は、ラオスの状況が、あまりにも、酷いと聞いて、入るのを、止めた。
これ以上の活動は、個人的には、出来ないと思ったからだ。
見れば、やるであろうと思われた。私の性格である。

千年の日本のために。
それは、いずれ、日本が、多くのアジアの国に、お世話になる。そのために、今から、出来ることを、したいと、思う心である。
少しの、注意力を持って、世界を、見渡せば、それは、解る。

気づいた者が、それを、行う。それで、いい。
ことさら、特別なことを、しているのではないと、いうこと。

ただし、支援の活動は、理解されるが、追悼慰霊の、活動は、理解され難い。
見えない世界を、扱うからである。
もう、過ぎたことである。

しかし、今、これを、しっかりと、行っておかなければ、日本の伝統が、廃れると、思った。
日本の伝統は、死者への、崇敬である。
更に、清め祓いである。

日本人は、精神の、心の、魂の、禊祓いをして、いつも、再生して、やってきた、民族である。

最も、悲惨だった、第二次世界大戦の、後始末である。

日本人だけではなく、多くの国や民族を、犠牲にした。
それを、決算することである。

つまり、追悼慰霊である。

理解されずとも、知った以上は、やらなければならない。
日本人に慰霊に、来て欲しいと、いう、国や地域は、多くある。
未だに、日本兵の霊が、浮遊する場所が、多々ある。

霊など、無いという人には、説明しない。
説得も、しない。
ただ、知った、私は、するしかないのである。

知るということは、行為するということである。

私の人生、最後の、テーマとなって、今、その只中にいる。
無一文の覚悟であるから、怖いもの知らずである。
ただし、癒える病のための、保険にだけは、入っている。
癒えない病の場合は、死ぬ覚悟である。
更に、野垂れ死にの覚悟があるから、後は野となれ、山となれ、である。

生きた証拠は、すべて、捨ててゆく。
何も残さない。
死後は、隠れるだけである。

2008年03月09日

この国の問題

この国の、問題について、素人の、私が、見る。

都市生活を享受する若者が増えて、海外旅行ブーム、温泉ブームとなる。人々は、古典、つまり、伝統から、離れて、軽薄な趣味に走り、健康への異常なまでの関心が高まる。

約100年前の大英帝国の、衰退期である。
「なぜ国家は衰亡するのか」中西輝政著

上記、日本のことではないか。

さらに、「命懸け」で政治を行う政治家が、皆無である。
北朝鮮の拉致問題を解決するという、意欲ある、政治家が、いない。
慰安婦問題は、捏造であると、知っても、何も抗議しない。
南京虐殺が、捏造であると、知っても、何も抗議しない。

少しばかり、有名になると、政治家になるという、変な時代である。
付け焼刃の、政治家の、多いことといったらない。

少なくとも、日本の歴史には、命懸けで、政治を生きた政治家や、思想家がいた。

隣の政治家に、遠慮しているのか、はたまた、ポーズで、政治家になっているのか、よく解らない政治家が、多い。
政治家になりたくて、政治家になるという、お粗末さである。

理想がないから、物言いに、何の威力も感じない。
行き当たりばったりの、言動が多い。
言い訳だけは、一人前、いや、三人前である。

まさか、生活のために、政治家になっているのではないのか、と、思わせる政治家もいる。

そして、あろうことか、そんな、政治家を、国民が、選んでいるという、事実である。
政治家を、見れば、国民、つまり、民の意識が、解る。つまり、民の意識が、政治家の意識なのである。

政治の最終的な、問題は、国民に、返ってくるということを、知らないようである。

実に、年金は、崩壊するが、国民が、しっかり、管理すれば、年金は、崩壊しない。
崩壊させるのは、政治家と、官僚である。

国民年金と、厚生年金の、積立金は、国家予算の倍近くある。
150兆円である。

その、積立金を、取り崩して使わないと、厚生労働省が言う。かたくなに、取り崩さないと、言い続けたのが、04年の改革の際に、漸く、今の若者が、受給世代に入る、2050年頃に、取り崩しを、実施するということになった。

何故か。それを、利用して、運用しているからである。
だが、昨年までは、おおよそ、58兆5800億円であるが、今年以降、全額運用するという。

これだけの、積立金があるゆえに、旧年金福祉事業団が、グリーンピアで、2800億円の、保険料が消えた時に、年金には、たいした影響は、ありませんという、馬鹿馬鹿しい答弁を聞いている。

このような、アホに、年金を、国民は、任せていた。
しかし、旧と、つくように、今は無い。
2006年に、特殊法人改革によって、年金積立管理運用独立行政法人に、衣替えされた。
衣替えである。

衣を替えても、内容が、同じであれば、何も替えたことにはならない。

名称を、替えて、誤魔化すのは、日本の政治家、そして、官僚の得意技である。

この、莫大な、年金積立金を、アホどもに、任せると、思うと、背筋が、凍る。

なぜ、このように、莫大な、年金積立金があるかといえば、国が、給付に必要な金額より、多くの保険金を、集めてきたからである。

さて、問題は、ここからである。
自作自演で、年金危機を、作っておき、今年、年金の保険料を、引き上げるという、暴挙に出る。

不安を煽り、国民を、威圧して、さあ、保険料を引き上げますというのである。
年金額など、関係ない、政治家、官僚が、平然として、国民の、金を集めて、のうのうとしている様、見苦しいが、それが、事実である。

官僚に代表される、公務員が、非国民であるというのは、私の、思い過ごしであろうか。

江戸時代、農民が、九割だった。
徳川家康は、農民を、生かさず殺さずが、モットーだった。
今の、国民は、江戸時代の農民の、別名である。

殺さない程度にしておけば、いいのだという、政治家、官僚の意図は、よく見える。

独立行政法人とは、国民の金を、適当に、誤魔化し、皆々、懐に入れるという、天下りの、最もたるものである。

いや、公務員何とか法で、天下り禁止などというが、結果は、どうか。

天下りでなければ、そのうちに、二三年、遊んでいて、新規採用で、雇用しましたと、平然として、言うであろう。

兎に角、年金は、崩壊するのではなく、崩壊させられるのである。

全額、運用して、損が、出たとき、御免なさいと、言うのであろうか。
責任を取って、誰か、切腹するのであろうか。

切腹されても、金は、元に戻らないのである。

彼らを信じられないとしたら、年金は、信じられない。
私は、彼らを、信じられないから、年金は、信じられない。

年金が、破綻するとは、国家が、破綻するほどの、大事であることを、知っておくことである。

兎に角、150兆円もの、積立金があることを、知っておくべきである。

2008年03月10日

もののあわれについて174

女は、まだ端に月ながめていたるほどに、人の入り来れば、簾うちおろしていたれば、例のたびごとに目慣れてもあらぬ御姿にて、御直衣などのいたうなへたるしも、をかしう見ゆ、ものものたまはで、ただ御扇に文を置きて、宮「御使の取らで参りにければ」とてさし出でさせたまへり、女、もの聞こえむにもほど遠くてびむなければ、星を指し出で取りつ、宮も上りなむとおぼしたり。前栽のをかしき中に歩かせたまひて、「人は草葉の露なれや」などのたまふ。いとなまめかし。近うよらせたまいて、宮「今宵はまかりなむよ。たれに忍びつるぞと、見あらはさむとてなむ。明日は物忌と言ひつれば、なかむもあやしと思ひてなむ」とて帰らせたまへば、


こころみに 雨も降らなむ 宿すぎて 空行く月の 影やとまると

人の言ふほどよりもこめきて、あはれにおぼさる。宮「あが君や」とて、しばし上がらせたまひて、出でさせたまふとて、


あぢきなく 雲井の月に さそはれて 影こそ出づれ 心やは行く

とて、帰らせたまひぬるのち、ありつる御文見れば、

われゆえに 月をながむと 告げつれば まことかと見に 出でて来にけり

とぞある。「菜穂いとをかしうもおはしけるかな。いかで、いとあやしきものに聞こしめしたるを、聞こしめしなほされにしがな」と思ふ。
宮も、言ふかいなからず、つれづれの慰めにとはおぼすに、ある人々聞こゆるよう、「このごろは、源少将なむいますなる。昼もいますなり」と言えば、また、「治部卿もおはすなるは」など、口々聞こゆれば、いとあはあはしうおぼされて、久しう御文もなし。

女が、まだ、端近いところで、月を眺めていますと、人が来たようです。御簾を下ろしていますと、いつもながら目新しい宮様の、お姿が見えます。
御直衣も、着なれて、優雅に見えますのも、見事です。
何も仰せにならず、ただ、扇に文を書かれて「お使いが、受け取らずに帰ってしまいましたので」と、仰せになります。
女は、お話を申し上げますも、間が離れて、不都合ゆえに、扇を差し出して、受け取りました。
宮様も、女の、傍らに来ようと思いました。
前栽の美しい中を歩かれて、「人は、草葉の露なれや」と口ずさまれます。
「わが思ふ 人は草葉の 露なれや かくれば袖の まづしおるらむ」読み人知らず
を、踏まえたもの。

本当に、優美な姿でした。
女の近くに寄られて、「今宵は、これで帰りましょう。かつての、夜の男が、誰の所へ忍んできたのかを、見届けに来たのです。明日は、物忌みですから、家にいなければ、おかしく思われます」と帰ろうとされます。


こころみに あめもふらなむ やどすぎて そらゆくつきの かげやとまると

試しに、雨でも、降って欲しいものです。この宿を通り過ぎて行く、空の月のような、宮様が、御止まりになられるかどうか、と。

人が、噂するほど、子供のような女であると、思われました。
「あが君や」と、仰せになり、宮様は、しばらく、女の部屋にお入りになり、お出になろうとして、
あぢきなく くもいのつきに さそわれて かげこそいづれ こころやはゆく

あじきたなく、私は、家に戻りますが、体は、帰っても、心は、ここに残ります。

と、詠まれました。
のちに、先ほど、置かれた、御文を見ますと

「われゆえに つきをながむと つげつれば まことかとみに いでてきにけり」

私ゆえに、月を眺めているというので、見届けに来ました。

と、書かれてありました。

「矢張り、素晴らしい方でいらっしゃいます。私を素行の悪い女だと、聞いているのでしょう。何とかして、考えを、変えて欲しいものです」と、女は思うのです。

宮の方でも、女が、とりえが無い訳ではありませんから、つれづれの慰めに、よかろうと、思し召しましたが、ある人が、宮に申し上げるには、「この頃は、源少将が通われている。昼間も、お出になると、申します」とも言い、また他の人は「治部卿も、いらしているそうです」などと、口々に申し上げます。
宮様は、女が、いたく軽率に思われて、長い間、御文も、送りませんでした。

物語の、事件である。
噂に、流される様を、書いている。
これが、二人の、難である。
ここを、通り抜けて、二人が、恋の炎を、燃やすようになる、過程である。

それが、長く続けば、続くほど、誤解が、晴れると、恋は、成就する。

歌のやり取りが、見事である。
会話するかのように、歌を詠むという、驚きである。

和泉式部が、当時、第一の歌詠みと、言われるだけはある。

要するに、単なるアホな女ではないということである。

言葉は、精神である。
精神が目覚めているということが、解る。
つまり、女は、醒めていたのである。
見つめて、いたのである。

我が内にある、恋というものが、いかに、流れてゆくのかを、眺めていた。要するに、我が恋を、突き放して、見つめていたといえる。

情欲に、流れていたなら、歌など、詠めないのである。

欲に、翻弄されていたら、感性が鈍る。そして、知性が、曇る。
歌など、詠むことは、出来ないのである。

私は、西行と、和泉式部は、共通するものを、持っていると思う。
生まれながらの、歌詠みである。
歌心を、すでに、持って生まれたのである。
それは、一つの悲劇でもある。
つまり、歌を詠むという、妄執に取り付かれるからだ。

もののあわれについて175

小舎人童来たり。樋洗童例も語らへば、ものなど言ひて、樋「御文などある」と言へば、小「さもあらず、一夜おはしましたりしに、御門に車のありしを御覧じて、御消息もなきにこそはあめれ。人おはしまし通ふやうにこそ聞こしめし上げればなれ」など言ひて去ぬ。

樋「かくなむ言ふ」と聞こえて、女「いと久しう、なにやかと聞こえさすることもなく、わざと頼みきこゆることこそなけれ、ときどきもかくおぼし出でむほどは、絶えであらむとこそ思ひつれ、ことしもこそあれ、かくけしからぬことにつけて、かくおぼされぬる」と思ふに、身も心憂くて、「なぞもかく」と嘆くほどに、御文あり。宮「日ごろは、あやしき乱りごこちのなやましさになむ.。いつぞやも参り来てはべりしかど、折あしうてのみ帰れば、いと人げなきここちしてなむ。


よしやよし 今はうらみじ 磯に出て 漕ぎはなれ行く あまの小舟を

とあれば、あさましきことどもを聞こしめしたるに、聞こえさせむもはづかしけれど、このたびはかりとて、


袖のうらに ただわがやくと しほたれて 舟ながしたる あまとこそなれ

と聞こえさせつ。


小舎人童が、参りました。
樋洗童は、いつも話し合う仲でしたので、話しました。
「宮様からの、御文は、くるのでしょうか」と、ききますと、小舎人童は、「いいえ、ありません。この間の夜お出ましの時、御門に車のあったのを、御覧になられて、それからは、お頼りも、なくなったようです。誰かが、お通りになるように、宮様は、お聞きの、ご様子です」と、言って、帰って行きました。

樋洗童は、「小舎人童が、このようなことを、言っていました」と女に、申します。
女は、「久しい間、あれこれと面倒くさいことは、申しません。時折、この間のように、思い出してくださるのですから、その限りにいては、二人の恋は、絶えないで、欲しいものです。面白くない噂のために、あのように、お疑いになってしまわれた」と、思いますと、見も心も、物憂く「なぞかくも」の歌のようになって、思い乱れます。

その時、御文に、宮「日ごろは、いいようのない、乱れここちで、気分がすぐれませんでした。いつかも、お訪ねしましたのに、都合の悪い時ばかりで、帰りました。いたく、人並みではない、思いがしまして、


よしやよし いまはうらみじ いそにでて こぎはなれゆく あまのこぶねを

ああ、しょうがない。今は、恨みなどしまい。あなたは、磯から、漕ぎ離れて行く、海女の小舟のように、私から、離れて行くのです。

と、書かれてありました。
呆れるほどの、悪い噂を、お聞きになっていられる宮様に、お返事申し上げるのは、心咎められますが、今度ばかりはと、思い


そでのうらに ただわがやくと しほたれて ふねながしたる あまとこそなれ

袖に涙の流すことばかりを、自分の務めとしていました。
舟を流してしまった、海女のように、私は、宮様に去られて、寄る辺なくなりました。
と、申し上げました。

噂に、翻弄される二人である。
これが、更に、二人の感情を、盛り上げるのである。

それぞれが、歌に託して、詠み合うことの、面白さが、格別である。

漕ぎはなれゆく あまの小舟を
と、歌えば、
舟流したる あまとこそなれ
と、返す。

小舟を、互いに譬える。
噂の真偽より、それによる、心の様を読む。

現代のように、直接、相手に、問うということを、しない。
自然に、それが、晴れるのを、待つのである。
優雅と、いえば、優雅であるが、この時代の、時間感覚である。
急ぐことはない。
ゆえに、歌になる。

もののあわれ、たゆたう、のである。

袖のうらに ただわがやくと しほたれて
ただ、我が役目と、萎れているのである。

泣く事が、私の役目だと言う。
一見して、何か、弱さを、演じているようであるが、それは、逆である。
だから、強いのである。
私は、泣くと言えるほど、強いことはない。

建礼門院右京太夫も、一人の男の、弔いのためだけに生きた。
生涯を泣いて、泣いて生きた。
そして、歌を詠むのである。
名歌を、多く生んだ。

月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵しりぬる

月をばかり眺めて歌詠みをしていたが、今夜の星空は、何と言う美しさであろう。
深い、あはれを、今知るのである。

この、あはれ、に、私は、慈悲という言葉を当てる。
悲しみを生きた後に、湧き上がる心の様に、あはれ、というものを、深い、慈悲というものを、感じ取ったのである。

慈悲とは、あはれ、の、一つの面である。
仏の慈悲というものが、大和言葉の、あはれ、に、続くものとなった。

もののあわれ、は、慈悲というものを、包括しているのである。

慈悲を、直訳すると、悲しみを、慈しむのである。生きるということは、それに、あると、私は、考える。

歳歳に 我が悲しみは 深くして いよいよ華やぐ 命なりけり
岡本かの子、が、歌う。

生きるごとに、悲しみは、深くするが、それでも、命は、華やぐのである。
いよいよ、生きようとするのである。

そして、生きねば、ならないのである。

2008年03月11日

この国の問題 2

未来という言葉を使いとき、それは、千年先や、五千年先のことではない。
未来とは、子供たちの時代のこと、若者の、時代のことが、多い。

つまり、彼らが、社会的存在になる頃の、近い将来のことを、多分に言う。

学校にも行かず、仕事もせず、専門的な職業訓練を受けていない、若者。
そり名を、ニートと、呼ぶ。
ただ今、おおよそ85万人。
もう少しすると、100万人を、突破する。

だが、その蔭に隠れて、ニートではないが、ニートに準ずる存在があることを、誰も言わない。
音大、芸大卒業した者たちである。
専門訓練を受けているが、金にならないのである。
ごく潰しになっている、連中である。

各自治体で、様々な、方法が考えられている。

しかし、勤労意欲が、希薄な彼らに、方法は無い。
親の財産を、食い潰すために、存在するのである。

彼らを、理解するには、それが、病にあると、考えなければならない。
または、社会適応障害である。

チューク諸島に、出かけた時、島の九割の、人は無職であった。
仕事が無い。
無収入である。
しかし、島の自然の物を、食べて生活することは、出来る。
仕事が、したくても、仕事が無い。
彼らを、ニートとは、呼ばない。
しかし、現状は、ニートと、同じである。

昔から、勤労意欲が、希薄な者は、いた。しかし、それが、比較的、目立たなかった。

ニート対策を、積極的にすることは、無理がある。
決して、強制のないように、静かに、見守る必要がある。
勿論、それで、生活が、成り立たないのであれば、それを、理解させる必要がある。しかし、ニートになっているのには、意味がある。

それとは、別に、勤労意欲があるが、正規社員になれずに、フリーターになる若者がいる。
おおよそ、250万人のフリーターである。
その、七割は、正社員を希望している。

しかし、派遣労働者や、長期のアルバイトを、含むと、500万人となる。
このままいけば、更に増える。

そして、悪いことに、人間は老いる。
つまり、フリーターの高齢化である。

UFJ総合研究所の予測では、2021年には、35歳以上のフリーターが、100万人を超えるといわれる。

何が、問題なのか。
それは、国の力が、弱まるということである。

更に、これにより、格差社会が、日本に、蔓延して、インド並みになるということである。インドの場合は、ヒンドゥーの、考え方があるが、日本には、そのような、思想的な、考え方は、無い。

要するに、お金持ちは、前世の行いが良かった。貧乏は、前世の行いが、悪かったという、妄想の観念である。

日本の、伝統は、分配の法則で、成り立ってきた、経緯がある。
それの、崩壊は、伝統の崩壊であり、日本という国が、日本ではなくなるという、危機である。

結果、日本は、第三国の、貧しい国に、転落するという、シナリオである。

民主主義も、社会主義も、共産主義も、同じ穴の狢であることが、実に、証明されるという、皮肉である。支配者層に入るか、否かで、決定的に、違うということ。
政治の力が、最も発揮されていいのだが、果たして、希望を、持てるだろうか。

神仏は妄想である。44

多くの人は、自分が神のーーーあるいは天使や聖母のーーー姿をその目で見たことがあるという理由で神を信じている。あるいは自分の頭のなかで神が語りかけたから、神を信じる。この個人的な体験をもつとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、もっとも説得力がある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、もっとも説得力のないものである。

新興宗教系の、体験談に、そのようなものが、多々ある。
要するに、奇跡的なことである。

何も、普段は、考えなかったが、あることが、きっかけで、それは、多分に、辛い時、問題が起こる時、大きな悩みに遭遇した時である。
その時、その教えに出会い、開眼したというものである。
それらは、新興宗教の、雑誌に溢れている。

気づきである。
全く、そんなものを、信じていなかったという人に多い。
溢れる涙で、それを、感得したという、体験である。

すべてが、好転し始めたという。

心理学では、そういう時に、そういうモノに逢うように、自分が、仕向けることを、知っている。

気づきたいがために、自分で、準備するのである。
しかし、それを、神や仏の御蔭だと、信じるのである。
少しはがりの、知性があれば、そんなことはなど、無いのである。

聖典を唱えただけで、病が、癒えたという。
心理的効果であるが、神や仏の、せいにするという。
そして、その指導者である。
そこに、漬け込むのである。

あなたは、自分は直接の「神体験」があるとおっしゃいますか? 確かに、ピンクのゾウを見たという人はたまにいらっしゃるが、だからといってあなたは、別に何の感銘も受けないだろう。ヨークシャーの切り裂き魔、ピーター・サトクリフは、女性を殺すように告げるイエスの声をはっきり聞き、彼は終身刑に囚われることになった。ジュージ・W・ブッシュは神にイラクに侵略するように告げられたと言っている。(神が大量破壊兵器が存在しないという啓示を与えるほど親切ではなかつたのは残念である)。精神病院にいる人間は、自分がナポレオンや、チャールズ・チャップリンだとか、世界全体が自分に陰謀を企てているとか、あるいは自分の考えを他人の頭のなかに吹き込むことができると思い込んでいる。私たちは彼らに調子を合わせるが、彼らの心の内に啓示された信念を真面目には受け取らない。その主たる理由は、彼らと同じ体験を共有する人が多くいないとこである。宗教的な体験がそれと異なるのは、そういう体験をしたと主張する人間が無数にいるという点だけだ。神経生物学者のサム・ハリスが「信仰の終焉」で次のように書いたとしても、それほど過激に皮肉な言い方というわけではなかった。
神の存在を支持する論証 より

合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうでないときには、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想的」・・・と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。だが、私たちの社会において、宇宙の創造主があなたの考えに耳を傾けることができると信じるのは正常であるとみなされるが、「雨音が寝室の窓を叩く音は、神がモールス信号で交信してきているのだ」と信じるのが精神の病の現れとされるのは、単なる歴史のめぐりあわせにすぎない。だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。

私は、いつも、奇跡を起こすものは、魔界関与であると言う。
私の、霊学である。

これさえも、ドーキンスに言わせると、
人間の脳は第一級のシュミレーション・ソフトウェアを走らせている。
と、言われるだろう。

信じるように、信念が導くのである。

宗教団体に、入会してから、どんどんと、事が、好転しましたという、体験談を、多く聞く。それは、また、そう言う人のみに、語らせるからだ。
何も、変化しない人は、それの、百倍、千倍いる。

病が、癒えても、人は、死ぬ。

先祖供養を、一生懸命にしても、いつも、うだつが上がらない人も、大勢いる。しかし、先祖供養で、良くなったという人が、一人でもいると、それは、大多数になるという、宗教の宣伝である。

何度も言うことだか、感謝と、報恩という行為を、宗教によってしか、得られない人は、実に、憐れである。
それは、知性と、感性によって、培われるべきものである。

後に、ドーキンスは、道徳についても、語る。
宗教によって、人間が道徳的になるのではないという、論証である。

神や仏によって、善なる行為をするという、考え方は、実に、偽善である。
知性と、感性により、そして、理性が、それを成す時、人間は、人間として、人間らしく生きるのである。
それは、人間の社会性である。
それは、人間の歴史である。

