« 2008年03月 | メイン | 2008年05月 »

2008年04月 アーカイブ

2008年04月01日

神仏は妄想である。59

世論調査によれば、米国の全人口の約95パーセントが自分は死後も生き続けるだろうと信じているということだ。そのような信念を心のなかに抱いていると公言する人間がそんなにもたくさんいることに、私は驚きを禁じえない。
ドーキンス

つまり、ドーキンスは、死後の世界は、無いということなのである。
私の、霊学と、矛盾するか。
しない。
この世の延長に、死後の世界は、無い。
次元を、別にする世界である。
これについては、更に、後に、詳しく書く。
何故、ドーキンスが、上記のことを、言うのかは、以下である。

もし彼らが本当に嘘偽りなくそう思っているのなら、彼らはアンプルフォース修道院長のように振舞うべきではないだろうか? ベイジル・ヒューム枢機卿が自分が死ぬといったとき、この修道院長は彼のために大喜びした。「おめでとうございます。これは素晴らしい報せです。私もおともしたいくらいです」この修道院長は本当に嘘偽りなく信じていたように思われる。しかし、この例がまれで予想外なものであればこそ、私たちがそれに注目し、ほとんど面白がりさえする。ということになるのだ。―――実際にこの話は、若い女性が真っ裸で「戦争する代わりに愛し合おう」という旗印を掲げ、その横にいる人間が「これこそ、私が誠実と呼ぶものだ」と叫んでいる漫画を思い起こさせる。なぜすべてのキリスト教徒やイスラム教徒は、友達が死にそうだと聞いたときに、この修道院長と似たようなことを言わないのだろうか? 
ドーキンス

つまり、死後の世界、とりわけ、天国に入ると、信じる者は、死ぬことは、大喜びになること、間違いなしであろうと、言う。

なぜ、信仰をもつ人々は臨終の席で、このように語らないのだろうか? 彼らは自分が信じているふりをしている代物を実は一つも信じていない、ということなのだろうか? ペットとちがって、苦痛を感じないように安楽死させることが許されていない唯一の種がヒトである。ということを考えれば、もっともなことかもしれない。しかし、もしそうでなければ、安楽死や自殺幇助にもっとも声高な反対の声が宗教から出てくるのはなぜなのか?

信心深い人々がこの世での生にみっともなくしがみつくというのはまずありえないことと予想してしかるべきではないのだろうか? しかし、安楽死にはげしく反対する、あるいは自殺幇助を激しく批判する誰かに会ったとき、その人が信仰をもつ人であると判明する確立がかなり高いというのは、衝撃的事実である。表向きの理由は、あらゆる殺人は罪だということかもしれない。しかし、天国へ旅立つ時期を早めているのだともし心底から信じているならば、なぜそれを罪とみなすのだろう?

真っ当な、疑問であり、やや、意地悪な、疑問である。
信仰深い人に、限って、死を恐れるということ、あまりにも、多いのである。

歎異抄でも、親鸞が、本当は、弥陀の元に行けるという、死を、喜ぶはずだが、喜べないのは、何故かと、問う。
その訳は、罪人だからであると、言う。

唯円の文章は、名文であるから、原文を、載せたいが、あまりに、気の毒なので、省略する。

罪人だから、死ぬのを、恐れて、弥陀の元に行くことを、拒むという、どうしようもない、人間の罪深さであると、考えるところに、心の病がある。

思索を、深くすることは、よいことであるが、それに、酔うな。

死にたくないのは、死にたくないので、いいのである。
それを、罪深いから、そう思うのだという、自虐は、病である。

それとも、親鸞は、もっともっと、深く物を考えていたというのだろうか。
頭が悪かっただけである。

更に、ズレていたのである。
おおズレである。
頭が悪くて、ズレていたら、拘る拘る。そして、その思索に、振り回され、更に、出口を見出せず、一人相撲を取って、死ぬ。
ただ、自分を、大愚と、呼んだのであるから、まだ、救いがある。
その通りである。

後の世の人、親鸞を、考えて、思索に、似たような、ことをするが、頭が悪ければ、そのままでいい。
それは、深さではなく、頭の悪さである。

征服王ウィリアムの時代、恐竜の時代、あるいは三葉虫の時代にいたとしても、私は私だっただろう。そこには何も怖れることはない。しかし、死んでいく過程は、運が悪ければ、苦痛に満ちた不愉快なものになる可能性も十分にあるーーー私たちは、虫垂炎を切除してもらうときのように、その種の苦痛を体験することからは、全身麻酔で保護されるのが慣わしになっている。―――
しかしもし医師が、あなたが苦しみながら死にかけているときにまったく同じ慈悲にもとづく処置を施せば、彼は殺人罪で起訴されるリスクを冒すことになる。私は自分が死ぬときには、虫垂炎の場合と同様、全身麻酔のもとで命を取り出してもらいたいと思う。

ドーキンスが、悟った者であること、明々白日である。

私は私だっただろう。
いつも、私は、私である。
いつの時代も、私は、私だった。
これを、悟りと言う。

死んでいるのは生まれていないのと何のちがいもない
マーク・トウェイン

科学者は、悟りと、遠いと、思う人は、考えを、改めるべきである。
科学者こそ、悟り得るのである。

私たちのなかに安楽死や自殺幇助に反対する者がいるとすればそれは、死を移行としてではなく終末として見る人間だろう。
ドーキンス

更に、ドーキンスは、死を恐れるのは、信仰を持った人間に多いという、事実を言う。

喜んで神の元に行けない人の群れ。信仰者の群れである。

勿論、妄想の天国であるから、そんな所は、霊界に無い。
この世から、おさらばするということは、虚無に帰すということである。
霊界は、別次元である。
この次元に無いということは、無くなるということである。
科学者は、冷静に、それを、知る者である。

もののあわれについて188

一夜の宮の気色のあはれに見えしかば、心からにや、それよりのち心苦しとおぼされて、しばしばおはしまして、ありさまなど御覧じもてゆくに、世に馴れたる人にはあらず、ただいとものはかなげに見ゆるも、いと心苦しくおぼされて、あはれに語らはせたまふに、宮「いとかくつれづれにながめたまふらむを、思ひおきたることなけれど、ただおはせかし。世の中の人もびんなげに言ふなり。

一夜の気配が、身にしみて、宮様の心が動いたのでしょう。
その後は、女の、身の上が心配になり、しばしば、お出かけになられました。
女の、様子を、見ているうちに、世慣れた女ではなく、ただ、いたく、心儚げに見えます。
それを、大変、気の毒に思われて、しんみりと、お話されました。
宮様は「このように、物思いをして、過ごしていられるのでしょうか。はっきりと、言うことは、できませんが、私のところへ、お出でください。世の中の人は、私が、通うことを、怪しからぬことと、言っているそうです。


時に参ればにや、見ゆることもなけれど、それも人のいと聞きにくく言ふに、またたびたび帰るほどのここちのわりなかりしも、人げなくおぼえなどせしかば、いかにせましと思ふ折りもあれど、古めかしき心なればにや、聞こえたえむことのいとあはれにおぼえて。


たまに、参りますので、人に見られることも、ありませんが、それでさえも、人はひどく、聞きづらく、悪し様に言ううえ、私としては、たびたび逢えず、家に帰るときの、辛かったこと。
人並みに、扱われていないようにも、思いました。
どうしようかと、考えていた日もあります。
それも、古風な、考えで、ありましょうか。
仲を絶って、しまうことが、いたく、あわれに、思います。


さりとて、かくのみはえ参り来るまじきを、まことに、聞くことのありて制することなどあらば、「空行く月」にもあらむ。もしのたまふさまなるつれづれならば、かしこへはおはしましなむや。人などもあれど、びんなかるべきにはあらず。


しかし、そう申しても、このように、いつも、通うわけにも、いきません。
誰かに、聞きとがめられて、止められたましら、あの
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空行く月の めぐり逢うまで
橘忠元

の、歌のように、逢えなくなります。
もし、つれづれの、暮らしをしているのなら、私の家に、お出でになりませんか。
人なども、おりますが、不都合なことは、起こりません。

これは、宮が、女を、家に引き取るということを、言う。
自分の家に、来ることを、打診しているのである。

いよいよ、物語は、核心に入ってゆく。


もとよりかかる歩につきなき身なればにや、人もなき所についいなどもせず。おこなひなどするにだに、ただひとりあれば、おなじ心に物語聞こえてあらば、慰むことやあると思ふなり」などのたまふにも、げに今さらさやうに慣らひなきありさまはいかがせむなど思ひて、「一の宮のことも聞こえきりてあるを、さりとて、「山のあなた」にしるべする人もなきを、かくて過ぐすも明けぬ夜のここちのみすれば、はかなきたはぶれごともいふ人あまたありしかば、あやしきさまぞ言ふべかりめる。

もとより、私は、このような、外出に、不似合いな身。人のいないところに、女をおいて、逢っていることは、しません。
仏へのお勤めをするのでさえ、ただ一人で、います。それと、同じ思いを、持って、あなたと、お話ができるのであれば、心が、慰められます。
などと、仰せられますが、本当に、慣れぬ暮らしができるのかと、考えます。
一の宮、花山院の、お話も、そのままになっています。
そうかといって、「山のあなた」に、導いてくれる人もいない、今。
明かりのない、暗闇に、住む気持ちがします。

