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2008年03月 アーカイブ

2008年03月01日

神仏は妄想である。37

宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。その証拠は強力なものではないが、本当だとしても驚くにはあたらないだろう。というのは、まれに信仰治療が効くことがあるのと同じ理由で、そういうこともあるだろうからだ。しかし、わざわざ付け加える必要はないかもしれないが、そのような有益な効果があったところで、宗教的な主張がもつ真の価値をいささかも押し上げるものではない。ジョージ・バーナード・ショーの言葉を借りれば、「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っ払いのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」
リチャード・ドーキンス 神は妄想である。第5章 宗教の起源 より

日本の新興宗教、既成宗教も、奇跡のような話が好きである。
要するに、入信して、病が癒えたというものが多い。
勿論、実際は、癒える人より、死ぬ人の方が多い。

回復、全快という言葉が、大好きであるが、それは、一万人に一人、あるいは、十万人に一人とかの、レベルである。しかし、知能の普通の人は、それでも、信じるという。信じたいのである。

宗教関係の、新聞、雑誌を読むと、必ず、それを信じての、効果なるものが、挙げられる。
体験者の言葉である。
しかし、その裏では、全然効き目の無い人の方が多いのである。

要するに、宝くじを当てましたとか、健康食品を飲んで、良くなりましたという、程度と、同じであり、下手をすると、翌月は、ガン再発ということもある。

この、ブレスレットを付けると、幸運が、訪れる。という、程度である。
それが、宗教になると、さらに、オドロオドロしくなるのである。

カルトという、集団と変わらないのであるが、不思議なもので、カルトと、宗教とは、区分けられる。

一万人が集って、題目を上げるとなると、それは、気がおかしいということになるが、信じる人は、集えば、集うほど、安心する。
要するに、一人では、不安なのである。
皆、同じだと、思う、思いたい。そこにいるという、安心感である。
それを、また、宗教は、安心立命という。

そして、指導者は、躁病のように、檄を飛ばす。
勝って勝って、勝ちまくれ、であるから、実に、おかしなことになる。
要するに、宗教というものを、知らないのである。

今、宗教という、概念は、西洋思想からなる。
それは、一神教を元に、出来上がった、宗教という概念である。
実は、仏陀や、日本の古神道、その他、民族宗教と言われるものは、厳密に、西洋の宗教概念には、入らないのである。

宗教とは、一神教の、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に、言える概念であると、言う。

例えば、仏陀は、宗教を創設したのではないということは、仏陀の教えを、辿れば、わかる。仏陀は、生活指導、また、人生の生き方指導をしたのであり、宗教、つまり、絶対者を想定して、拝むことや、信仰することを、言うのではないということが、解る。

現在の日本の、仏教団体、その他、諸派の、新興宗教等々のいうところの、仏教は、仏陀のものではなく、創作したものである。
拝むという行為自体に、誤りがある。

仏陀は、行為によって成る者に成るという、考え方であり、一切の理屈は、言わない。
まして、霊的なお話や、教義、教学等という、チンケなことを、言うものでもない。

仏陀こそ、合理主義者であり、実践家であった。
例えば、鎌倉仏教という、新興宗教では、親鸞が、最も、それに近いが、しかし、思索に脱してしまった。
思い悩み過ぎた。
そして、簡単明瞭により、とんでもない、集団を作ってしまい、今は、後悔で、一杯であろう。その、組織は、宗教ヤクザとして、現在も、日本に君臨するのである。

その思索の帰路に、陶酔する者が多いが、単なる、ポーズの付け過ぎである。

思索は、思想にならない。
単に、迷いのものである。
だから、文学なのである。そうであれば、実に、納得する。
しかし、これ、宗教と言うと、大いに誤るし、宗教ではないはずである。

矢張り、生き方指導や、生き方、思索をすることを、促したと、見る方が、正しい。

宗教は、ストレスを減らすことで寿命を延ばす偽薬なのだろうか? そうかもしれない。ただし、そう主張したいなら、多くの状況において宗教がストレスを軽減するよりもむしろ引き起こすことを指摘する懐疑論者の異議申し立てをかわす必要がある。たとえば、ふつうの人間の弱さと、ふつう以下の知能しかもちあわせないローマ・カトリック教徒が、半永久的な病的罪悪感によって苛まれることで健康が改善されるというのは信じがたい。ひょっとしたら、カトリックだけを取り上げるのは公正ではないかもしれない。しかし、アメリカのコメディアンのキャーン・ランドマンが言う通り、「すべての宗教は同じ。宗教は、祭日はそれぞれちがうけれど、基本的に有罪」なのだ。

人間を支配する場合は、人間の弱さを支配すると、良い。
一番は、性欲である。
マスターベーションを禁止するキリスト教は、多い。
これは、とんでもない、暴挙であるが、そう教えられると、それに罪悪感を抱き、その度に、罪悪感に苛まれて、甚だしい場合は、ノイローゼになる。

こうして、支配するという、カラクリである。

仏教なども、徹底した、性欲セーブ教団であった。
しかし、今は、その反動か、徹底した、性欲旺盛集団になっているという、日本仏教であるから、何とも、お粗末である。

要するに、話に、ならないのである。

日本の、すべての、仏教団は、親鸞の、浄土真宗になってしまったのである。
つまり、僧の妻帯である。

すべての、宗派の開祖は、独身である。
一人身で、生きた。
しかし、今は、見る影も無い。

自分たちに、都合の良いように、いつでも、変更出来るという、宗教の、嘘偽りである。

すべてに、半人前であるが、言うことは、三人前であるから、手が付けられない。
仏陀は、言う。女の膣に、男根を入れてはならない、と。

2008年03月02日

神仏は妄想である。38

ダーウィン主義者は、「宗教は支配階級が社会の底辺層を隷属させるための道具である」といった政治的な説明にも満足しない。アメリカにおける黒人奴隷が来世の約束によって慰められ、それがこの世における不満を鈍らせ、ゆえに奴隷所有者に利益がもたらされたというのはさっと事実だろう。宗教が老獪な司祭や支配者によって考案されたものかどうかというのは興味深い問いで、歴史家が注意を向けるべきものである。しかし、それ自体はダーウィン主義的な問いではない、ダーウィン主義者はさらに、人々はなぜ宗教の魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、その訳を知りたいと願う。

宗教の起源 より

タイの、東北部、ノーン・カーイ県、メーン・カーイという町の、ある、不思議な寺院を見学した。
敷地に、珍しい像が、立ち並ぶ。そして、本堂のような場所に行き、仏陀像を見た。その二階に上がり、多くの絵画を見て、驚いた。ヒンドゥー一色なのである。
下は、仏陀、上は、ヒンドゥーである。

そして、祈る人々である。

矢張り、他の寺院でも、多く、深く祈る人を見た。
勿論、私も、礼儀に従って、手をあせて、挨拶をした。

その時、何かに打たれたかのように、人は、何故祈るのかという、疑問に、心が占領された。
私も、祈る人間である。
だから、こそ、なおさら、何故、祈るのかという疑問は、大きかった。
しばし、私は、寺院の中に足を止めて、それを、考えた。

私は、10年ほど前から、太陽に、祈りを捧げる。

縁ある人々のために、祈る。
亡き人のために、祈る。

日本の伝統の、祈りとは、宣る、ことであり、それは、言葉にすること、すなわち、言葉が神であるという意識であるから、言葉自体に、力があり、言葉にすることは、成るということであるという、宣る、つまり、祈りなのである。
何か、祈る対象があるわけではない。
だから、像というものを、作らないできた、民族である。

仏教伝来から、仏像というものを、置いて祈るようになった。
伝統から見れば、邪道である。

さて、人は、何故、祈るのか。

ドーキンスは、人々はなぜ宗教に魅力に弱く、したがって、司祭、政治家、王による搾取に意のままにされるのか、そのわけを知りたいと願う。と、言う。

そして、また
老獪な支配者に利用されたものであるにせよ、あるいはたまたま自然発生的に現れただけのものにせよ、神を求める心を究極的に説明するものとは、いったい何なのだろう?
と、言う。

ここで、私の立場と、ドーキンスの立場を、明確にしておく。
彼は、科学者であり、ダーウィン主義の、自然淘汰を、支持して、神は妄想である、を、語る。
私は、人は、霊であるという、立場から、神仏は、妄想である。という、エッセイを書いている。

ドーキンスは、更に、論じて、その解明に取り組む。

私は、人が、神なるもの、超越した存在を求めるに、内なる、何かがあると、思っている。

例えば、人は、無意識にあるものを、知らない。ゆえに、何事かあると、思う。確かに、ある。しかし、その正体を知らない、ゆえに、それを、妄想の、神仏に転化するのであると。

また、この人生の、多くのストレスから、逃れるには、何かに、棚上げすると、気楽である。孤立無援で、自分の人生と、向き合うのは、しんどいのである。

勿論、中には、知性により、それを、超えて生きる人もいる。
また、逆に、厚顔無恥という形で、やり過ごす人もいる。

我が内に、何かあると、思うところに、仏性とか、神の子である意識などと、吹き込まれると、その気になるのである。

それは、ある種の催眠術である。
催眠術をかけられたまま、人生を終わることになり、更に、霊になってからも、その催眠に、気づかずにいる場合もある。

人間にある、霊性、つまり、無意識の意識を言う。それが、明確でないから、神仏というものに、転化、あるいは、置き換えて、祈る。

昔、ある人が亡くなった。
その人が、何と、自分の墓に向かって祈る姿を見て、仰天したことがある。
その人は、禅に興味を持ち、禅寺に通っていたこともある人だった。
自分で、自分の家の墓に、祈る姿である。

