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2008年05月 アーカイブ

2008年05月01日

慰霊旅日記 3

食事を終わり、また、暑い道に出た。
そこで、ソンテウという、乗り合いバスを探した。
トラックの荷台を、改造して、両側に座れるようにしてある。

連合国軍の墓地へ行き、そのまま、帰りのバスターミナルに送ってもらおうと、思った。

丁度、三台ほど、ソンテウが停車している場所があった。

一人の運転手が、待ち構えていたかのように、声を掛ける。
値段の交渉である。
およそ、30分程度と、見積もった。
300バーツと、言われた。高い。
野中が、交渉した。
ソンクランの御祭りだし、と、その辺までは、解った。
運転手は、すぐに、250バーツに落とした。
私は、それで、善しとした。

向かったのは、連合軍墓地である。
連合国軍墓地は、三箇所あるが、ここカンチャナブリーが、最大規模のものである。
この地は、かつての、捕虜収容所である。

戦後すぐに、遺骨を沿線各地から集めて、埋葬された。
ただし、アメリカは、遺骨を引き取り、アメリカ人の遺骨は無い。
埋葬されたのは、イギリス、オーストラリア、オランダ人等である。

祈りを捧げる前に、一つ一つの、墓標を見た。
胸が詰まった。
25,26,27,30歳という、年齢が多い。
勿論、年齢に関わり無く、悲劇である。

この、カンチャナブリ墓地の真ん中に、十字架が立つ。入り口から、真っ直ぐ歩くと、十字架に突き当たる。

職員により、毎日手入れされている墓地は、整然として、美しい。所々で、水を自動的に撒く、装置が備えられてある。

私は、十字架の前に立ち、持参した、十字架を掲げて、憐れみの讃歌を唱えた。歌った。
キリエレイソンである。
主よ、憐れみたまえ、キリストよ、憐れみたまえ、主よ、憐れみたまえ。

キリスト教祈りの、最大の祈りは、イエスが、教えたといわれる、主の祈り、そして、この、憐れみの讃歌である。

キリスト教徒にとっての、慰霊は、慰霊という意味が全く、違う。
主イエスキリストに対する、全くの、委ねである。

彼らの信仰とは、主イエスに委ねることなのである。

祈りは、主イエスの御名において、行われなければならない。
最も大切な祈りは、主イエスに対する、引き上げの願いである。
彼らの言う、天国への、引き上げは、主イエスが行う。

また、聖母に対する祈りは、カトリックのものであり、他のキリスト教徒では、認められていないゆえに、アベマリアは、唱えない。

野中は、自分と同じ年の若者が多いことに、愕然としたのか、私の写真を撮ると、一人で、跪き祈っていた。
当然である。
人生の最初に、死ぬのである。
どんな、思いだったかを、少しでも、考えれば、当然の行為である。

個人の運など、吹き飛ぶのが、戦争である。
人類の英知など、どこにあるのかと、私は問う。

左手に、十字架を掲げ、右腕を開き、私は、冥福を祈った。
冥福とは、死後の世界での、幸福である。つまり、主イエスの元に行くことが、幸せなことなのである。

死後の幸せ。
何という、思想であるのか。
ご冥福を祈ります、とは、礼儀上の言葉になっているが、冥福を祈るということは、何者かによって成るという意味である。それが、キリスト教では、神である、主イエスである。
永遠の命を教義とするが、それは、神の内にあるという、天国思想である。

後ろ髪を曳かれる思いで、墓地を後にしたが、私は、ソンテウの中でも、主の祈りを唱えた。

主の祈りに、ついては、省略する。
この祈りについても、古神道の言霊から、意味のあるものである。私の霊学では、何の問題も無い祈りである。

さて、ここで、泰緬鉄道に関した死者の数である。
私は、具合が悪くなった。

マレーシア人、42,000人
ビルマ人、40,000人
イギリス人、6,904人
ジャワ人、インドネシア人である、2,900人
オーストラリア人、2,802人
オランダ人、2,782人
中国人、500人
アメリカ人、131人
日本・韓国人、1,000人

勿論、労働者は、この何倍もいる。生き残った人もいるのである。

1942年、6月、日本軍は、ミッドウェー海戦で、決定的な敗北を帰す。
その後に、決定されたのが、この、死の鉄道といわれた、泰緬鉄道建設である。

実は、イギリスが、1910年に、タイと、ビルマを結ぶ鉄道ルートを計画し、5ルートを調査したが、二年後、地形上の難しさ、風土病と、激しいモンスーンの豪雨のために、計画を断念している。

しかし、日本軍は、イギリスが考えた、一つのルート、クワイ・ノイ川に沿ってスリーバゴダパスを通過するルートで、タイのノンプラドックからビルマのタンビューザヤットへ向かうルートの建設に着手する。

シンガポールからマレー半島を通り、タイを抜けて、ビルマの既存鉄道と、連結して、ビルマの日本軍に、シンガポールからの、物資供給を目的にしたものである。

シンガポールの、陥落により、日本軍は、大きな支配権と、300車両の機関車を含む装備と、機械装置を獲得。
そのような背景での、鉄道建設であった。
約415キロという、鉄道建設である。
そこへ、各地に捕虜の移送をして、ベースキャンプとする。

捕虜だけではない。
労働者として、インドネシア、マレー、ビルマ、中国、インド、タイ人らが、駆り出された。
総勢、20万人である。
完成予定を、一年後の、1943年8月とする、実に無謀な計画である。
通常では、五年の歳月が必要な計画だった。

過酷な労働といっても、ピンとこない。
猛暑の中での、ジャングルの開発、国境山岳地帯を削る作業、追い討ちをかけるように、雨季のスコール、食料、医薬品の不足、日本軍による、虐待、コレラ、マラリアなどの、伝染病、多大な死者を出すことは、解っていたのである。

そして、遂に完成となったのは、1943年10月17日。
建設期間21ヶ月、連続建設期間17ヶ月。
しかし、接合ポイントを一キロもミスするということもあった。また、完成後も、路盤が悪く、脱線が相次いだ。

生き残った捕虜は、日本へ輸送される者、鉄道保全のため、残された者、シンガポールのチャンギ収容所に移送された者の、三つである。

実は、捕虜よりも、労務者と言われた、アジア人労働者たちの方が、過酷な条件の中で、働いたという事実がある。
軍医のいた、捕虜たちとは違い、彼らは、医者がいないために、基礎的な治療も受けることが、出来なかったといわれる。
アジア人労働者の、正確な死者数は、解っていないのが、事実である。
約、七万から九万人であろうと、言われる。

兎も角、内容を知れば、知るほど、具合が悪くなる。

更に、アジア人の労働者は、強制されたという、事実もある。
日本軍の、驕りは、余りある。

勿論、戦争時のことである。
異常事態である。

万が一、戦争に勝ったとして、日本は、立ち行くことが出来たのかと、思う。

戦争に勝ち続けたアメリカが、どんなことになっているのかを、思えば良い。
ベトナムのみ、アメリカは、負けた。
ベトナム人には、特別な、優越意識がある。それがまた、ベトナムの強さである。

アメリカの航空会社の飛行機に乗る度に、そのチェックの厳しさに、辟易する。
今回も、帰りの便での、検査は、最終までで、三度である。

最後の最後に、更に、荷物を検査される。
テロ対策である。

アメリカに殺された、イスラムの人々は、決して、それを忘れない。
水に流すということなど、しない。
いずれ、アメリカを無き物にするために、最後まで、一人になっても、戦うのである。

カンチャナブリーの追悼慰霊の、所作は、今回では、私自身としては、解決しなかった。
さて、どうするか。

旅の間、考えてみようと、思った。

もののあわれについて 200

いかにおぼさるるかあらむ、心細きことどものたまはせて、宮「なほ世の中にありはつまじきにや」とあれば、


呉竹の 世々のふるごと おもはゆる 昔がたりは われのみやせむ

と聞こえたれば、


呉竹の 憂きふししげき 世の中に あらじとぞ思ふ しばしばかりも

などのたまはせて、人知れずすえさせたまふべき所などおきて、「慣らはである所なれば、はしたなく思ふめり。ここにも聞きにくくぞ言はむ。ただわれ行きていていなむ」とおぼして、十二月十八日、月いときよきほどなるに、おはしましたり。


宮様は、どのように、思し召しされるのでしょう。
心細いことを、仰せになって、「やはり、世の中に、生き通せないのではないか」と、お書きになっていますので、


くれたけの よよのふるごと おもほゆる むかしがたりは われのみやせむ

何代も、語り継がれてきました、故事を思わせますが、私と宮様の、思い出は、私一人で、思い起こして行くことが、できるでしょうか。

と、申し上げますと、


くれたけの うきふししげき よのなかに あらじとおもふ しばしばかりも

呉竹の、節のように、疎ましいことの、多い世の中です。
生きていたくないと、思うのです。

などと、詠まれて、密かに、女を置くべき、場所を決められて、「慣れないところですから、きまり悪く思われるでしょう。邸の者も、聞きづらいことを、申し上げるでしょう。今は、私が行き、女を、連れてきましょう」と、思し召して、十二月十八日、月が、大変美しく、清らかな夜でしたので、宮様は、女の家に、お出でになりました。


例の、
宮「いざたまへ」とのたまはすれば、今宵ばかりにこそあれと思ひてひとり来れば、宮「人いておはせ。さりぬべくは心のどかに聞こえむ」とのたまへば、「例はかくものたまはぬものを、もしやがてとおぼすにや」と思ひて、人ひとりいて行く。


いつものように、宮様は、「さあ、おいでなさい」と、仰せになりましたので、女は、今宵だけの、外出だとばかり思い、車に、一人で乗りますと、宮様は、「誰か、人を連れてお出でください。許されることならば、落ち着いて、ゆっくりと、お話をしましょう」と、仰せになります。
「いつもは、誰か、連れよとは、仰せになりませんのに、もしや、このまま、邸に、落ち着くことになるのでは」と、思い、侍女を、一人連れて、参りました。