人間の霊性というものを、宗教によって、得るのではなく、知性と感性によって、得ることが、21世紀の、救いになる。
宗教では、最早、限界である。
何となれば、宗教という、枠では、新しい世紀を生き延びることが、できないからである。

科学と協調した、宗教観というものを、宗教は、決して、持つことが出来ないのである。
科学的ではない。科学である。

よく、仏教の教えが、科学を超えているという、アホなことを言う者がいるが、それは、事後予言と、同じなのである。
要するに、科学の成果に、こじつけているだけてである。

般若心経は、科学的であるというようなことを言う人がいるが、それは、般若心経の、言葉、それも、漢訳された言葉に、こじつけるのである。
それを、また、アホな人は、頷いて、有り難がるという、体である。

大乗の教えの宇宙観が、すでに、書かれているという、アホもいる。
違う。それは、科学が、それを、知ることが出来たゆえに、それに、こじつけて、説得しているだけである。大乗を、創作した者は、単に、妄想で、書いたのみである。
そう、実に、大げさな、表現である。

一ミリのものを、百メートルという、表現をするだけである。
それを、すでに、仏教では、知っていたという、言い方をするという、愚劣である。

事後予言といったが、それ以上でも、以下でもない。

2008年03月12日

神仏は妄想である。45

・ ・・ひとえに脳のシュミレーション・ソフトウェアのおそるべき力を実証したいがためだ。これには究極の迫真性をもった「幻視」や聖母の「出現」現象を引き起こす力がある。この精巧なソフトウェアにとって、幽霊、天使、あるいは聖母マリアをシュミレーションすることなど児戯に等しいだろう。・・・

・ ・・モデル構築というのは、人間の脳に非常に得意なことである。私たちが眠っているときのそれは夢と呼ばれている。目覚めているときのそれは想像と呼ばれ、異様に鮮明なときには幻覚と呼ばれる。・・・

・ ・・もし騙されやすい人であればーーーとくに、その人がたまたま若い女性で、カトリック教徒であればーーー聖母マリアを見たとか声を聞いたと主張する。そのような幻視や顕現「現象」は、幽霊あるいは天使、神、聖母マリアが実際にいると信じるに足りる適切な根拠にはなりえない。

神の存在を支持する論証 より

更に、付け加えることが、ある。
多分に、女性に多いのが、妄想の、幻視や、幻覚である。
注目されたいという、自己顕示欲の強い女に、多い。
自分には、幽霊が見える、霊の声が聞こえる等々の、特技を人に、喧伝する。
注目されると、今度は、人を、支配したくなり、あれやこれやと、妄想の、大半が、自己願望を、霊感であると、思い込み、人に、アドバイスをするという。

霊感師、霊能師といわれる、者の多くは、そうである。

一番、病んでいるのは、自分自身であるが、それに気づかないのである。

万が一、霊界の霊体が、出現したとして、それは、全く、別物である。
多くの心霊実験を通して、霊というものと、交信をするが、それは、明確に、その存在の根拠を提示する。
人間の妄想のような、あやふやなものではない。

例えば、何々の神が、降りたという人がいるが、その根拠はない。
霊の、あるいは、自分の願望の声を聞くのである。
それを、聞いたと、判断する。
また、万が一、その神なるものが、降りたとして、それを、客観的に、判断するものは、何一つ無い。
ただ、信じるのみである。
そして、信じるという行為は、誤る。

私も、多く霊体験をしているが、いつも、それは、妄想の一種であると、考えていた。
例えば、体が、揺れる、自分の部屋だけ、地震のようになる等々のことが、起こっても、それは、私の妄想の産物であると、対処してきた。
ただし、友人が、部屋に来た時に、霊の存在を感じて、ある実験をした時、その友人が、はっきりと、それを、認めた。その時は、霊の存在であると、確認した。つまり、友人という、第三者が、それを、確認したからである。

しかし、それも、催眠術のようなものとして、判断される場合もある。

日本には、太古から、審神、サニワと呼ぶ、霊を審判する者を、置いた。
冷静な、第三者の目である。
偽者か、本物かだけではなく、その霊の正体を鑑定する者である。

今なら、心理学者と、物理学者等を、それに当てると、良いと思う。

人間の、脳は、あらゆる処理に耐えられるのである。
また、心理学では、潜在意識による、幻視、幻覚を、十分に、考えられるのである。

更に言えば、霊に逢うということは、こちらも、霊になっているということである。
つまり、次元の違うものである。それに、逢うということは、こちらも、次元を合わせているということである。
通常の状態では、霊に逢うことは、在り得ないということになる。

また、複数の人間が、見たとしても、それは、信憑性に欠ける。
何となれば、共同幻想である場合が多い。
複数での、共同催眠の場合も、多々ある。
ただ、その知識がないゆえに、それを、霊的なことだと、勘違いする。

私は、多くの心霊現象に、立ち会ったが、多分に、暗示効果によるもので、強い願望が、それを、成す。

勿論、霊媒体質というものがあり、霊が懸る場合があるが、それは、その人の、心理的問題に、起因する場合多々あり。
霊媒に懸るということの、意味を知るべきなのだが、そのままに、される。

イギリスには、心霊学会のようなものがあるが、あれは、キリスト教を、ベースにして、霊界を判定するので、非常に偏りのある、霊界理解になる。

実は、日本は、霊に関しては、世界に冠たる、実績があるが、日本の場合は、アカデミズムといわれる、不毛な学者たちによって、すべて、否定されているゆえに、それが、表に出ることは少ない。

肉体には、微弱な電流が流れている。
それが、死亡することによって、無くなる。
無くなるのではなく、それが、霊体からのものであり、肉体を脱いで、霊体になるということである。

その霊の、場が、次元が違う世界であり、次元の違う世界のことを、語るには、限界がある。
霊界にも、超越した、存在は無い。つまり、神と呼ばれるような、超越した存在は無い。

霊の進化のみある。
便宜上、進化した、霊を神と、呼ぶ場合もあるが、それは、真っ当ではない。

日本では、成仏した、しないとの、言葉があるが、それは、実に、特殊な言い方である。
死んで、仏になるという、考え方は、平安期からのものであり、勿論、仏教のものであるが、死んで仏になるという、観念は、全く無い。

死んで、霊になるのであり、仏になるのではない。それは、観念である。
また、成仏出来ず、さ迷うという場合もあるが、それは、浮遊する霊であり、次元移動が、出来ていない霊である。

既成宗教から、新興宗教に至るまで、先祖供養を説くが、先祖を供養して、好転するのではなく、その心が、好転させるのである。
つまり、霊的存在を認めるという、点である。

神という、観念を置かなくても、先祖を供養しなくても、生きられる。
それは、生き方に掛かっている。
ただ、人は、生きられるようにしか、生きられない、という、前提がある。

これを、宿命と言う。

社会通念としての、道徳、倫理というものは、霊界に通用するのかと、言えば、よく解らない。
よく、悪は栄えると言われる。
その、悪とは、この世の、判定である。

霊界より見た場合は、社会通念の行為によって、悪とされる行為も、必要性を認める場合もある。

三次元は、ある次元の投影された、次元であるとも言われる。
科学としても、ある世界からの、投影が、この世であると、考える場合もある。

後に、ドーキンスが、宗教により、道徳が、成り立つのかというテーマについて、語る章を読むことにするが、宗教により、道徳というものが、起こるというのは、考えずらい。

私の、結論は、人間の知性と、感性によるものだと、言うが、更に、理性というものが、その生きる時代の、社会性により、自然発生するものだと、考えている。

最後は、古神道に置ける、天皇、スメラミトコの思想に行くつもりである。
日本の神観念に、救いがある。
日本の神観念とは、分配する者という、意識がある。
それは、手、タを結ぶもの。手を結ぶとは、人と人を結ぶ者である。
それを、カミと、呼んだ。

カミは、超越したものではなく、今、人々を繋ぎ、分配するものという、意味があることを、言う。

これは、すべて、大和言葉の解釈から、出る。

まだまだ、長くなりそうな、エッセイである。

神仏は妄想である。46

聖書にある証拠によって神を信じるように説得された人々がやはりいる。他の人をさしおいて、とくにC・S・ルイス(彼はもっとも知られてしかるべき人物である)によるものとされている、この手のよくある証明は、こう述べる。イエスは神の子であると主張していたのであるから、彼は正しいか、さもなければ精神異常か嘘つきである。「狂か、悪か、神か」である。あるいはもう少し下手な韻を踏めば「憑かれしか、偽りか、主なりしか」ということだ。イエスが何らかの種類の地位を宣言したという歴史的な証拠はごく小さなものである。しかし、たとえ、その証拠が有力なものであったとしても、こんな三者択一を強いるというのは、馬鹿馬鹿しいほどフェアではない。説明するまでもなく、ほとんどあまりにも明白な第四の可能性として、イエスは善意の勘違いをしていたというものもあるではないか。そういう勘違いをする人は大勢いる。いずれにせよ、すでに言ったように、イエスが自分が神であると考えていたことを示す、十分な歴史的証拠は存在しない。
神の存在を支持する論証 より

いずれ、聖書については、書き続ける。

19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」という決定的な論証をおこなってきた。すべてはイエスが死んでからずっと後になって書かれたものである。パウロの手紙よりも後であるが、この手紙には、イエスの生涯にあったとされている事実のほとんど何一つとして触れられていない。すべてはその後に、多数の異なる「伝言ゲーム世代」を通じて、いずれにせよ自らの宗教的大義をもち、誤りを犯しがちな筆写者たちによって、何度となく繰り返し書き写されたものである。

しかし、なお、善良なキリスト教徒というものが、何故、存在するのか。
その数は、非常に少ないが、確実に、善良なクリスチャンという人が、いる。

後に、新約聖書などの、嘘について、書くが、彼らは、それを、聞いても、揺ぎ無い信仰を持って、キリスト信者を続けるだろう。
聖書が、嘘、嘘ではないという、問題ではなく、そのようなものを、信仰したという、願いにより、信仰を続けているのである。

そして、それは、実に、個人的な、情緒であるから、私は、否定することなく、受け入れることが出来る。
だが、そこに、非寛容で、排他的な、キリスト教徒ならば、牽制して、おかなければならない。何故なら、それを、人にも、強要しようとするからだ。

心穏やかで、柔和なキリスト信者というものもいる。
それは、ほとんど、キリストを信じるからというのではなく、生来の性質である。

神を信じて生きるという、生き方しか出来ない人もいるということを、私は、知っている。
それを取り上げると、どうして、生きていいのか、解らなくなるのである。
そういう人は、信仰を続けてゆくべきである。

しかし、だから、特別な人間ではない。
そうするしか、方法がないのである。

一番、手を焼くのは、選民意識を持つ、それらである。
私は、他の人と、違う。唯一の神を信じているという、傲慢な意識である。

クリスチャンに、非常に傲慢な者が、多いのは、その、選民意識のせいである。

どれほど、歴史的に、在り得ないという、証拠を見ても、頑固として、聖書の記述を信じるという根性は、生来の、頑固な根性であろう。

揺るがない信仰とは、頑固であり、非寛容であり、排他的であるということだ。

要するに、聖書の正しい、正しくないではない、ある、大物に、囚われてしまったのである。それを、私は、魔界関与と言う。
それは、旧約聖書の神や、アッラーの神を見れば、よく解る。
神もどきなのである。
つまり、神という、存在は、霊界に無いのであるが、神というものを、創造するのである。
それは、霊界の、ある箇所が、関与する。
魔界である。

魔界とは、便宜上の言い方である。何と、呼んでもいい。

彼らの言う、霊性というものを、十分に検証すると、解る。
また、聖人と、呼ばれる者たちの、霊性を見れば、解る。

ちなみに、聖書が、嘘であると解っても、聖書の言葉を肯定し、それを、元に、新しい宗教などを、拓く者も、同じである。
それを、見抜く、つまり、聖書が嘘であることを、見抜く力がないということである。
これで、聖書を引用する、新興宗教の嘘が、解る。

神を、イエスを、作り上げていった過程がある。
多くの人が、関与して、作り上げた。
それは、芸術活動のように、何世紀にも、渡り、続けられてきたものである。

カルトに似たグループが、書き続けてきたものである。

多くの宗教に言えるが、信仰は、知性を頑迷にし、感性を鈍らせる。そして、最後には、理性をも、捨てさせる。
何となれば、妄想の産物に、帰依する、お任せする等々の、耳障りの良い言葉で、篭絡するからである。
勿論、私は、心の安心というものも、それらよって、得られる場合もあるが、多くは、単なる勘違いであると言う。

人間の持つ、知性、感性、そして、理性を捨てて、信仰の道に入るということは、あまりにも、悲惨である。
だが、その悲惨を、喜び、しまいに、神に生かされて生きる、神により、生きるという、境地にまで、達するのである。
それが、妄想の産物なのであるが、本人は、その妄想の世界に遊ぶことになる。
まして、奇跡に近いようなことが、起こると、それは、さらに、拍車がかかり、もはや、手遅れになる。

日本の伝統である、古神道は、独り神という、考え方があり、人は、独り完成するものであるという。
本来は、人間は、そのような、存在であり、妄想の神や仏によって、何か成るということは、無いのである。

どうしても、何かによって、でなければ、満足しないという、無明が、心を支配するのである。

魔物の霊性に、取り込まれた信仰篤き人々を、救うことは、絶望的に、無理である。
何となれば、彼らは、信仰のために、死ぬという。
これほど、人間の心とは、頑なになり、手がつけられなくなるのである。
信仰という、名の元に、である。

2008年03月13日

演歌師

演歌師として、歌師として、歌を歌っている。
私は、朗詠家である。
朗詠とは、和歌を、詠ずることを言う。

演歌の発祥は、明治期である。
当時の、政治、西洋風を、批判、風刺する、演題を、歌ったことから、演歌という言葉ができる。
演歌師たちが、多くなり、明治政府が、活動を、禁止する事態に発展する。

すると、彼らは、東京から、地方に出て、活動するようになる。

マイクや、スピーカーのない、時代である。
いかに、声を通すかが、問題である。
民謡から、当時輸入された、声楽、そして、伝統歌の、発声法を取り入れての、新しい歌の、発生である。

いつから、演題のみではなく、叙情歌を、歌うようになったのかは、定かではない。自然移行のように、それは、なった。
その最初の歌が、あの、竹久夢二の、宵待ち草である。
あの歌は、演歌師たちが、全国に広めたのである。

生の声で、演題を、歌う。つまり、メッセージを、発する。
演歌の、発生である。

演歌師は、昭和初期、最後は、戦後まで、活動していた。
今、演歌師は、いない。
名乗るのは、私一人である。

基本は、日本語を、明確に歌うことがある。
明確でなければ、何を言っているのか、解らないからである。

創意工夫とは、芸術の、別名である。

音響設備が、整っている時代に、生声を、使うという、試み。
勿論、声楽家は、生声で歌う。しかし、場所を、選ぶ。
だが、演歌師は、場所を選ばないのである。
どこでも、歌う。

演歌という言葉の変転は、見ての通りである。
戦後、アメリカから、多くの歌のジャンルが、入ってきた。
軍歌の時代から、一気に、新しい音楽の時代である。

歌謡というものは、平安期の言葉である。
最初、歌謡曲とは、政府のアイデアであった。
しかし、中でも、日本独特の、歌謡曲を、演歌と、呼ぶようになる。
演歌歌手の登場である。

今は、更に、演歌歌手などと、区分けて、考える必要の無い時代になった。

音響設備により、一万人、二万人の、コンサートも、可能である。

新人演歌歌手が、黒人という、時代にもなった。

それに、逆行しているようであるが、私の創作である。
日本の声楽である。

声のみが、勝負である。

踊りで、言えば、素踊りと言われる。つまり、衣装を、つけず、着流しで、踊るのである。
誤魔化しが効かないものである。

音は、耳からと、骨からと、二通りに、聞こえる。
骨というのは、体という意味である。
生声は、体に響かすのである。

体に響かせて、耳に至る。
その間合い、間が、実にいい。
少しの間が、ゆらぎ、となる。

目には、さやかに見えねども、という、ゆらぎ、を、見抜いた日本民族である。
この、ゆらぎ、を、もののあわれ、と、観た人もいる。

さて、和歌を、朗詠するとは、日本語の、母音の働きを、知るということである。
すべての、音、母音に戻り、それを、詠ずる。

つまり、あ、い、う、え、お、に、すべて行き着くのである。
この、清音に、意味があることを、知っている。

また、日本の話芸というものは、すべて、そうである。

心に響く歌ではない。
体に響かせる歌なのである。

体と、心とは、同じほど、価値がある。
心を、主として、皆々は、何事かを説くが、誤りである。

体の苦痛は、心を、苦痛にする。
体が、楽になれば、心も楽なる。
体を、侮れば、誤るのである。

喜怒哀楽を、音色で、表現するという、瞬間芸術に、私は、芸術の、本来性を、観る。

なーんて言うが、言うは易く、行なうは、難しである。
とんでもないことを、始めたものである。

もののあわれについて178

10世紀における、浄土教の展開は、比叡山の、天台密教から、はじまった。

最澄の修行方法のうちに、念仏行も、行われていた。
源信が、往生要集を書く以前に、貴族、知識階級の一部に、念仏は、徐々に広がっていた。

平安期の、王朝文化、および、文学を、理解するには、それを、知っておく必要がある。

空也のように、民間に念仏を広めた者もいる。
法然の、専修念仏は、後のことである。

私見を抜きに、この頃の、仏教を見渡すと、矢張り、宗教に、特異の罪と罰、地獄の思想が、表れる。
さらに、死後の裁きである。

それらは、新しい思想である。

罪と罰の思想、さらに、地獄の、観念、穢土と、極楽の観念、そして、末法という観念である。
末法とは、仏陀滅後、仏陀の教えが、伝えられない、壊滅するという、考え方である。

仏に、救いを、求めるしか、方法がないというところまで、追い詰めた思想が、平安期を、覆ったのである。

王朝の危機感は、女房文学の場合、主として無常感、宿世の思い、念仏の心として描かれるだけである。地獄の和風的表現などみあたにない。色好みから生ずる罪の自覚はあるが、刀葉林のような強烈であくどい描写を好まず、また罪をあのようなかたちで確認することへの嫌悪があつたのだろう。或いは「神ながら」の「祓」の形式が、なお根強く存在し、仏教的罪悪感のなかに混在していたことも考えられる。
亀井勝一郎 日本人の精神史研究

外国、特に、中国からの、多種多様な、書物が伝来しての、観念の洪水のような、精神状態の中で、知的困惑は、甚だしかったといえる。

更に、この頃から、顕著化するのは、出家である。
夫を亡くした、女房が、夫を弔うために、出家するという。それは、江戸時代まで、続く。
日本にて、出家するという意味が、変化するのである。
仏門に入るということは、修行者になるということであるが、そういう意識ではない。出家は、未亡人の、当然の帰結という姿になる。
勿論、男性の出家の場合も、僧になるというより、その精神的覚悟という方が、強く作用した。

万葉集には、厭離穢土という、この世を、穢れた所という意識は無い。皆無である。
何故、仏教は、この世を、厭離として、忌み嫌うようになるのか。

死後の世界にも、地獄、極楽、天国などという、観念はない。
死者の魂は、肉体を離れて、山に帰る。さらに、山から空へ飛ぶ。あるいは、海原に流れて消える。それらは、皆、隠れると、表現した。

死と、死後の世界について、深く思索することはなかったが、する必要がなかったともいえる。それは、自然の中に、隠れるということで、解決していたからである。

死を悲しむ、挽歌を多く詠んだ、万葉集であるが、それ以上のものは、無い。

仏教により、死と、死後の世界を考える観念が表れると、挽歌を詠むことも、なくなってゆくのがわかる。

ここで、私見を挟むと、誠に、迷惑な、観念であった。

文学的思索としては、価値があるが、宗教、信仰としての、価値は、無い。単なる、観念まみれである。

仏陀滅後、様々な観念を生み出してきた、仏教、諸派の解釈による、観念である。
教義としての、観念である。
知的遊戯としての、教義であると、私は言う。

さて、そんな中での、和泉式部日記である。
和泉式部も、出家を考える。また、石山詣でもある。
彼女も、当時の仏教に帰依する姿がある。しかし、それも、一つの、当時の、流行のようなものであると、私は、考えている。

浄土教の、影響は、当時の人々に、特に、厭世観というものを、植え付けたことは、否めない。
それが、更に、中世へと、受け継がれていく。

救いというものを、作り出されていった、過程における、精神史である。
この世を、厭離穢土としての、そこからの救いであり、更に、仏への、救いという、恐ろしく、曖昧なものへの、救いである。

2008年03月14日

もののあわれについて176

かくいふほどに、七月になりぬ。七日、すきごとどもする人のもとより、たなばたひこぼしといふことどもあまたあれど、目も立たず。かかる折に、宮の過ごさずのたまはせしものを、げにおぼしめし忘れにけるかなと思うふほどにぞ、御文ある。見れば、ただかくぞ。


思ひきや 七夕つ女に 身をなして 天の河原を ながむべしとは

とあり。さはいへど、過ごしたまはざるはと思ふも、をかしうて、


ながむらむ 空をだに見ず 七夕に 忌まるばかりの わが身と思へば

とあるを御覧じても、なほえ思ひはなつまじうおぼす。

こうしているうちに七月になりました。
好色の男たちから、織姫や、彦星の恋を詠んだ歌が、多く寄せられました。
しかし、目にもかけません。

宮様が、時期を外さずに、歌を下さいましたのに、今は、ほとんど、お忘れになっていると、思っていましたら、御文が、届きました。
見ますと、次のように


おもひきや たなばたつめに みをなして あまのかわはらを ながむべしとは

考えてみたこともありません。織姫星に、わが身をなぞらえて、天の河原を眺めて、物思いするとは。年に一度の逢瀬も、楽しめぬ、この身です。

と、書いてありました。
そのような、歌も、やはり、七夕のときを、見過ごしていなかったということ、と、思うにつけて、嬉しいことでした。


ながむらむ そらをだにみず たなばたに いまるばかりの わがみとおもへば

宮様が、眺めておいでになる、空さえ、見る思いがしません。
年に一度の、七夕の夜でさえ、宮様から、遠ざけられ、嫌われる、わが身と思いますと、悲しゅうございます。

とあのりますのを、御覧になられて、女を、思い切ることが、できないと、思われるのでした。

歌の力というものを、考える。

多くを語ることなく、31文字に、すべてを、託す言葉の世界というものを、再度、考えたいものである。

思ひきや 七夕つ女に 身をなして

たなばたつめに、と、わが身を、女に、例えている。
それで、十分に、思いを伝えるのである。
織姫の、身になって、天の河原を眺めるという。

言葉にしない、多くの思いを、そこに、すべて、託すという。

返しは、
ながむらむ 空をだに見ず
という。
空を眺めることも、しない。
それは
七夕に、忌まるばかりの わが身と思へば
七夕に、嫌われている、わが身を、思えば、なのである。