その時、これ、宗教の姿に似ると、思った。
つまり、自分で、自分に祈るのである。
本当は、それしか、方法が無いのかもしれない。

霊界入り出来ない、霊を、迷い霊、浮遊霊という。
中には、子供の霊もいる。
それらを、次元移動させるには、方便が必要である。
なんとなれば、霊は、想念の世界のみにあるからである。

延々と、遊び続ける子供の霊に、死んだことを告げて、死んだ人のいる世界に行くことを教える。
しかし、方法が解らない。
子供の、言う通りの世界を見せて、その場から、次元移動させる。

上記、私の妄想であると、されても、よし。

人は、何故祈るのか。
原始宗教体験である。
自然に対する、脅威は、いかばかりだったかを、想像するのは、至難の業である。
その潜在意識を、受け継いでいれば、当然、脅威を恐れと、感じる。
ユングの言う、集合意識に、それがある。
祈りは、ある種の、昇華である。
それが、集団になり、組織化され、その上に支配者がつき、更に、搾取が始まるのを、宗教と、呼ぶ。

人は、葦のように、弱い者である。
一人では、生きられない。本来ならば、共に生きる者に、祈りを捧げてよいものである。相棒に、祈りを捧げて生きるものである。
しかし、それが、出来ないでいる。
互いに向き合って祈る行為が、出来ないがゆえに、共に、並んで、祈りを捧げるという行為に、行き着いたのである。
その対象が、何であれ、それが、作法になった。

ドーキンスは、群淘汰論から、解き明かし、そこから、宗教は、何かの副産物ではないかと、解く。

このところますます多くの生物学者が、宗教はほかの何かの副産物であるとみなすようになっているが、私もそのうちの一人である。もっと一般的にいえば、ダーウィン主義的な生存価について憶測をめぐらすときには、「副産物を考える」必要があると私は思っている。何かについての生存価を問うとき、私たちはまちがった設問をしているかもしれない。その場合、問いをもう少し有益な形に書き直す必要がある。ひょっとしたら、私たちが関心を寄せている形質(宗教)は、それ自体直接の生存価をもっていないかもしれないが、生存価をもつ他の何かの副産物なのかもしれない。私自身の専門分野である動物行動学のアプローチを用いて、副産物説を紹介するのが有益ではないかと思う。

そこから、ガが、蝋燭の炎に飛び込む話が出る。それは、自殺ではなく、ガは、光に向かって飛ぶという習性を持つという。
蝋燭の炎を、月の光と、誤作動を起こすというものである。

宗教的な行動は、別の状態では有益な、あるいは有益だった。私たちの心理の性向の誤作動、不幸な副産物かもしれない。この見方では、私たちの先祖の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかったことになる。それは他の何かの利点をもっていたのであり、そして付随的にのみ、宗教的行動として姿を現すものだったのだ。私たちは宗教的な行動を、そのように名前を変えて呼ぶようになってからはじめて、理解することになるのだ。

更に、ドーキンスは、論述を展開させて、明晰に、語る。

ここに来て、私は、一つ、思うことがある。
信じてしまうと、その妄想から離れることが、出来なくなるという、性向を、人は、持つということである。

完全として、頑固になり、全く、他の説を受け付けなくなる。これは、自己防衛なのであろうか。
私が信じているのだから、正しいという、暴論になるのだ。

ここに、まさに、神仏は妄想である、という、エッセイを書く意味がある。

宗教は、真実を知ることを掲げて、その教えに、帰依させる。そして、それが、唯一正しい道、生き方であると解く。

一つの例を上げる。
韓国では、プロテスタントの布教が甚だしく盛んである。
旅先で、出会った、二人の若い女性は、熱心な、プロテスタント信者である。
彼女、曰く、私たちは、これから、聖書学を学び、マレーシアに、宣教に出るための、準備をしますと。
マレーシアである。イスラムの国である。
彼女たちの、指導者は、のうのうとして、最も危険な布教活動を彼女たちに、吹き込み、鼓舞させているのだろうが、冷静に、判断すると、アフガンに、ボランティアに出た、プロテスタントの信者たちのように、あまりにも、無知蒙昧である。

共に、一神教の者が、相対座すれば、必ず、殺し合いになる。

それを、韓国プロテスタントの、指導者は、知らないのか。

要するに、そういうことである。
一方的価値観のみに、囚われて、他の価値観を知らない者、その名を、宗教信者という。

だから、日本の普通の、おばさんが、イスラムを救うのは、涅槃経ですと、空いた口が塞がらないようなことを言う。
この、宗教の無知蒙昧と、無明、つまり、先行き、真っ暗であること、誰も、知らない。知ろうとしない。逆に、先行き、明るいと、信じ込むのである。

空海が、信者に、日没の太陽を凝視する、行法を行わせた。
その結果、信者は、帰り道、太陽の残像に、山道を転げ落ちるもの、山賊に襲われるもの、等々の被害が出て、それを、中止した。
光を見て、見えなくなってしまったのである。
宗教とは、そのような危険なものである。

実は、暗闇なのだが、信じてしまうと、光があると、思い込み、山道から、転げ落ちるのである。
転げ落ちても、更に、それが修行だ、進めと、躁病的な指導者は、号令をかける。

実に、あわれ、である。

もののあわれについて170

からうじておはしまして、宮「あさましく心よりほかにおぼつかなくなりぬるを、おろそかになおぼしそ。御あやまちとなむ思ふ。かく参り来ることびんありしと思ふ人々、あまたあるやうに聞けば、いとほしくなむ。大方もつつましきうちに、いとどほどへぬる」とまめやかに御物語したまいて、宮「いざたまへ、今宵ばかり、人も見ぬ所あり。心のどこかにもなども聞こえむ」とて車をさし寄せて、ただ乗せたまへば、われにもあらで乗りぬ。

人もこそ聞けと思ふ行けば、いたう夜ふけにければ、「下りね」としひてのたまへば、あさましきやうにて下りぬ。宮「さりや、人もなき所ぞかし。今よりはかようにてを聞こえむ。人などのある折にやと思へば、つつましう」など物語あはれにしたまひて、明けぬれば、車寄せて乗せたまひて、宮「御送りにも参るべけれど、明かくなりぬべければほかにありと人の見むもあいなくなむ」とて、とどまらせたまひぬ。

女、道すがら、「あやしの歩や、人いかに思はむ」と思ふ。あけぼのの御姿の、なべてならず見えつるも、思ひいでられて、


宵ごとに 帰しはすとも いかでなほ あかつき起きを 君にせさまじ

苦しかりけり」とあれば、


朝露の おくる思ひに くらぶれば ただに帰らむ 宵はまされり

この文章の前に、宮が、侍従の乳母に、噂が立つので、出掛けるのを、咎められる段が、ある。

月夜の晩である。

やっとのことで、宮様が、お出かけになり、「あきれるほど、心ならずも、ご無沙汰しました。無情だと思わないで下さい。これも、あなたの責任ですよ。このように、お訪ねすることを、不都合だと思う人が、多くいると、聞いています。その人たちが、気の毒と思い、また、世間をはばかり、慎んでいるうちに、このように、日が過ぎてしまいました」と、まめまめしく、話されて「さあ、お出でください。今夜だけは、人の知らない所があります。心おきなく、語り合いましょう」と、車を、さし寄せられて、無理に乗せますので、女は、夢中で、乗り込みました。

人に、聞きつけられたらと、恐る恐る行きますと、夜も更けていましたので、気づく人も、いませんでした。
宮様は、車を、人陰もない道に寄せて、降りました。月影も、いたく明るく照っていましたので「お降りください」という宮様に、従って、はにかみながら、降りました。「どうです。誰もいないでしょう。これからは、このように、語り合いましょう。あなたの家では、誰か来合わせているのではないかと、思いますと、気が引ける思いがします」などと、しみじみと、お話いたします。
夜が明けますので、車を寄せて、女を乗せ、「お家まで、お送りしたいのですが、明るくなってしまうでしょうから、他所へ行っていたと、人に思われるのも、心なく思います」と、仰せられて、留まられました。
女は、帰る道すがら、「おかしな、夜歩きでした。他の人が見たら、何と言うでしょう」と思うのでした。
明け方の、宮様の姿が、ことのほか、美しく思い出されて

よいごとに かえしはすとも いかでなほ あかつきおきを きみにせさせじ

夜のうちに、お帰えしすることは、ございましても、なんとか、暁に、お越しすることは、したくありません。

心苦しく思いました、と、書き送りました。


あさつゆの おくるおもひに くらぶれば ただにかへらむ よいはまされり
朝露の、置く頃に、お別れする辛さに、比べれば、お会い出来ずに、帰らなければならない辛さの方が、もっと、辛いことです。