例の所にはあらで、忍びて人などもいよとせられたり。さればよと思ひて、「なにかはわざとだちても参りらまし。いつ参りしぞとなかなか人も思へかし」など思ひて、明けぬれば、くしの箱など取りにやる。


いつもの所ではなく、密かに、侍女などを置いて、住みなさいと、いうような風情に、しつらえてありました。
やはりと、思い、「何か、わざと、仰々しく邸に、参上する必要がありましょうか。人が、いつ、邸に、上がったのかと、思われた方が、いいと、思いました」
夜が、明けましてから、家に、櫛の箱など、取りにやらせました。


宮の歌
呉竹の 憂きふししげき 世の中に あらじと思ふ しばしばかりも

この歌は、すでに、憂鬱症である。

呉竹のように、つまり、竹の節のように、憂き事の多い、世の中というのである。
あらじと思ふ
ここに、いたくないと思うのである。

しばしばかりも
つかの間でも、いたくないという。

ほとほと、現実の生活が、嫌だというのだ。

貴族社会の中にあっての、発言である。

雅の精神にあって、退廃し、腐敗する、貴族社会の有様を、端的に言う。
一見して、戦の無い、平和な時代である。
しかし、危機意識皆無の中での、貴族の生活に忍び寄る、危機的意識を、宮は、持っていた。
このままでは、駄目になる。
何が、駄目になるのか。
それは、自分自身である。

当時、貴族の間に、流行していた、浄土信仰でも、宮の心は、救われなかったということである。

何をして、憂い心を、見つめていた。
少しの救いは、女との、恋である。
しかし、それも、すべてを、救うものではなかった。

すでに、現代に続く、病を、このこのから得ていたのである。

生きることは、憂いことなのである。

その時代の中で、源氏物語が、生まれる。
女房文学と、言われる。つまり、女が、書くもの。
当時は、女が書くものは、正式に認められるものではなかった。女子供のもの、それが、平仮名だった。

ところが、どうであろう。
平仮名によって、日本人の心の有り様である、もののあわれ、が、表現されるのである。

2008年05月02日

慰霊旅日記。4

バンコクへの、帰りのバスは、エアコン高速バスである。
98バーツ。ミニバスより、ずっと安い。

ソンテウが、バスターミナルに到着して、チケットを求めると、15分でバスが出るという。
とっても、効率のよい時間配分であった。
それもこれも、あの、バイクのおじいさんの、お蔭である。

タイ人というのは、実に、優しい。特に、田舎に行くと、そうだ。
都会のタイ人は、バンコクのことであるが、残念ながら、狡すからい。
兎に角、観光客には、ボルのである。タクシーは、もとより、ソンテウ、トゥクトゥクという、乗り物に至るまで。

バンコクには、多くの田舎から、出稼ぎ、また仕事を求めて、出てくる。
何人かの、イサーンの出身の人に聞いた。
騙され続けたという。
騙されて、子供まで産み、その子を、田舎に置いて、働いている者もいる。

一人の女は、言った。
バンコクの男は、セックスだけは、上手だが、後は、何も無い。
信じることは、できない、と。

矢張り、イサーン出身の、ボーイに尋ねた。
何が目的かと。
お金だと、言う。
金さえあれば・・・である。

この旅は、南部タイに行く予定だが、そこで聞いた話は、タクシン元首相が、遊説に来たら、殺すという人の多いことだった。

それは、後で書く。

エアコン高速バスは、乗り心地が良かった。
あっという間に、バンコクに着いた。
そこから、タクシーに乗り、宿のある、カオサン通りの外れに行く。
最初のタクシーからは、断られた。
場所が、解らないということだった。しかし、私たちが、地図を広げると、解ったようで、200バーツで行くと言う。
私は、即座に、断り、前にいた、トゥクトゥクに、交渉した。
100バーツで行くと言う。
本当は、それでも、高い。地元の人なら、半額である。

カオサン近くのゲストハウスに、戻った。
最初のゲストハウスは、一泊、300バーツであった。約、千円である。二人での料金である。
ところが、一泊しか、予約しなかった。そのまま、そこにと思ったが、部屋が空いていないということで、探したゲストハウスが、一泊、600バーツだった。約二千円である。

エアコン、温シャワーで、ダブルベッドである。
部屋は新しい。
おばさんの、呼び込みで、決めた。
心地よい部屋だった。二倍の料金だけはある。

こうして、私は、この年で、安宿に泊まるという、楽しみを覚えた。
普通のホテルでも、大層な部屋である。特に、観光客は、高級ホテルに泊まる。
泊まるために、大金を使う趣味はない。

そして、何より楽しみなのは、タイマッサージである。
一時間、200バーツが相場だ。約、700円。
いつものことだが、下半身、足のマッサージが、巧い。
ゲストハウスの前の、マッサージ店に入った。

一時間のマッサージを受けて、終わる頃、マッサージ嬢から、オイルマッサージを勧められる。
それが、実に、上手に勧める。
次は、オイルマッサージね。
えっ、と、思うが、巧いので、頷いてしまう。

二階に、連れられて、一つの部屋に入る。
個室で、全裸になる。
これが、気持ちよい。

うつ伏せになり、足裏から、オイルマッサージが、はじまる。
うっとりとして、快感である。
本当は、オイルマッサージが、嫌いであるが、指圧のように、押しつつ、進むので、納得する。

仰向けになり、股間を、タオルで、覆って、全身である。
これは、若い男なら、生殺しである。
どうしても、股間が、反応するだろう。

ただし、通常のマッサージ店では、それは無い。
しかし、である。客によっては、マッサージ嬢が、勧める。
反応していたら、確実であると、思う。
千バーツで、抜くというものだ。

その手の、マッサージでは、四千バーツ程度が、相場であるから、千バーツは、安い。
ただし、五分と、言われる。
五分以上になると、追加料金が掛かるのだろうか。
私は、経験していないので、解らない。

内緒で、五分で、云々と、言われて、私は、友達が、待っているから、明日来ると、言った。すると、明日の何時頃かと、聞かれる。明日は、南部タイに行く予定であるが、夕方と言った。すると、夕方の何時かと、問われる。
営業熱心である。
六時半と、言うと、納得した。
勿論、その時間は、船の中だった。

野中も、同じように、足マッサージをして、終わると、タイマッサージに、誘われて、丁度、マッサージの途中である。

野中は、私との関係を、根掘り葉掘り、聞かれたらしい。
それは、マッサージ嬢が、野中を狙っていたからである。
若い日本人の男は、カモになる。

日本では、社長だが、タイに来た時は、友達らなるというと、二人は、ゲイかと、聞いたらしい。
どちらが、どっち役をするのだと、詳しく詮索する。

タイでは、ゲイというのは、当たり前の感覚である。
カトゥアイという、女装男性が、市民権を持つ国である。

野中は、何と、本当は、カトゥアイだと、言ったというから、笑った。
それで、嬢と、仲良くなり、夜には、地元の人が買出しに行く、市場にまで、連れて行ってもらい、お土産まで、貰った。

南部に行くと言うと、南部は、物価が高いからと、色々と、お菓子や、何やら持たせてくれた。
とてつもなく、甘いお菓子で、一度口にして、そのままになり、ついに、バンコクに戻る時には、捨ててしまった。

鼻のもげるような、辛さという感覚があるが、舌が痺れるほどの甘さである。
何せ、緑茶に、砂糖を入れる国である。

苦味の中にある、緑茶の甘さというものを、理解出来ないのである。
つまり、大雑把な、味覚なのである。

勿論、野中は、私が寝た後で、出掛けていた。

ついでに、タイの新年の御祭り、ソンクランについて書く。
夜中にバンコクに着いて、翌朝、私は、コーヒーを飲むために、ミニホテルに出た。
そして、朝の屋台の準備の中を、水を買いに歩いた。
すると、鉄砲水を掛けられた。
見ると、じいさんである。

水鉄砲を持って、ヒューヒューと、私に掛けてくる。
最初は、頭のおかしな人かと、思ったが、それが、次第に、誰もが、水を掛けるようになる。
そして、昼である。
歩いていると、突然のように、水を掛けられる。
しまいに、バケツで、水を掛ける者もいる。
更には、背中に、タンクを負い、機関銃のような水鉄砲で、誰彼かまわずに、水を掛ける。

歩ける状態ではない。
何と、欧米人たちも、それを楽しんで、やるのだ。
驚いたのは、泥を、擦りつけられた。

要するに、水を掛けるという意味で、祝うという、行事なのである。
それは、チェンマイから、始まったと言われる。

毎年、タイ全土で、死者五百名を、越えると言われる。
泥酔して、車に乗り、事故死するから、はじまり、水水水で、川に、泥酔して、飛び込み、そのまま、あの世に行く者もいるという。

私が、カンチャナブリーに行く日は、バンコクだけでも、百名の死者が、出たと、旅行代理店の女が言った。

死ぬまで、やらなくてもと、思うが、誰も、止められない。

カンチャナブリーでも、子供たちに、バケツで、水を掛けられそうになった。
その時、「私は、王である」と、言って、止めさせた。

突然、浮かんだ言葉である。
タイは、王様崇拝の国であるから、突然出た。

汗だくの上に、水では、たまらない。

タイ市民の、無礼講の日なのであろう。
一年の、憂さ晴らしをするのである。

仏様に、水を掛けて、祈願するという作法が、この水掛祭りに、発展したと思える。
四月は、仏陀誕生の月である。
潅仏会というように、日本でも、仏様に、甘茶を掛ける、注ぐのである。