その、原因は、噂である。
人の噂に、翻弄されているという、二人の身である。

しかし、宮は、女の歌を読み、思い切れないと思う。

歌の力である。

現在の感覚では、考えられないほど、言葉の世界は、深いものだったと、思える。
伝達の手段が、言葉、特に、歌によるのである。
そして、単純であった。

深くて、単純ということは、言葉は、そのまま、心であった。
嘘偽りも、言葉に、出るのである。

言葉と、裏腹に行動できるほど、複雑な、心境は、持ち合わせない。

好色の男たちも、好色と言われるほど、明らかに、彼らの、目的が、見えている。
恋愛遊戯を楽しむ、男たちである。
単なる、セックスの、関係ではない。
恋愛遊戯とは、恋を、言葉で、楽しむという意味だ。

セックスは、それの、ツマでしかない。

平安期は、実に、退廃した、貴族社会の、掃き溜めのような、時代である。
それは、多く、仏教思想によった。
その、無常観というものを、全く、別の意味に、散り違えていたのである。

心地よい、無常感覚である。
儚い、人の世であるから、快楽を求めて、生きる。そして、死は、浄土思想の、救済に、置く。

密教より、浄土思想が、蔓延した。
つまり、阿弥陀仏に、救われるというものである。

とんでもない、捨て身の、救いである。
当時は、斬新な思想であった。

最後は、阿弥陀に救われるという。
他力思想などと、言うことなく、全くの、他力である。
この当時の、貴族社会の男たちは、唾棄すべきような、生き方を好んでいたといえる。
創造意欲など、無に等しい。

しかし、女たちの、意識は、目覚めていた。
それが、文学の萌芽である。
女房文学といわれる所以である。
散文の、紫式部、歌の和泉式部、随筆の、清少納言等々である。

危機意識皆無の、貴族社会の、男たちは、何も、残すことなく、無為ともいえる、生き方を、残したのみ。

浄土思想とは、中国で、起こったものである。
その、観念的救いは、未だに、残滓が残り、奇妙な、救済観を、与えている。

阿弥陀という、架空の存在が、願を立てた。それを、信じて、救われるというものである。
どうにも、話にならないのである。
仏陀の、教えに遠く、いや、全く、別物である。

平安期は、それに、やられてしまったのである。

もののあわれについて177

晦日がたに、宮「いとおぼつかなくなりけるを、などかときどきは、人かずにおぼさぬなめり」とあれば、


寝ざめねば 聞かぬなるらむ 荻風は 吹かざらめやは 秋の夜な夜な

と聞こえたれば、立ち返り、宮「あが君や、寝ざめとか。「もの思ふ時は」とぞ、おろかに、


荻風は 吹かばいも寝で 今よりぞ おどろかすかと 聞くべかりける

かくて二日ばかりありて、夕暮に、にはかに御車を引き入れて、下りさせたまへば、まだ見えたてまつらねば、いとはづかしう思へどせむかたなく、なにとなきことなどのたまはせて,帰らせたまひぬ。そののち日ごろになりぬるに、いとおぼつかなきまで音もしたまはねば、


くれぐれと 秋の日ごろの ふるままに 思ひ知られぬ あやしかりしも

むべ人は」と聞こえたり。宮「このほどにおぼつかなくなりにけり。されど、


人はいさ われは忘れず ほどふれど 秋の夕暮 ありしあふこと

とあり。あはれにはかなく、頼むべくもなきかやうのはかなしごとに、世の中をなぐさめてあるも、うち思へばあさましう。

晦日がきますと、宮様から、「大変、間遠くなりましたが、どうして時々、お便りを下さらないのですか。私など、人並みの数に、入っていないのでしょう」と、仰せになります。


ねざめねば きかぬなるらむ おぎかぜは ふかざらめやは あきのよなよな

物思う寝覚めの、切なさを、お持ちではありませんから、お聞きにならないのでしょう。
宮様を、お招きする、荻風は、秋の夜な夜な、咲かないということが、ありましょうか。

と、申し上げますと、ずく「あが君よ、寝覚めと、言われるのですか。物思う時は、寝るというなどと、いうものではありません。いい加減な、お心です。


おぎかぜは ふかばいもねで いまよりぞ おどろかすかと きくべかりけり

私を、招く、荻風が、吹くのでしたら、眠られずにいて、今、吹くか、今、目覚めさせるのかと、聞けば、よかったのです。

このようにして、二日ばかりを、経た夕暮れに、突然、宮様が、お車を、引き入れられ、下り立たれました。
夕暮れの、明るさの中で、お目にかかったことがありませんから、ひどく、恥ずかしく思いました。しかし、なす術もありません。
宮様は、何ということもない、とりとめもない話をなさって、お帰りになられました。

そり後、何日か、経たのちに、いたく、待ち遠しく思われて、なりませんでした。
それまで、何のお便りも、ありませんので、


くれぐれと あきのひごろの ふるまいに おもひしられぬ あやしかりしも

心重く、鬱々とした日々の、夕暮れを、待ちながら、秋の何日かが、過ぎました。
あの、先日の、夕暮れに、お出になられたのが、不思議なことでした。

全く、人というものは、わかりませんと、申し上げました。
宮様は、「この何日もの間、ご無沙汰いたしましたが、


ひとはいさ われはわすれず ほどふれど あきのゆうぐれ ありしあふこと

あなたの方こそ、おかしゅうございます。私は、時を過ぎても、秋の夕暮れに、お逢いしたことを、忘れはしません。

と、詠まれました。
あわれに、はかなく、頼りにならないのは、かりそめの、歌によって、人生を、慰めているということも、考えてみれば、情け無いことです。

はかなしごと
はかなく、空ろであるという意味であるが、その前にも、あはれにはかなく、と書く。

更に、はかなしごと、とは、歌を詠むという行為である。
それによって、慰めている。それを、あさましう、という。

あさましう、とは、情け無いこと。見苦しいこと。

歌詠み、さえも、そのように、感じるという、心境である。

魂乞いを歌う、恋の歌さえも、はかなしごと、であるとすれば、救いは無い。
すでに、女は、恋を透き通して、観るのである。
その、観るものは、あわれ、である。

恋の、あわれ、が、人生の、あわれ、となる。

女、和泉式部が、単なる、多情な女であれば、恋を透かして観た、人生の、あわれ、など、観ることはない。
単に、多情に翻弄されるだけである。
そういう者は、多い。
しかし、彼女は、違う。

あさましう、と、突き放しているのである。

あはれにはかなく
はかなしごと
それらを、突き放しているから、そのように、言うのである。

自分に、与えられた、生き方というものを、突き放すことが、出来た。つまり、それは、自分の人生を、演じるという、意識である。
自分の、脚本は、出来ている。それを、生きるだけである。

万葉の心を、自分の中にあるものとして、冷静に見つめることが、出来たのである。それは、彼女が、最初である。
万葉人は、それを、見ることなく、純粋、素直に、ただ、生きたのである。
これは、精神の分離である。

この、分離不安にあるものを、見つめることが、出来たということで、和泉式部は、平安期の、歌人として、後世に残るのである。

更に、あはれはかなき、と感じる心である。
あはれ、と、はかなき、という、心象風景を、同時に感じたのである。

あはれは、あはれ、はかなさは、はかなさ、である。

人のやることは、あはれと、はかなさ、に、集約されるという、大胆な、思想である。
思想体系の無い、思想と、いえる。

一言葉の思想である。

2008年03月15日

神仏は妄想である。47

新約聖書の、四福音書についての、誤り、嘘について、ドーキンスは、多くを語る。

その一つに、イエスが、ベトレヘムで、生まれたという、記述である。
ヨハネは、イエスが、ベトレヘムで生まれなかったことに、多くの人が、驚いたというが、マタイと、ルカは、ベトレヘムで、生まれたことになっている。

しかし、イエスが、そこに至った経緯は、違っている。
マタイは、イエスが生まれてから、ヘロメデ王と、罪無き子供たちの大量虐殺を逃れて、エジプトに移った帰りに、ナザレに移ったということになっている。
ルカは、マリアと、ヨゼフが、イエスの生まれる前に、ナザレに住んでいた。そして、予言を叶えるために、国勢調査のために、ベトレヘムという、ダビデの町に行くとなる。

実は、これは歴史的に、ナンセンスであると、ドーキンスは言う。
ダビデが、実在しているとすれば、一千年前の人物である。
いったい、何故、ローマ人は、一千年も前の先祖が、住んでいた町に、帰ることを、要求するだろうか、ということである。

また、ルカは、実に、軽率である。
国勢調査が、行われたのは、ヘロデ王が死んでから、ずっと後の、六世紀である。

ルカによる福音は、歴史的にありえず、内部矛盾しているとの、判断である。
要するに、物語なのである。
実に、崇高な物語である。

しかし世の中には、聖書が一から十まで本当だと思っている学識のないキリスト教徒がいっぱいいる。―――彼らは聖書を、実際に歴史の忠実で正確な記録であり、したがって彼らの宗教的信念を支持する証拠であると、まったく真剣に受け止めている。
ドーキンス

マタイが、イエスまで、28代をあいだに介しているのに対して、ルカは、41代であり、重複する名前が、ほとんどないのである。

いずれにせよ、もしイエスが処女から生まれたのであれば、ヨゼフの先祖などどいうでもよく、イエスのために、救世主はダビデの子孫であるにちがいないという「旧約聖書」の預言をかなえたくとも何の役にも立たない。
ドーキンス

要するに、信仰とは、学識も、歴史的事実も、どうでもいいのである。信じれば、事足りるのである。
つまり、騙されても、いいのである。それが、満足なのである。要するに、信じる物があれば、いい。
それも、十分に、心地よくなる、空間があり、夢み心地の、生ぬるい空気があれば、いいのである。
教会にいる時は、天使のようであり、外に出ると、鬼になれば、いいのである。
そういう、キリスト教徒を、私は、多く知っている。

小学四年の時に、世界の偉人伝の、イエス・キリストを読み、小学六年の時に、犬飼道子の、聖書物語を読み、私は、感動して、中学から、カトリック教会に通い、そして、15歳の年に、洗礼を受けた。
六年間ほど、熱心なキリスト教徒を、続けた。
その間には、学校で、学ぶことが、出来ないものを、多く、学んだ。
特に、西洋思想である。
そして、権威ある、世界的、権威ある、宗教の信者であることに、実に、満足していた。

そこで、他宗教を侮蔑していた。
救われない教えを、信じている者たちを、哀れんだ。
実に、真っ当な、クリスチャンであった。

しかし、神は、私に、真実を、お示しになった。?????

そんではないべーーー
おめえの、信じているものは、なんだのかーーー
も少し、考えて、みれーーーーーである。

まず、歴史である。
キリスト教が、何をしたのかである。
何を言うのかではなく、何をしたのかを、見れば、それは、明確にされる。

神の名においての、人殺しは、共産主義と、どっこいどっこい、である。

これほど、無慈悲に、人を殺すことが、できるという、驚きだった。

そして、日本の歴史である。
最初の、氏族争いは、何と、宗教戦争である。
蘇我氏と、物部氏である。

純粋な、戦いは、平家と源氏である。
戦国時代から、関が原の戦いに至るまで、宗教戦争ではないという、日本の歴史に、驚く。

西洋の戦争は、すべて、宗教戦争である。

ただ、日本にも、アホがいて、宗教にも、関わらず、武将に対抗した、浄土真宗、門徒の連中がいる。
親鸞も、真っ青であろう。
そんなことは、一言も、言っていないのだ。

それ以前は、僧兵という、組織である。
比叡山など。

何を言うのかではなく、何をしたのかを、見れば、それの姿が、解るのである。

信長が、比叡山焼き討ちをしたが、生ぬるかった。壊滅させて、良かったのである。
最も、仏教を堕落せしめた、天台宗である。

天台宗から、鎌倉仏教といわれる、新興宗教が、起こり、今に至るまで、害毒を、撒き散らし、さらに、その新宗教まで、起こっているのであり、それが、人心を惑わすのである。

死んで、成仏するという言葉は、実は、仏教のものではない。
日本は、元から、亡くなると、神になるという意味で、命、ミコトと、呼んだ。
それが、仏となるに、移行しただけである。
しかし、死んで仏に成るという、教えは、支離滅裂である。

仏陀は、輪廻転生を、離れて、仏になるというのであるから、全く、仏というものを、知らないのである。

西行の歌などにも、死ぬと、仏になるとあるから、すでに、死ぬと、仏だという、言い方が、当たり前だったのだろう。
つまり、日本の思想である。
仏教は、日本思想を離れて、日本仏教足りえない。
それなら、仏教の、教えなどいらない。

妄想で、出来上がった、仏教の教義など、いるわけがない。
仏陀の言葉さえあれば、いいのである。

つまり、何を言いたいのかと、言えば、各宗派の仏教は、いらない。
壊滅して、よし。

仏陀は、教義を説いたのではなく、生き方、その心得を、説いたのである。
妄想ではなく、地に足のついた、生き方である。
仏陀は、読経せよなど言わない。
葬式せよとも、言わない。

心、静かに、己を、見つめて、生きること。
我の主人は、我であることを、教えた。

仏陀は、私を奉れとは、一言も、言っていない。
己を信じ、真理の法を、拠り所とせよ、である。

大乗の教えとは、すべて、屁理屈である。
人の創作である。

さらに、文学であり、宗教ではない。

日本で、最初に、大乗に誤魔化されたのが、あの、聖徳太子と言われる、厩戸皇子である。
悪魔の法華経を講義したものだから、一族郎党皆、死に絶えた。
その血を、継ぐものは、いないのである。

私は言う。
一体、日本の仏教の開祖たちは、霊界の、どこに、いらっしゃるのでしょう。
信徒の一人も、それを、知らないという、悲惨である。
日本の伝統は、こうである。

心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん
菅原道真

神仏は妄想である。48

正典とされる四つの福音書のどれにも収められているもののほとんどは、共通の資料、すなわち「マルコ福音書」か、さもなくば、現存する派生本のうちで最古のものが「マルコによる福音書」であるような失われた本のいずれかから採られている。この四人の福音伝道者がどんな人物であったかは誰にもわからないが、彼らが直接イエスに会ったことがないのはほとんど確実である。

おそらくイエスは実在したのだろうが、著名な聖書学者たちが一般に「新約聖書」(「旧約聖書」は明らかに無理だろうが)を、歴史上実際に起こったことの信頼すべき記録であるとみなしているわけではなく、したがって私はこれ以上、いかなる種類の神であれ、聖書をその証拠とはみなさないことにする。トマス・ジェファーソンが彼の後継者であるジョン・アダムズに宛てて書いた先見の明ある言葉によれば、「父たる至高の存在によって処女の子宮で生み出されたというイエスの謎に満ちた誕生が、ミネルヴァがユピテルの脳のなかでつくられたというのと同じ寓話として分類される日が、いつかやってくるだろう」。

ドーキンスは、ここで、はっきりと、いかなる種類の神であれ、聖書をその証拠とはみなさないことにする、と断言する。

つまり、人間の頭で、作られた神という、観念であると、断言するのである。

この書は、その名の通り、神は妄想である。で、ある。

ダン・ブラウンの小説「ダビンチ・コード」とそれからつくられた映画は、教会内のさまざまなグループに大きな論争を巻き起こした。キリスト教徒たちはこの映画をボイコットし、上映している映画館にピケを張るよう促された。「ダ・ヴィンチ・コード」は実際には初めから終わりまででっちあげられたもので、作り話、こしらえられたフィクションである。その点ではまさに福音書とそっくりである。「ダ・ビンチ・コード」と福音書のあいだの唯一のちがいは、福音書が大昔のフィクションで、「ダ・ビンチ・コード」が現代のフィクションであることだけだ。

キリスト教神学は、パウロによる。
パウロは、イエスの死後に、回心する。
そして、イエスを、伝道するのである。その手紙が、根拠となり、神学が生まれる。勿論、ギリシャ哲学が、その後押しをするのであるが。

そこから、膨大な、教義が、生まれる。
すべて、人間の頭の中で、出来上がった言葉の世界である。
決して、神が、創るものではない。

さて、何度も言うが、真実が、明らかにされても、キリスト教徒は、それを無視する。
作られたもの、創作であると知っても、信仰を持ち続ける。

何故か。
そのようにしか、生きられないからである。

根拠の無い、お話による、信仰でも、霊性云々という話を聞くのである。
だから、私は、魔界のものだと、言う。
ありもしないことからの、霊性など、あろうばずもない。

更に言う。
イエスが、現れて言った。
聖母マリアが、現れて言った。等々の、お話は、信じるに足りないのである。
つまり、イエスやマリアを、判断する、何の、客観的、方法が無い。
幻視や、幻聴、幻覚を、イエスだ、マリアだという人々、多数。

世界を敵に回すことになっても、言う。
マザーテレサに、現れたイエスが、本当のイエスだとは、誰も、解らない。
本人が、イエスと、判断しただけである。
更に、私は乾く、と言った。貧しい者を、救え、と言った。
それが、イエスの言葉であるとは、誰も、判断出来ないのである。

それが、悪霊の場合もある。
浮遊霊の場合もある。
どうして、イエスの言葉なのか。
それは、マザーテレサが、そう、思い込んだのである。

マザーテレサが、成したことを、否定するのではない。
だが、インドという、土地での行為である。
あの、魔界関与の、凄まじい、差別の地での、行為である。
インドは、世界的聖者を生む土地である。そして、何人もの、聖者が出ても、何にも変わらないという、現実である。
魔界関与のインドの、聖者は、当然、魔界関与である。
それほど、最悪の土地なのである。

マザーテレサの行為は、インドにて、何の影響も与えなかった。
ただ、世界のキリスト教、や、人を助けたいという人に、影響を与えた。
広く言えば、人道主義的行為である。

だが、彼女は、主イエスに対する祈りによって、それを、根拠とした。
つまり、人道的行為でも、彼女は、カトリック信徒としての、行為である。
神様のために、という、命題があった。

もし、彼女が、一人の人間として、教会から、離れての活動ならば、それは、あまりにも、世界に対して、多くの挑戦をしたことになるが、あくまでも、カトリック教徒としての、行動である。

それは、教会の広告塔以外の何物でもないという、結論に達するのである。

孤立無援の行動ではなかったのである。
巨大教団が、後ろ盾にあるという、曇りである。

もっと、具体的に言えば、日本の巨大信仰宗教を見る。
信者からの、莫大な金集めで、トップは、世界中から、顕彰を受けている。さらに、大学の名誉教授等々の称号である。
すべて、信者の金による。
それで信者たちは、得意になるという。

世界の精神的指導者など言われているが、その根拠は、信者の金による。
この、曇りを、よくよく見れば、信者は、騙されているのである。しかし、それに気づかないほど、知的能力に欠けている。

例えば、実在のナザレのイエスは、少なくても、孤立無援の活動をした。
ユダヤ教の中にあって、神の愛を、説いた。それは、殺されるに、等しい行為である。
それを、行ったことに、私は、感動する。

組織を作り、信者を増やして、教団を作るということに、興味を示さず、孤立無援で、行為した。
そこに、後に、人が妄想を逞しくする、教えが、潜んでいた。

人を平気で、殺すほどの、教義を生んだという、悲劇であるが、それほど、強い活動の様であったと、想像する。

2008年03月16日

神仏は妄想である。49

宗教上の原理主義者たちは、自分は聖典を読んだのだから自分の考えは正しいという考え方をする人たちで、何をもってしても自分たちの信仰が変わることがないと、あらかじめ知っている。聖典の真理はいわば論理学でいう公理であって、推論の過程によって生み出される最終産物ではないのだ。聖典こそ真理であり、もし証拠がそれと矛盾するように思えるなら、捨て去るべきはその証拠であって、聖典ではない。それに対して、私が科学者として真実だと考えること(たとえば進化)は、聖典を読んだからではなく、証拠について調査・研究を行った上で、真実だとみなしているわけである。
神は妄想である。第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? より

ドーキンスは、謙虚である。
真実だとみなしているわけである。と、言う。
つまり、それが、覆された時には、それを、認めるということだ。

科学は、そのように、進んで、今まで、やってきた。
この、謙虚さがなければ、科学も、宗教と、同じになる。

証拠を捨てて、聖典を取るという行為は、単なる、拘りである。
つまり、拘りが、信仰である。

科学書がまちがっているときには、最後に誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。しかしそういうことは、聖典に関しては明らかに起こりえない。
ドーキンス

あるいは、新しい発見によって、聖典の解釈が、変わるということも、有り得る。しかし、聖典を、変えるということは、有り得ない。

どうしたって、都合の良いように、解釈する。
支配しやすいように、解釈すると、言う。
支配者という、権威ある者の、胸先三寸で、決まる。

私たちは、証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり、もし、それを反証するような新しい証拠が出されれば、一晩で放棄することになるだろう。本物の原理主義者はそんなことを言ったりしないものだ。
ドーキンス

一晩で、放棄するという。
科学は、このような人々に、支えられて、進歩してきた。
それは、まさに、知性である。

私が進化というものに寄せる信念は原理主義的ではなく、信仰でもない。なぜなら、もししかるべき証拠が出現したとすれば、自分は心を変える。しかも喜んでそうするだろうということを知っている。
ドーキンスは、このように、何度も、繰り返し言う。
これ、知性と、言う。

犯罪事件の捜査が、原理主義だったら、捜査は、進まない。
兎に角、犯人は、あいつだと、決定する。そして、お前が、犯人に決まっていると、言うのである。暴挙であろう。
証拠が、出て、はじめて、犯人を特定するのである。

論より証拠、とは、諺であるが、実に、その通りである。

仏教では、無常観というものを、大切にするが、実に、それに従うことはない。
無常観とは、考え方も、やり方も、流転してゆくということである。
無常観を、単に、人間が年を取り、死んでゆくという、安易な、感覚だけで、捉えているとしたら、大きな間違いである。

この世は、変化しつづけるというのである。

この変化を、捉える目を、知性という。そして、それは、感性に支えられる。更に、理性が、それを、認識させる。

千年も、二千年も、同じであるはずがない。

ただ今は、更に、進化が進んでいる。

原理主義は、千年前も、二千年前も、同じだというのである。そんなことは、有り得ない。

理解しやすい、事柄で言えば、現代の葬式は、次第に、僧侶を呼ぶ事のない、友人葬や、宗教色をとったものになっている。
ここで、葬儀の歴史を書くスペースはねないが、葬儀というものも、変転しているのである。
無宗教の葬儀が多くなったことについて、宗教家は、手出し出来ないのである。

すでに、葬儀屋が、主導権を握り、勿論、商売であから、どんどんと、客のニーズに合わせるようになる。
嘘偽りの、戒名などという、アホな、形式などは、最早、見抜かれている。

伊勢に、出掛けた時に、タクシー運転手は、言った。
もう、神道で、葬式をする人が大半だと。つまり、仏教では、訳のわからないお金が、かかるばかりだと。
伊勢とは、伊勢神宮の町である。

祖霊社という、神社があり、そこが、葬式を仕切っている。

亡くなれば、すべて、命、ミコトと、呼ばれて、葬儀が行われる。
死後、得度、つまり、仏弟子というような、戒名など、いらない。ということである。

友人の知り合いが、母親の戒名料に、400万円と言われた。
長い名前である。
そんな名前で、呼ばれても、霊界入りした人は、反応しない。
誰の名前を呼んでいるのかと、思うだけである。
実に、馬鹿馬鹿しいことをする。

仏陀は、一言も、そのようなことを言わない。

何を根拠に、戒名など、つけるのか。
私は、戒名についての、書籍を何冊も、読んでみたが、全く、意味の無い、説明である。
つまり、仏教、それも、大乗仏教の、亜流の亜流の、原理主義的、説明である。
話にならない。

