「いでやげに、いかに口をしきものにおぼしつらむ」と思ふよりも、「なお折ふしは過ぐしたまはずかし。げにあはれなりつる空のけしきを見たまひける」と思ふに、をかしうて、この手習のやうに書きいたるを、やがて引き結びてたてまつる。御覧ずれば、
風の音、木の葉の残りあるまじげに吹きたる、つねよりもものあはれにおぼゆ。ことごとしうかき曇るものから、ただ気色ばかり雨うち降るは、せむかたなくあはれにおぼえて、
女
秋のうちは 朽ちはてぬべし ことはりの 時雨にたれか 袖はからまし
女は、「どんなにか、つまらぬ、女と、思われたことか」と思い、更に、「やはり、折節の、あわれは、お見逃しではありません。確かに、美しい空の気色を、御覧になられました」と、思いますと、嬉しく、先ほど、手習いのように、書き置いたものを、引き結び手、差し上げます。
見れば、木の葉の、一枚さへ、残りそうもなく、激しく吹いています。
いつもより、あわれに、思われます。
空は、真っ黒く曇っていますが、ただ、ほんの少し、雨が降りますのは、どうすることもなく、あわれに、身にしみて、
女
あきのうちは くちはてぬべし ことはりの しぐれにたれか そではからまし
秋のうちに、私の袖は、朽ちて、しまいましょう。定めの時雨が、降ってきましたら、誰の、袖を、借りれば、いいのでしょう。
ものあはれにおぼゆ
風情深く思われる。
せむかたなくあはれにおぼえて
どうすることもなく、身にしみて、思う。
あはれ、というものの、複合的、意味合いを、ここに、みる。
あはれ、とは、こういう意味ですと、断定できない、広い意味合いがあるということが、理解できる。
何度も言う。
あはれ、というものを、このようであると、断定できないのである。
ゆえに、源氏物語にては、所作に、それを、表現しようとするのである。
更に、自然、時節の、自然の様に、それを、表現しようとする。
あはれ、という、言葉を使用する時にある、心は、表し得ない、心の様を、言う時に、生かされる。
ここで、言う、ものあはれ、とは、もののあわれ、のことである。
本居宣長が、源氏物語におれる、もののあわれ、というものを、検証した以前に、すでに、もののあわれ、というものは、表現されていた。
源氏からではなく、すべてに、もののあわれ、という、心象風景は、あったということである。
源氏物語は、その、象徴的なものである。
私は、物語より、和泉式部日記、あるいは、日記の類にある、もののあわれ、というものを、見て、さらに、それを、深めるべきだと、思っている。
更に、和歌における、もののあわれ、という、心象風景である。
名歌に、貫かれている、もの、それは、もののあわれ、である。
万葉以後の、歌は、もののあわれ、を、表現するものであると、私は、考える。
勿論、歌の内容は、もののあわれ、というものを、直接的に、表現するものではない。しかし、すべての、歌に流れているもの、それは、もののあわれ、であると、言える。
せむかたなくあはれにおぼえて
どうしょうもなく、切なく思えて、とか、深く、身にしみて、とか、心に深く感じて、とか、様々に、訳すことが、出来る。
感傷文学として、もののあわれ、に転じて、という、研究家、作家がいるが、大きな誤りである。単なる、感傷ではない。
それこそが、本質であった。
感傷に、限定されるような、心象風景ではない。
それは、浅はかである。
漢文による、ある種の、思想的、言葉の世界と、対比させて、言うのであろうが、それは、撹乱されているということである。
漢文の、書物にある、漢字という、独立言語の、意味合いに、深みを、感じるというのは、理解出来るが、それは、平仮名の、一音の意味を、知らないから、である。
つまり、軽率なのである。
あはれ、というより、慈悲という言葉に、意味深さを、感じるという、病である。
または、哀れ、憐れ、無常、無情、などに、意味深さを、感じるという、軽率である。
あア、はア、れエ
この、アとは、拓く、開く、明るい。
エとは、抑える、治める、収める、納める、修める、という意味がある。
エは、留まるなのである。
または、留めるである。
思いを、留めると、考えてよい。
行間、間合い、間の、思いを、留めるということは、表現し得ない思い、言い合わせない思いというものを、更に、留めるという意味になる。
和歌に、おける、言葉の省略の、その、省略された言葉、行間を、もののあわれ、というもので、収めるのである。