それにしても、私は、Tシャツ二枚も、水を掛けられた。

その、ソンクランが、夏の始まりである。
タイは、凄く暑いのと、暑いのと、少し暑い、という季節感である。

東北部や、北部では、寒い季節もあるが、矢張り、タイは、熱帯地域である。

次からは、ソンクランは、避けたいと思う。

慰霊旅日記 5

タイ、南部の、スラー・ターニーは、丁度、南部の真ん中にある。
その対極、西は、有名なプーケットだ。

私たちは、エアアジアという、国内線で、スラー・ターニーに向かった。
チケットは、キャンペーン価格で、約2500円という、安さである。

しかし、これが、きつかった。
空港から、町に出るには、一時間以上もかかり、接続のバスも少ない。
降りた時、空港の前に止まっていたバスが、サムイ島行きのバスである。

要するに、バスと船との、チケットなのだ。
本当は、スラー・ターニーに一泊してから、行き先を決めるはずだったが、面倒臭いので、そのバスに乗り込んだ。
つまり、サムイ島に、行くことにした。
それが、何と、飛行機、バス、船と、九時間の、移動になった。

二日後に、それが、腰にきて、痛みだしたほどだ。

港のドン・サクという場所まで、二時間近くも、かかった。
そして、船で、一時間半である。

体が、ゆらゆらした。

サムイ島は、野中が、大学生の頃に来ていた。
八年ほど前である。
その時に、泊まった、ゲストハウスを目指したが、港からは、ミニバスで、30分以上もかかった。
本当に、乗り物の、一日だった。

サムイ島は、多くのビーチがある。
私たちが向かったのは、ポプットビーチである。

それが、幸いした。
後で、島の繁華街がある、チャウエンビーチに出掛けて、愕然とした。
東京の青山辺りにあるような、店店店である。

ポプットビーチの、ゲストハウスは、ワンベッドの部屋が空いていた。
ダブルベッドの部屋である。

一泊、600バーツである。
野中が、驚いた。
以前は、200バーツだったのだ。

コテージになっていて、プライベートな感覚であり、部屋は良かったが、価格の上昇に、野中は、時の流れを、痛感していた。

そして、ゲストハウスの、何から何まで、高くなっていた。
水も、四倍である。
要するに、海の家感覚の、値段である。

実は、私も、15年くらい前に、お弟子さんから、コサムイに、行ってみてください。いい、島ですよと、言われていた。
それを、思い出していたが、その時の、お弟子さんの言う島ではないことは、確かだった。

ただ、目の前のビーチが、救いだった。

朝明けの、光は、夕日以上に美しいものだった。
朝の早い私は、その光景を楽しんだ。

到着した時間が、遅かったので、翌日は、のんびり、ゆっくりした。
昼の食事だけは、ビーチを歩いて、魚を食べに行った。
そして、屋台の店から、大量に水を買った。

一本分で、四本買えるのである。
当然、安い店から買う。ついでに、ビールも買った。
ビールの値段も、二倍以上だった。

野中が、昔を懐かしむので、物価が、高くなったんだと、慰めた。
辺りに、多くのゲストハウスや、高級ホテルも、建ったのだ。
猛烈に、島の様子が変化したのである。

私は、久々に、海に入った。
そして、頭を洗った。
海水で、体を洗うことは、清めになる。
海水に、浸っているだけで、体の毒素が、抜ける。

一日を、そうして、過ごした。
部屋には、エアコンが無いから、兎に角暑い。扇風機だけである。
夜も、暑くて、どうしようかと、思ったが、疲れたせいか、眠ることが出来た。

ベッドには、シーツ一枚である。
その、シーツを被って寝るのだ。それで、十分である。

朝、日の出る前に、涼しくなるのが、心地よかった。
そして、朝日の赤い輝きである。

窓も、ドアも、開け放して、風を通す。
二日目に雨が少し降った時は、本当に、心地よかった。

その雨が止み、夕方、私たちは、島最大の繁華街のある、チャウエンビーチに向かった。

六時を過ぎると、すべての、乗り物の料金が倍になる。
50バーツで乗れるソンテウが、100バーツになるのだ。

チャウエンビーチには、驚いた。
バリ島の繁華街である、クタ地区よりも、完成度の高い街になっていた。
これが島なのかという、驚きである。
更に、レストランの並びは、渋谷、青山辺りのものである。
洗練された、ビル、店舗である。

野中が来た当時、ゲストハウスの主人は、馬鹿にされたという。
こんな所に、ゲストハウスなど建てて、誰が来るのだと。
しかし、五年を過ぎると、次々と、ゲストハウスが建ち始め、更に、大型ホテル建設である。そして、高級リゾートホテル。

ある時から、サムイ島に目をつけた、不動産業者が、島の人にとっては、高く、しかし、不動産業者にとっては、タダのような、価格で土地を買いあさった。
そして、バンコクの金持ちが、ホテル業界に参入するという、筋書きである。

国を上げての、観光地化である。
誰の、策略か。
私は、全く、興味を持てない島になった。
島の文化が無い。全く、それらしきものが、感じられない。

島の信仰対象を尋ねると、男根と、女陰の岩があるというのみ。
じいさん岩と、ばあさん岩と言う。
そんなはずはないと、思うが、誰も知らない。

申し訳程度に、ピーの祠があり、ビッグブッダの像もある。そのビーチを、ビッグブッダビーチともいうが、それだけである。

何も無い。
あるのは、小奇麗で、料金の高いレストランである。
ちなみに、日本食のレストランに入った。
日本の料金と、大して変わらない。しかし、勿論、日本の料理とは、比べられない程、質は落ちる。

結果、地元の人の屋台や、食堂が一番良かった。

島の人口は、増えたが、それらは、皆、出稼ぎである。
多くは、東北部、イサーンから来た人が多かった。
私の泊まったゲストハウスの浜で、マッサージをしていた女性もイサーンの出身である。母親と、妹との、三人暮らしである。

そして、そのマッサージの小屋の前に、遊びに来ていた、中学生の女の子も、イサーンから、やって来ていた。兄弟たちと、一緒に暮らす。

子供服は、この子を通して、イサーンからやって来た、子供たちに、上げることにした。

最初は、スラー・ターニーの郊外の子供たちに、配ろうと思っていたが、大方、その子に上げることになった。

話を聞いているうちに、段々と、環境状態が解り、イサーン出身の人々が住む、バラック小屋の多くが建つ、一角があり、そこに住むということだった。
家も無い人々は、まず、そこから、生活が始まる。

子供服を、持ってきたが、必要かと、尋ねると、頷く。
そこで、部屋に連れて、服を見せた。
彼女の背格好に合うものが多く、一つ一つに、目を輝かせた。
そして、友達も、沢山いると言うので、それではと、一つのバッグに、私は詰め込んだ。

更に、小さな子供は、いるかと尋ねると、頷く。一つ一つを見せると、いるいると、言う。
幼児の靴も、三足あり、これは、どうかと、尋ねると、それも、いるという。
彼女の頭の中に、皆の顔が、浮かんでいたのだろう。

こうして、突然の子供服支援が、整った。

決して、彼女の服装は、汚くなかった。
黄色のTシャツに、短パンを穿いていた。
女の子らしく、清楚に、美しかった。
持っていた、白い服などは、彼女を、より可憐に美しく飾る。私も、それが、嬉しかった。

バッグ一杯に詰めた衣服を、彼女は、持って行った。
野中が、途中まで送った。

すぐに、兄弟たちのところに、持って行ったという。

私に、支援してくれた人の顔が、浮かんだ。
喜んで貰ってくれる人がいることを、一緒に、喜んでくれるだろうと、思った。
一度、手を通した物を、他の人に上げるのは、抵抗があるという人たちだ。
日本では、そういう意識になっている。
それでは、喜んで貰ってくれる人のいる所に、持って行こう。それが、私の単純な行為である。

これは、実は、善行でも何でもない。単なる、付けたしの行為である。もし、善行だと思えば、それは、実に難しい行為である。悪行の方が、遥かに、易しい。
彼女は、私に、コープクンカー、ありがとう、と言った。そして、私も、ありがとうと、言った。

善を行う行為は、悪を行う行為以上に難しいことを、知らないと、ボランティアという行為は、意味を成さない。

ただ、私は、一言、はっきりと、私は、日本人ですと、言った。
口には、出さないが、貰ってくれて、ありかとう、だった。

世の中には、多くの指導者、指導的立場の人がいる。
しかし、それが、指導者であり、指導的立場であると、思わせることから、堕落が始まる。

その存在を、無にする、つまり、風にような存在になることの出来る人こそ、指導者に、相応しい。
そういう、無名の人の行為により、世界は、平和に向かうことを、私は知っている。

一人一人が、神の子である、仏である、菩薩である等々の、妄想ではない。
人間として、素晴らしいモノになること。

あの、私をバイクに乗せてくれた、おじいさんは、単なる知らない人だった。
偶々、私を乗せてくれた。
私を降ろすと、さっと、風のように去った。

それは、心地よい風だった。
それでよい。

私も、そのようになりたい。
ただ、日本人であることのみ、伝えたい。

2008年05月03日

神仏は妄想である。73

ロトのおじのアブラハムは、三つの「偉大な」一神教すべての始祖である。家父長的な地位にあるアブラハムの場合、神に比べていくぶんではあるが役割モデルとして受け止めづらくなっている。しかし、どんな現代の道徳家が彼に従いたいと望むのか? 長い生涯の比較的早い時期に、アブラハムは飢饉を耐え忍ぶために、妻のサライとともにエジプトに行った。彼は妻のように美しい女性はエジプト人が自分のものにしたがり、そのために夫である自分の命が危険にさらされるかもしれないことに気付いた。
ドーキンス