もっとも、簡単な説明は、死者に対する、礼儀である。死者の自覚を促すものである。
その程度で、いい。
それならば、いくらでも、方法はある。

生前は、仏教など、何も知らない人が、突然、死後、長い仏弟子の名前を、つけられても、反応しないばかりか、変な、仏教霊界などに、輸送されては、たまったものではない。

宗教の霊界は、この世と、あの世の、隙間にある世界で、実に、おどろおどろしい。

そんな、世界から、開放されて、エネルギー満ち溢れる霊界に、入るべきである。

霊界とは、次元の違いで、数学では、証明済みである。
次に、物理学、量子力学によって、解明される日が近い。

霊能者も、びっくりの、霊界証明が、科学でなされる。
皆々、いかに、偽者かが、解る。

そうすると、ずるい宗教家たちは、そうなると、そうです、そうです、それが、お釈迦様が、言っていたことですと、なる。
どうにも、手の付けられない、ヤクザたちである。

2008年03月17日

この国の問題 3

昨年、2007年から、団塊の世代の、退職が始まった。
大量リタイアと言われる。
今年、来年の、三年間が、ピークである。

およそ、700万人が、退職する。

さらに、この世代の高齢化が、進み、65歳以上の高齢者人口は、2015年に、3277万人にまで、跳ね上がる。

様々な問題がある中で、私が心配するのは、10人に、4人と言われる、認知症の問題である。
おおよそ、団塊の世代の、認知症は、280万人である。

この、大量の認知症の、介護が、出来るのか。
介護保険など、吹っ飛ぶ。
さらに、施設と、働く人、介護士が、いない。

新宿や、渋谷の駅前に、認知症の老人が、ウロウロすることも、考えられる。

今でさえ、順番待ちである、施設の、状態である。

その子供が、親を見るには、限界があり、また、子供が、認知症の親の、面倒をみるなどということは、ほとんど、考えられないのである。
そのように、育てていない。

施設に入れない、高額な施設には、入れない。とすると、結果、その家族、つまり、配偶者や、子供が、見なければならない。
このことに対する、政策は、まだまだ、完備されたものではない。

政府は、介護士の東南アジアの国からの、特に、フィリピンからの、受け入れを決めているが、あまりの、ハードルの高さと、賃金の低さから、日本に来るという、介護士は、少ない。

現状も、無資格でも、外国人の若者を、雇用している、施設が多い。
日本人は、資格があっても、働かない。
賃金が安くて、生活も、ままならないからだ。

兎に角、税金の、無駄遣いは、当たり前にするが、このような、対策に、真剣に取り組んでいるとは、思えない。
それとも、団塊の世代は、罪深い者なのか、ここで、人生最後の、土壇場に来て、塗炭の苦しみに遭うことも、考えられる。

いくら、富裕層であっても、病には、勝てない。

認知症の次にくるのが、癌である。

団塊の世代の癌患者は、おおよそ、89万人である。
ただし、生存率が高くなっていて、2010年頃を目安に、五年生存率が、70パーセント、になるといわれ。

半数の癌が、治る時代になったのである。

それなのに、病床の空きがなくて、入院することが、出来ないという、事態に陥るのは、目に見えている。

癌にならないような、生活をすると言われるが、それでも、いずれは、癌になる。
長寿というのは、癌になるということである。
また、癌が、多くなったと言われるが、そうではなく、長生きするから、癌になるのである。

全体として、医者余りのようなことを、言われているが、先端技術を扱う専門医や、技師は、少ない。
どうでも、いい、医者は、多いが、必要な医者が、いないということである。

特別扱いされる、政治家は、いいが、医者や、病院に、ツテがない人は、死ぬのを、待つだけになる。

ターミナルケアという、最終医療の、充実を望むが、政治家でない、私は、ただ、繰言を、言うだけである。

後は、自分が、どうするのかを、考えておくだけである。
勿論、認知症になれば、どうでもよくなるのだろうが・・・

もののあわれについて179

かかるほどに八月にもなりぬれば、つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて七日ばかりもあらむとて、詣でぬ。宮、久しくなりぬるかなと思して、御文つかはすに、童「一日まかりてさぶらひしかば、石山になむこのごろおはしますなる」と申さすれば、宮「さは、今日は暮れぬ、つとめてまかれ」とて御文書かせたまひて、たまはせて、石山に行きたれば、仏の御前にはあらで、ふるさとのみ恋しくて、かかる歩も引きかへたる身の有様と思ふに、いともの悲しうて、まめやかに仏を念じたてまつるほどに、高蘭のしものかたに人けはひすれば、あやしく見下したれば、この童なり。

石山詣での、くだりである。

こうしているうちに、八月にもなりましたので、宮様の訪れもない、つれづれの、慰めに、女は、石山に詣でて、七日ほど、籠もることにしました。
宮様は、ご無沙汰久しくなったと、思われて、御文を、送られようとしますと、小舎人童が、「この前に、伺いましたところ、近頃は、石山に、お出かけされているという、話でございます」と、人づてに、申し上げますと、「それでは、今日も、日が暮れました。明日の朝、早く行きなさい」と、仰せになり、御文を、書かれて、童に、くだされました。

童が、石山に行きますと、仏の前に、女は、いませんでした。

都のことが、恋しくて、このような、参籠をするにつけても、変わり果てた身よと、思いますと、心悲しくなります。
心を込めて、仏を、念じていますと、高欄の下に、人の気配がします。
おかしいと、思い、見下ろしますと、この童がいました。

まめやかに
仏を、念ずるという。
心を込めてと、現代訳するが、それでは、足りない。
要するに、表現は、雅に、入ってきている。

いともの悲しうて
仏を参るのに、このような、意識であったというのが、面白い。
当時の、仏信仰の様が、見える。

最初に、つれづれもなぐさむとて、とある。
なぐさむ存在としての、仏であったというのが、真相である。

浄土宗、浄土思想の仏に、浸る様を、見るものである。

我を、慰める存在の、仏である。
そして、その心は、いともの悲しうて、なのである。

仏教というものの、一端を理解する上で、大切な、証言である。

空虚な心を、埋める存在としての、仏。
万葉時代には、無い、病である。
抑うつ状態である。

すでに、現代病の、抑うつ反応が、始まっていたのである。

この、いもの悲しう、という、感覚を、麻痺されているのが、現代であろう。
麻痺していることを、知らずに、また、それに気づかないように、忙しなく、生きる、生活する。そして、事の真相を、見ずに、終わるという、パターンが、人生であると、言えるのかもしれない。

和泉式部は、この、いともの悲しうものを、観た一人である。
一体、人生とは、何なのか。
万葉時代に、萌えていた、更に、燃えていた、命の讃歌。それは、どうしてしまったのか。

恋そのものに、ぶつけていた、生きるということを、何かで、複雑化してゆく様を、観る。

あはれに思ひかけぬところに来たれば、「なにぞ」と問はすれば、御文さし出たるも、つねよりもふと引きあけて見れば、宮「いと心深う入りたまひにけるをなむ、などかくなむとものたまはせざりけむ。ほだしまでこそおぼさざらぬ、おくらかしたまふ、心憂く」とて、


関越えて 今日ぞ問ふとや 人は知る 思ひたえせぬ 心づかいを

いつか出でさせたまふ」とあり。

思いがけない場所で、童を見ましたので、嬉しく「どうしましたか」と、尋ねますと、宮様からの、御文を差し出します。
いつもより、心急いて開けてみます。
「たいそう、信心深くして、お籠もりになられますのに、どうして、教えてくださいませんのか。私を、仏道の、妨げになると、思われないのでしょうが、後に残して行かれたのが、切なく思われます」


せきこえて きょうぞとふとや ひとはしる おもひえせぬ こころづかいを

逢坂の関を越えて、今日、お便りするとは、お思いになりましたか。
思ひたえせぬ
愛の思いの、絶えない、私のことを、知ってください。

山を、いつ、お出に、なられますか。と、書かれて、ありました。

ほだしまでこそ
妨げになるもの、という意味。

おくらかしたまふ、心憂く
後に残されことが、切ないという。

逢坂の関とは、心の状態である。
逢う為に、越える、心の、関である。
逢いたいと、思う心が、関を、押し切るのである。

空虚な、心を埋めるもの、それは、恋であった。


2008年03月18日

もののあわれについて180

近うてだにいとおぼつかなくなしたまふに、かくわざとたづねたまへる、をかしうて、


あふみぢは 忘れぬめりと 見しものを 関うち越えて 問ふ人やたれ

いつかとのたまはせたるは、おぼろげに思ひたまへ入りにしかば。


山ながら 憂きはたつとも 都へは いつか打出の 浜はみるべき

と聞こえたれば、宮「苦しくとも行く」とて、宮「問ふ人とか、あさましの御もの言ひや。


たづね行く あふさか山の かひもなく おぼめくばかり 忘るべしやは

まことや、


憂きにより ひたやごもりと 思ふとも あふみのうみは 打ち出てを見よ

「憂きたびごとにとこそ言ふなれ」とのたまはせたれば、ただかく、


関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ

とて、端に、


こころみに おのが心も こころみむ いざ都へと 来てさそひみよ

近くに住んでいましても、間遠くなりますのに、このように、お便りを、下さったことが、嬉しくて


あふみぢは わすれぬめりと みしものを せきうちこえて とふひとやたれ

お逢いすることを、お忘れになっていると、思いましたが、逢坂の関を越えて、お便りを、下さったものは、どなたでしょうか。

いつ帰るのかと、仰せになりますが、いい加減な気持ちで、お籠もりしたのではありません。


やまながら うきはたつとも みやこへは いつかうちでの はまはみるべき

山に籠もったまま、切ないことがあっても、このまま、都へ出るために、打出の浜を、見て帰ることが、ありましょうか。

と、申し上げますと、宮様は、「苦しくても、行きなさい」と、仰せになり、「問う人は、誰かと、おっしゃいましたが、何と、あきれた、物言いでしょうか。


うきにより ひたやごもりと おもふとも あふみのうみは うちでてをみよ

世を、いとって、ひたすら山籠もりを、と思われたにせよ、私に逢うために、山を出て、あふみの海を、見てくださいませ。

憂き度ごとに、身を投げると、谷が浅くなると、世間では、申しますけれど、と仰せになられましたので、
つまり、古今集の、読み人知らず
 世の中の 憂きたびごとに 身を投げば 深き谷こそ 浅くなりなめ 
を、踏まえたもの。

ただ、次のように、


せきやまの せきとめられぬ なみだこそ あふみのうみと ながれいづらめ

逢瀬を待って、せき止められない、この涙です。この涙が、琵琶湖の水になって、流れ出ることでしょう。

と書き、その端に、

こころみに おのがこころも こころみむ いざみやこへと きてさそいみよ

山籠もりの決意が、どのようなものであるのか、試してみましょう。
さあ、都へ帰れと、いらしてくだされば、その決意も、失せてしまうかもしれません。

いざ都へと 来てさそいみよ
とは、実に、痛快である。

さあ、都へ、帰りましょうと、来て、誘って下さい。

こころみに おのが心も こころみむ

試してみましょう、私自身をと、言うが、本当は、宮の心を、試したいのである。
ここまで、来て、くれるだろうか、と、思いつつ。

歌の、やり取りの、面白さを、充分に、楽しめる、日記である。

様に、文脈を、読むという、間を、読む、面白さである。

日本文学が、和歌を、母体にしてあるということ、確実である。
間合いを、読むとは、世界に、類が無い。
それは、和歌の省略による。

いざ都へと 来てさそいみよ
これを、説明するために、どれほどの、文章が、必要か。
長々と、その意味を、書き綴る必要がある。
しかし、日本人であれば、言わずとも、解るのである。

もののあわれ、というもの、間合いにある。
つまり、言葉に出来ない、言葉にしない、間合いに、もののあわれ、というものを、観るのである。

埋め尽くさない言葉の世界の、間合いを、もののあわれ、と言う。

2008年03月19日

神仏は妄想である。50

科学者として、私が原理主義的な宗教を敵視するのは、それが科学的な営為を積極的に堕落させるからである。それは私たちに、おまえは心変わりしてはいけない、知ることが可能な興味深い事柄を知ろうと思ってはいけないと教える。そして科学を破壊し、知力を減退させるのだ。
ドーキンス

更に、悲劇的な、天才科学者の、話が載っている。
結果的に、聖書の、毒に、負けて、原理主義的行為により、夢と希望と、科学、証拠、そして、理性を投げ捨てたのである。

ドーキンスは、言う。
彼の、なすべきは聖書を投げ捨てることだけだった。と。

原理主義的な宗教は、おびただしい数の、無辜の、善意で情熱のある若者の心を荒廃させることに専心している。非原理主義的で「分別のある」宗教は、そんなことをしていないのかもしれない。しかし、そうした宗教にしても、子供たちがきわめて幼いときから、「疑うことのない無条件の信仰が美徳である」と教えることによって、原理主義者に好都合な世界をつくっているのである。

原理主義とは、知性を捨て、感性を鈍らせ、そして、理性をなき物にするのである。

単なる、作り話に、すべてを、懸けるという、愚劣さである。

それは、あまりにも、稚拙で、愚かな行為であるが、本人たちは、全く意に介さず、黙々と、進む。
偏狭というより、魔の世界へ、進む。
霊学から、言えば、魔界に、進むのである。

この世に、絶対ということは、無いと、言う、イエス・キリストの言葉さえも、神のみは、絶対であるという、解釈に立って、原理的教義となる。

この世に絶対的なものは、無いとは、神というものも、絶対という観念は無いということである。
しかし、このように、書くこと自体が、観念である。
だから、神という言葉自体に、どうしようもない観念まみれの、観念がつくということである。
日本人の、生活観の中には、宗教以前に、自然というものが、厳然としてあった。
それは、観念ではない。
しかし、言わせると、アニミズムと言われる。精霊信仰というらしいが、それも、別物である。
在って、在る物、自然との、共生であり、共感である。

それを、アニミズムという、言葉、つまり、観念を作るという、欧米の思想である。

日本人は、それ、アニミズムを突き切っていた。
自然の物に、精霊ではない。
自然の物、そのものが、本質である。

その物が、本質であるという、物の見方は、世界広しといえども、日本だけである。

精霊ではなく、物に、心が、着くと、観たのである。
つまり、物は、心に相当した。

目の前に在る物は、心である。と、観た。
その心に、対座したのが、古神道と言われる所作である。
所作とは、作法である。

目の前の木は、私の心である。
そうして、その心である、木に対して、注意を払い、特別な場を作り、結界という場である、それを、張り、褒め称える言葉を、述べた。祝詞である。
我に、我を、褒め称えた。

古神道の、所作は、皆、ここから、生まれでたものである。

自然は、我であるから、我の如くに、大切にするのである。

日本人が、持つ自然に対する考え方が、他民族と、違うのは、それである。
勿論、今は、それが、廃って、久しい。
回復を、願うが、果たして、それを、教え伝えるべき人は、いるのか、私には、解らない。

最後に、自然に帰結する、日本人には、原理主義というものが無い。あるとすれば、自然のみであり、それは、尽きることの無い、自然であるから、すべてが、自然に隠れてしまうのである。
死を、隠れると、看破した、日本人である。
それを、宗教観と、言うなかれ、それは、自然観なのである。
日本人には、自然観のみしかない。

万葉集には、恋の歌が、八割である。
それは、恋が、性という、人間の自然と、直通していたからである。
性が、人間の自然であったことを、教えるものである。

神道という言葉さえなかった時、仏教、仏の道と、対して、果たして、我が国の、ものを、何と言うのかと、考えた。
孝徳天皇が、初めて、神の道、神道という言葉を使用したのが、始まりである。
仏も、異国の神として、取り扱った。
そして、我が国の神である。
実際、そんな意識もなかった。

この国に、以前からある、所作を、呼ぶために、唯神、かんながら、神の道を、名乗ったのである。

神の国という言葉も、鎌倉時代を、待たなければならなかったのである。
それ以前は、そんな意識も無い。

自然に対する所作を、改めて、云々する必要がなかったのである。
仏の観念が、そのように、神観念を生ませることとなる。

日本語も、兎も角、日本人の精神というものも、純粋培養されたものである。
島国であったから、それが、可能だった。
それを、最大限に生かすことが、日本の再生と、回復を、促す。

それは、日本の原理主義に陥ることではない。
世界に向けて、日本の精神の有り様を、提示することである。
そこで、共感を得られることが、世界に貢献することになる。

日本人の自然観が、偏狭な、宗教観、宗教感覚を、緩和するからだ。

神仏は妄想である。51

「旧約聖書」におけるもっとも過酷な罰は、神への冒涜に対して科せられるものである。それはいまでもいくつかの国で実施されている。パキスタンの刑法第295条C項では、この「罪」に死刑が与えられると規定されている。2001年の8月18日に、医学博士で大学講師のユニス・シェイク博士は、神を冒涜したかどで死刑を宣告された。彼が犯したとされる罪は、学生に向かって、預言者ムハンマドは40歳のときにイスラム教を創始するまではイスラム教徒ではなかったと語ったことである。

2006年にはアフガニスタンで、アブドゥル・ラーマンがキリスト教に改宗した罪で死刑を宣告された。彼は誰か人を殺したのか、誰かを傷つけたのか、何かを損壊したのだろうか?
いや、彼がしたことは、心変わりだけだった。心のうちで個人的に、心変わりしたのだ。彼は、自国の支配的な党派の好みではない、特定の思想を心に抱いただけである。そしてこれが、タリバンのアフガニスタンではなく、アメリカ主導の連立によってつくられたハミド・カイザルの「解放された」アフガニスタンで起こったことだということを思い出してほしい。ラーマン氏は結局は死刑を免れたが、「裁判に耐えられる精神状態てせはない」との理由で釈放されただけである。しかも国際的な強い圧力がかかってやっと、そういうことになったのであった。彼は現在、イスラム教徒の義務をなんとかして果たそうとする狂信者に殺されるのを避けるために、イタリアに亡命中である。

第8章 「絶対主義の負の側面」より

更に、驚くべきことは、
思い起こしてほしいのだが、背教は、特定の人物や預言者を実際に傷つける罪ではない。それはジョージ・オーゥエルの「1984年」の用語を使えば、純粋な思考犯罪であり、イスラム法のもとでのその公式な罰は死刑なのである。サウジアラビアで1992年9月3日に実際に執行された一例をあげれば、サディク・アブドゥル・カリム・マララハは、背教と冒涜の罪を法的に宣告されたあと、公開斬首された。

驚くべき、絶対主義の様子である。

勿論、イスラムだけではない。キリスト教国にも、冒涜罪はある。
書き始めると、キリが無いので、省略する。

「旧約聖書」という、暴力は、とてつもないほどのものである。
何故、そのようになってしまうのか。
「偏狭な頑迷さ、非情な残忍さ、負の意地悪さ、背筋が寒くなるほどに思い起こさせるものである」と、ドーキンスは言う。

更に、思い起こして欲しい。
イスラム教の派閥争い、イスラム対キリスト教、イスラム対仏教、キリスト教の派閥争い。ヒンドゥー教対イスラム等々、すべての、争いの元は、宗教である。
何故か。

それらは、支配者層の、一部による、偏狭な支配欲によるものである。
神の名を語り、自分の支配欲を、満たす行為としか、判断できないのである。
いつまで、このような、愚昧な、行為を続けるつもりであろうか。

「旧約聖書」の神権政治のもとでの生活がどのようなものであったかについて、それが現代に再現されたらどんなに恐ろしいことになるかがわかるというものだ。と、ドーキンスは言う。

宗教、神、仏とは、皆々、これらに似る。
平和な宗教などというものは、無いのである。

それは、作られた物語の、思い込みによって成る。それを、信じ切って、膨大な、暴力的な妄想に、浸るということである。
そこには、これこそが、唯一の、絶対のとの、冠がつく。
一つを、断定するという、大きな誤りに、身を沈めるのである。

故に、言う。
これのみに、よるという、宗教は、皆、同じ根にあると。

イエス・キリストは、ユダヤ人であるが、多くのキリスト像は、白人として、描かれるという、不思議である。
その、白人優位の考え方が、キリスト教を持ち上げ、ついには、白人のキリスト教となり、それを、正義として、色付き人間に、十字架を拝ませるという、暴挙に出る。
アメリカ大陸を見れば、解る。

アメリカという国でさえ、清教徒たちが、インデアンを、皆殺しにして、作り上げた国である。さらに、それ以前の、スペイン植民地化政策では、一億もの、人間を殺して、キリスト教を、拝ませるのに、成功した。
あまりにも、驚くべきことで、それらは、忘れ去られたようになっている。

どれとぼの、民族浄化、それは、宗教浄化なのであるが、多くの人を、殺しつくしたのである。
何度も言うが、共産主義と、宗教が、殺した人の数は、星の数ほどである。

真っ当な神経を、持っていれば、冷静に、判断できるというものであるが、妄想に、囚われたら最後、知性も感性も、そして、理性も、失うのである。

神、仏、というもの、確実に、妄想である。

ドーキンスは、科学者として言う。私は、霊学の立場から言う。

我は神、とか、仏とかと、言う場合は、それは、霊である。
霊が、それを、名乗るのである。
そして、それを、名乗る霊というものは、ほとんどが、魔界のもの。つまり、霊界とは、別空間の、魔物である。
別次元でもある。

霊に関しても、私の、妄想であると、判断されても、善し。

傲慢な、有神論者より、謙虚な無神論者の方が、真っ当である。

物事を、捉えるのに、様々な、方法がある。
360度の、ものの捉え方がある。
更に言えば、360掛ける360度まで、広がる。そうして、ゆけば、無限大に、広がる。
その、広がりを、認められる人によって、平和が、保たれる。

科学は、宇宙の、ほんの少しを、知っただけであるが、それでも、妄想より、すば抜けて、優れている。それは、証拠による、客観性があるからだ。
そして、新しい発見により、以前の考えが訂正されると、以前の考えを、見事に捨てるのである。

しかし、宗教は、絶対に、そのような、柔軟な姿勢は無い。

他宗教を、攻撃する者に、平和主義はいない。
さらに、選民意識を持つ、宗教は、世界の、平和の障害であり、世界の、害毒である。

支配欲が、頂点に達すると、すべて、唯一絶対の神を、祭り上げる。
それを、人々に拝ませて、更に、絶対支配を目指すのである。

敗戦後の、日本に来た、GHQは、真っ先に、神社の調査を開始した。
まず、精神的支柱となる、神社の教えを、破壊しようとした。
しかし、神社に行くと、神主が、ただ、棒を振るだけで、人は、手を打ち、礼をするのみである。説教も無い。
調べ進めて、何も無いと、判断した。

日本人の、精神的支柱を、探し当てることが、出来なかった。

聖書に、匹敵する、書物は無い。
教祖や、教義も無い。

彼らの、理解する、範疇には、入らないのである。

破壊しようにも、何を、どのように、破壊するのかが、解らない。
結果は、セックスと、スポーツと、マスコミである。
アメリカ型の、思想教育である。

敗戦によって、穴のあいた、日本人の心に、アメリカ型が、スッポリと、入った。ああ、簡単なことだったと、思ったことだろう。

そして、乗り込んできたのが、プロテスタントのキリスト教布教である。
ボランティア活動と、共に、アメリカから、一斉にやって来た。
勿論、戦争前から、それらの、布教の心意気は、旺盛だった。それが、敗戦によって、ここぞと、ばかりに、乗り込んだ。

