慰霊旅日記 3
食事を終わり、また、暑い道に出た。
そこで、ソンテウという、乗り合いバスを探した。
トラックの荷台を、改造して、両側に座れるようにしてある。
連合国軍の墓地へ行き、そのまま、帰りのバスターミナルに送ってもらおうと、思った。
丁度、三台ほど、ソンテウが停車している場所があった。
一人の運転手が、待ち構えていたかのように、声を掛ける。
値段の交渉である。
およそ、30分程度と、見積もった。
300バーツと、言われた。高い。
野中が、交渉した。
ソンクランの御祭りだし、と、その辺までは、解った。
運転手は、すぐに、250バーツに落とした。
私は、それで、善しとした。
向かったのは、連合軍墓地である。
連合国軍墓地は、三箇所あるが、ここカンチャナブリーが、最大規模のものである。
この地は、かつての、捕虜収容所である。
戦後すぐに、遺骨を沿線各地から集めて、埋葬された。
ただし、アメリカは、遺骨を引き取り、アメリカ人の遺骨は無い。
埋葬されたのは、イギリス、オーストラリア、オランダ人等である。
祈りを捧げる前に、一つ一つの、墓標を見た。
胸が詰まった。
25,26,27,30歳という、年齢が多い。
勿論、年齢に関わり無く、悲劇である。
この、カンチャナブリ墓地の真ん中に、十字架が立つ。入り口から、真っ直ぐ歩くと、十字架に突き当たる。
職員により、毎日手入れされている墓地は、整然として、美しい。所々で、水を自動的に撒く、装置が備えられてある。
私は、十字架の前に立ち、持参した、十字架を掲げて、憐れみの讃歌を唱えた。歌った。
キリエレイソンである。
主よ、憐れみたまえ、キリストよ、憐れみたまえ、主よ、憐れみたまえ。
キリスト教祈りの、最大の祈りは、イエスが、教えたといわれる、主の祈り、そして、この、憐れみの讃歌である。
キリスト教徒にとっての、慰霊は、慰霊という意味が全く、違う。
主イエスキリストに対する、全くの、委ねである。
彼らの信仰とは、主イエスに委ねることなのである。
祈りは、主イエスの御名において、行われなければならない。
最も大切な祈りは、主イエスに対する、引き上げの願いである。
彼らの言う、天国への、引き上げは、主イエスが行う。
また、聖母に対する祈りは、カトリックのものであり、他のキリスト教徒では、認められていないゆえに、アベマリアは、唱えない。
野中は、自分と同じ年の若者が多いことに、愕然としたのか、私の写真を撮ると、一人で、跪き祈っていた。
当然である。
人生の最初に、死ぬのである。
どんな、思いだったかを、少しでも、考えれば、当然の行為である。
個人の運など、吹き飛ぶのが、戦争である。
人類の英知など、どこにあるのかと、私は問う。
左手に、十字架を掲げ、右腕を開き、私は、冥福を祈った。
冥福とは、死後の世界での、幸福である。つまり、主イエスの元に行くことが、幸せなことなのである。
死後の幸せ。
何という、思想であるのか。
ご冥福を祈ります、とは、礼儀上の言葉になっているが、冥福を祈るということは、何者かによって成るという意味である。それが、キリスト教では、神である、主イエスである。
永遠の命を教義とするが、それは、神の内にあるという、天国思想である。
後ろ髪を曳かれる思いで、墓地を後にしたが、私は、ソンテウの中でも、主の祈りを唱えた。
主の祈りに、ついては、省略する。
この祈りについても、古神道の言霊から、意味のあるものである。私の霊学では、何の問題も無い祈りである。
さて、ここで、泰緬鉄道に関した死者の数である。
私は、具合が悪くなった。
マレーシア人、42,000人
ビルマ人、40,000人
イギリス人、6,904人
ジャワ人、インドネシア人である、2,900人
オーストラリア人、2,802人
オランダ人、2,782人
中国人、500人
アメリカ人、131人
日本・韓国人、1,000人
勿論、労働者は、この何倍もいる。生き残った人もいるのである。
1942年、6月、日本軍は、ミッドウェー海戦で、決定的な敗北を帰す。
その後に、決定されたのが、この、死の鉄道といわれた、泰緬鉄道建設である。
実は、イギリスが、1910年に、タイと、ビルマを結ぶ鉄道ルートを計画し、5ルートを調査したが、二年後、地形上の難しさ、風土病と、激しいモンスーンの豪雨のために、計画を断念している。
しかし、日本軍は、イギリスが考えた、一つのルート、クワイ・ノイ川に沿ってスリーバゴダパスを通過するルートで、タイのノンプラドックからビルマのタンビューザヤットへ向かうルートの建設に着手する。
シンガポールからマレー半島を通り、タイを抜けて、ビルマの既存鉄道と、連結して、ビルマの日本軍に、シンガポールからの、物資供給を目的にしたものである。
シンガポールの、陥落により、日本軍は、大きな支配権と、300車両の機関車を含む装備と、機械装置を獲得。
そのような背景での、鉄道建設であった。
約415キロという、鉄道建設である。
そこへ、各地に捕虜の移送をして、ベースキャンプとする。
捕虜だけではない。
労働者として、インドネシア、マレー、ビルマ、中国、インド、タイ人らが、駆り出された。
総勢、20万人である。
完成予定を、一年後の、1943年8月とする、実に無謀な計画である。
通常では、五年の歳月が必要な計画だった。
過酷な労働といっても、ピンとこない。
猛暑の中での、ジャングルの開発、国境山岳地帯を削る作業、追い討ちをかけるように、雨季のスコール、食料、医薬品の不足、日本軍による、虐待、コレラ、マラリアなどの、伝染病、多大な死者を出すことは、解っていたのである。
そして、遂に完成となったのは、1943年10月17日。
建設期間21ヶ月、連続建設期間17ヶ月。
しかし、接合ポイントを一キロもミスするということもあった。また、完成後も、路盤が悪く、脱線が相次いだ。
生き残った捕虜は、日本へ輸送される者、鉄道保全のため、残された者、シンガポールのチャンギ収容所に移送された者の、三つである。
実は、捕虜よりも、労務者と言われた、アジア人労働者たちの方が、過酷な条件の中で、働いたという事実がある。
軍医のいた、捕虜たちとは違い、彼らは、医者がいないために、基礎的な治療も受けることが、出来なかったといわれる。
アジア人労働者の、正確な死者数は、解っていないのが、事実である。
約、七万から九万人であろうと、言われる。
兎も角、内容を知れば、知るほど、具合が悪くなる。
更に、アジア人の労働者は、強制されたという、事実もある。
日本軍の、驕りは、余りある。
勿論、戦争時のことである。
異常事態である。
万が一、戦争に勝ったとして、日本は、立ち行くことが出来たのかと、思う。
戦争に勝ち続けたアメリカが、どんなことになっているのかを、思えば良い。
ベトナムのみ、アメリカは、負けた。
ベトナム人には、特別な、優越意識がある。それがまた、ベトナムの強さである。
アメリカの航空会社の飛行機に乗る度に、そのチェックの厳しさに、辟易する。
今回も、帰りの便での、検査は、最終までで、三度である。
最後の最後に、更に、荷物を検査される。
テロ対策である。
アメリカに殺された、イスラムの人々は、決して、それを忘れない。
水に流すということなど、しない。
いずれ、アメリカを無き物にするために、最後まで、一人になっても、戦うのである。
カンチャナブリーの追悼慰霊の、所作は、今回では、私自身としては、解決しなかった。
さて、どうするか。
旅の間、考えてみようと、思った。