コンピューターは言われたことをする。自分のプログラム言語で書かれた指令であれば、どんなものであれ奴隷のように従う。それこそコンピューターがワープロや表計算といった有益な仕事をするやり方である。しかし、逃れられない副産物として、コンピューターはまちがった指示に対しても同じように自動的にはたらいてしまう。ある指令が善い効果をもたらすか悪い効果をもたらすかを区別する術をもっていないからだ。
第5章 宗教の起源 より
上記の、解りやすい例により、ドーキンスは、副産物としての、宗教の解明を、進める。
善い悪いを、区別する術を持たない、コンピューターの宿命は、そのまま、人間心理の、ある部分を引き出すのである。
疑うことのない服従、という言い方を、ドーキンスは、するが、それは、そのまま、宗教信者に、言えることである。
一度、信じるという、プログラムが決定されると、勝手に、その深みに陥り、また、それを善しとして、信仰を続ける。
果ては、何にも動じないという、何と、不動の信仰というものを、打ち立てる。それを、また、本当の信仰と、思い込むという。
御心のままに、と、クリスチャンは、平然という。
そこには、深い信仰というものが、あるように、見えるが、実は、人生放棄の様も、見えるのである。
確かに、御心のままに、と言う姿勢に、何かしら、威厳めいたものを感じる場合もあるが、それは、勝手な、妄想である。
神との対話が、勝手な、一人相撲になっているという、真実である。
ただ、念仏する以外に、方法がないのである。と、聞けば、深い信仰の様に、見えるが、単に、人生放棄の様子になる、場合、多々あり。
開祖となる人が言えば、絵になるが、単なる信徒が、言えば、アホである。
人間は、そんな、単純なものではない。
その証拠に、それを言う親鸞は、考え過ぎて、思索の淵に沈みこんだ。
今も、思索の淵に、沈んでいるのかもしれない。
長年の、教義、教学というものを、学び続けて、プログラムされてゆくと、もう、元に戻ることが、出来なくなる。
思考方法が、一定で、そこから、複雑多岐に渡る、思考が、出来なくなる。
物思う言葉も、すべて、教義用語からなるという、絶望である。
つまり、人間の最も、素晴らしい、創造性という、エネルギーさえも、乗っ取られてしまうのである。
宗教を、文学という、芸術に、高めた人は、多い。それは、文学として、評価出来る。
例えば、岡本かの子という、作家の、仏教についての、書き物は、大変素晴らしい。
後に、それらを、検証するが、名文が、多い。
それらは、仏教というものに対して、創造性を持って、書くからである。
私の解釈というものを、創作するのである。
創作とは、創造であり、芸術活動である。
それならば、評価に値する。
しかし、多く信徒といわれる者は、皆々、プログラムされて、喜ぶのである。
それは、飼い馴らされるというである。
猿回しのようになることを、喜ぶから、宗教指導者は、たまらない。勝手に、喜び、金を運んでくる。
ゆえに、こんな商売は、止められません、となる。
もしこの頭の柔軟体操が功を奏したら、あなたはもう、子供と宗教に関する私の議論の行き着く先がおわかりだろう。自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向をもつ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。―――
心のウイルスとは、言いえて妙である。
読経の最初に、逢い難くして逢う経典は、幾千万億年も逢いがたくという、とてつもない、長い年月を言うが、中国で、訳されたことを思えば納得する。
実に、大げさである。
少し、白髪が伸びても、三千丈も伸びたというのであるから。
縁が無ければ、逢うことなくと、妙なことを言うのである。
それに、騙される。
若い頃、法華経を上げますと、日蓮宗系の、様々な宗派の人に言うと、あなたは、素晴らしい縁により、妙法蓮華経に逢ったのだと、言われた。
また、念仏宗系の宗教の人に、阿弥陀経をあげていますと、言えば、同じ事を言われる。
兎も角、一通りの、様々な宗教経典、それは、新興宗教も含むが、読みまくったのであるから、何とでも、言えた。
多くの相談者の中にも、宗教入信の相談があり、それにより、多くの知識を得た。
若い女性が、相談に来て、旦那が、私と子供を置いて、ある宗教の本部に行くとの、相談があり、当時、出来たばかりの、新しい教団であり、私も、迷いつつ、止めるのは、無理でしょうね、と答えた記憶がある。
宗教免疫の無い人が、続々と、入信する様を見た。
耳障りの良い言葉を、並び立てた、著書は、知能レベルの低い人には、実に、心地よいものだったのだ。
仏教、キリスト教の、焼き直したものであり、何も、目新しくないが、知らない者、没頭して、騙された。
教祖の霊能力により、急成長した、教団もあった。
最初は、仏陀の生まれ変わりであるという、教祖は、仏陀を書いた。
私は、仏陀は、生まれ変わらないから、仏になったと言われると、思ったが、兎に角、その人の著書を読んでいた。
そのうちに、仏陀というのは、誤りで、ゼウスの生まれ変わりであると、なった。
気づいたのであろう。
仏陀が、生まれ変わっては、おかしいと。
しかし、その後、魂の六人の兄弟という説を出して、それらが、順番に、この世に出て、修行する等々の、議論である。
どこの、レベルの霊界の情報であるかが、次第に知れてきた。
ゼウスの、生まれ変わりとは、これ如何にである。
ギリシャの神であり、人間もどきである。神もどきである。
何とも、はや・・・
その娘が、大天使ミカエルとなった。
カトリックが、認証した、大天使である。
天軍の総帥ということになっている。
信者には、続々と、西洋の偉人の生まれ変わりが出た。
不思議なことに、日本人がいない。
教祖は、古代語にて、呪文のようなものを、唱えて、前世を引き出すという、芸当をした。
あまりにも、やり過ぎたのであろう。予言通りに、教祖は、夭逝した。
案の定、その後、弟子たちが、分派して、小さな団体が多く出来た。
霊界の、ある世界が、関わると、簡単に出来ることであるが、人は知らない。故に、没頭した。
ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。―――彼らにとっては、どちらの忠告も同じように信用できそうに聞こえる。両方とも尊敬すべき情報源からのもので、その指示を尊重し、服従することを要求するような厳粛な真剣さをもって発せられるからだ。同じことが、世界に関する、宇宙に関する、道徳に関する、そして人間の本性に関する命題についても言える。そして、その子供が成長して自分の子供をもったとき、当然のごとくその一切合切―――ナンセンスなものも意味のあるものも同じようにーーーを、同じように感染力のある厳粛なやり方で自分の子供に伝える可能性は非常に高い。
簡単に言う。
信者になるということは、兵隊になるということで、兵隊になるということは、命令に絶対服従するということである。
それが、良い命令、悪い命令に関わらず。
死ぬと、解っても、命令が出ると、自爆テロを起こすのである。
特攻するのである。