勿論、聖書絶対主義である。
聖書の神を、唯一の神として、教える。
日本人に、新しい罪意識を、教えて、そこからの、救いを説くという、傲慢である。

その罪意識は、すべて、人間の生きる欲望を言うから、笑う。
日本の伝統は、欲望を、恵みと、捉えるのである。

もう、その手には、乗らない。

2008年03月20日

チベット暴動

チベット問題である。

中国という国、その九割の中国人は、日本の侵略を、言うが、自分たち、特に、共産党の者どもは、チベット侵略に関しては、平然としているという、仰天である。

共産主義というのは、宗教と、同じで、平然として、人を殺す。

チベットも、数百万人が、殺された。

日本の原爆被害以上である。

中国には、55の、少数部族がいる。
その人口は、1億643万人であり、総人口の、8,41パーセントである。
他は、皆、漢民族である。

今回の、暴動は、必然的なもの。
いつか、いつかと、思いを膨らませていた者が、ここにきて、我慢の限界にきたのである。
これは、一度火がつくと、終わらない。
昔のように、武力で、弾圧するというのは、国際社会が、許さない。
もし、それを、すれば、北京五輪も、夢の泡となる。

ダライ・ラマも、北京五輪が、ポイントになると、昨年、ヨーロッパ訪問の際に、言っている。

ただし、少なくても、チベットは、仏教という、平和思想を、持つ。

これが、ウイグル自治区では、そうは、いかない。
イスラムだからである。

今回のことを、きっかけに、ウイグルが、動けば、とんでもないことになる。

少数部族の、居住区は、国境地帯が、多数である。
中国政府は、国防の上からも、特に、分離、独立を、厳しく取り締まってきた。
また、その地域の、自然豊富な、資源である。
手放せないはずである。

共産主義というのは、支配者主義であるから、上層部のためにあるような、組織を作る。
日本では、共産主義というものを、正しく認識する共産主義者は、少ない。

未だに、理想の共産主義は、行われていないという、アホなことを言う、共産主義に、凝り固まった者がいる。
宗教の、救いと、同じ、妄想を、信じ込んでいるという様である。

今回の、暴動を、きっかけに、少数部族の、活動が、活発になることは、必至である。

ダライ・ラマは、今回の暴動が、平和的、非暴力に行われることを、示唆するが、チベット人が、それを、成さない場合は、引退するとのこと。
つまり、自分の力では、最早、どうすることも、出来ないと、気づいたようである。

それでは、チベット人は、最後の最後まで、中国と、戦うということになる。
それは、戦争である。

チベット、ウイグル、台湾が蜂起したら、どうする。
戦争である。

中国は、歴史を、お勉強するべきである。

この国の問題4

若者殺しの時代 堀井憲一郎著

この本が、気になって、時々、繰り返して読む。話し言葉で、実に解りやすい。
易しい表現なのだが、妙に、響くのである。

やんわりと、殺されてゆく、若者たちに、エールを送っているような、または、早く、逃げ道を、探せと言うような。
最終の言葉は、
すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。
うまく、逃げてくれ。
と、ある。

若者のことを、こんな風に、考えている大人がいるということである。

「そもそも社会システムの1タームの基本はおよそ60年である。それは、一人の人間が使いものになる期間が、だいたい60年だからだ。15歳から75歳くらいまで、社会システムの耐用年数と人一人ぶんの生涯と、だいたいリンクしている。それはシステムの継続が人間の記憶をもとにしているからだ。」

「日本が近代国家を始めたのが1868年。そのシステムをやめたのが1945年。これは78年もった。大敗戦後のシステムは1945年に始めて、さてどこまで延命できるだろうか。早いとこ2015年。もって2030年だ。」

1945年から、日本は、伝統を捨てて、走ってきた。
それで、残ったものは、何だったのか。

文化ではなく、文明だった。
文明の象徴は、携帯電話である。
すべてのこと、携帯電話で、説明することが、出来るほどである。

携帯電話を、一度持つと、手放すことは、出来ない。
携帯電話は、私である。
私は、携帯電話なのである。

使い切れないほどの、機能がついている。
必要ないと、思っても、ついている。
それを、すぐに使いこなすのは、子供や、若者である。

携帯電話が、世の終わりを告げていると、知る人は少ない。
霊感がなくても、世界の人と、すぐに、会話や、メールで、連絡が取れる。

私は、タイから、日本に電話をする時に、携帯電話を使う。
通常の電話より、使い易いのだ。
場所を、選ばない。

世が終わるというのは、1999年の7月ではなかった。
ゆっくりと、終わるのである。

時間を、かけて、ゆっくりとである。

終わりということの、意味を言う。
意識の終わりである。

つまり、意識操作されるということである。
最新の心理学では、自由意志というものは、無いというところまで、進化している。
これは、携帯電話の、危険性を、裏付ける。

人は、自由に意思決定をしていると、思い込んでいるということであり、実は、何かに、意思決定を、操作されているということである。

テレビマスコミより、確実に、大衆操作が、出来るという意味で、携帯電話は、利用価値大である。

ゆっくりと、システムが、移行する時、何によって、移行されるのか。
無意識に、働きかけるものである。
それの、役目を、携帯電話が負う。

通常、何者かに、思考が左右されていると、感じる場合は、統合失調症の病である。
すでに、携帯電話は、それを、成しているのである。

先に、霊感がなくても、遠くの人との、コミニケーションが取れると、言った。
携帯電話によって、人は、万能感を得たのである。
これ以上のものがあるか。

文化を創造していない、文明は、崩壊する。

明治維新は、幕藩体制の崩壊であった。
敗戦は、近代国家の崩壊であった。

その時、どのような、状態に、大衆が置かれたか。
次は、それ以上の、大変革が、行われる。

大化の改新、飛鳥維新の時は、天皇政治の、幕開けであった。

若者殺しの時代は、滅び行く、最後に、ついている若者のことである。
一緒に、沈没するなと、堀井憲一郎氏は、言う。

松下電器は、社名を変更して、統一した。
一つの例である。
日本から離れてもいいことを、善しとしたのである。
日本の企業でなくても、いいのである。

公務員のリストラは、すでに、始まっている。
財政破綻の、地方都市からは、人が逃げる。
民族の大移動に似た、人の移動が始まる。

更に、恐ろしいのは、戦争の危機である。

敗戦後、銀行が封鎖されて、預貯金が、消えた事実がある。

ゆるやかに、システムが、変更されている時、突然、機が巡り、泡を吹くことあり。
若者は、その末尾にいて、沈まないようにとの、メッセージである。

我が内に、文化を養わない者は、再起不能に、陥る危険性が高いのである。

文化とは、学問、技芸である。
ただし、学問の場合は、有意義な学問である。
ただ今の、大学での、学問では、役に立たない。
独学の、気迫を、持つことである。

2008年03月21日

もののあわれについて181

思ひもかけぬに行くものにもがなとおぼせど、いかでかは。かかるほどに出でにけり。宮「さそひみよとありしを、いそぎ出でたまひにければなむ。


あさましや 法の山路に 入りさして 都の方へ たれさひいけむ

御返、ただかくなむ、


山を出でて 暗き道にぞ たどり来し 今ひとたびの あふことにより

晦日がたに、風いたく吹きて、野分たちて雨など降るに、つねよりももの心細くてながむるに、御文あり。例の折知り顔にのたまはせたるに、日ごろの罪もゆるしきこえぬべし。


嘆きつつ 秋のみ空を ながむれば 雲うちさわぎ 風ぞはげしき

御返し。


秋風は 気色吹くだに 悲しきに かき曇る日は いふかたぞなき

げにさぞあらむかしとおぼせど、例のほどへぬ。


宮様は、女の、思いがけない時に、訪ねてみようと思いましたが、どうして、お出になることが、できましょう。
このようにしているうちに、女は、山を下りて行きました。
宮様は、「来て、誘ってみなさい」と、詠んだのに、急に、山から、帰ってきましたので、


あさましや のりのやまじに いりさして みやこのかたへ たれさそひけむ

呆れてしまいました。仏道に、専念されているはずでしたのに、途中で、戻るとは。
誰が、誘ったのでしょう。

御返しが、一種、詠まれました。


やまをいでて くらきみちにぞ たどりこし いまひとたびの あふことにより

参篭の山から、悩み多い、世の中に戻りました。
もう、ひとたび、宮様に逢いたいがために。

月末の頃、いたく風が吹きました。
野分めいて、雨が降りました。
女は、常より、いっそう心細く思いました。
そこへ、宮様から、御文がありました。
いつものように、趣のある、様子です。日頃の、ご無沙汰の罪も、許していいと、思いました。


なげきつつ あきのみそらを ながむれば くもうちさわぎ かぜぞはげしき

嘆きならが、お逢いできない、秋の空を、眺めています。
雲が騒ぎ、風が、激しく吹いています。私の心の如くに。

御返し

あきかぜは けしきふくだに かなしきに かきくもるひは いふかたぞなき

秋風は、吹く気配だけでも、悲しいものです。
このように、曇った日は、言いようもなく、悲しいものです。

宮様は、女の歌を、御覧になり、その通りであろうと、思いますが、いつものように、空しく、過ぎていくのでした。

なげきつつ
あきのみそらを ながむれば
くもうちさわぎ かぜぞはげしき

万葉に近い感覚である。
しかし、更に、複雑な、心境になっている。

ここで、話は、全く別になるが、みそら、美空、御空、というように、自然の様に対して、尊称しているという、事実である。

海神、わだつみ、とは、海である。神と、尊称するのである。

ここには、長い、年月の、意識の、積み重ねがある。
雷を、雷神とも、呼ぶというように。

自然に対して、擬人化しているというよりも、自然を、崇敬していると、みるのである。

日本の伝統は、ここに、尽きる。
自然に対する、心の所作である。

自然の前に、佇む時、古人たちは、現代の私たちとは、全く違った意識の、あり方を、したということである。

中国思想、道教、儒教、そして、仏教が輸入されても、日本流に、変容させた、その、根本エネルギーは、この、自然対する所作があったからである。

確かに、思想や、信仰の対象として、扱ったが、それ以前の、自然崇敬が、根本にあるため、歪な、洗脳を、自然に避けたと言える。

ここに、日本人の、日本の精神の、重大な、秘密が、隠されている。
自然を、蔑ろにしての、思想も、信仰も無いということだ。
自然を、尊称する、つまり、自然との、共感、共生があるゆえに、柔軟な精神の、思想、信仰の、受容である。

40年ほど前、日本教という言葉が、流行った。
日本の精神自体が、宗教なのであるというもの。それは、ユダヤ人と、比較された。
ユダヤ教徒は、ユダヤ人である。
日本教徒は、日本人である。

しかし、それは、大きな誤りである。
そもそも、西洋の宗教という、概念で、日本の精神を、計るということが、誤りである。
日本には、宗教は無い。
あるのは、宗教的、所作である。

それは、世界でも、稀なことである。
それ程、日本の自然は、他に無い程の、充実した、完成された、自然の様であるという、風土なのである。

神の国と、言われるのは、自然の国であるというのと、同じ意味である。

自然に隠れて、あそばす、カミの、存在を、実感していた。
あそばす、とは、最高の敬語である。

俗に言う、思想体系のある、神学や、教義など、一切必要の無い、自然の、豊かさを、有していたのである。

もののあわれ、というもの、自然に隠れて、あそばす、カミの、本質である。

あえて、それを、教義と言えば、日本教の、教義は、もののあわれ、である。
それ以外の、言葉は、必要無い。

それを、また、日本人は、技芸の中で、生活の中で、表現してきたのである。

生き方、そのもので、表現してきたのである。

日本人の、生き方の、最高の姿は、もののあわれ、に、生きるということであった。

天皇から、庶民に、至るまで、日本人は、皆、平等に、自然に隠れる、カミ、もののあわれ、を、生きて、表現してきた民族なのである。

そして、それの、判断は、感受性による。
以下省略。

もののあわれについて182

九月二十日あまりばかりの有明の月に御目さまして、「いみじう久しうもなりにけるかな。あはれ、この月は見るらむかし、人やあるらむ」とおぼせど、例の童ばかりを御供にておはしまして、門をたたかせたまふに、女、目をさまして、よろづ思ひつづけ臥したるほどなりけり。すべてこのごろは、折りからや、もの心細く、つねよりもあはれにおぼえて、ながめてぞありける。

九月二十日過ぎの、有明の月に、宮様は、目を覚まされて、「いたくご無沙汰してしまいました。あはれ、この月を、あの人も、眺めているだろう」とお思いになって、いつものように、童だけを、お連れになって、女の門に、訪れて、叩かせました。
女は、目を覚まして、あれこれと、物思いに耽って、臥していました。
すべて、この頃は、秋の季節のせいでしょうか、心細く、いつもより、あはれに思われ、物思いに耽っていました。


あやし、誰ならむと思ひて、罪なる人を起こして問わせむとすれど、とみにも起きず、からうじて起こしても、ここかしこのものにあたり騒ぐほどに、たたきやみぬ。「帰りぬるにやあらむ、いぎたなしとおぼされぬるにこそ、みの思はぬさまなれ。おなじ心にまだ寝ざりける人かな、たれならむ」と思ふ。からうじて起きて、下男「人もなかりけり。そら耳をこそ聞きおはさうじて、夜のほどろにまどわかさるる。騒がしの殿のおもとたちや」とて、また寝む。女は寝で、やがて明かしつ。いみじう霧たる空をながめつつ、明かくなりぬれば、このあかつき起きのほどのことどもを、ものに書きつくるほどにぞ例の御文ある。ただかくぞ、


秋の夜の 有明の月の 入るまでに やすらひかねて 帰りにしかな


おかしい、誰であろうか。
前に眠る、侍女を、起こして、聞こうとしますが、すぐに、目を覚ましません。
やっと起きると、あちこちのものに、ぶつかり、うろたえていますうちに、物音は、止まりました。
「帰られたらしい。私を、さぞ、寝坊だと、思われたでしょう。それでは、いかにも、物思いの知らぬ、女のようでした。でも、私と同じように、まだ、寝ずにいた人がいるのです。一体、誰なのでしょう」
やっと、下男が、起きてきて、「人などいません。聞き違いをして、真夜中に、お騒がせするとは、人騒がせな、女房さんたちだ」と、また、寝てしましました。
女は、寝ないまま、夜を明かしました。
いたく、たちこめる、霧の空を眺めていますと、明るくなってきました。
この、暁のことなどを、書き付けていましたらところ、例のように、御文がありました。
ただ、次のように、


あきのよの ありあけのつきの いるまでに やすらひかねて かえりにしかな

秋の夜の、有明の月が、山の端に入ってしまうまで、門前に、佇んでいるわけにも、いきませんので、帰りました。

あはれ、この月は見るらむかし
ここでは、感嘆符のように、扱う。

つねよりもあはれにおぼえて
いつもより、あはれに、思えてという意味。

当時の、あはれ、という言葉の、感触が、解る。

ある感情の、一つではない。
複雑な、感情の様を、あはれ、と言う。
複合的であり、更に、感嘆符にもなるという、あはれ、という言葉である。

あはれ、悲しい
ああ、悲しい、と、訳してもいい。

名状し難い思いにある時、あはれ、という言葉が出る。

まめまろしく、細やかなことも、あはれ、である。
物思いも、あはれ、である。
嘆息することも、あはれ、である。

これが、源氏物語で、より、明確に、晒される。

人の心の、機微にあるもの、とされる。
目には清かに見えぬ、間合い、間の、心の、有り様である。
さらに、もの、すべてが、あはれ、を、帯びる。

万葉は、あはれ、が、曖昧である。
感じてはいるが、あはれ、という言葉に至らぬほど、単純素朴である。

この頃になると、間合いにあるもの、間に、あるものを、あはれ、と、認識する。

他に、表現できない、心の様、また、所作の様を、更に、物の、有様をも、あはれ、と観るようになる。

蕾も、あはれ、花咲くも、あはれ、花散るも、あはれ、となる。

あはれ、にある、表情は、無限大に広がるのである。

日本人の、情感の元にある、感情である、もののあわれ、というものである。
更に言えば、感受性である。
もののあわれ、というものを、感じ取る、感受性の、様である。

あはれ、という、三文字に、集約させたということを、分析するためには、大和言葉にある、一音の意味を、探ることである。

あア はア れエ
ここでは、エという音に、重要な意味がある。


2008年03月22日

神仏は妄想である。52

タリバン支配下のアフガニスタンでは、同性愛に対する正式な罰則は、囚人の体の上に壁を倒して生き埋めにするという、趣味のいい方法による処刑だった。こうして罰せられる、同性愛という「犯罪」それ自体は個人的な行為で、成人どうしによって合意の上でおこなわれ、ほかの誰にもいかなる危害も与えないものである。これもまた、宗教絶対主義の古典的な特徴といえよう。
ドーキンス

英国でも、同性愛は、1967年まで、犯罪的行為だった。

宗教ほど、差別を好むものはない。
同性愛の、問題は、象徴である。
兎に角、宗教は、人を差別する。
その最もたるものは、他宗教に対してである。

偏見と、誤解に満ちて、差別を、繰り返すという、愚劣。

イスラムの、ムハンマドが、たまたま、好色で、何人の女を、妻にしたというだけである。それで、異性愛は、良し、しかし、同性愛は、駄目ということである。
旧約聖書の、神は、生めよ増やせと、一夫多妻を奨励する。
勿論、甚だしい、男尊女卑である。

女は、男の付属物であり、家畜と、同じように、勘定した。

同性愛を、禁じた、キリスト教国で、同性愛が、実に盛んであるということ、皮肉である。

歴史上、同性愛で、結ばれた、軍隊が、最も強いということが、知られている。
例えば、アレクサンダー大王である。
支配者が、恐れることは、同性愛の団体が、最強になることを、知っている。それらが、謀反を起こすと、国が転覆することもある。

「アメリカのタリバン」の同性愛に対する態度も、宗教的絶対主義を典型的に表すものと言える。
ドーキンス

リバテイー大学の設立者、ジェリー・ファルウェル牧師の話に耳を傾けてみよう。「エイズは単に同性愛者に対する神の懲罰というだけではない。それは同性愛に寛容な社会に対する懲罰なのだ」こういう類の人々について、私がまず気づくのは、彼らの見上げたキリスト教的慈愛である。

道徳を狭い宗教的観点のみ理解し、同じ絶対主義的な信仰を共有しないどんな人間からも、脅かされるように感じるような種類の・・・
ドーキンス

私見である。
エイズという、病を、同性愛に、結びつけて、差別の対象とする、意欲のある者たちが、いるということである。
それでは、鳥インフルエンザを、誰のせいにするのか。

神の怒りによって、起こった病と、言うのであろうか。

宗教指導者は、霊能者と同じで、何とでも、言う。
すべて、主観であるから、何とでも、言える。
実に、馬鹿馬鹿しい。

「キリスト教徒の政治活動を支持するカトリック教徒」という団体の会長であるゲイリー・ポッターはこんなことを述べている。「キリスト教徒がこの国の支配権を得た暁には、悪の教会はなくなり、ポルノが自由に配布されることも、同性愛者の権利について語られることもなくなるであろう。多数派のキリスト教徒が権力を得たのちは、多元主義は不道徳で邪悪なものとみなされるようになり、国家は、誰に対してであれ悪をなす権利を許さないであろう」。「悪」は、この引用できわめて明らかなように、人に悪い結果をもたらす行為をおこなうことを意味していない。それは「多数派のキリスト教徒」の好みではない私的個人の思考や行動を意味しているのである。

恐るべき、傲慢極まりない、宗教的独善である。
こういうことを、平然として、述べることが、出来るという、アメリカである。

好みというが、それも、教えられたものであり、個人的意見ではない。
ある、一定の指導者の、好みを、全員の、好みにするというものである。

すべてを、神の意にという信仰は、実は、すべてを、宗教指導者に、託すという、自己放棄を言うのである。
これは、恐ろしい、混迷である。

この世の、迷いは、宗教が、与える教義である。

更に、驚くべきことは、神の代理として、人を裁くという、暴挙である。

ウェスト・パプテスト教会のフレッド・フェルプス牧師も、同性愛に対して強迫観念的な嫌悪をもつ有力な説教師の一人である。マーティン・ルーサー・キングの未亡人が死んだとき、フレッド牧師は彼女の葬儀を阻止するピケを組織し、こう宣言した。「神はゲイおよびゲイを容認する人間を憎む! ゆえに、神は憎むべきコレッタ・スコット・キングをいまや地獄の業火で責めさいなんでおり、そこで苦しみはけっして止まず、火はけっして消えず、彼女の苦しみの煙は永遠に立ち上りつづけるだろう」。

フェルプスは、1991年以来、米国、カナダ、ヨルダンおよびイラクで、「エイズを与えた髪に感謝しよう」といったスローガンを掲げて、二万二千回の反同性愛デモを組織している。
さらに、特定の、死亡した、同性愛者が地獄で焼かれる日数が、自動計算機で、表示される、サイトを作っているという。

これは、狂信である。
完全に、魔神に、やられている。

ちなみに、私の経験と、心理学的考察によれば、同性愛を、嫌悪する、その強さほど、その人が、同性愛に傾くという、事実がある。
我が内にある、同性愛傾向を、極端に恐れていると、解釈できるのだ。

ここで、言いたいことは、このように、傲慢に成るという、事実である。
何故か。
信じる者は、強くなるが、それは、傲慢になるということと、同じだということである。

実に、野蛮でもある。
死者を、裁くという行為を、平然として出来るのである。死者を裁くのは、神のみであると、彼らは、言っているはずであるが、それを、忘れるほど、傲慢に成る。

同性愛に対する態度は、宗教的な信念によって吹き込まれた道徳心がどのようなものであるかについて、多くのことを明らかにしてくれる。同じように示唆に富んだ実例を提供してくれるのが、妊娠中絶と人間の命の尊厳というテーマだ。
ドーキンス

チベット暴動2

毛沢東の、共産党が行った、チベット侵略の様は、悲惨そのものであった。
あまりに、悲惨で、内容が書けない程である。

日本の侵略に、あれ程の、エネルギーを使い、更に、反日教育は、凄まじかった。
日本企業が進出しているが、初期の頃の、企業の大半は、騙された。

十二年前に、上海に行き、日本企業の多くの方と、会ったが、日本人だけの会員制バーでの、話を聞いて、驚いた。
いかに、騙されるかという、話で一杯だった。

共産党とは、支配層の特権主義であり、理想とするような、主義ではない。言えば、宗教と、同じである。同じであるがゆえに、反目する。

チベット族は、あの高原で、静かに暮らす民族である。
更に、チベット仏教という、独特の風情を持つ宗教を奉じて、平和的である。

何故、中国が、再三の、ダライ・ラマの、申し出にもかかわらず、対話の席につかないかである。

スーダン西部の、ダルフール紛争を、見ればよい。
自分の利益のみを、優先させて、後は、どうでもいいのである。
武器を、どんどんと運び、虐殺の、お手伝いをするという。

勿論、ロシア、アメリカも、昔、そうであった。
以下省略。

中国政府が、発表するものは、まず、本当ではない。
暴動の、きっかけも、分離独立を求めるものではない。
チベット族の、暮らしを、守るものである。
多くの、漢族、回族の、チベット地区への、流入を防ぐものである。
同化政策に反対しての、僧侶たちの、ストライキである。
最初に、軍が、攻撃した。