以下、長くなるので、私が、簡潔に書く。

そこで、アブラハムは、妻を、妹として、偽らせる。
サライは、ファラオのハーレムに入り、その結果、アブラハムは、ファラオの寵を受けて、金持ちになる。当然、妻は、女として、扱われた。
神は、その馴れ合いを、許さず、ファラオと、その家に、疫病を与えた。
ドーキンスは、何故、アブラハムにではなく、ファラオにかと、疑問符である。

当然、憤慨したファラオは、何故、嘘をついたのか、訳を知りたいと言う。
サライを、アブラハムの元に返して、二人を、エジプトから追放した。
これは、創世記の、第12章にある。

そして、また、同じことを、ゲラル王アビメレクの時代に、行う。
創世記、第20章にある。

よく似た、記述は、テキストが信用できないものではないかと、ドーキンスは言う。

アブラハムの物語におけるこのような不愉快なエピソードも、彼が自分の息子イサクを犠牲にした悪名高い物語(イスラム教の聖典も、アブラハムの別の息子イシュマエルについて、同じような物語を述べている) に比べれば、ほんの微罪でしかない。神はアブラハムに、久しく待ち望んで生まれた息子を焼き尽くす献げ物として供えるように命じた。アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛って薪の上に載せた。そこへ天の使いが劇的に登場し、土壇場の計画変更の報せをもって割ってはいる。
ドーキンス

この物語は、私が、カトリック教会に、通っていた時に、アブラハムの信仰の深さということで、何度も、毎年、少なくても、一度は、聞かされていた。

太祖の一人としての、アブラハムは、聖人を超えた、神に近い人物の一人だった。
クリスマス前の、待降節という、四週間にわたる、時期の最初の人物が、アブラハムである。

ちなみに、ムハンマド、イスラムの開祖も、このアブラハムの信仰に、回帰することを、掲げて、イスラムを、作った。
私の、イスラムについて、を、参照してください。

結局のところ、神はたわむれにアブラハムを「誘惑」し、彼の信仰を試していただけだった。現代の道徳家なら、子供がそのような心理的トラウマからどうしたら回帰できるのかという危惧を禁じえない。現代の道徳基準では、このような恥ずべき物語は、児童虐待の実例であると同時に、二つの非対称的な力関係の板ばさみとなって起こったイジメの実例でもあり、「私は命令に従っていただけです」というニュンルンベルク裁判の弁護記録に残る、有名な台詞の最古の用例である。なのにこの伝説は、三つの一神教すべてにおいて、偉大な基本神話の一つとされているのである。

・ ・・もう一つは、もし文字通りの事実ではないとしたら、この物語を私たちはどう受け止めるべきなのか、ということだ。寓話として? だとすれば、何のための寓話なのか? 称賛すべきことではないのは確かだ。道徳的教訓として? しかし、この恐るべき物語からいったいどんな種類の教訓が引き出せるというのだ。思い出してもほしいのだが、いまここで私たちが確認しようとしているのはまさしく、事実の問題として、聖書は道徳の根拠や手本ではないということにほかならない。
ドーキンス

そして、もし、聖書の中から、道徳的なものを、取り出すとしたら、何か、独立した基準が必要だという。
その基準は、聖書から、くるのではなく、私たち、すべてが利用できる、規準であろうともいう。

追い討ちをかけるように、ドーキンスは、次の物語を、言う。
士師記、第11章である。

軍隊の指揮官エフタは、もし神がアンモンの人々に対する勝利を、保障するならば、「私が帰ったとき、私の家の戸から出てきて、私を迎えるものは誰であれ」その者を、焼き尽くす捧げ物として、必ず捧げるという誓いをする。
そして、非常に多くの人を、殺して帰った。
出迎えたのは、一人娘だった。
娘は、それを、承諾したが、処女であることを、嘆くために、二ヶ月、山に入ることを願う。そして、二ヵ月後に、父親によって、焼き殺される。

このような、野蛮な物語は、聖書以外に無いと、言ってもよい。

罪の無い者を、生け贄にするという、根性は、どこからのものか。

ここでも、女は、焼き殺されるが、男は、残るということである。
これは、私の見解である。
女は、家畜と同じ扱いなのである。
これが、不思議でしょうがない。

この、神もどきは、女嫌いで、同性愛を、憎むのである。
何故。
心理学では、答えられるはずである。

大量虐殺の話が、あまりに多いのも、気になる。

そのまま、司祭や、牧師の話を信じているうちは、いいが、矢張り、どこか、おかしいと気付く時、それを、宗教家は、信仰の、揺らぎだと言う。また、信仰が、確固たるものになっていないと、言う。

実は、疑問を、持つことが、通常の神経である。
疑問を、持たずにいると、簡単に、テロリストになる。

スペインが、カトリックの名で、南米で殺した人の数は、一億人である。
清教徒が、アメリカインディアンを、殺しつくして、アメリカを、建国した。
大量虐殺が、当たり前なのである。

オーストラリアでは、アボリジニの、先住民族を、無きものにしようとしたが、生き延びている。
漸く、今年、オーストラリア政府は、アボリジニに対して、謝罪した。
謝罪して、許されるものではないが、謝罪した。
何もとりえの無い、オーストラリアは、アボリジニ文化を持って、オーストラリアだといが、現在、アボリジニに対する政策は、実に、みすぼらしいのである。
聖書を、奉ずる民族の有り様を、見る、思いがする。

自戒を込めて、日本の場合を見る。
琉球に対する、薩摩藩の有様は、琉球を、地獄に突き落とした。
沖縄である。
アイヌに対する、和人の有様は、どうだったか。
無情な差別である。
しかし、皆殺しは、なかった。
それでも、対応は、甚だしく、無礼なものだった。

生殺しも、切ないものである。
日本は、謝罪外交で、有名であるが、琉球と、アイヌに対する、謝罪は、聞いたことが無い。

勿論、謝罪して、済むことではない。

沖縄や、アイヌの人が、独立したいと言えば、独立させるべきである。
沖縄と、北海道を、返すといい。

限りなく、不可能ではあるが、その位の、気持ちを、持っていいと、思う。

さて、聖書である。
野蛮極まりない、記述の多い、書物であるということ。
道徳の、規準など、見いだせないということ。

自分の選んだ民がライヴァルの神に気を引かれたときにつねに見せる、神の途方もない激怒は、恋愛における最悪な種類の嫉妬とこれ以上はないというほどよく似ており、現代の道徳家に、これは到底役割モデルにはできないという印象を与えるにちがいない。
ドーキンス

続けて、旧約聖書を、検証してゆく。

神仏は妄想である。74

アブラハムよりむしろモーセのほうが、三つの一神教信者にとっての役割モデルになれそうである。アブラハムは最初の家父長であったかもしれないが、もし誰か一人を、ユダヤ教およびそれから派生した宗教の教義上の始祖と呼ばなければならないとすれば、それはモーセである。
ドーキンス

ここで、実に、不思議だと思うことを書く。
いずれにせよ、聖書の神は、ユダヤ人、セム族の神なのである。
それが、何故、世界宗教にまで、発展し、今では、全世界を、救うなどという、巨大宗教になったのかということである。

例えば、イスラム、アラブの始祖は、アブラハムの、妾の子である、イシュマエルである。
彼は、聖書の中で、はっきりと、野蛮な人種とされている。

そして、ユダヤの十二支族は、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネの、子孫である。それが、ユダヤ教である。

新約の、イエスから、キリスト教が、生まれたが、それも、ユダヤ人の宗教だった。

何故、ユダヤ人の宗教、神を、このようにして、信じて、拝むようになったのか。
一民族の、神を、すべての人の、世界の人の、神とすることには、無理があると、思うのである。

侵略して、キリスト教、イスラム教を、布教するということは、理解するが、例えば、日本の場合は、全く関係が無いのである。

ところが、カトリック、プロテスタント、そして、日本の新宗教の中でも、聖書の神を、すべての人の神として、喧伝するのである。

本当に、内容を知ってのことかと、思うが、知っても、知らなくても、どうでもよくて、兎に角、それらしき、神というものを、拝みたいのか。

私の場合は、小学四年の時から、学校の図書館から、伝記物を借りて読むようになり、その中に、キリスト伝もあり、更に、六年生の時に、犬飼道子の、聖書物語を読み、感動して、中学の時に、近くのカトリック教会に行った。本当の聖書を、読みたかったからである。

本当の聖書を、手にしたのは、バルバロ訳だった。
それを、暗記するほど、読んだ。
そして、15歳の時に、洗礼を受ける。

熱心な、カトリック教徒だった。
しかし、それから、勉強などせず、他の宗教の本を、読むようになる。
キリスト教との、相違を知るためである。

ゆるやかに、変化が、起こったのは、二十歳を過ぎた頃である。

感動したのは、文学としての、鎌倉仏教である。
見事なものだった。
私は、多く、文学を、鎌倉仏教の開祖たちから、教えられた。

仏教経典も、読経するようになる。
宗派、問わずである。

疑うことなく、邁進した。学ぶことにである。

更に、新興宗教の、経典、聖典様々なものを、読んだ。
更に、今で言えば、心霊研究である。
こういう変転を、過ぎている。

さて、何故、ユダヤ人の神を、拝むのか。

一つの例を、上げる。
イギリスの産業革命により、時代が変わったと、教えられた。
それは、見事なものだった。
授業では、イギリスの素晴らしさを、学んだ。
そこから、日本も、明治期に、多くを学び、新しい時代が始まったと、ここまではいい。

それから、イギリスの産業革命の、裏を知ることになる。
多くの、植民地からの、搾取により、成ったものであること。
大英帝国は、単なる、搾取の国である。それも、甚だしい、人種差別を行い、黒人を奴隷として、売り渡していた。
イギリス、オランダ、ポルトガル、スペイン等々、皆、植民地からの、膨大な利益により、成ったのである。
それはそれは、とんでもない、人権無視の様である。