「山のあなた」は
み吉野の 山のあなたに 宿もがな 世の憂き時の かくれがにせむ
古今集、読み人知らず より

つまらぬ、たわむれを言い、いい寄る男が、多いので、私を、あやしかる人と、申します。


さりとて、ことざまの頼もしき方もなし。なにかは、さてもこころむかし。北の方はおはすれど、ただ御方々にてのみこそ、よろづのことはただ御乳母のみこそすなれ。顕証にて出でひろめかばこそあらめ、さるべきかくれなどにあらむには、なでふことかあらむ。


さりとて、宮様以外に、頼る人も無し。
まあ、宮様の言葉に、従って、試してみましょう。
宮様には、北の方も、いられますが、ただ、いつもは、別々に、お住みになっています。
すべてのことは、御乳母が、取り仕切っていること。
露に、人に目立つことではないので、しかるべきところで、目立たぬようにとていれば、いいでしょう。

この濡れ衣はさらりとも着やみなむ」と思ひて、女「なにごともただわれよりはほかのとの思ひたまへつつ、過ぐしはべるはどのまぎらはしには、かやうなる所、たまさかにも持ちつけきこえするよりほかのことはなければ、ただいかにものたまはするままにと思ひたまふるを、よそにても見苦しきことに聞こえさすらむ。


そうすれば、多情だという私への、懸念は、晴れるでしょう。
と、考えて、女は、「何事も、すべて、自分の思い通りには、ゆかないもの。このように、過ごしながら、日々の慰めとして、たまたま、お出になるのを、待つということでしょう。
この他には、道はありません。
今は、もう、どのように、仰せられても、仰せのままに、従います。
宮様と、別々に住んでも、見苦しいことと、噂されているのです。


まして、まことなりけりと見はべらむなむかたはらいたく」と聞こゆれば、宮「それはここにこそともかくも言はれめ、見苦しうはたれかは見む。いとよく隠れたるところつくり出でて聞こえむ」など頼もしうのたまはせて、夜ふかく出でさせたまひぬ。格子をあげながらありつれば、ただひとり端に臥しても、「いかにせまし」と「人笑へにやあらむ」と、さまざまに思ひ乱れて臥したるほどに、御文あり。


まして、私が、邸に移りましたら、今までの噂は、本当だったと、人は、見るでしょう。それが、恥ずかしいのです」
と、申し上げますと、「それは、私の方こそ、とやかく、言われますでしょう。あなたのことを、見苦しいと、誰が見るでしょう。上手に、目立たぬことを、作って、お知らせしましょう。」
などと、心強く、仰せになり、夜明け近くに、お帰りになられました。
格子を、あげたままでしたので、ただ一人、端に臥して、「どうしようか」と考え、「人に、笑われるかもしれません」などと、様々に、思い乱れて、臥していますと、御文がありました。



露むすぶ 道のまにまに 朝ぼらけ ぬれてぞ来つる 手枕の袖

この袖のことは、はかなきことなれど、おぼし忘れでのたまふもをかし。


道芝の 露におきいる 人により わが手枕の 袖もかはかず



つゆむすぶ みちのまにまに あさぼらけ ぬれてぞきつる たまくらのそで

明け方の、露の降りた道を、辿りつつ、懐かしい、思い出の、手枕の袖を、濡らしつつ、帰ってきました。

この手枕の袖のことは、はかないことでしたが、お忘れにならずに、詠まれたのが、嬉しく思いました。


みちしぱの つゆにおきいる ひとにより わがたまくらの そでもかわかず

道の、芝草の露に濡れて、眠れずにいる人のために、私の、手枕の、袖も、涙で、乾くこともありません。


万葉では、恋歌を、相聞歌という。そして、死者への追悼を、挽歌という。
日本は、相聞歌と、挽歌の国である。
言うこともなし。

2008年04月02日

もののあわれについて189

その夜の月のいみじう明かくすみで、ここにもかしこにもながめ明かして、つとめて、例の御文つかわさむとて、宮「童参りたりや」と問はせたまふほどに、女も霜のいと白きにおどろかされてや、


手枕の 袖にも霜は おきてけり 今朝うち見れば 白妙にして

と聞こえたり、ねたう先ぜらぬるとおぼして、宮「つま恋とおき明かしつる霜なれば」とのたまはせつる、今ぞ人参りたれば、御気色あしうて問はせたれば、「とく参らで、いみじういなむめり」とて、取らせたればもて行きて、童「まだこれより聞こえさせたまはざりけるさきに召しけるを、今まで参らずとてさいなむ」とて、御文取り出でたり。宮「よべの月はいみじかりしものかな」とて、


寝ぬる夜の 月は見るやと 今朝はしも おきいて待てど 問ふ人もなし

げに、かれよりまづのたまひけるなめりと見るもをかし。


その夜の月は、大変、澄んでいて、女も、宮様も、眺め明かして夜を過ごしました。
その翌朝、宮様は、御文を使わそうと、「童は来ているか」と、おたずねになりました。その時、女も、霜が降りているのを、目覚めてみました。


たまくらの そでにもしもは おきてけり けさうちみれば しろたえにして

私の、手枕の袖にも、夜を起きていましたので、涙が、霜になっておりました。
今朝見ますと、真っ白です。

と、申し上げました。宮様は、女に先を越されて、悔しいと思われ
妻と思います、あなたが、起き明かした夜の霜ですから、真っ白になったのでしょう。
と、仰せになります。
そこへ、やっと、童が、参りました。宮様は、機嫌悪く、詰問しました。
すると、童は「早く、参上しなかったので、責められるらしい」と思い、御文をわたすと、女の家に持って行き、
「まだこちらから、お歌を差し上げません前に、宮様からお召しがありましたのに、今まで、参上しなかったのは、どうしたのだと、私をお責めになります」と、御文を、取り出しました。
「ゆうべの月は、見事でした」
と、書かれて、


ねぬるよの つきはみるやと けさはしも おきいてまてど とふひともなし

共に、寝た夜の月を、あなたは先夜寝て見ませんでしたか。見ていられるのかと、思い、今朝は、置き通して、待ちましたが、お便りも、ありません。

なるほど、宮様の方から、先に、お歌を、下されたらしいと思うと、嬉しく思いました。



まどろまで 一夜ながめし 月見ると おきながらしも 明かし顔なる

と聞こえて、この童の「いみじうさいなみづる」と言ふがをかしうて、端に


霜の上に 朝日さすめり 今ははや うちとけにたる 気色見せなむ

いみじうわびはべるなり」とあり、宮「今朝したり顔におぼしたりつるも、いとねたし。この童殺してばやとまでなむ。


朝日影 さして消ゆべき 霜なれど うちとけがたき 空の気色ぞ

とあれば、女「殺させたまふべかなるこそ」とて


君は来ず たまたま見ゆる 童をば いけとも今は 言はじと思ふか

と聞こえさせたれば、笑はせたまひて、


ことはりや 今は殺さじ この童 忍びのつまの 言ふことにより

手枕の袖は忘れたまひにけるなめりかし」とあれば


人知れず 心にかけて しのぶるを 忘るとや思ふ 手枕の袖

と聞こえたれば、


もの言はで やみなましかば かけてだに 思ひ出でましや 手枕の袖



まどろまで いとよながめし つきみると おきながらしも あかしかおなる

少しの間も、私は、まどろまずに、月を眺めていました。
その月を、起き明かして、御覧になったような、お顔をしておいでです。
本当でしょうか。

と、申し上げて、使いの童が、「いたく、責められました」というのが、おもしろく、紙の端に


しものうえに あさひさすめり いまははや うちとけにたる けしきみせなむ

霜の上に、朝日が射しているようです。
霜の解けるように、ご機嫌も、よくなられて、打ち解けた、ご様子を、お見せしてやってください。

童は、いたく、しおれています、と、書きました。
宮様からは、「今朝は、あなたが、いかにも、得意になっているのが、口惜しいく、この童を、殺してやりたいと、思っていたのですが。