スリル満点の、逢引である。
すでに、二人のことが、人の噂になり始めているということである。

女は、われにもあらで乗りぬ、と、ある。
つまり、夢中で、乗った。我を忘れて、乗ったのである。

さらに、あさましきようにて降りぬ、とある。
はにかみながら、恥ずかしく思いつつ、降りたのである。

このようにして、誘う、男は、今までに、いなかったのである。
家には、通って来るが、家以外の他の場所に、連れて行くという、行動である。女は、それに、燃えたのである。
物語あはれにしたまひて、明けぬれば、と、中抜きしてある。

物語を、あはれにした、という。
恋の語りをするのである。それを、物語あはれにしたまいて、と、言う。そして、夜が明ける。

共寝をしつつ、話し合いを続ける。
交わりつつ、睦言である。

性交の様より、物語として、交わりを説くのである。
この、物語あはれに、という、表現に注目である。
物語を、あはれにするということは、どういうことか。

つまり、しっとりと、静かに、言葉を掛け合わすように、語り合うということである。
共寝の睦言が、もののあわれ、というものを、言うのである。
恋の行為である、交わりに、もののあわれ、というものを、観るのである。

もののあわれ、というものの、基本には、恋寝の、様がある。
そのように、しっとりと、あたかも、の如くに、振舞う姿に、もののあわれ、というものを、観ているのである。

それは、慈愛の様になり、心づくしの様になり、様々な、変化を起こすが、その心は、恋の物語にある。

物語の発祥も、ここに尽きる。
日本の物語の発生は、恋の心からなのである。
恋ゆえに、物語というものがある。物語が、恋なのではない。恋が、物語を作るのである。

まさに、それが、この世の現実というものである。

それを、和泉式部が、体験として、書き残したのである。
勿論、和泉式部の作ではないとしても、このように、書かれたということに、意義がある。

源氏物語の、伏線であるという、私の説である。
和泉式部は、紫式部を、触発したのである。
恋こそ、物語たるものであると、創作を促したと言える。

2008年03月03日

もののあわれについて171

さらにかかることは聞かじ。夜さりは方ふたがりたり。御むかへに参らむ」とあり。あな見苦し、つねにはと思へども、れいの車にておはしたり。さし寄せて、「早や、早や」とあれば、さも見苦しきわぎかなと思ふ思ふ、いざり出でて乗りぬれば、昨夜の所にて物語したまふ。上は、院の御方にわたらせたまふとおぼす。
明けぬれば、「鳥の音つらき」とのたまはせて、やをら奉りておはしぬ。道すがら、宮「かやうならむ折は、かならず」とのたまはすれば、女「つねはいかでか」と聞こゆ。おはしまして、帰らせたまひぬ。しばしありて御文あり。宮「今朝は鳥の音におどろかされて、にくかりつれば殺しつ」とのたまはせて、鳥の羽に御文をつけて、


殺しても なほあかぬかな にはとりの 折ふし知らぬ 今朝の一声

御返し


いかにとは われこそ思へ 朝な朝な 鳴き聞かせつる 鳥のつらさは

と思ひたまふるも、にくからぬにや」とあり。

さらに、あなたの言葉を聞くことが、出来ません。
今夜は、あなたの家が、塞がり、泊まれません。外への、お迎えに参りましょう」と宮様から、お返事がありました。ああ、なんという見苦しいことでしょう。
毎夜は、とてもと、思いましたが、昨夜のように、車で、お出でになりました。車を、さし寄せて、「早く、早く」と、仰せになります。なんと、見苦しいことかと、思いましたが、そろそろと、出て車に乗りますと、昨夜の場所に行って、物語なさいました。
宮の北の方は、宮は、父院の、御宅に行かれたものとの、思いでありました。
夜が明けてきますと、宮は、「鳥の音のつらさ」と言って、静かに車に乗り、送られました。
道すがら、宮様は、「このような時には、必ず来てください」と、仰せになります。「そうそう、始終は、かないません」と、申し上げました。
家まで、来られて、お帰りになりました。
しばらくしますと、御文が、届きました。「今朝は、鳥の音に驚かされて、憎くなり、それを、殺しました」とあり鶏の羽に、その文をつけて、和歌が、添えられてありました。


ころしても なほあかぬかな にはとりの おりふししらぬ けさのいっせい
殺して、飽き足りない思いです。逢っている二人の気持ちも解らず、鳴くときを、知らぬ、鶏の今朝の一声の、つれなさ。

お返事は


いかにとは われこそ思へ 朝な朝な 鳴き聞かせつる 鳥のつらさは
どのように、切ないものであるかは、私の方こそ、知っています。
毎朝、毎朝、宮様が、お出にならぬ夜を明かしたとき、鳴く鳥のつれなさは、と、思いますにつけて、鳥の憎くないことが、ありましょうか。と、ありました。

ここで、面白いのは、さも見苦しきわざかなと思ふ思ふ、という。
そして、いざり出でて乗りぬれば、とある。

こんな、ところで、和泉式部の本性が、現れる。
男好きなのか。
通常言われるような、男好きの女ではない。

更に、あな見苦し、つねにはと、と、言うのである。
毎夜、毎夜は、と、戸惑うのである。

毎夜、毎夜、交わることはと、戸惑う。

そして、交わりを、物語、という。

男と、女が交わることを、物語というのである。物語するとは、情交するということである。

例えば、今時の、若者が、今夜、物語しようと、誘うと、想像してみる。
誘い文句には、使いやすい。

和泉式部の欲望というものを、考える。
通常、欲望といえば、動物的な、欲情の欲望を言うのであるが、彼女の欲望は、知性に、支えられたものである。
欲望が、知性に支えられると、そこに、あわれ、というものが、観えるのである。

人間の欲望が、あわれ、の正体であると、観るのである。
更に、それを、支えるものは、儚さである。

その逆も、ある。
儚さを観て、あわれ、というものを、観る場合もある。

ただ、ここで言う、儚さというのが、無常観というものではないということである。
単なる、無常観では、いい得ないもの。
それは、万葉から、続く、情感である。

万葉から、続く、情感とは、命の輝き、命の賛歌とでも、言う。
それは、一瞬のもの、儚きもの、あわれ、であるもの。
それを、当時、仏教の無常観というものに、置き換えた、そうして、考えた。

無常観とは、感覚である。
仏教の無常観というものが、日本にては、更に、生成発展したのである。

故に、無常観が、無常哀感になったり、無常美観になったりする。

日本にて、無常観に、表情が、現れたといえる。

当初の、仏教の無常観というものは、単純明快なものであったはずだ。しかし、この国に到達して、それが、見事に、開花した。

色々な、無常感覚が、生まれたのである。

簡単に言えば、マイナス思考の無常観もあり、ブラス思考の無常観もあるということだ。

ちなみに、仏陀の言うところの、人生の無常とは、そのまま、常無いという意味であり、それ以上のものではない。
この世は、常が無いのである。だから、捕らわれるものは無い。いつも、心を自由に、静かに、落ち着いて、欲望に、支配されず、自分を、自分で、律して、生きることなのだという、生活指導が、仏陀の方法である。

その教えが、漢訳されて、日本にもたらされ、漢字の意味から、それを、探るようになり、また、日本の風土と、合い間って、独特の無常観という、価値観を見出した。

その、価値観が、平安期を支配したが、果たして、それが、真実だとは、誰も、知らない。ムードである。ムードが支配した。

無常観を、大和言葉にすると、つねなきをみる、ということになる。

上記にも、あな見苦し、つねにはと思へども、とある。

つね、とは、いつも、という意味である。
その、いつもというものが無いことを、無常と言う。

人生は、いつも、同じではありません、と、仏陀は言うだけである。
それを、ここまでに高めた日本人の感性の、豊かさといったら、ない。

つねなきをみる、そして、はかなきをみる、そして、あわれ、というもの、みるのである。

神仏は妄想である。39

コンピューターは言われたことをする。自分のプログラム言語で書かれた指令であれば、どんなものであれ奴隷のように従う。それこそコンピューターがワープロや表計算といった有益な仕事をするやり方である。しかし、逃れられない副産物として、コンピューターはまちがった指示に対しても同じように自動的にはたらいてしまう。ある指令が善い効果をもたらすか悪い効果をもたらすかを区別する術をもっていないからだ。
第5章 宗教の起源 より

上記の、解りやすい例により、ドーキンスは、副産物としての、宗教の解明を、進める。

善い悪いを、区別する術を持たない、コンピューターの宿命は、そのまま、人間心理の、ある部分を引き出すのである。

疑うことのない服従、という言い方を、ドーキンスは、するが、それは、そのまま、宗教信者に、言えることである。

一度、信じるという、プログラムが決定されると、勝手に、その深みに陥り、また、それを善しとして、信仰を続ける。
果ては、何にも動じないという、何と、不動の信仰というものを、打ち立てる。それを、また、本当の信仰と、思い込むという。

御心のままに、と、クリスチャンは、平然という。
そこには、深い信仰というものが、あるように、見えるが、実は、人生放棄の様も、見えるのである。
確かに、御心のままに、と言う姿勢に、何かしら、威厳めいたものを感じる場合もあるが、それは、勝手な、妄想である。