さて、そこである。
未開の地に行く。その時に、必ず同行したのが、宣教師である。
まず、神の教えを、伝えるべくの、行動である。
植民地政策に、信仰は、欠かせないのである。

キリスト教が、絶やした民族の数は、数知れない。
従わない民族、部族は、皆殺しにしたのである。

そして、更に、ローマ法王の、物という意識である。
豊臣秀吉が、それに、気付いての、キリシタン禁止であった。
このままでは、ローマの属国にされると、政治家の勘である。

もし、キリシタン禁止をしていなければ、今の日本は無かったかもしれない。
ローマ法王を、戴く国になっていたかもしれない。

要するに、ユダヤ人の神を、拝ませるべくの、行為があったということである。
勿論、武力、暴力によりである。

南米は、大半がカトリックである。
それは、上記のことゆえである。

未開の部族に、正しい神というものを、伝える使命を、宣教師は、持ったのである。
勿論、支配のためである。
宗教による、支配、それは、政治による支配に、成る。
政教分離など、有り得ないのである。
今も、そうである。

日本統治時代にも、日本は、神社などを、作ったし、それを、拝ませたが、ユダヤ人の神の教えとは、根本から違った。
根こそぎ、その地域の伝統を、壊滅させることはなかった。
また、日本の神の総称、天照大神を、布教、宣教するという、アホも、いなかった。

ただし、仏教の中には、アホがいて、少しばかり、布教をしたものもいる。

今でも、仏教国といわれる、国に行き、仏教の、それも偽物の仏教を、布教、宣教する、馬鹿馬鹿しい、新宗教もある。

武力と、暴力によって、ユダヤ人の神を、拝むように、仕向けられた多くの民族、部族である。

今では、その信仰が、浸透して、神もどきの神を、信仰し、拝んでいるという状態である。
ちなみに、日本の場合は、キリスト教徒は、人口の3パーセントである。
多くも、少なくもなく、推移している。

クリスチャンで、神社の神主をしている者もいて、驚くが、神社は、お勤めである。
仕事の感覚で、ある。
それが、御祓いなどをするから、終わっている。

何を、どう説教しても、キリスト教の、教えには、無理がある。
ユダヤ人の神を、一部族の神を、拝むというのは、どう考えても、おかしい。
勿論、彼らは、世界人類の神と、信じている。

その神が、どんな神かを、知らないのは、聖書を、読んでいないからである。

聖書を、読まずに、信じているということは、考えられないが、読んでいないのである。これは、致命的である。

ちなみに、クリスチャンに、旧約、新約聖書の、すべてを、読んだのかと、尋ねてみるとよい。ほとんどが、読んでいないだろう。

また、それほど、主イエスに、命懸けの信仰を持っているとしたならば、新約聖書など、すべて、暗誦できるはずである。

しかし、私は、未だかつて、そんな、キリスト教徒を、知らない。
これからも、知らないだろう。

私の方が、暗誦しているはずである。
よくよく、言っておく、知らないものは、語れないのである。

2008年05月04日

慰霊旅日記。

サムイ島に、三泊して、スラー・ターニーに戻った。

そういえば、船である。
最初に乗った船は、伊勢丸だった。
伊勢湾を走っていた船である。
所々に、日本語が書かれてあり、最初は、自然に感じたが、野中が、これは、日本の船だと言うのを聞いて、唖然とした。

何と、伊勢神宮の地図まで載っているのである。

そして、帰りの船も、日本のものだった。
名前は忘れたが、救命胴衣、便所などの日本語が、残っていた。
タイに、払い下げられたものであろう。

ドン・サクという、港から、バスに乗り、スラー・ターニーの町に出る。
ホテルは、おおよその目安をつけておいた。
バスは、時々停車して、お客を降ろした。
私たちは、いつ降りていいのか解らない。
何度目かの時に、車掌に尋ねられたので、ホテルの名を言うと、降りろと言う。
そこから、トゥクトゥクに乗って、行けと言って、トゥクトゥクを、つかまえてくれた。

ホテルは、一泊、400バーツである。
安い。広い部屋で、エアコンが効き、快適である。
ここに、二泊して、バンコクに戻ることにした。

タイは、日本の、1,5倍の広さがある。
タイといっても、広いのだ。
南部タイの料理は、醤油ベースで、実に、口に合う。

普通、屋台の食事の定番は、麺類だが、スラー・ターニーの、屋台の定番は、雑炊である。
お湯の中に、ご飯をいれて、好みの具を選んで入れる。
魚、エビ、イカ、鳥、豚、牛肉などある。
値段は、50バーツからである。約、170円程度。

それで、腹が一杯になる。
薄味で、スープの出汁は、入れた具で決まる。
あとは、好きな調味料を入れて、好みで、食べる。

麺には、米の麺もあり、冷麺に似た感触である。
きし麺のような形で、それを焼き蕎麦のようにして、食べる。

中国寺院や、福建省会館などあるので、中国系が多いのだろう。
料理も、それに、影響されている。

町の西側には、タピー川が流れていて、その川沿いに、屋台が多く、物売りの店も多い。
ホテルも、タピーホテルだった。
ホテル前の道から、一直線で、川に出る。

私たちは、川沿いに出た。
そこで、バナナや、パイナップル、そして、野中は、ドリアムという、名物果物を買った。
ドリアムという果物は、実に臭くて、しかし、美味であるとのこと。
の、ことと、いうのは、私は、食べなかったからだ。
臭すぎた。

川沿いの、地元の喫茶店に入った。
そこで、アイスクリームを注文する。
家族総出で、切り盛りしていた。

食べ終わり、そろそろ、帰ろうと、立ち上がると、そこの、女将さんが出て来た。
こんにちはー
日本語である。
英語も、ペラペラ。

どういう訳か、兎に角、話をしたがる。
そして、登場したのが、南無妙法蓮華経である。
驚いた。

聞けば、こういうことだった。
彼女の、母親が親しくしていた、日本女性がいた。タイ人と、結婚して、この地に来た。
その女性が、創価学会だった。
母親は、その女性に、勧誘、つまり、折伏されて、会員になった。
そして、お題目の書かれた、ご本尊を、お祭りした。
今、それを彼女が継いで、店の上二階に、ご本尊があると言う。

神仏は妄想であるで、詳しく書くので、簡単に言うが、タイという、仏教国に、日本語の、南無妙法蓮華経という、題目を伝える、教えるという、愚劣極まりないことをしているのである。日本の恥である。

彼女は、更に、方便品第二を、日本語で、唱えた。
にじせそんじゅうさんまい
私は、絶句した。

漢訳されたものを、漢語のままに読経して、平然としていてられる、神経である。
彼女に罪は無い。
教える者に、罪が有る。

更に、池田先生と言うのである。
きっと、日本人の私たちに、得意になって言ったのだろう。

笑顔で、聞くしかなかった。
本当は、タイの国の仏教が、ブッダに近いものですよ、と、教えたかったが、気分を害しては、悪いと、黙っていた。

ただ今、タイでは、日本の新興宗教の中でも、創価学会と、真如苑が、気勢を上げている。
真如苑では、バンコクの、有名寺院から、仏舎利を頂いたというが、金である。
何も、縁もゆかりも無いところに、仏舎利など、渡るはずがない。

信者から、集めた金を、ふんだんに使い、宗団の価値を高めようとする。
世界、192カ国に、広がる学会というものも、皆々、金である。
金をばら撒き散らして、人心を買い、布教の足がかりにする。

そして、投資した分を、今度は、新会員から、取るのである。
信者が、増えれば、金が集まる。
勿論、金を出す信者は、喜んで、騙されるから、終わっている。

ご供養という名の、搾取である。
徳を積むと、教えて、金を取ることを、憚らないのである。

私と、野中は、ホテルへの帰り道、沈黙していた。

漢訳された、仏典を漢語で、唱えさせているという、恥に、恥じ入った。

霊界に、仏魔界という、世界がある。
仏法に迷った者が行く、霊的空間である。
名僧、高僧、そして、それらの信者が、着いてゆく。一々名を上げないが、一度は、そこへ行き、迷いに目覚めた者、気付いた者は、次元移動する。しかし、中々、そこを、抜け出せないのである。
強情に信じているからである。

仏法といわれるものは、信じて確信して、妄信するから、成り立つ。
本来の意味は、仏法とは、迷いの、境地を言う。
涅槃の境地を得た者ならば、生まれて、更に生きる意味が無い。
ブッダは、涅槃の境地を得たのではない。涅槃の境地というものがあるということに、気付いたのである。

ちなみに、日本の魂振り、魂鎮めとは、ブッダの気付いた、涅槃の境地にあるものである。
更に、鎮魂の所作というものは、涅槃の境地に至る道なのである。
そしてそれは、布教されたり、教化されたり、指導されたりするのではなく、求めて得られるものである。
日本人であれば、求めれば、手引きがされるのである。
その方法は、百人百様である。

吉田松陰が、家族に宛てた書に、仏法に迷わずと書いたのは、実に、正しい。
神明を尊びである。

ホテルに着いて、ベッドに体を、横たえて、ため息をついた。
野中が、嫌なものを、聞いてしまったと、言う。
私も、同じであった。

夜の食事まで、私は、うとうとしていた。
野中は、知らないうちに、出掛けていた。
私は、一人で、ホテル近くの、食堂に出掛けた。

道に面して、開け放した店が、続く。
客の少ない店に入り、魚入りの、雑炊を注文した。
100バーツと言われたが、取り出したお金が、70バーツだった。すると、おばさんが、それでいいと、言う。
勿論、言葉は、解らない。

私は、スラー・ターニーが、気に入った。
ここには、書かないが、多くの人に、親切にされた。
人情というものに、多く触れた。
ただで、車に乗せてくれた人もいる。
買い物をしても、決して、ボラない。