あさひかげ さしてきゆべき しもなれど うちとけがたき そらのけしきぞ

朝の、日差しがあって、消える霜ですが、中々消えそうにない、空の気色です。
私の怒りは、消えません。

と、書かれてありました。
女は、「殺しになる、おつもりとは」と、思い、


きみはこず たまたまみゆる らわべをば いけともいまは いはじとおもふか

時々に、文の使いをする、童を、生かしておいて、文の使いをせよとも、もはや、仰せでありませんか。

と、申しますと、宮様は、笑って


ことはりや いまはころさじ このわらべ しのびのつまの いふことにより

そうです。この童は、もう、殺しません。
忍びの妻の、言うように。

手枕のことは、お忘れになりましたか。
と、書かれてありましたので、


ひとしれず こころにかけて しのぶるを わするとやおもふ たまくらのそで

人知れず、心にとめて、忍ぶことを、あの、忘れがたい、手枕の袖を、忘れたと、思われるのでしょうか。

と、申し上げますと、


ものいはで やみなましかば かけてだに おもひいでましや たまくらのそで

私が、言わずに過ごしていましたら、あなたは、手枕の袖のことなど、思い出しも、しないでしょう。


当時の、文のやり取りの様を、見るものである。

宮は、女を、妻と、呼ぶ。
妻は、愛する人。愛人。
契った相手。

妻も、夫も、ツマという。

忍ぶ妻、ともいう。
隠し妻。隠し恋人である。

当時、二人の関係は、大変な噂になっていた。

それと、共に、二人の関係は、次第に、燃え上がる恋に、身を任せるのである。

この国の問題。7

北朝鮮による、拉致被害者の、救出に、何故、もっと真剣に取り組まないのか。

政治家が、命懸けで、やらないからである。

人類史上、最悪の国家である、北朝鮮は、非人道的というよりも、悪魔の国である。

すでに、数百万の、人が、政治的殺害の犠牲になっているのである。
金日成時代だけで、170万人近くの、人民が、殺された。

牢獄のような、国に、閉じ込められて、貧困と、政治的圧力に、瀕しているのは、2000万人である。
共産主義というものの、実体が、解るというものであるが、アホな、日本の共産主義者は、解らないようである。

何故、国際社会が、圧力をかけないのか。
金にならないからである。

北朝鮮は、核開発を、止めることを、条件に、あろうことか、体制の保障を、求めているのである。
仰天する。
非人道極まりない、国家の体制を、保障しろというのである。

拉致被害者の、解決は、北朝鮮の崩壊であり、何より、最悪の支配体制から、2000万人の人民を、救うことができるのである。

平和とは、何か。
それを、問うことが、拉致被害者、救出の問題である。

日本の政治家に、それを、期待するのは、無理だと知っている。
しかし、言わずには、いられない。

ミサイルが、飛んでこなければ、平和であるのか。

更に、問題は、北朝鮮の体制維持をして、平和であるということは、北朝鮮の人民を、犠牲にするという、問題である。

つまり、間接的に、北の人民の命を、脅かしているということにもなる。

拉致被害者、救出に、全力を挙げて取り組めば、独裁体制の、崩壊を、招き、2000万人の人民を、解放することになるのである。

勿論、人のことなど、どうでもいいと、思う日本人になっているので、期待はしない。

北朝鮮の人民は、現在の体制に、縛られているより、日本の統治を、望むだろう。
それほど、酷いのである。

共産主義は、支配層主義であるから、徹底した、支配者層の、保護である。
それ以外は、物である。人間ではない。

この、絶対主義は、宗教と、同じである。

いかに、主義というものの、悲劇性が、解るというものである。

平和とは、何か。

平和を、確保するために、至る所で、戦争、紛争が、起こっている。
日本は、島国であるから、それを、理解するのは、至難の業である。しかし、今、目覚めなければ、後が無い。

敗戦後、日本が、分断されなかったことは、奇跡的である。
それほど、日本は、運がいい。

あえて言えば、祖先の守り、神の守りがあったというしかない。

拉致被害者の家族の会が、国家的な、運動になることを、希望する。
それが、アジアの平和に、大きく貢献することは、絶大である。

隣の人民が、塗炭の苦しみにあること、こんな、憐れなことはない。
戦争が無いことが、平和なのではない。

平和とは、後ろ向きのことではない。前向きの、行動をこそ、平和という。
日本には、平和という、思想が、育たないのである。
武器を、捨てることが、平和だと、真剣に信じているアホが、大勢いるのである。

馬鹿と、アホは、使いようだと、昔の人は言った。
凶悪犯を、威嚇する、犯罪を、止めさせる、使いようで、如何様にも出来るものである。

核廃絶を、願うことが、平和運動だと、まだ、信じているアホがいる。

武器も、核兵器、いくらあっても、いい。
それを、どのように、使うかである。

在る物を、消滅させることほど、愚かなことは無い。
在る物を、有効利用することである。

新しい、平和の思想が、必要である。

秀吉の、刀狩の時代を、まだ、生きている人々。憐れである。

2008年04月03日

神仏は妄想である。60

煉獄の教義は、神学的精神がどのようにしてはたらくかについて、馬鹿馬鹿しい事実を暴露してくれる。煉獄は、神の国において一種のエリス島(ニューヨークにあり、かつての移民局がここに存在し、移民を希望する入国者はここで選別を受けた)のような役割を果たす。地獄に送られるほどの悪い罪を犯していない死んだ魂が行く、黄泉の国への待合室である。しかし罪人のいない天国に入ることを許されるまでには、もう少しばかり矯正的な審査と浄化が必要である。中世においては、教会はよく金で買える「免債」を発行していた。これは、煉獄にいる日数を何日か免じてもらうために金を払うのであり、教会は文字通り(私は僭越にもほどがあると言いたい)購入された減刑日数を書き込んだ署名入りの証明証「免罪符」を発行した。こうした不正利益のために「不浄」という表現が発明されたのではないかと思われるのが、ローマ・カトリックという組織である。金を稼ぐためのあらゆる詐欺行為のなかでも、免罪符の販売こそ、ちまがいなく歴史上、最高に位置するペテンであり、ナイジェリア・インターネット詐欺の中世版に相当するが、こちらのほうが、はるかに成功をおさめた。
ドーキンス

上記、恐るべし、宗教というものの、正体である。

皆々、宗教とは、上記のような、金集めをするのである。
問答無用に、そうである。

何という、馬鹿馬鹿しいことをと、思っても、信じる者は、騙されるのである。
喜んで、金を払うという、愚かさ。

日本の宗教も、同じく、家計が苦しいから、ご供養に、金を出すことを言うのである。
生活が、苦しいほど、献金をする。そうすれば、福がもたらされる。
このように、説いて、信者から、金を集める宗教は、数限りない。

更に悪いのは、信者から集めた金の、数パーセントを使い、慈善事業をしているように、見せかけるという、あくどさである。
信者も、社会も、それに、騙されるのである。

どうしようもない、罪人、それが、宗教組織である。

宗教と、名のつくもの、すべてが、そうであると、言っても、間違いではない。

凶悪事件を、起こす宗教のみならず、精神的凶悪事件を、皆々、起こしているのである。
どんなに、立派な宗教であると、言えども、そこから、のがれることは、出来ない。
つまり、宗教を作るということは、詐欺組織を作るということと、同じなのである。

カトリック教会は、日本にて、学校、福祉施設、病院等々の、社会的活動をする。
キリスト教精神に則って、活動する。
その金は、どこから、出るのか。
世界中の信者の金から出る。

それが、評価出来るということではない。その程度で、人や社会は、騙されるということである。

ドーキンスは、それらの実に、馬鹿馬鹿しい、証拠を書くが、省略する。

煉獄の教義が私を本当に魅了するのは、神学者がそのためにもちだす証拠である。その証拠は目を見張るほど薄弱なものなので、それが断言している空虚な確信をさらに滑稽なものに感じさせてしまう。「カトリック百科事典」の煉獄の項目には、「証拠」と題する節がある。煉獄の存在を示す基本的な証拠は次のようなものである。もし死者が、現世における罪をもとにして単純に天国または地獄に行くのであれば、彼らのために祈る必要が無いということである。「もし、神の眼差しをまだ注がれていない者たちに施しを与える力を祈りがもっていると信じないのであれば、何の理由で死者のために祈るのか」。だが私たちは実際に、死者のために祈っている。そうでしょう? 証明終わり。冗談抜きに、これが神学を扱う専門家たちのあいだで理屈として通用しているものの一例なのである。

実は、私も、少年の頃、教会で、煉獄にいる、霊のためにと、祈っていた。
そう、教えられた。

日本のお盆に、当たる、死者の月が、10月である。
その月には、ロザリオの祈りを、煉獄の霊のために、毎日のように、祈るのである。
ロザリオの祈りとは、聖母マリアに対する祈りである。
聖母マリアに、取り成してもらう、祈りが、ロザリオの祈りという。

聖母出現の土地では、更に、ロザリオの祈りが大切にされる。

その、出現の聖母が、プロテスタントの信者を、カトリックに改宗させる、メッセージを発するという、面白いことを言う。

勿論、誰も、それを、聖母であるとは、知らない。
悪霊の場合もある、と、言っておく。

カトリック信者の中でも、あれは、良い聖母、あちらは、間違った聖母などいう、話がある。ローマ法王庁が、認定しないと、駄目である。

その際は、特に、奇跡の認定が、決め手になる。
その最大の特徴は、病が、癒えるというものである。

ご多分に漏れず、宗教の宣伝文句は、病が癒えるである。

イエス・キリストも、病を癒すのである。
単純明快である。

そして、最大の奇跡は、死後の復活である。

このような、奇想天外のお話を、信じることによって、キリスト教徒となる。

イエスは、雲に乗って、天に上がられたのである。
そして、いつか、雲に乗って、この世に、来るという、妄想。

雲に乗るのは、日本の神々であるが、違うらしい。
冗談です。

この驚くべき不合理な推論がさらにスケールアップされた上で、もう一つの一般的な神の存在証明である。(慰めからの論証)の展開に反映されている。神は存在するにちがいないと、この議論は進む。なぜなら、もし存在しないならば人生は空しく、無駄で、不毛で、無意味で取るに足りないことばかりの砂漠になってしまうだろう。この論理が最初の障害物で破綻していることを、わざわざ指摘する必要がどうしてあるのだろうか? ひよっとしたら人生は空しいかもしれない。ひよっとしたら私たちの死者への祈りは無駄かもしれない。そうではないと仮定するのは、証明しようとしている結論が真実だと仮定することである。この三段論法と称するものは、見え見えの循環論法である。・・・