神との対話が、勝手な、一人相撲になっているという、真実である。

ただ、念仏する以外に、方法がないのである。と、聞けば、深い信仰の様に、見えるが、単に、人生放棄の様子になる、場合、多々あり。
開祖となる人が言えば、絵になるが、単なる信徒が、言えば、アホである。

人間は、そんな、単純なものではない。
その証拠に、それを言う親鸞は、考え過ぎて、思索の淵に沈みこんだ。
今も、思索の淵に、沈んでいるのかもしれない。

長年の、教義、教学というものを、学び続けて、プログラムされてゆくと、もう、元に戻ることが、出来なくなる。
思考方法が、一定で、そこから、複雑多岐に渡る、思考が、出来なくなる。

物思う言葉も、すべて、教義用語からなるという、絶望である。
つまり、人間の最も、素晴らしい、創造性という、エネルギーさえも、乗っ取られてしまうのである。

宗教を、文学という、芸術に、高めた人は、多い。それは、文学として、評価出来る。
例えば、岡本かの子という、作家の、仏教についての、書き物は、大変素晴らしい。
後に、それらを、検証するが、名文が、多い。

それらは、仏教というものに対して、創造性を持って、書くからである。
私の解釈というものを、創作するのである。
創作とは、創造であり、芸術活動である。
それならば、評価に値する。

しかし、多く信徒といわれる者は、皆々、プログラムされて、喜ぶのである。
それは、飼い馴らされるというである。
猿回しのようになることを、喜ぶから、宗教指導者は、たまらない。勝手に、喜び、金を運んでくる。
ゆえに、こんな商売は、止められません、となる。

もしこの頭の柔軟体操が功を奏したら、あなたはもう、子供と宗教に関する私の議論の行き着く先がおわかりだろう。自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向をもつ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。―――

心のウイルスとは、言いえて妙である。

読経の最初に、逢い難くして逢う経典は、幾千万億年も逢いがたくという、とてつもない、長い年月を言うが、中国で、訳されたことを思えば納得する。
実に、大げさである。
少し、白髪が伸びても、三千丈も伸びたというのであるから。

縁が無ければ、逢うことなくと、妙なことを言うのである。
それに、騙される。

若い頃、法華経を上げますと、日蓮宗系の、様々な宗派の人に言うと、あなたは、素晴らしい縁により、妙法蓮華経に逢ったのだと、言われた。
また、念仏宗系の宗教の人に、阿弥陀経をあげていますと、言えば、同じ事を言われる。

兎も角、一通りの、様々な宗教経典、それは、新興宗教も含むが、読みまくったのであるから、何とでも、言えた。
多くの相談者の中にも、宗教入信の相談があり、それにより、多くの知識を得た。

若い女性が、相談に来て、旦那が、私と子供を置いて、ある宗教の本部に行くとの、相談があり、当時、出来たばかりの、新しい教団であり、私も、迷いつつ、止めるのは、無理でしょうね、と答えた記憶がある。
宗教免疫の無い人が、続々と、入信する様を見た。
耳障りの良い言葉を、並び立てた、著書は、知能レベルの低い人には、実に、心地よいものだったのだ。

仏教、キリスト教の、焼き直したものであり、何も、目新しくないが、知らない者、没頭して、騙された。

教祖の霊能力により、急成長した、教団もあった。
最初は、仏陀の生まれ変わりであるという、教祖は、仏陀を書いた。
私は、仏陀は、生まれ変わらないから、仏になったと言われると、思ったが、兎に角、その人の著書を読んでいた。
そのうちに、仏陀というのは、誤りで、ゼウスの生まれ変わりであると、なった。
気づいたのであろう。
仏陀が、生まれ変わっては、おかしいと。
しかし、その後、魂の六人の兄弟という説を出して、それらが、順番に、この世に出て、修行する等々の、議論である。

どこの、レベルの霊界の情報であるかが、次第に知れてきた。

ゼウスの、生まれ変わりとは、これ如何にである。
ギリシャの神であり、人間もどきである。神もどきである。
何とも、はや・・・

その娘が、大天使ミカエルとなった。
カトリックが、認証した、大天使である。
天軍の総帥ということになっている。

信者には、続々と、西洋の偉人の生まれ変わりが出た。
不思議なことに、日本人がいない。
教祖は、古代語にて、呪文のようなものを、唱えて、前世を引き出すという、芸当をした。

あまりにも、やり過ぎたのであろう。予言通りに、教祖は、夭逝した。
案の定、その後、弟子たちが、分派して、小さな団体が多く出来た。

霊界の、ある世界が、関わると、簡単に出来ることであるが、人は知らない。故に、没頭した。

ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。―――彼らにとっては、どちらの忠告も同じように信用できそうに聞こえる。両方とも尊敬すべき情報源からのもので、その指示を尊重し、服従することを要求するような厳粛な真剣さをもって発せられるからだ。同じことが、世界に関する、宇宙に関する、道徳に関する、そして人間の本性に関する命題についても言える。そして、その子供が成長して自分の子供をもったとき、当然のごとくその一切合切―――ナンセンスなものも意味のあるものも同じようにーーーを、同じように感染力のある厳粛なやり方で自分の子供に伝える可能性は非常に高い。

簡単に言う。
信者になるということは、兵隊になるということで、兵隊になるということは、命令に絶対服従するということである。
それが、良い命令、悪い命令に関わらず。

死ぬと、解っても、命令が出ると、自爆テロを起こすのである。
特攻するのである。

2008年03月04日

神仏は妄想である。40

宗教が何かの心理学的な副産物であるという考え方は、進化心理学という、目下発展中の重要な分野から自然に生まれてくる。進化心理学者たちは、眼がものを見るために、そして翼が空を飛ぶために進化した器官であるのとまさに同じように、脳は、一連の専門的なデーター処理の必要性に対処するための器官(モジュールと言ってよい)の集合ではないかと言っている。血縁関係を扱うモジュール、互恵的なやりとりを扱うモジュール、共感を扱うモジュール、等々が存在するわけだ。宗教はこうしたモジュールのいくつかが、たとえば、他人の心についての理論形成のためのモジュール、同盟を形成するためのモジュール、集団内メンバーを優遇しよそ者には敵対的に振舞うためのモジュールが誤作動したことの副産物とみなすことができる。
宗教の起源 より

さらに、物理学にても、ついに、次元の差があることを、突き止めようとしている。
ワープする宇宙という、本を書いた学者がいる。
東大にても、講演をしたというから、本格的である。

宗教が、負っていた、次元の違い、つまり、霊界の存在さえも、科学の手になる、時代に突入したといえる。
勿論、それにより、ついに、科学でも、証明される、霊界と、更に、宗教活動の、布教を旺盛にする、心霊宗教団体も、現れるだろうが、基本的に、それらと、違う。それらは、妄想の霊界のことを言うのであり、物理学の次元違いの、霊界のことではないのだ。

だが、ドーキンスは、少し違う。
続けてみると、

こうしたモジュールのいずれも、ガの天空航法に相当する役割を果たしうるもので、私が子供の騙されやすさについて説明した例と同じような形での誤作動を起こしやすい。こちらも「宗教は副産物」であるという見解の持ち主である心理学者のポール・プルーニは、子供にはもって生まれた心の二元論に向かう性向があると指摘している。彼にとって宗教とは、本能的な二元論の副産物である。私たち人類、ことに子供は、生まれながらの二元論者ではないだろうかと彼は言う。

二元論者は、物質と、精神の間に、区別をつける。
一元論者は、精神は物質、脳の中の物質の一つの表れで、物質と別に存在することは、ありえないと、考える。

それは、つまり、宗教は、二元論の、最たるものであるということだ。
簡単に言えば、肉体と、精神、あるいは、心、魂、霊、は、別物という、考え方である。
肉体に、魂が宿り、死後、肉体から抜けて、魂は、霊界に入る、という、考え方は、まさにそうである。

しかし、心霊と、宗教の違いは、教義によって、それが在る、無いということになる。
ドーキンスは、物質を離れて、精神、心というものは、在り得ないという。
それは、脳内物質であるというのだ。

二元論者は、ほんのわずかな機会でもとらえて、生命をもたない物理的な対象を人格化し、滝や雲にさえ、精霊や悪魔を見る。
ドーキンスは言う。

それは、つまり、子供の思考形態であるということだ。

日本の伝統、万葉集は、その、二元論の考え方で、溢れている。
だが、それは、宗教ではなく、文化であり、精神の芽生えの時期である。

生まれ変わりという、考え方も、つまりは、入れ替わりという、考え方である。
霊が、移り行くのである。
転生輪廻という、考え方にある。

ドーキンスの論述は、私の霊学にも、大きな影響を与えた。
つまり、転生するということの、説明は、実に難しいものである。
前世というものは、単純なものではないのだが、Aという、魂が、Bに、生まれ変わったと、簡単に言う。そんなものではない。
私の全人格が、すべて、生まれ変わるということは、在り得ないのだ。

だが、通俗的な、前世云々を言う者、そのように、単純に言うのである。

さらに、ドーキンスの分析は続き、
子供は生まれつきの目的論者であり、多くの人間は成長しても、そこから完全に抜け出ることはできない。
と、言う。

人間は、つまり、宗教的な観念を受け入れるための、生まれながらの、素地を持つということができる。
二元論、目的論とは、まさに、宗教の特徴である。

意味の無いものに、意味を。
その、想像力は、激しく、妄想的である。
そして、あらゆる事柄を、それに、神や仏に、結びつけて、考えることが、できるのである。完全に、やられて、しまう。