マッサージも、一時間300バーツであったが、タイマッサージと頼むと、それ以上の、誘い、性的処理の誘いも無い。

実は、野中に、ここのマッサージは、夜になると、怪しい光をつけて、やたらに、店内が暗いから、行かない方がいいと言われていた。
しかし、こちらの要求通りに、してくれる。
確かに、隣の部屋では、セックスをしていたようである。そういう、要求にも、答えるのだろう。

私についた、マッサージ嬢は、小太りで、大変力があり、実に満足する、マッサージをしてくれた。
足を、徹底的に、揉み解してくれた。

タイの場合の、マッサージ店は、売春を目的にした店もあるということだ。
野中が、ホテルのおじさんに頼み、部屋にマッサージ嬢を呼んで貰った。
二時間で、300バーツという。
随分と安いのである。
来た嬢は、18歳である。観光地の、パタヤの近くの村から来たと言う。

私は横で寝ていた。
時々、それを、見たが、実に下手糞である。
これは、二時間という時間を、買い、その間の内容は、マッサージ嬢との交渉で、如何様にもなると、思えた。
ここで、書くのは、憚られるので、省略するが、病気になる危険を冒しても、そのような行為を求める、旅人がいるということである。

慰霊旅日記7最終回

バンコクに、着いたのは、昼である。
日本行きの便は、翌朝の、六時出発であるから、実に、中途半端な時間である。

朝、三時から、受け付けであるから、ホテルを取っるべくもない。
私たちは、スクンビット通りに出た。
そこで、夜まで過ごすつもりである。

まず、昼の食事に、イタリア料理を選んだ。
その通りには、高級ホテルが多く、レストランも、高級である。勿論、地元の人の行く、食堂も多々ある。

突然、野中が、イタリア料理を食べたいと言うので、少しばかり、高級にレストランに入った。
だが、少しばかりではなく、相当な、値段だった。

今までに無い、料金の料理を食べた。
クリームパスタと、ピザである。
800バーツ以上を、支払った。サービス料と、税金もかかっていた。
約、2600円ほどの料金である。
タイでは、高い食事代だった。

味は、満足した。
しばらく、その涼しい店内にいた。

さて、どうするか。
私は、二時間300バーツの、マッサージを受けることにしていた。
野中は、町の中で、色々と、調べることがあるという。
私たちは、レストランの前で、別れた。

まず、バスに乗ってみたく、私は、バス停の前に立った。
地図を見て、そのマッサージ店に行くべく、その方向のバスに乗ろうと思った。

一人の大学生が立っていた。
私は、地図を示して、彼に尋ねた。
すると、片言の日本語を、喋るのである。

兄と、姉が、日本に留学しているということだった。
彼は、アメリカに留学するという。
家柄の良い男の子だったのだ。

そして、何と、彼は、私のために、一緒にバスに乗った。
私を、降ろすために、乗ったのである。

私は、次の停留所で、降りて、それから、高速鉄道に乗るべきだと言う。
地下鉄ではなく、地上鉄である。
バスに乗り、高速鉄道に乗るというのは、初めての体験である。

車内で、お別れを言い、私は、高速鉄道の駅に向かった。
さて、切符の買い方が、解らない。
受付に行き、行き先を告げると、簡単に教えてくれた。
切符を買って、次は、どちらの階段を上がるのかと、通る人に尋ねると、わざわざ、日本人の若者が、声を掛けてくれた。
「日本人ですね」「はい」変な問答である。
行くべき、電車の階段を教えてくれる。

難なく、電車に乗り、私は、目指すマッサージ店に向かった。

そのマッサージ店は、目の不自由な人の、社会参加を支援するというもので、ある雑誌に載っていたのである。
ところが、辿りついて見ると、店名が、違う。しかし、地図に有る場所である。
表の、看板の内容を見ると、料金などは、お知らせの通りであるから、私は、安心して入った。

受付で、タイマッサージ二時間と言い、300バーツを支払う。
案内された部屋に、ガウンがおかれて、案内の女性から、シャワーを浴びるように言われた。
そのまま、シャワーを浴びて、ガウンを着る。

ベッドに、体を横たえていると、マッサージ嬢が入ってきた。
まず、足裏からはじまった。
が、いつもと、違う。
下手糞なのかと、思った。
しかし、女性は、適当に英語で会話しながら、続ける。

何となく変だと、思い始めたのは、30分程度を経てからだ。
ガウンの裾を、持ち上げる。
下半身が、晒される。

どうも、マッサージのようであり、そうでないような気分である。
そして、彼女の口から、とんでもない言葉が、飛び出した。
ここには、それを、書けない。

失敗したと、思った。
目の不自由な人の、云々ではなかったのだ。
明らかに、性処理を目的とする人のための、マッサージ店だった。

その情報は、名立たる、有名旅行案内本に、書かれてある。
取材した時は、そうであったのかもしれないが、今は、全く違っている。

私は、マッサージオンリーと、言い、二時間を、心地悪く過ごした。
そして、女性に、チップを、いつものマッサージの何倍も払った。
彼女は、マッサージ嬢ではなく、別の目的のための、女性なのだ。
それで、利益を上げているのである。

二時間、彼女は、私の体を、撫でるようにして、歌を歌い続けた。
彼女の出身地の、民謡から、タイ演歌から、日本の演歌等々を、低いが、美しい声で、歌った。
私は、マッサージより、その歌声に、癒されたようである。

以前、バンコクで、男性の性処理マッサージの雑誌広告を見ていたから、料金が、4000バーツと、知っていた。
私は、1000バーツという、チップを払い、早々に、店を後にした。

疲れた。
変な気分の疲れである。

売春を私は、否定しないし、それで、生活する人のことも、理解する。
児童買春以外は、れっきとした、仕事である。
堂々として、営業していいのである。
ただ、それを求める人には、である。

バンコクは、人種の坩堝である。
性病、エイズなどの、病に十分注意して、行為すると、いい。

その、旅行案内書の、新装版を買い、まだ、そのような情報の場合は、投稿して、お知らせしたほうがいいと、思った。

野中との、待ち合わせの、ホテルに向かった。
帰りは、地上鉄道一本で、戻ることが出来た。
次の来たときは、使い方が、解ったので、安いし、利用しようと思った。それが、唯一の、成果である。

あの、親切な大学生と、住所交換でも、しておけばよかった。

野中と、お茶を飲み、少しエアコンの効いた店で、涼んだ。
その付近は、黒人が多いということで、面白そうだという。
私も、興味があったので、その付近を、回ることにした。

何と、アフリカ町のようであり、更に、イスラム圏の町もあった。
驚いた。
一軒の飲み屋に入った。
黒人ばかりである。
皆、テレビで映画を見ていた。

少し、疲れたので、近くのゲストハウスで、休みたいと思い、野中と一緒に、探した。
一時間、300バーツであるが、それ以上は駄目。一泊だと、500バーツという。
それならば、マッサージを一時間しても、同じ料金である。と、私は、フットマッサージをすることにした。

何と、199バーツというマッサージ店があった。
早速、そこに決めて入った。
野中は、また、ぶらぶらすると言う。

その、足マッサージが、最高だった。
若い女性は、イサーン出身である。何と、ノーン・カーイだと言う。
二月に、行ったというと、話が弾んだ。

終わる頃、野中がやって来た。
イスラム圏の町を歩き、一軒のレストランに入った。
イスラムの人々である。
バンコクの、懐の広さ、深さを感じた。

以下、バンコクで、詠んだ、歌を書いて、終わる。

カオサンの 喧騒はそれ 世界なり バンコクはまた 万国の集い

にわとりが 鳴く 都市に 響くとは タイの心の 響きと聴く

バンコクは 悪い人多し イサーンの女 騙され続け 十五年という

バンコクで 男の 子を産み 故郷へ あずけて働く イサーンの女

兄弟で 金を目指して バンコクへ 働けど なお 貧しくありて

小金持つ アホ日本人の クズ男 金にあかせて 女を替える

売春は よしも 児童は 罪なりて 断固としてと 我は言い切る

朝夕も 熱風の中 バンコクの 川の流れも 温泉に見ゆ


以下は、追悼慰霊にて詠む

清めたる 御幣を川に 捧げては 慰霊の思い ここに極まる

眺めては 幾歳月の 悲劇をば いかに納める 我が心かな

神も無く 仏も無くて 人の世は この世の地獄 確と知りたる

地獄とは この世以外に あることなし ミソも糞もの この世のこと

何ゆえに 今 追悼かと 問われては それ我のみが 知ることとなり

今せねば 後が続かぬ 国ゆえに 祈りて鎮め 平らけくかな

連合の 墓地静かにて 平らけく 彼の地の人へ 追悼の祈り

何事も 死者は口無し ただ黙す そこにあること 真実のみにて

何事も 生者は揺らぐ 死者はもう 揺らぐことなし 確くて定まる


名残にて 異国の朝に 歌を詠む 掃除する女 サワディーと笑う

しょうもなき 歌詠みて しょうもなき 人生 生きる 我しょうもなき

2008年05月05日

チベット暴動 14

矢張り、事の真相が、明らかにされた。

チベットから、脱出した、タンサン・ソナムさん、38歳が、証言した。
朝日新聞、5月3日、朝刊。

3月10日に、ラサ郊外の寺院で起きたデモの噂が、広がり、ソナムさんも、それに、加わった。
「自由を、権利を、独立を、ダライ・ラマ万歳」と、叫んだ。

千人近くに、膨れ上がった時、治安当局の、車をひっくり返して、気勢を上げた。すると、遠巻きにしていた、警官隊が、発砲をはじめた。

友人が胸を撃たれた。
逃げようとしたが、動けなくなる。
混乱の中で、友人の消息が、わからなくなった。

デモは、場所を変えて続いた。
午後三時ころになると、装甲車が三台出て、催眠弾を発射。装甲車から、無差別発砲をはじめた。
デモ隊は、散り散りになった。
軍用トラックが、倒れた人々を荷台に乗せて、運び去る。