そんなことは、中国共産党の、手口を知れば、すぐに解ることである。

漢族が、日本の侵略の、大捏造を、子孫に、話して、日本に敵を討つことを言うように、チベットの、若者は、どのように、侵略されたのかを、正しく、聞いている。
今回、中国政府が、ダライ・ラマなどとの、対話をしなければ、チベットの若者は、日本流に言えば、城を枕に討ち死にの覚悟で、戦うだろう。

そこまで、追い詰められているのである。

このままで、いけば、チベット族は、最下層に入れられ、若者に、仕事さえもない状態になるのである。

漢族、回族の支配の下の下になる。
今でさえ、真っ当な生活を出来る者は少ない。

チベット仏教を、中国共産党が、認定するということが、まず、おかしい。
それを、認定出来るのは、最高位の、ダライ・ラマである。
中国政府が、認定した、活仏と、ダライ・ラマが、認定した、活仏は、違う。

アホも、休み休みである。

五輪を控えて、チベット族は、最後の賭けをする。
積年の恨みを、晴らすのである。

封じ込め政策をするほどに、チベット族は、反発する。
巨大ダム崩壊も、蟻の一突きから、始まるのである。

余計な一言を言う。
霊学から見る。

チベット密教の祈りは、ある、霊界の力を引き出す。
祈りの力を知る私は、彼らの、純真な祈りを知るものである。

更に、虐殺された者の、想念は、残るのである。
中国全土に、奇病、難病が、広がり、塗炭の苦しみに、喘ぐことになる。

勿論、呪いの祈りは、しない。
純真な祈りである。それでも、そうなる。

この世は、あの世に支配されるのである。
唯物主義の者には、理解できないのである。

本来、密教とは、バラモンの、呪術であるところから、発した。
チベット密教は、それに、土着の信仰と結びついて、特殊な、霊的波動を発するのである。

彼らは、祈りで、人を殺すことが出来る。それを、しないのは、ひとえに、それが、信仰の邪道だからである。

だが、タガが、外れることもある。

デモを、やっているうちは、良い。
一点に絞り、祈りを、始めた時は、共産党幹部が、一人、また、一人と、倒れる。

これ以上は、僭越行為である。
以下省略。

2008年03月23日

神仏は妄想である。53

ヒト胚は人間の生命の見本である。したがって、絶対主義的宗教に照らしてみれば、中絶は単純に悪である。つまりれっきとした殺人なのである。胎児の生命を奪うことにもっとも熱心に反対している人の多くが、成人の命を奪うことに人並み以上に熱狂的であるようにも思えるという、確証に乏しいことを認めざるをえない私の観察を、どう判断していいのか確信がない。(公正のために言うと、通常もっとも苛烈な中絶反対論者とみなされるローマ・カトリック教徒は、これに当てはまらない)
ドーキンス

私も、同じように、考えている。
そこで、次の記述である。

けれども、生まれ変わったキリスト教徒のジョージ・W・ブッシュは、現代の宗教的支配勢力の典型である。彼と彼らは、それが胎児の命(あるいは末期患者の命)であるかぎりは、人間の生命の熱烈な擁護者―――まちがいなく多くの命を救うことになるばすの医学研究さえ阻止することも辞さないーーーである。

最悪の、クライスターという武器で、平然として、人殺しを命ずる者が、胎児となると、突然、守れと、言う、矛盾。

イラクで、アメリカの若者が、どれほど、命を失ったのか。
まるで、感じていない様子である。

これ程の、矛盾を抱えても、平然としていられるというのは、ご病気ではないかと、私には、思えるのだが・・・

人格障害の中でも、嘘をつくことを、平然と出来る病がある。
彼の地の、大統領は、人格障害であると、断定出来るのである。しかし、それが、宗教的絶対主義から、出ていると、すると、あるいは、宗教、そのものに、病の、種があると、思うのである。

次に、ドーキンスは、世界的、聖者と言われる、マザーテレサについて、言及する。私も、ここまでは、言わないが、ここまで、言うのである。

カルカッタのマザー・テレサは、ノーベル賞受賞講演において実際に、「妊娠中絶こそ、最大の平和破壊者です」と言った。なぜなのか? このような偏った判断力しかない女性の発言を、どんな話題についてであれ、真面目に受け止めることがどうしてできるのだろう。まして、ノーベル賞に真面目に値すると考えることがどうしてできるのだろう? 聖人ぶった偽善者マザー・テレサに騙されたいという誘惑に駆られた人間は誰でも、クリストファー・ヒッチェンズの「宣教師の立場」―――マザー・テレサの理論と実践」を読むべきである。

霊学の立場から、言えば、中絶は、三ヶ月以内に行うべきであると言う。
つまり、霊体が、肉体に定着する前である。

日本の場合を見ると、中絶によって、子供を下ろした場合は、水子供養という、商売が、大流行である。
供養商売は、日本仏教の、得意分野である。

更に悪いのは、水子による、霊的障害を、云々する、霊能者の多数である。
何を、基準に、それを、言うのかは、解らない。多分、気分的なものだろうと、思う。

水子を供養して、息子や娘の、行状が、良くなった等の、話があるが、果たして、それが、どれ程、信憑性があるのだろうか。
それは、先祖供養にも、言える。

運が悪く、先祖の墓参りをしてから、とんとん拍子に、運が良くなり、商売はじめ、すべてが、好転したというが、果たして、たった、一人の経験談を、掲げて、先祖供養、絶対必要と、言えるものだろうか。

中絶した、女性の、弱い心を、弄ぶ、とんでもない、商売であると、言っておく。

更に、水子という、霊なるもの、勝手な、妄想の想念の、場合、多々あり。
胚を、流して、それが、どうして、一人前の、霊と、認定するのか、不思議である。

それならば、昔から、口減らしとして、生まれた子供を、すぐに、殺した場合の、多数の霊は、どうするのか。
人間の一生は、供養で終わるのだろうか。

アメリカのタリバンに話を戻して、妊娠中絶に手を貸す人間を脅迫するための組織である(オペレーション・レスキュー)の創設者、ランドール・チリーの言い分を聞いてみよう。「私、あるいは私のような人間がこの国の実権を握ったら、あなたたちは逃げ出したほうがいい。なぜなら、われわれはあなたたちを見つけ、あなたたちを裁き、あなたたちを処刑するからである。私は掛け値なしに言っているのだ。私は彼らが裁かれ、処刑されるよう取り計らうことをこれからも使命の一環としていく」。チリーがここで呼びかけているのは、中絶手術をおこなう医師たちであるが、彼を動かしているキリスト教的な霊感がどのようなものか、別の発言に明確に示されている。

私はおまえたちの上に、不寛容な波がどっと押し寄せることを望む。そうだ、憎しみは正しいのだ。・・・われわれが目標とするのはキリスト教国家の建設である。われわれには聖書に定められた義務があり、われわれはこの国を征服するよう神に命じられている。われわれは敵に自分たちと同等の時間を与えるつもりはない。われわれは多元主義を望まない。
われわれの目標は単純でなければならない。われわれは神の法、十戒にもとづいて構築されたキリスト教国家をもたなければならない。言い訳は無用だ。

キリスト教ファシスト国家を、望む者。そして、イスラム教ファシスト国家を、望む者。
これで、世界平和など、望むべくもない。

甚だしい程、馬鹿げたことであるが、現実である。

彼らは、違う意見を、持つ者を、平気で殺す。しかし、胎児や、胚を、流すことを、禁じるという、大きな矛盾である。

旧約聖書にある、ユダヤ十二氏族の、子孫というものは、余程、野蛮極まりない者なのだろう。
アブラハム、イサク、ヤコブの神という、旧約の神である。
ヤコブから、ユダヤ十二氏族が、現れる。

それらの、遺伝を受け持つ者、このように、野蛮極まりない者なのである。

そして、アラブの民は、アブラハムが、召使の、エジプトの女に産ませた、子供の、子孫であり、聖書にあるように、野蛮極まりない者と、言われる。
それが、イスラムの元。

多元主義を、排斥する、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

世界が、国境により、区分けされているのではない。よく言えば、文明により、区分けされている。最悪に言えば、宗教により、区分けされている。

それらは、すべて、妄想の産物である。
胎児と、胚については、次に続ける。

神仏は妄想である。54

彼らにとって、問題ははるかに単純である。胚は「赤ん坊」であり、それを殺すのは殺人である、それだけのことだ。これで議論はおしまい。
ドーキンス

しかし、この絶対主義的な立場をとるとするなら、いろいろな問題が引き起こされることになる。手始めに、胚幹細胞を使った研究は、医科学にとって大きな可能性を含んでいるにもかかわらず止めさせなければならない。なぜなら、それは胚細胞の死をともなうからである。社会がすでに人工授精を受け入れていることを考えてみれば、その一貫性のなさは明らかだろう。

つまり、受精卵を、十数個も作るが、使用するのは、一個か二個である。他の受精卵は、殺される、という、表現が出来る。

さらに、アホなことに、その、受精卵を救えという、絶対主義的立場を取る者も、出始めたという。

強迫神経症である。

帰結主義者あるいは功利主義者なら、おそらくこれとは非常に異なったやり方で、中絶問題をアプローチするだろうーーーすなはち、苦しみの軽重を判定するのである。胚(胎児)は苦しむだろうか(おそらく、神経系ができる以前に中絶されればそうではないだろう。神経系ができているだけの月齢に達していてさえ、たとえば屠畜場の成牛ほども苦しまないことは確かだろう)? 妊婦、あるいはその家族は、もし彼女が中絶をしなければ苦しむだろうか? その可能性はきわめて高い。そしていずれにせよ、胚が神経系を欠いていることを考えれば、母親のよく発達した神経系のほうをとるべきではないだろうか?

絶対主義的宗教の、感情論によって、多くの無明が、まかり通るという、実際を、見るものである。

胚をわざわざ「赤ん坊」と呼び、それを守るために殺人をする用意のある人々がいる。
ドーキンス

胚は、殺すな、しかし、胚を殺す者は、殺すというのだから、話に、ならないのである。

人道的とか、道徳的とか、全く話しにならない、絶対主義的宗教の、有様である。

ドーハンスは、彼らの矛盾を、徹底的に、炙り出している。

アメリカは、キリスト教原理主義によって、中絶の反対、同性愛の、反対、等々、聖書主義にのっとって、判定する。
そして、それを、国家意識にまでも、高めようとしている。

そして、同じように、聖書主義にのっとっている、イスラムも、そうであるが、両者が、決して、和解しないのは、何故か。
不思議である。

問題の核は、聖書絶対主義にあるのだ。

さらに、イスラムは、イスラム帝国を、キリスト教徒は、世界のキリスト教制覇である。

妊娠中絶の、問題は、単なる、一つの、方法である。

そして、それを、誰が指揮するのか。
宗教指導者である。
彼らの、胸先三寸で、決まる。

宗教上の絶対主義がもつ負の側面を明らかにするなかで私は、中絶クリニックを爆破したアメリカのキリスト教徒と、アフガニスタンのタリバンに言及した。彼らの、とくに女性に対する一連の残虐行為については、あまりの痛ましさゆえに列挙することができなかった。
ドーキンス

聖戦主義者を突き崩す最良の方法は、イスラム教徒女性の反乱を引き起こすことだ。
ロンドン・インディペンデント紙の、コラムニスト、ジョアン・ハリ

旧約聖書の、女性蔑視は、半端ではない。
家畜以下の、存在である。

人間とは、男のことを言うのである。
つまり、女は、人間もどき、ということになる。
その、女性蔑視は、ただ事ではない。

勿論、ウーマンリブ行為などは、完全に、皆殺しにあうだろう。

「旧約聖書」の神は、おそらくまちがいなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である。嫉妬深くて、そのことを自慢している。けちくさく、不当で、容赦のない支配魔。執念深く、血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをするいじめっ子だ。
神がいるという仮説 より

日本のキリスト教、作家たちは、この、旧約聖書の神を、神として、受け入れ、それぞれが、旧約聖書について、非常に好意的に、書いているという、驚きである。
さらに、熱心に、その神に、祈りを、捧げるという、仰天である。
更に、驚くことは、日本の天照大神などを、神話、御伽噺の、神様と、信じきっていることである。しまいに、日本には、神不在などという、馬鹿げたことを、平然として言うという、様である。

日本に、このような、変な神観念が、なかったことが、実に、幸いであった。

旧約聖書には、近親相姦など、平然として行う人物が、登場するという、驚きもある。

兎に角、野蛮であるということは、疑い得ない。
それを、信奉している、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

何度も言うが、そこにある、霊性というものを、考える時に、それは、魔界からのものと、判断する以外にないのである。

ヨブ記という、章があるが、神への信仰の篤い、ヨブの話であるが、どうみても、サドマゾなのである。
苦しみを与える神、それを、一つ一つ、耐え忍ぶヨブ、そして、最後の最後に、祈りは、聞き入れられるという、オチである。

それは、信仰深い者の、話なのであるかと、疑うが、そのように、解釈するという、教会の教えである。
このような、感受性を持つ、民族というのは、矢張り、生きた動物を、生け贄として、神に捧げる民族の、感受性なのである。
ちなみに、日本には、生き血を流すような、生け贄の儀式は、無い。

2008年03月24日

チベット暴動3

ダライ・ラマ14世は、非暴力である。
そして、それを、チベット人に訴えている。

中国政府は、三千人体制で、電子メールなどを監視し、チベット側に、偽情報を流している。
更に、中国政府の出す、チベット情報は、皆、操作されたもの。
チベット僧侶、若者などが、暴力的であることを、示す映像のみ、公開する。

最初に、デモの僧侶に、攻撃を仕掛けたのは、軍である。

自分たちの、都合の良いことには、手段を選ばないのである。
共産主義とは、そういうものである。
理想の、共産主義実現までは、それも、許されると、考える、アホが、共産主義者である。
大いに、笑う。

チベット自治区の、ジャーナリストたちには、報道の自由などない。
ところが、これほど、インターネットが普及している。
情報は、漏れる。

チベットの、若者を、中心にして、これが最後の戦い。
これが、最後のチャンスだと、感じている。

東ドイツ崩壊、ソ連崩壊と、共産国の崩壊は、実に、鮮やかに行われた。

現在というものも、歴史の中にある。
現在は、歴史の外にあるのではない。

良質な情報は、将来を占う情報になる。
今は、世界の情報を、手に入れられる。
反日原理主義でなければ、真実を、見極めるのである。

チベット問題も、情報戦になる。

五輪と共に、経済崩壊、そして、国内分断。

共産党政権の嘘八百を、人民は、見ている。
単なる、支配者層の、生活のために、利用される人民である。
共産党幹部が、行っている、様々な、利権の有り様を、見ている。
国内騒乱は、すでに、始まった。

巨大ダムの、決壊は、一瞬のうちにして、起こる。

共産党政権の、取るべき方法は、一つ。暴力である。
軍を、全土に配備しての、徹底支配の様を、見せ付ける。
国際社会は、改めて、中国共産党の、有様を、認識する。

チベットを、きっかけに、北から、南から、そして東から、中央が、追い詰められる。

まさかが、まさかではなくなる。
歴史を見れば、一目瞭然である。

歴史を、上下左右から見る、訓練をするべきである。
すべての、人間の問題は、歴史に書かれてある。
そして、その答えも、歴史に書かれてある。
その、答えは、しかし、無常である。

日本の歴史は、もののあわれ、である。
歴史を、作るものは、血の流れた人間であることを、日本人は、知っている。
主義や、主張ではない。

理屈ではないということ。
だが、アホは、思想、言葉が先だという。
違う。

歴史は、人間の祈りにあるという。
祝詞である。

日本人は、御祭りをして、祖先を崇敬し、祈りつつ、国造りを成してきた。稀にみる国である。
改めて、天皇の存在の、重大さを、知る。
祈りの存在の象徴である。

島国である、日本は、チベットの悲劇を、理解するには、相当な、歴史認識が必要である。

道端に座る、若者に、日本の歴史を、語りたくなる、私の気持ちを、理解して、もらえるだろうか。
私という、我を、認識するのは、歴史なのである。
歴史とは、私の心の内にあるのである。

もののあわれについて183

「いでやげに、いかに口をしきものにおぼしつらむ」と思ふよりも、「なお折ふしは過ぐしたまはずかし。げにあはれなりつる空のけしきを見たまひける」と思ふに、をかしうて、この手習のやうに書きいたるを、やがて引き結びてたてまつる。御覧ずれば、
風の音、木の葉の残りあるまじげに吹きたる、つねよりもものあはれにおぼゆ。ことごとしうかき曇るものから、ただ気色ばかり雨うち降るは、せむかたなくあはれにおぼえて、


秋のうちは 朽ちはてぬべし ことはりの 時雨にたれか 袖はからまし

女は、「どんなにか、つまらぬ、女と、思われたことか」と思い、更に、「やはり、折節の、あわれは、お見逃しではありません。確かに、美しい空の気色を、御覧になられました」と、思いますと、嬉しく、先ほど、手習いのように、書き置いたものを、引き結び手、差し上げます。
見れば、木の葉の、一枚さへ、残りそうもなく、激しく吹いています。
いつもより、あわれに、思われます。
空は、真っ黒く曇っていますが、ただ、ほんの少し、雨が降りますのは、どうすることもなく、あわれに、身にしみて、


あきのうちは くちはてぬべし ことはりの しぐれにたれか そではからまし

秋のうちに、私の袖は、朽ちて、しまいましょう。定めの時雨が、降ってきましたら、誰の、袖を、借りれば、いいのでしょう。

ものあはれにおぼゆ
風情深く思われる。

せむかたなくあはれにおぼえて
どうすることもなく、身にしみて、思う。

あはれ、というものの、複合的、意味合いを、ここに、みる。

あはれ、とは、こういう意味ですと、断定できない、広い意味合いがあるということが、理解できる。

何度も言う。
あはれ、というものを、このようであると、断定できないのである。
ゆえに、源氏物語にては、所作に、それを、表現しようとするのである。

更に、自然、時節の、自然の様に、それを、表現しようとする。

あはれ、という、言葉を使用する時にある、心は、表し得ない、心の様を、言う時に、生かされる。

ここで、言う、ものあはれ、とは、もののあわれ、のことである。

本居宣長が、源氏物語におれる、もののあわれ、というものを、検証した以前に、すでに、もののあわれ、というものは、表現されていた。
源氏からではなく、すべてに、もののあわれ、という、心象風景は、あったということである。

源氏物語は、その、象徴的なものである。

私は、物語より、和泉式部日記、あるいは、日記の類にある、もののあわれ、というものを、見て、さらに、それを、深めるべきだと、思っている。

更に、和歌における、もののあわれ、という、心象風景である。

名歌に、貫かれている、もの、それは、もののあわれ、である。

万葉以後の、歌は、もののあわれ、を、表現するものであると、私は、考える。
勿論、歌の内容は、もののあわれ、というものを、直接的に、表現するものではない。しかし、すべての、歌に流れているもの、それは、もののあわれ、であると、言える。

せむかたなくあはれにおぼえて
どうしょうもなく、切なく思えて、とか、深く、身にしみて、とか、心に深く感じて、とか、様々に、訳すことが、出来る。

感傷文学として、もののあわれ、に転じて、という、研究家、作家がいるが、大きな誤りである。単なる、感傷ではない。
それこそが、本質であった。

感傷に、限定されるような、心象風景ではない。
それは、浅はかである。

漢文による、ある種の、思想的、言葉の世界と、対比させて、言うのであろうが、それは、撹乱されているということである。
漢文の、書物にある、漢字という、独立言語の、意味合いに、深みを、感じるというのは、理解出来るが、それは、平仮名の、一音の意味を、知らないから、である。

つまり、軽率なのである。

あはれ、というより、慈悲という言葉に、意味深さを、感じるという、病である。

または、哀れ、憐れ、無常、無情、などに、意味深さを、感じるという、軽率である。

あア、はア、れエ
この、アとは、拓く、開く、明るい。
エとは、抑える、治める、収める、納める、修める、という意味がある。

エは、留まるなのである。
または、留めるである。

思いを、留めると、考えてよい。

行間、間合い、間の、思いを、留めるということは、表現し得ない思い、言い合わせない思いというものを、更に、留めるという意味になる。

和歌に、おける、言葉の省略の、その、省略された言葉、行間を、もののあわれ、というもので、収めるのである。

2008年03月25日

もののあわれについて184

するもの嘆かしと思へど知る人もなし。草の色さへ見しにもあらずなりゆけば、しぐれむほどの久しさもまだきにおぼゆる風に、心苦しげにうちなびきたるには、ただ今も消えぬべき露のわが身ぞあやふく、草葉につけてかなしきままに、奥へも入らでやがて端に臥したれば、つゆ寝らるべくもあらず、人はみなうちとけ寝たるに、そのことと思ひわくべきにあらねば、つくづくと目をのみさまして、なごりなう恨めしう思ひ臥したるほどに、雁のはつかにうち鳴きたる、人はかくもしや思はざるらむ、いみじうたへがたきここちして、


まどろまで あはれ幾夜に なりぬらむ ただ雁がねを 聞くわざにして

とのみして明かさむよりはとて、つま戸をおし開けたれば、大空に西のかたぶきたる月のかげ、遠くすみわたりて見ゆるに、霧りたる空のけしき、鐘の声、鳥の音ひとつにひびきあひて、さらに、過ぎにし方、いま、行末のことども、かがる折はあらじと、袖のしづくさへあはれにめづらかなり。


われならぬ 人もさぞ見む 長月の 有明の月に しかじあはれは

嘆いてみても、知る人もいません。
草の色までも、まるで、今までと違って見えます。
時雨が、くるまでには、まだ、間があると、思っていましたのに、早々と、時雨を、運んできた風に、草草も、なびいています。
それを、見ていると、今の今、露のように、消えてしまいそうな、わが身が、あやうく思えて、草葉を、見るにつけ、心悲しく思います。
奥にも、入らず、端近くに、臥していました。
少しも、眠ることは、できません。
人は皆、ぐっすりと、眠っていますのに、定まらぬ心の、乱れたままに、目を覚まして、いました。
一途に、心の憂さを、嘆いて、臥していますと、雁が、かすかに、鳴きわたります。
人は、私のように、思わないでしょうが、私は、いたく、悲しく思いました。


まどろまで あはれいくよに なりぬらむ ただかりがねを きくわざにして

まどろみもせず、幾夜を、過ごしたことでしょう。ただ、雁がねを、聞くことのみにして。

このように、雁の声を聞くばかりで、夜を、明かすよりはと、思い、妻戸を押し開けて、外を見ますと、西へ傾いた月の光が、大空に、遠く澄み渡って見えます。
霧の、かかった、空の様子も、見えて、鐘の声、鳥の声が、溶け合い、過ぎた日のこと、また、今のこと、行末のことを、思います。
このように、趣のある、時間は、中々ないと思い、袖を濡らす、涙までが、常とは、違い、しみじみと、いたします。


