テラの会の経緯について
昨年、2007年4月、バリ島に出掛けた。
バリ島に、建設中の、テラハウスを見るためである。
私の、お弟子さんが、バリ人と、結婚して、その家の敷地に建てるものだった。最初は、漠然とした、イメージであった。
そこで、何か、出来ると、いいなーあという程度である。
その、旅行記は、天山通信に書いたが、告知板には、掲載していない。
その前の年の、06年に、タイの、リゾート地、パタヤに出掛けている。
それは、単に付き合い程度のものだった。
丁度、タイ国王、在位60年の、お祝いがあった。
タイに、出掛けたのは、10年振りである。
その時は、まだ、何も、計画がなかった。
そして、その年の、12月に、チェンマイに出掛けた。
何故、チェンマイかということが、解らない。
ただ、チェンマイに行きたいと思った。
それが、後々に、大きなポイントになるのだが。
タイの、南部のリゾート地には、興味が無い。
もっと、タイという国を知りたいと思う気持ちと、何か、言葉に出来ない思いがあった。
10日間という、滞在は、私には、長いものだった。
そして、そこに、多くの日本人高齢者の方々が、長期滞在をしていることを、知る。
帰国してから、チェンマイには、再度行くであろうと、直感した。その意味が、後で解る。
さて、四月のバリ島行きを、決めてから、私の中で、ある変化が、起こった。
それは、うまく言葉に出来ないものである。
たた、湧いてきた、思いである。
それが、戦争犠牲者の、慰霊である。
その伏線は、25年前以上になる。
戦地に出掛ける人が、よく、私の相談に来て、幽霊を見た。それから、具合が悪いというものである。
信じる、信じないの問題ではなかった。
実際、具合が悪くなっているのである。
その人たちは、慰霊に、出掛けた訳ではない。
単なる、仕事の場合や、レジャーでの旅行である。
その度に、清め祓いを行っていた。
具体的に、どのような、幽霊なのかは、省略する。
それに対する、私の思いが、結実したと言えば、言える。
さあ、そのチャンスが、来たと、思った。
やらなければ、ならない、と。
それでは、どこへ。
一番最初に、思い出したのは、サイパンだった。
思い立ったが、吉日である。
バリ島に、出掛ける前に、サイパンの旅行を、決めた。
格安ツアーである。
すへで、自由行動のツアーであるから、その間の、時間を、追悼慰霊の所作に、あてるというものだった。
サイパンの追悼慰霊は、実に、充実したものだった。
私の方法で、追悼慰霊が、出来たことを、満足した。
それから、事は、あるものに、動かされるように、進んだ。
いつも、同行している、野中が、タイのチェンマイに、三ヶ月程、滞在して、タイ語を、学びたいという。
そこで、私は、七月、八月の二ヶ月なら、時間を上げることが、出来ると、タイに、送り出した。
そこで、野中が、仕入れた、情報である。
タイ・ビルマ戦線の犠牲者のことである。
すでに、追悼慰霊の碑が、建設されてあり、その、現地財団の、創設者が、自分の故郷の、人だったということ。
更に、野中の、おばあさんも、その活動に、支援していたということが、解った。
慧燈財団のことである。
野中は、その滞在中に、追悼慰霊碑に、詣でた。
そこで、現地の事務局長である、小西氏に、出会ったのである。
タイ・ビルマ戦線、つまり、インパール作戦の犠牲者は、タイ北部に、点在しているという。
それを、聞いた私は、即座に、その地の、追悼慰霊を決行しようと、考えた。
さらに、折角出掛けるのであるから、コンサート開催などによる、現地の人々との付き合いである。また、長期滞在している、日本人の方との、付き合いである。
次第に、やるべきことが、固まってきた。
野中が、チェンマイに滞在している、間に、次のチェンマイ行きを計画し、追悼慰霊と、コンサートの準備をしてもらった。
慧燈財団の小西事務局長さんにも、お世話になった。
それが、昨年、2007年の11月である。
その時の、旅行記は、遥かなる慰霊の旅として、告知板に掲載した。
その際に、ビルマ、ミャンマー行きも、行った。