自分が息災であるのはほかの誰かのおかげにちがいなく、もし自分が怪我をすれば、ほかの誰かが非難されなければならない。神なるものを求める「欲求」の背後に本当に横たわっているのは、このような幼児性ではないだろうか? ・・・

誠に、私は言う。
幼児性である。

思考法には、三段階がある。
外省、がいせい、思考である。
事が起こるのを、すべて、他のせいにして、考える思考法である。

そして、反省思考である。
通常の成長をすれば、反省思考になるのだが、今は、実に、少ない。
私も、悪かったし、相手にも、誤りがある、注意しょうと考える。

次に、内省、ないせい、思考である。
この事態は、私に、何を教えるのであろうかと、考える思考法である。

宗教は、残念ながら、外省思考である。
すべて、神仏に、帰納する。

実に、幼児性である。

超えられない苦しみを、神は、与えたもうはずがない。
誰も、苦しみなど、与えていない。
自業自得であろう。
しかし、敬虔なクリスチャンになると、特に、そう言うのである。

自分が、種を蒔いたことでも、神のせいにするという、アホ、馬鹿である。

幼児性と、妄想性による、撹乱を、起こす。
その名を、宗教と、呼ぶ。

神仏は妄想である。61

私は「虹の解体」で、DNAの文字の組合せによって潜在的に生れ落ちることができたはずの膨大な数の人間が実際には生まれないということを考えると、私たちが生きているということがどれほど幸運であるかを伝えようと試みた。その一環として、ここに存在するだけで幸運な私たちのために、巨大な時間の定規の上をゆっくりと進むレーザー光線のスポットライトを思い浮かべることで、人生の相対的はかなさを描いた。スポットライトの前あるいは後ろにあるすべてのものは、死せる過去の闇、あるいは未知の闇に包まれている。私たちは、このスポットライトのなかに自分がいると知るだけで途方もない幸運である。
ドーキンス

これは、神は妄想である、の、最後の章の、最終である。

科学者が、総力を上げて、人生の相対的、はかなさを、描いたという。

生きているという、スポットライトの中にいるということが、途方もない幸運であると、いう。

たゆみない、知性と、感性の、磨き、そして、理性によって、人間は、自立した、人間になるのである。

私たちが太陽のもとにいられる時間がどんなに短くとも、もし、その一秒でも無駄にすること、あるいはそれが退屈だとか、不毛だとか、あるいは(子供のように)つまらないとか不平を言うのは、そもそも生命を与えられることさえなかった無数の生まれなかった者たちへの、無神経きわまる侮辱ではないだろうか?

科学者の、謙虚さを、十分に知る、文章である。
さらに続けて

多くの無神論者が私よりももっとうまく言ってきたように、私たちがたった一つの命しかもたないという知識は、命をいっそう貴重なものにするはずだ。無神論者のこの見方は、人生の肯定という態度に通じるものだが、同時に、生命はこの私に何か借りがあるはずだと感じている者たちの、自己欺瞞、希望的観測、あるいは自己憐ぴんの泣き言には染まっていない。

自己欺瞞、希望的観測、そして、自己憐ぴん、とは、宗教のことである。

知識ということの、本当の意味は、上記のことを言う。
妄想の、教義、教理、教学による、知識ではない。
それは、知識とは、呼ばないのである。

知識とは、裏付けられるものである。

もし、神の消滅が隙間を残すのであれば、それぞれの人がちがったやり方でそこを埋めるだろう。私の選ぶやり方には、科学をふんだんに用いた、現実世界についての真実を見つけだすための誠実かつ体系的な営みが欠かせない。

実に、説得力のある言葉である。
まったくもって、宗教には、無い、言葉の数々である。

私は、宇宙を理解しようとする人間の努力を、モデル形成の試みとして見ている。私たちの一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先がそのなかで生きのびるのに必要なモデルである。このシュミレーション・プログラムは自然淘汰によって構築され、修正されたもので、アフリカのサヴァンナにすんでいた私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけとして、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現われである。

芸術と、科学である。
決して、宗教とは、言わない。

私は、宗教は、芸術の変形、あるいは、逸脱、あるいは、狂いと、観るものである。
芸術的情熱と、宗教的狂信は、非常に近い。

さて、ドーキンスは、量子論についても、書く。
それは、多宇宙についてである。

実は、私は、多次元の世界の証明を、量子論に、期待していた。
しかし、事情は、違った。

それは、次に書く。

ここで、言いたいことは、宗教や、神学等々の、虚妄であるとうことだ。
頭で、考えたことは、単に、それだけのことであり、何の、根拠も、証明も、出来ず、客観性も無いということである。

創造性とは、芸術である。
よって、宗教の、ものの考え方は、創造性の、何物でもない。

人間が、作り出した、ものである。

神も、仏もである。
人間が、創造したもの、それが、神であり、仏である。
ゆえに、神仏は妄想である。

知らないことの、隙間を、埋めるための、神仏の創造は、限りなく、不毛である。

その、根拠を、埋めるための、奇跡というものは、科学で、解明される。
知らないだけである。

キリスト教宣教師が、未分化な、土地に行き、細心の、発見により、持つ、科学的道具により、未開の人を、撹乱させた。
それは、未開の人が、知らないことだったからである。

知ってしまえず、当たり前のことである。

宗教の妄想も、知ることで、妄想であることは、明白である。

ゆえに、私は、神仏は妄想であると、言う。

2008年04月04日

チベット暴動。6

24日、四川省にて、チベット独立を、訴えるデモがあり、デモ隊に対して、武装警察部隊が、発砲し、18歳の僧侶が、死亡。30歳の僧侶が、重症という。

インドに拠点を置く、チベット人権民主センターによるものである。

しかし、中国国営新華社通信は、暴動がおきて、警官、一人が死亡と、伝える。

センターによると、一般市民を、含む200名が、チベットに自由をと言い、地方政府庁舎に、向かっていたところ、部隊が、無差別に、発砲したという。

中国政府は、武力で、封じ込める、方針であることが、解る。

これでは、収束するどころか、益々と、チベット族を、焚き付ける。

一人の、中国人、留学生に聞いた。
彼は、この、旧正月に、中国に帰ってきた。
曰く、政府のすることなので・・・
言葉少ない。
話を変える。

上海は、東京を、超えるという。
経済成長を、言う。

一人っ子政策の、彼である。
再び、話を、戻すことを、止めた。

この、暴動の最中の、台湾の選挙である。
何と、台中関係重視の、野党が、圧倒的勝利である。
中国政府も、歓迎である。

台中の行き来を、盛んにするという。
良いことであるが、台湾の先行きは、暗い。
目先のことに、捕らわれた。

懐柔されて、元も子も無い。

あの、野蛮さは、半端ではない。
言論統制と、死刑である。

目障りなものは、殺す。
何故、歴史に問うことを、しないのか。

さて、チベット問題である。
五輪まで、持ち越し、決して、終わらない。
結果、叩き潰すまで、やる。

あの国の、国父といわれる者、自国民を、どれだけ、殺したか。
自国民を、平気で、殺すのである。他民族など、物の数ではない。

グローバル化を、理解しているのかと思うが、商売をする者も、商売優先であるから、それらの行動を、国が、抑えて、中国に圧力をかけられるのかは、別である。

素手のデモ行進である。
それに、武力で対処する。
天安門事件もそうだった。

歴史に、学ぶことがない。

民族壊滅目の前の、チベット人は、決死の覚悟の、行動を取る以外になくなる。
窮鼠、猫を噛むのである。

追伸)
その後も、至る所で、デモが、繰り返されている。

相変わらず、中国共産党は、嘘を、言い続けている。
一人の人間であれば、人格障害、妄想症などなど、言われる。
あまりに激しいので、通常なら、隔離されるものである。

ネパールでも、亡命チベット人のデモ。
ネパール当局は、千人を逮捕したという。
次第に、広がるデモである。
素手の行為は、恐ろしいことを、早く、中国共産党は、知るべき。
世界は、確実に、変化している。
人権無視国家に、ついに、至る終末の匂いあり。

ローマも、一日で、滅びた。
何度も言う。
歴史を学べ。

もののあわれについて190

かくて二三日おともさせたまはず、頼もしげにのたまはせしことも、いかになりぬるにかと思ひつづくるに、いもねられず、目もさまして寝たるに、夜やうやうふけぬらむかしと思ふに、門をうちたたく、あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。

そうして、二三日、何の音沙汰もなく、過ぎました。
頼もしそうに、仰せになったお言葉も、いったい、どうしてしまったのかと、思い続けていますと、眠ることも、できません。
目を覚まして、臥していると、夜も、ようやく、更けたと思う時、門をたたくものがありました。
誰であろうかと、思い、取次ぎの者に、問わせますと、宮様からの、御文でした。