毎日新聞、2月19日の朝刊にて、アフガニスタンの国境地帯出身の、パキスタン有力者が、自爆テロの実行犯に、仕立て上げる秘密訓練所の、様子を話している。
アフガニスタン国境には、複数の秘密施設があり、現在、約400名の、若者が、訓練を受けているという。

武装組織は、貧しいが、信仰心の篤い家庭で、育った15から20歳までの、子供たちに、狙いを絞り、実行犯を、リクルートしているという。
司令官は、20歳以上だと、知識がついて、洗脳しにくい。また、生活に余裕があれば、信仰心も、揺らぐという。

その教えは、自爆の後は、永遠の命が、神から与えられ、食料にも困らない天国に行ける、と教える。

少年たちは、一ヶ月も、たたないうちに、自爆を志願するという。
指名されないと、泣き叫ぶ子供もいるという。

純真な、少年たちが、テロリストたちに、悪用されている。

しかし、これが、宗教の、最終の恐ろしさなのである。
このように、簡単に、自爆を志願するように、洗脳されるということである。

二元論とか、目的論と、言っているうちは、良いが、このように、テロ行為を、簡単に出来る人間に、仕立てられるということは、実に、恐ろしく、許しがたい。

命を懸けて、神や、仏を伝えるという、行動は、純真、純粋に見えるが、それが、洗脳だとしたら・・・

地下鉄サリン事件を、笑えるものではない、ということだ。
宗教の、本質を表して、しまったのである。
あれが、宗教の本体である。

どう、言い逃れしても、同じ、種から、出ているのである。

キリスト教の中には、私たちの教会は、カルト宗教ではありません、という、パンプレットを、配布するものがあるが、根は同じである。

宗教は、どんなに大きくなっても、カルトである。

危険な妄想に、毎日、浸り続けているのである。

宗教が平和と、イメージされるのは、策略である。
最も、平和に、遠いのが、宗教というものの、本質である。

2008年03月05日

どこまでも国民を愚弄する、非国民。

国民を愚弄する、非国民の様は、数知れない。

また、厚生年金事業振興財団が、天下り情報を隠蔽していた。

公務員制度改革大網で、定められた、天下り役員の最終官職や役員報酬が、独自の判断で、公開しないという、行為である。

元社会保険庁長官などを、学識経験者と記載するなど、手が込んでいる。
詐欺のようである。

それが、理事長であるというから、呆れる。
理事長の年間報酬は、手当てを除く、本棒だけで、約1300万円。常務理事は、約1100万円である。

国が、所管する公益法人の、有給常勤役員の平均年間報酬は、400万から800万円である。

驚きは、06年の、決算は、約22億円の赤字である。

公益法人の、指導監督基準では、常勤理事の報酬は、収支状況と比べて、不当に高額にしないように、定めてある。

それなのに、平然として、高額の報酬を得て、なお、天下りの様を、隠蔽するという。

どこまでも、国民を、愚弄するのか、計り知れないのである。

勿論、何の仕事も無いのである。
名誉職のようなものであり、実質的に、のうのうとして、過ごしているのである。
この財団は、厚生年金会館や、ウェルサンピア、病院を経営している。
理事長や、常務理事などの、天下りの連中は、何も、していないのである。

単なる、給料ドロボーである。
まして、赤字経営である。

新聞に名前が載っている。
子々孫々にまで、恥ずかしい思いをさせても、平気でいるという、厚顔無恥である。

いつから、日本人が、中国人のようになったのか、知らない。
この年齢の者どもは、団塊の世代であろう。

最も、日本人としての、伝統を身につけなかった者どもである。

自分が、生んだ子供でさえも、どうでもいいと、思う連中であるから、何も言うことは無いが、公金横領は、許せない。
一般国民の、1000万人以上が、年収200万円程度であるという、状況の中での、非国民の行為に、本当に、怒り心頭である。

まさか、アホな宗教家が、彼らは、前世の行いが良かったから、今は、幸せに、公金横領していいのですとは、言わないだろうと思うが、同じ穴の狢であるから、言う可能性はある。

こういう者どもは、死んでも、このようであり、死んでも、治らない病を、持つのである。

余程、家系の因縁が、悪人のものなのであろう。

そういえば、ロス疑惑といわれた、事件の何とかさんという者が、日本では、無罪とされたが、ロサンゼルス警察に、身柄を拘束された。
23年を経ても、まだ、疑惑が、残るということなのだろう。

冤罪の逆も、有り得るということだ。

真実は、本人が一番知っているが、嘘をついている場合は、第三者が、それを、立証しなければならない。

もし、万が一、有罪判決を受けたら、どうするのだろう。
嘘が、あばかれたら、どうするのだろう。
それでも、無罪を主張するのだろうか。
その権利は、ある。

要するに、この世は、嘘も、真実も、隠し通せる所なのである。

言わず語らずという、日本人の美徳が、すべて、裏目に出ているようである。
誰も言わない。皆、同じ事をしている。故に、公務員は、非国民でいられる。
利己的な遺伝子を、そのまま、表に出しているのであろう。

もののあわれについて172

二三日ばかりありて、月のいみじう明るき夜、端にいて見るほどに、「いかにぞ。月はたまふや」とて


わがごとく 思ひはいづや 山の端の 月にかけつつ なげく心を

怜りもをかしきうちに、宮にて月の明かりしに、人や見けむと思ひ出てせらるるほどなりければ、御返し


一夜見し 月ぞと思へば ながむれど 心もゆかず 目は空にして

と聞こえて、なほひとりながめいたるほどに、はかなくて明けぬ。またの夜おはしましたりけるも、こなたには聞かず、人々方々に住む所なりければ、そなたに来たりける人の車を、「車はべり。人の来たりけるにこそ」とおぼしめす。むつかしけれど、さすがに絶えてはてむとはおぼさざりければ、御文つかはす。宮「昨夜は参り来たりとは、聞きたまひけむや。それもえ知りたまはざりしにやと思ふにこそ、いといみじけれ」とて、


松山に 波高しとは 見てしかど 今日のながめは ただならからむ

とあり、雨降るほどなり。「あやしかりけることかな。人のそらごと聞こえたりけるにや」と思ひて、


君をこそ 末の松とは 聞きわたれ ひとしなみには たれか越ゆべき

と聞こえつ、宮は、一夜のことをなま心憂くおぼされて、久しくのたまはせで、かくぞ、


つらしとも また恋しとも さまざまに 思ふことこそ ひまなかりけれ

御返は聞こゆべきことなきにはあらねど、わざとおぼしめさむもはづかしうて、


あふことは とまれかうまれ 嘆かじを うらみ絶えせぬ 仲となりせば

とぞ聞こえさする。

二、三日ばかり経ち、月の明るい夜でした。
女が、縁先にいて、月を眺めていますと、宮様から、「どうして、お過ごしですか。月を御覧になっていられますか」と御文がありました。

わがごとく おもひはでづや やまのはの つきにかけつつ なげくこころを

私と、同じように、山の端に沈む月を見て、かつての夜のことを思い出しているのでしょうか。私は、あなたに、逢えないことを、嘆いています。

いつもの御文より、心曳かれるものでした。
かって、宮の邸で、月が明る過ぎるほど照っていた、あの夜、人が、どこかで、見ていなかったかと、思い出されていましたところでしたので、お返ししました。


いちやみし つきぞとおもへば ながむれど こころもゆかず めはくうにして

あの夜に、見た月と同じ月だと思いますと、宮様が思い出されて、眺め尽くします。でも、私の心は、空ろですから、目も空です。宮様が、お出でになりませんから。

と申し上げて、なおも一人で、眺めていますうちに、夜が、はかなく、明けてしまいました。
次の夜に、宮様が、お出でになりましたが、女の方は、知りませんでした。
女の家には、人々が、それぞれの部屋に住んでいましたから、そちらの方へ来た車を、宮が「車があるけれど、誰か男が来ている」と思し召したのです。
不本意でしだか、女との縁を切ることは、出来ませんから、女に御文をつかわされました。
宮は「昨夜は、参りましたが、お訪ねしたことを、聞きましたか。それさえも、知らないと、思いますと、いたく悲しいものです」と、お書きになられ、


まつやまに なみたかしとは みてしかど きょうのながめは ただならぬかな

あなたの波高い、盛んな浮気は、知っていましたが、今日の長雨と、同じように、昨夜見てしまったことは、ただならぬことなのです。

と、添えられてありました。
それは、雨が降っている時でした。
不思議なことです。宮様に、誰か、ありもしないことを、申し上げたのでしょうか。と、思い、


きみをこそ すえのまつとは ききわたれ ひとしなみには たれかこゆべき

宮様こそ、浮気な方だと、聞いております。宮様と、同じように、誰が心変わりなど、できましょうか。

と、申し上げました。
宮様は、先夜のことを、何となく心憂く思われて、久しい間、お便りもありません。
そのあとで、このような、歌を読まれました。


つらしとも またこいしとも さまざまに おもふことこそ ひまなかりけり

あなたのことを、恨みがましく思い、また、恋しく思い、心の休まることがありません。

お返事を、申し上げたいということは、ないではありませんが、宮様が、あまりに、言い訳なさるのも、気が引けて、


あふことは とまれかうまれ なげかじと うらみたえせぬ なかとなりせば

お逢いすることが、どのようになりましょうとも、嘆きはしません。
二人の間が、恨みの絶えない仲になりましたら、悲しいことです。
と、仰せになりました。


恋に、障害は、付き物で、障害の無い恋は、空虚である。
障害が、多々あれば、それだけ、恋の強さが、試され、さらに、恋は、刺激され、燃え上がる。
恋の持続のためには、障害は、必要不可欠である。

