宮
うたがはじ なほ恨みじと 思ふとも 心に心 かなはざりけり
御返り
女
恨むらむ 心は絶ゆな かぎりなく 頼む君をぞ われもうたがふ
と聞こえてあるほどに、暮れぬればおはしましたり。宮「なほ人の言ふことのあれば、よもとは思ひながら聞こえしに、かかること言はれじとおぼさば、いざたまへかし」などのたまはせて、明けぬれば出でさせたまひぬ。
宮
うたがはじ なほうらみじと おもふとも こころにこころ かなはざりけり
疑わない、恨まないと、思いつつ、なお、心に素直に、従えないのです。
心に心 かなはざりけり
心に心が、沿わないのである。
お返し
女
うらむらむ こころはたゆな かぎりなく たのむきみをぞ われもうふがふ
私のことを、恨む心は、絶えずにいてください。
私も、宮様のことを、頼りにしていますが、疑うことが、あるのですから。
と、申し上げます。
そのうちに、日も暮れてきました。
宮様は、お出でになられました。
「やはり、人は、あなたの噂を、あれこれ、申します。よもや、とは、思いましたが、お便りいたしました。このようなことを、言われたくないなら、さあ、早く、邸に、お出でください」などと、仰せになり、夜が明けますと、お帰りに、なられました。
現代でも男と、女の、噂話は、絶えない。
芸能人は、毎日、その噂話に、晒されている。
噂に、翻弄される者、噂を、超えて行く者。
男と女の、関係は、いつも、新しいのである。
性懲りも無く、続けて行くのであろう。
その、千年単位の、噂話が、この、物語である。
この、物語から、噂話は、抜け出ていないのである。
最新の、心理学では、人間の、自由意志というものは、無いという。
自由恋愛というが、実は、自由でも、我の意思でも無いというのである。
錯覚。
自由であるという、錯覚。
意志。
意志であるという、錯覚。
ヒトの雌は、子育てをする間、雄を、留めておくために、性的エネルギーを全開にする。
その前に、恋をする。
セックスである。
恋とは、セックスであった。
セックスを、恋という言葉で、曖昧にするほど、前頭葉が、発達した。
万葉時代は、女が、男に、名を名乗ると、それは、セックス承諾の、合図となった。
その、発情の、きっかけは、自由意志だと、思われていたが、ここに来て、自由意志ではないと、言われる。
それでは、何が、ヒトを、発情させるのか。
脳が、指令を、下す前に、すでに、手が動くという、実験を通して、脳ではない、何か、別のものが、指令を出していると、解ったのだ。
意志を、脳の働きだと、考えていた科学者は、まさか、と、呆然としたという。
意志の指令を、脳が、発していないとすると、指令は、どこから、出るのか。
人間の自由意志とは、何か。
次の、科学のテーマになるだろう。
さて、物語も、終わりに、近い。
いよいよ、宮様の、願いに、従い、宮廷入りする、和泉式部である。
簡単に言えば、宮廷に入り、宮様の、妾になるということである。
正妻ではない。妾、めかけ、つま、とも、読む。
恋愛の、手引きとしても、面白い、古典文学であった。
私は、もののあわれ、というものを、知る、べくして、この、物語を、読んだ。
日記全体に、もののあわれ、というものが、ある。
もののあわれ、というものは、こうして、表現されるということだ。
本居宣長が、源氏物語の、端々から、もののあわれ、の、様を、探し出した。
それも、一つの手である。
彼は、源氏物語の、価値は、もののあわれ、であると、言い切るのである。
だが、私は言う。
万葉集から、日本文学は、もののあわれ、というものに、貫かれていると。
書き表せないもの、もののあわれ、を、書くために、日本文学がある。それを、意識する、しないに、関わらずである。
というような、読み方も、あって、いいと、思う。
こんなもの、人間の、生き死ににあっては、お話である。
こんなもの、人間の、生き死にを、もののあわれ、として、観た、日本人を、私は、誇りに思う。
こんなものである。