思ひかけぬほどなるを、「心や行きて」とあはれにおぼえて、つま戸押し開けて見れば、


見るや君 さ夜うちふけて 山の端に くまなくすめる 秋の夜の月

うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使待ち遠にや思ふらむとて、御返し、


ふけぬらむと 思ふものから 寝られねど なかなかなれば 月はしも見ず

とあるを、おしたがへたるここちして、「なほ口をしくはあらずかし、いかで近くて、かかるはかなしごとも言はせて聞かむ」とおぼし立つ。


思いがけぬ時間でした。
「心が、通じたものか」と、嬉しく思い、妻戸を開けて、読みますと、


みるやきみ さようちふけて やまのはに くまなくすめる あきのよのつき

御覧になっていますか。
夜が更けて、山の端に、澄み渡る秋の夜の月を。

宮様の、歌にひかれて、思わず、月を眺めました。いつもより、いっそう、あはれに感じられました。
門を、開けていませんでしので、御使いも、待ち遠しくなると思い、お返しの、歌を、差し上げました。


ふけぬらむと おもふものから ねられねど なかなかなれば つきはしもみず

夜が更けても、眠られません。
しかも、月は、まだ、見ないことにしています。
月を見ますと、思いが、募ります。

と、詠んでありましたので、宮様は、不意を突かれた思いがして、「やはり、口惜しい女ではありません。何とかして、身近に置いて、このように、慰めの、歌を詠ませて、聞きたいものだ」と、決意を、持たれました。

「心や行きて」とあはれにおぼえて

つねよりもあはれにおぼゆ

心が通じて、あはれ、に、思う。
常よりも、あはれ、に、思う。

何事かに、感じる心の、様を、また、あはれ、という言葉に、置くのである。

心が通じて、嬉しいという、感情を、あはれ、とみる。
常よりも、あはれ、とは、いつもより、一層、感慨深いということである。

喜怒哀楽、そして、様々な心象風景が、あはれ、なのである。

心に感ずることの、すべてを、あはれ、で、表現する様を、何と、説明するのか。

この、あはれ、という、感覚を、いつから、日本人は、培ったのか。
再度、万葉集を、読むべきである。
心の、動きにある、本質的なものを、あはれ、と、表現するようになる、過程にある、日本人の精神の成長である。
漢語では、表現、し尽くせないものが、あった。
ひらがな、により、始めて、そのように、本質的な、心模様を、書き表すことが、出来たのである。それには、その発生過程がある。

天真爛漫な、万葉の人々の歌、言葉から、心を、捉えて、更に、推し進めると、その、表情の裏に、静かに、眠っていた、あはれ、という、翳りのような、感覚、心象風景である。

ようやく、一音に意味ある、日本語の、表現が、ひらがなによって、成ったといえる。

つまり、一音の意味が、あったといえる。
ただ、書き伝えなかったのである。
当たり前すぎて、書き伝える必要がなかった。

書かれたものがあるということは、書かれなかったものも、あるということである。
その、書かれなかったものを、探る行為を、学問という。

それでは、現在言われる、学問とは、書かれたものが、ある、ということが、前提である。

学問を、ものならう、と、読んだ。
ならう、とは、現在の、習うではない。
ならう、とは、思いを込めることなのである。

つまり、書かれなかったものを、思い詰めることである。
感受性である。

推論、想像、妄想を、超えて、探る行為である。
それは、日本人であれば、こそ、通じる心象風景である。

言葉というものの、心象風景である。

あはれ、とは、日本人の心の本質を、言う。
それは、一人の人間を、表現するのに、一言葉では、表せないように、あはれ、というものも、一言葉ではなく、様々な、形で、所作で、言葉で、現すものなのである。

万葉集から、源氏物語に、貫く道、そして、源氏物語から、現在にまで、貫く道、それが、もののあわれ、であるということ。

2008年04月05日

もののあわれについて191

二日ばかりありて、女車のさまにてやをらおはしましぬ。昼などはまだ、御覧ぜねば、はづかしけれど、あさましうはぢ隠るべきにもあらず。またのたまふさまにもあらば、はぢきこえさせてやはあらむずるとて、いざり出でぬ、日ごろのおぼつかなさなど語らはせたまひて、しばしうち臥せさせたまひて、宮「この聞こえさせしさまに、はやおぼし立て、かかる歩のつねにうひうひしうおぼゆるに、さりとて参らぬはおぼつかなければ、はかなき世の中に苦し」とのたまはすれば、女「ともかくものたまはせむままにと思ひたまふるに、「見ても嘆く」といふことにこそ思ひたまへほづらひぬれ」と聞こゆれば、宮「よし見たまへ、「塩焼き衣」にてぞあらむ」とのたまはせて、出でさせたまひぬ。


二日ほど、経ち、宮様は、女車のいでたちで、密かに、お出でになりました。
昼間に、お逢いしていませんので、気恥ずかしく思いましたが、みっともなく、恥ずかしがって、隠れることも、出来ません。
宮様が、仰せのように、邸にでも、移ることになれば、このように、恥ずかしがってもいられません。
にじり出ました。
宮様は、常日頃の、ご無沙汰のことなどを、お話になって、しばらく、お臥せになりました。
宮様は、「私が申し上げるように、早く決心を、なさい。このような、忍び歩きは、日頃は、心重く、かといって、お訪ねしないのは、なお、気がかりです。頼りない、あなたとの、愛に、苦しんでいます」と、仰せになります。
女は、「ともかくも、おおせの通りに、従いたいと思いますが、「見ても嘆く」ということが、ありますので、思い煩っています」

見てもなお またも見まくの ほしければ 馴るるを人は 厭ふべらなり
古今集 読み人知らず
「見ても嘆く」とは、上記の、歌を、踏まえたもの。

と、申し上げますと、「よし、見ておいでなさい。「塩焼き衣」のように、逢い馴れてくると、人は、恋しくなるものです」と、仰せになって、部屋を、出て行きました。

伊勢のあまの 塩焼き衣 馴れてこそ 人の恋しき ことも知らるめ
古今集 
上記の歌を、踏まえたもの。


前近き透垣のもとに、をかしげなる檀の紅葉のすこしもみぢたるを、折らせたまひて、高欄におしかがらせたまひて、
宮「言の葉ふかくなりにけるかな」とのたまはすれば、
女「白露のはかなくおくと見しほどに」と聞こえさするさま、なさけなからずをかしとおぼす。宮の御さまいとめでたし、御直衣に、えならぬ御衣、出たしうちぎにしたまへる、あらまほしう見ゆ。目さへあだあだしきにやとまでおぼゆ。

庭先の、透垣のそばに、美しい、まゆみの紅葉が色づいています。
それを、宮様は、お折りになられて、欄干に、寄りかかり、「愛にかわす言葉も、紅葉のように、色深くなりました」と、仰せになりました。
それを、受けて、「白露が、はかなく、置きますよう、かりそめの愛と思って、いましたのに」と、申し上げる、女の様子は、心の趣を、添えていて、見事だと、思われました。
宮様の、ご様子は、実に、ご立派でありました。
御直衣を、お召しになり、その下に、素晴らしく、何とも言えぬ、お召し物を、うちぎに、着られているのが、見事です。
女は、自分の目が、色っぽくなっているのではと、思えるほどです。


またの日、宮「昨日の御気色のあさましうおぼいたりしこそ、心憂きもののあはれなりしか」とのたまはせたれば、


葛城の 神もさこそは 思ふらめ 久米路にわたす はしたなきまで

わりなくこそ思ひたまふらるれ」と聞こえたれば、たち返り、


おこなひの しるしもあらば 葛城の はしたなしとて さてややみなむ

など言ひて、ありしより時々おはしましなどすれば、こよなくつれづれも慰むここちす。


また次の日、宮様は、「昨日は、あなたが、情けなく思われていた様子。切なく思われました。しかし、しんみりとした、もののあはれを、思う気持ちになりました」と、仰せになりました。


かつらぎの かみもさこそは おもふらめ くめじにわたす はしたなきまで

葛城の神様も、私と、同じように、思われたでしょう。昼間、久米路に橋をかけるのは、見苦しいことだと。醜い私は、何と、はしたなく、見えたでしょう。実に、恥ずかしく思いしまた」と、申し上げますと、折り返して


おこなひの しるしもあらば かつらぎの はしたなしとて さてややみなむ

役の行者のような、力が、私にありましたら、葛城の神のように、昼間を、恥じているあなたを、そのままには、しておきません。

などと、仰せられて、今までよりも、しばしば、お出に、なります。
ことさら、つれづれの、慰めが、満たされる心地がします。


宮の言葉に、心憂きもののあはれなりしか、という言葉がある。
ここでは、心憂きことが、もののあはれ、という。
実に、複雑な心境になっている。

それは、相手の姿、様子に、そのように、思うのである。
あなたの、様子に、心憂きもののあはれ、というものを、感じたのである。

すでに、もものあわれ、というものを、観ていたのである。

この日記の、様々な、場面で、あはれ、というものを、見てきた。
あはれ、に託す心模様に、あはれ、と、実体を観るのである。

心、そのものが、もののあわれ、なのである。
揺れ動く、心の、機微に、もののあわれ、というものを、感じ取ったのである。

それが、所作になって、現れる。
それが、歌になって、現れる。
更に、それが、心となって、現れるのである。

チベット暴動。7

天安門広場での、アテネから、到着した聖火の、歓迎式典が行われた。
何と、周囲を封鎖し、一般人を締め出しての、式典である。
何のための、五輪なのか。

中国共産党は、毒入りギョーザの時、中国共産党に、敵対する、法輪功を「日中友好を好まない一部の歌劇分子のしわざ」と決め付けていた。

そういう、発想て゛あるから、後が知れる。

何故、そう思うのか。
疚しいことを、しているからである。

恐るべき、報告である。
カナダの人権弁護士、デービッド・マタス氏が言う。
中国共産党は、臓器を摘出し売買するために、法輪功学習者を、都合の良い時間に殺害し、臓器移植を、行っている。
という、ものである。