そして、恋に伴う、想像は、果てしない。
相手を、疑いはじめると、すべてを、疑う。そして、それが、また、恋心を、燃やす。

人の立てる噂も、恋人の、糧になる。
一喜一憂という、感情の綾。恋の快感である。

この、日記の特徴は、和歌である。
実に、多くの歌の、やり取りがある。それは、当時の風習のようにあったが、この日記は、甚だしく、歌が多い。

一つの、歌集のための、恋のようである。
単なる、恋愛日記ではないということだ。
つまり、恋心に、言葉の世界、歌の世界が、介入して、更に、恋というものの、姿を見せるのである。

恋は、無益ではない。
勿論、無益な恋が、悪いことは無い。
恋こそ、人間の最後の無益な行為である。
この、無益な行為に、生きることは、更に、人間らしいと、言える。

和泉式部は、出家を考えるほど、仏教にも、帰依するのだが、結局、恋に生き抜くことになる。
そして、多くの歌を詠んだ。
無益な恋の成果が、歌である。

恋の成就は、結婚ではない。
当時は、そのような意識は、希薄である。

恋は、恋である。
それは、江戸時代まで、続く。
江戸の遊郭文化は、恋の文化である。結婚は、別物だった。そこには、明確な区分けがあった。

恋は、恋で終わる。
それは、儚いものであり、更に、熟して、もののあわれ、というものを、朧に浮かび上がらせるのである。

2008年03月06日

もののあわれについて173

かくて、お間遠なり。月の明き夜、うち臥して、「うらやましくも」などながめらるれば、客に聞こえゆ。


月を見て 荒れたる宿に ながむとは 見に来ぬまでも たれに告げよと

樋洗童して、「右近の尉にさし取らせて来」とてやる。御前に人々して、御物語しておはしますほどなりけり。人まかでなどして、右近の尉さし出でたれば、宮「例の車に装束せさせよ」とて、おはします。

こうして、宮様との、間は、遠のいていました。
月の明るい夜、女は、横たわり、「うらやましくも」などと、物思いしながら、見ていましたので、宮様に、お歌を差し上げました。

つきをみて あれたるやどに ながむとは みにこぬまでも たれにつげよと

月を見て、この荒れた宿で、切ない思いをしておりますこと、宮様以外の誰に、告げたらいいのでしょう。どうせ、おでましに、ならいでしょうが。

便器の掃除などをする、童に、右近の尉に、渡しておいでと、お使いを出されました。
宮様は、御前に、人々をお召しになって、語らっているときでした。人々が、退出してから、右近の尉が、御文を差し出しますと、「いつもの車の仕度をさせなさい」と仰せになり、お出かけになりました。

「うらやましくも」と、女が思う。
この、うらやましくも、とは、月の澄んだ様を言うのである。
うらは、裏に通じる。つまり、心のことである。
うら悲し、といえば、心が、悲しいことをいう。
やましく、とは、疾しい、そして、病むのである。
心が、病む。
それは、月の光を見て、その澄み渡る様に、心を病むのである。
つまり、それは、月の孤高とした様と、わが身との、差である。
一つ、忽然として、光り輝くもの、月という存在に、投げかける、心の悲しみ。

暫く、遠のいている、宮との、関係を、憂いでいる。
それは、恋である。

女は、恋の病に、侵されているのである。
恋は、病に至る道である。

更に、恋により、うらやましくも、が、癒されもする。
この、恋というものは、何であるのか。
何ゆえに、人は、恋に陥るのか。

恋が性と、直結していた、万葉の時代から、微妙複雑になる、過程の時代である。
色好みという、考え方をもった時代は、つい、前のことである。
それは、男の、それを、言った。しかし、今、女は、色好みに、向かっている。

和泉式部は、平安期の、女歌人の、最もな存在と言われる。
色好みの女の、歌が、平安期の、歌の、頂点をゆくのである。

歌詠みの、感性は、恋の色好みと、通じるものがある。
万葉を継ぐ者、が、和泉式部であった、といえる。

もし、色好みという、恋のみに、身を投げ出していたら、果たして、歌という、言葉の精神に高めることが、できたであろうか。
そこには、歌を詠むという、現代の言い方をすれば、醒めた目が、あったはずである。
恋にのみ、没頭すれば、歌など、詠むことは無い。
恋に、帰結すれば、いいのだ。
しかし、歌を詠み続けた。

また、歌を詠まないわけには、いかなかったと、いえる。
ここに、和泉式部の、存在する、理由がある。

後に、和泉式部は、宮様を亡くし、失ってからも、歌を詠み続ける。
それが、証拠である。
挽歌である。そして、相聞歌である。

私は、日記の後は、和泉式部の歌を読むことにしたいと、思っている。

源氏物語は、多くの学者、研究家、作家等々が、言う、単なる、情感という、もののあわれ、ではない。
勿論、それも、ある。しかし、もののあわれ、というものは、情感のみでは、いい表すことが、出来ない、日本の伝統としての、心象風景である。

それを、観念として、捉えることは、出来ない。
日本人の、心を作り上げてきたものである。
恋愛論、人生論というような、観念ではない。

他に類を見ない、心象風景である。
観念として、言葉にすることの出来ないもの、それが、もののあわれ、である。

在って、あるがままに、という、在るべき、様なのである。

日本の文学は、今でも、それを、書き続けていると、私は、思っている。

果てしないもの、もののあわれ、というものを、である。

もののあわれ、とは、人間の存在の、そのままである。
よって、すべてを、表せるものではない。

これが、理想の、云々であるというような、思想、哲学などにない、もの、それが、もののあわれ、というものである。

書き続けられるもの、それが、もののあわれ、である。

西行が、伊勢神宮を参った時に

なにごとの おわしますをば しらねども かたじむなさに なみだこぼるる

と、歌うもの、それである。

何事、つまり、物の本質というものは、解らない。しかし、何かがあると観る、感性により、もののあわれ、というものの、姿を観るのである。


君が代を、教えてください。

往復はがきが、届いた。
札幌の知り合いの、女性である。

驚いた。
国歌、君が代の、歌詞を教えて欲しいというものだった。

小学生の息子が、国歌を教えて欲しいと言う。しかし、私も、一度も、歌ったことがないというのだ。
学校では、教えないともいう。

一度、札幌講演の時にも、一人の女性から、君が代の、意味を教えてくださいと言われたことがある。それも、子供が、教えて欲しいということからだ。

一体、この国は、どうしてしまったのか。

園遊会の時に、将棋の米永さんが、陛下に、君が代を歌うように、運動していますと言うと、陛下は、強制にならないようにと、お答えになった。

強制も、何も、礼儀であろう。

日教組、北海道は、北教組であるが、彼らの奉じる、社会、共産主義の国の、国歌や、国旗の有り様を、見よと言う。

国に対する誇りというものを、教育しないで、国際化も何も無い。

相手国に、行けば、相手国の、国歌や、国旗掲揚がある。その時の、礼法を、知らないことになる。
それは、大変、失礼なことである。

何度も、言ったが、それは、礼儀作法である。

強迫神経症というしかない。
私も、別に、強制せよと、言うのではない。
国際人としての、当然の礼儀であるというのだ。

君が代が、恋歌だと言うと、嫌がる、研究家もいるが、古今集の、原文は、まさに、恋歌、または、長寿を祝う、願う歌である。

明治初頭に、取り合えず、国歌として、イギリスに紹介したのが、始まりであるが、この、歌詞は、通常、色々な形で、歌われていたものである。

現在の、曲は、薩摩琵琶から、取られている。

君が代の、君を、天皇に、解釈するという、過ちを犯したことは、事実である。
天皇は、大君と、御呼びする。
君とは、あなた、という意味である。

恋歌が、国歌だとは、何と、風情のある国かと、私は、思っている。

さて、この、君が代の、歌詞は、実に、大きな嘘が、ある。
それは、細石が、巌になるというのである。
全く、自然界では、考えられない出来事である。

巌が、砕けて、細石になることは、あるが、その逆は、在り得ない。

つまり、それほど、相手を、思うということである。
思いの強さが、在り得ないことを、在りえるようにするという、意思である。

国歌、国旗、恐怖症という言葉が、いつかの、新聞に載り、それを、強制される、先生が、神経症になるというものである。

たかが、国旗であり、国歌である。
戦争時の、おぞましい記憶となるという、のである。

心理的に、そういうことは、ある。それは、認める。
だが、それを、体験しない人に多いというのは、それは、洗脳によるものである。

要するに、絶対主義の思想による。
戦中の、軍国主義と、変わらないのである。

実に、おかしな、話である。

日本では、個人の自由意志に、任せられるという、言葉は、通用するが、イスラム圏などては、殺されると、教えた方が、身のためである。
勿論、死ぬまで、イスラム圏などに、出掛けないというなら、何も言うことは無い。