火災による、煙が充満する中を、兵士の数だけが、増えていく。
ソナムさんは、建設作業員の同郷者と、寺院近くの、空き地で、テント暮らしをしていた。
15日以降、兵士が毎日訪れて、当日、何をしていたのか、逃げた者は、いないのかと、尋問する。

露天商仲間が、連行された。
「捕まれば、殺される。同じ死ぬなら、逃げたほうがましだ」と、ソナムさんは、脱出を、決めた。

ネパールを経て、インドへ脱出した。

上記、証言者である。
中国政府の、発表とは、程遠い。
嘘なのである、要するに。

さて、香港での、聖火リレーである。
チベット支援者たちを、警察が、連行するという。
「本人の身の安全と、公衆の秩序を守るために」という、理由である。
こちらは、殺されないから、いい。

中国政府は、人権活動家の、入国を拒否し、更に、チベット支援者を、拘束した。

約、八時間のリレーの間、赤い旗で、リレーなど、見られるわけがなかった。

中国は、日の丸を、血に染まったものというが、中国の国旗こそ、自国民を、殺した、血で染めたものである。

ダライ・ラマの特使が、3日、中国指導部との、非公式対話のめに、中国入りする。

チベット亡命政府は、
「緊急議題として、チベット人地域の危機的状況を取り上げる。中国当局の事態の対処へのダライ・ラマの深い懸念と、この地域に平和をもたらすための提案を伝える。双方が満足できる形で問題を解決するため、対話をどのように進めていくかを話し合う」
と、する。

この、提案を中国が、理解するのであれば、すでに、そうしているはずである。
それを、しないのは、チベットを、同化して、チベットなど、無いものとして、統治したいからである。

共産党というのは、文化遺産など、物ともしない。
タリバンと、変わらないのである。
金に換えられるのなら、金に換える。
漢民族の、考え方を、共産党は、そのようにした。更に、人倫の無い国ということもである。

人倫、倫理が無いのは、すべてにおいて、証明される。

毒入り餃子を、持ち出すまでもない。
今では、中国製品など、買う者は、世界の、どこにも、いない。
特に、食べ物は。

人の食べるものである。
何とでも、出来る。農薬漬けにしようが、どうでもいい。日本人が、何人死のうが、どうでもいい。逆に、日本人が、死ぬことは、良いことである。

チベット問題を報じる、インターネットサイトに、アクセスすると、画面が真っ黒になる。
中国本土には、テレビ、ウェブの検閲部隊が、三万人いるという。

しかし、世界の流れは、実に速い。
人民の誰もが、海外の情報にアクセス出来るのである。
鬱積している、貧富の差や、共産党独裁体制の、実体が明らかにされ、体制維持が、危うくなるのである。

中国経済の、成長を、云々するが、倫理の無い国の経済である。
早々に、破綻する。

中国共産党という、指導部が、いかに、腐りきっているのかは、少し、冷静な目で、見れば、解るというものである。

五輪後に、すべての、清算が、行われる。
つまり、人民の、反乱である。
それを、逸らすために、中国は、大規模な、軍事行動を、起こすのである。

制御不可能。
それが、中国の問題である。

もののあわれについて 201

宮入らせたまふとて、しばしこなたの格子はあげず。おそろしとにはあらねどむつかしければ、宮「今から北の方にわたしたてまつらむ。ここには近ければゆかしげなし」とのたまはすれば、おろしこめてみそかに聞けば、宮「昼は人々、院の殿上人など参りあつまりて、いかにぞかくてはありぬべしや。近劣りいかにせむと思ふこそ苦しけれ」とのたまはすれば、女「それをなむ思ひたまふる」と聞こえさすれば、笑はせたまひて、宮「まめやかには、夜などあなたにあらむ折は用意したまへ。けしからぬものなどはのぞきもする。今しばしあらば、かの宣旨のある方にもおはしておはせ。おぼろげにてあなたは人もより来ず。そこにも」などのたまはせて、二日ばかりありて北の対にわたらせたまふべければ、人々もおどろきて上に聞こゆれば、北の方「かかることなくてだにあやしかりつるを、なにのかたき人にもあらず。かく」とのたまはせて、「わざとおぼせばこそ忍びていておはしたらめ」とおぼするに、心づきなくて、例よりもものむつかしげにおぼすれば、いとほしくて、しばしは内に入らせたまはで、人の言ふことも聞きにしく、人の気色もいとほしうて、こなたにおはします。


宮様が、この部屋にお出でになりますので、しばらく、部屋の格子は、上げずにいました。
恐ろしいわけでは、ありませんが、気が引けます。
宮様が、「すぐに、北の部屋に、移して上げましょう。ここでは、外に近くて、奥ゆかしさがありません」と、仰せになりました。
格子を、下ろして、密かに聞きました。
「昼は、女房たちや、院の殿上人などが集いますので、どうして、ここには、いられましょうか。また、昼間は、近くで、私を見ますので、がっかりすると思うと、切ないものです」と、仰せになります。
女は「そのことは、私も、心配していました」と申し上げますと、笑って、「私が、夜など、あちらの部屋に行っている時は、用心してください。怪しからぬ者たちは、覗いたりします。いま少ししましたら、あの宣旨の所へでも、行ってごらんなさい。並々のことでは、あららへは、人も近づきません。宣旨の部屋にも」などと、仰せになりました。
二日ほどして、北の対に、女と、お渡りになろうとされますので、女房たちは、驚いて、北の方に、申し上げますと、北の方は「このようなことがなくても、怪しいお振る舞いでしたのに、あの女は、特別に、得がたい女でも、ありません。それなのに、こんな酷いことを」と、考えて、不愉快で、いつもより、不機嫌になりました。
宮様は、気の毒に思えて、しばらくは、北の方の部屋には、入らず、人の噂も、聞くことなく、女の様子が、気がかりですから、女の部屋に、お出でになりました。


北の方「しかじかのことあなるは、などかのたまはせぬ。制しきこゆべきにあらず、いとかう、身の人げなく人笑はれにはづかしかるべきこと」と泣く泣く聞こえたまへば、宮「人使はむからに、御おぼえのなかるべきことかは、御気色あしきにしたがひて、中将などがにくげに思ひたるむつかしさに、かしらなどもけづらせんとてよびたるなり。こなたなどにもめしつかはせたまへかし」など聞こえたまへば、いと心づきなくおはせど、ものものたまはず。


北の方は、「これこれの事が、あったということですが、なぜ、お話になられないのですか。お止め申すこともありません。しかし、このような、人並みのことではなく、物笑いの種になって、恥ずかしゅうございます」と、泣く泣く、申し上げました。
宮様は、「人を、召し使うからには、あなたにも、お心当たりが、あるでしょう。ご機嫌が悪いので、中将など、私を憎らしく思うのも、煩わしく、髪など梳らせようと、あの女を、呼んだのです。こちらでも、お使いください」と、申されますが、北の方は、いたく不愉快に思われましたが、何も言いませんでした。


かくて日ごろふれば、さぶらひつきて、昼なども上にさぶらいて、御ぐしなども参り、よろづにつかはせたまふ。さらに御前もさけさせたまはず、上の御方にわたらせたまふことも、たまさかになりもてゆく。おぼし嘆くことかぎりなし。


このようにして、幾日か、経ちました。
邸の生活にも、慣れ、昼間も、宮様の、お側に仕え、お髪なども梳きまして、宮様も、何くれと無く、お使いになりました。
その上、宮様の前から、女を離れさせることなく、過ぎました。
北の方の、お部屋に渡ることも、稀になりました。
北の方の、お嘆きは、限りもありませんでした。


日記は、終わりに近づく。
最後は、北の方が、出て行くところで、終わる。
しかし、和泉式部の人生は、終わらない。

その後も、和泉式部は、愛する人を失い、その、喪失感と、空虚感に、生きなければならなかった。
そこには、歌のみが、残った。

年かへりて正月一日、院の拝礼に、殿ばら数をつくして参りたまへり。宮もおはしますを見まいらすれば、いと若ううつくしげにて、多くの人にすぐれたまへり。これにつけてもわが身はづかしうおぼゆ。


年の改まった、正月一日、冷泉院の拝礼の儀式に、朝臣たちが、多く集って参上しました。
その中に、宮様も、お出でになるのを、拝見しました。
大変、美しく、多くの人の中でも、すぐれて、おいでになると見ました。
それにつけて、女は、わが身が、気恥ずかしく思われるのでした。


上の御方の女房出でいてもの見るに、まづそれをば見で、女房「この人を見む」と穴をあけさわぐぞ。いとあさましきや。暮れぬれば、ことはてて宮入らせたまひぬ。御おくりに上達部数をつくしていたまひて、御遊びあり。いとをかしきにも、つれづれなりしふる里まづ思ひ出でらる。

北の方づきの、女房が出て見物しますのに、すぐには朝臣たちを見ずに、「この女を、見よう」と言い、障子に穴を開けて、騒ぎます。それは、大変浅ましく、思われました。
日が暮れ、式が終わり、宮様は、邸に、戻られました。
お見送りに、上達部が、大勢揃って来ました。
管弦の遊びがありました。
大変、面白いものです。
かつての、女の家の暮らしが、つれづれなるものであっと、思い出されるのでした。


かくてさぶらふほどに、下衆などのなかにもむつかしきこと言ふを聞こしめして、「かく人のおぼしのたまふべきにもあらず。うたてもあるかな」と心づきなければ、内にも入らせたまふこといと間遠なり。かかるもいとかたはらいたくおぼゆれば、いかがせむ、ただともかくもしなせたまはむままにしたがひて、さぶらふ。