南京事件を、捏造する彼らである。
朝飯前に、そのようなことを、する。
北朝鮮を、最悪の国家というなかれ。
中国という国も、最悪なのである。

だから、毒ギョーザの時に、すぐに、考えたことは、それである。

今時も、こんな国があるのであるという、驚き。

中国政府は、2001年の、北京五輪の、開催資格を得た時、人権を改善すると約束した。
しかし、改善どころか、悪化させた。
現在分かっている数だけでも、「国家の安全を危機に陥れた」として、どうでもいいような理由をつけて、逮捕した中国人は、05年で、296人、06年には、604人である。

単に、共産主義や、政府を、批判したというだけで、刑務所などに、監禁している。

中国共産党は、ヒットラーと同じように、五輪を使い、中国共産党の権威を高めて、これまでの、悪行を、国際社会からの、信任を得たとする、構えなのである。

とんでもないことである。

北朝鮮や、ビルマなどの、全体主義、悪魔の国を支援し、更に、スーダンでの、大量虐殺に、加担しているのである。

ラサで起きた、チベット人の、平和的デモを、武力で、簡単に鎮圧するという、有様を見ても、よくよく、解ることである。

日本の、侵略に対して、あれだけの、反日行動と、教育を徹底するのである。
自分たちの、侵略に対しては、全く意に介さないのである。

チベットが、中国にされたことは、書き得ない程の、辛苦に耐えたものである。
そして、更に、チベット人は、現在の状況下で、幸せに暮らしているという、嘘、絶えない喧伝である。

チベットの文化遺産を、金に換えて、平気な、漢民族を、大量に送り込み、更には、同化政策で、チベット人を、無きものにしようとする。
それを、黙って見ていられない。
そこでの、今回の、デモである。
あくまで、平和的デモである。

それもまた、嘘八百の、喧伝をして、ダライ・ラマ集団の、起こしたことだという。
更に、ダライ・ラマの、本性が、現れたという、具合の悪くなる、嘘である。

手前勝手の、繰言を、並べ立てて、平然としているのは、日本の共産主義者と、同じである。

こういうのは、どうにも、手がつけられないという。

今、世界は、瞬時にして、つながる。
中国共産党の、本性を、皆々が、書き、世界に、発信して、徹底的に、その、本性を暴くことである。

ベルギーにある、国境なき人権や、ドイツの、国際人権協会は、世界に向けて、中国五輪は、開催するべきではなんいと、発信している。
自由の無い、全体主義国家で、五輪など開催できないと。

共産党という集団は、入ったら最後、支配者層に入るまでは、人でなしの状態である。
支配者の一部になって、はじめて、たらふく飲み食いできる。

そのために、人民があると、考えるのである。

そうそう、宗教と、実に、似ている。
一度信じると、騙され続けるのである。

目的のために、手段を、選ばないのである。
では、目的は、何か。
一部の人のために、人民が存在するというものである。

何処かで、聞いたことがある。
そう、共産主義が、打倒すると言った、搾取する者である。
それを、目指しているのである。

人民のためなどというのは、真っ赤な嘘。大嘘である。

主権在民とか、何とか言って、誤魔化して、国民など、物の数にしない、頭脳優秀な、日本の官僚を、思えばいい。

悪は、どんなに、表が、違っても、根は同じなのである。

ちなみに、チベット仏教という場合は、他の宗教とは、違う。
法王が、宗教、政治の最高者であり、それが、チベットの伝統なのである。

あらゆる、国の姿があっていい。

アメリカが、アメリカ型の、民主化を、なそうとした、イラクで、どんなことになっているのかを、見れば、一目瞭然である。

アラブには、アラブの、在り様がある。
アジアには、アジアの。
多価値観を、見ること。それが、平和というものである。

2008年04月06日

神仏は妄想である。62

量子力学が、霊界の存在、あるいは、多宇宙について、画期的な、存在の様を、証明するのではないかと、私は、期待していた。
ところが、トーキンスに言わせると、そうでもないらしいのである。

量子論があまりにも奇妙なのか、物理学者たちは何らかの矛盾した「解釈」に頼ろうとする。
ドーキンス

「多宇宙」解釈によれば、ある宇宙ではネコは死んでおり、別の宇宙では生きているということになる。どちらの解釈も、人間の常識や直感を満足させるものではない。しかし、力技の得意な物理学者たちは気にしない。問題は、その数学がうまく機能し、予測が実験によって達成されることである。私たちのほとんどが、彼らのやっていることをフォローすらできないのは、ふがいないことだ。結局、私たちは、「現実に」起こっていることについて、何らかの連鎖の視覚化というものがともなわなければどうにもならないらしい。
ドーキンス

連鎖の視覚化という。
つまり、はやい話が、目に見えない物である。目に見えない物でなければ、どうにもならないという。
科学的姿勢とは、そういうものである。
何の、違和感も無い。

更に、目に見えない物も、目に見える方法によって、目に見えるようにするのが、科学の姿勢である。それで、多くの、目に見えない細菌等々を、発見し、人類に貢献した。

私の立場である。
私は、霊学を、持つものである。
つまり、目に見えない世界というものを、考える立場である。
それは、多く、心理的状態によって、知る得るものであり、それは、心理学の分野で、おおよそ、解決される。
しかし、どうしても、それでは、解決できない問題もある。

だが、ギリギリのところまで、私は、ドーキンスを支持する。

私たちが進化した限られた世界では、小さな物体のほうが大きな物体よりも動いている可能性が大きく、大きいほうは動く際の背景と見られる。世界が回転するにつれて、近くにあるために大きく見える物体―――山、樹木、建物、そして地面そのものーーーは、太陽や恒星のような天体との比較で、互いにまったく同調して、観察者とも同調して動く。私たちの進化によって生じた脳は、前景にある山や樹木よりも、そうした天体のほうが動いているという幻影をつくりだすのである。
ドーキンス

ここに、重大な問題が、隠されている。
奇跡の、問題である。
互いに同調して、観察者とも、同調して動く、という。

つまり世界がなぜいま見えているように見えるのか、そして多くの事柄は直感的に把握しやすいのに、別の事柄は把握しにくいのはなぜか、といったことがあるのは、私たちの脳それ自体が進化によってつくられた器官だからという点をさらに突っ込んでみたいと思う。私たちの脳は、世界で私たちが生き残るのを手助けするために進化した搭載型コンピューターであり、その世界―――私はミドル世界という名を使うつもりであるーーーでは、私たちの生存にかかわる物体は極端に小さいことも、極端に大きいこともない。そこでは事物はじっとして立っているが、光速に比べればゆっくりとした速度で動いているかである。そしてそこでは、非常にありえなさそうなことは、起こりえないこととして処理しても問題はない。私たちの精神的なブルカの窓が狭いのは、私たちの祖先が生き残るのを助ける上で、それを広げる必要がなかったからなのである。

ブルカというのは、イスラム教徒の女性が、かぶる顔を覆う布のことである。
つまり、私たちの、ブルカの窓とは、視野のことである。

私たちの脳は、その体が自分の動き回る規模での世界の様子を知るのを助けるように進化してきた。私たちは、原子の世界を動きまわるようにはけっして進化してこなかった。
ドーキンス

ミドル世界で進化した私たちは、「一人の将校が、将校たちや他のミドル世界の物体が動く中程度の速度で動いていくとき、壁のような別のミドル世界の固い物体と衝突すれば、彼の前進は、苦痛をともなって阻まれる」といった事柄なら、直感的に、容易に把握できる。しかし、私たちの脳は、ニュートリノが壁を、つまりその壁を「現実に」構成している広大な瞬間の中を、どんなふうに通り抜けるかを想像できるようにはつくられていない。また私たちには、ものが光速に近い速さで動くとき起こる事態にうまく対処する知覚能力も備わっていないのだ。