しかし、アジア、アメリカ、アフリカ等々、どこの国にも、国旗や、国歌はある。
そのための、礼儀作法だけは、教えておいた方が、身のためである。

どこにでも、原理主義という、危険な人は、いるのである。

個人の自由など、全く通用しない、国の方が、多いのである。

昔、師事した、英語の先生に言われた。
英語の丁寧な言い方、つまり、敬語を身につけるということは、身を守るためなんです、よ、と。

日本の考え方と、全く、別物だったことに、いたく驚いた、記憶だ。

2008年03月07日

神仏は妄想である。41

ドーキンスは、二元論、目的論から、思考姿勢、デザイン姿勢と、論述を展開し、宗教が副産物であることを、裏付ける。
様々な形で、宗教の副産物であることを、提唱する面々を上げて、こう言う。

デネットによって言及されているとりわけ興味深い可能性は、宗教の不合理性は、脳に作られたある特定の不合理な、おそらく遺伝上の利点をもっていると思われるメカニズム、つまり、私たちの恋に落ちるという傾向の副産物だというものである。
宗教の起源 より

そして、実に、説得力ある、展開が繰り広げられる。
ただ今、私は、別のエッセイで、もののあわれについて、という、ものを書いている。
そこでは、日本民族の、伝統である、もののあわれ、という、情感は、恋によるものからだと、話を展開させている。
恋に生き、恋に死ぬこと、そこから得られる、心の様を、もののあわれ、の原点であることを、書いている。

万葉集は、恋の歌、相聞歌が、八割を占める。
宗教というもの、ではなく、日本民族が、恋により、その心の有り様を、作り上げていったということを、書いて、もののあわれというものを、表したいと思っている。

恋とは、原始人間の心的、体験である。

さて、ドーキンスの、論述を見る。

人類学者のヘレン・フィッシャーは、「ヒトはなぜ恋に落ちるのか」で、恋愛感情が狂気であり、厳密に必要だと思えるものに比べてどれほど行き過ぎたものであるかを、みごとに表現している。―――私たちが受け入れやすい熱狂的な一夫一妻制的愛よりもむしろ、ある種の「複数恋愛」のほうが、一見したところ合理的である。二人以上の子供、親、兄弟姉妹、教師、友人、あるいはペットを愛することができるというのは、問題なく受け入れられる。そのように考えていくとき、私たちが配偶者間の愛に全面的な排他性を期待するのは、どう考えても奇妙ではないだろうか? しかしそれが私たちの期待するのであり、理想として目指すものである。それには理由があるにちがない。

第5章の、宗教の起源の佳境に、入ってゆく。

配偶者の愛に全面的な排他性を期待する、という、部分に、私は、宗教そのものを、感じる。
日本の宗教人口は、実に、人口以上の人口であり、おそらく、一人が、複数の宗教に、入会しているのであろうと、推察できる。
万葉集の恋の、民族性が、それに、表されているようだ。

ヘレン・フィッシャーほかの研究者は、恋に落ちることに、その状態に高度に特異的で特徴的な神経活性物質(実際には自然の麻薬)の存在を含めて、独特な脳の状態がともなうことを示した。進化心理学者たちは、この不合理な一目惚れが、共同親たるパートナーに対する忠誠心を、子供を育てられるだけの長期間にわたって持続させるための一つのメカニズムになりえるのではないかという彼女の意見に賛成している。

恋により、自然の麻薬が、脳内から出る。
そうであるから、恋に生き、恋に死ぬことが、できるというものである。
恋は、盲目である。
恋は、病であるとも、言われた。

蓼食う虫も好き好きとは、恋の理解不能を言う。
どうして、あのヒト、あんなヒトを好きになったの、である。
恋は、止められない。

不合理な宗教が、もともとは恋に落ちるために自然淘汰によって形作られた不合理なメカニズムの副産物だということはありえるだろうか? 確かに、宗教を信じることは恋に落ちるのと同じ性質のものをもっている(そして両方とも、麻薬でハイになったときの属性の多くをもっている)。神経精神科医のジョン・スミーンズは、この二つの熱狂によって活性化される脳の領域には有意の差があると警告している。にもかかわらず、彼はいくつかの類似点をあげている。

つまり、
宗教がもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなちわ神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な強化の過程によって衝き動かされている。正の強化の多くは宗教に由来する。すなわち、危険な世界にありながら自分は愛され、保護させているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったとき祈りに応えて、山からやってくる助けといったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝時代には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生物学的な随伴現象をもっている。
と、言う。

祈りによって、そのような、現象を引き起こすことは、実に、多い。
たまたま、恋ではなく、信仰という、状態において、恋と、同じような、現象を引き起こす。
恋が、できない状態、あるいは、恋に縁が無い場合も、信仰に、没頭すること、多々あり。

恋が低俗で、信仰が、高尚であるとは、言えないのである。

誤作動、あるいは、転移とでも言う。
恋の激情を、宗教に向けるということは、実に、有り得るのだ。

徹底した、思い込みが、脳内に、麻薬をもたらし、一人それに、酔う。
神との合一とか、仏との、一体とか、瞑想による、恍惚感というもの、脳内の自然麻薬の、お蔭である。

麻薬撲滅を運動しても、いかに、取り締まろうが、無くならないのは、使用する人がいるということだ。
自分で、脳内麻薬を作れない人は、錠剤の麻薬に頼る。

恋により、麻薬を作られない人が、信仰によって、麻薬を作る。すると、止められない。そして、熱心な信徒として、その信仰に命を、捧げることになる。
勿論、個人の自由である。

しかし、何故、トーキンスが、神は妄想である、を書くのか。
それは、宗教を、強制されるからである。
自由であるべきはずの、個人的、極めて個人的な、情緒を、強制されるからである。そして、裁かれるからである。

支配者が、宗教を掲げて、人の自由を奪うからである。
そして、私は、更に、それらが、最も、平和的ではないからである。と言う。

一人で、行っているのならば、問題は無い。
インドのヨガ行者が、どんな、苦行でも、勝手に行っているうちは、いいが、それを、人に強制すれぱ、迷惑である。
まして、それが、真実であり、それに、従えと言われれば、また、実に迷惑である。

布教、宣教等々の、宗教の、伝播は、ありがた迷惑なのである。
だが、騙される人は、宗教に勧誘されたことを、感謝するというから、如何ともし難い。

麻薬は買うが、宗教は、布施、献金、という、搾取を持って、堂々と、金を集める。更に悪いことは、信徒の金を使い、指導者が、その、野心のため、個人的な、快楽のために、使用するという、呆れた行状をするということ。
快楽とは、欲望の云々ではない。
さらに、人を集わせるために、信徒の金を利用して、宗教の巨大化を図るという、馬鹿馬鹿しいことをする。

信徒は、自分の金で、大きな伽藍を建てる宗教を、誇るという、呆れた様である。
出した金で作られた、お札を、また、金を出して買うのである。

すべて、脳内の麻薬のためである。

ここでガの光コンパス反応に相当するのが、一人の異性、たった一人の人間とだけ恋に落ちるという、この一見不合理だが有益な習性である。脳のメカニズムの誤作動の副産物――ガがロウソクの炎に飛び込むに相当するーーは、ヤハゥェ(あるいは聖母マリア、あるいはホスチア、あるいはアラーの神)との恋に落ち、そのような愛に動機づけられた不合理な行動をおこなうことである。

ホスチヤとは、ミサにより、パンが変容して、キリストの体になると、信じられる、パンのことである。

私は、個人的に行うことに何の抵抗もない。
個人的、行為であるから、没頭すれば良いのだ。
マスターベーションを禁止するような、馬鹿なことを言うのではない。

それを、他人に、伝播させる行為に、危険を感じるのである。また、多くの戦争の種となるのである。
それでなければ、ならないという、断定的行為を、である。
マスターベーションを、多くの人とするという、狂いに、私は、驚愕するのである。

神仏は妄想である。42

多神教から一神教への変化を、自明な進歩的改善としてあつかわなければならないという明確な理由はない。しかし広くそう認められている。この発展過程から、イブン・ワラック「(なぜ私はイスラム教でないか)の著者」はふざけて、一神教はやがて、もう一つの神を取り払って無神論になるべき運命にあるという推論をしてみせた。「カトリック百科事典」は、多神教と無神論を無頓着にいっしょくたにして退ける。「正式な狭義としての無神論は自己論駁的であり、事実問題として、多数の人間から理に適ったものとして賛同を得ることはけっしてなかった。多神教もまた、大衆の想像力をどれほどたやすくつかもうとも、哲学者の精神を満足させることはできない」
第2章 神がいるという仮説 より