われならぬ ひともさぞみむ ながつきの ありあけのつきに しかじあはれは

私ではない人も、同じように、見るのでしょう。九月の、有明の月に、及ぶ趣のあるものは、ないでしょうと。

しかじあはれは
趣と、訳してもよい。

あはれ、は、おもむき、でもある。

趣、おもむき、とは、有り様、そのままの、様が、深く心に、訴えるという。

平安期の、雅は、趣でも、あった。

みやび、おもむき、である。
雅やかとは、派手なことではない。
趣のあることである。

趣のあるとは、そこに、あって、有る様にである。
そこに、相応しい、姿である。

平安期の、美意識である。
素朴であるものを、強調する、美意識である。
原色の美とも、言う。
草木で、染めた、そのままの色。古代色である。

それは、万葉から、始まったが、強調するという、意識が、働いたのである。

だが、自然の有り様には、矢張り、叶わない。
秋の月、有明の月という、朝明けの前の、月は、また、翳りのある、光である。

煌々と照る、光よりも、翳りある月の光を、趣と、感じる感性である。

それは、しかじあはれは、となる。

あはれ、という言葉に託す思いは、実に、複合的である。
語彙が、無かったのではない。
あはれ、と、表現するしか、言いようが無いのである。

心に、深く染み入るものや、事柄を、あはれ、と表現する。

実に、日本人の、感受性に、流れるもの、それは、もののあわれ、である。

一筋に、貫通、それが、もののあわれ、である。

2008年03月26日

もののあわれについて。185

ただ今、この門をうちたたかする人あらむ、いかにおぼえなむ。いでや、たれかかくて明かす人あらむ。


よそにても おなじ心に 有明の 月を見るやと たれに問はまし

宮わたりにや聞こえましと思ふに、たてまつりたれば、うち見たまひて、かひなくはおぼされねど、ながめいたらむにふとやらむとおぼして、つかはす。女、ながめ出だしていたるにもて来たれば、あへなきここちして引き開けたれば、


秋のうちは 朽ちけるものを 人もさは わが袖とのみ 思ひけるかな

消えぬべき 露のいのちと 思はずは 久しき菊に かかりやはせぬ

まどろまで 雲居の雁の 音を聞くは 心づからの わざにぞありける

われならぬ 人も有明の 空をのみ おなじ心に ながめけるかな

よそにても 君ばかりこそ 月見めと 思ひて行きし 今朝ぞくやしき

いと開けがたりつるをこそ」とあるに、なほもの聞こえさせたるかひはありかし。


ただ今、この家の門を、叩いて、訪れる人がありましたら、どんなに嬉しいでしょう。
私のように、夜を明かす人が、いましょうか。


よそにても おなじこころに ありあけの つきをみるやと たれにとはまし

他の所で、私と同じように、有明の月を見ていますかと、誰に尋ねれば、いいのてしょう。

文を、宮様に差し上げようと思いしまたので、お目にかけました。
宮様は、それを、御覧になり、読み応えのあるものと、思われました。
そして、女が、物思いに、浸っているうちに、返事をしようと、御文を、つかわしました。

女は、外を眺めつつ、物思いに、耽っていましたが、そこへ、宮様から、お返事がありました。
あまりの、早い返事に、張り合いのない気分になりましたが、開いてみます。


あきのうちは くちけるものを ひともさは わがそでとのみ おもひけるかな

秋のうちに、私の袖も、涙で、朽ちてしまいました。あなたも、わが袖のことばかりを、思っていました。

きえぬべき つゆのいのちと おもはずは ひさしききくに かかりやはせぬ

消えてしまう、儚い、露のような、命と、思わず、どうして、長寿の菊に、あやかろうとしないのですか。

まどろまで くもいのかりの ねをきくは こころづからの わざにぞありける

まどろむこともしないで、空行く雁の声を聞くとは、あなた自身の心が、招いたことです。

われならぬ ひともありあけの そらをのみ おなじこころに ながめけるかな

私以外にも、有明の月を、眺めて、私と同じ物思いを、していたのですね。

よそにても きみばかりこそ つきみめと おもひてゆきし けさぞくやしき

他所のいても、あなただけは、月を見ていられると、訪ねて行きました。その、今朝が、何と、惜しいことか。

開け放った門が、惜しく思います。と、書かれて、ありましたので、やはり、手習いの、文を、差し上げたかいが、ありました。


多くを、散文にせず、歌にして、思いを、伝えるという、風情である。

歌詠みとは、つまり、もののあわれ、というものを、そのままに、現すものである。
歌の、一々を、説明するまでもない。
月をみるやと たれに問はまし
と、相手に、問う心。
誰に問いましょうか。それは、あなたですと、言うのである。

これに、次の句を、つけると、
たれに問はまし 君ゆえに
と、なる。

当時の恋文の、直球である。

同じ月を、眺めているという、共感を、歌に、折込、折込して、重ねる表現の様である。

われならぬ 人も有明の 空をのみ おなじ心に ながめけるかな

われならぬ人
とは、あなた、である。

われならぬ人を、われは、思うのである。
われならぬ人は、われが、思う人。

歌詠みは、誰に、詠むのか。
それは、われならぬ人に、詠むのである。

多くの、和歌集があるが、それは、単に、独り言ではない。
われらぬ人に、詠むのである。

和歌を、御霊鎮めと、言う。
魂鎮めである。
歌詠みは、歌を詠むことで、魂鎮めを、行う。しかし、それは、また、われならぬ人に、呼びかける、魂振り、たまふり、になるのである。

魂鎮め、魂振り、とは、歌詠みの心である。

それが、日本の伝統であり、単なる、宗教的な、行法にあるのではない。
古神道という、行法を、語る人がいるが、それは、勝手な解釈、勝手な、思い込みである。
まず、歌詠みの心によって、それを、成すのである。
歌を詠まずして、魂鎮めも、魂振りも、無い。

言霊の、大和の国とは、歌詠みの国ということである。

言霊の幸はう国、それが、日本の伝統である。
歌を詠むこと、それが、そのまま、神言、祝詞になるのである。

言葉は、霊である。
霊は、タマ、魂になるのである。

恋は、魂を乞うことであると、言った。
日本の伝統は、魂乞いにあるということ。

魂乞い、すなわち、もののあわれ、である。

チベット暴動。4

自分の非は、認めない。過ちも、誤りも、認めない。それが、中国共産党である。

中国首相が、ダライ・ラマを、批判する。
暴動は、ダライ・ラマの、指揮するところだと。
そうして、世界に、大嘘を言う。

自分たちが、流した映像である。
もし、計画的な、暴動ならば、何故、僧侶や、市民が、素手で、暴れるのか。

あれは、何かに、激怒しての、行動であろう。
つまり、軍の威嚇に、反応したのである。

300名ほどの、デモ行進なら、香港などでは、毎日行われている。何故、チベット僧侶ならば、即座に、威嚇するのか。

疾しいからである。

更に、そのような、嘘を言えば、チベット族は、益々と、怒り、本来ではなかった、分離、独立まで、持ち出すようになる。

ダライ・ラマは、分離、独立まで、言わないのである。

また、チベット文化を、守るというが、言葉だけである。
このままで行けば、破壊されるのは、目に見えている。
漢族を、大量に送り込めば、チベット文化など、見る間に、金にされる。
現に、今でも、多くのチベット文化財が、売られている。

あの、文化大革命という、アホな、事態でも、多くの寺院が、破壊されている。

チベット人が、敬愛する、ダライ・ラマと、対話することなく、いつも、暴力で、チベットを、抑えてきた。
そして、言うことは、チベット、台湾は、中国領土であることを、まず、認めよ、というのみ。

暴力で、抑えたものは、暴力によって、また、滅びること、歴史が、教える。

何事にも、上には、上がいる。
イスラムが、立ち上がれば、中国も、どうなるか、解らない。

それから、もう一つ、東に、最も、危険な犬を、抱えている。
北朝鮮である。
この夏、北朝鮮は、最悪の食糧難になる。

飼い犬が、突然、凶暴な犬になることもある。

歴史は教える。
不運が重なることもあると。

中国を助ける国があるか。
中国に、経済の希望を見ている、大企業も、手を引くこともある。

五輪のスポンサーは、日本円で、100億円ほど、出している。ずてに、アメリカでは、10社を、超える。
しかし、不幸が重なれば、どうなるのか。

更に、信用されない、中国の形相が、現れる可能性が大きい。

北京を、五輪の地に、選んだ、委員たちの、絶望のため息が聞こえる。
どだい、五輪は、すでに、政治的意味合い強く、オリンピックとは、名ばかりの、プロスポーツの、祭典である。

更に、危険なことは、テロである。
テロリストにとっては、手頃な、場所となる。
何も、北京を狙う必要は無い。
北京に向かう、飛行機を、狙えばいいのだ。

自爆テロ希望者は、後を絶たない。
北京五輪が、火に焼け尽くされることも、有り得る。

中国共産党の、自業自得である。
実に、見物である。

2008年03月27日

この国の問題。5

在日米軍駐留経費負担を、思いやり予算、という。

78年から、日米地位協定で義務付けられる、土地借地料などと、共に、従業員の労務費の一部を負担するものである。

政府が人件費を、負担している、米軍基地従業員は、2万5千人である。
その、二割の人が、バーや、ゴルフ場という、娯楽施設や、飲食サービスを、提供する職種に、従事している。

米軍が、基地内への設置を、認めた、売店、娯楽施設、福利厚生施設に、勤める人は、5568人である。

今年の予算は、2083億円である。
そのうちの、従業員の人件費は、1463億円である。

さて、どうであろうか。
これ、皆、税金である。

道路特定財源という、お金も、何に使用されているのか、よく解らない状態であるが、これとて、実に、甚だしい、無駄使いである。

だが、米軍基地のある、地域での、雇用に関しては、貢献している。
財政難の、沖縄などは、大助かりであろう。

この度、防衛省が、民主党外務防衛部門会議に、提出した資料である。

ここまで、米軍の面倒をみるということは、どういうことなのであろうか。
そして、何故、ここまで、するのか。

一体、どう考えれば、いいのか。

これでは、日本は、米軍の基地である。
つまり、米国の一つの、州と、変わらないのである。
日本は、アメリカなのか。

ここまでするなら、大統領選挙の、選挙権くらい、欲しいものである。
防衛については、理想論ばかりの、アホが多いので、こういう、事態を聞くと、複雑な心境になる。

アメリカ無しで、日本の防衛を、考えられないからだ。
そして、これは、半永久的に続くのかということ。

中国、ロシア、北朝鮮の核に、対抗出来ないのである。

つい、先ごろ、中国が、太平洋を、アメリカと、中国で、支配しようとする、意見が出されて、仰天した。

中国に、そういう意識があるということである。
アメリカに気を使うことが、日本の防衛に、大きな影響を与える。ゆえに、このことには、目を瞑るということにして、いいのか。

思いやり予算という、変な言葉も、変だ。
思いやりとは、相手のことを、考えて、相手に、迎合するということなのか。

民主党は、道路特定財源の、使い方より、悪質であると言う。
それも、
理解する。

それでは、ハイと、廃止すれば、済む問題か。
実に、不愉快な、ことである。

この問題の先には、日本の防衛に関する、大きな、問題が、隠されている。
防衛意識である。

しかし、防衛省の、体質などを、見ていて、防衛というものも、人の問題である。

イージス艦と、漁船の、衝突から、防衛省の、お粗末さが、解った。

防衛省と、自衛隊の体質である。

そして、あの、守屋の問題は、どうなった。
事務次官の、賄賂の問題である。
国民が、アホだと、皆々、アホになるという、結論になる。

もう、忘れたのだろう、きっと。

神仏は妄想である。55

あるいはキリスト教に話を転じれば、先にも触れたアメリカの「ラプチャー(携挙)」キリスト教徒を引き合いにだしてもよかった。彼らは、イスラエル人はパレスチナのすべての土地に対して神に与えられた権利をもつという、聖書にもとづいた信仰に支配されていて、アメリカの中東政策に重大な影響力をもっている。一部のラプチャー・キリスト教徒はさらに一歩進んで、核戦争を「アルマゲドン」と解釈するがゆえに、それを実際に待望しさえする。不安をかきたてられるほど一般によく知られた、彼らの奇妙な「黙示録」解釈によれば、アルマゲドンはキリストの再臨を早めるだろうというのだ。次に引用する、サム・ハリスの「キリスト教国への手紙」における身も凍るようなコメントに、私が付け加えるものは何もない。

したがって、もしニューヨークの市街が突然の火の玉に取って代わられたとき、アメリカの人口のかなりのパーセンテージが、そのあとに起こるキノコ雲のなかに、一条の希望の光を見ることになるだろう。なぜならそれは、いつか起こるだろうと思われていた最良のこと、すなわちキリストの再臨が、いままさに起ころうとしていると彼らに示唆しているからである。こういった類の信念が、私たち自身の永続的な―――社会的、経済的、環境的、あるいは地政学的にーーー未来をつくりだす上でほとんど何の助けにならないことは、疑いの余地なく明白だろう。もし米国政府の要人のうちの誰かが、世界はいま終末に近づいており、その終末は輝かしいものになるだろうと本気で信じていると想像してみてほしい。アメリカの人口のほとんど半数近くが、純粋に宗教的な教義にのみもとづいて、どうやらこれを信じているらしいという事実は、道徳的かつ知的な緊急事態とみなされるべきでろあう。

第8章 宗教のどこが悪いのか なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?
信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか  より

知り合いの、カトリック信者の女性が、真顔で、キリストの再臨を望むというのを、聞いた時、私は、返答する、言葉がなかった。

それは、ノストラダムスの、1999年に、世が終わるという、妄想の解釈、による、終末思想と、同じ程度の、つまり、その程度のレベル、知的レベルであるということを、感じたからである。

早く、主が、来られることを。
何と言う、馬鹿馬鹿しい、ことか。
それも、聖書に、書かれてあるからである。
そして、その聖書が、どうのように、書かれたものであるかを、知らないのである。
聖書作者たちの、願望による、言葉である。

「私が雲に乗って来るのを、見るであろう」
雲に乗って来るのは、日本の神々であり、主イエスではない。
これは、冗談。

旧約聖書の、神が、雲に乗って来たことはない。
精々、芝の木の中で、光る程度であった。

それは、兎も角、何と言う恐ろしい、考え方であろうか。

聖書に、書かれてあるから、パレスチナ全土は、神に与えられた権利であるという。
こんな、無茶苦茶な、論法が通るとしたら、まさに、終末である。
つまり、解釈の仕様で、如何様にも、なるということである。

この無明は、悪魔的であるというより、魔界であり、破壊を、希求する、つまり、地球滅亡のシナリオである。

しかし、アメリカの様を、心配している日本ではない。

日蓮宗の一派は、国立戒壇をと、平気で言うのである。
つまり、日本の国教としての、宗教をと言うのである。

法華経を、奉じる、巨大新興宗教のみならず、日蓮宗は、日蓮の強情な教え、法華経のみ、正しいという、狂信に支えられて、一神教と、同じように、行為するのである。

一神教は、日本には、無いと、考えている人は、改めた方がいい。
日蓮は、すべての、他宗のみならず、日本の伝統である、古神道、神道までも、断罪し、一人悦にいって、法華経の行者と、任じたのである。

さらに、驚くべきことは、東から、仏の教えが、元に戻る。つまり、仏陀の地へ、行くとまで、妄想を、繰り広げたのである。

千葉の、寒村に生まれた、日蓮の、劣等意識が、ここまで、病んでしまったこと、気の毒に思えるが、鎌倉時代の、一現象として、見れば、納得がゆくが、それを、現代にまで、持ち越すのは、大きな無理がある。というより、誇大妄想に尽きる。

多くの新興宗教が、法華経を使用するのは、その、魔力であるから、認めるが、法華経が、誰によって書かれたのか。何を目的にしたのかである。

大乗経典という、文学である。
仏陀、最後の教えなどという妄想は、書いた本人が言うのか、後の人が言うのか。
何の根拠も無い。

更に、それは、漢訳されたものである。

ここに、大きな問題がある。
漢訳した者は、誰か。
何度も書いたので、省略するが、その、名訳に、迷ったのである。

妙法蓮華経、という、名訳を、作り上げた者は、誰か。

冷静に、判断して、南無「吾輩は猫である」とは、唱えない。
それと、同じことであると、言っても、理解出来ないだろうか。

したがって、自分のもつ宗教上の信念によって私のいう「時代精神」の啓蒙的な見解の一致のすぐ外側に出てしまう人々が存在する。彼らは、私が宗教的絶対主義の負の側面と呼んだものを代表しており、彼らはしばしば過激主義者と呼ばれる。しかし、この節で私が言いたいのは、穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸しているということである。
ドーキンス

正気で、まともな人間を、狂気に駆り立てることが、できる、強い力は、宗教的な、信念以外にない。ということが、解るのである。

私は、再度、問う。
なぜ、人は、妄想の信念に、没頭するのか。
なぜ、知性と感性を、生かし、理性によって、行動しないのか。

人間の尊厳とは、何か。
人間であることの、最も大切な、知性を、何故、捨てるのか。

2008年03月28日

神仏は妄想である。56

わが西側の政治家たちはR(宗教)という単語に言及するのを避け、その代わりに、自分たちの戦争を「テロ」との戦いとして性格づけており、まるでテロが独特の意志や心をもつ一種の霊ないし力であるかのようである。あるいは、テロリストを純粋な「悪」に衝き動かされた人間として性格づける。しかし彼らは悪によって衝き動かされているわけではない。そう考えるようどれほど誤って導かれていようとも、彼らは中絶医を殺すキリスト教徒の殺人犯と同じように、自分たちが正義であり、彼らの宗教が語りかけることを忠実に追求しているのだと感じることによって、衝き動かされているのである。
ドーキンス

彼らは、正義であると、信じるのである。
つまり、それは、宗教が語りかけることを、忠実に追求する。
問題は、何か。
どんな、悪事も、宗教の信条に従うということで、彼らの中では、肯定される。

世界に、正義の数は、宗教の数だけあるということだ。
近代法、云々の問題ではないということだ。
国家の法より、宗教の教え、教義を、主として、行動するのである。

ここで、注意深く、考える必要がある。
人間は、知性と、感性により、理性によって、行動する存在である。
しっかりと、その教育が、なされていれば、バランス良く、正義の、有り様を、考えることが、出来る者である。

しかし、宗教は、その人間に、早いうちから、子供の、柔軟な、脳の中に、ある一つの定義を、植えつけるのである。そして、それを、至上命令の如くに、教える。

人間の尊厳と、自由とは、何か。

ドーキンスは、続ける。

彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである。彼らが自らの行為を正しいと感じるのは、何らかの歪んだ性格のせいではないし、悪魔に取り憑かれたせいでもなく、彼らが生まれ落ちたときから、全面的かつ疑いを抱くことのない信仰をもつように育てられてきたからなのである。

恐るべき、洗脳である。
しかし、それを、宗教教育と、掲げて、善として、教える。
また、宗教教育の必要性を、善として、認める。
日本の場合も、宗教教育により、人間性を、高めると、考える人がいる。
宗教法人が、経営する、学校は、宣教、布教を、柱に、掲げて、行われる。

キリスト教精神に、基づきとか、仏法に基づきとか、それが、人間性を、あたかも、高める如くに、喧伝される。

長年、大学にて、キリスト教を講義してきたという、牧師、教授の、回想録を、読んで、驚いたことがある。
信仰に生きることの、大切さと、人間性を、聖書に基づいて、教えたこと、そして、学生たちが、聖書の神への認識を深めたことを、誇っている。
そこには、批判の精神、つまり、知性と、感性を養い、理性により、行動する人間を、育てたのではないということ。
キリスト教の神を、拝む人を、養成することに、賭けた人生であることを、言うのである。

悪意ある霊を、神と掲げる聖書の、霊を、拝む人を、養成できたことを、誇るのである。

日本人ならば、自分が、信じているモノを、人に、勧める、あるいは、押し付けるということは、基本的に、僭越行為であると、認識する、能力を、持つ。
それは、極めて、個人的な行為であると、知っている。

私の家の神があるならば、そよ様の家の神もあると、知っている。

郷に入れは、郷に入り、粛々と、他人の信仰に、抵抗せず、無視しない程度に、従う作法がある。

それが、実に、理性的な行為なのである。

―――これらの人々は、自分たちが信じていると言うことを実際に信じているということである。宿題として持ち帰るべきメッセージは、宗教上の過激主義を責めるーーーあたかも、それが、本物のまっとうな宗教が堕落してできたおぞましい変種ででもあるかのようにーーーのではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。
ドーキンス

ヴォルテールがはるか昔に正しく理解していたように、「不条理なことをあなたに信じさせることができる人間は、あなたに残忍な行為にかかわるようにさせることができる」バートランド・ラッセルもそうだった。「多くの人間は、考えるよりも先に死んでしまうだろう。実際、彼らはそうしている」。

宗教の布教は、実に、暴力的である。精神的な暴力である。

キリスト教は、罪意識を、強調して、人を追いつめたところで、神の救いを説く。
日本の新興宗教の多くは、現世利益を強調する。

病にある人や、心弱い人を、狙って、布教活動をしていた、多くの宗教を、知っている。

兎に角、良くなる、回復する、開運する、道が開ける、運勢が向上する、ありとあらゆる、甘言を用いて、勧誘する。
天理、金光、大本はじめ、仏教系の新興宗教等々、更に、歪な新興宗教、科学的であると、喧伝する、新宗教、教祖の偽の、霊能力を全開しての、宗教とは、言えない、稚拙な教義を持つ新宗教等々。

人の弱みに、付け込むという、実に、卑劣な、方法を、持って、差し出がましく、やって来る。
勿論、それに、騙される人多数。

甚だしいのは、最初から、戦う姿勢で、論破するという、折伏などと称する、狂信の新興宗教もある。

私は、歴史上、仏陀が、最も宗教的人間だと、知っている。
それは、生き方指導、生活指導を、説いて、地に足のついた、人間愛を、行為したからである。
仏という、オリジナルを、想定して、それを、目標に、生き方指導を、繰り返した。実に、平和的に、である。
それは、人間に対する、深い洞察力である。
限りある、人生を、味わい深く生きるべく、心というものの、有り様を、捉えて、生きる姿勢である。

仏陀を、支持出来る、大きな理由は、奇跡を、行わなかったからである。

更に、ここが、孔子との、分岐点であるが、鬼神を知らない孔子であったが、仏陀は、知っても、それを、知る必要を、説くことがなかった。
霊と、霊界についても、触れなかった。

それなのに、その生きる姿勢に、人は、心曳かれて、仏陀の元に集ったという、事実である。

人からの、恨みも、憎しみも、受け取らないという、平和的行為を持って、人の心に、語り掛けた。
それは、宗教行為ではなく、宗教的行為であり、伝統と、なった。
仏教とは、伝統なのである。
いずれ、また、書くので、以下省略する。

宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるという理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちは、オサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それそこが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけではなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
ドーキンス

加えて、私の霊学の立場は、この世の宗教の信念というものは、霊界とは、全く関係ないということである。

以下省略。

神仏は妄想である。57

キリスト教は、あるいはイスラム教でも事情はまったく同じことであるが、疑問を抱かない無条件の信仰こそ美徳であると、子供たちに教える。こと信仰の問題に関しては、自分が信じていることを論証する必要はない。もし誰かが、それは自分の信仰の一部であると宣言すれば、その社会の残りの人間は、同じような信仰をもっていようが、別の信仰をもっていようが、あるいは無宗教だろうが、根深い慣習によって、疑問を発することなくそれを「尊重」するよう強いられる。ただしそれは、世界貿易センタービルの破壊、あるいはロンドンやマドリードの爆破事件などにおける大虐殺という形でその信仰が表明される日がこないかぎりのことである。そういう事態が起きたいま、この過激主義が「真の」信仰からの逸脱であると説明するために、聖職者や「共同体の指導者」(ついでながら、誰が彼らを選んだのか?) たちが雁首を揃えて、自分たちにはかかわりないという大合唱がなされている。しかし、もし信仰が客観的な正当化の理由を欠き、何が逸脱かについていかなる明白な基準ももたないのであれば、そもそも信仰の逸脱なるものがなぜ存在するのか?
ドーキンス