ドーキンスは、実に、重大な、人間の認識能力について、語るのである。

これ以上の、引用は、避けることにする。

私は、ここで、ドーキンスが、最後に、最後の章で、奇跡の、有り得なさについて言う言葉を、聞く。

ありえなさの一方の極には、私たちが不可能と呼ぶまだ起こっていない出来事がある。軌跡とは極度にありえないような出来事である。マリア像が私たちに向かって手を振るということはありうる。結晶構造をつくっている原子はすべて前後に振動している。原子はあまりにもたくさんあり、その動きには一致して好まれる方向がないため、ミドル世界で私たちが目にする手は、石のようにじっと動かない。しかし、手の揺れ動く原子のすべてが、たまたま同時に同じ方向に動くということはありえる。またしても、何度でも言うが、・・・この場合、手は動くだろうし、私たちに向かって手が振られることを見ることになるだろう。それは起こりうるが、それが起こらない確率は非常に大きく、もしあなたが宇宙の起源からその数を書き始めたとしても、現在でもまだ依然としてゼロを書き終わっていないだろう。そのような確率を計算する能力―――ほとんどありえないことを、あきらめて両手を上げずに計算する力―――は、人間精神の解放のために科学が授けてくれる恩恵の、もう一つの例である。

奇跡には、すべて、裏がある。
そして、奇跡として、認識するものは、撹乱である。

ドーキンスは、進化生物学者として、渾身の力を込めて、神は妄想である、と言う。

私は、霊学として、神仏は妄想である、と言う。

新約聖書に、書かれる、イエスの奇跡は、悪霊祓いと、病気治しである。
更に、教祖と言われる人々は、多く、病気治しの奇跡を、行った。人は、それで、信じるようになる。

私の、知る、奇跡の例を、上げると、ある、拝み屋に行き、腰痛が、全快したということである。
そのカラクリは、簡単である。
その、拝み屋の、狂いの精神波動、つまり、ヒステリーの、力によるものである。
境界例という、精神疾患がある。
多くは、精神疾患による、狂いの、エネルギーが、痛みを取り、病を、癒すかのように、働く。

心理学で、解決される。
それは、多くの世界的、奇跡の場においてもである。
名医は、言葉によって、患者を癒す。
それは、心理学である。

霊的現象により、病や、奇跡を、起こすことを、私は、魔界関与という。
前世の因縁により、あなたの、足が、痛むということで、その因縁を消滅させることによって、痛みを取るという場合も、心理学が、有効である。

想像力は、病を、癒すのである。

何故、仏陀が、人生を、生老病死という、苦しみにあると、言うのか。
仏陀は、合理主義者であり、現実認識の、主である。
人生は、生老病死にあると、見抜いたこと、それが、端的に、それを、現すのである。

更に、因果の法を説いた。
原因が結果を、もたらし、また、結果が、原因になり、それが、死ぬまで、終わることが無い。

更に、オリジナルとして、仏という、人間の完成した、姿を描いた。

しかし、仏陀もまた、生老病死に、死んだのである。

もし、前世の因縁消滅によって、痛みや、病が、治るものであれば、因縁消滅しなくても、治るのである。

実相世界を、説く、宗教は多い。この世は、仮の世界であり、実相世界は、痛みも、病も無いという。更に、人は神の子であり、仏である。この世の姿は、肉体という、借り物を、着ている状態であると。

それは、実に、感性的である。
しかし、知性と、理性に関しては、論外である。

感受性の強い人は、それを、文字通り受け入れて、自らを、癒す。

この現実を、仮のものとして、思い込み、実は、よく解らない、死後の世界を、実相、真実の世界として、信じ込むことでの、詐欺行為により、撹乱させる。

霊学として、言う。
この世の、現実を、実相世界と、感じないで、よく解らない死後の世界を、実相世界、あるいは、神や、仏の世界として、信じ込ませるもの、それは、罪悪である。

仏陀は、すべては、心の、在りかたであると、観た。
心とは、想念の場所、想像の場所である。
思えば、在る世界である。
その、思えば、在る世界に、宗教は、目に見えない世界を、作り上げて、心を撹乱させる。

例えば、死後の世界で、苦しむ霊の、波動を、キャッチして、同じように、その箇所が、病むという。ゆえに、その霊に、悟ってもらい、それにより、病を癒すという。
もっともらしくの、想像力である。
しかし、それは、心理学が、出来ることである。

霊というものを、確実に、説明する、科学的根拠は無い。

だが、科学が、すべてを、知るかとえば、知ることは出来ない。

私の、霊学も、私の妄想である。

その、妄想を、いかに逞しくしても、神仏は妄想である。
霊界には、神仏は、無い。
霊は、在る。

そして、空とか、無という、状態も、宇宙を出ると、在る。

霊界は、宇宙の中にあり、未だ、空や無という、空間は、無い。
ブラックホールという、暗黒物質の世界は、あるが、それは、空でも、無でも無い。在るのだから、だ。
在るものを、空とか、無とは、言わない。

すべて、人の頭で、捏ね繰り回された、言葉の世界である。

神仏は妄想である。63

多くの信仰篤い人々は、宗教がなければ、人がどうして善良でいられるのか、あるいは善良でありたいと望むことができるのか、想像し難いと感じている。

道徳とは何の実際的な関連ももたない他の話題に対する宗教的な態度の背後に道徳的な動機が潜んでいることがあるからだ。進化論を教えるなと主張する人々は、実は進化論そのもの、あるいは科学的な事柄とは何の関連もなく、道徳上の憤慨によって煽り立てられていることが多い。
ドーキンス  第6章 道徳の根源 なぜ私たちは善良なのか ? より


宗教信者は、宗教より、道徳というものが、生まれると、信じている。
しかし、彼らが、他宗教、他宗派に対する時、そこには、道徳的、かけらも無いほどの、行動をするのである。

それを、彼らは、知ることがない。

宗教から、出る、道徳とは、完全無欠に、紛い物である。
要するに、偽物である。

ダーウィン主義の論理によれば、自然淘汰のふるいの目をくぐった生き延び伝えられる、生命の階層秩序のなかで、自分と同じレベルにいるライバァルを犠牲にして生きのびることに成功したものである。厳密にはそれこそが、この文脈で利己的という言葉が意味するものである。問題は、その作用の舞台となるレベルはどこか、ということだ。力点を正しく、後ろのほうの単語(遺伝子)に置いた、利己的な遺伝子という考えの趣旨は、自然淘汰の単位(つまり利己主義の単位)は利己的な個体ではなく、利己的な集団でも、利己的な種でも、あるいは利己的な生態系でもなく、利己的な遺伝子だということにある。情報という形で、多数の世代にわたって生き残るか、残らないかというのは遺伝子なのである。
ドーキンス

それは、利己性の、単位としての意味における、利己的な遺伝子である。

つまり、利己的な遺伝子という、ドーキンスの、道徳に対する考え方に、利己的という、言葉が、先行して、道徳を、考える際に、利己的という言葉が、僭越するということである。それに、対する、誤解を説く。

いわゆる利他行動のうち、それを支えるダーウィン主義的な理論的根拠についてよく解明がなされているもう一つの主要なタイプは、互恵的利他行動「ぼくの背中を掻いておくれ、そしたら、お返しに掻いてあげるから」である。
ドーキンス

一体、宗教が言うところの、道徳から発する、考え方は、何であろうか。
利他行動というものを、宗教では、愛の行為、布施等々を言うが、すべて、布教活動の一環となる。

やたらに、親切に接してくると、思ったら、宗教だったということは、多々ある。

それならば、愛は地球を救うという、気持ちの悪いテレビ番組の方が、まだ、救いはある。
あれは、イベントであり、教えの、強制はない。

実際にそれは、大幅に異なった種のメンバー間でもまったく同じように、おそらくはそれ以上にさえ機能するのであり、その場合は共生と呼ばれることが多い。この原理は、人間のあらゆる交易や物々交換の基礎でもある。
ドーキンス

科学者の、考え方の方が、真っ当である。

道徳の基本は、生きるための、最低限の基礎なのである。

生物界には、そのような相互扶助的な関係がどっさりある。と、ドーキンスは、言う。

自然淘汰は、必要と機会の非対称的な関係において、自分から与えることのできるときには与え、できないときにはくれるようにせがむようにさせるような資質を個体にもたせる遺伝子を選択する。義務を記憶し、恨みを抱き、交換的な関係を監視し、もらうだけでお返しの番がきたときに与えないごまかし屋を罰し、といった傾向も選択され、生き延びる。
ドーキンス

長年に、渡って、人類が築いてきた、利他行為、互恵的利他行為、そして、多種との、共生。
道徳の基礎は、ここにあり、宗教の教えの、云々には、何ら関係ないのである。

更に、ドーキンスは、それらの、誤作動に関して、記述する。

人間は、万物の霊長であるという、勝手な解釈は、何の役にも立たない。
生き延びるために、経てきた、積み重ねた、経験というものが、重要である。

さて、日本では、道徳といえば、孔子である。
論語から、道徳という観念が生まれた。
更に、江戸時代になると、朱子学である。
まあ、中国の書物から、多くを学んだので、儒教、道教、そして、中国仏教である。

教えられる、道徳である。
しかし、人間の心の、発露としての、行為は、古代からある。当たり前である。
その、古代からの行為こそ、ドーキンスが言う、利他行為である。互恵的利他行為、更に、共生というものである。

万葉集を、読めば、すべて、理解できるのである。

親孝行などは、万葉集では、孝行を超えている。
親に対する、恋心である。
親乞う心である。

宗教により、人間が善になるという、考え方は、無い。
宗教が、教えるものは、例えば、仏教だと、来世とか、死後の世界の、地獄、極楽である。
要するに、脅しの、言葉による、道徳的行為を、強要する。
勿論、道徳というものの、何物も無い。
単なる、教義としての、道徳的行為の、推奨である。

