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もののあわれについて171

さらにかかることは聞かじ。夜さりは方ふたがりたり。御むかへに参らむ」とあり。あな見苦し、つねにはと思へども、れいの車にておはしたり。さし寄せて、「早や、早や」とあれば、さも見苦しきわぎかなと思ふ思ふ、いざり出でて乗りぬれば、昨夜の所にて物語したまふ。上は、院の御方にわたらせたまふとおぼす。
明けぬれば、「鳥の音つらき」とのたまはせて、やをら奉りておはしぬ。道すがら、宮「かやうならむ折は、かならず」とのたまはすれば、女「つねはいかでか」と聞こゆ。おはしまして、帰らせたまひぬ。しばしありて御文あり。宮「今朝は鳥の音におどろかされて、にくかりつれば殺しつ」とのたまはせて、鳥の羽に御文をつけて、


殺しても なほあかぬかな にはとりの 折ふし知らぬ 今朝の一声

御返し


いかにとは われこそ思へ 朝な朝な 鳴き聞かせつる 鳥のつらさは

と思ひたまふるも、にくからぬにや」とあり。

さらに、あなたの言葉を聞くことが、出来ません。
今夜は、あなたの家が、塞がり、泊まれません。外への、お迎えに参りましょう」と宮様から、お返事がありました。ああ、なんという見苦しいことでしょう。
毎夜は、とてもと、思いましたが、昨夜のように、車で、お出でになりました。車を、さし寄せて、「早く、早く」と、仰せになります。なんと、見苦しいことかと、思いましたが、そろそろと、出て車に乗りますと、昨夜の場所に行って、物語なさいました。
宮の北の方は、宮は、父院の、御宅に行かれたものとの、思いでありました。
夜が明けてきますと、宮は、「鳥の音のつらさ」と言って、静かに車に乗り、送られました。
道すがら、宮様は、「このような時には、必ず来てください」と、仰せになります。「そうそう、始終は、かないません」と、申し上げました。
家まで、来られて、お帰りになりました。
しばらくしますと、御文が、届きました。「今朝は、鳥の音に驚かされて、憎くなり、それを、殺しました」とあり鶏の羽に、その文をつけて、和歌が、添えられてありました。


ころしても なほあかぬかな にはとりの おりふししらぬ けさのいっせい
殺して、飽き足りない思いです。逢っている二人の気持ちも解らず、鳴くときを、知らぬ、鶏の今朝の一声の、つれなさ。

お返事は


いかにとは われこそ思へ 朝な朝な 鳴き聞かせつる 鳥のつらさは
どのように、切ないものであるかは、私の方こそ、知っています。
毎朝、毎朝、宮様が、お出にならぬ夜を明かしたとき、鳴く鳥のつれなさは、と、思いますにつけて、鳥の憎くないことが、ありましょうか。と、ありました。

ここで、面白いのは、さも見苦しきわざかなと思ふ思ふ、という。
そして、いざり出でて乗りぬれば、とある。

こんな、ところで、和泉式部の本性が、現れる。
男好きなのか。
通常言われるような、男好きの女ではない。

更に、あな見苦し、つねにはと、と、言うのである。
毎夜、毎夜は、と、戸惑うのである。

毎夜、毎夜、交わることはと、戸惑う。

そして、交わりを、物語、という。

男と、女が交わることを、物語というのである。物語するとは、情交するということである。

例えば、今時の、若者が、今夜、物語しようと、誘うと、想像してみる。
誘い文句には、使いやすい。

和泉式部の欲望というものを、考える。
通常、欲望といえば、動物的な、欲情の欲望を言うのであるが、彼女の欲望は、知性に、支えられたものである。
欲望が、知性に支えられると、そこに、あわれ、というものが、観えるのである。

人間の欲望が、あわれ、の正体であると、観るのである。
更に、それを、支えるものは、儚さである。

その逆も、ある。
儚さを観て、あわれ、というものを、観る場合もある。

ただ、ここで言う、儚さというのが、無常観というものではないということである。
単なる、無常観では、いい得ないもの。
それは、万葉から、続く、情感である。

万葉から、続く、情感とは、命の輝き、命の賛歌とでも、言う。
それは、一瞬のもの、儚きもの、あわれ、であるもの。
それを、当時、仏教の無常観というものに、置き換えた、そうして、考えた。

無常観とは、感覚である。
仏教の無常観というものが、日本にては、更に、生成発展したのである。

故に、無常観が、無常哀感になったり、無常美観になったりする。

日本にて、無常観に、表情が、現れたといえる。

当初の、仏教の無常観というものは、単純明快なものであったはずだ。しかし、この国に到達して、それが、見事に、開花した。

色々な、無常感覚が、生まれたのである。

簡単に言えば、マイナス思考の無常観もあり、ブラス思考の無常観もあるということだ。

ちなみに、仏陀の言うところの、人生の無常とは、そのまま、常無いという意味であり、それ以上のものではない。
この世は、常が無いのである。だから、捕らわれるものは無い。いつも、心を自由に、静かに、落ち着いて、欲望に、支配されず、自分を、自分で、律して、生きることなのだという、生活指導が、仏陀の方法である。

その教えが、漢訳されて、日本にもたらされ、漢字の意味から、それを、探るようになり、また、日本の風土と、合い間って、独特の無常観という、価値観を見出した。

その、価値観が、平安期を支配したが、果たして、それが、真実だとは、誰も、知らない。ムードである。ムードが支配した。

無常観を、大和言葉にすると、つねなきをみる、ということになる。

上記にも、あな見苦し、つねにはと思へども、とある。

つね、とは、いつも、という意味である。
その、いつもというものが無いことを、無常と言う。

人生は、いつも、同じではありません、と、仏陀は言うだけである。
それを、ここまでに高めた日本人の感性の、豊かさといったら、ない。

つねなきをみる、そして、はかなきをみる、そして、あわれ、というもの、みるのである。

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2008年03月03日 06:31に投稿されたエントリーのページです。

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