多神教は、多くの差別を受けてきた。そして、現代に至るまで、差別を受けている。
それは、数として、一神教が多いからであるという、簡単な理由である。

一神教を奉じる国の、政府の政策も、一神教を優遇するという、方策がとられている。

ただ、多神教では、このような、理屈を言う者、多々あり。
多は、一にして、すべては、一つの働きである。それが、変化しているだけであると。

宗教は、なんとでも言う。何の根拠の無いものでも、教義として、立たせるのである。

ドーキンスも言う。
私がどうしても書きとどめておかずにはいられないもう一点は、宗教が、いかなる証拠ももたず、もつことができるはずもない細かな出来事について、なぜああも傲慢な口ぶりで断言できるのか、ということだ。ひょっとしたら、ほんのわずかに異なる意見をもつ人間に対して、とりわけ三位一体説というこの領域での異論に対して、独特の激しい敵意を引き起こすのは、哲学的な意見を支持するいかなる証拠も、いずれにせよ存在しないという、まさにその事実なのかもしれない。

トマス・ジェファーソンの言葉がある。
理解不能な提案に対する唯一の武器は冷笑である。観念に理性が働きかけることができるためには、まずそれが明確なものでなければならない。しかし三位一体については、明確な観念をもつ者は誰もいない。それは、自分をイエスの司祭だと称するペテン師たちの単なる呪文にすぎないのだ。

中世の、異端審判は、皇帝に、三位一体を承認させ、異端を徹底的に、殺したのである。
そして、一丁、出来上がったのが、カトリック教会である。
ドーキンスは、言う。
神学は蒙昧主義である。
さらに、
神学は、―――科学や、あるいは大部分の人文学の他の分野とちがってーーー17世紀で、止まっている、と。

信じる者は、信じ込むことで、自己完結するのである。
そして、信じていることは、単なる妄想や、根拠の無い観念である。

それ、すべての宗教に、言えるのである。
宗教的行為ではない。宗教である。

私が言う、宗教的行為とは、宗教のようにみえるが、長年の積み重ねによって成り立った、作法という意味である。
例えば、日本の場合は、新嘗祭などの、伝統行為である。
もっと、砕けると、秋祭りなどの、伝統行為である。
それは、宗教ではなく、宗教的行為である。
宗教という言葉に抵抗があるならば、伝統行為である。
私は、それを、実に、真っ当な感覚であると、観るものである。

先祖が、次第に、形を整えていった、作法を、伝統行為という。
伝統行為の中には、観念が無い。
ただ、伝える先祖の心があるのみ。

人間は、宗教がなくても、伝統行為で、生きられるのである。

ドーキンスは、後に、道徳というものも、宗教によるという考え方を、検証している。人は、宗教が、無ければ、道徳的になれないのかを、問う。

日本には、宗教という言葉が無かった。
最初、江戸幕府が、アメリカのペルーに使用した言葉は、宗門とか、宗旨という言葉だった。つまり、仏教のそれぞれの、宗派のことを言った。それが、どうも違うらしいということで、宗教という、訳が出来たが、実際、日本には、宗教という、観念は無い。
宗教学とは、欧米の一神教により成り、その宗教の概念での、宗教というものは、日本には無いのである。

宗教とは、観念を創作するものである。
それは、皆、人間の頭の中で、捏ね繰り回したものである。

私が、文学の方が、宗教より、勝っていると、考えるのは、文学は、いつも、迷いである。そして、それは、人間の、当たり前の姿である。だから、上等だと、思う。
宗教は、観念により、解決する。本当は、何も、解決していないのだが。

信じる者は、騙されて、観念の遊戯の中に、入れられ、搾取されて、喜ぶというものである。
哀れというしかない。

簡単に言う。
日本の仏教は、すべての宗派が、供養商売に、堕落して、のうのうとしている。
供養という、観念である。
勿論、最初の、供養という意味からは、遠く離れた観念である。

思い込みで、あたかも、それが、あるが如くの、妄想である。

例えば、私の手元に、多くの宗教の供養に関する本がある。
どれでもいいが、手を伸ばして取り上げたものが、立正佼成会という、法華経を信奉する、新興宗教のものがある。
実に、解りやすい、つまり、単純で、誰もが、理解できる、文章である。
それを、見る。

供養には、四つの意義があるという。
第一、 宇宙の大生命である、久遠実成の本仏に、いま現在こうして生かしていただいることに感謝申し上げることです。
第二は、宇宙の大生命を法則を解き明かし、人間の正しい生き方を教えてくださった釈迦に感謝し、その教えに帰依する真心を表白すること。
第三は、われわれを守護する、守護尊神に、心から感謝すること。
第四は、先祖代々の諸精霊を供養すること。
である。

そこで先祖供養の第一義は、こうして人間として存在させてくださることに感謝申し上げることであります。われわれがご宝前で読経し、そのご恩に感謝もうしあげるならば、霊界におられる先祖代々の諸精霊もそれを喜んでくださり、満足されることは間違いありません。そうした「感謝」と「満足」の交流は、必ず温かで美しい精神世界をかもし出します。それこそが先祖供養の根本義なのです。
ところが、無数ともいうべき先祖の諸精霊の中には不幸にしてまだ成仏できずに迷っておられる方があるはずです。供養によってそうした霊を成仏していただくことも、子孫にとって重大な務めであります。

上記、非常に解りやすい文章であり、信じれば、そうなるように、思えるが、実際、仏教の教義としては、支離滅裂である。

例えば、一つを言う。
成仏できずにいる、霊を、成仏させるという。全く、そんなことは、在り得ないのである。
成仏とは、その本人の問題であり、いかに、子孫が、読経しても、成仏など、あるわけがない。
仏になるとは、輪廻から、外れるということである。
何故、子孫の読経によって、仏になるのか。

成仏という言葉一つにしても、勝手な解釈、勝手な妄想であり、全く、何の根拠もない。
さらに、悪いのは、孝徳により、家運が栄えたり、問題が解決するというのである。
要するに、入会すれば、開運するということを言う。
そうして、入会して、良くなったという、体験を載せるのである。

通信販売の、広告のようなものである。
しかし、信じてしまうと、そのようになると、思えるから、愚かである。

一体、いつから、仏陀の教えが、このように、支離滅裂になってしまったのか、呆然とする。

良くなった人が、一人いれば、悪くなった人は、その何千倍、何万倍もいる。
すべての、先祖を供養するという、とんでもないことを、教えるのである。

笑うのは、仏教の最高権威のある、学者が、言うのでと、ある。何を持っての、権威なのか。
アカデミズムによる、権威を、権威というのか。

新興宗教の、まさに、支離滅裂さを、露呈しているのである。
勿論、知的レベルの低い人には、十分に通用するだろう。
また、何も知らない人には、である。
論外である。

2008年03月08日

神仏は妄想である。43

「キリスト教はこれまで人類に投げかけられたもっとも倒錯した体系である」といったジェファーソンの意見は、理神論と合致するが、無神論とも合致する。同じことが聖職者主義に強固に反対したジェームズ・マディソンにも言える。「これまで十五世紀もの長きにわたって、キリスト教を法的に確立されたものにしようという試みがなされてきた。その結果、何か得られたか? あらゆる場所で、それは多かれ少なかれ、聖職者の傲慢と怠惰、信者の無知と隷属、そして両者における迷信、偏見、迫害をもたらした」。ベンジャミン・フランクリンの「灯台のほうが教会よりも役に立つ」やジョン・アダムズの「もし宗教さえなければ、この世界は、およそ考えられるあらゆる世界のなかで最善のものであっだろう」といった発言も同様である。アダムズは、とりわけキリスト教に対する驚くほど痛烈な非難をおこなっていた。「私が理解するかぎり、キリスト教は一つの啓示であったし、いまもそうである。しかし、ユダヤ教とキリスト教の啓示の合わせたものに無数の寓話、物語、伝説が混ざり込んで、これまで存在したかぎりもっとも血なまぐさい宗教になってしまうということが、いったいなぜ起こったのか? 」そして、一方ではジェファーソンに宛てた一通の手紙でこう書いている。「人の悲しみにつけこむという点で、人類の歴史がこれまでもちつづけてきたもっとも破滅的な実例のことーーー十字架、すなわちキリストの受難―――をほのめかそうとしているのだと考えるだけで、私はほとんど戦慄を覚える。悲しみという原動力の生みだしてきたものが、どれだけ悲惨な出来事であったかを考えてもみよ」。
第2章 神がいるという仮説 より

アメリカ建国の頃からの、政治家たちの、言動に多く、無神論があったことを、トーキンスは指摘しているが、現在は、驚くほど、宗教が、跋扈していることをいう。

さて、私は、別の面から、考察する。

アダムズの言葉にある、キリストの受難である。
これが、人類の罪を負うという、キリスト教の教義である。
勿論、勝手な、想像である。
しかし、それを、人に強制するという、傲慢である。

イエス・キリストは、そのようなことを言ったのかといえば、聖書に書かれていると、言う。その聖書は、誰が書いたのか。
イエス・キリストではない。
その死後、多くのセクトによって、編纂されたものである。
要するに、セクトの、書物である。それを、正典として、取り上げた教会が、勝手に、そこから、抜書きして、教義を作る。
それに、人類の罪を負ってとある。
それを、信じて、すべての人に、その教義を強制しようとする。

キリスト教の罪は、原罪である。
最初の人間である、アダムと、エバによる罪である。
それが、人類の原罪となったという、お話である。

それが、教会の洗礼によって、許されるというもの。
そして、なお、罪を犯しても、司祭の許しがあれば、許されるという、教義である。教義は、狂気になった。