それは、実に、計算高いものであり、人間を、取引させる。
一神教になると、それは、実に、甚だしい。

新約聖書で言われる、善きマサリア人の話は、有名であるが、あの土地によって成る、お話である。
イエスの、隣人愛というものも、実に、あの地域性による。
汝の敵と、敵を、最初に想定するという、土地柄である。

別の神を、拝む民を、排斥する地域にあっての、隣人愛を、イエスは、押し広げて、教えた。
というより、それは、イエスの教えというより、セクト教団の教えである。
祖先の時代、私たちは利他行動を近親者と潜在的なお返し屋にのみ向けるような暮らしをしていた。
ドーキンス

イエスの言葉は、それを、押し広げたのである。
つまり、近親者のみではなく、出会う人に、広げたのである。

しかし、それは、画期的なことではあった。

2008年04月07日

この国の問題。8

千葉県のも宗教法人「幸運乃光」に対し、経済産業省が、特定商取引法違反で、三ヶ月の業務停止を、命じた。

実に、甘い。
しかし、これが、初めてという。

この法人は、寺を持ち、更に、高島易断総本部を、名乗っていた。

その、易断の、鑑定で、二年間、祈願しなければ、息子さんに、大変な災難が起こる、とか、息子さんの運気が下がり、大変なことになると、脅し、訪れた人から、祈願料、数珠などを、高額、146万から934万などを求めた。

実は、この団体の詐欺にあった人の知人から、相談を、受けたことがあるが、その時は、祈願料50万円だった。
婚期の遅い、娘のためにということだった。
祈願をすれば、八年後に結婚するという、余りにも、愚かしい、鑑定である。

何度も言うが、宗教法人とは、皆々、商売なのである。
他の宗教は、違うとは、言えない。

神仏は妄想である、にも、多く書いているが、皆々、金集めのための、詐欺である。
詐欺集団が、宗教法人である。
彼らの言う、救いや、何やらは、すべて、客観性の無い、主観的妄想である。

業務停止なとば、実に、生ぬるいのである。

このように、明確に、脅しの場合は、さすがに、官庁も動いたが、皆、宗教というもの、緩やかな、脅しをしているのである。

勿論、騙される人も、悪いに決まっている。

要するに、頭が悪い。
知性が、無い。
それを、判断する感性も無い。
さらに、人間であるところの、理性も、無い。
無い無いづくしである。

人の弱みと、不安に、付け込み、何と言う、悪行を、行うのかと、怒っても、詮無いこと。徹底的に、叩かなければ、その根性は、治らない。

寺と、易断という、矛盾もある。
この、宗教法人は、悪霊の、仕業である。

私も、祈願という言葉を、使うが、それが、方便であることを、知っている。
祈り、願うこと、という意味である。
それは、誰かが、やるものではなく、自分が、主体的に行為して、成り立つものである。
それを、金を払い、誰かに、やって貰い、その褒美を、受けるという、甚だしい、勘違いである。

空海から、始まった。
密教という、魔界の呪術から、成る宗教というには、実に抵抗ある、集団である。

加持祈祷とは、バラモンから、出た。
バラモンは、言わずと知れた、魔界のものである。

さて、宗教の、盛んな国、つまり、宗教という、商売の盛んな国が、日本である。

先祖供養のために、金を集める。
浄財と処して、金を集める。
兎に角、皆々、金を集める。
どんなに、綺麗なことを言っても、最後は、金を集める。

真如苑などは、一般の、信者ではない人からも、500円を、信者に集めさせて、ご供養するという。
この度、運慶の仏像を、14億円で、買い取ったのは、真如苑である。
仰天するほどの、金を持つ。
勿論、創価学会は、一兆円の、資産があるといわれる。
皆々、信者からの、金である。

緩やかな、脅しをするのである。

すべての、宗教団体が、そうである。
妄想の、神や、仏を、言う。そして、金を集める。
詐欺といわずして、何というのか。

更に、このように、息子さんに、禍が起こるという、何の根拠もない、鑑定を持っての、脅しの、商売である。
これを、許せば、この手の、宗教団体は、大手を振って、行う。
ヤクザを、暴力団というなら、そして、それを、排斥し、暴力反対を、言うなら、精神的暴力の、宗教団体を、徹底的に、排斥しなければ、ならない。

ヤクザより、悪いのである。

更に、悪いのは、教祖、幹部は、手を出さずに、末端に、させるのである。

有名教団は、兎も角、金を集めて、成り立ったものである。
それほど、集金能力が、高いのである。

信者を、30人持てば、生活できると、言われる。
それも、貧乏な方がいい。貧乏人は、金を出すからである。

熱心な、宗教信者に、金持ちは、いない。
金持ちは、適当に、最低の付き合いを、するのみで、新宗教に入ることも、少ない。

幸運乃光教団は、多くの詐欺をしていること、私も、よく知っている。
新聞の挟み込みに、チラシを出す。
その、高島易断総本部という、名前で、人は、安心する。

高島呑象という、高島易の開祖とは、何の関係も無い。

更に、寺を持つが、仏教、特に、仏陀の教えとは、また、全く関係ない。
ついでに言えば、日本の仏教団体、新興宗教の仏教団体も、仏陀の教えと、何の関係も無い。

全くの、詐欺集団である。

勿論、最澄、空海からはじまり、法然、親鸞、道元、日蓮、そして、名僧、等々、仏陀の、教えと、全く関係ないのである。
皆、文学である。
更に、日本には、宗教という、観念も、概念も無い。
一神教の宗教学を、持っての、宗教概念である。

勝手な解釈、勝手な、仏教であり、勝手に名乗っているだけである。

日本国が、宗教法人にしているだけで、仏陀は、それらに、一言も言っていない。
仏陀と、直接話したという、僧が、いれば、是非、お逢いしたいものである。

いつから、仏教が、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教と、同列に並ぶようになったのか。
仏教自体も、宗教ではないということを、知らないのである。

ホント、アホらし。

追伸)
この団体は、元豊田商事の関係者ということである。
詐欺商法の、豊田商事である。
詐欺という点では、宗教も同じであるから、このエッセイを、そのまま、載せることにした。

もののあわれについて192

かくてあるほどに、またよからぬ人々文おこせ、またみづからもたちさまよふにつけても、よしなきことの出で来るに、参りやしなましと思へど、なほつつましうてすがすがしうも思ひ立たず、霜いと白きつとめて、


わが上は 千鳥もつげじ 大鳥の はねにも霜は さやはおきする

と聞こえさせたれば、


月も見で 寝にきと言ひし 人の上に おきしもせじを 大鳥のごと

とのたまはせて、やがて暮におはしましたり。

そのようにしている、うちに、また、よくない男たちが、文を、よこします。
また、男たちが、うろついて、まとう様も、良くないことなので、宮様の、邸に、参ろうかと、思いましたが、やはり、遠慮があり、中々、決心が、つきません。
霜が、大変、白く置いた朝に、


わがうえは ちどりもつげじ おおとりの はねにもしもは さやはおきける

私のことを、千鳥は、宮さまに、告げますか。
起き明かして、袖に、霜がおきましたことを。
大鳥で、いらっしゃる、宮様の羽にも、霜はおきましたか。

と、申し上げますと、


つきもみで ねにきといひし ひとのうえに おきしもせじを おおとりのごと

月も見ずに、寝てしまったと言われますが、そのように、起き明かすことのない人の上に、霜は、おくわけは、ありません。大鳥のようには。

と、お詠みになられて、すぐに、夕方、お見えになりました。

宮「このごろの山の紅葉はいかにをかしからむ。いざたまへ、見む」とのたまえば、女「いとよくはべるなり」と聞こえて、その日になりて、女「今日は物忌」と聞こえてとどまりたれば、宮「あなくちをし。これ過ぐしてはかならず」とあるに、その夜の時雨、つねよりも木々の葉残りありげもなく聞こゆるに、目をさまして、「風の前なる」などひとりごちて、「みな散りぬらむかし。昨日見で」とくちをしう思ひ明かして、つとめて、宮より


神無月 世にふりにたる 時雨とや 今日のながめは わかずふるらむ

さてはくちをしくこそ」とのたまはせたり。

宮様は、「この頃の、山の紅葉は、どんなに、美しいでしょう。さあ、見に行きましょう」と、仰せになります。
女は「たいそう、よい話です」と、申し上げます
当日になって、「今日は、物忌みですので」と申し上げて、家に留まりました。
それで、宮様から、「残念です。物忌みが、終わりましたら、行きましょう」と、御文がありました。
その夜、時雨が、いつもより、強く降り、木々の葉が、残りそうになく、聞こえました。
宮様は、目覚められて、「風の前なる」などと、独り言を仰せになり、「紅葉は、散ってしまったでしょう。昨日見ておかないで、大変、口惜しい」と、残念に思い、夜を明かしました。
その朝、宮様から、


かんなづき よにふりにたる しぐれとや きょうのながめは わかずふるなむ

十月に、昔から降る、時雨と言われますのに、区別もなしに、今日の、長雨は、降るのでしょうか。
あなたは、長雨を、時雨と思い