九月二十日あまりばかりの有明の月に御目さまして、「いみじう久しうもなりにけるかな。あはれ、この月は見るらむかし、人やあるらむ」とおぼせど、例の童ばかりを御供にておはしまして、門をたたかせたまふに、女、目をさまして、よろづ思ひつづけ臥したるほどなりけり。すべてこのごろは、折りからや、もの心細く、つねよりもあはれにおぼえて、ながめてぞありける。
九月二十日過ぎの、有明の月に、宮様は、目を覚まされて、「いたくご無沙汰してしまいました。あはれ、この月を、あの人も、眺めているだろう」とお思いになって、いつものように、童だけを、お連れになって、女の門に、訪れて、叩かせました。
女は、目を覚まして、あれこれと、物思いに耽って、臥していました。
すべて、この頃は、秋の季節のせいでしょうか、心細く、いつもより、あはれに思われ、物思いに耽っていました。
あやし、誰ならむと思ひて、罪なる人を起こして問わせむとすれど、とみにも起きず、からうじて起こしても、ここかしこのものにあたり騒ぐほどに、たたきやみぬ。「帰りぬるにやあらむ、いぎたなしとおぼされぬるにこそ、みの思はぬさまなれ。おなじ心にまだ寝ざりける人かな、たれならむ」と思ふ。からうじて起きて、下男「人もなかりけり。そら耳をこそ聞きおはさうじて、夜のほどろにまどわかさるる。騒がしの殿のおもとたちや」とて、また寝む。女は寝で、やがて明かしつ。いみじう霧たる空をながめつつ、明かくなりぬれば、このあかつき起きのほどのことどもを、ものに書きつくるほどにぞ例の御文ある。ただかくぞ、
宮
秋の夜の 有明の月の 入るまでに やすらひかねて 帰りにしかな
おかしい、誰であろうか。
前に眠る、侍女を、起こして、聞こうとしますが、すぐに、目を覚ましません。
やっと起きると、あちこちのものに、ぶつかり、うろたえていますうちに、物音は、止まりました。
「帰られたらしい。私を、さぞ、寝坊だと、思われたでしょう。それでは、いかにも、物思いの知らぬ、女のようでした。でも、私と同じように、まだ、寝ずにいた人がいるのです。一体、誰なのでしょう」
やっと、下男が、起きてきて、「人などいません。聞き違いをして、真夜中に、お騒がせするとは、人騒がせな、女房さんたちだ」と、また、寝てしましました。
女は、寝ないまま、夜を明かしました。
いたく、たちこめる、霧の空を眺めていますと、明るくなってきました。
この、暁のことなどを、書き付けていましたらところ、例のように、御文がありました。
ただ、次のように、
宮
あきのよの ありあけのつきの いるまでに やすらひかねて かえりにしかな
秋の夜の、有明の月が、山の端に入ってしまうまで、門前に、佇んでいるわけにも、いきませんので、帰りました。
あはれ、この月は見るらむかし
ここでは、感嘆符のように、扱う。
つねよりもあはれにおぼえて
いつもより、あはれに、思えてという意味。
当時の、あはれ、という言葉の、感触が、解る。
ある感情の、一つではない。
複雑な、感情の様を、あはれ、と言う。
複合的であり、更に、感嘆符にもなるという、あはれ、という言葉である。
あはれ、悲しい
ああ、悲しい、と、訳してもいい。
名状し難い思いにある時、あはれ、という言葉が出る。
まめまろしく、細やかなことも、あはれ、である。
物思いも、あはれ、である。
嘆息することも、あはれ、である。
これが、源氏物語で、より、明確に、晒される。
人の心の、機微にあるもの、とされる。
目には清かに見えぬ、間合い、間の、心の、有り様である。
さらに、もの、すべてが、あはれ、を、帯びる。
万葉は、あはれ、が、曖昧である。
感じてはいるが、あはれ、という言葉に至らぬほど、単純素朴である。
この頃になると、間合いにあるもの、間に、あるものを、あはれ、と、認識する。
他に、表現できない、心の様、また、所作の様を、更に、物の、有様をも、あはれ、と観るようになる。
蕾も、あはれ、花咲くも、あはれ、花散るも、あはれ、となる。
あはれ、にある、表情は、無限大に広がるのである。
日本人の、情感の元にある、感情である、もののあわれ、というものである。
更に言えば、感受性である。
もののあわれ、というものを、感じ取る、感受性の、様である。
あはれ、という、三文字に、集約させたということを、分析するためには、大和言葉にある、一音の意味を、探ることである。
あア はア れエ
ここでは、エという音に、重要な意味がある。