このように、お仕えしているうちに、召使の間で、不愉快な噂をしているのを、宮様が、お聞きになり「このように、北の方が、女のことを、悪く思われていることを、言うべきではない。疎ましいことだ」と、思われていました。
そのため、北の方の部屋に、入られるのは、稀なことになりました。
女は、このようなことも、心苦しく、北の方が、気の毒に思われました。
どうしたらよいのか、解りません。
しかし、どうすることも出来ずに、ただ今は、兎に角、宮様のされるままに、お仕えすることだと、思いました。

2008年05月06日

もののあわれについて 202

北の方の御姉、春宮の女御にてさぶらひたまふ。出にものしたまふほどにて、御文あり。女御「いかにぞ。このごろの人の言ふことはまことか。われさへ人げなくなむおぼゆる。夜の間にもわたらせたまへかし」とあるを、かからぬことだに人は言ふとおぼすに、いと心憂くて、御返、北の方「うけたまはりぬ。いつも思ふさまにもあらぬ世の中の、このごろは見苦しきことさへはべりてなむ。あからさまにも参りて、宮たちをも見たてまつり、心もなぐさめはべらむと思ひたまふる。迎へにたまはせよ。こりよりも耳にも聞き入れはべらじと思ひたまへて」など聞こえさせたまひて、さるべきものなどとりしたためさせたまふ。


北の方の、姉君は、春宮の女御として、お仕えになっていました。
里帰りをされたとき、北の方へ、お手紙を書かれました。
「どうして、お過ごしですか。この頃、人が噂をしていることは、事実ですか。
私までが、人並み以下に、見られているようえな気持ちです。夜にでも、こちらに、お越しください」とありました。
このようなことでなくても、噂をしますのに、更に、どのようなことを言っているのかと、大変、辛い思いがします。
お返事に「お手紙拝見しました。いつも通りに、私たちの仲は、この頃、特に、見苦しいものです。少しでも、お逢いして、若宮様たちの、お顔も、拝見して、心を慰めたく思います。迎えをよこしてください。私の方からも、宮様が、何かおおせになっても、耳に入れず、出掛けようと思っています」などと、申し上げて、里帰りに必要なものを、調えさせました。


むつかしき所などかきはらはせなどさせたまひて、北の方「しばしかしこにあらむ。かくていたればあぢきたなく、こなたへもさし出でたまはぬも苦しうおぼえたまふらむ」とのたまふに、女房「いとぞあさましきや。世の中の人のあさみきこゆることよ」「参りけるにも、おはしまいてこそ迎へさせたまひけれ。すべて日もあやにこそ」「かの御つぼねにはべるぞかし。昼も三たび四たびおはしますなり」「いとよくしばしこらしきこえさせたまへ、あまりもの聞こえさせたまはねば」などにくみあへるに、御心いとつらうおぼえたまふ。さもあらばあれ、近うだに見聞こえじ」とて「御迎へに」と聞こえさせたまへれば、御せうとの君たち、「女御殿の御迎へに」と聞こえたまへば、さおぼしたり。


見苦しく、汚いところを掃除させて北の方は「しばらく、里へ参ります。このままでいては、何とも味気なく、宮様も、私の部屋へ、お出でになりませんことを、心苦しく思っているでしょう」と、仰せになります。
女房は「ひどく呆れました。世間の人が、宮様を、悪し様に申し上げています」「女が、邸に参りましたときも、宮様は、お出かけになられて、女を、迎えられました。何もかも、すべてが、まぶしくて、見られませんでした」「あの、お部屋に住んでいるのです。宮様は、昼間でも、三度も、四度も、通われます」「しばらく、宮様を、懲らしめることです。あまりに、ご無沙汰が、過ぎています」なとど、各々、言いたいことを言います。
北の方は、心辛く思われました。
「もはや、どうなっても、かまいません。お逢いして、お話をする気にもなりません」と、思われました。
「迎えに来てください」と、申し上げてありましたので、ご兄弟の方が、「女御さまからのお迎えです」と、言ってこられましたので、先に、頼んでいた車が来たと、思われました。


御乳母、曹子なるむつかしきものどもはらはらするを聞きて、宣旨「かうかうしてわたらせたまふなり。春宮の聞こしめさむこともはべり。おはしましてとどめきこえさせたまへ」と聞こえさわぐを見るにも、いとほしう苦しけれど、とかく言ふべきならねば、ただ聞きいたり。聞きにくきころ、しばしまかり出でなばやと思へど、それもうたてあるべければ、ただにさぶらふも、なほもの思ひたゆまじき身かなと思ふ。


御乳母が、部屋にあるものを、掃除しているのを聞いて、宣旨が「これこれの理由で、北の方は、お移りになるようです。春宮さまの、お耳に、入ることも、心配です。お出でになって、留まるように、仰せ下さい」と、騒がしく、宮様に、申し上げているのを、見るにつけ、女は、気の毒で、心苦しく思いましたが、自分から、何か言うべきではないと、黙って聞いていました。
聞きづらい話は、退出したいと思いますが、それも、気まずく、そのままに、お仕えしていました。
それにしても、私は、何と、物思いの、絶えない者なのかと、思いました。


宮入らせたまへば、さりげなくておはす。宮「まことにや、女御殿へわたらせたまふと聞くは、など車のことものたまはぬ」と聞こえたまへば、北の方「なにか、あれよりとてありつれば」とて、ものものたまはず。
宮の上御文書き、女御殿の御ことば、さしもあらじ、書きなしなめり、と本に。


宮様が、北の方の部屋に行きました。
「本当ですか。女御さまの所へ、お出でになると、聞きましたが。何故、車のことなど、言わなかったのですか」と、仰せになりました。
北の方は、「いいえ、あちらからと、言って、お迎えがありましたので」と、仰せられて、あとは、何も、ものを言いませんでした。

宮の北の方の、お手紙や、女御さまのお言葉は、実際には、このようなものではなかったと、思われます。
作り書きのようでも、あります。
もとの、本には、記されてあります。


日記は、ここで、終わる。

和泉式部の生涯は、まだ、続くのであるが、この日記は、ここまでである。

一つの恋の、はじまりと、そして、終わり。
この後、和泉式部は、この宮とも、死別するのである。

平安期の、王朝文学の、只中にいて、和泉式部は、生きた。
彼女に、相応しい時代だった。
それが、救いでもある。
自由恋愛の空気が強く、人の口に上っても、それは、それで、物ともしない和泉式部である。

恋と、知性に、生きる女の姿を、見るものである。
恋は、感性であると思うが、彼女は、知性が、勝っていた。

平安期の、日記文学は、後に、日本の文学に、随筆文学の元になり、私小説という、分野に至る基にもなる。
また、和歌文学も、最も栄えた時代である。
当時の、貴族社会では、必須の、たしなみであった。

あらゆること、和歌に託すことが、できなければ、ならなかった。
口に出る言葉が、和歌になったといって、よい。

2008年05月07日

神仏は妄想である 75

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって言った。さあ、われわれの先に立って進む神々をつくってください。エジプトの国からわれわれを導き上がった人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。
出エジプト記 第32章1節

人々が、山に触れると、死刑になる、その山で、モーセは、神と語らい、二枚の石版を得ていた。神の怒りに、触れず、神に近づくことが、できるのは、モーセ一人である。

アロンは、人々に、金を集めさせて、それを、溶かして、金の子牛を作った。人々は、それを拝んだ。

そう、人々はそのように神に背を向けるなどという馬鹿なことをしないだけの分別をもっているべきだった。神は山の上にいたかもしれないが、結局のところ全能であり、即座にモーセを執行人として送り出した。モーセは、神が十戒を書き記した石版を手に持って、大急ぎで山を駆け下った。麓に到着し金の子牛を見たとき、彼は怒りに燃えて石版を投げ打ち、砕いた(神はのちに代わりのものを彼に与えた)。モーセは金の子牛をつかみ、火で焼いて粉々にすりつぶし、それに水を混ぜ、人々にそれを呑み込ませた。それから、聖職者の部族であるレビに属するすべての人間に対して、剣を執り、できるかぎり多くの人間を殺すようにと告げた。殺された人間の数は三千にも達し、これだけ殺せば、嫉妬に駆られた神の不機嫌をなだめるのに十分ではなかったのかと思う人もいるかもしれない。しかしちがった。神はそれだけではすまさなかった。この怖ろしい章の最後の一節で下された神の最後の一撃は、「民が子牛を、アロンにつくらせたから」という理由で、残った人々に災厄をもたらすことだった。
ドーキンス

「民数記」は、神がモーセにどのようにしてミディアン人を攻撃するように仕向けたかを述べている。彼の兵たちは、あっという間にすべての男を虐殺し、ミディアン人のすべての町を焼いたが、女と子供は殺さなかった。部下の兵たちがこのように慈悲深い自制をはたらかせたことにモーセは激怒し、すべての男児と、処女でないすべての女を殺せと命じた。「女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい」第31章18節。

不幸なミディアン人は、聖書の記述から言える限りにおいては、自分の生まれ育った国で虐殺された犠牲者であった。
ドーキンス

キリスト教徒よ、見えるか
聖地にいる彼らが
どんなふうに、ミディアン人の群れが
うろつきまわっているか
キリスト教徒よ、立ち上がり、彼らを討て
勝利を考え、敗北を思うな
彼らを打ち倒せ
聖なる十字架の霊験によって

ああなんということか、中傷を受け虐殺された哀れなミディアン人が、ヴィクトリア朝時代の賛美歌で、普遍的な悪を象徴する詩的表現としてのみ記憶されるとは。
ドーキンス

一体、何事か。
何故、なにゆえに、彼らは殺されたのか。
部族、民族、拝む神が違うからか。
異教徒は、殺す、殺