この疑問に、明確に答えられる、聖職者、及び、指導者は、いない。

テロリストたちより、よほど、性悪なのは、彼らだからである。

自分たちの、手は、一切、汚さなくていいのである。皆、信者が、それを、行う。

サリンを、撒かせた、教祖は、たらふく食い、居眠りをして、最悪の、事態を引き起こした。その、教祖と、何ら、変わらない。
恐るべき、悪人である。極悪人とも、言う。

3月6日、エルサレムのユダヤ教神学校に、パレスチナ人が、侵入し、銃を乱射して、8名が死亡、約10名が、負傷した。
政治の問題ではない。
宗教の問題である。

二月下旬に、イスラエル軍が、ガザ地区に、攻撃して、120名が、死んだ。それの、報復である。

更に、同じ日に、バグダッドでも、連続テロにより、55名が死亡。
問題は、宗教である。

さて、日本は、それらを、遠い話と、聞いている。
しかし、もし、本格的テロ攻撃が、開始された場合、特に、世界的メッセージをテロリストが、発する場合、日本攻撃が、最も有効であることを、知っている。
何故か。
日本には、同胞が、少ないからである。
大規模テロは、同胞をも、巻き込むのである。
それを、最小限に食い止める大規模テロは、経済大国、日本である。

大規模テロとは、核兵器を使用する、テロである。

万が一、それが、実行されると、即座に、中国、北朝鮮、ロシアが、日本攻撃を開始する。

日本人は、大陸の人種の、野蛮さを、知らない。

話を戻す。

本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
ドーキンス

宗教の蒙昧は、救いようが無いのである。
例えば、鎌倉仏教の、日蓮である。
他宗を、すべて、排斥して、これのみ、正しい、これのみ、唯一の、仏法として、法華経を、掲げた。
それは、真っ当な、批判ではない。
単に、あちらではなく、こちらである、という、挿げ替えを行っただけである。

そっちを、拝めば、不幸になる。こっちを、拝めば、幸せになる。という、程度の、認識である。
それが、今では、大聖人と言われる。

法然、親鸞が、島流しにされたのは、単に、既成集団の、嫉妬であるが、日蓮の場合は、混乱を、招くとの、良識ある、僧侶たちの、排斥である。
それを、御受難として、捉える。

勝手な解釈、勝手な妄想は、宗教家の、独断場である。
何ほどの、艱難辛苦も、法華経がためり。
今、日蓮が、法華経を、云々しなければ、日本は滅びる、云々。

手が付けられない。

キリシタン弾圧当時の、キリシタンと同じく、盲信、妄信、狂信の様である。

死ぬまでの、暇つぶしに、心の大半を、それに占領されて、人生の真実を、見ずに、死ぬという、あまりにも、愚昧な行為を、犯す。

他宗教を、鼻でせせら笑うという、傲慢極まりない人格を、養成されて、自己陶酔に、浸るという様、憐れである。

それは、一神教すべてに、言えるのである。

子供に、疑問を抱かない絶対的な美徳であると教えることは、彼らにーーー手に入れることがむずかしくないいくつかの他の要素が与えられればーーー、将来のジハードまたは十字軍のための潜在的な凶器となるべく育つ素地を与えることにほかならない。殉教者の天国を約束されることによって、恐怖に対する免疫力を与えられた正真正銘の狂信者こそ、長弓、軍馬、戦車、クライスター爆弾などとならんで、武器の歴史において高い地位を占めるに値するものだ。もし子供たちが、疑問を抱くことのない信仰という高い美徳を教えられる代わりに、自らの信念を通して疑問を発し、考えるように教えられれば、自爆者はきっといなくなるだろう。
ドーキンス

信仰とはきわめて危険なものになる可能性を秘めたものであり、罪もない子供の抵抗力のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大なまちがいである。
ドーキンス

私は、ドーキンスが、いいたかったことの、すべてを、上記の言葉にみる。
21世紀を、生きる子供たちに、幸せでいて欲しいと願えば、ドーキンスは、渾身の力を込めて、それを、説こうとするだろう。

目覚めて、祈れ、と、イエスキリストが、聖書の中で言う。
それは、セクトの宗教団体の、言葉であるが、目覚めて、祈れとは、疑問を持ち、自分の信念を、よく見て、行為せよという、意味である。
つまり、人間の知性を、覚醒させ、感性を磨き、理性によって、行為、行動する人間たれ、ということである。

その一つ、たった一つに、宗教の教義等もあり、それは、信仰するものではなく、一つの知識として、活用するものであること。

この世に、絶対という言葉は無いとも、キリストは言う。
その通りである。
この世に、絶対という、モノは、無い。あるわけが無い。

2008年03月29日

この国の問題。6

国土交通省所管財団である、公共用地保障機構という、財団法人が、過去五年間で、職員旅行に、2160万円である。

彼ら、曰く、福利厚生事業の一環で、適切と考えているが、世論の批判を考え、改めることにする、という、実に、傲慢極まりない、言葉である。

ちなみに、国土交通省から、25人の、天下りがある。

仕事自体が、福利厚生のようなものであろう。

この機構は、道路用地取得の補助業務などを、請け負っている。
機構の事業収入の、約七割は、道路特定財源を、原資にした、道路整備特別会計による、委託事業である。

よく、訳の解らない仕事をしている、団体である。

公金という、意味を知らないのである。

さて、この、国土交通省の、所管法人は、50ある。
そのうちの、16法人は、職員より、役員が多いという、実態である。

16人の役員に、一人の職員という、団体もある。
どういうことか。

公金横領する者を、堂々として、雇うという、仰天である。

50法人の、役職員は、7288人。
このうち、常勤、非常勤の役員は、1063人。
16法人の役職員は、637人で、役員は、440人である。

明らかに、公金横領の者たちである。
平然として、のうのうと、公金を、横領するように、給与や、役員報酬を得ているという。

70年設立の、社団法人「国土政策研究会」は、役職員17人のうち、16人が、役員である。
職員は、一人ということになる。
そして、9人が、国土交通省の、天下りである。

中でも、驚くのは、公共用地保障機構の、非常勤理事、元建設省事務次官である。
所管法人、14もの、法人で、理事長などを、務めていたのである。

信じられないのである。
一体、誰が、何のために、このような、公金横領する、団体を、作るのであろうか。

こういう、問題は、まだまだある。有りすぎるほどある。
一体、政治家という、者どもは、何をやっているのか。
本当、国のことを、考えているのか。

滅茶苦茶な、公金横領の様を、見て、この国の、政治、経済、行政を、信じられるのか。

官僚の、言いなりである。
官僚の別名は、非国民である。

2008年03月30日

もののあわれについて186

かくて、晦日がたにぞ御文ある。日ごろのおぼつかなさなど言ひて、宮「あやしきことなれど、日ごろもの言ひつる人なむ遠く行くなるを、あはれと言ひつべきらむことなむ一つ言はむと思ふに、それよりのたまふことのみみむさはおぼゆるを、一つのたまえ」とあり。あなしたり顔と思へど、「さはえ聞こゆまじ」と聞こえむも、いささかしければ、女「のたまはせたることはいかでか」とばかりにて、


惜しまるる 涙にかげは とまらなむ 心も知らず 秋は行くとも

まのやかにかたらいたきことにもはべるかな」とて、端に、「さても


君をおきて いづち行くらむ われだにも 憂き世の中に しひてこそふれ

とあれば、宮「思ふやうなりと聞こえむも、見知り顔なり、あまりやおしはかり過ぐいたまふ、憂き世の中とはべるは。

うち捨てて 旅行く人は さもあらば あれまたなきものと 君し思はば

ありぬべくなむ」とのたまへり。

このようにして、宮様から、御文がありました。
日ごろの、ご無沙汰について、書かれてあり、「少し、おかしなことですが、常に語らっていた人が、遠い地へ、旅立つと申します。その人が、感動する和歌を、一首、贈ろうと思うのですが、あなたから、下さる和歌だけが、私を、感動させます。私の、代わりに作っていただけませんか」と、書いてありました。
得意げな、お顔をしていらっしやるのにと、思いました。
「代作のようなことは、出来ません」と、申し上げようとしましたが、されも、生意気だと、思われると、「仰せのような、見事な歌が、とせうして、詠めましょう」とだけ書いて、


おしまるる なみだにかげは とまらなむ こころもしらず あきはゆくとも

別れを惜しむ、私の涙の中に、あなたの、面影が留まって欲しいのです。私の心も知らず、秋が行くように、あなたが、私から、去って行きましょうとも。

真面目に書くことの、代作は、見苦しょうございます」と、しるして、その紙の端に、「それにしても、


きみをおきて いづちゆくらむ われだにも うきよのなかに しひてこそふれ

宮様を、残して、その方は、どこへ行かれるのでしょう。この私のような者でさえ、切ない人生を生きているのに。

と、書いて、差し上げますと、宮様から、「思い通りの、歌でした。と、申し上げるのも、物知り顔になります。しかし、お歌は、あまりにも、思い過ごしが、多いようです。「憂き世の中」と詠んでおられるのは、


うちすてて たびゆくひとは さもあらば あれまたなきものと きみしおもはば

私を捨てて、旅行く人は、どうでも、いいのです。
あなたさえ、私を、絶対のものと、思し召してくださるならば。
それなら、辛い人生を、生きられるでしょう。

と、仰せの、お返事がありました。

まめやかに はからいたき ことにも はべるかな

まめやか
細々しく。真っ当に。真剣に。本気で。等々の意味がある。

今でも、マメな人と、言う、言い方をする。
マメな人とは、細やかなことに、気づく人。気配りのある人である。

源氏物語での、まめやかな、人の心遣いに、もののあわれ、というものを、観た人は多い。

心を砕く人こそ、もののあわれ、というものを、具現化するとでも、いう。

人の心の、機微に触れることである。

もののあわれ、が、更に、深まるのである。

もののあわれについて187

かくいふほどに十月にもなりぬ。十月十日ほどにおはしたり。奥は暗くて恐ろしければ、端近くうち臥させたまひて、あはれなることのかぎりのたまはするに、かひなくはあらず。月は曇り曇り、しぐるるほどなり。わざとあはれなることのかぎりをつくり出でたるやうなるに、思ひ乱るるここちはいとそぞろ寒きに、宮も御覧じて「人のひなげにのみ言ふを、あやしきわざかな、ここにかくてあるよ」などおぼす。あはれにおぼされて、女寝たるやうにて思ひ乱れて臥したるを、おしおどろかせたまひて、


時雨にも 露にもあてで 寝たる夜を あやしくぬるる 手枕の袖


このようにしているうちに、十月になりました。
十月十日ごろ、宮様は、お出でになられました。
奥のほうは、暗くて、恐ろしく思われますので、端近い場所に、横になられて、あはれに、触れて、しんみりと、お話をされます。
お話を伺う甲斐が、ありました。
月が、雲に隠れて、時雨が、降るほとでありしまた。
心に、しみる風情を、わざわざ出したようです。思い乱れている心には、いたく寒くぞくぞくするような感じです。
宮様は、女の様子を、御覧になられ、「人は、この女を、あやしい者とばかり、言いますが、おかしいことです。ここに、このうよに、悩ましいほどに、臥しているのに」などと、思われました。
宮様は、女が、あはれに思えて、女が、眠ったようにして臥しているのを、揺り起こされて、


しぐれにも つゆにもあてで ねたるよを あやしくぬるる たまくらのそで

時雨にも、露にも、当たらないで、共寝をしていますのに、私の手枕の袖が、不思議に濡れます。

あはれなることのかぎり のたまはするに
あはれに強く思われて、お話をする。

あはれにおぼされて
あはれに、思われて。
ここでの、あはれは、憐れに近い感覚である。
憐れむのである。

さらに、あはれ、というものの、幅が広がる。

とのたまへど、よろづにもののみわりなくおぼえて、御いらへすべきここちもせねば、もの聞こえで、ただ月かげに涙の落つるを、あはれと御覧じて、宮「などいらへもしたまはぬ。はかなきこと聞こゆるも、心づきなげにこそおぼしたれ、いとほしく」とのたまはすれば、女「いかにはべるにか、ここちのかき乱れるここちのみして、耳にはとまらぬにしもはべらず。よし見たまへ、手枕の袖忘れはべる折やはべる」とたはぶれごと言ひなして、あはれなりつる夜の気色も、かくのみ言ふほどにや。


今朝の間に いまは消ぬらむ 夢ばかり ぬると見えつる 手枕の袖

と聞こえたり。「忘れじ」と言ひつるを、をかしとおぼして、


夢ばかり なみだにぬると 見つらめど 臥しぞわづらふ 手枕の袖

と、仰せになりました。
女は、すべてが、辛く思えて、お返事することもありません。
何も、申し上げず、ただ、月影のしたで、涙を、流すばかりです。
それを、宮様は、御覧になり、「どうして、お返事もないのでしょう。つまらぬことを言いましたので、いとわしく、思われたのでしょうか。おかわいそうに」と、仰せになりました。
女は、「どうしたのでしょう。気分が、とても悪くなりまして、宮様の、お言葉が、耳ら入らないわけではありません。どうぞ、見ていてください。手枕のことを、忘れて、過ごす日がありますか、どうか」と、冗談のように、申し上げました。
しんみりとした、夜の、趣も、このように、会話のうちに、過ぎたのであります。
翌朝になって、宮様は、女には、頼るべき男も、いないのだと、気の毒に思われて、「ただ今は、どのように、過ごしていますか」と、お便りが、ありました。
その返事は、


けさのまに いまはきえぬらむ ゆめばかり ぬるとみえつる 手枕の袖

今朝のうちに、手枕の袖の、濡れたのは、乾いてしまいしました。ほんの、夢のような、仮寝でしたから。

と、申し上げました。
「手枕の、袖は、忘れません」と言ったことを、おもしろく、思われて、


ゆめばかり なみだにぬると みつらめど ふしぞわづらふ たまくらのそで

ほんのわずかばかりに、涙に濡れたと、お思いでしょうが、手枕の袖が、濡れてしまい、臥し難く、煩っています。

緩慢とも、思える、恋のやり取りである。
昔の人の、恋の風情を、見る思いである。

実は、私は、若い頃、このような、恋愛遊戯のような、古典の、お話は、好きではなかった。しかし、年を経ると、実に、優雅に、思えてきた。

これは、時間の感覚の違いであろう。
緩慢であると、感じる、私の時間と、昔の時間に対する、感覚がちがうのである。

とすると、もののあわれ、というものの、感覚も、少し違っているのかもしれないと、思う。

さらに、それを、追求してみることにする。

2008年03月31日

チベット暴動5

真実を、書く、ジャーナリストを、逮捕、監禁するという、中国共産党である。
信じられる、はずがない。

しかし、大国、中国との付き合いを、慎重にしなければならないという、日本政府の、思いがある。

チベットの、文化と、伝統を守るという、中国共産党だが、目的のために、手段を選ばないのは、当たり前であるから、それが、嘘であることが、解る。
もし、そうであれば、大量の漢民族を、チベット自治区に入りれるか。
更に、同化政策を、掲げている。
チベットの文化遺産を、すべて、金にするという、強欲な漢民族である。

ホント、中国人は、歴史を、学ばない、典型である。
四千年の、中国の歴史を、学ぶべきである。

されたことは、忘れない。
したことは、忘れる。

どうして、こんな国が、国として、成り立つのか、不思議である。

国益ではなく、共産党益である。
それのみ。

正に、宗教団体と同じレベルである。

外国人ジャーナリストを、チベット自治区に入れない。
何故か。
真実を見られるからだ。

許可した、ジャーナリストは、五六人の密使が、貼り付けられて、パンツの果てまで、検査される。
余程、真実を書かれるのが、怖いのである。

チベット亡命政府は、130名の死者が、出たことを、発表した。
中国は、18名と、警官1名の、19名である。

明らかに、違う。
この、違いは、何か。
嘘の得意な、中国政府ということである。

自分の非を認めない、人間に、どう対処するべきか。
自己崩壊を、願うしかない。

78年に、始まった、改革、解放政策により、一人っ子が経済発展の、只中で、育ち、今、若者である。
更に、この世代が、捏造の、反日教育を、受けている。
反日デモの、主役たちである。

いずれ、彼らが、政治を、握ると思うと、背筋が凍る。

ただ、自己崩壊を、願うとすれば、彼らの存在である。
世界の、情報を、得ている。
そして、中国共産党の、有様である。
甚だしく、歪な、政治の有り様に、どのように、反応するかである。

ダライ・ラマは、独立を求めないという。
自治区で善しとしての、対話を、求めるが、それに、応じない中国共産党は、明らかに、疚しい。

国際社会の、あらゆる、分野で、中国に対する、牽制をする。
すると、その、本質が、炙り出される。
軍事政権と、変わらないのである。

チベットに対しても、強力な、軍事をもって、臨むというのである。

結局、暴力で、カタをつけるということである。

日本の選手も、北京五輪に、参加しないという、ボイコットグループが、現れることを、望む。

そして、もう一つ、加えて、オリンピックなどという、アホな、行事に、参加しないことである。
オリンピックは、完全完璧な、商売である。
あれで、感動するという者、世界を、知らない。

スポーツで、感動したければ、国内の、大会で、十分である。
または、友好国との、親善大会で、十分である。

ギリシャの、オリンピックは、まだ、哲学的であった。
思索的であった。

スポーツを、やる者に、ロクな者は、いないと、スポーツマンを、見れば解るというものである。

昔、スポーツマンであるということで、社会は、信用するという、高校教師がいた。
確かに、彼は、スポーツマンであった。
その後、児童買春行為で、捕まった。
その程度である。

神仏は妄想である。87

バートランド・ラッセル「私が信じるもの」より

私は、自分が死んだら腐り、私の自我の何一つとして残らないだろうと信じている。私は若くはないし、人生を愛している。しかし私は、自分がこの世から消えてなくなることを考えて恐怖に震えるなどという人を嘲らずにはいられない。幸福にはかならず終わりがあるといっても、それが本物の幸福であることに変わりないし、永遠につづかないからといって、思考や愛がその価値を失うわけでもけっしてないのである。多くの人間が刑場で誇り高く振舞ってきた。きっと、同じ誇りが私たちに、人類が世界の中で占める地位についてどう考えるべきかを教えてくれるに違いない。昔ながらの人を導く神話のぬくぬくした世界に、科学によって開けられた窓から冷たい風が吹き込んで、たとえ私たちを震えあがらせたとしても、最終的には、新鮮な空気が活力をもたらし、広大な空間はそれ自体のすばらしい輝きをもつようになる。

マーク・トウェインの言葉

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもないだろう。

上記、ドーキンスが、引用する。

死ぬことは、消滅すること。
何も無くなること。
死後の世界は無い。
等々、人間の死に関して、科学は実に冷静である。

死後の世界が無いということになれば、おおよそ、すべての宗教の意味は、消滅する。

死ねば、消滅する、無くなる、死後の世界は無い。
その通りである。

この次元では、その通りである。
次元を別にするのであるから、この次元にいたことは、消滅する。死後の世界というものも無い。
次元の違う世界は、死後の世界ではない。

次元を、別にした世界である。
その次元は、断絶している。
ただし、三次元に、二次元、一次元が、含まれているように、四次元には、三次元が含まれている。

霊学の、私の立場から言う。
次元の差は、隣にいても、永遠に遠い。

おおよそ、宗教、それに準じるものは、死後の世界や、霊について、云々する。

迷う先祖の霊が、子孫に助けを求めて、云々。
それにより、病も起こる。
先祖を供養することで、病が、癒えて、運も好転する。
実際、そういう体験をする者、宗教に多い。

奇跡もどきの、ことが、起こる。

眼が暗くて見え難いというようなのは、近親者の霊魂が霊界へ往ってまだ迷っておって、暗黒の冥府―――光の無いくらい世界―――に居る。そんな霊魂が暗い世界に向かって「救われたい」と念ずると、その「念力」すなわち精神波動が、丁度テレビ局の放送の電波みたいになってやってくるわけです。それで暗い精神波動を常に放送するわけですから、それを受信感応した人は光が見えないで暗く見えることになるわけです。
人生を支配する先祖供養 谷口雅春 成長の家創立者 より

もっともらしく、素直に受け入れると、本当だと、思う。
霊魂が、迷う。それが、救いを求める。そして、念ずる。それが、この世の人に、感応する。そして、病になる。

心理学、脳科学は、それに、答えを出すことが出来る。

それらは、すべて、主観である。客観性がない。
そのような、カラクリ、意味があるという、信念が、病を、癒すのである。

彼らは、病は、無いという。すべては、影だと言う。
人間、本来神の子であり、完全である。実相世界のみ、本当の世界である。この世は、仮りの世界である。

実相世界とは、霊界のことである。
あちらを、主、こちらを、従に、見立てる。
様々な、霊的現象を、元に、そのような、考え方を、作り出したのであろう。

否定はしない。
それも、一つの考え方である。

医学で、解決出来ないことは、霊魂による。
確かに、突然、病が、癒えるということもある。
先祖供養しなくても、癒えることがある。

神霊治療として、名を馳せる宗教団体もある。
すべて、霊障害であると、断定する。

否定はしない。

極めて、解り易く言う。
マイナス波動と、プラス波動である。
マイナス波動を、脳内に持つ人は、そのように、なる。それを、受ける、という。要するに、受信するという、言い方をする。

極めて、ありそうに思える表現、この世は、仮の世界で、霊界が、実相世界であると。

霊主体従と言い、霊が主で、体が、従だと、公言して憚らない、宗教である。

在り得ない。
体は、そのまま、霊である。
どちらが、主とか、従とかは、無い。

霊を、感じる、見る、とは、すべて、主観である。
その人の内で、起こることである。

磁気の乱れというものがある。霊的なものとは、磁気の乱れである。

霊学から言えば、霊的なものの、影響を、考えるが、この次元では、この次元の物事である。霊界を、関与させては、誤る。

次元違いは、隣にいても、永遠に遠いと、言った。

ちなみに、教祖で、最も、教祖たる、仏陀は、霊的なことを、一つも言わないのである。
霊界についても、触れない。
何故か。
必要ないからである。

この世で起こることは、この世で、解決するのである。
生老病死とは、この世の姿である。

暗い霊界で、救いを求めている霊とは、妄想である。
もし、そうであるならば、それは、宇宙の法則、自業自得であり、それを、解決するのは、その、霊のみである。

自ら、赴く所に行くのである。

病が癒えるのは、別問題である。
脳波による。
聖教読経して、癒えるとは、脳波の、心得の、変化である。
だから、否定しないと、言う。

寒い地方にいて、寒さからの、病にある人が、南の島で、暮らして、病が癒えるという。
環境を変えた、脳波の、変化である。

酷い肩凝りの人を、霊視して、肩に、きつねの霊がついていると、それを、取り除いて、肩凝りが治ればいいが、心臓病の前兆、それも、大きな心臓病の前兆である場合がある。
医学が、進歩しなかった時代なら、それは、通用するが、矢張り、心電図をとり、対処すべきである。

人間の、想像力とは、無限に広がる。
人道的問題はあるが、ヒトゲノム解読により、一生の病が、見て取れる。

霊学から、言う。
次元の違う、世界のこと、この世の云々に、堕落せしめては、誤るのである。
病の辛さにあるものを、見つめ続ける行為に、人間の尊厳がある。
決して、供養では治らない病を、彼らは、何と言うのか。

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