丁度、ミャンマーの僧侶たちのデモを撮影していた、日本人カメラマンが、射殺された後である。
タイと、ミャンマー国境地帯にいる、少数部族の子供たちが、ストリートチルドレンになっている様を、見て、彼らの支援を考えた。
これは、私の普通の感情である。
最初に、衣服の支援である。
日本では、多く、捨てられる衣類である。それを、リサイクルする。単に、そういうことである。
追悼慰霊と、コンサートを行い、次への、ステップを踏み出した。
長期滞在の日本人の方々にも、お逢いした。
そして、翌月の、12月は、最初のバリ島ツアーを開催した。
コンサートを主体にした、ツアーである。
建設中の、テラハウスにて、地元の人を、招いてのコンサート、そして、村の、ガムラン、バリ舞踊との、共演である。
それも、次に続くものだった。
次は、ガムランと、舞踊の共演を、提案された。
ガムランと、日本舞踊の共演とは、聞いたことがない。
これは、是非、やってみたいと思う。
バリ島から、戻り、翌月、つまり、2008年の一月、トラック諸島慰霊を決定し、すぐに、ツアーを申し込む。
それは、産経新聞の記事が、きっかけだった。
海底の、遺骨が、見世物にされているというものである。
それを、確認する、そして、追悼慰霊をする。
その旅も、一度で、済まなくなったことは、地元の人との、付き合いである。
九割の島人が、無職、であり、無収入である。
食べ物は、島の自然の物を食べて生きてゆける。
しかし、最低限の衣類は、買わなければならない。
それを、支援することにした。
着物着のまま、である。
どうして、衣類を手に入れるのかと、尋ねると、出稼ぎに出ている、兄弟や、親戚から、貰うということだった。
それ以外の、方法は無い。
だから、どんなに、古くなっている、衣類でも、着ている。
日本で、捨てられる衣類を、リサイクルすると、それも、ごく普通の感覚である。
そして、翌月は、タイ、東北部、イサーンといわれる、ラオス、カンボジア国境地帯への、旅である。
タイの、最も、貧しい土地を、見るためと、ラオスの、子供たちに、衣服の支援である。
しかし、私は、ラオスの状況が、あまりにも、酷いと聞いて、入るのを、止めた。
これ以上の活動は、個人的には、出来ないと思ったからだ。
見れば、やるであろうと思われた。私の性格である。
千年の日本のために。
それは、いずれ、日本が、多くのアジアの国に、お世話になる。そのために、今から、出来ることを、したいと、思う心である。
少しの、注意力を持って、世界を、見渡せば、それは、解る。
気づいた者が、それを、行う。それで、いい。
ことさら、特別なことを、しているのではないと、いうこと。
ただし、支援の活動は、理解されるが、追悼慰霊の、活動は、理解され難い。
見えない世界を、扱うからである。
もう、過ぎたことである。
しかし、今、これを、しっかりと、行っておかなければ、日本の伝統が、廃れると、思った。
日本の伝統は、死者への、崇敬である。
更に、清め祓いである。
日本人は、精神の、心の、魂の、禊祓いをして、いつも、再生して、やってきた、民族である。
最も、悲惨だった、第二次世界大戦の、後始末である。
日本人だけではなく、多くの国や民族を、犠牲にした。
それを、決算することである。
つまり、追悼慰霊である。
理解されずとも、知った以上は、やらなければならない。
日本人に慰霊に、来て欲しいと、いう、国や地域は、多くある。
未だに、日本兵の霊が、浮遊する場所が、多々ある。
霊など、無いという人には、説明しない。
説得も、しない。
ただ、知った、私は、するしかないのである。
知るということは、行為するということである。
私の人生、最後の、テーマとなって、今、その只中にいる。
無一文の覚悟であるから、怖いもの知らずである。
ただし、癒える病のための、保険にだけは、入っている。
癒えない病の場合は、死ぬ覚悟である。
更に、野垂れ死にの覚悟があるから、後は野となれ、山となれ、である。
生きた証拠は、すべて、捨ててゆく。
何も残さない。
死後は、隠れるだけである。